[μ]-εγλ 0005年7月。
初夏の汗ばむ風が七番街スラムを吹き抜ける頃、新生セブンスヘブンでのハメルとティファの二人の新たな生活は、驚くほど順調に回り始めていた。
昼のランチタイムの営業時間には、天望荘の大家のマーレが手伝いに入ってくれる。
そして夜の酒場営業の時間帯には、「何でも屋」の業務を終えたハメルが給仕として店に入り、完璧な動きでティファを支える。
ティファがカウンターの奥で軽快にシェイカーを振り、ハメルがスマートに客を捌くその光景は、すでにスラムの日常に深く溶込み始めていた。
しかし、平穏な日々の裏で、運命の歯車は確実に新たな厄介ごとを二人の元へと運んでくる。
ある日のこと、昼の開店時間と同時に、店に場違いな存在感を放つ二人組が現れる。
彼らは店内の席には目もくれず、店の外のデッキに置かれた席に陣取った。
注文したのは、最も安いコーヒー一杯と、子供用のジュース一杯だけ。
それだけの注文で、彼らは何時間も席を占領し、粘り続けている。
一人は、見る者を圧倒するほどの体躯を持った巨漢の男だ。
鋭い眼光をぎらつかせている。
異様なのはその右手だ。
手首から先が失われており、そこには何重にも巻かれた、薄汚れた包帯が痛々しく巻き付けられていた。
そしてもう一人は、まだ物心もついていないような幼い女の子だ。
巨漢の男の隣に、ちょこんと座っていた。
人種が明らかに違い、親子と断言しづらい奇妙なペアであった。
その男が放つ尋常ではない威圧感と、右腕の凄惨さのせいで、店に入ろうとした一般の客たちが次々と恐怖に顔を引きつらせてしまう。
中には、入店を諦めて引き返してしまう客もいる。
当然と言えば当然。
基本的にスラムはいつでも荒ゴト上等な世界だ。
少しでも揉め事が起きそうな危険な気配が漂うと、蜘蛛の子を散らすように周りから人がいなくなる。
過酷なスラムで生き残っていくには、スルースキルは必須である。
その中には、ティファに会いにやってきた近所のジョニーの姿もある。
彼はデッキに鎮座するバレットのただならぬ凶悪なオーラに完全に怯え、あわあわと慌てながらそのまま足早に引き返していった。
実のところ、モンティ老人からセブンスヘブンを引き継いだハメルとティファは、それまでの店で常態化していた『ツケ払い制度』を完全に廃止し、常連たちにこれまでのツケをすべて精算してもらっている。
もちろんスラムの住人が一括で払えるわけもなく、そんな場合は分割払いをお願いしているのだが......。
ジョニーもその分割払いメンバーの一人だ。
ティファの顔を見に来るついででも良いので、少しずつでもツケ分を回収したい店側にとって、あの巨漢のせいでジョニーのような客の足が遠のくのは非常に困る。
このままでは看過できない損失につながってしまう。
厨房で店を切り盛りし、カウンターからハラハラと様子を窺っているティファに代わって、客席を手伝っているお節介婆さんのマーレが、ついに我慢の限界を迎えて腰に手を当て、外の席へと文句を言いに向かう。
しばらくして、バチバチと火花を散らすようなやり取りを終えたマーレが、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら厨房のティファの元へと戻ってくる。
「全く、とんでもないのが居座りやがったね」
「マーレさん、あの人たち、一体……?」
心配そうに尋ねるティファに、マーレは声を潜めて状況を説明する。
「バレットとかいう名前だとさ。隣の女の子はマリン。まだ2ちゃいなんだとさ。あんなむさ苦しい図体して、まともな宿もなしにスラムを転々としてるって話さ。一年前くらいにこのミッドガルにやってきて以来、ずっとそんな生活らしいよ」
マーレから事情を聞かされたティファは、痛ましそうに眉を顰める。
何より、その男の隣で汚い衣服のまま、不安そうに身を縮めている小さなマリンの姿が可哀想でならない。
自分の手で今すぐあの子を救い上げてあげたい――そんな強い衝動がティファの胸を突き動かしそうになるが、今の店は自分一人のものではない。
ハメルという最愛の夫であり、共同オーナーがいる以上、自分だけの独断で勝手に動くわけにはいかない。
ティファの葛藤を鋭く察したマーレは、彼女の肩を軽く叩き、年長者としての確かな釘を刺す。
「ティファ、あの子が可哀想だって顔をしてるね。だけどね、このスラムには、他人の善意や優しさに付け込もうとする狡賢い奴が山ほどいるんだ。これでもお節介のベテランであるあたしからの、確かな警告だよ。……ハメルが帰ってきたら、まずは二人でよく話し合いな」
「……はい、マーレさん。ありがとう」
ティファは静かに頷き、胸の奥のモヤモヤを抱えながら、ただハメルが外回りから帰ってくるのをじっと待ち続ける。
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昼の営業が終わり、夕方の静けさが店を包み込む頃。
一日の何でも屋としての業務をすべてこなし終えたハメルが、いつもの冷静な足取りでセブンスヘブンへと戻ってくる。
店に入る手前、ハメルは外の席にどっかりと腰を下ろしているその男の姿を、その鋭い眼光で捉える。
右手の先を失い、汚れた包帯を巻いた巨漢。
その顔立ちと圧倒的な体躯。
(……バレット・ウォーレス。ついに、この時が来たか)
ハメルは脳裏に広がる原作知識を手繰り寄せ、静かに目を瞑る。
この出会いが、セブンスヘブンと彼らの運命をより深く、定められた運命の激流へと引きずり込んでいく始まりであることを、ハメルは誰よりも正確に理解している。
店に入ると、ティファが今にも泣き出しそうな、しかし何かを必死に訴えかけるような潤んだ紅い瞳でハメルを出迎える。
彼女がマリンという幼い命をどうしても助けたがっていることは、言葉を交わさずとも一目で察することができた。
ハメルはティファのしなやかな手をそっと握り、落ち着かせるように低い声で告げる。
「察している。だが、まずはこれから始まる夜の営業に集中しよう。あの男のことは、店を閉めた後に俺が対処する」
「……分かったわ、ハメル」
頼れる夫の言葉にティファは深く安堵し、凛とした表情を取り戻して夜の営業に臨む。
ハメルはわざとバレットらを放置する策に出た。
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夜が更け、時計の針が24時を指す。
閉店の時間を迎え、店内の客がすべて捌けたのを見計らい、ハメルはティファを伴って、外の席へと向かう。
涼しい夜風が吹き抜ける中、バレットは相変わらず椅子に深く腰掛けている。
その逞しい豪腕の中では、幼いマリンが疲れ果てたようにすやすやと深い眠りに就いている。
ハメルはバレットの正面に真っ直ぐに立ち、隙のない佇まいで淡々と告げる。
「この店のオーナーのハメルだ」
バレットは重々しく顔を上げ、ハメルの衣服の上からでも分かる無駄のない引き締まった肉体と、そのあまりにも若い精悍な顔立ちを値踏みするように睨みつける。
「……フン、ずいぶん若いオーナーだな。てっきり店の用心棒か何かかと思ってたが、違うのかよ」
ハメルはバレットの挑発を表情ひとつ変えずに受け流し、キッパリとした口調で本題を切り出す。
「この席は見晴らしがいい。あんたはここで、誰か特定の人間を探しているんだろう。だが、あんたみたいな男にそんな目立つ場所で一日中凄まれたら、普通の客は怖がって足が遠のく。明らかな営業妨害だ。明日以降、この席での長居は遠慮してもらう」
ハメルの毅然とした、しかし理路整然とした物言いに、バレットは一瞬だけ驚いたように目を見張る。
彼は自分のむさ苦しい巨体や右腕の凄惨な状態が、周囲の一般人にどれほどの恐怖と迷惑を与えているかについて、驚くほど無頓着な男なのだ。
周囲に迷惑をかけているという自覚を初めて突きつけられたバレットは、バツが悪そうに視線を外す。
「……チッ、そうかい。そいつは悪かったな」
バレットはぶっきらぼうにそう謝ると、腕の中のマリンを落さないよう大切に抱き抱え、そのままどこかへ去ろうと重い腰を上げる。
「待て。どこへ行くつもりだ」
ハメルが背後から声をかける。
バレットは振り返りもせず、荒々しい声で言い放つ。
「どこだっていいだろう。俺たちみたいな宿無しの行き先なんて、お前らみたいなまともな奴らには関係ねえ」
「関係あります!」
その背中に向かって、ハメルの隣からティファが激しい勢いで詰め寄る。
近距離で見る二人の衣服は、何日も洗われていないのか激しく汚れ、スラムの基準から見ても相当なレベルで異臭を放っている。
このような衛生環境で、まだ二歳ほどの幼い子供が生活を続けられるはずがない。
「マリンちゃんが可哀想です! そんな状態で、今夜はどこで眠るつもりなんですか!」
ティファの真剣な叱咤の声に、バレットの腕の中で眠っていたマリンが、ふにゃ、と小さく身じろぎをして目を覚ます。
まだ寝ぼけ眼のまま、小さな手で眠そうに目をこすり、バレットの顔とティファたちの顔を交互に見上げる。
「……んぅ……父ちゃん、しかられてるの……?」
小さな、不安げな声が静かな空間に響く。
その純粋な瞳で見つめられ、さっきまで荒々しかったバレットの顔が、一瞬にして形無しに崩れる。
「おう、そうだな……。父ちゃん、怒られちまってるな」
これほど巨体で威圧感のあった男が、娘の前ではすっかり弱り切った声を出す。
父親のそんな弱気な姿を見て、マリンの大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。
「ふえ〜……っ、とうちゃんを、しからないで……。父ちゃん、わるくないもん……っ」
ついに我慢できなくなったように、マリンはバレットの首にしがみつきながら泣き出してしまう。
ティファが痛心に胸を締め付けられていると、ハメルが静かに一歩前に出る。
探るようにバレットを一瞥し、ティファの肩にそっと手を置くと、落ち着いた、それでいて絶対的な安心感を与える声でこう指示を出した。
「ティファ、店の片付けはすべて俺が一人でやっておく。ティファは今すぐ、この二人を天望荘へ連れて行ってやってくれ。俺たちが今月で解約する予定だった、あの部屋だ。まだ荷物を完全に引き払っただけで契約は残っている。明日、俺からマーレさんと交渉してしばらくの間契約を延長してもらう。だから今夜は、あそこに二人を泊めてやれ」
「おいおい、ちょっと待てや!」
ハメルの提案に対し、バレットは宿無しのプライドが許さないのか、荒々しく声を張り上げてごね始めた。
「誰がそんな施しを受けるっつったよ! 宿無しの意地を舐めんじゃねえ。他人の世話にならなくたって、俺たちの行き先くらい――」
「施し? 勘違いするな。これは取引ですらない。あんたに対する『罰』だ」
ハメルは深い水色の瞳で冷徹にバレットを見つめ、その言葉を容赦なく遮った。
「あんたが昼のランチタイムから夜の酒場営業まで一日中その席で凄んでくれたおかげで、今日のうちは昼も夜も散々な売り上げだった。常連客も寄り付かず、ツケの回収すらまともにできなかった。そこまで他人の世話になるのが嫌だと言うなら、今すぐ今日の営業妨害分の迷惑料を払ってもらおうか」
「な、何だとォ……!? くっ……」
バレットはハメルごとき若造の威圧に気後れするような男ではない。
だが、その本質は人一倍情に厚く、他者の痛みがわかる「善人」だ。
自分の無頓着な行動のせいで、目の前の若い夫婦が必死に営む店の生活の糧を昼夜にわたって脅かし、明確な実害を与えていたという冷徹な事実。
それを愛娘のマリンの目の前で「己の落ち度」として論理的に突きつけられたことで、バレットはぐうの音も出なくなってしまった。
手首の包帯を握りしめたまま、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙するしかない。
そんなバレットを見据え、ハメルは強引とも言えるトーンで言葉を重ねる。
「そんななりでは迷惑料も払えないだろう。良いから大人しくティファについていけ。部屋に着いたらまずはシャワーを浴びて身体を徹底的に綺麗にし、衣服をすべて洗濯しろ。きちんとした格好になれば、働き口も見つかるはずだ。仕事なら俺が用意してやるから、そこでしっかり稼いで迷惑料を用意してみせろ。それが実害を出したあんたへの『罰』だ」
ハメルの非の打ち所がない正論と、「他人に与えた損害は己の労働で償え」という真っ当な路線での説得に、バレットは完全に返す言葉を失った。娘の前でこれ以上みっともなく突っぱねるわけにもいかず、観念したように深くため息をつく。
ハメルの突き放すような冷徹な口調とは裏腹の、行き場のない不器用な親子に対して「住む部屋」だけでなく「真っ当な働き口」まで完璧な大義名分で与えて救い上げようとするその温情采配。
隣で聞いていたティファの胸は、一瞬にして嬉しさで満たされる。
子供の衛生面まで瞬時に見抜き、「助けたい」という自分の想いをすべて汲み取った上で、バレットの頑固なプライドを「罰としての労働」という口実で上手くかわしてみせた頼れる最愛の旦那。
その圧倒的な器の大きさと、隠しきれていない底知れない優しさに、ティファはうっとりと頬を上気させ、心の中で「さすが私の旦那さまね♡」と激しく惚れ直していた。
「そうね! まずはシャワーを浴びてもらわなきゃ。お洋服もすぐに洗わないとね!」
ティファは満面の笑みを浮かべると、未だに呆然としているバレットの太い腕を引き、優しく語りかける。
「さあ、行きましょう。まずは温かいお湯で綺麗さっぱりしましょうね、マリンちゃん」
ハメルは夜の帳の中、ティファに連れられて天望荘へと向かう不器用な巨漢と小さな少女の背中を、静かに見送るのだった。
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翌朝。
ハメルは爽やかな朝の光が差し込む七番街スラムを歩き、天望荘に向かう。
一階にある大家のマーレの部屋を直接訪ねるハメル。
突如として現れた訳ありそうな親子をこのスラムに落ち着かせるため、ハメルは自ら足を運んだのだ。
部屋から出てきたマーレに、ハメルは単刀直入に本題を切り出す。
「マーレさん、あの部屋の賃貸をしばらく延長したい。俺が身元を引き受ける」
長年、スラムで暮らす数多の人間を観察し続けてきたマーレは、腕を組み、渋い顔をして首を横に振る。
「ハメル、あんたの頼みじゃなきゃ一蹴してるところだよ。バレットとかいう大男、あたしの勘じゃ間違いなく大きな厄介ごとを背負い込んでる気配がするんだ。スラムのゴタゴタなら慣れっこだけど、あれはもっとタチの悪い火種さ。正直、乗り気じゃないね」
マーレの直感は、原作知識を持つハメルから見ても恐ろしいほど正確だ。
しかし、ハメルは表情を一切崩さず、静かに次の条件を提示する。
「分かっている。だから格安じゃなくていい。家賃をきっちり満額で払う」
「……本気かい?」
マーレは驚いたように目を見張るが、ハメルの深い水色の瞳に宿る確固たる意志を見て、諦めたように深い溜息を吐く。
「分かったよ、家賃をきっちり払うって言うんなら、あたしが口を挟む筋合いはないさ。……だけどハメル、あんたなんでそこまであの男たちの面倒を見るんだい?」
マーレの純粋な疑問に、ハメルは淡々と答える。
「ティファがマリンを見捨てられないと言ったからだ。……それに、このまま野垂れ死にされたら寝覚めが悪い」
「フン、ティファの優しさに付き合うってわけかい。ごちそうさまだよ。……本当に、いい旦那を持ったもんさね、あの娘は」
マーレは呆れたように笑いながらも、ハメルの男気に免じて部屋の維持をその場で承認してくれる。
ハメルにとって「マリンのため」という理由は、定められた運命の流れを乱さず、アバランチの核心へと近づくための、これ以上ない便利な大義名分だった。
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マーレとの交渉を終えたハメルは、階段を上がってかつて自分たちの部屋であったドアを叩き、中へと入る。
ベッドの上ではバレットがまだ少し険しい表情で座り込んでおり、その隣の布団ではマリンが小さく呼吸を立てて眠っている。
昨夜ティファが徹底的にシャワーを浴びさせ、衣服を洗濯したおかげで、不快な異臭は綺麗さっぱり消え去っていた。
ハメルは部屋の中心に立ち、バレットを見下ろしながら淡々と現実を突きつける。
「部屋は確保した。だが、無償の慈善活動じゃない。今日から必要な分はきっちり稼いでもらう」
「あぁん? 俺に働けってか」
バレットが不機嫌そうに声を荒らげるが、ハメルは動じずに選択肢を提示する。
「俺の何でも屋を手伝うか、昼間のセブンスヘブンの用心棒か。どちらか選べ」
「断る!」
バレットは即座に吐き捨てるように言う。
「俺にはやらなきゃならねえ大事な用があるんだ。こんなところで油を売ってる暇はねえ」
「どんな用だ」
ハメルが問い詰めると、バレットは少し躊躇した後、探るような視線を向けながら重い口を開いた。
「……俺は人を探してるんだ。ジェシーっていう女だ。風の噂で、あの店……セブンスヘブンにちょくちょく顔を出すって聞いた。お前、何か知らねえか?」
「知っている」
ハメルが間髪入れずに即答すると、バレットはガタッと凄まじい音を立ててベッドから身を乗り出した。
その巨体から放たれる圧倒的な熱量が、狭い部屋の空気を一瞬で煽る。
「本当か!? だったら今すぐ会わせろ! どこにいやがる!」
バレットは太い剥き出しの左腕を突き出し、ハメルの胸座を掴まんばかりの勢いで迫る。
だが、ハメルは睫毛一つ動かさず、凍てつくような冷徹な視線でその巨躯を真正面から見据え、低く不敵な声を響かせた。
「あんたが迷惑料を払ってくれたらな」
「てめぇ……っ!」
バレットの顔が怒りで一気に跳ね上がった。
反射的に巨大な拳が握りしめられ、部屋の気温が沸点に達するかのような緊張感が走る。
今にもハメルを殴り飛ばしそうな獰猛なオーラ。
しかし、バレットの放つ牙は、ハメルが放った次の一言によって完全にへし折られることになる。
「昨日、うちの店が被った損害をあんたはまだ一銭も弁済していない。それどころか、今こうして俺たちの好意で用意した部屋に、タダで収まっている。他人に実害を与えたままで、さらに自分の要求だけをタダで通そうとする。あんたの言う『宿無しの意地』とやらは、そんな筋の通らない虫のいい理屈なのか?」
「ぐ、っ……」
バレットの太い首筋に青筋が浮かぶが、それ以上言葉が続かない。
神羅兵相手ならどれほど脅されようと一歩も引かないバレットだったが、人一倍道義を重んじる彼にとって、「筋が通っていない」という指摘は、鋭利な刃物となってその胸に突き刺さった。
「くそがっ……足元見やがって……」
拳を震わせ、苦虫を噛み潰したような声を絞り出すのが精一杯のバレット。
「足元ではない。俺は対等な大人の話を求めているだけだ」
ハメルは一歩も引かず、淡々とした口調のまま、冷徹に会話の主導権を握り直す。
「どうしてそこまで彼女を探している?」
ハメルはあえて、その理由を尋ねた。
物語を知っている身としては、バレットのこれまでの境遇も、探している目的も全て百も承知であったが、本人の口からその覚悟を確かめる必要があった。
バレットはハメルの真っ直ぐな視線に圧されるように、ミッドガルにやってきてからの激動の一年間を思い返す。
汚れた包帯の巻かれた右腕を、引きちぎらんばかりに強く握りしめた。
この一年、彼はほうぼうのスラムをうろつきながら、思想的な星命学の講義や集会にしつこく参加し続けていた。
すべては反神羅組織『アバランチ』の本隊へと接触し、その傘下に入るためだ。
そしてそんな潜伏生活を続ける間に、彼はジェシーという若い女性が確実にアバランチの人間であるという情報を掴んでいた。
バレットの故郷はコレル村だった。
彼は神羅カンパニーの甘い言葉に騙されて魔晄炉を受け入れた結果、アバランチに魔晄炉を爆破され、故郷のすべてを失う悲劇に見舞われていた。
しかし、バレットはその爆破の真相も、大切な親友を失った引き金も、すべては神羅カンパニーが裏で仕組んだ冷酷な自作自演であると信じて疑わなかった。
アバランチに参加し、己の銃身を神羅の心臓へと突き立てる。
それこそが、バレットが生きる唯一の目的であった。
図らずも、その目的は神羅への復讐を誓うティファ、そしてハメルと同じ方向を向いている。
バレットはその血走った眼光に激しい復讐の炎を宿し、壊れた右腕を突き出すようにして断言した。
「アバランチに参加するためだ! 神羅の野郎どもを、塵の一片も残さず奈落の底へ叩き落とすためによ!」
ハメルは彼のあまりにも直情的な叫びを聞き、小さく溜息を吐く。
「あんた、俺が神羅の関係者だったらどうするつもりだったんだ。……まあいい、ジェシーには会わせる。その代わり、しっかり働いてもらう。アバランチだろうが何だろうが、日々の糧を得るためのギルが必要なはずだ。その子を飢えさせる気か? 父親失格になりたくなければ、四の五の言わずにきっちり働いて稼げ」
ハメルがそう告げたとき、ベッドの布団がもぞもぞと動き、小さなマリンが目を覚ました。
マリンは綺麗に洗われた顔をほころばせ、バレットの太い腕にしがみつく。
「……とうちゃん、おはよう」
「おお、マリン! おはよう!」
さっきまで獣のような形相で神羅への怒りを吐いていたバレットは、娘の顔を見た瞬間に、デレデレとした父親の顔へと早変わりする。
「よし、起きたらまず歯磨きだ! 顔もちゃんと洗おうな。お姉ちゃんに笑われちまうぞ」
巨体に似合わない器用さで、バレットはマリンの手を引いて洗面台へと向かい、優しく世話を焼き始める。
ハメルはその不器用ながらも深い愛情に満ちた親子の姿を、静かに見守るのだった。
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その後、ハメルはバレットとマリンを連れて、ティファの待つセブンスヘブンへと移動する。
開店前の静かな店の扉を開け、三人が中に入ると、仕事着に着替える前のラフな格好にエプロンをした姿のティファが厨房から顔を出し、嬉しそうに顔をほころばせて出迎えた。
「あ、お帰りなさい、ハメル! バレットさんも、マリンちゃんも、おはよう」
バレットとマリンが勧められたテーブル席に腰を下ろすと、厨房から大きなお盆を抱えたティファが再び姿を現す。
お盆の上には、ティファが今朝早くから腕によりをかけて作った、ボリューム満点の特製サンドイッチが山ほど盛られていた。
香ばしく焼き上げられた厚切りの自家製ブレッドに、ジューシーな肉厚のローストビーフ、瑞々しいレタス、新鮮なトマトがこれでもかと美しく挟まれている。
立ち上るソースと小麦の芳醇な香りが、店内に一気に広まった。
それを見たハメルは、ティファの元へと歩み寄り、さりげなくその重いお盆を彼女の手から受け取ってテーブルへと並べる。
「すまない、朝から手間をかけさせた」
ハメルが声音を優しく和らげて声をかけると、ティファは愛おしそうに目を細め、「ううん、いいの。ハメルもお疲れ様」としっとりとした声で返す。
そして、ハメルの衣服の襟元が少しだけ乱れているのに気づくと、あまりにも自然な手つきでそれを優しく整えてあげる。
ハメルもその心地よい触れ合いを、ティファの前にいる時だけ見せる穏やかな表情で受け入れた。
「ティファも調理で立ちっぱなしだろ。ここに座るといい」
ティファの細い腰にそっと手を添えて、バレットたちの向かいにある空いている席へと彼女を促し、自身もその隣へと腰を下ろすハメル。
長年連れ添った本物の夫婦のような、一寸の隙もない完璧な空気感。
二人は全くの無意識であったが、そのあまりにも熱烈で深い信頼に満ちたやり取りを、バレットとマリンの目の前で堂々と見せつける形になっていた。
「さあ、お腹ペコペコでしょ? たんと食べてね、マリンちゃん」
ティファが促すと、マリンは一瞬で目を輝かせ、小さな両手をちょこんと合わせる。
「わぁ……! おいちそう! いただきましゅ!」
マリンは小さな手で一生懸命に大きなサンドイッチを掴むと、口の周りに特製ソースをたくさん付けながら、夢中になって一口ずつ頬張り始めた。
その様子を隣の席から見つめていたティファの紅い瞳に、ある変化が訪れる。
いつもなら、ただ「可愛い子供だな」と微笑ましく思うだけのはずだった。
しかし今、彼女の胸の奥からは、これまでに経験したことのないような、強烈で温かい衝動がふつふつと湧き上がっている。
それは、目の前の小さな生命を何があっても無条件で守り抜きたいという、本能的な庇護欲――紛れもない「母性」の目覚めだ。
まだ十八歳という自分の年齢を考えれば、あまりにも早すぎるその感情の到来に、ティファは一瞬だけ戸惑いを覚える。
しかし、隣に座るハメルの存在を感じ、彼と共に紡いでいくこれからの未来に思いを馳せた瞬間、その戸惑いはストンと腑に落ち、確かな納得へと変わっていく。
(いつか、ハメルとの間に子供が生まれたら、きっとこんな風に……)という、甘く愛おしい確信を伴って。
マリンが口の周りを汚したまま、ふと食べる手を止め、仲睦まじく寄り添うハメルとティファの姿を見上げる。
年に似合わぬ聡さを持つマリン。
彼女の純粋で無邪気な視線が二人を捉え、ぽつりと疑問を口にした。
「ねえ……ティファは、ハメルのおよめしゃんなの?」
その真っ直ぐな質問に、ティファは一瞬だけ驚いて紅い瞳を丸くするが、すぐに世界で一番幸せな、慈愛に満ちた笑顔を咲かせる。
「ええ、そうよ。ハメルは、私の大切な旦那さまなの」
ティファはそう答えると、恥じらいながらも自身の左手をマリンの前へとそっと差し出してみせる。
その薬指の付け根では、五番街でハメルから贈られた、彼の両親の形見である指輪が静かに収まっていた。
長年大切に使われてきた形見ゆえに、華やかな輝きこそないものの、二人の歴史と揺るぎない絆を証明するように、深い味わいを持った鈍い光を優しく放っている。
指輪の温かみのある佇まいとティファの幸せそうな笑顔を見たマリンは、小さな手をパチパチと叩いて目を丸くする。
ティファの薬指を興味深そうに見つめながら、無邪気に声を弾ませた。
「ゆびわ! まりんも、およめしゃんになるー!」
その微笑ましい宣言が響いた瞬間、それまでお互いに言葉を交わしながらサンドイッチを豪快に口へ運んでいたバレットの動きがピタリと止まる。
バレットはあからさまに眉間に恐ろしいほどの深い皺を刻み込み、娘の将来を今から危惧して、あからさまに取り乱した声を絞り出した。
「……ガハッ!? マ、マリン……っ! お、およめさんなんてなぁ、マリンには随分と早い話なんじゃねぇか?父ちゃんはそんなの、絶対に認めんぞ!」
娘を溺愛するがあまり、全力で机を叩かんばかりに焦るバレットの姿に、ティファは思わず口元を押さえてクスクスと楽しそうに笑い声をあげる。
ハメルもまた、その極端すぎる父親の反応に、呆れたように微かに肩をすくめるのだった。
朝食を終えた後、ハメルはマリンを一時的にティファへと預けることにする。
ティファは「任せて」と頼もしく頷き、マリンもすっかりティファに懐いた様子でカウンターの奥へと付いていった。
「行くぞ」
ハメルは表情を引き締め、いつものぶっきらぼうなトーンに戻って席を立ったバレットを促し、セブンスヘブンを後にするのだった。