第三章:クラウド×ティファルートの消滅
[u]-εγλ 0002年11月中旬。
ニブルヘイムを襲った凄惨な悲劇。
生き延びて村から逃れられた現地住民は、ハメルとティファの二人きりである。
ティファの拳法の師匠であるザンガンは、彼らを連れて神羅の追手をかいくぐり、まずはコレルへと逃げ込んだ。
そこで在地の医師シロンの手によって、ハメルの胸の傷を塞ぐための緊急オペが行われ、奇跡的にハメルは一命を取り留める。
しかし、セフィロスに胸を貫かれたその身体の衰弱はあまりにも酷く、生死の境を彷徨うハメル。
胸骨の応急処置は終わったものの容態が安定せず、術後の回復を図るべく、より設備が整った場所へと移されることになる。
それが、ここ無機質な鉄のプレートに遮られて太陽の光も届かない、ミッドガルの八番街スラムであった。
世界中の至るところに128人もの弟子を持つザンガン。
八番街スラムにもザンガンの弟子の一人であるラケス・オレンジが住んでいる。
そのラケスの母のダミーニ・オレンジは、腕の良い医者だった。
ハメルの容態は、その大柄で褐色の肌を持つ女医ダミーニによる追加のオペと、術後の適切な処置によってようやく安定へと向かっていく。
しかし……。
「ちょっと、冗談きついわね……。刀剣が胸を貫通したのに一ヶ月で歩き回るなんて、人としてあり得ないわ」
ハメルの容態をチェックしているダミーニが、信じられないものを見るような目でカルテを見つめ、驚愕の声を漏らす。
通常であれば、起き上がれるようになるまで最低でも三ヶ月はかかる大怪我である。
だが、ハメルはニブルヘイムで天然の魔晄浴を日課としていた。
その影響により、彼の細胞はすでにソルジャー級の驚異的な回復力を獲得している。
セフィロスにサングラスを叩き割られ、完全に露わになったその水色の瞳が、彼の異常な生命力を静かに証明していた。
「あいにく、タフさだけが取り柄でね。ダミーニさん、ティファはどこだ?」
「お嬢さんなら、あなたの手術費とこれからの生活費を稼ぐために、もう働きに出てるわよ」
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ティファは、八番街スラムを牛耳るマンソン・グループが経営する「饅頭屋」で働き始めていた。
その店は、女医ダミーニの息子であり、ザンガン師匠の弟子――すなわちティファにとっては兄弟子にあたるラケス・オレンジが会計役を務める職場だ。
「ハメル、見てて。こうやって指先を動かすと、形が綺麗に整うの。どうすれば手早く作れて、蒸した時に一番美味しくなるか、毎日試行錯誤のしがいがあるわ」
ダミーニの元で本格的なリハビリに励むハメルの前で、ティファは少し疲れた顔を見せながらも、熱心に技術を磨く日々を語る。
それだけではない。
彼女は店頭に立ち、スラムの荒くれ者たちを相手にする中で、接客業のイロハをも貪欲に吸収中である。
自身の整った容姿の可愛さが、年に似合わぬ豊満な胸元が、および衣服の隙間から覗くしなやかな脚の綺麗さが、客商売においてどれほど強力で有能な武器になるかを、ティファは自らの身を以て日々学んでいた。
その同年代の女の子たちに比べて圧倒的な己の身体のスペックを活かすべく、彼女は単に己の容姿を周囲に「見せる」だけでなく、どう動き、どう微笑めば客の心を掴んで財布を開かせることができるかという「魅せ方」までをも、メキメキと習得していく。
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[u]-εγλ 0002年11月下旬。
定期の回診に訪れたダミーニは、ベッドの横に佇むと、ハメルの様子をじっくりと観察する。
「……ちょっと、両腕を上まで上げてみてくれる?」
ハメルがその指示に従い、シーツから出した両腕をゆっくりと天井に向けて持ち上げる。
「どう? どこかに痛みは残ってる?」
「いや、もう感じないな」
「本当に信じられないほどの回復力ね。これならもうそろそろ退院しても大丈夫そうね」
ダミーニは感心したように息を吐くと、持ってきた書類の中から一枚の紙を抜き出し、数字がびっしりと書き込まれた請求明細書をサイドテーブルの上にそっと静かに置いた。
「そしてこれが、あなたの崩壊しかけた胸骨を繋ぎ止めて、命を救うために使ったお薬や、入院、リハビリにかかったすべての医療費の合計よ」
明細書の最下部に太字で刻まれていたのは、「50万ギル」という、下層スラムの住人にとっては天文学的な数字だった。
ハメルは前髪の隙間から覗く水色の瞳を細め、その書面を静かに凝視する。
「コレルからの極秘移送に、神羅の目を盗んでの追加の手術……。それに、最新の医療製品の移植用皮膚や、神経が死んじゃうのを防ぐための高価なお薬もたくさん使ったのよ。あなたの異常な自己修復能力がなかったら、本当に危ないところだったわ。でも、こうして無事に退院できるくらいになったんだから、本当に良かったわね」
ダミーニは柔らかく落ち着いた笑みを浮かべ、物腰は穏やかに、しかし逃れられない現実を優しく諭すようにベッドの上のハメルを見据えた。
「こんな大金、あのお嬢さんの稼ぎだけでどうにかなる額じゃないわ。痛みがなく体が動くようになったんだもの。あなたの働き口なら、息子のラケスが手配してくれるから。これから二人でどうやって返済していくか、具体的な計画を立ててもらうわね」
50万ギル。
ニブルヘイムの狭い世界で生きてきたハメルとティファの二人には、それが妥当な額かわからない。
前世知識のあるハメルから見て、1ギルの体感が50円程度とすると、2500万円。
健康保険が利かない海外での治療費は莫大になるというし、死にかけた自分の命の代金と考えればそんなものか、という理解であった。
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[u]-εγλ 0002年12月上旬。
ハメルの退院の日。
ティファに対し、手術費と追加のオペにかかった費用について、自分で稼いで返すと強く主張するハメル。
さらに自らの衣服の懐に手を入れ、あの日、燃え盛る我が家から持ち出した両親の結婚指輪を取り出した。
「ティファ、これを売ろうと思う。これだけの銀細工なら、借金の返済のいくらかは足しになるはずだ。それでまずは――」
「――冗談じゃないわ! 絶対にダメ!!」
ハメルの言葉が終わるより早く、ティファが激しい拒絶の声を上げる。
普段の彼女からは想像もつかないほどに声を荒らげ、その瞳には大粒の涙さえ浮かべている。
「そんな大切なものを売らせるわけにいかない! あなたの、お父さんとお母さんの、たった一つの形見でしょ!? それに……私を庇って負った傷だもの、私が払うのが当然だわ。ハメルは自分の身体を治して、リハビリに専念することだけ考えて!」
ティファのあまりの頑固さと、涙ながらの必死の訴えに、ハメルもそれ以上は形見を売る提案を引っ込めざるを得なくなる。
ダミーニとラケスは、そこまで言い張るならとティファを実質的な連帯保証人として扱い、逆にそれが分割払いを許容する条件として設定してきた。
確かに、店に住み込んで実直に働いてくれるティファがいた方が、借金を踏み倒されるリスクが低くなる。
冷徹な計算がそこにはあった。
結局、ハメルとティファの二人は、力を合わせて50万ギルという巨額の借金を返済していかなければならなくなる。
ハメルが入院していたベッドルームを後にする際、ラケスはハメルに八番街スラムの自警団の仕事を紹介するとともに、ティファの住むコンテナルームから少し離れた場所にあるアパートを手配しようとする。
だが、ティファが予想外の頑固さを見せて、その提案を拒絶した。
「嫌です。ハメルと離れた場所に住むなんて、ありえないわ。何かあったらすぐに私が看病できるように、同じ部屋にさせて」
「おいおい、待ってくれないかティファ。いくら幼馴染だからって、狭い住み込み用のコンテナルームに若い男女が同棲するなんて、色々とマズいよね」
ラケスは頭を抱える。
ラケスは母親のダニーロ譲りの髪と肌の色をした、ハメルと同年代の青年だ。
優しげな風貌ながら、どこか捉えどころのない笑みを浮かべているのが特徴といえば特徴。
ハメルの目から見ても、ティファに気に入られようと頑張ってるのが、容易く見て取れる。
純粋ゆえに一切引かないティファの頑固さに、このままでは本当に一つ狭い部屋で同棲を始めかねないと危惧するラケス。
思春期の二人がそんな密室で一つになられては、マンソン・グループの管理上も都合が悪い。
(チェッ、同棲されるよりはまだマシか……)
ラケスはため息をつき、仕方なく話を切り替える。
「分かった、分かったよ。じゃあこうしよう。ティファの部屋の隣のコンテナルームを、彼に手配してあげる。そこなら壁一枚挟んだ隣同士だし、文句ないだろ?」
「……隣なら、大丈夫です。ありがとう、ラケス」
ティファはホッとしたように微笑み、ハメルも前髪の隙間から覗くその水色の瞳を僅かに和らげ、ラケスの折衷案に感謝する。
格安の部屋を二つ並べてもらえるなら、実質的に行き来し放題の半同棲のようなものだ。
こうして、寂れたコンテナ街の隣り合う部屋で、二人の新たな共同生活が始まる。
しかし、隣り合わせのコンテナルームで生活するようになって、ハメルはある異変に気づく。
夜毎に、壁の向こうから「お父さん……! ハメル、死なないで……!」と、ティファが激しくうなされている声や、押し殺したような啜り泣く音が薄い壁越しに聞こえてくるのだ。
ニブル山で猟師として厳しい訓練を重ねてきたハメルの鋭敏な聴覚は、そのか細い悲痛な声を決して逃さない。
ある日の朝、ハメルは少し顔色の悪いティファに向けて、静かに言葉を掛ける。
「ずいぶんうなされてるようだな。あまり寝てないじゃないか」
ハメルの指摘に、ティファはハッとしたように俯き、小さく肩をすくめる。
「ご、ごめん。聞こえてたんだ。壁、薄いもんね。うるさいよね……。今夜からは気をつけるよ」
彼女は酷くすまなそうに視線を泳がせ、消え入るような声で言葉を重ねる。
「これじゃ、ラケスの言うとおり、別のアパートの方が良かったよね。私のせいで、ハメルの睡眠まで邪魔しちゃって……」
そんな彼女の細い肩にハメルはそっと手を置き、水色の瞳を真っ直ぐに向ける。
「いいんだ。気にするな。眠れない時はいつでも俺を呼んでくれ。……ティファは俺が守る」
「ハメル.......」
ニブルヘイムで自らの体を投げ出して命懸けで自分を救ってくれたハメルの、実績しかないその確固たる宣言は、傷ついたティファの心の奥底へと深く届いていく。
絶対的な安心感に包まれたからか、次の日からティファの寝付きは少しだけ良くなった。
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[u]-εγλ 0002年12月下旬。
ハメルは未だに残る胸の違和感に耐えながらも、元の身体を取り戻すためのリハビリを兼ねて、八番街スラムの自警団の使い走りとして懸命に働いていた。
仕事の一環として、背負った愛用の弓の弦を引き絞り、腰の左右に帯びた二振りの小剣を抜き放つ。
かつてニブルヘイムで磨き上げた射撃と二刀流術のキレを取り戻すべく、全身の筋肉を躍動させ、肉体を再構築するための負荷へと変換していく。
徐々に体が動くようになっていく中で、ハメルは自警団の使い走りの枠を超え、下層部の様々な人間と関わりを増やしていった。
やがて自警よりもさらに広い依頼の範囲で、街の雑用を請け負う仕事も本格的に始めるようになる。
そうしてスラム中を忙しく駆け回るようになっても、ハメルは生活の拠点をより便利な場所へ移すつもりは毛頭なかった。
ラケスに融通してもらった、ティファの部屋と壁一枚で隣り合うあのコンテナルーム。
中心街から外れたそこを住居にし続けることは、自警団の詰め所や様々な依頼先への日々の通勤という面では確かに大変になってはいたが、ハメルにとってはそれ以上の大きな利点があった。
ティファの朝夕の送り迎えが、ごく自然に可能になる点だ。
ティファという存在は、まだ十五歳ながら、この薄汚れたスラムにおいてはまさに「掃き溜めに鶴」と呼ぶにふわさしい輝きを放っている。
そのため、よからぬ目的を持った者や、単純に仲を深めたくてナンパを狙う男たちが後を絶たない。
しかし、ティファのすぐ横にハメルが静かに立つと、その前髪の隙間から覗く、魔晄特有の妖しく鋭い眼光や無駄のない佇まいに気圧され、男たちは自然と退いていく。
ある日、六番街スラムの近くを通りかかった際、ハメルの鋭い斥候としての視線が、前方の通りをうろつくドン・コルネオの手下たちの姿を捉える。
あいつらはまさしくケダモノであり、ティファのような極上の獲物を目の前にすると、欲望の制御が効かなくなる。
目をつけられると非常に厄介なことになるのは火を見るより明らかだ。
彼らの視線がこちらに届く寸前、ハメルはティファの手首を掴み、すぐ側に入り組んでいる薄暗い路地裏の横道へと彼女を素早く引き込んだ。
「えっ、ハメル……? 急にどうしたの?」
突然のことに驚くティファに対し、ハメルは彼女の背中をそっと壁に寄せるようにして自らの身体で隠し、その水色の瞳を厳しく光らせながら耳元で低く囁く。
「静かに。前方にコルネオの手下がいる。目をつけられると面倒なことになるからな。通り過ぎるまでここで待つぞ」
「……っ、分かったわ」
コルネオと六番街スラムの噂はラケスからも聞かされていた。
ティファはコクりと頷き、ハメルの引き締まった胸板のすぐ近くで息を潜める。
この時、ティファの身体を強く抱き寄せた瞬間、ハメルはコルネオ一派への対応とは別の意味で、反射的に身構えてしまっていた。
かつて歴史を改変しよう、定められた悲劇の流れから逸脱しようとするたびに湧き出してきた、あの不気味な世界の強制力――運命の番人たち。
フィーラーどもが、この親密な接触を拒むために今すぐ空間を歪めて襲いかかってくるのではないかと、脳の防衛本能が最大の警戒を発していたからだ。
しかし、どれだけ待っても、不快な空間の歪みも黒い霧が蠢く気配も、微塵として発生しない。
腕と胸板の間に感じる、ティファのしなやかで温かい肉体の質感と、トクトクと刻まれる彼女の鼓動の音だけが、現実としてそこにある。
(……来ない? これだけの過剰な接近を、世界の
ニブルヘイムでの決戦。
あの日、持てるすべての力を尽くして運命の番人たちを打倒し、新たな世界への一歩を踏み出したはずであった。
その結果、歴史の大きな流れは変えられなかったが、ティファとの関係性という極めて狭くパーソナルな領域の因果律だけは、完全に書き換えることに成功しているのではないか。
ハメルの脳裏に、そんな仮説が強烈が芽生えていく。
ハメルの機転によってコルネオの手下は通り過ぎ、事態は静かに収束するが、ハメルの胸の奥の熱量は治まらなかった。
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[u]-εγλ 0003年1月〜4月。
年が明けても、過酷なミッドガルの下層スラムでの生活が淡々と続いていく。
前世の知識を持つハメルにとって、憧れの存在であるティファのすぐ隣にいられる生活は全く苦にはならない。
ティファは夜遅くまで饅頭屋での労働に追われ、夕飯も店での賄いである饅頭を手早く食べて済ませてしまうような、多忙を極める毎日を送っている。
それでも朝の僅かな時間や送り迎えのひとときに、変わらぬ幼馴染としての心温まる笑顔を向けてくれる。
悪夢が酷い夜は、眠れないティファに呼び出されて、狭いベッドの上で並んで座って言葉を交わす。
それもまたハメルにとっては役得であった。
ティファが自分を誰よりも頼り、心の拠り所にしているという事実は、ハメルにとって何よりの癒しとなる。
しかし、ニブルヘイムの惨劇という強烈なトラウマから、ティファは年上の幼馴染以上の関係へと一歩踏み出すことを、どうしても躊躇しているようだ。
ハメルは彼女の心の傷の深さを誰よりも理解している。
決して無理に一線を越えようとはせず、大きな包容力で彼女を包み込み、時が癒やすのをじっと待ち続けようと自らを律し続けた。
だが、あの路地裏での一件以来、ハメルは「運命は変わったのかもしれない」という疑念を抱いていた。
その疑いを、言い訳の効かない絶対的な「確信」へと昇華させたい。
強い衝動に駆られるハメル。
原作の歴史の大きな流れにおいて、ティファがこの段階で他の男と結ばれることなど100%以上あり得ない。
だからこそハメルは、彼女の十六歳の誕生日に「告白」という、世界の強制力に対する最も過激で確実な踏み絵を踏むことを決意する。
もしこれで運命の番人が湧き出してこないのなら、それは自分たちが真に運命を完全にねじ伏せ、新しい未来を紡ぎ始めているという確たる証明になる。
日を追うごとに魅力を増していくティファを目の前にして、ハメルは自らの覚悟を静かに研ぎ澄ませてしていく。
そして、ティファの十六歳の誕生日がやってきた。
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[u]-εγλ 0003年5月3日。
夜遅く、自警団の雑用仕事を終えたハメルが店へ迎えに行くと、ティファが額の汗を拭いながら、充実感に満ちた笑顔を彼に向ける。
そのまま二人は狭いコンテナルームに戻り、ささやかな誕生日パーティーを開いた。
ティファは十六歳で、ハメルは十八歳となる。
「親方がね、今日も売り方のコツをたくさん教えてくれたの。私に職人としての技術も、見せ方の工夫も、全部熱心に仕込んでくれた。本当に感謝してるの。早くハメルの治療費を全額返して、親方にも恩返ししなきゃ」
健気に、熱い眼差しで親方への感謝を口にするティファ。
だが、ハメルの脳内にある前世の原作知識は、その親方こそが裏で悪事を黙認し、ティファの圧倒的な容姿と労働力を客寄せパンダとして搾取している張本人だという冷徹な真実を指し示していた。
ハメルはティファの柔らかい手をそっと握り、その真っ直ぐな瞳を見つめて静かに嗜める。
「ティファ、あまりあの親方を信用しすぎるな。ここはスラムだ。表の顔がどんなに良く見える人間であっても、必ず裏がある。気をつけろ」
「……なら、ハメルにも裏があるのかしら?」
ティファが悪戯っぽく首を傾げる。
その無防備で愛らしい姿を前に、ハメルは自らが用意した踏み絵を踏み抜く瞬間が来たと悟った。
「もちろん」
ハメルは間髪入れずに答えると、前髪を静かにかき上げる。
かつてニブルヘイムの魔晄浴によって宿した、深い水色の瞳が剥き出しのまま露わになる。
ハメルはティファの細い腰を引き寄せ、一歩も引かない明確な意志を込めて彼女の瞳を正面から見据え、真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「俺がティファを誰よりも大切に思っていること、そして幼馴染以上の存在として、一人の男としてティファを愛していること。これが俺の裏であり、本音だ」
世界の歩むべき歴史を、その前提を根底から覆す言葉。
言い終えた瞬間、ハメルの背筋を冷たい緊張が駆け抜けた。
ハメルは無意識のうちに奥歯を噛み締め、全身の筋肉を硬直させて身構える。
かつて自らの行く手を阻み、肉体と精神を圧し潰してきたあの冷酷な運命の強制力――フィーラーの襲来を予期し、全神経を研ぎ澄まして空間の歪みを警戒する。
だが、来ない。
数秒が経っても、狭いコンテナルームの空気は静まり返ったままで、不気味な黒い霧が湧き出す気配すら微塵もなかった。
世界はただ沈黙し、ハメルの告白を完全に許容していた。
(……届いた。俺はついに、既定路線を進む歴史の流れを断ち切ったんだ)
その事実を脳が理解した瞬間、何年もの間、ハメルの心を縛り付けていた目に見えない重石が綺麗に弾け飛んだ。
張り詰めていた緊張が劇的に緩み、言葉にできないほどの激しい安堵と、胸の奥から突き上げる深い感動に視界が熱くなる。
それと同時に、これまで己の心の内側に強固なダムを作って閉じ込めていた本当の感情が、一気に堰を切って溢れ出した。
一度外れた理性のブレーキはもう止まらず、ハメルの口から秘められていた本音が怒濤の如く吐き出されていく。
「……村にいた頃は、ずっと兄のような存在でいようって、必死に自分にブレーキをかけていたんだ。ティファを妹みたいに思おうって、何度も自分に言い聞かせて。だけど、無理だった。俺の隣で、ティファがどんどん綺麗に、魅力的になっていくから……俺の覚悟なんて、とっくに限界だったんだ。……俺の恋人になってほしい、ティファ」
「――っ」
ティファは驚いて目を見開き、一瞬で顔を真っ赤に染める。
しかし、その瞳には戸惑いだけでなく、深く切ない感情が溢れていた。
彼女はハメルの引き締まった胸元に視線を落とし、小さく唇を噛む。
「ハメル……嬉しい、嬉しくて胸がいっぱいになる。……私ね、村で大人たちから、ハメルの許嫁って囃し立てられていたとき……本当は、全然嫌じゃなかったの。私もずっと......ハメルのこと素敵な年上の男の子として意識してた。だから、ハメルがいつもからかわれるたびに否定するのが、本当はすごく寂しかったんだよ……」
ポロポロと本音を溢れさせながらも、ティファの表情に翳りが差す。
「だけど……ニブルヘイムであんな酷いことがあって、お父さんもみんなもいなくなってしまったのに……私だけ、こんな風に幸せになって良いのかな……」
故郷を失った凄惨なトラウマと罪悪感が、彼女の心に冷たい楔を打ち込んでいた。
幸せを掴むことを躊躇うティファの健気な痛々しさを前に、ハメルは優しく彼女の肩を包み込む。
「答えは急がない。ティファがまだそんな風に苦しんでいるなら、今すぐどうこうしようとは思わないさ。俺のこの気持ちを知っていてくれさえすれば良い。……ただ、一つだけ約束して欲しいんだ。俺の気持ちを知っても、避けないで今までどおり接してくれ。ティファと気まずくなるのは、俺にとって何より嫌なことだからな」
ハメルのどこまでも自分を気遣う優しさに、ティファはふっと緊張を緩め、愛おしそうに苦笑した。
「……もう、難しいこと言うね、ハメル。そんなの、意識しない方が無理だわ。でも……分かった、約束するわ」
「ありがとう。……それで、答えはどうかな?」
ハメルが重ねて静かに問いかけると、ティファは小さく息を呑み、激しく葛藤する。
ニブルヘイムの惨劇から、すでに半年が経っていた。
生き残った自分も、そろそろ前に踏み出さなければいけないことは分かってはいるのだ。
何かを変えないといけない、そう漠然と思いつつも立ち止まっているところに届いた、ハメルの真っ直ぐな告白。
その時、彼女の脳裏に、かつてニブルヘイムの給水塔の上で約束を交わして去った、金髪の少年の面影が一瞬だけ過る。
遠い街へ行ってしまった幼馴染への郷愁が胸をかすめる。
だが今、絶望の深淵にいた自分を命懸けで救い出し、隣で支え続けてくれているのは目の前の男なのだ。
ティファは心の中で、過去の淡い思い出にそっと別れを告げた。
(この手を取って、前に進もう――。)
それは彼女なりの、これからの人生をどう生きるかという大きな選択だった。
ティファは顔を耳まで真っ赤に染めながらも、ハメルのシャツの裾をぎゅっと握りしめ、長い睫毛を伏せて目を瞑り、「ん」と小さく唇を突き出してみせる。
それが、言葉にできない彼女の精一杯の回答であり、確かな決意の表明だった。
ハメルは回答自体はひとまず保留にされるものとばかり思い込んでいた。
だからこそ、目前でティファが愛らしく唇を突き出して見せたその瞬間、驚愕に大きく目を見開く。
本来なら彼女の隣に立つべきだった少年の影が、一瞬だけ脳裏をよぎったかもしれない。
だが、目の前で赤くなって唇を突き出すティファの姿は、あまりにも、狂おしいほどに魅力的すぎた。
込み上げる圧倒的な愛おしさと強欲な独占欲が、後ろめたさなど一瞬で消し飛ばしていく。
ハメルはただ、彼女を完全に我がものにしたいという衝動のまま、その身体を強く抱き寄せてしまう。
重なり合った唇は、驚くほど柔らかく、ほんのりと甘い熱を帯びている。
初めて交わす、お互いの体温と存在を確かめ合うような、優しく丁寧な接吻。
ティファはハメルの首筋に細い腕をそっと回して、その大きな温もりにすべてを委ねた。
ミッドガルのプレートの下の冷たい夜気を忘れさせるような、ただひたすらに甘く穏やかな時間が、狭いコンテナルームを優しく満たしていく。
名残惜しさを惜しむように、小鳥がついばむような淡いバードキスが何度も重ねられる。
二度目、三度目、四度目……。
ハメルにとって、その一つ一つのキスの瑞々しい感触は、震えるほどの甘やかな奇跡だった。
ティファ・ロックハートという、前世において狂おしいほどに愛されてきた存在。
彼女の記念すべき最初のファーストキス、そして今まさに重ねられていくセカンドキス、サードキスの重みは、ティファを愛するファンにとって至高の価値を持つものだ。
そのすべてを今、自分が完全に独占し、自らの唇で奪い取っている――そのあまりの素晴らしさに、ハメルは心の底から深い感動を覚える。
触れては離れる可憐な触れ合いの中で、誰の手にも染まっていない彼女の清らかな「初めて記憶」が、ハメルの体温だけで優しく彩られていく。
そうして六度目までの短いリップキスを重ねた後、七度目の瞬間、ティファが小さく息を呑み、ハメルのシャツの裾を掴む手にきゅっと力がこもった。
それは過去の思い出を振り切り、目の前の男のすべてを受け入れるという、彼女なりの明確な覚悟の表明。
重ねられた唇が、それまでとは違う生々しい熱を帯びて、お互いの内側へと深く踏み込んでいく。
吐息を溶かし合い、舌と舌が優しく絡み合う、秘めやかで濃厚なフレンチキス。
互いの呼吸が深く混ざり合うたびに、二人の絆は確固たるものへと昇華されていった。
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恋人という確かな境界線を越えた翌日、二人は狭いコンテナ街の片隅で、さらに現実的な取り決めを交わした。
鍵をかけたティファの部屋、ランプの仄暗い光の中で、ハメルとベッドに腰掛け、少し不安げに指先を絡めているティファ。
「ねえ、ハメル。私たちのこと……やっぱり、ラケスたちには絶対に内緒にしておいた方がいいわよね?」
ハメルは絡められたティファの指先にそっと力を込め、水色の瞳を真っ直ぐに彼女に向ける。
「ああ。特にラケスには絶対に知られるわけにはいかない。あいつがティファに向ける視線は、ただの仲間としてのものじゃないからな。もし俺たちが付き合っていると知れば、どんな陰湿な嫌がらせを仕掛けてくるか分からない。それに、お店の親方にも難癖をつけられる材料になりかねないしな」
ハメルは繋いだティファの手を優しく包み込むようにして、少し困ったように息を吐いた。
「……それから、これは男としての本音でもあるし、スラムの冷徹な商売の現実でもあるんだけどさ。今、店に買いに来てくれる荒くれ者たちの多くは、ティファという『若くて綺麗な女の子』を目当てに集まっている部分がある。ティファに恋人がいるなんて噂が広まったら、買い控えが起きて、確実に売り上げが落ちてしまうだろう」
「え……そうなの? 男の人って、そういうものなのね……」
ティファは驚いたように目を見張り、それから少し顔を赤らめる。
ハメルは頷き、真面目なトーンで言葉を重ねた。
「ああ。売り上げが落ちれば、俺の治療費の返済も滞る。だから、スラムを出るまでは、表向きはただの幼馴染のままでいよう」
「うん、分かったわ。一刻も早くあの50万ギルを返して、一緒に自由の身になりましょう。……だからね、ハメル。私からも、お願いがあるの」
ティファは真剣な眼差しでハメルを見つめ、絡めた指にきゅっと力を込める。
「私たちの関係だけど、このスラムにいる間は、その……キスより先のこと、大人な関係はお預けにさせてほしいの」
「お預け?」
ハメルが問い返すと、ティファはさらに顔を赤くしながら、部屋の薄い鉄板の壁を見つめた。
「だって、このコンテナルーム、壁が薄くて音がすごく響くでしょ? それに、この区画の入り口も共同の水浴び場も、四六時中グループの人間に監視されているようなものだわ。もし怪しい物音や気配が外に漏れたら、すぐにラケスに筒抜けになっちゃう。だから……そういうことは、ちゃんと借金を全部返して、この窮屈な檻を出てからにしたいの」
「なるほどな。四方を囲まれた檻の中というわけか。分かった、ティファの言う通りにしよう」
ハメルは微笑み、真摯に頷いた。
大人な関係はお預け。
だが、だからこそ二人の間に流れる空気は、切実な熱を孕んでいた。
ティファにとって、この八番街のコンテナルームで一人で眠る夜は、故郷の惨劇を思い出しては恐怖に怯える時間の連続だった。
目を閉じれば蘇る凄惨な記憶にうなされ、以前は薄い鉄板の壁を叩いて隣の部屋のハメルを呼び出し、ハメルのシャツを胸元で濡らしながらようやく眠りにつく――それがかつての夜だった。
だが、正式に恋人関係になってからは、ティファの夜への向き合い方も変わっていく。
「今日は悪い夢を見そう……」と予感する夜には、彼女は予め壁を小さく叩いてハメルを自分の部屋へ呼び出し、優しく深い口づけを交わしてから同じベッドで眠るようになった。
そんな時、ハメルの猟師としての本領が発揮される。
鍛え上げられた肉体と、ニブル山での忍び猟で培った徹底的な気配隠蔽の技術をフルに動員し、見張り番のわずかな視線の死角を突いて、壁一枚隣にあるティファの部屋へと音もなく滑り込む。
昼間の他人の目を欺く不自由さから解放され、狭いシングルベッドの中で、ハメルはティファのしなやかな身体を優しく抱きしめた。
「ハメル……っ」
ティファはハメルの首筋に腕を回し、彼にぴったりと身体を預けてしがみつく。
薄い鉄板一枚を隔てた外には、マンソン・グループの見張りの気配。
寝返りを打つだけで、古びたベッドのバネが僅かにギチ、と軋む。
「――ん……っ」
暗闇の中、ハメルの逞しい胸板に豊満な双丘を押し付けたティファの口から、熱い安堵の吐息が小さく漏れた。
だがハメルは、その甘い声が薄い壁を抜けて外に漏れるのを防ぐように、すぐに彼女の柔らかな唇を自らの口づけで優しく塞いだ。
物音を立ててはならないという緊張感が、二人の五感を狂いそうなほどに研ぎ澄ましていく。
唇を重ねたまま、ティファはハメルのシャツの胸元をキュッと強く握りしめた。
息が深く混ざり合うたびに、ハメルの衣服から漂う独特の甘い魔晄の香りと、ソルジャー並みに高い男の体温が、薄い夜着一枚のティファの肌へと生々しく伝わっていく。
キスより先は「お預け」。
その固い約束があるからこそ、重なり合う二人の肉体の摩擦は、切ないほどに熱を帯びていた。
ハメルがティファの引き締まった細い腰を大きな掌で愛おしそうに撫で上げるたび、彼女の身体が小さく、くすぐったそうに震える。
二人がこうして夜を共にするのは、決してただ甘く戯れ合うためだけではない。
すべてを失った二人が、凄惨なトラウマを乗り越えるために寄り添い合う、切実な心の密着だった。
だが、恋人となった今、衣服越しに伝わるハメルの確かな心臓の鼓動と、自分を包み込んでくれる圧倒的な男の質量は、かつての恐怖を完全に塗りつぶし、ティファの肉体をどうしようもなく蕩かしていく。
「……ハメル……私、もう、怖くないわ……」
キスを解いたティファは、物音を立てないようハメルの耳元で消え入るような甘い声で囁き、彼の広い胸に深く顔を埋めた。
檻のような不自由な二重生活の中で、触れ合えないもどかしさを抱えながらも、互いの吐息と体温を確かめ合うように強く抱き合う二人。
その禁欲の裏で、二人の魂と肉体の絆は、誰にも引き裂けないほど密かに、しかし確実に深まっていくのだった。