[μ]-εγλ 0005年5月10日。
全てが順風満帆に進み出したはずの新生セブンスヘブン。
しかし、盛り上がったティファの十八歳の誕生日パーティー営業から一週間後のことだ。
予期せぬ不幸がセブンスヘブンに襲いかかる。
セブンスヘブンの厨房で、ティファはいつも通り昼のランチ営業に向けて仕込みを進めていた。
しかし、営業開始の時間が間近になっても、いつもならとっくに出勤しているはずのモンティ老人が一向に姿を現さない。
「おかしいな……モンティさん、どうしたんだろう」
ティファが時計を見上げて首を傾げ、心配を募らせているその時、店の重い扉が勢いよく開き、天望荘の大家のマーレが血相を変えて飛び込んでくる。
「大変だよ! ティファ! モンティの奴が倒れちまった。心臓発作だそうだっ」
「だ、大丈夫なんですか!?」
手にした包丁を思わず持ったまま、ティファは顔を真っ青にして叫ぶ。
「ハメルが偶然居合わせてね、すぐに近くの治療院に運び込んでくれたんだよ。おかげで何とか生命は取り留めたけど、医者の話じゃ絶対安静だそうだ」
「そんな……! マーレさん、私、様子を見てきます!」
ティファは即座に昼の営業を取りやめることを決めると、エプロンを脱ぎ捨てて店を飛び出し、モンティ老人が担ぎ込まれた七番街スラムの治療院へと急ぐ。
治療院の薄暗い病室に入ると、ベッドの上で何本もの管に繋がれたモンティ老人の姿があった。
その傍らには、ずっと付きっきりで看病を続けているハメルが静かに佇んでいる。
ティファと顔を合わせたハメルは、いつもの冷静な表情の奥に、沈痛な色を濃く滲ませている。
戦士として徹底的に鍛え上げられたその鋭い眼識が、老人の命の灯火が既に限界近くまで細っていることを察知しているからだ。
病床のモンティ老人は、ティファの姿に気づくと、弱々しく目を開けて微かに微笑む。
「残念だ……。しばらく休まないといけないらしい。もっと君たちと一緒に働きたかったんだがね……」
老紳士はそう言って寂しげに口元を歪ませると、途切れ途切れの声で、しかしはっきりとティファに告げる。
「……店を、頼む」
「モンティさん……! はい、任せてください!」
その一言に全力で応えようとするティファは、紅い瞳に確かな覚悟を灯し、溢れそうになる涙を必死に堪えて深く頷く。
---
ティファはすぐにセブンスヘブンへと戻り、その日の夜から通常通りバー営業を開始する。
フロアのサポートにはハメルが入り、二人は無駄のない完璧な連携で押し寄せる客を捌いていく。
その賑わうフロアのカウンターへ、いつものようにジョニーが陽気に声を張り上げながら滑り込んでくる。
「よぉティファ! モンティのじいさんがいなくて寂しいけど、キミの顔を見たらオレの元気もマックスに――」
「ごめんなさいジョニー、今日は余裕がないの。静かに飲んでて」
ティファはジョニーの言葉を遮り、いつもの営業用の笑みすら浮かべず、紅い瞳に張り詰めた真剣さを宿して冷然と言い放つ。
いつもと全く違う、凛とした厳しいオーラを放つティファの迫力に、ジョニーは完全に気圧され、「あ、へい……それじゃ、いつものやつを大人しくもらうぜ……」と、珍しく小さくなって縮こまる。
いつもならしつこく食い下がるジョニーだが、今日ばかりは大人しく引き下がり、カウンターの隅でグラスを握りしめる。
せめて忙しく働くティファの健気な姿を肴にして、静かに酒を飲むことにしたのだ。
しかし、その目に飛び込んできたのは、彼をさらに圧倒する驚愕の光景だった。
カウンターの奥で流れるようにシェイカーを振るティファと、フロアで滑るように給仕するハメルの二人が、とんでもなく息の合った完璧な連携プレイで、押し寄せる客のオーダーを次々と捌いていく様を改めてマジマジと見せつけられ、ただただ圧倒されることとなる。
「ティファ、奥のボックス席から『コスモキャニオン』が二つ。氷は少なめだ」
ハメルがフロアの喧騒を縫うような無駄のない身のこなしでカウンターへと近づき、空いたグラスをスマートに回収しながら、低く通る声で的確にオーダーを通す。
「了解、すぐ作るわ! ハメル、あっちのカウンターの端のお客さん、ちょっと飲みすぎみたい。お水回してもらえる?」
ティファは慣れた手つきでボトルを取りながら、ハメルへと視線を送る。
二人の間には言葉以上の暗黙の了解があり、互いの動きを完全に予測し合っている。
「ああ、分かった。あいつの財布はもう空に近い。頃合いを見て切り上げさせる」
ハメルは限界まで絞り込まれた軽やかな立ち回りで、フロアを滑るように動き、酔客の元へさりげなくチェイサーを差し出す。
その無駄のない洗練された対応をカウンターから眺めていたジョニーは、二人の完成された世界に到底入り込めないことを痛感し、喉を鳴らして酒を飲み干す。
ティファは手際よくカクテルを注ぎながら、ハメルに向けてふっと笑みをこぼす。
「ふふ、さすが頼りになる私の相棒ね。……ねえ、ハメル。今の私のシェイク、どうかしら?」
ハメルはグラスをトレイに回収しながら、カウンターのティファを見つめ、端正な顔立ちをわずかに緩める。
「完璧だ。モンティの爺さんが見たら、自分の出番がなくなったと悔しがるくらいにな」
「良かった。モンティさんが戻ってくるまで、この場所を絶対に守らなきゃね」
ティファは年相応の瑞々しい笑顔をハメルへと返し、再び凛とした佇まいでシェイカーを構える。
ハメルもまた、活気に溢れるフロアに自然と溶け込みながら、洗練された黒服としてその秩序をスマートに維持し続けた。
---
ランチ営業の後に店を一瞬閉めて治療院へ向かい、モンティ老人の看病をマーレに任せてから再び夜営業に臨む。
そんな二人だけでセブンスヘブンの営業を支え合う、張り詰めた日々が一週間ほど続く。
その過酷な日々の最中、ティファは人知れず深い苦悩に蝕まれていた。
ある夜、営業が終了して静まり返った店内で、グラスを磨いていたティファがふっと手を止め、カウンターに視線を落とす。
その横顔には、昼間の気丈な様子からは想像もつかないほどの暗い影が落ちている。
「ねえ、ハメル……」
ぽつりと、消え入りそうな声でティファがハメルの名を呼ぶ。
ハメルが静かに歩み寄ると、彼女は潤んだ紅い瞳をハメルに向け、胸の奥に閉じ込めている不安を吐き出す。
「私、考えてしまうの……。私がこのお店に給仕として来て、その後にバーテンダーをやるって言い出したから、お店が信じられないくらい忙しくなっちゃって……。だから、モンティさんの身体に無理がかかって、倒れちゃったんじゃないかって……。もし私たちがマーレさんの依頼を断ってこのお店に来なければ、モンティさんは今も元気にカウンターに立っていられたんじゃないかしら……」
自分が大繁盛をもたらしたからこそ、モンティ老人の寿命を縮めてしまったのではないか。
その優しすぎるがゆえの自責の念に、ティファは激しく思い悩んでいたのだ。
ハメルは彼女の前に真っ直ぐに立ち、その華奢な肩にそっと手を置く。
いつになく温かく、包み込むような低い声で彼女を見つめる。
「そんな風に自分を責める必要はまったくない。思い出してほしい。モンティの爺さんがティファの誕生日の時に言っていたじゃないか。自分がこのセブンスヘブンを作ろうと思ったときにいつか実現したいと夢見ていたのは、まさにあの温かくて誰もが笑顔になれる光景だった、って」
ハメルは言葉を区切り、優しく、しかし確固たる意志を込めて続ける。
「モンティの爺さんは腕を壊して、一度はその夢を諦めかけていたんだ。その夢をもう一度見せてくれたのが、他でもないティファ、お前なんだよ。お前は爺さんの背中を押したんじゃない。爺さんの人生の夢を、最高の形で叶えてみせたんだ。だから、何も悔やむことはない。お前は堂々と、胸を張るべきだ」
ハメルの嘘偽りのない、心を引き上げるような力強い言葉が、ティファの頑なな心を優しく解きほぐしていく。
「ハメル……」
ティファの目から、溜まっていた涙がひとすじ零れ落ちる。
しかし、その表情からは先ほどまでの暗い迷いは消え去っている。
彼女は涙を指先でそっと拭うと、ハメルに向けて、心からの信頼を込めた温かい笑顔を返す。
「ありがとう、ハメル。あなたの言う通りね。私、モンティさんのためにも、絶対に弱音は吐かないわ」
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しかし、二人やマーレの懸命な尽力も虚しく、モンティ老人の病状が回復することはなかった。
一週間が過ぎたある日、病室で付き添っていた一同の前で、モンティ老人に再度激しい心臓の発作が襲いかかる。
「おい、モンティ! しっかりおしよ! まだあんたに逝かれちゃ困るんだよ!」
マーレがベッドの横で老人の手を握り、涙ながらに必死の叱咤を飛ばす。
しかし、機器の警告音は残酷に鳴り響き、老人の意識は急速に遠のいていく。
その最中、モンティ老人は最後の力を振り絞るようにして微かに目を開ける。
そして、震える手で枕元に置いてあった一冊の擦り切れたノートを掴むと、それをティファへと差し出す。
「これを……ティファに……」
それは、老紳士がバーテンダーとして生きてきた人生のすべて、門外不出の「秘伝のレシピ書」だ。
ティファが震える手でそれを受け取ると、モンティ老人は最後に、ハメルへと視線を向ける。
老人は残された最期の力を使い、ハメルの手をぐっと握りしめる。
「ティファを……支えてくれ……」
それが、下層スラムで誰もが慕った老紳士の、最期の言葉となる。
ハメルは逃げることなく、その無駄なく引き締まった右手に確かな力を込め、逝きゆく老人の手を強く、強く握り返す。
「モンティさん……本当に、ありがとうございました……」
ティファは形見となったレシピ書を胸に強く抱きしめ、大粒の涙を流しながら、しかし遮るもののない真っ直ぐな声で彼へと語りかける。
「私を信じてお店に置いてくれて、たくさんのことを教えてくれて、本当に嬉しかった。モンティさんが愛したあのセブンスヘブンは、私とハメルで、命がけで守っていきます。スラムのみんながいつでも笑顔で帰ってこられる、世界で一番温かい場所にしてみせるわ。だから……どうか安心して、ゆっくり休んでくださいね」
涙に濡れながらも、凛とした強さと深い感謝を湛えたティファの送る言葉は、静まり返った病室に優しく響く。
その確固たる誓いを聞き届けたかのように、モンティ老人の表情はとても穏やかなものへと変わり、そのまま静かに息を引き取る。
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数日後、七番街スラムの簡素な斎場にて、モンティ老人の葬儀が執り行われる。
セブンスヘブンの常連だった荒くれ者たちや、近隣の住人たちが大勢詰めかける中、ハメルとティファは深く沈痛な面持ちで参列している。
二人はその場に相応しい、シックな黒の葬儀用の衣装に身を包んでいる。
ハメルは仕立ての良いブラックフォーマルを隙なく着こなし、その隣に立つティファもまた、極めて慎ましやかな黒の喪服を纏っている。
しかし、どれほど地味で格式張った衣装で覆い隠そうとも、ティファの内側から立ち上る、匂い立つような極上の美人の気配だけは決して抑え込むことができない。
むしろ、漆黒の布地との対比によって、彼女の透き通るような白皙の肌や、豊かな身体の美しい輪郭が鮮烈に際立ってしまい、厳粛な場にあって不謹慎なほどに周囲の目を引いていた。
参列者の中にいたジョニーも、悲しみに暮れながらも、目の前に現れたティファのあまりにも美しく艶やかな喪服姿に、思わず言葉を失って釘付けになる。
不謹慎だと分かっていても、黒い布地に引き立てられた彼女の圧倒的なプロポーションからどうしても目が離せず、頬を微かに染めて見惚れてしまう。
だが、その視線にいち早く気づいた隣のマーレから、骨まで凍りつきそうな猛烈な睨みを利かされると、ジョニーはヒッと小さく悲鳴を上げ、慌てて背筋を伸ばして深く頭を下げた。
流石にこの厳粛な状況での空気を察し、借りてきた猫のように大人しく葬儀に集中する。
ハメルは無言のまま、ティファを男たちの視線から庇うようにその一歩前に立ち続けた。
葬儀の全行程が終わり、人々が去った後、セブンスヘブンの店内に戻った一同は、マーレの仕切りのもとで今後の引き継ぎに関する話し合いの場を持つ。
「さて、二人とも。モンティがいなくなっちまった以上、この店をどうするかハッキリさせなきゃね」
マーレはロングカウンターに腕を組み、真剣な眼差しで二人を見つめる。
「店そのものはモンティの遺産だけどね、問題は建てる際にかかった大工の棟梁への支払い、つまり借金が丸々残ってるってことさ。これをどうするかだね」
ハメルとティファはあらかじめ相談を終えている。
二人は視線を交わし、確固たる決意とともにマーレへと言葉を返す。
「マーレさん、俺たちはモンティの爺さんの借金も含めて、このセブンスヘブンを丸ごと買い取るつもりです」
ハメルの淀みのない提案に、マーレはふっと表情を和らげるが、すぐに現実的な数字を口にする。
「大した覚悟だよ。だけどね、大工への直近の支払期限が迫ってて、その額は20万ギルだ。モンティの奴が残してくれた手元の遺金が4万ギルあるから……差し引き、今すぐに16万ギルが必要になる。スラムの若者が出せる額じゃないよ?」
「それなら、問題ありません」
ハメルは足元に置いていたバッグから、ずっしりとしたギル袋を取り出し、カウンターの上へと静かに置く。
それは、彼らがかつて八番街から七番街スラムへと拠点を移してきたときに、ハメルがそのまま保持していた資金だった。
以前、八番街スラムを牛耳るマンソン・グループの会計役のラケスを追跡していた際、尾行中に立ち寄った闇チョコボレースで、ハメルがその鋭い観察眼によって毎回引き当てていた莫大な払い戻し金の一部だ。
大工への支払いにその資金を充てることは、事前に二人でしっかりと話し合って合意していることだ。
しかし、マーレが名義人の欄を指さした瞬間、二人の間に小さなズレが生じる。
ハメルが書類を引き寄せ、ティファの手元にペンを差し出した時、ティファがその手を止めてしまう。
「待って、ハメル。名義人はハメル一人の名前にして」
「ティファ?」
ハメルが眉をひそめると、ティファは真面目で一本気な紅い瞳で、彼の水色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お店を買い取ることは二人で相談して決めたし、このお金を使うことにも納得してるわ。でも、これはハメルが自分の力で手に入れたハメル個人の大切なお金よ。全額ハメルが出してくれたんだから、お店はハメル一人のものになるべきだわ。私はただのバーテンダーか、雇われ店長で構わないの」
生真面目で義理堅いティファは、お金を出したハメルこそが唯一のオーナーであるべきだと頑なに主張する。
しかし、ハメルは彼女のしなやかな手を優しく包み込み、端正な顔立ちに穏やかな、それでいて確固たる意志を宿して首を振った。
「いや、これは二人の金だ。俺たちがスラムで新しい生活を始め、この店を守るために使うのだから、二人の店にするべきだ」
「でも、それは筋が通らないわ。私は一ギルも出してないのよ?」
なおも躊躇するティファの様子を見て、横で腕を組んでいたマーレが、呆れたように、しかし最高に温かい笑声をあげて二人の間に割って入る。
「ハハッ、いい加減におしよティファ! こんだけハメルが男気を見せてくれてるんだ、素直に甘えときな。どうせあんたたち二人なんて、端から見ればとっくに夫婦みたいなもんじゃないか。何を今更水臭いこと言ってるんだい」
マーレの直球すぎる言葉に、ティファは一瞬にして頬を紅潮させ、言葉を詰まらせる。
「よし、決まりだ。だったらこの店は、二人の共同オーナーってことにしときな。その方が大工の偏屈な連中への外聞もいいからね」
マーレが差し出してきた契約の書類に、ハメルは迷わずペンを走らせる。
『ハメル・スレイダー』
ハメルの強い眼差しに促され、未だに顔を赤くしたままのティファも、彼の隣に並ぶようにして、その名を署名する。
『ティファ・ロックハート』
二人の連名によるサインが刻まれた瞬間、セブンスヘブンは名実ともに、誰にも侵されることのない『二人の城』となる。
「マーレさん、もう一つ相談がある」
書類を片付け終えたハメルが、ふと思い出したように口を開く。
「俺たちは天望荘の部屋を引き払って、このセブンスヘブンに移ろうと思う。ここの地下室なら広さも十分だし、何より勝手がわかってるから」
ハメルからの予期せぬ申し出に、マーレは一瞬だけ目を見張るが、すぐにニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「へえ、モンティが趣味の部屋にしてたここの地下かい? シャワーも完備されてるし、そいつはいい名案だね。あたしも大賛成さ」
そこまでは普通のトーンだったが、マーレはわざとらしく声を潜めると、ティファの方をチラリと見て、悪戯っぽい笑みを浮かべてニヤニヤと語り出す。
「ほら、こないだのティファの誕生日の夜さ。朝方まで随分と熱かったじゃないかい? 安アパートの天望荘は壁が薄いんだからさ、ティファの可愛い吐息が外まで漏れてないか、あたしゃヒヤヒヤしたんだよ。こっちの頑丈な地下室なら、もうこれっぽっちも我慢する必要はないだろ?」
「マ、マーレさんっ!? ……聞いてたんですか!」
大家のあまりにも生々しい、誕生日の夜の密事への指摘に、ティファは一瞬にして耳の付け根から首筋までを真っ赤に染め上げ、恥じらいのあまり両手で顔を覆ってしまう。
さすがのハメルもこの急な暴露には普段の冷静さを保てず、わずかに頬を染めてバツの悪そうな表情を浮かべ、そっと視線を逸らした。
そんな二人の初々しい反応を見て、マーレは「ハハハ、これからは存分にやりな!」と豪快に笑い飛ばす。
二人はその日のうちに天望荘を引き払い、セブンスヘブンへと完全に居を移した。
二人が店内の奥へと歩みを進め、一台の古いピンボールゲーム台の前に立つ。
ハメルがその足元にある特定の床板を狙い、ドスンと足を踏み締めると、カチリと小気味良いロック解除の音が響き、内蔵されたエレベーターが滑らかに作動し始める。
ガタガタと微かな駆動音を立てながら、ピンボール台とその周囲の床ごと、二人の身体はゆっくりと下層へと降下していく。
たどり着いた地下室は、原作通りならば、後にアバランチの七番街スラム支部の活動の拠点として使われることになる空間だ。
しかし現時点においてはまだ純粋にモンティ老人の隠れ家的な趣味の部屋であり、これからはハメルとティファの二人が誰にも邪魔されずに愛を深め、何でも屋の作戦を練るための絶対的なプライベート空間となる。
託されたあまりにも重く、同時に温かい灯火を胸に刻み、ハメルとティファは自分たちの城となったセブンスヘブンで、新たな未来への一歩を力強く踏み出していく。
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[μ]-εγλ 0005年6月。
セブンスヘブンのカウンターで、マーレの見守る中『ハメル・スレイダー』と『ティファ・ロックハート』の二人の名を並べて名義人のサインを書いたあの瞬間から、ハメルの胸の奥には、これまでになく固く、揺るぎない決意が芽生えていた。
(きちんとプロポーズをして、ティファと本当の夫婦になりたい。ティファと家庭を築きたい)
天望荘のアパートを引き払い、店の地下室へと完全に生活拠点を移した二人にとって、このセブンスヘブンは名実ともに新たな「自分たちの家」そのものだ。
ハメルの胸の奥には、この場所で自分とティファだけの第二の故郷を作りたい、彼女を本当の妻として生涯守り抜きたいという強い願いが深く息づいていた。
しかし、そのためには宿命のように重い、現実的な壁が立ちはだかる。
二人の当面の明確な目標は、モンティ老人から引き継いだこの店の建造費の残りの支払い、すなわち偏屈な大工の棟梁への借金返済だ。
総額100万ギル。
半年に一回20万ギル――月々にして約3.3万ギルという返済を、二年半にわたって支払い続けなければならないという契約。
現代の日本円に換算すると約5000万円。
かつてハメルが胸の致命傷の治療費としてダミーニに吹っ掛けられた額の、さらに二倍である。
これだけの巨額の負債を前にして、モンティ老人が生前、あの大掛かりな店の地下の隠し部屋を大工の棟梁に発注できたのは、彼なりに店を繁盛させる明確な勝算があったからに他ならない。
だが、引き継いだばかりのこの時期、ティファが振るシェイカーと店の利益から、毎月の仕入れ値や二人の最低限の生活費を回せば、まだ手元に大きく残る余裕などないのが実情だ。
これほど大きな借金を抱えている現状では、一世一代の婚約指輪を買い求める金銭的な余裕など、どこを探してもあるはずがなかった。
かつてのように八番街スラムの闇チョコボレースに再び出入りして、手っ取り早くまとまった資金を稼ぎ出すという手段も頭をよぎりはした。
しかし、ハメルはすぐにその考えを良くないと改める。
これまでの闇レースにおいて、ハメルはチート知識を武器にバカ勝ちして稼ぎまくっているのだ。
これ以上目立つ真似をすれば完全に藪蛇となり、レースを取り仕切る裏組織から目をつけられ、命を狙われる事態に発展する可能性が極めて高い。
それに何よりも、根源的な問題がある。
ギャンブルという後ろ暗い手段で稼いだ金で買った指輪を、生真面目なティファが心から喜んでくれるだろうか、という疑問だ。
最愛のティファに贈る一生ものの指輪であるならば、そんなあぶく銭ではなく、真っ当な仕事で得たギルを使いたかった。
ハメルは女性にとって指輪が持つ意味の重さを深く理解している。
彼が男避けとしてペアで購入してプレゼントしたシルバーリングを、ティファがこれまでどれほど大切に扱ってきたかを誰よりも側で見てきたからだ。
婚約指輪を用意してやれない現状に一人胸を痛めつつも、ハメルは自らの真摯な言葉と意志だけで、飾らずに生涯を預ける覚悟を固める。
そんな中、引き払った天望荘から荷物を運び込み、セブンスヘブンの地下室を二人の新たな生活空間へと模様替えしている時のことだ。
新しく配置した木製のチェストの上に目を留めたティファが、そこに置くための花瓶と花を欲して、ふっとハメルに少し照れくさそうにこう漏らす。
「ねえ、ハメル。ここに新しく花瓶を置いて、お花を飾りたいな。……あのね、私の誕生日に贈ってくれたあの花束、本当はどこで手に入れたの? あの香りがとっても良かったから、もう一度飾りたくて」
彼女が口にしたその何気ない問いかけこそが、五里霧中だったハメルのプロポーズ計画に、驚くほど鮮やかな光明をもたらすことになる。
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モンティ老人の葬儀を終え、営業を再開したセブンスヘブンの初めての店休日。
ハメルは「少し遠出をしよう」とティファを連れ立ち、二人で五番街スラムの端へと向かう。
目指すは、あの広大なスラムの片隅にひっそりと佇む、五番街スラムの教会の廃墟。
あの静かで清浄な空気に包まれた空間で、ハメルはティファに生涯の約束を申し込もうと考えていた。
スラムの喧騒を抜け、崩れかけた古い建造物の前にたどり着いたとき、ティファは素直に感動して紅い瞳を丸くする。
「すごいね、ハメル……こんな場所に、こんなに綺麗な教会があったんだ」
天井の大部分が崩落し、そこから差し込む自然の光が、荒涼としたスラムにおいて奇跡的な色彩を放っている。
ハメルは周囲の気配を警戒しているが、教会に近づいても空間を歪める運命の番人――フィーラーが現れる兆候は一切ない。
(フィーラーが出ないということは、エアリスは今ここにはいない証拠だ)
そう思い、警戒を緩めたハメルは、ティファの手を引いて教会の重い扉を押し開ける。
しかし、一歩足を踏み入れた瞬間、ハメルの心臓の鼓動が驚きで跳ね上がる。
崩れた床の隙間から瑞々しく咲き誇る、一面の黄色い花畑。
その中央で、一人の少女が愛おしそうに花籠を抱え、しゃがみ込んで花の世話をしていたのだ。
ピンクのロングドレスに、赤いジャケット。左右に美しく編み込まれた茶髪。
ハメルの足音に気づいた彼女は、しなやかな動作で立ち上がり、翡翠色の瞳をこちらに向けて、少し不思議そうに首を傾げる。
「……どなた?」
聞き覚えのある、あの軽やかで親しみやすい声が響く。
これまで一度だけ遠目から見ただけで、初めて口をきく、かつて画面の向こうで知っていた物語の少女。
彼女の運命を変えることも、ハメルがこの世界で生きる理由の一つだ。
予期せぬ本人との遭遇に、いつも冷静なハメルも一瞬だけ激しく動転する。
ハメルが言葉を失っている隣で、ティファが鼻を微かに動かし、しっとりとした情緒を滲ませながら弾んだ声をあげる。
「あ……ハメル、この香り! あの時の花束、ここのお花だったのね!」
ティファのその言葉を聞き、花畑の少女――エアリスは、すぐに察したようにポンと手を叩く。
「あ、もしかして、この前、お手紙とギルを置いてった人かな?」
「……っ」
ハメルは視線をエアリスとティファの間で行ったり来たりさせながら、どっちつかずの、しかし精一杯の冷静さを装った声で短く応じる。
「……ああ、そうなんだ。ここの花を頂いた」
エアリスは悪戯っぽく微笑みながら、記憶を手繰るように呼びかけてくる。
「確か、何でも屋のハメルさん、だっけ」
正面から名前を呼ばれてハッとなったハメルは、まずエアリスに謝る。
「勝手に花を摘んでしまってすまない。あのギルで足らなかったら、不足分を払うよ」
エアリスはクスリと可笑しそうに笑う。
「ううん、いいの。十分。それにお花も喜んでもらえたみたいだし」
エアリスは、ハメルの腕にそっと自身の身体を寄り添わせているティファの様子に目を留める。
誰が見ても一目で完璧にお似合いだと分かる、美しい二人の独占的な雰囲気。
エアリスは花籠を腕にかけ直すと、少し大人びた、それでいて少女のような茶目っ気のある笑みを浮かべて二人をからかってくる。
「あたしエアリス。ここの教会、子供たちがよく結婚式の真似っこしに遊びに来るの。もしかしてあなたたちも?」
「……あ、いや……それは……」
いかなる強敵を前にしても決して動じないハメルの端正な顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
急に押し黙ってしまったハメルの顔を見上げ、ハメルが今日ここで何を予定していたのかを、ティファは確実に察する。
「そうなんだ……」
ティファもまた、熱烈な幸福感と気恥ずかしさで胸がいっぱいになり、こちらも赤面して俯いてしまう。
「あらら、図星っぽい」
顔を赤らめる二人を見て、エアリスは楽しげに肩をすくめる。
「じゃあ私、お邪魔虫っぽいから、退散しますっ。ごゆっくりー」
エアリスは花籠を持って、スタスタと教会の出口に向かって歩いていき、そのまま外へと出て行ってしまう。
---
残された二人。
突如現れた物語本編の重要人物によって予定は狂わされたが、ここまで来て仕切り直すわけにはいかない。
ハメルの胸の中で、男としての熱い覚悟が完全に決まる。
ハメルは深く呼吸を一つ挟むと、意を決してティファの前に進み出で、彼女の前に片膝で跪く。
差し出せる指輪の箱などどこにもない。
空っぽの両手を差し出し、ハメルは真摯にその深い水色の瞳を彼女へと向けた。
「ティファ。今はまだ本物の指輪を用意してやれなくてすまない。でも、セブンスヘブンを完全に俺たちのものにしたら、必ず一番似合う指輪を贈る。――だから、俺と結婚してほしい」
無駄な言葉を削ぎ落とした、不器用で、けれどこれ以上なく真っ直ぐな告白。
ティファは両手で口元を覆い、その紅い瞳から涙をポロポロと零す。
自分だけがこんな風に幸せになっていいのかという、故郷の惨劇に伴う罪悪感と激しい葛藤が胸を締め付ける。
しかし、目の前のハメルの淀みのない誠実さが、彼女の傷ついた心を強く、優しく救い上げる。
「はい……っ。……私はハメルと、共にずっと生きたい」
言葉少なに、けれど引き返せない決意を込めて、ティファは跪くハメルの首に細い腕を絡めて抱きついた。
ハメルは静かに微笑むと、愛おしい彼女の身体を強く抱きしめ、二人は深く、しかし熱く唇を重ね合わせて互いの愛を確かめ合う。
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二人が長いキスを終え、名残惜しそうに唇を離した、まさにそのタイミングだ。
「――終わった?」
教会の入り口の陰から、エアリスがひょっこりと顔を出した。
実は完全に立ち去っておらず、物陰から二人の様子をずっと見守っているのだ。
「エアリス……っ!?」
寄り添ったまま驚きに目を丸くする二人に向かって、エアリスは楽しげに歩み寄ると、いきなり突飛な提案を突きつけてくる。
「お二人、とってもお似合いだからさ、もう今すぐここで結婚しちゃいなよ! 二人だけの心の結婚式。司式者役ならあたしに任せて。ほら、喜んで引き受けてあげるよ」
「えっ……!?」
あまりにも突飛な言葉に、ハメルは完全に困惑の表情を浮かべる。
しかし、ハメルの腕に抱かれたままのティファは、少し驚いた後にいたずらっぽい、けれど芯の通った瞳でハメルを見上げ、思い切り乗り気な声をあげる。
「……じゃあ、しちゃおっか。結婚」
「ティファ!? だけど指輪も何も用意していないんだぞ……」
ハメルは慌てる。
いかに二人だけの結婚式と言えど、結婚ともなればある程度形式は整えたい。
結婚指輪くらいは欲しい。
そう思った瞬間、ハメルは自身の衣服の胸裏にある固い感触に気づいて動きを止める。
いつも肌身離さず、懐の奥深くに大切にしまい込んでいるもの――ニブルヘイムのあの惨劇の夜、世界の強制力との死闘を生き延び、現実世界に戻った直後に飛び込んだ燃え盛る実家。
すでに冷たくなっていた母親と、最期の言葉を遺して血の海の中で息を引き取った父親のゾンダー。
あの引き裂かれそうな地獄の決別の瞬間に、胸の痛みを強引にねじ伏せ、二人の固い薬指から自らの手で引き抜いて懐へと深く仕舞い込んだ、両親の唯一の形見である結婚指輪だ。
ハメルはそっと懐に手を入れ、小さな布の包みから二つのリングを取り出して手のひらに載せる。
長年の歳月を経てもなお、静かな鈍い輝きを失っていない一組の指輪だ。
「それ……ハメルのお父さんとお母さんの、結婚指輪よね」
手のひらの上の指輪を見つめ、ティファが静かに、しかしどこか厳粛な面持ちで声を紡ぐ。
「ああ。でも……古いデザインだし、それに、ちょっと縁起が悪い、かな」
ハメルは少し躊躇うように視線を落とする。
あの紅蓮の炎の中で命を落とした両親の遺品だ。
これから新しい未来を築こうという二人の指輪として、あまりに重く、悲しい過去が刻まれているのではないかという懸念が彼の胸をよぎる。
「ううん、そんなことない。私、その指輪じゃないといや。その指輪が欲しいの」
ティファは真っ直ぐにハメルの瞳を見つめ、少しも揺るがない真剣な口調で告げる。
それは、ただの結婚の覚悟ではない。
異空間での死闘、紅蓮の炎に消えた故郷、ニブルヘイムで引き裂かれた全ての過去と惨劇の記憶の重みを、これから先の未来へと二人で一緒に背負い込んでいくという、確固たる覚悟の選択だ。
ハメルは彼女の紅い瞳の奥に宿る揺るぎない意志を確かに受け止め、深く、静かに頷く。
「よし、決まり!」
エアリスはおほん、と大裟に咳をして居住まいを正すと、司式者としての真剣な表情を作る。
「えーっと、彼女の方は、何さんだっけ?」
ティファはハメルの手をしっかりと握り直し、誇らしげに答える。
「ティファ。ティファ・ロックハートよ」
「……うん、いい名前。……じゃあ、始めるよ?」
一瞬で静謐な乙女の雰囲気をその身に纏わせるエアリス。
エアリスは二人を真っ直ぐに見つめ、通る声で言葉を紡ぐ。
「新郎ハメル。あなたはティファを妻とし、愛をもって互いに支え合い、平和で温かい家庭を築くことを誓いますか?」
ハメルはティファの紅い瞳を真っ直ぐに見つめ返し、迷いのない声で応じる。
「はい、誓います」
「新婦ティファ。あなたはハメルを夫とし、愛をもって互いに支え合い、平和で温かい家庭を築くことを誓いますか?」
ティファは溢れそうになる涙を堪え、満面の笑顔で答える。
「はい、誓います!」
「それじゃあ、指輪の交換をどうぞ」
エアリスに促され、ハメルはまず母親の形見の指輪を手に取る。
正式な婚約の言葉を交わしたティファの左手の薬指へ、すべての過去と未来を託すように優しく、確実な重みをもって嵌め込んでいく。
ティファもまた、父親の形見の指輪をハメルの左手の薬指へと、すべての運命を分かち合う意志を込めて滑り込ませる。
二人が七番街スラムの露店で買い、彼女が今日まで右手の薬指に大切に嵌め続けていたシルバーリングは、その役目を終えた。
「うん、バッチリ。それじゃあ、改めて誓いのキスをどうぞ!」
光の降り注ぐ黄色い花畑の中、二人は改めて、深く、深く唇を重ね合わせる。
簡易的ではあるが、それは紛れもなく、二人にとっての本物の結婚式だ。
見届け人はエアリスただ一人。
しかし、この瞬間にハメルとティファは、何者にも引き裂くことのできない確固たる夫婦の契りを交わすのだ。
もはや原作の物語の中心にいるクラウド・ストライフでさえ、今の二人の絶対的な絆の間に割り込む余地など無い。
エアリスが、ここまで二人を強引に結婚式まで引っ張っていったのには、彼女なりの切実な理由があった。
彼女自身、大切な人であるザックスの帰りを、今でも、そしていつまでも待ち続けているからだ。
あの忌まわしいニブルヘイム事変の悲劇から、約二年半の月日が流れた。
エアリスは未だに、宛先不明のまま戻ってくるはずのない彼への手紙を、今もひたむきにポストへと投函し続けている。
(言えなかった言葉は、伝えられるうちに伝えておかないと、絶対に後悔する――)
そんな痛切な想いを日々抱えている彼女だからこそ、目の前で弾けんばかりの熱い情愛を漂わせるハメルとティファの雰囲気を察したとき、居ても立ってもいられず、お節介を承知で一気に結婚式まで済まさせてしまうのだ。
「おめでとう、ハメル、ティファ。末永くお幸せにね」
エアリスの温かい祝福の声が、静かな教会の空間に優しく響き渡った。