日野茜というアイドルはいつも全力だ。
長湯は無用、とばかりに温泉から真っ先に飛び出したが、
湯上がりのスクワットでガッツリ汗をかき、再び風呂へ戻っていった。
明日のライブに備えて骨休めのために来ているのに、どれだけ鍛えれば気が済むのか。
市街地から離れた温泉施設のロビーは人もまばらだ。
風呂から上がった他のアイドルたちは、ホテルの方へ送迎車で戻っていった。
引率の俺はひとりソファにもたれて茜を待っている。
遅いな。
と。
廊下を爆速で茜がかけてくる。
「プロデューサーっ!上がりました!」
おう。
いつものポニーテールは解かれていて、栗色の長く大きなウェーブが左右に揺れる。
お前ちゃんと髪乾かした?
なんかキラキラしてるんだけど。
白い
「んぐ、んぐっ・・・ぷっはー!!
体中にカルシウムがみなぎってくる感じがしますよ!!」
薄桃色の浴衣と湯上がりの上気した肌。
が。
肩にかけられたタオルと腰に当てられた手が・・・どうしても男前!な感じ。
「プロデューサーも、ぜひ一本どうぞ!!さぁ一気に!!!!」
「俺は入ってから飲むからまだいいよ・・・」
喉を鳴らす茜の唇の端。
白い雫が
「ほら顔ついてるぞ」
まるでヒゲだ。
「えっ 鏡、鏡は」
茜がキョロキョロと見回す。
自販機の前に鏡なんかない。
「風呂の中にあるから戻って
ひとり、家族風呂に駆けて行く後ろ姿。
廊下をそんな爆走するな。
足が速いんだよもう。
「プロデューサー!開きません!・・・ふんっ!」
「わあ力任せはやめろ!」
茜なら本当に壊しかねない。
小さいが彼女のフィジカルは半端じゃないのだ。
「あっ鍵!・・・中に忘れました!」
「俺が持ってるから」
スタッフから渡された鍵を取り出す。
扉を開けた瞬間、足元をすり抜ける猫のようなしなやかさで室内に滑り込んでいった。
すぐ視界から消えるなこいつ。
家族風呂の中。
あとは清掃だけ、誰もいない
・・・端っこに固められているバスタオルがある。
これでうちのアイドルたちが体を拭いたんだよな・・・
いやこれ俺が入っていいところか?
早く出よう。
忘れられた鍵をつまみあげる。
「拭けたか?行くぞ」
ちょっと声が震えたかもしれない。
「プロデューサー!鏡が曇ってよく見えません!!」
いや拭けよ鏡を。
「拭いてくれませんかっ?!」
えっ
何を?顔を?
えっ
5歳児みたいなこと言うなこいつ!
・・・仕方ない。
「ほらタオル貸して」
茜が首にかけているタオルを取る。
ふわりといい匂い。
花みたいな・・・甘い匂い。
「ほらもう・・・」
口元を
顎の下・・・胸元まで牛乳が・・・
これは・・・拭けない。
「あとは自分で・・・」
ぱくり
え?
何?
指先が暖かい。
茜が俺の指先を口に含んでいる。
え?なにこれ。
夢?なにしてんの?
指先がぬるりとしたものに包まれる。
舌
舌?茜の舌?
待てこれはどういう状況だまず手を引っこ抜いていやそんな事アイドルの顔にしていいのか傷がつくかもそっと指を抜いて
ちゅう・・・
吸われた。音がした。
快感、とかじゃない。
真っ先に覚えたのは、恐怖だ。
これはとんでもないことになっている早く逃げなければそっと指を
かぷり
噛まれた。
痛くはない。甘噛みのような。
目を上げる。ずっと指を見ていたことに気づく。
茜の顔を見るのが怖かったのか。
どんな顔をしている。
喉がカラカラだ。
いつも俺をまっすぐに見る瞳が。
「はがみでふ」
・・・こらえきれず吹き出す。
口から出してしゃべれよ!
「口から出してしゃべれよ!」
そのまま口に出た。あ、言い方キツかったか?
まずったか?
指が滑り落ち、茜の唇が。
「鏡です」
え?
なにが?
なんの話?
「拭くのは鏡です、プロデューサー」
え?
あーー?
あ!
そうね!
拭いてくれませんかって鏡のことで茜の体を拭いてくれってことじゃなかったのね!
そうだよね!もう子供じゃないからね!
うわーーーーバカ!
「あーあーいや すまん。ちょっときれいにしてやろうかなと思って」
うわっなんだこの言い訳。
バカにしてるみたいにきこえたかも。
「プロデューサーは・・・
お風呂入りたかったんですか?」
ん?
「・・・私と」
え?
「鍵、閉めたから」
・・・?
ああ!そういや茜が入ったあと鍵閉めたわ!
いや別にそりゃ開けたら閉めるだろ
そんな何かやましい気持ちがあったわけでは
「あーいや・・・」
言いかけて気づく。
うつむいた茜の顔が真っ赤だ。
耳まで真っ赤だ。
追い詰められた。そう思った。
茜はバカじゃない。
どこかズレた答えをする時はあるが、
元ラグビー部マネージャーの経歴は
いつも周りをよく見ていて誰かが困ってたり、
何かがあったら真っ先に気づく。
・・・いやでも俺が!?鍵を閉めて!?家族風呂に茜と二人きりで!?・・・うんまあそう思うよなそう思われるわな
よく見てるさすが茜!気が利く!でも答えがズレてるそんなつもりでは──
・・・なんて返す?
違うよ、早く出よう?
茜が見上げる。
俺より頭一つ分低い。
いつもより心なしか熱っぽい瞳で。
「入りませんか?」
王手だ。
まずい。手順を誤った。
早めに誤解を解いておくべきだった。
あの重い扉を力任せに開けようとした茜の拳が。白い指が。小刻みに震えている。
どう考えたってシラフで言えるセリフじゃない。
真っ向勝負。
いや待て!だってアイドルだぞ!
宇宙一かわいいウチの茜だぞ!全力熱血、太陽のような輝きの眩しい──
それが・・・
ちょっと震えながら俺を見ている。
風呂上がりの濡れた髪で。浴衣姿で。胸元が少し汚れて。
ヤバい。これはまずい。
逃げ出したい。傷つけずにこの誤解を解く方法はないか。
どう考えても一緒に風呂入ったらそれはその・・・まずい!
無事に出られるとは思えない!!
しかし・・・
本当に入りたくないのか俺は。
本当に?
この茜を置いて、外に出る?
この茜を連れて、外に出る?
この状況で、何もなかったかのように明日のライブを?
まだやる事が、スケジュールの再確認だって──
バッ
ええっ!?
嘘だろ、と思う勢いで茜が浴衣を脱ぎすてる。
迷いなんて
色気がある、とかじゃなくてなんというか・・・
気風がよい、という単語が頭をよぎる。
真っ白な体。
「プロデューサー!」
ぎゅっと手を握られる。
目を逸らしたい。そらせない。
引き締まった
と、向き直って茜は露天風呂の扉を開ける。
じゃぶじゃぶと入っていってしまう。
「全力でトライすれば!怖いものなんてありません!」
「大丈夫です!!!飛び込んできてください!!!」
うそだろ・・・
なんかこう・・・そういう・・・そういう空気になるのかなんないのか・・・この・・・なに?
その言い方する?
いやするわ。
茜ならそうするわ。
湯煙の向こうでお湯に浸かるのが見える。
負けた。
完全敗北だ。
ここでまた後ではいる、とか言って出たら
茜がどんなに傷つくか。
ここにおきざりにするという選択肢はない。
絶対にない。
俺はネクタイに手をかけた。