同盟の話し合い(という名のランスへの弾劾裁判)が一段落した頃には、夜は完全に明け、衛宮邸の台所には早朝の柔らかな光が差し込み始めていた。
「ハァ……ハァ……もう、朝から何でこんなにエネルギーを使わなきゃいけないのよ……」
凛は居間の座布団にぐったりと倒れ込み、おでこを押さえている。
それもそのはず、深夜の「ちくわ強奪事件」に続き、ランスは明け方に「朝風呂に美少女を連れてこい!」と暴れ、それを阻止しようとしたセイバーと一触即発になり、最終的にアーチャーが背後から無言で放った打撃によってようやく静かになったという、怒涛の数時間を過ごしたからだ。
「がははは! 朝の運動の後の飯は最高だな! おい少年、この白くて柔らかい四角い塊(豆腐)の味噌汁というやつ、なかなか胃に染み渡るぞ!」
当の本人は、頭に薄っすらとタンコブを作った状態で、士郎が作った和朝食をバクバクと平らげていた。
「……気に入ってもらえて何よりだよ。だけど、それ俺の鮭の塩焼きなんだけどな……」
士郎は自分の空になった皿を見つめ、遠い目をしながら白米を口に運ぶ。
「マスター、申し訳ありません。私がこの不埒な男を完全に叩き斬っておけば、このような不条理な朝食にならずに済んだものを……」
セイバーは自身の前に用意された朝食(士郎が彼女の分もきっちり用意していた)を非常に綺麗な所作で食べ進めながら、ランスを鋭く睨みつけている。その食事のスピードは、ランスに負けず劣らずかなり早い。
キッチンの片隅では、エプロンを借りたアーチャーが、慣れた手つきで追加の出汁巻き卵を焼きながら、ふっと皮肉げに笑った。
「諦めるんだな、セイバー。あの男の辞書に『遠慮』という文字はない。胃袋を満たしておかなければ、今度は街に出て何を仕でかすか分かったものではないからな」
「ふん、白髪の言う通りだぞ鎧のちゃんねー! 王たる俺様が満足すれば、お前たちの世界を救ってやらんこともないのだ。がははは!」
食卓が一時的な(ランスの咀嚼音に満ちた)平穏に包まれる中、凛は起き上がり、コーヒーを一口啜ってから全員を見回した。
「……さて。全員、朝食が終わったら今日からの具体的な作戦を伝えるわよ。衛宮くんが正式にマスターとしてセイバーを召喚した以上、アインツベルンだけじゃなく、他の陣営も本格的に動き出すはずよ」
凛の言葉に、士郎とセイバーの表情が引き締まる。
「まず、衛宮くん。アンタは今日から学校を休み、魔術の基礎訓練……と言いたいところだけど、アンタのその歪な魔術回路じゃ一朝一夕にはどうにもならないわ。だから、まずは聖杯戦争の『監督役』のところへ挨拶に行くわよ」
「監督役……? そんな人がいるのか?」
士郎が首を傾げる。
「ええ。冬木の丘の上にある言峰教会。そこの神父が、今回の聖杯戦争の規則が守られているかを監視する監督役よ。アンタみたいな素人がマスターに選ばれたんだから、まずは登録と状況説明をしに行かなきゃいけないの」
凛がそう説明した瞬間、台所でフライパンを握っていたアーチャーの手が、微かに止まった。その鋭い双眸が、一瞬だけ険しい光を帯びる。
「……言峰、教会か。お嬢さん、その男は信用に値する人物なのかね?」
「まぁ、聖堂教会から派遣されてる公的な監督だし、一応は中立を保ってるわよ。私の師匠(代行)でもあるしね。……ただ、性格は最悪に歪んでるけど」
凛は嫌そうに顔を顰めた。
「がははは! 神父だと? 教会の連中ならリーザスにも腐るほどいるぞ! どいつもこいつも堅物で口うるさい奴らばかりだ。そんなところに行くより、俺様は街の『ぷーる』という、女がさらに薄着になる聖地へ行きたいぞ!」
「行くわけないでしょ、この変態! アンタも連れていくわよ。監督役に、この『異界のバグ』をどう報告するか、考えただけでも頭が痛いんだから!」
凛はそう言って立ち上がると、「準備しなさい!」と全員に号令をかけた。
こうして、奇妙な同盟を結んだ一行は、聖杯戦争のルールを確認するため、そして新たな火種が待ち受けるであろう「言峰教会」へと足を運ぶことになる。
「おい、遠坂。この『こうえん』という場所の坂道は、やけに傾斜がきついな。俺様の並外れた体力をもってしても、この無駄な移動は退屈極まりないぞ」
冬木の街を見下ろす高台へと続く長い石段。ランスは首の後ろで両手を組み、だるそうに文句を垂れ流しながら歩いていた。衣服こそ凛の魔術で修復、あるいは現代風の服に着替えさせられていたが、その傍若無人な態度は微塵も変わっていない。
「文句を言わないの! アンタが急に『歩くのが面倒だからそこの鎧の美少女におんぶさせろ』なんてトチ狂ったことを言い出すから、こっちの神経が擦り切れてるのよ!」
凛は額の汗を拭いながら、一歩後ろを歩く士郎とセイバーを振り返った。
セイバーはいつの間にか甲冑を消し、現代の私服(青いスカートに白いブラウス)に身を包んでいたが、その背筋は戦場にあるが如くピンと伸びている。彼女はランスの背中に冷徹な視線を突き刺したままだ。
「お嬢さん(凛)の言う通りです、緑の騎士。先ほど私の身体に触れようとしたその不埒な手を、今すぐここで切り落とさなかっただけでも、私のマスターの慈悲に感謝することですね」
「がははは! 相変わらずキツいねえちゃんお姉ちゃんだ。だがな、そういうツンツンした女ほど、俺様のハイパー兵器で――ぶふぉっ!?」
お約束のように、背後から無言で追随していたアーチャーの放った無属性の魔力弾(お仕置き用低出力)が、ランスの後頭部を正確に捉えて爆発した。
「チッ……白髪の野郎、またやりやがったな! むかむか!」
「お嬢さんの血圧をこれ以上上げないための予防措置だ。感謝されても困るがね」
アーチャーは冷ややかに弓の残滓を消し去り、その視線を石段の頂上へと向けた。
そこには、鬱蒼とした木々に囲まれるようにして、古びた異国風の建築物が佇んでいた。
冬木の丘に建つ、言峰教会である。
「……着いたわよ」
凛の言葉に、一同の間にそれまでの喧騒とは異なる、張り詰めた空気が流れる。
聖杯戦争の『監督役』が待つ、中立の聖域。しかし、魔術師にとっては、いかなる罠が待ち受けているか分からない場所でもある。
士郎はゴクリと唾を飲み込み、自身の左手の令呪を無意識に握りしめた。
「ここが……監督役のいる場所か……」
「ええ。衛宮くん、ここからは私が話すから、アンタは余計なことを言わないでね。特にそこの鬼畜王の口には、チャックでも付いていればよかったんだけど……」
凛はランスを思い切り睨みつけてから、教会の重厚な木製の扉を押し開けた。
ギィィ……と不気味な低音を立てて開いた扉の先、薄暗い礼拝堂の奥には、ステンドグラスから差し込むわずかな光を背に受けて、一人の男が佇んでいた。
黒い法衣を纏い、感情を一切感じさせない冷徹な双眸を持った男――言峰綺礼。
「……ほう。誰かと思えば、凛ではないか。昨夜の騒がしい魔力の衝突の報告を聞いていたが、まさかこのような大帯同で我が教会を訪れるとはな」
言峰の低く、地響きのような声が礼拝堂に響き渡る。その視線は、凛の背後にいる面々を、舐めるように鋭く観察していった。
魔術師ではないはずの少年、衛宮士郎。
その背後に控える、最高位のサーヴァント、セイバー。
そして、壁際に佇む赤い外套のアーチャー。
最後に、言峰の視線が、最も異質な存在――緑の鎧を纏い、喋る魔剣を腰に下げた男、ランスのところでピタリと止まった。
「……ふむ。アーチャーの他に、もう一体。いや、これは英霊の霊体ではないな。生身の肉体でありながら、これほどの密度を持った魔力と気力を内包している人間など、時計塔の執行者でもそうはいない。凛、これは一体どういうことだ?」
言峰の口元に、うっすらと不気味な笑みが浮かぶ。
「――話せば長くなるわよ、綺礼。結論から言うと、この聖杯戦争は完全にバグってるわ」
凛は腕を組み、不機嫌そうに言い放った。