出産までは色々と大変だった。
つわりもあったし、お腹が大きくなってくると腰は痛いしで自分の体ではないみたいだ。
人間がもう一人スクスクと育っているのだから、当たり前だが。
ボンボンもプリンプリンのそばで支えたい気持ちとこれからを思って多く働きたい気持ちの板挟みだったようだ。
そこをアイリーンが買って出て、ボンボンに『無理しない程度に、でも満足できるように』と言った。
検診を重ねると、お腹の子は男の子と診断された。
蹴る力が強いからそうではないかと思っていたが、わかると『ヤンチャだね』なんて声をかけるようになってしまう。
ある日、リビングでソファに背を預けているとボンボンがお腹の前で呼びかけていた。
「リンリン。ほら、いい音だね」
気が早すぎてガラガラを鳴らしている。
プリンプリンは『あら』と声をあげた。
「ボンボン、もう名前を考えたの?」
「? いや、単に鈴の音。顔を見てからにしようかな、って」
ボンボンにその気はなかったようだ。
だが、プリンプリンはとっさに『かわいい名前だな』と思ってしまった。
自分の名前と似ているし、同じ二音の繰り返しなのはボンボンと一緒だ。
「リンリン、か……」
プリンプリンはボンボンの持つガラガラの音を聴きながら、その名前を反芻した。
そんな十月十日を過ごし、出産時期の五月を迎えた。
職場はすでに休職している。GWの忙しい時期で申し訳なさを覚えたが、同僚はみんな『無事に産まれますように』と送り出してくれた。
GWの時、ボンボンがソワソワしながら出社の準備をしていた。
「稼ぎどきなのはわかっているんだよなあ。でも、おれはプリンプリンがいつ陣痛が来るんじゃないかって気が気じゃないよ」
後ろ髪引かれた様子で、『子どもが生まれた時のために』という名目で購入した黄色いフィアットで出勤していく。
プリンプリンはアイリーンに見守られつつ、午前中はのろのろと家事をしたり庭の手入れをしたりしていた。
前へ突き出したお腹のせいで体が重たい。
花の水やりをしていたが、すこし休憩しようとホースを蛇口へ引っ掛けた矢先だった。
破水した。
足もとを見てギョッとする。
ナンとか縁側まで歩き、母を呼んだ。
元よりアルトコの地域由来の妊婦タクシーと相談していたので、GWという混雑にも関わらず車は確保できた。
だが問題はかかりつけの産婦人科に到着するまでだった。
道路の渋滞が最大の敵。
アイリーンが背中をさすってくれても、波のように来る陣痛には、かすかな車の揺れすら辛い。
タクシーの窓越しに、街を行き交い、長期休暇を満喫する楽しげな人々が見える。中には子連れの家族もいた。
旅行会社に勤めているから家族連れなんて珍しくもない。だが痛みに耐える中、その姿が妙に輝いて見え、また羨ましくあった。
わたしも、あんなふうに子どもの手を繋ぐことができるのかしら……。
病院に辿り着いたころには、すっかり息も絶え絶えだった。
陣痛室のベッドに寝かされ、陣痛の波に苦しまされ……。
看護師は『あともう少し、もう少しの辛抱ですよ』と繰り返してくれたが赤ん坊はなかなか下がってくる気配がない。
診察に来た先生も、
『この子はちょっとのんびりやだな』
と言っていた。
プリンプリンは、アイリーンに汗を拭われながら教わった呼吸を保った。
そのまま、あっという間に午後も三時を過ぎようとしていたころ。
ボンボンから連絡があったらしい。
アイリーンが陣痛室の外で電話を受け、こう言われたそうだ。
『今、ケータイ見ました! プリンプリンが破水だって⁉︎
仕事を切り上げてすぐに病院へ向かいます!』
それを聞くと、永遠に続くのではないかという痛みも和らいだ。
ボンボンがたどり着いたのはそれから二時間後。
『もう、GWだからってギリギリまで外出するんじゃないよッ!』
メチャクチャな文句を垂れながらプリンプリンの病室へ飛び込んできた。プリンプリンは朦朧とする意識の中で微笑んで迎えた。
力強く握ってきた、ボンボンの熱い手のひらを忘れられない。
『プリンプリン、あす有休取ってきたから! おれ、絶対にきみのそばにいるから!
今夜は寝ない! きみだけに辛い思いをさせられないよッ!』
そう言って、アイリーンと交代しながら付き添ってくれた。
さすがにアイリーンは朝から休みなしだったので、ボンボンが言ってそばの座椅子で少し仮眠を取らせたものの……。
アイリーンが寝入っている間、夫婦だけの戦いだった。
のんびりやでも、だんだんと下りてくる赤ん坊。お腹が破裂してしまうのではないか、とプリンプリンは思った。
ボンボンはオロオロしながらも汗を拭いたり、水を飲ませてくれたりと手厚く世話を焼いてくれた。
結局、二人の子が産声をあげたのは時計の針が〇時を回ってからだった。
分娩室でその声を聞いたプリンプリンは、まだ真っ赤な赤ん坊の顔を見ると緊張がとけたのか気を失うように眠ってしまった。
だから目覚めたら翌日の昼で、ボンボンがもう隣で赤ん坊に話しかけていた。
「アッ、ママ起きたねぇ! 一生懸命ガンバッてくれたんだよ、お顔見せてあげな」
大切そうに抱きあげると、プリンプリンの隣にゆっくり降ろしてくれる。
ボンボンの目尻は限界まで下がっていたが、顔には疲労の色がにじんでいた。
ノドがカラカラで上手く声が出ないものの横の赤ん坊を見つめる。
まだ赤みの抜けぬパンパンな顔。小さなお鼻。むぎゅっと閉じられた口。
瞳の色はわからないが、わずかに生えた髪は陽ざしを受けてキラキラと輝いている。
ふしぎな色だ、とプリンプリンは思った。自分やアイリーンのような純粋な銀色でもない、角度によって色味が変わるプリズムカラー。
「あ、お義母さんが言うにはお義父さんゆずりだって!」
察したのかボンボンが教えてくれる。
水さしにストローをさし、プリンプリンの口もとへ持ってきた。
「マリーン王家で、たまにそういう髪の子が生まれるんだとさ! 『虹の祝福』とか言って……よくわかんないけど縁起いいね!」
ちびちびと水を口に含むと体がすうと冷える。
「そう。きっと幸せな子に育つわね」
祈りを込めて言えばボンボンがウンウンと首を振った。
ガチャリと病室の扉が開く。アイリーンだった。
「プリンプリン、起きたのね。お疲れさま……!」
駆け寄られ、額を撫であげられる。
家族に囲まれたプリンプリンは疲労を感じながらも胸がいっぱいだった。
想いが涙として溢れてゆく。
「お母さん。わたし、自分の……ボンボンとの子がすぐそばにいるなんて、信じられない。お腹にいた時のほうがずっと近かったはずなのに。
でもこんなに近くで、甘い匂いがして……手を伸ばしたら、壊れそうで怖くて…………!」
せっかく水分を補給したのに、すぐに泣いては世話ないな。
感慨深いはずなのにどこか冷静に感じていた。
嬉しくて仕方ない気持ちは本当だ。
それともう一つ。
この子が生まれたことへの責任が、胸の内で膨らんでいく。
ボンボンも同じなのか、プリンプリンのか細い手を握る手が震えていた。
それでも彼は言う。
「プリンプリン、大丈夫だよ。おれもまだ夢の中みたいだ……。
でもこれは夢じゃない。現実なんだ。
きみも、おれも、親になった。
今までは見守るしかできなかったけど……今日からはおれもこの子を抱き上げられる。
一緒にガンバるから。そう気負わずに。
おれたち、これまでもナンでも一緒に乗り越えてきたじゃない。
みんなだっているしさ……お義母さんだって!
だから、ねえ、そう怖がらないでほしいんだ……」
♢
プリンプリンに息子が産まれたと知れると、みんなが見舞いに駆けつけてくれた。
オサゲはお祝いに無添加パンを持ってきて、カセイジンは産着を用意してくれて……アルトコ中央テレビの取材は、ボンボンがさすがに断ったけれど。
ボンボンの両親も来てくれた。GWなので旅行に出かけていたらしく、お土産をお祝いがわりに手渡された。
『お役に立てずにごめんなさいね。でも、これからが大変でしょう。
あたしも手を貸すから遠慮なく言ってちょうだいね』
とボンボンの母が申し訳なさそうに言い、
『あのころ、小さなボンボンが連れてきた女の子が孫を産んでくれるなんてなァ……凄いよ。ありがとう、プリンプリンさん』
とボンボンの父は昔を懐かしんだ。
それでプリンプリンもボンボンと初めて出逢った時のことを思い出して、息子の瞳を覗き込んだ。
髪質は柔らかくてボンボンに似ているが、目はとび色でプリンプリン似だ。
『名前は何にする?』
ボンボンが聞いてきた時、プリンプリンは即答した。
『「リンリン」……わたしたちの名前を合わせたの。どうかしら』
ボンボンはきっと驚くと思っていた。
『ああ、あの時の』と言ってくれるだろうと。
だが予想に反し、彼は首をかしげながら、
『ふうん。いい名前だ! 前から決めていたの?』
と笑顔で賛成した。
自分が先に言ったことを覚えていないようだ。
プリンプリンは、すこし寂しく思いながらも、
『そうよ』
と答えた。
後は授乳の講習やらを受け、体も回復してきたらやっと退院だ。
自宅に戻ると、数日しか離れていないのにいやに冷たく感じた。胸にリンリンを抱いていたせいかもしれない。
リンリンはまだどこもふわふわで、しっかり抱かなければ落っこちてしまいそうだ。
リビングで寝たきりのモンキーへリンリンの顔を見せてやると、最近では珍しく上体を起こして食い入るように見つめていた。
『モンキー、これがリンリン。わたしとボンボンの子……』
揺らしてあやすとリンリンが『ふにゃ』と口にした。
モンキーの隣で、キッキも指を咥えて見ていた。
♢
赤ん坊の世話はもちろん楽ではなかった。
わかってはいたが、予想以上だった。真夜中だろうがミルクを飲ませ、おしめを替え……泣いたらずっと抱いていなければならない。
ボンボンも疲れているようだった。
『一ヶ月しか育休取れなかった』と申し訳なさそうにしていたものの、急に一人で赤子の世話を任されたらくじけるところだった。
アイリーンの手助けも有り難かった。ボンボンの母も頻繁に来ては何かと手伝ってくれて、励ましてくれて……。
子どもが産まれたからといって、すぐに親としてやっていける訳ではない。そう痛感した。
昼夜逆転したような生活。
穏やかな昼下がり。窓から初夏の陽ざしが肌を焦がしていた。
テーブルに突っ伏しながら、プリンプリンは一瞬だけ夢を見た。
あの子ヤギの家の夢——。
かつて賑やかだった家はガランとしていた。
部屋にはプリンプリンと背の高い子ヤギだけ。
『他のみんなは、どこへ行ってしまったの?』
プリンプリンが尋ねると、
『外へ出たのさ。みんな、もう大きくなったから怖くないって』
『わたしたちは出なくていいの?』
『きみがここにいるなら、おれもいる』
『あなたは外に出たことがある?』
何度も問いかけていたら、子ヤギは気まずそうに黙り込んだ。
二人しかいないと一方が黙っただけで静かになる。
不安が胸に募っていく。
やがて子ヤギが重い口を開いた。
『……プリンプリンは?』
彼はうつむいて自分の足首を見下ろしている。
視線で追えば、プリンプリンの目にもそれが飛び込んできた。
まるで何かに噛まれたような傷あと。
『どうしたの? 痛くないの?』
慌てて手を伸ばすと、今度は自分の手首に目を見張る。
同じく真っ赤な傷が残っていた。いつのまに?
だが、同時にプリンプリンは気づいた。
自分の手が子ヤギの形をしていないことに。
ハッとして、顔を上げる。
子ヤギの姿を真正面から見ようとして……。
プリンプリンは目を覚ました。
寝汗が吹き込む風に冷やされて気持ち悪い。
ぼんやりしたままの頭を振り、部屋を見まわす。
空のベビーベッドの上で、オルゴールメリーがくるくる回っていた。リンリンがいない。
ボンボンも。
血相を変えてプリンプリンは立ち上がる。
椅子がけたたましい音をたて、倒れた。いつのまにか肩にかけてあったブランケットもハラリと落ちる。
部屋のドアを抜け、家じゅうを駆け回る。
リビングではモンキーがキッキと一緒に寝入っていた。
ここにもいない。
アイリーンには久しぶりの手芸クラブへ出かけるようにうながした……夫婦二人とリンリン、猿の親子だけのはずだ。
どこを探してもボンボンがいない。
プリンプリンは血の気が引くのを感じた。
その場にへたり込み、肩に孤独がのしかかる。
その時に。
かすかだが、声がした。
リビングの縁側のガラス戸の向こうで。
カラカラと戸を開けるとハッキリと聴こえる。
ボンボンが白いブランコに腰かけ、リンリンを抱いて唄っていた。
靴裏だけで器用に揺らし、ゆりかごだと思ったのかリンリンはすやすやと寝息をたてている。
「あ、プリンプリン。おはよう」
こちらに気づいたボンボンが微笑みかけてきた。
プリンプリンはフラついた足取りで近づいていく。
「疲れているのかな……と思ってそのままにしておいたんだけど」
悪びれずに言う。
プリンプリンは汗を拭いながら、
「探したのよ」
と硬い声で告げながら隣へ座った。
するとボンボンも察したのか視線をこちらに向けた。
普段どおりの澄んだ碧い瞳。
「おれがプリンプリンを置いてどこかに行くワケないじゃないか。
そんなことが、今まであった?
……ないだろう?」
確かにボンボンが勝手にどこかへ行ったことはない。
だが先ほどまでの不安は本物だった。
たとえ刹那だったとしても、プリンプリンは本気で恐ろしかったのだ……。
「『どこにも行かない』って言った……」
オサラムームーの夜で交わした約束を持ち出すなんて大人気ない。
プリンプリンはなぜか泣きそうになりながら口にした。
ボンボンが顔を覗き込んでくる。
「うん。だから、行かないよ。ここにいる。
おれも、リンリンも」
プリンプリンも彼を見つめる。
何も疑っていない、少年のころと変わらない笑顔。
情緒不安定と思えるプリンプリンの言動に呆れてもいない。
いつだって彼はまっすぐにプリンプリンを受け止めてくれる。
水を含むスポンジみたいに。
「……よかった」
プリンプリンはボンボンの肩にそっともたれかかった。
外にいたからか汗ばんでいて、Tシャツごしに肌の熱がじわりと伝わってきた。
リンリンが生まれてすぐ。初夏にしては陽ざしの強い、暑い日の出来事だった。