懸念していたことが起きた。否、続いていた。
定時になり、ボンボンがプリンプリンを迎えにくると他の女性社員がワラワラと寄ってくるようになった。
お菓子やら何やらで餌づけして気を引こうとする。
ボンボンもボンボンだ。にこやかに受け取って、
「ありがとうございます」
と言うばかり。
だから何度も声をかけられる。
「迎えにくる時間をズラしてほしいの」
耐えかねたプリンプリンは帰り道でねだった。
季節がすこし進み、日が落ちるのが遅くなっていた。
風切り音で聞こえないのか、ボンボンに『え?』と何度も聞き返される。それがプリンプリンをイラだたせた。
「でも、遅れて来たらだよ。その間プリンプリンは暇じゃない?」
家の前でやっと話に応じてくれる。
夕陽に照らされたボンボンの髪が、溶ける寸前の綿あめのように黄金色に染まっていた。
「お茶でもしながら待つわ……とにかく、みんなとあまり会わないようにしてほしいの」
「なんで?」
「なんで、って……」
聞かれても困る。
『会わないで』が理由そのものだからだ。
ボンボンに他の女の人と会ってほしくない。話してほしくない。あんな、ニコニコと無防備にしないでほしい。
でもそれを伝えたらワガママな気がして、プリンプリンは嘘をつく。
「彼氏だって、ジロジロ見られるのが恥ずかしいから……」
目を泳がせる彼女を見ながらボンボンは『ふうん』と生返事をした。
「おれだったら『こんなにかわいいプリンプリンがおれの彼女なんだぞ〜!』って職場の全員に言って回るけどな。
でもま、いいさ。きみの言うとおりにする」
そして、また頬へ唇を寄せるのだ。
本当はこんな道端でキスをするのも恥ずかしい。
そう思っていたが『ボンボンがこんなことをするのは自分しかいないのだ』と気づくと止める気もなくなった。
プリンプリンはボンボンのジャケットのすそをキュッと握り、彼を今日ばかりは自分のもとへ留めようとした。
約束をしてからボンボンが迎えの時間をバラバラにすると明らかに女性陣と遭遇する数が減った。
何故そんなことをするのか、みんなもわかるのだ。
ボンボンが女性を避けている。プリンプリンもそれを知って、時に仕事が終わっても職場内で優雅にお茶を飲んでいる。
つまり二人の意思なのだと。
プリンプリンより年上の人がほとんどだから、みんなが気を遣ってくれた。
すこし気恥ずかしかったが誰も角を立てることなく接してくれたのが嬉しかった。
それなのに。
約一名、ボンボンに本気で熱をあげる女性がいた。
彼女はプリンプリンと同期で、人懐こそうな女の子。ショートカットが似合い、肉感的な女性だ。
ボンボンのヘルメットの下の噂を聞きつけ、夕方、バイクのそばに寄りーー、
『わァ、ホントだ。すっごいかわいい! いいなぁ、プリンプリン……』
それ以来、隙を見てはボンボンに近づいてきた。
時間をバラバラにしても辛抱強く待ち、プリンプリンと一緒にいる時ですら話しかける。
『急いでいるから』と逃げるように帰ることが増えた。
プリンプリンは彼女に腹を立てていた。
なぜボンボンを執拗につけ狙うのか? 彼はプリンプリンの恋人であり、同期の子からすれば『他人の彼氏』だ。
彼女のボンボンを見る上目遣い。甘えた、媚びるような声。
妙に近い距離感。
すべてがプリンプリンを不安にさせる。
だからボンボンに『もう迎えにこないで』と言ってみたら、
『イヤだよ。変な奴にきみが狙われたらどうするんだ』
と絶対に聞き入れようとしない。
変質者の可能性も入ってはいるだろうが、職場や道ゆく男性も勘定に入れているのだとすぐわかった。
こちらの気も知らないで。
それなら彼女が話しかける時に愛想よくしないでほしい。
後から困った顔をしていても、わかる。女の子から馴れ馴れしくされて有頂天になっていることくらい。
昔からそういうところがあるーーかつての冒険で最初の国オサラムームーを訪れた際、ジョン・ターカーの婚約者メリーさんに色じかけされたときだってデレデレしていた。
その時はプリンプリンもまだ恋心というものはわかっていなかったが、彼のだらしなさを叱ったことがある。
『メリーさんに会いに来たんじゃないのよ』
と。
今や、二人も大人になって恋人どうしになったというのに。
彼は余計に気をつけるべきなのだ。
もっと安心させてほしい……。
嫌な思いが常に腹の底に満ち、胃の痛い日々が続いていた。
自分はどうしてしまったのだろう。定時が近くなると、ボンボンはあの子に捕まっていないだろうかと心配になる。
温かいお茶を淹れ、彼のバイクが事務所の前に停まるのを待った。
来た瞬間に駆け出さなきゃ。彼女より早く辿り着かなきゃ。
ぐるぐると思考が堂々巡りして、自分の考えに飲み込まれてしまう。
それで反対に気づかなかった。
ボンボンがとっくに迎えに来ていたことを。
ハッと息を呑み、お茶を飲み下し、カバンを片手に外へ出る。足元がフラついて絡まりそうだった。
出るのが遅かったせいかボンボンは定位置におらず、道路をもう少し先に行った路肩まで移動しているようだ。
そこまで足を運べば先客がいるのが目に入る。
あの子だ。
振り払えなかったのかボンボンも女の子の話にウンウンと相づちを打っている。
早く切り上げて去ればいいのに。
だがプリンプリンは知っている。
自分を待っていたからこそボンボンが遠くまで行けなかったんだ、と。
それは嬉しい。けれど、あの子を拒まず延々と話に付き合っているのはどうだろう。
どうして、そんなに嬉しそうな顔をしているの?
靴の裏に根でも張ってしまったかのように動けない。
隠れて二人の様子を覗くのは苦しかった。
それを嘲笑うかのように、あの女の子がボンボンへ近づく。腕へしがみつき、顔を上向け、何やら甲高い声で喋りかけている。
彼女が触れた瞬間にボンボンが赤面した。
「……は?」
腕を掴まれたままボンボンは『え〜』だの『ウーン』だの落ち着かない様子でチラチラと彼女を見下ろしている。
困ったふりをしているが確実に浮かれていた。
これまで自分の胸の内だけに留めていた何かが、首をもたげたようにプリンプリンは感じた。
一歩踏み出すと、後は早足で二人へ近づく。
「遅れてごめんなさい」
自分でも驚くほど冷ややかな声だった。
ボンボンが白い髪を揺らして、青ざめた顔を向けてくる。
「あ、ああ……プリンプリン。お疲れさま」
そっと彼女の腕をほどいた。
離された女の子とはいうと不満顔だ。
プリンプリンはその子を一瞥してから、ボンボンの懐へずいと入っていく。
「お母さんがね。買い物してきてほしい、って。
だから早く行きましょう」
嘘だった。
そんなことは頼まれていないが、もっともらしい理由を仕立て上げた。前と同じ、ボンボンを他の女性から引き剥がすために。
すっかり卑怯になってしまった。
女の子が何か言いたげだったが、プリンプリンはバイクの後ろに座って、
「またあした」
と告げる。
ボンボンもヘルメットを被る前に、
「さよなら」
と彼女に言った。
相手も二人に「またね」とよこした。
そしてプリンプリンとボンボンはその場を離れた。
♢
「アイリーンさん、本当にしらたきを買ってこいなんて言ったの?」
家の前でボンボンがスーパーの袋を取り出した。
プリンプリンは正直に答える。
「いいえ。冷蔵庫になかった気がしたから買っただけ」
「じゃあ、あれは嘘? あの……同僚の子の前で言ってたこと」
「そうよ」
いつになく素っ気ないプリンプリンに、ボンボンは完全に怖気づいているようだった。
曇天で、夕陽も届かず、ただただ薄暗い夕方。
会話が途切れれば近隣の家の生活音が聞こえてくるほど閑静な住宅街。
「ねえ、プリンプリン。何を怒っているんだい」
プリンプリンは顔をぷいと背ける。
「別に。怒ってなんていません」
「嘘だよ。さっきから声にトゲがある。
わかるんだ……おれ、きみのことなら何でも」
食い下がるように小首をかしげ、見つめてくるボンボン。
チラリと見やれば思い詰めた表情。
でも嘘つき。
「あなた、わたしの気持ちなんてわかってないじゃない」
プリンプリンの指摘にボンボンが碧の瞳をパチパチとさせる。
彼はグッと口を閉じて視線を落とした。
「……言いすぎた。でも、怒らせたことくらいわかるさ。
理由を教えてよ。悪かったところがあれば直すから」
ねえ、とダメ押しでねだられた。
プリンプリンはすがるような目つきのボンボンを放っておくことができない。
言葉を慎重に選ぼうとする。
「……あの子ともう会わないで。近づいたとしても、無視して」
「あの子、って。最近しつこい子?」
「ええ。あの子、どうもあなたを気に入っているみたいなの」
ボンボンはぼうっとした様子で聞いていたが急に表情を引き締める。
「いや、でも。プリンプリン、そんなことをしたら職場でのきみの評判が下がるかもしれないから……」
真剣に考えている、といった顔。
それが面白くなくて、プリンプリンはつい言い方がキツくなってしまう。
「あなた、やっぱりわかってないじゃない。
なぜ断るの? あの子ともっとお話ししたいの?」
「そんなことは……でも、職場の空気って大事だよ! 仲の悪いと報連相すらままならないことがあってさ。
それに関係にヒビが入ったらきっとプリンプリンも苦しいと思うんだよ。だから、もっと考え」
「人のものを取ろうとする人との関係なんて、どうなったって構わないわ!」
カッとなり、言葉がほとばしった。
いちど飛び出た言葉は消せない。
ボンボンが固まり、『あー……』と覇気のない声を出していた。
そして、また訪れる沈黙。
やってしまった、とプリンプリンは悔やむ。
ボンボンから幻滅されても仕方ない言い方をした。地面を見つめて、彼がどんな顔で自分を見ているかと怖くなる。
こわごわと顔をあげて目を疑った。
ボンボンがわずかに口角をあげ、笑っているように見えたからだ。
「……どうしたの?」
聞けばボンボンが頬を押さえて笑みを引っ込めようとする。
だが顔に触れれば触れるほど口元がにやけら瞳も糸のように細まる。
「あ、あれ? ごめん。まじめな話をしているのに」
顔を撫でるのはボンボンが照れた時によくやるしぐさ。
そんな彼にプリンプリンはうすら寒いものを感じていた。
彼は何を喜んでいるの?
何を照れているの……?
今、プリンプリンは確かに怒った。理不尽に彼をなじった。
理解が及ばず、思わず後ずさる。
震える手を握りしめていたら、前からバッと勢いよく掴まれた。
「プリンプリン! ごめん……おれ、あの子とはもう喋らないよ。逢いに来ても、無視する。
きみが望むなら」
ボンボンの碧の瞳はいつもどおり澄んでいて、自分の恐怖に歪む顔が映り込んでいた。
ボンボンから両の手で手のひらを包み込まれる。
「……きみに、そういう感情はないんだと思ってた」
「え?」
聞き返すもののボンボンは半ばひとりごとのようにポツリポツリと語る。
「きみは嫉妬なんてしないんだと思っていた。いつも素直で、まっすぐで、曲がったことが嫌いで……。
でも、きみにもそういうところがあるんだね。よかった」
ボンボンの安堵の言葉とは裏腹にプリンプリンの違和感は増すばかり。
身を強ばらせていたら、影がかかる。
唇をかすめるだけのキス。
「かわいい。そんな心配しなくても、おれにはきみしかいないのに」
プリンプリンの手へボンボンが朱に染まった頬を寄せた。
普段より低い声で言われると耳にじっとりと残る。
しばらく彼はプリンプリンの温もりを享受していたが、やがて満足したのか、ひらりとバイクへ飛び乗った。
「じゃあね、プリンプリン! また明日も迎えにいくから」
明るい調子で手を振られる。プリンプリンもつられるように振り返した。
バイクに引っ掛けてあったヘルメットへボンボンが手を伸ばし、磨かれた表面を撫でる。
彼は嬉しそうにプリンプリンへ声をかけた。
「ねえ、プリンプリン。きみって……。
おれのこと、本当に好きだったんだねえ」
言葉の真意がわからず、プリンプリンは息を呑んで立ち尽くす。
対照的にボンボンは上機嫌のままヘルメットを被り、鼻歌まじりにバイクを走らせた。
彼の弾んだ声がなくなると、この一帯は本当に静かだ。
名残り惜しむようにプリンプリンは唇に触れる。
「おかしなボンボン……恋人なんだから、好きなのは当たり前じゃない」
言ってみて『あれ?』と疑問に感じた。
何となくチグハグな気がする。
『恋人だから、好き?』
好きだから恋人になったのではないのか?
好きじゃないなら、どうして他の女性の影に腹を立てるのか?
やっぱり、わたしはボンボンのことが好きなんだ。
それを……ここまで順序立てないと飲み込めないのは何故だろう。
どこか欠落しているのだろうか?
急に自分で自分が信じられなくなる。
アイリーンとモンキーが心配して迎えに来るほど、プリンプリンは長い間ひとりで佇んでいた。
体は芯から冷え切り、頭も冴えて何か重要なことを思い知ったような気になる。
その後ボンボンはあの同期の子を約束どおり避けるようになった。
冷たい態度に相手も脈がないと悟ったようだった。
彼女はいずれボンボンを追うのをやめ、別の男性と良い仲になり、結局その人と結婚してプリンプリンより先に寿退社した。
終わってみれば、たったそれだけの話だった。
プリンプリンもヤキモチを妬いただけ。
ボンボンを他の女に取られたくない――女性として当たり前の感情を抱いただけ。
しかしプリンプリンは本当にこれでよかったのかと自問した。
ボンボンを無理やり従わせて、他の人からの好意を退けさせた。
でも、それ以上に恐ろしいのが。
この結果にひどく安堵する自分もいるという事実だった。
それがプリンプリンの心の一角を、いつまでもいつまでも消えずに黒く染め上げる。
彼女は、自分をこそ恐れた。