『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
調べ物が一段落してから、三人はよく夜に集まるようになった。仕事の後、奥殿の居間に、誰からともなく。
言い出した者はいないらしい。栞が文書の整理を居間に持ち込み、小夜が茶菓子を狙って寄りつき、風音が「うるさいから見張りに来た」と言いながら一番長く居座る。そういう寄り方だと苑子から聞いた。居間の茶菓子は、いつの間にか三人分になっていた。この間は明け方に、居間から毛布にくるまった三つの塊が見つかったらしい。苑子は起こさずに、火鉢だけ足して下がったと言った。報告の声が、少し楽しそうだった。
その夜、書き物を終えて廊下に出た。灯りはほとんど落ちている。奥の居間の前に差しかかったとき、中から笑い声が漏れた。
「——だからさ、今日の小夜、おかしかったって話をしてるの」
風音の声だった。俺の前で話すときの、あの折り目のついた声より二段は緩んでいた。足が止まった。
「おかしくないですよ」
「栞に肉串あげてたでしょ」
「あげましたけど。一本ですよ? 塩の」
「塩なら普通なんですか?」と栞の声。
「タレは限定なので。夕方には売り切れる方なので。……って、そういう話じゃなくて」
「そういう話。あの小夜が肉串を人にあげて、しかも最近ずっと機嫌がいい」
「……そうですか?」
「鼻歌、聞きました」と栞。「厨で。三回」
「三回て。数えてたんですか」
「……つい」
「ついで数えないでください」
くすくす笑う声がした。湯呑みの触れ合う音。誰かが座り直す衣擦れ。
「で、何があったの」
「別に」
「別に、ねえ」
「……なんですか、その顔」
「どんな顔よ」
「にやにやしてます」
「してない。栞、私、にやにやしてる?」
「……少し」
「裏切ったな」
「事実なので」
また笑い声。それから、少しの間があった。観念したような息の音。
「……しました」
「した?」
「最後まで。……私が頼んだので」
がしゃん、と何かが倒れた。
「湯呑み——」
「いい、拾うから。いや、待って。ちょっと心の準備が」
「そっちに要るんですか、準備」
「要るでしょ、こういうのは……そうか。……そうかあ」
「風音さん、湯呑み、まだ転がってます」
「わかってる」
わかっていない音がした。畳を転がって、どこかに当たって止まった。
「……おめでとう、ございます……?」
「なんで疑問形なんですか」
「わかりません、こういうときの正解が」
「私もわからない」
「本人もわかってません」
盗み聞きの趣味はない。ないが、この内容を聞き捨てて通れるほど無頓着でもない。壁際で足を止めた。
「……で。どうだった、とか、聞いていいの?」
「聞きたいんですか」
「……参考までに」
「参考にするんですか?」
「いいから」
「ふふ。……恥ずかしくて死ぬかと思いました。ぜんぶ、自分で、なんですよ。言葉も、動きも、ぜんぶ」
「ぜんぶ……」
「欲しいものは口に出して言え、って。言うまで進まないんです。こっちは恥ずかしくて溶けそうなのに、あの人、涼しい顔で待ってるんですよ」
「待つんだ……」
「待つんです。急かしもしない。それがまた」
「それがまた?」
「……なんでもないです」
「今の間は何」
「なんでもないです、って」
「小夜さん、耳が赤いです」
「暗くて見えないでしょう」
「見えなくても、わかります」
「最初に、打算はあるか、って聞かれましたし」
「何それ。色気がないな……」
「でしょう。だから、あります、半分は計算です、って答えました」
「答えたんだ、正直に」
「嘘をつくと進まないんですよ、あの人。……で、終わってみたら、ぜんぶ自分で決めた形になってるんです。ずるくないですか、あの組み立て」
「盤面と同じだ……」
「符士はすぐ盤面で例える」
「符士だから」
栞が小さく咳払いをした。
「……あの。ずるいと言えば、なんですけど。あの方の褒め方、ずるくないですか」
「わかる」
「即答」
「唯一じゃない、だが役に立った、って言われて……私、しばらく廊下から動けなくて」
「何それ」と小夜が笑った。
「笑いごとじゃないです」
「私は報酬を倍にされた」と風音が言った。「相場を言ったら、安い、倍にしろって」
「倍」
「値切られる備えはしてたのに、逆が来た。……ああいうの、どう受け取ればいいの」
「素直に喜べばいいと思いますよ」
「素直……素直って何だったかな……」
「重症です」
「小夜にだけは言われたくないな」
「私は自覚がある分だけ、ましです」
「開き直りました」と栞。
俺は暗がりで額を押さえた。引き返す機会は、たぶんもう過ぎている。
「……あの、私も、一つ聞いていいですか」栞の声が少し小さくなった。「お二人は……あの方の陽の気、平気なんですか」
「平気なわけないでしょ。近くに立つと符叢が勝手に温まるし。符士としては、正直、迷惑」
「私は慣れました」
「慣れるものなの、あれ」
「慣れます。……たまに、わざと強くされてる気がするときはありますけど」
「あるある……いや、あるあるじゃなくて」
「今、あるあるって言いましたね」
「……私は、目を見ようとすると、その、体の方が先に……」
「言わなくていい」
「聞かなかったことにしますね」
「……お二人とも、優しくて意地悪です」
「褒め言葉として受け取っておく」
湯呑みに茶を注ぐ音がした。それから、風音が妙に軽い調子で言った。軽く言おうとして、失敗している調子だった。
「そういえばさ。……契約書に、変な条があるの」
「どんな」
「……閨のことは、この契約に書かない、って一条。末尾に、それだけぽつんと」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……なに、その沈黙」
「書いてある、じゃなくて」と栞。「書かない、って書いてあるんですか」
「そう。書かない、とわざわざ書いてある。……どういうつもりなんだと思う?」
「風音さん」と小夜が言った。「それ、何度も読み返してますね」
「読み返してない」
「契約書の畳み目、その条のところだけ緩んでません?」
「……なんで知ってるの」
「今ので確定しました」
沈黙が落ちた。
「…………あ」
「自白でした」と栞。
「二人とも忘れて。今すぐ」
「無理です」
「無理ですね」
「メモも取らないで」
「頭の中だけです」
「それが一番質が悪いんだって……」
三人が声を殺して笑った。扉越しにくぐもった、けれど確かに楽しそうな笑い声だった。
「……ね、悔しかった話もしていいですか」と小夜が言った。「任務。三日って言って、四日かかったやつ」
「あれは四日で上出来でしょ」
「言った日数は守りたかったんです。宿替えは読めたはずだし。……次は読み切ります」
「もう次の話してる」
「次があるので」
当たり前のようにそう言った。使い捨てられる前提で生きてきた娘の口から「次」が当たり前に出る。それがどれほどの変化か、たぶん本人は気づいていない。
「……いい言葉だね、それ」
「でしょう。気に入ってます。次があるから、失敗の反省もできるんですよ。使い捨てだと、失敗はそこで終わりなので」
「……たまに真面目なこと言うよね、小夜は」
「たまにじゃないです。いつもです」
「私も、名簿を書いてるとき、ずっと手が震えてた。同じ番号の人が他にもいて、私だけ拾われて。……でも最後まで書けた。一人だったら、途中で畳んでたと思う」
「……もう一人じゃないですしね」
「そうだね」
短い返事だった。短いが、突き放す短さではなかった。
「……私も、あの、偽物の文書を見つけたとき。怖い話のはずなのに、嬉しかったんです。私にも見つけられるものがあるんだ、って。……不謹慎でしょうか」
「不謹慎なものですか。栞さんが見つけなきゃ、偽物は本物のままだったんですよ」
「……はい」
菓子を齧る音がしばらく続いた。
「あ、そうだ」と小夜が言った。「次の市も、行きます? 三人で」
「行く。この間のタレ、売り切れてたし。次こそ買う」
「開店と同時に並びますか」
「符士が肉串の列に並ぶのか……」
「並ばない符士に、タレの何がわかるんですか」
「妙に深い話になってきた」
「……私も、行きたいです」と栞が言った。「この間、値切るの、見ているだけだったので。次は、その、やってみたくて」
「栞が値切るの」
「はい。……だめでしょうか」
「だめじゃないけど。あの調子で、まけてください、って言うんだ……」
「押しに弱い店を狙いましょう。私、把握してます」
「裏路地の知恵の使い方が違う」
栞の笑い声がした。遠見に来たばかりの頃には聞いたことのなかった、声を上げて笑う笑い方だった。笑いが収まって、湯呑みの置かれる音がした。話の切れ目の音だった。
「……じゃあさ、栞は」と風音が言った。「あの人のこと、どう思ってるの」
「好きです」
「早い」
「即答でした」
「……嘘をついても、仕方がないので」
「小夜は」
「……たぶん、頼んだ夜より前から、です」
「風音さんは」と栞が聞いた。
「私は契約者だから」
「顔が答えてます」
「見えないでしょ、この暗さで」
「声でわかります」
長い息を吐く音がした。
「……契約の日にね、欲しい、って言われたの。符士としてですか、って聞き返したら——どう聞こえた、って」
「うわ」
「うわって言わない。……あれからずっと、あの返しの意味を考えてる。……考えてる時点で、答えは出てるんだろうね」
「出てますね」
「出ています」
「……あーあ。お前たちに聞かせる話じゃなかったな、これ」
「でも、悪くないでしょ。こういう夜」と小夜が言った。
「……悪くない。帝都には、こういう話をする相手がいなかったし」
「私も、いませんでした。話し相手は、決まった大人だけだったので」
「私は話し相手どころか、条件もなかったです。……だから、今が一番いいんですよ」
栞があくびを噛み殺す気配がした。
「ほら、眠いでしょ。はいはい、明日も調べの続き。解散。……この話、部屋の外に出さないこと」
「出しません。次の集まりで続きは聞きますけど」
「……ほんと引かないな、お前は」
「あと、次は私が茶菓子を持ってきます。厨のと違うの、市で見つけたので」
「限定のやつ?」
「限定のやつです」
「……楽しみにしてる」
襖の開く音と、おやすみなさい、が三つ重なった。ばらばらの言い方で、同じ言葉だった。
俺はそっと廊下を引き返した。
角を曲がったところに苑子が立っていた。盆に急須を載せて、何もかも承知の顔をしていた。
「……差し入れの、おかわりです」
「そうか」
「お聞きにならなかったことに、しておきますか」
「そうしておけ」
「承知しました」と苑子が言った。盆を持ち直して、一言だけ添えた。「……よい夜でございますね」
返事はしなかった。苑子も返事を待たずに行った。
自室に戻って、灯りを落とした。
倍にした報酬。足した条件。褒めた言葉。どれも欲しいものを欲しいままにしておくために打った手で、その説明に嘘はない。ないが——受け取った側では、あれが別の意味に読み替えられていた。訂正しに行く気は、起きなかった。
天井を見ながら、今夜の声を思い返した。俺の前では折り目を崩さない風音が、あの部屋ではよく笑う。使い捨てられるだけだった小夜が、次の話をする。名前に慣れなかった栞が、好きです、と即答する。どれも俺の指図の外で起きたことだ。
欲しいと思った符士を、欲しいと言って、手に入るまで手を尽くす。俺がやってきたのはそれだけだ。その先であの三人が何になっていくのかは、もう俺の盤の外で決まっていく。盤の外の音を、聞くともなしに聞いて、悪くないと思っている自分がいた。
壁の向こうの笑い声は、もう聞こえない。よく笑う夜だった。