『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
朝の星宮邸は、花見だった。
季節外れの満開に、屋敷の者が続々と庭に出てきた。小夜はどこからか団子を調達して桜の下に陣取り、風音は幹に手を当てて首をひねっていた。
「秋に桜って、いいことの前触れ? 悪いことの前触れ?」
「団子が食べられるので、いいことです」
「あんたの基準はそれだけか」
栞は少し離れて、落ちた花弁を一枚、手のひらに載せていた。
その目がふと上がって、渡り廊下の俺と合った。
何か聞きたそうな目だった。俺は何も言わなかった。栞も聞かなかった。花弁を袂にしまって、二人のところへ戻っていった。
——言わない、と決めていた。
昨夜の桜の理由も、星の揺れの意味も。言えば、あの娘は心に蓋をする。喜ぶたびに世界が応えるのだと知れば、喜ぶことを恐れるようになる。せっかく外れた蓋を、自分で閉め直す。
それは困る。守るためにも、困る。——それだけではない理由でも、困る。
使う、という言い方を、俺はまだやめていない。
────
評定は昼前に開いた。俺と、英稟と、苑子。三人だけの評定だ。
苑子が写しを机に広げた。紅炉家の廃立宣言。昨夜の早馬が運んできた本文だ。
俺は声に出して読んだ。
「——帝位の継承は、個人の資質という不確かなものに委ねられるべきではない。神託と血統への妄信が、大符闘祭の醜態と神廟の失態を招いた。帝国に必要なのは英雄ではなく、揺るがぬ制度である。よって我ら諸家連合は、継承の安定のため、諸家の抵抗が最小となる継承者を推戴し——」
「……よくもまあ」と英稟が低く言った。
「敵ながら、宣伝文としては上等だ。怒りの言葉が一つもない。全部が費用の言葉で書いてある」
「費用、ですか」
「女帝が嫌いだとは一言も書いていない。『抵抗が最小の継承者』。そう書けば、男を立てる話が、算盤の話になる」
英稟の眉が動いた。怒りを抑える顔だった。この女の家は千年、帝室の藩屏だ。
「帝都の状況は」
苑子が続けた。「紅炉軍は皇宮の西半分と、官衙街を制圧。従弟殿を『新帝』として推戴する式の準備に入っています。外戚派は東で抗戦、宰相派は諸家への使者を乱発——ただし諸道の符家は、いずれも旗幟を明らかにしていません」
「様子見か」
「はい。……そして、これが本題ですが」
苑子が二枚目を出した。
「紅炉軍の先鋒、約二千。編成を終えて街道を東へ。向かう先は——遠海領です」
英稟が顔を上げた。
「……なぜ、真っ先にうちなのですか。帝都の平定が先でしょう。星宮が藩屏だとしても、順序が」
「順序は合っている」と俺は言った。「奴らの目的から見れば、な」
俺は昨夜から組み上がっていたものを、口に出すことにした。この二人には出していい。
「英稟。廃立派の目的はなんだ」
「……従弟殿の即位です」
「即位に要るものは」
「……身柄と——」英稟の目が見開かれた。「宝庫」
「そうだ。符帝の身柄と、レガリア。両方が消えている。両方が揃わない限り、あの即位式は永遠に仮のままだ。だから探す。国中を探すより、当てがあるなら軍を出す」
「当て、が——ここに」
「ある」
俺は庭の方向を顎で示した。障子越しにも、白いのがわかる。
「昨夜の桜だ」
「……あれが」
「あれだけじゃない。ここ半月、夜空の星が揺れている。白陽——俺の茶屋の対局相手が言っていた。心が動けば神が動く。心の大きい人間ほど、大きく揺らす。符帝家は、いちばん大きな神々と通い合う家系だと」
苑子が静かに息を吸った。
「……栞様が、遠見で、その」
「幸せになるほど、だ」と俺は言った。「帝宮では重圧が蓋をしていた。ここでは外れている。夜ごとに、星が揺れて、札が温もって、庭が咲く。——探気の術士がいれば、遠くからでも拾える。探しものをしている人間になら、わかる」
沈黙が落ちた。
英稟が先に破った。
「……栞殿には」
「言わない」
「……それは」
「言えば蓋をする。蓋をした符帝に、あの符叢は握れない」
英稟は少しの間、俺の顔を見ていた。何かを言いかけて、やめて、頭を下げた。
「……承知しました」
苑子は何も言わなかった。ただ、次の紙を出した。仕事の速い女だ。
「もう一件。本日昼、市の入り口に一行が着いています。触れ書きには『帝室財産検分使』と。紅炉家の家宰が正使、随行の符士が八名」
「検分使」
「帝室財産の保全を名目に、諸道の蔵を検める権限を主張しています。……むろん、正当な勅許はありません。ですが書面の体裁は整っています」
「探索網の先っぽか。軍より先に着く駒だ」
「随行の符士について、面白い報告が」と苑子は言った。「宿で符叢の手入れをしているところを、うちの下女が見ています。八名——全員、同じ構成だそうです」
「同じ、とは」
「火と金。歯車の意匠の使役符。宝具の枚数まで、ほぼ同一と」
俺は手を止めた。
八人の符士が、同じ符叢を使う。
符叢は符士の履歴だ。家伝の札、拾った札、選んだ札。同じになるはずがない。同じになるのは——選ばせていない場合だけだ。
「……軍隊だな」
「は?」
「符士の軍隊だ。個人の練度に頼らず、同じ型を大量に配る。誰が使っても同じ強さになる符叢を、規格で量産する。……ヴァンダリアのやり方だ」
背中の産毛が立つ感覚があった。嫌悪と——認めたくないが、感心が半分ずつだ。
符闘は個人の芸だという常識を、根本から捨てた設計思想。宣言文と同じ匂いがした。英雄ではなく、制度。
「検分使への返答は」
「引き延ばせ。格式を盾に三日稼げ。……その間に、受ける形を決める」
「承知しました」
────
評定の帰り、廊下で冬子に呼び止められた。
「世一様。少しだけ」
「なんだ」
冬子は懐から星読みの帳面を出して、開かずに、また閉じた。
「……ここ半月、星が変です。泣いたり、笑ったり、します」
「星が笑うのか」
「例えです。ただ——三年分の記録を見返しても、こんな出方はありません。それが全部、この屋敷の真上です」
冬子の目は静かだった。詮索の目ではない。取引相手の目だ。
「……何を飼っていらっしゃるんですか、とは聞きません。聞かない代わりに、一つだけ」
「言え」
「守る戦ですね?」
「そうだ」
「なら、早雲は動きます。母屋に文を出しました。浅葱が名代で来るでしょう」
それだけ言って、冬子は頭を下げて去った。
借りが一つ増えた。いや——あれは貸しを作りに来たのか。どちらでもいい。旗が一本増えた。
────
夜、英稟が来た。
夜着の上に羽織を重ねて、廊下に膝をついていた。
「……お側に、よろしいですか」
「入れ」
英稟は部屋に入って、灯りの届く場所に正座した。昼の評定の顔が、まだ半分残っていた。
「眠れないか」
「……考えごとが、止まりません。軍の編成、領内の民の退避、符叢の調整——考えるべきことは考え終えました。それでも、止まりません」
「そうか」
「……世一様。命令を、ください」
英稟は頭を下げた。
「考えごとが止まらない夜は——命令が、一番効きます」
俺は灯りを一つ落とした。
「脱げ」
「……はい」
衣擦れの音がした。英稟は羽織を畳み、夜着を畳み、順番に、丁寧に、全部畳んだ。畳み終えて、裸で座り直した。
「四つん這いになれ」
「……はいっ」
即応だった。声より体が先に動いた。三年かけて入れた躾は、戦の前夜でも揺るがない。
白い背中が寝具の上で伏せた。腰が上がる。大符闘祭を勝ち抜いた符士の体だ。無駄がなく、しなやかで、それでいて抱くところは柔らかい。
俺は指を這わせた。首筋から、背骨を辿って、腰へ。
「……っ♡ ……く……ぅ……っ♡」
「声を殺すな」
「……はい……っ♡ ……ぁ……っ♡♡」
濡れていた。触れる前からだ。
「命令と言った時点でこれか」
「……申し訳、ありません……っ♡ ……体が、覚えて——っ♡♡」
「良い体だ」
後ろから、一息に入れた。
「——あぁっ♡♡♡!」
英稟の背中が反って、肘が落ちた。深い。何度抱いても、この女の中は俺の形を覚え込んでいる。
「数えるか」
「……っ♡♡ ……は、いっ……数え、ます……っ♡♡♡」
久しぶりの符牒だった。英稟の中が、それだけで締まった。
突いた。
「……ひとつ——っ♡♡♡」
突いた。
「……ふたつ——っ♡♡♡ ……あぁっ♡♡」
「速いぞ」
「……も、申し訳——みっつ——っ♡♡♡♡」
ぐちゅ……ぐちゅ……。
夜着の畳まれた横で、大符闘祭一位が数を数える。八つで最初の絶頂が来た。数えられなくなって、数え直させた。二巡目は五つで崩れた。
「……もう——かぞえ、られま——っ♡♡♡♡ ……せいちさま——せいちさまぁ——っ♡♡♡♡」
「最後まで数えろ」
「——ここのつっ♡♡♡♡ ……とお——っ♡♡♡♡♡!!」
十で、奥に出した。
英稟の全身が痙攣して、腕が完全に落ちた。俺はその腰を支えたまま、最後の一滴まで注いだ。
「……あ……♡♡ ……はい……っ♡ ……たしかに……いただき、ました……♡」
しばらくして、英稟は俺の隣に崩れたまま、天井を見た。
考えごとの止まった顔になっていた。
「……世一様」
「なんだ」
「……昨夜の稽古で、甕星が礼を執りました」
「見た」
「星宮は千年、藩屏を務めてきました。ですが甕星があの札たちに頭を垂れるのを見たのは、私が初めてです。千年で、私が」
英稟は横を向いて、俺を見た。
「……この戦、私の代で来たことを、誇りに思います。眠くなってきたので、今のは寝言です」
「そうか。いい寝言だ」
英稟は目を閉じた。すぐに寝息になった。
俺は灯りを消して、窓の外を見た。
桜はまだ咲いている。夜目にも白い。
帝都では、規格で刷った符叢が八つ、蔵の鍵を寄越せと言っている。その後ろから軍が二千、街道を東へ歩いてくる。歯車は回り始めた。誰が使っても同じ強さになる、巨大な機械が。
こちらの手札は、季節外れに咲き狂う桜と、決め方を覚え始めた符帝と、数えながら堕ちる一位と——嵐を少しだけ待っていた、俺だ。
規格の外の札ばかりだった。
上等だ。規格は、規格の外から崩れる。
────
桜はまだ咲いていた。
三日目になると、屋敷の者は驚かなくなった。代わりに街の空気が変わった。挙兵の報は市中にも届いている。季節外れの満開を見上げる目に、めでたさより不安が混じり始めていた。
その庭先で、風音と栞が符闘をしていた。
貸し符叢だ。屋敷の稽古用に置いてある、ありふれた木属性と水属性の束。縁側に盤を挟んで、二人が向かい合っている。隣で小夜が団子を食い、栞の膝で夜長が丸くなっていた。
俺は渡り廊下で苑子の書類を検めながら、聞くともなしに聞いていた。
「——ほら、そこ。狐、出せるよ」
「出せますね」
「出さないの?」
「出しません。……出すと、次のあなたの早業が、わたしの狐に刺さります。持っているでしょう」
「……なんで分かるかな」
「二手前から、一枚だけ大事に持っているので」
風音が手札を伏せて、栞の顔をまじまじと見た。
「栞。あんた、筋がいいね。……誰かに習った?」
「……ひみつです」
「ひみつって顔じゃないよ。にやけてる」
「にやけて、いません」
「にやけてます」と小夜が言った。「口の右端が、二分ほど上がってます」
「小夜さんまで……っ」
栞が両手で口を押さえた。膝の夜長が迷惑そうに顔を上げた。
やがて対局は栞が勝った。派手な手は一つもなかった。出さない手と、待つ手と、一枚を大事にする手だけで、風音の攻め筋が全部空振りして終わった。
「……なんか、悔しい負け方」
「ふふ」
「笑った!」
そこへ、雪が来た。
腕に澄を抱いていた。生後半年になる娘は、外の空気に機嫌がよくて、あうあうと何かを喋っていた。
「散歩ですか」と風音が聞いた。
「桜のうちに、見せておこうと思って」と雪は言った。「澄、ほら。咲いてるよ」
澄は桜を見なかった。栞を見た。小さい手が、栞の方に伸びた。
「あら」
雪が栞の前に立った。
「抱いてみますか」
「——え」
「はい」
雪は返事を待たなかった。ひょい、と澄を栞の腕に載せた。夜長が膝から退避した。
栞は固まった。
「ゆ、雪さん——わ、わたし——抱き方が——」
「腕、そう。首の後ろ、そう。……できてます」
「で、できて——」
腕の中で、澄がきゃっきゃと笑った。
栞の強張りが、ゆっくり解けていった。
「……あたたかい」
「赤ちゃんは、あったかいです」と雪が言った。
「……重い、です。思っていたより、ずっと」
「命の重さです」
栞は澄の顔を、長いこと見ていた。
「……わたし、赤子を抱くのは——初めてです」
「え」と風音が言った。「親戚とかは」
「……いませんでした。抱かせてもらえる距離に、赤子が」
その言い方に含まれるものへ、風音と小夜は踏み込まなかった。身寄りをなくした書記見習い、という表向きが、その一言を悲しい方向に説明した。半分は、本当だった。帝宮に赤子はいなかった。抱いていい距離に、人がいなかった。
澄が栞の指を掴んだ。
小さい五本の指が、栞の人差し指を、力いっぱい握った。
「——」
栞の顔が、くしゃりと崩れた。泣き笑いのような、見ていて胸の詰まる顔だった。
頭上で、音がした。
満開だったはずの枝に、さらに花が開く音だった。ほころびきっていなかった蕾が、ひと呼吸で全部ほどけて、庭の白が一段、濃くなった。
風もないのに花弁が回った。
「……すごい」と雪が上を見た。「祝われてるみたい」
誰が、とは誰も言わなかった。
俺は書類に目を戻した。目を戻しただけで、内容は頭に入らなかった。
——この地の主を、祝うかのように。
その光景の意味を知っているのは、この庭で俺一人だった。知っていて、黙っている。黙ったまま、あの娘の腕の中の重さが「守りたいもの」の一覧に書き加えられていくのを、俺は帳簿のように読んでいた。
読んでいる自分に、少しだけ嫌気が差した。少しだけだ。
────
昼過ぎ、執務室で書類を捌いていると、音もなく襖が開いた。
小夜だった。
音もなく閉めて、音もなく歩いてきて、机の横に立った。すん、と鼻が鳴った。
「……英稟さんのにおい。ゆうべの」
「そうだ」
「隠しもしない」
「隠す理由がない」
「……ですよね」
小夜はもう一度、すん、と鳴らした。
「栞のにおいも、します。おとといの」
「それも隠さん」
「栞のは、いいです」と小夜は言った。「あの子は、わたしたちの、なので」
理屈はよくわからなかったが、通っているらしかった。
「で、本題は」
「……わたしのにおいが、薄くなってます」
小夜は俺の椅子の肘掛けに手を置いた。目が据わっていた。
「戦の支度で、お忙しいのは知ってます。英稟さんが優先なのも、わかります。序列は守ります。でも」
「でも」
「……補充しに、来ました」
帯が解かれるのは速かった。暗殺者の脱衣は音がしない。俺が筆を置き終える前に、小夜は下着まで落としていた。
「早いな」
「早業です」
机の端に手をつかせて、後ろから入れた。
「——んっ♡♡ ……はいっ、た——っ♡♡」
濡れていた。来る前から決めていた濡れ方だった。
「……あっ♡ ……あっ♡ ……せいちさんの——っ♡♡ ……これで——においが——もどる——っ♡♡♡」
「戻したいだけか」
「……それだけじゃ——ないです——っ♡♡♡ ……きもちいいのも——ほしかった——っ♡♡♡」
腰を使うたび、机の書類がわずかにずれた。小夜の体は、確かにまた変わっていた。掴んだ腰に前より肉が乗って、揺れる胸が重い。
「……また、育ったな」
「——っ♡♡♡ ……い、言わないでください——っ♡♡ ……帯が——きつくて——ぜんぶ——仕立て直しました——っ♡♡♡」
「走りは」
「……おそく、なりました——っ♡♡ ……屋根から屋根が——とべなく——っ♡♡♡」
「後悔は」
小夜は首だけ振り向いた。汗で前髪が貼りついていた。
「……してません——っ♡♡♡ ……ぜんぜん——してませんけど——っ♡♡ ……戦のとき——足を、引っ張るかもって——それだけ——っ♡♡♡」
「引っ張らせない。お前には別の使い方がある」
「……つかいかた——っ♡♡♡」
「守る側だ。走り回る側じゃない。……近いうちに言い渡す」
「——っ♡♡♡ ……はい——なんでも——します——っ♡♡♡♡」
そこからは言葉が保たなかった。小夜の中が絶頂のたびに絡んで、俺は最後、細い体を抱え上げて——駅弁の形にして、奥で出した。
「——っ♡♡♡♡♡!!」
抱えた足が、びくびくと跳ねた。
「……はぁ……♡♡ ……とんで、ました……足が——地面に、ついてないの——ひさしぶり——♡♡」
「跳べなくなった分だ」
「……っ♡ ……そういうの、ずるいです……♡」
小夜は俺の首に腕を回したまま、満足そうに、すん、と鼻を鳴らした。
「……これで、わたしのにおいが、いちばんです」
────
夕刻、近侍が着いた。
旅装は埃と泥で固まって、馬は二頭潰したと言った。帝都からの道を、触れ書きの網を避けて三日で駆けたことになる。
「よくご無事で」と苑子が湯を運んだ。
「無事では、ありません」近侍は湯に口をつけずに言った。「帝都は、もう」
俺と、呼ばれた栞と、英稟。部屋を閉めて、四人になった。
「申し上げます。従弟殿の即位の儀、月末と布告されました。諸家に参列の召集が出ています。応じぬ家は逆賊とする、と」
「……月末」と英稟が呟いた。「一月もない」
「宝庫なしでか」と俺は聞いた。
「形代を立てる、と」近侍の声に、初めて感情が滲んだ。侮蔑だった。「偽物のレガリアで、偽物の即位を。……ですが儀が済めば、形式は形式として、歩き始めます。諸家は雪崩を打ちます」
「それまでに本物を、というわけだ。軍の足取りは」
「先鋒二千、街道を東へ。十日で領境かと。……世一様」
近侍が居住まいを正した。
「本題を申し上げます。——陛下を、南溟へお移しすべきです」
来たか、と思った。
「蒼海家の商船に伝手があります。南溟道の沖まで下れば、紅炉の手は届きません。深淵絡みで中央の統制が緩い海域です。船の手配は、済ませてあります」
正しい。
軍略として、まったく正しい。守る対象が盤上から消えれば、この戦の負け筋は半分消える。宝庫だけなら隠しようも、運びようもある。人はそうはいかない。
「……世一様のご意見を」と近侍が言った。
「正しい」と俺は言った。「手としては、最善だ」
近侍が頭を下げかけた。
「——いやです」
栞の声だった。
部屋の全員が、栞を見た。栞は膝の上で拳を握って、まっすぐ近侍を見ていた。
「陛下」
「いやです。行きません」
「陛下。これは御身の安全の——」
「安全の先に、何がありますか」
栞の声は、震えていなかった。
「南溟の沖に、わたしの何がありますか。知らない船と、知らない海と、安全があります。それだけです。……逃げたって、そこにわたしの居場所は、ありません」
「居場所は、生きていれば——」
「生きているだけなら、帝宮でもできていました」
近侍が言葉に詰まった。
「……わたしが消えても、あの軍は止まりません。宝庫を探して、この街を検めます。疑いが晴れるまで、何度でも。……わたしの安全と引き換えに、それをこの街に残していくのは——いやです」
「陛下……」
「それに」
栞は一度、目を伏せた。開いたとき、目の色が変わっていた。
「今日、赤子を抱きました」
「……は」
「澄という子です。雪さんの娘です。重かったです。名前を知っている重さでした。……昼は風音さんと符闘をして、負かして、笑われました。膝で猫が寝ていました。夜長という名前です。わたしがつけました」
一つずつ、数えるように言った。
「風音さんと小夜さんを残して逃げたら、わたしはもう二度と、栞ではいられません。南溟に着くのは空夜だけです。栞は、この街に置き去りになります。……それは、死ぬのと、どのくらい違うのですか」
部屋が静かだった。
近侍は、主君の顔を長いこと見ていた。それから、俺を見た。最後の望みを託す目だった。この男が命じれば、陛下も折れる——そう言っている目だった。
俺は栞を見た。
栞も俺を見た。逸らさなかった。
「世一さん」
「なんだ」
「わたし、守りたいものが、できました」
「……」
「生まれて、初めてです。だから——ここに、いさせてください。足手まといにならない方法を、探しますから」
——計算の外から来る。この娘は、いつも。
俺は、正しい避難計画を頭の中で畳んだ。畳みながら、自分の中の帳簿が、この判断をどう記帳するかを見ていた。保護の項目ではなかった。賭けの項目でもなかった。もっと単純な、名前をつけたくない項目だった。
「栞」
「はい」
「残れ」
「——はいっ」
栞の顔が、ほどけた。庭の方で、かすかに、枝の鳴る音がした気がした。
「世一様……!」近侍が腰を浮かせた。
「船は待たせておけ。決戦まで解くな。負け筋が見えたら、俺が気絶させてでも積む」
「……っ。……承知、しました」
近侍は長く息を吐いて、頭を下げた。下げたまま、小さい声で言った。
「……帝宮の陛下は、いやです、と仰ったことが、一度もありませんでした」
「そうか」
「はい。……一度も、です」
近侍の声は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。
────
夜、一人になってから、宝庫の箱に手を置いた。
温かかった。もう驚かなかった。
守りたいものができました、と娘は言った。俺の帳簿では、あの娘自身が「守るもの」の欄に載っている。載せたのは俺で、値札をつけたのも俺だ。符帝という、この盤で最も高い札。
だが今夜、あの札は自分の意思で盤に残った。
駒と呼ぶのが、少しずつ難しくなっている。
……それでいい、とは、今夜はまだ言わないでおく。