※この作品はR-18です。

『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』   作:シキセ

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第九十六話 旗を立てる

布告状は、検分使が去った二日後に届いた。

 

使者は口上を述べなかった。漆塗りの状箱を置いて、受領の署名だけ求めて、帰った。開くと、几帳面な楷書が並んでいた。

 

評定の間で、俺は声に出して読んだ。英稟、苑子、律也、エリナ、セレスティーナ。座れる者は全員座らせた。

 

「——一、星宮家および式符侯家は、帝室財産を隠匿し、諸家共通の責務たる保全に背いた疑いあり。一、本争議の解決は符闘律令・軍鑑の条に拠り、合戦符闘を以て行う。一、当方参陣は三軍。紅炉本軍、鋼輪衆、ヴァンダリア義勇技術士官団。一、期日は十日後。場所は遠見市外縁、白原。一、当方勝利の暁には遠海領の検分接収権、および隠匿に与した者の処断権を得る。貴家勝利の暁には、東征軍は即日撤兵し、向こう三年、遠海領に干渉せず——」

 

読み終えて、状を置いた。

 

最初に口を開いたのは律也だった。

 

「……戦争を仕掛けてきたやつが、律令の条文を引いてる。なんなんですか、これは」

 

「ご丁寧なことだ」と俺は言った。「戦争にすら、手続きを求めるのか」

 

「侮辱のつもりですか」

 

「逆だ。本気の証拠だ」

 

俺は状の一点を指で叩いた。

 

「武力で潰せば、紅炉は『簒奪者』の名を背負う。合戦符闘で公式に勝てば、『律令に則って争議を制した』ことになる。諸家への聞こえがまるで違う。継承の費用の話だ。あの男は、戦争ですら安く買おうとしている」

 

「……月末の即位の儀に、間に合わせる気ですね」と苑子が言った。「十日後に勝てば、儀の前に『抵抗勢力を律令で下した』実績ができます」

 

「そうだ。そして、こっちが勝てば逆のことが起こる。儀の直前に、廃立派の東征軍が公式の場で敗れる。様子見の諸家が、どう読むかな」

 

「参加を断れば」と英稟。

 

「二千で囲んで、兵糧攻めだろう。民が飢える。受けない理由を探す方が難しい」

 

「……一つ、気になります」

 

エリナだった。布告状の写しを手に、眉を寄せていた。

 

「三軍目。ヴァンダリア義勇技術士官団——指揮官の名が、随行名簿にあります。クラウス・フォン・シュタッヘル」

 

「……あの計測官か」

 

モノクルに魔導計器の男を思い出した。遠見に来た三人の執行者のうち、一人だけ神学抜きの利害で動いていた男。ルクシエルを測らせろと、初対面で取引を持ちかけてきた。感情の代わりに数値が入っている手合いだ。

 

「ご存じの通りの男です」エリナの声は平坦だった。平坦すぎた。「セレスティーナ様が還俗され、私がここに落ち着いて——彼だけが、あの任のまま残りました。それが今度は、執行者ではなく軍を率いて来る。……それだけの利得計算が、ヴァンダリア側で立った、ということです」

 

「因縁だな」

 

「……はい。あれと当たるなら、私に回してください。執行者として、隣で仕事をした仲です。あの男の符叢も、算定の癖も、知っています」

 

「覚えておく」

 

セレスティーナが小さく手を挙げた。

 

「わたくしは何をすれば」

 

「お前には祈ってもらう。——本気で言っている。聖座の元枢機卿が遠見側に立って祈っている、という絵は、それだけで諸家への文になる」

 

「まあ。……政治的なお祈りですのね」

 

「効くだろう」

 

「効きますわ。……ただ、一つだけ。わたくしのお祈りは、いつでも本気です。政治にお使いになるのは、世一様のお仕事——わたくしは、ただ祈ります」

 

評定は夜まで続いた。細目は決まっていった。民の退避、兵站、符叢の調整。朔と澄は乳母と共に山側の別邸へ——これは冬子と雪が、評定より先に自分たちで決めて、手配まで済ませていた。

 

散会の際、俺は一つだけ全員に言った。

 

「布告状に、書かれていないことがある」

 

全員が止まった。

 

「『帝室財産』とは書いたが、『身柄』とは一行も書いていない。……書けないんだ。書けば、探しものの在り処を、国中に教えることになる。忠義の残っている諸家が、どこへ集まるかも、な」

 

「……つまり」と英稟。

 

「向こうの急所は、こっちの蔵にある。財産の方じゃない」

 

それ以上は言わなかった。言わなくても、知っている三人には通じた。知らない者には、謎かけのままでいい。

 

────

 

翌日、茶屋に行った。

 

戦の前に済ませておく用事は山ほどあったが、これもその一つだった。

 

白陽はいつもの席で、いつもの顔で茶碗を包んでいた。

 

「来たわね。……忙しいんじゃないの」

 

「忙しいので、来ました」

 

「変なの」

 

符束は出さなかった。代わりに俺は、布告状の写しを卓に置いた。白陽は一瞥して、読まずに戻した。

 

「軍鑑符闘、ですって?」

 

「ご存じですか」

 

「懐かしい、の方が近いわね」

 

白陽は茶を一口飲んだ。

 

「戦国のころよ。符家がまだ符将だったころ。領地の取り合いを、いちいち本物の戦でやっていたの。田が焼けて、人が死んで、勝った方も三年は立ち直れない。馬鹿らしいでしょう。だから誰かが考えたの。——戦争を、遊びに戻せばいいって」

 

「遊びに、戻す」

 

「符闘の原型は遊びよ。前に言ったでしょう。それを堅苦しくしたのが今の律令。軍鑑符闘はその中間ね。軍を出す代わりに旗を立てて、兵を死なせる代わりに符叢を削る。百枚の符叢は百人の兵よ。統率符士は大将首。二十一の傷で陣が割れるのは、大将が討たれたら軍が崩れるから」

 

「よくできた翻訳だ」

 

「そうよ。よくできてるの。……人が死なない戦争なんて、あの時代の発明の中で、一番上等なものだったわ」

 

白陽は窓の外を見た。遠見の路地に、退避の荷車が増え始めていた。

 

「一つ聞いても」

 

「なに」

 

「統率符士は、何を基準に選ぶものですか」

 

「あら。いい質問」

 

白陽はこっちに向き直った。淡い色の目が、珍しく俺を正面から見た。

 

「旗はね、強い札を選ぶものじゃないの。——折れない札を選ぶものよ」

 

「折れない札」

 

「戦の間じゅう、何度でも立ち上がって、旗の下の全員がそれを見る。強いだけの札は、一度倒れたら終わり。折れない札は、倒れるたびに軍が強くなる。……昔の符将たちは、それを知ってる者から勝っていったわ」

 

俺は頭の中の候補を並べ直した。切り札の天使と——守り手の魔女。

 

答えは、出た気がした。

 

「白陽さんは、旗を立てたことが?」

 

「一度だけ」

 

「勝ちましたか」

 

「途中でやめたわ。相手が泣いたから」

 

「……はあ」

 

「大昔の話よ」

 

白陽は茶碗を置いて、伸びをした。

 

「私は混ざらないわよ、今回の。縛られるのは嫌いなの。……でも、見には行くわ。いい席でね」

 

「観客ですか」

 

「そう。数百年ぶりの軍鑑符闘だもの。見逃したら、次はいつになるか」

 

それから白陽は、思い出したように付け足した。

 

「桜、まだ咲いてるわね。おたくの庭」

 

「……ええ」

 

「そう」

 

白陽は少しの間、何も言わなかった。それから、独り言の温度で言った。

 

「守りなさいよ、あれ」

 

どちらの意味の「あれ」か、聞かなかった。聞かなくても、たぶん両方だった。

 

────

 

夜、部屋に戻ると、冬子と雪がいた。

 

盆の上に、雲嶺の赤が一本と、盃が三つ。

 

「……示し合わせたな」

 

「示し合わせました」と冬子が言った。悪びれなかった。「戦の前に、妻の陣も立てておこうと思いまして」

 

「陣、ときたか」

 

「はい。二人で一軍です」と雪が言った。真顔だった。

 

盃が回った。雲嶺の赤は、あの夜と同じ味がした。

 

「朔と澄は、明後日の朝に発たせます」と冬子が言った。「乳母と、守りの符士を二人つけて。……見送りは、しないことにしました」

 

「しないのか」

 

「泣くからです。私ではなく、雪が」

 

「泣きます」と雪は認めた。「絶対に泣くので、前の日の夜に、いっぱい抱いておきます。澄は覚えていないでしょうけど、わたしが覚えているので、それでいいです」

 

「……そうか」

 

「世一様も、明日、寝顔を見ておいてください」と冬子が言った。「戦の前に見る寝顔は、効きます。良くも、悪くも」

 

「良くも悪くも、か」

 

「はい。……守るものの顔は、盤面で一番重い札ですから」

 

冬子は盃を置いて、少しだけ笑った。

 

「星読みの話もしておきます。戦の間、私は後ろで空を読みます。産後の体で前には出られませんが——星は、産む前より、よく見えるようになりました」

 

「よく見える」

 

「不思議なんですが。……命を一つ通したからでしょうか。動くものの気配に、敏くなりました。軍の動き、隠れた駒、それから——」冬子は言葉を選んだ。「……この屋敷の上で泣いたり笑ったりしている、大きな何か」

 

俺は盃を止めなかった。止めなかったことが、返事になったと思う。

 

「存分に使ってください、私の目を。……問いません。約束した通り」

 

「借りが増えるな」

 

「貸しです」と冬子は訂正した。「利子は、戦が終わってから」

 

雪が盃を干して、それから、俺の袖を引いた。

 

「世一様。今夜は」

 

「うん」

 

「……二人で、いいですか。二人とも、です」

 

────

 

灯りを一つにした。

 

戦の前の夜は、静かな方がいい。二人とも、それを分かって来ていた。

 

冬子の帯を解いた。産後の体は、前より柔らかく、深くなっていた。雪は隣で自分の帯を解きながら、冬子の肩に額をつけていた。

 

「……ゆっくり、で」と冬子が言った。「今夜は、覚えて帰りたいので」

 

「覚える?」

 

「体に、です。……帰る場所の感触を、戦の間、思い出せるように」

 

正面から、ゆっくり入れた。

 

「……ん……っ♡ ……ぁ……♡♡」

 

冬子の声は低く、静かに揺れた。急がなかった。波打ち際のような律動で、長く、深く。

 

「……はい……♡ ……これです……♡ ……これを、覚えて……っ♡♡」

 

雪が冬子の手を握っていた。自分の番を待つ間、ずっと握っていた。

 

冬子の中が深く締まって、静かな絶頂が長く続いた。奥に出すと、冬子は息を吐いて、俺の背に回した手にだけ力を込めた。

 

「……たしかに……♡ ……覚えました……♡」

 

雪は、冬子より素直だった。

 

「……わたしは——声、出ます……っ♡♡ ……我慢、しません——っ♡♡」

 

「していいとも言っていない」

 

「——んんっ♡♡♡ ……はいっ——出しますっ——ぁあっ♡♡♡」

 

直情の声が、灯り一つの部屋に響いた。雪の体は英稟より陽気の通りが速い。すぐに上りつめて、二度目はもっと速かった。

 

「……世一さまっ——♡♡♡ ……澄に——いもうとか、おとうとを——っ♡♡♡ ……いつか——いつかで、いいのでっ——♡♡♡♡」

 

「戦が終わったらな」

 

「——やくそくっ♡♡♡♡」

 

奥で出した。雪は冬子の胸に倒れ込んで、幸せそうに笑って、そのまま電池が切れた。

 

冬子が娘のように雪の頭を撫でて、俺を見た。

 

「……この子の『いつか』は、記録しておきますね。星読みの帳面に」

 

「帳面の使い方が違う」

 

「大事なことは、全部あそこに書くんです」

 

────

 

二人が寝入ってから、俺は一人で盃の残りを空けた。

 

十日後、白原。三軍対三軍。

 

盤面は描けている。正面は俺とエーデルガルトが受ける。英稟の甕星が刺し、早雲の要塞が支える。歯車は「ちょうど」を崩し続ければ止まる。クラウスの算定は、エリナが読む。栞の出番は——最終盤、勝ちが固まった後だ。安全な高みから、勝ち戦を一つ見せて、覚醒の下地にする。それで足りる。

 

それが俺の描いた盤面だ。読み落としは、ない。

 

……ないはずだ、と言い直したのは、盃の底に、桜の花弁が一枚沈んでいたからだ。

 

いつ入った。

 

窓は、閉めてある。

 

────

 

翌朝、英稟が二人きりの目通りを願い出た。

 

執務室で向かい合うと、英稟は座礼の姿勢から、なかなか顔を上げなかった。

 

「言え」

 

「……申し上げねばならないことが、あります」

 

顔が上がった。武人の顔だった。武人の顔で言うことか、それは。

 

「子が、おります。三月になります」

 

「……そうか」

 

「……驚かれないのですね」

 

「半分、気づいていた」

 

俺は筆を置いた。

 

「気の質が変わっていた。夏の終わりからだ。張りつめ方が、それまでと違った。……戦気だと思うことにしていた。お前が言い出すまで、そう思っておくことにしていた」

 

「……申し訳、ありません」

 

「謝る場所を先に決めろ。孕んだことか、黙っていたことか」

 

「黙っていたことです」英稟は即答した。「孕んだことは、謝りません。約束の夜の、約束通りの子です」

 

「そうだな。それは謝るな」

 

「……黙っていたのは」英稟の声が、初めて揺れた。「外されるのが、怖かったからです」

 

「戦から」

 

「はい。星宮は千年、帝室の藩屏でした。千年、その名目だけを磨いて、実際に藩屏として立つ戦は、一度も来ませんでした。……それが、私の代に来たのです。腹の子を理由に外されたら、私は一生、この子に語れる戦を持ちません」

 

「あの稽古の夜——」俺は言い直した。「甕星が礼を執った夜の、あの寝言か」

 

「……あれは、言いかけました。言いかけて、怖くなりました」

 

「命令をくれと言った夜も」

 

「……考えごとの中身は、これです。考え終えたと言ったのは、嘘です。ずっと、ぐるぐるしていました」

 

「苑子は知っているな」

 

「……口止めしました。世話役の目は、ごまかせませんでした」

 

「冬子は」

 

英稟は懐から小さく畳んだ文を出した。開くと、一行だけ書いてあった。

 

——小さい星が見えます。おめでとうございます。黙っています。

 

「……星読みは、ごまかせませんでした」

 

「俺だけが最後か」

 

「……一番、怖かったので」

 

俺は息を吐いた。怒りは、あった。ただしそれは、三月分の心配を後払いで請求された怒りで、行き場のない種類のものだった。

 

「体は」

 

「符治師に診せています。定期的に。……あの、命令の夜の前にも、診せました。障りはない、と」

 

「そうか」

 

「その上で——申し上げます」

 

英稟は両手をついた。

 

「出陣を、お許しください。星宮軍の旗は、私が立てます。……腹の子も、藩屏の子です」

 

しばらく黙って、俺はその頭を見ていた。

 

盤面で考えれば、答えは決まっている。星宮軍の統率が英稟から代われば、甕星はそもそも盤に出ない。あの神と約定を結んでいるのは英稟一人で、代わりの使い手など存在しない。軍の士気も、領民の目も、英稟の旗があるのとないのとでは戦の形が変わる。

 

盤面の外で考えても——星宮が千年待って、ようやくこの女の代に来た藩屏の戦だ。それを取り上げたら、勝っても負けても、この女の中の何かが死ぬ。

 

「条件を三つつける」

 

英稟の顔が上がった。

 

「一つ。降りる線を、先に決めておけ。星宮軍の命運が残り十を切るか、甕星の統率傷が十五に届いたら、そこで旗を降ろして投了しろ。その旨の誓約書を書いて、苑子に預けろ」

 

「……っ。それでは、戦い切れない局面が」

 

「戦い切るな、と言っている。符叢が尽きるまで打つということは、体力も尽きるまで打つということだ。お前一人の体なら、好きに張ればいい。今は二人分だ。二人分まとめて張ることは、俺が許さん」

 

「……はい」

 

「二つ。長期戦をするな。甕星は短期決戦の型に組み直せ。三十一手の稽古で熱を持つ体が、百枚を数え合う戦場でどうなるかは、考えるまでもない」

 

「……型の組み直し、三日でやります」

 

「三つ。雪の親衛隊を、お前の軍に貼り付ける。盤の外の守りだ。断るな」

 

「……断りません」

 

「以上だ。出陣を許可する」

 

英稟は深く、長く、頭を下げた。下げたまま、小さい声が言った。

 

「……ありがとう、ございます」

 

「死ぬ気で戦うのは許す。死ぬのは許さん。——二人ともだ」

 

肩が、一度だけ震えた。

 

顔を上げた英稟は、いつもの英稟だった。ただ、目の縁だけ赤かった。

 

「……それと、世一様」

 

「なんだ」

 

「三月黙っていた罰は」

 

「戦の後に考える」

 

「……はい。楽しみに、しております」

 

「武人の言う台詞か、それが」

 

────

 

その夜、山へ発つ前の朔と澄の寝顔を見に行った。

 

乳母の部屋の隣、灯りを落とした小部屋に、二つの寝床が並んでいた。

 

先客がいた。

 

栞だった。澄の寝床の横に膝をついて、身動きが取れなくなっていた。見れば、眠ったままの澄が、栞の人差し指を握り込んでいる。

 

「……世一さん」栞が小声で言った。「……抜けなく、なりました」

 

「よくあるらしいな」

 

「……起こしたく、ないので……もう少し、このままで」

 

「好きにしろ」

 

俺は朔の寝床の横に胡座をかいた。息子は大の字で寝ていた。冬子の子とは思えない無防備さだ。いや——冬子も、あの計算の下は案外こうなのかもしれない。

 

寝顔は、効く。冬子の言った通りだった。良くも、悪くも。

 

明日からこの寝顔は山の上で、俺は旗の下だ。守るものの顔は、盤面で一番重い札。重い札は、しかし、切らない札だ。最後まで手札で温めておく類の。

 

「……すぐ、終わらせますからね」

 

栞は澄に向かって言っていた。囁き声の、宣言だった。

 

「すぐ終わらせて、迎えに行きます。約束です。……だから、いい子で、山にいてください」

 

澄の指が、寝たまま、栞の指を握り直した。

 

窓の外で、桜が一枝、鳴った。

 

────

 

浅葱は翌々日に着いた。騎馬三十と、荷駄と、旅塵まみれの折り目正しい一礼で。

 

「早雲の名代として参上しました。……義兄上、お久しぶりです」

 

挨拶の途中で、浅葱の目が庭の桜に留まった。

 

「……なんですか、これは」

 

「狂い咲きです」と苑子。

 

「話には聞いて来ました。見たら、余計に分からなくなりましたね」浅葱は桜を見上げたまま、少し笑った。「姉上の文に『理由は聞かないように』とありましたので、聞かないことにします。……縁起は、良さそうだ」

 

「賢明です」

 

「旗は立てます。土公もお使いください。大符闘祭では同じ名門枠で争った仲です——義兄上と同じ側で立てるのは、光栄ですよ」

 

言って、浅葱は与えられた宿舎へ歩いていった。冬子が見送って、少しだけ笑った。

 

「……あの子、家を出る時に、土公の原符を三日かけて磨いてきたそうです。文の返事より、ずっと張り切っています」

 

────

 

開戦二日前。白原の軍鑑符闘場——記録官たちが十日かけて設営した六角の盤域で、統率符士の公開が行われた。

 

古式に則り、両陣営の記録官が名簿を交換し、読み上げる。

 

「東軍——紅炉本軍、統率符士『魔導重皇機・紅蓮獄』。鋼輪衆、統率符士『魔導皇機・紅蓮骨格』。ヴァンダリア義勇技術士官団、統率符士『黒鉄の算定官』」

 

聞いていた律也が、隣で呟いた。

 

「……三本とも、機械じゃないですか」

 

「そうだ」

 

「大将首が、機械。……倒しても、替えが利くってことですか」

 

「そういう思想だ、あちらは」

 

旗すら交換可能な部品でできている。読み上げられた三つの名は、名というより型番だった。

 

「西軍——早雲軍、統率符士『神符 堅牢土公』。星宮軍、統率符士『神符 天津甕星』。式軍、統率符士——『気高き守り手エーデルガルト』」

 

読み上げの後、こちらの三軍は同盟を宣言した。三軍枠の上限まで使い切った同盟。向こうも同じ手続きを取った。

 

三対三。旗は、立った。

 

────

 

エーデルガルトには、前の晩に話を通していた。

 

庭で原符から呼ぶと、千年の魔女は桜を一度だけ見上げて、それから俺を見た。

 

「……旗、ですか」

 

「そうだ。お前を軍の顔にする。何度でも倒れて、何度でも立つ役だ。統率符士は墓地に落ちない。折れることだけが、負けだ」

 

「なぜ、私を」

 

「言われたんだ。旗は強い札を選ぶものじゃない。折れない札を選ぶものだと」

 

エーデルガルトは、少しの間、黙っていた。

 

「……この街を、守るのですね」

 

「そうだ。お前の主のわがままでな。逃げないと言った娘がいる」

 

「なら——正しい使い方です」

 

守り手はそれだけ言って、原符に戻った。戻り際、ほんの一瞬、桜の方に頭を下げたように見えたのは、気のせいかもしれない。

 

気のせいでないかもしれない。

 

直後、別の原符がひとりでに温もって、金色の光が音もなく咲いた。

 

「……お話は、聞こえておりました」

 

ルクシエルだった。ほんわりと微笑んで、両手を胸の前で重ねている。微笑んだまま、目だけは笑っていなかった。

 

「旗は、あの魔女なのですね」

 

「そうだ」

 

「ふふ。良い選択だと思います。守り手の旗の下でなら、みんな安心して戦えるでしょう。……それで、私は」

 

「切り札だ。最後まで隠す」

 

「まあ」

 

ルクシエルは頬に手を当てた。

 

「最後まで誰にも見せない、一番重い札。……ええ。私、そういう扱われ方がいちばん好きです。私の出しどころを知っているのは、世界で世一様お一人——旗になるより、ずっと良いものをいただきました」

 

「拗ねているのかと思ったが」

 

「拗ねてなど」天使はほんわりと笑みを深めた。「ただ、覚えておいてくださいね、世一様。旗が守るのはこの街ですが、私が守るのは、あなただけです。出番をいただけたら——あなたの障りになるものを、この世から丁寧に取り除いて差し上げます。丁寧に、残らず」

 

ほんわかした声のまま言うので、余計に底が冷えた。

 

「期待している」

 

「はい」

 

金色は、咲いた時と同じ静けさで、原符に還っていった。

 

────

 

軍議は一刻で終えた。決めることは、もう決まっていた。

 

「歯車駆動の弱点は全軍で共有済みだ。もう一度だけ言う。——奴らの盤面に、一枚だけ余計な石を置き続けろ。数を合わせさせるな。完全一致だけが、あの機械の燃料だ」

 

エリナがクラウスの符叢の型を全員に講義した。冬子は後方の星読み台の設営を報告した。セレスティーナは、聖華の正装で戦場の後方に立つ手はずを整えた——祈りという名の、外交の旗。苑子は兵站と、誓約書の保管。律也は俺の軍の先手役。

 

最後に、風音と小夜を呼んだ。

 

「二人には、戦場に出ない仕事を頼む」

 

風音の眉が、ぴくりと動いた。

 

「戦の間、栞を守れ。奥殿の最深部だ。俺の一番大事な蔵と一緒にいてもらう。……この街で、あそこが一番堅い」

 

「……前線じゃ、ないんですね」風音が言った。「大きい仕事って、聞いてましたけど」

 

「一番大きい仕事だ。噓じゃない」

 

「……蔵と栞、どっちが大事なんですか」と小夜。

 

「同じ箱だ」

 

「?」

 

「いいから頼む。お前たちにしか任せられない側だ。……理由は、戦が終わったら話す」

 

風音と小夜は顔を見合わせた。それから、二人同時に頷いた。

 

「引き受けます」と風音が言った。「独立符士への正式な依頼として。報酬は別途」

 

「命に代えても、とは言いません」と小夜が言った。「命は代えずに、守り切ります。そっちの方が上等なので」

 

「それでいい」

 

────

 

前夜。

 

女たちの居間に、灯りが残っていた。

 

「——で、あんたが真ん中で寝る係」

 

「なぜですか」

 

「護衛対象だから。挟むの、わたしと風音さんで」

 

「川の字です」と小夜の声。「栞は、真ん中の一本です」

 

「読めません、それ」

 

三人の笑い声がした。それから、少し声が落ちた。

 

「……ねえ、栞」風音の声だった。「あんた、なんか——知ってるんでしょ、この戦のこと。聞かないけどさ」

 

「……」

 

「聞かないよ。聞かないけど……終わったら、話せることだけでいいから、話してよ。夜話で」

 

「……はい」栞の声は、少し掠れていた。「終わったら、話します。話せることを——ぜんぶ」

 

「約束ね」

 

「約束です。……ふたりとも」

 

「ん?」

 

「……ありがとう、ございます。それだけ、先に言っておきたくて」

 

「気が早いよ」と風音が笑った。「礼は、守り切ってからもらう」

 

俺は廊下の柱を離れた。

 

離れたところに、栞が追いかけてきた。足音で分かっていた。振り向くと、寝間着に羽織を掛けた栞が、両手に小さいものを持って立っていた。

 

「……世一さん。少しだけ」

 

「なんだ」

 

「明日……いえ、明後日、勝ったら」栞は言い直した。「帰ってきたら——また、ご褒美を、ねだってもいいですか」

 

「勝ってからにしろ」

 

「……はい。じゃあ、ねだる練習だけしておきます」

 

「変な練習をするな」

 

栞は少し笑って、それから、持っていたものを差し出した。

 

紙を折って綴じた、小さい栞だった。しおり。本に挟む方の。桜の花弁が一枚、漉き込んで押してあった。

 

「……名前と、同じものを作りました。符叢の間に、挟めるかと思って」

 

「……」

 

「私は奥殿から出られません。だから——名前だけ、連れて行ってください」

 

俺は受け取った。軽い。紙一枚と、花弁一枚の重さしかない。

 

符叢の帯に、挟んだ。

 

「……預かる」

 

「はい」

 

「帰ったら返す。利子をつけてな」

 

「……っ。……はい」

 

栞は深くお辞儀をして、居間の灯りの方へ戻っていった。

 

────

 

出陣の朝は、晴れた。

 

白原へ向かう軍列の上を、季節外れの花弁が、どこまでもついてきた。

 

桜は、散らずに待っていた。

 

旗を、立てに行く。

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