※この作品はR-18です。

『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』   作:シキセ

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第九十七話 合戦符闘

白原は、名前の通りの場所だった。

 

遠見市の外縁に広がる、白い枯れ草の平野。その中央に、記録官たちが十日かけて組んだ六角の盤域がある。六つの頂点に六つの陣。陣ごとに百枚の符叢と、統率の符士が一人。

 

盤域を囲んで、軍勢が並んでいた。

 

東に紅炉の二千。旗印は歯車に炎。西にこちらの千五百。星宮の星紋、早雲の山紋、式の——うちはまだ家紋が定まっていないので、苑子が一晩で意匠した桜だ。刺繍が間に合ったのが出陣前夜だったという。

 

兵は並ぶが、剣は抜かない。

 

それが軍鑑符闘だ。二千の兵は威圧のためではなく、履行のためにいる。盤の上の決着を、負けた側が反故にした瞬間——この平野は本物の戦場になる。全員がそれを知っているから、誰も剣を抜かず、誰も帰らない。

 

「変な戦争ですね」と律也が言った。補佐役として俺の陣に入っている。

 

「一番上等な戦争だ。死人の出ない設計になっている」

 

「……盤の上以外では、ですよね」

 

律也も、物事の裏側を見る目を覚えてきた。そうだ。盤の上以外では、だ。

 

────

 

開戦の儀は、統率符士の顕現から始まった。

 

六人の符士が、同時に旗を立てる。

 

東の空に、まず鉄が鳴った。

 

魔導重皇機・紅蓮獄。見上げる高さの焼却炉が、炎を骨格に纏って立ち上がる。続いて魔導皇機・紅蓮骨格——一回り小さい鉄の巨人。最後に黒鉄の算定官が、算盤を弾く音とともに顕現した。機械、機械、機械。東の三旗に、体温のあるものが一つもない。

 

西で、星が鳴った。

 

天津甕星が星光の尾を引いて英稟の陣に立つ。堅牢土公が大地ごと持ち上がるように浅葱の陣に座る。そして俺の陣に——エーデルガルトが、静かに立った。

 

千年の魔女は、東の三つの機械を順番に見て、それから小さく言った。

 

「……趣味の悪い時代になりましたね」

 

「同感だ」

 

観客席——記録官が用意した高台の桟敷に、白陽の銀髪が見えた。本当にいい席だった。茶と菓子まで持ち込んでいる。

 

開戦の口上の前に、東の本陣から男が一人、盤域の中央まで歩み出てきた。

 

初めて見る顔だった。だが誰かは、歩き方でわかった。

 

紅炉煉十郎。

 

五十絡みの、姿勢のいい男だった。武人の体ではない。技師の体だ。羽織の紋は歯車に炎。顔立ちは穏やかで、目には敵意も熱もなく——ただ、測っていた。俺を、旗を、軍勢を、たぶん風向きまで。

 

「式符侯。開戦の前に、一言だけ」

 

声も穏やかだった。

 

「あなたの手腕には敬意を表します。大符闘祭の采配も、先日の検分使の返し方も、見事でした。個の技量として、あなたは私より上でしょう」

 

「それはどうも」

 

「ですから、数で来ました」

 

嫌味でも脅しでもなく、事実の報告として言った。

 

「個の技量は再現できません。数と工程は再現できます。私は再現できるものしか信用しないことにしています。……それだけ、お伝えしたく」

 

「ご丁寧に。こちらも一言だけ」

 

「伺いましょう」

 

「どの符叢にも、展開の道筋がある。あんたの言う、工程だ。そこまでは俺も信用する。……だが盤の上には、必ず道筋の切れる手番が来る。符士の技量が問われるのは、その先だ。あんたはそこを、誤差と呼ぶんだろう」

 

煉十郎は少しだけ首を傾げて、それから、初めて笑った。笑い方まで測ったような笑いだった。

 

「呼びますね。工程の外は、すべて」

 

「——その誤差の側から、あんたの工程を崩してやる」

 

「……楽しみにしております。誤差の観測は、私の趣味なので」

 

男は一礼して、戻っていった。

 

エーデルガルトが低く言った。

 

「……あれは、符士ですか」

 

「符士の形をした、工程表だ」

 

「なるほど。——では、破りましょう」

 

────

 

法螺貝が鳴って、開戦した。

 

最初の三手番で、あちらの狙いは読めた。

 

三軍が三軍とも、早雲を殴った。

 

紅蓮獄の砲が、算定官の算盤が、紅蓮骨格の拳が、示し合わせたように浅葱の陣に集中する。堅牢土公の岩壁が軋み、早雲の符叢が音を立てて削れていく。

 

「集中攻撃……! えげつない」と律也。

 

「えげつなくて、正しい。あれは外交だ」

 

「外交?」

 

「三軍同盟の一番浅いところを削ってる。星宮は領主、うちは当事者。早雲だけが義理で来てる。義理の軍は、痛みに弱い——そう計算してる。早雲の命運が半分を切ったあたりで、使者が行くはずだ。『今なら退いても恥にならない』とな」

 

「……背信させる気ですか」

 

「そうだ。盤の上で、政をやってる」

 

だから、こちらの初動も決まっていた。

 

「エーデルガルト。早雲を支える。翠蔓」

 

「承知」

 

墓地に落としておいた早業二枚が符叢の底に還り、翠蔓の使い魔が色衣になった。緑の蔓が盤域を走って、浅葱を殴りにいった紅蓮骨格を搦め捕り、霊体に落とす。鉄の巨人が一手番、盤から消えた。

 

「浅葱! 保つか」

 

「——余裕です!」浅葱の声は割れていたが、折れてはいなかった。「土公は、殴られてからが本番ですので!」

 

土公の岩壁が変形した。受けた分の衝撃を溜め込んで、壁そのものが打ち返しの槌になる。反射要塞。早雲の百年が磨いた型だ。算定官の砲撃が、そっくりそのまま算定官の符叢に返っていった。

 

英稟は、静かだった。

 

七耀陣が回り、輝星が並び、甕星が弾を溜めていく。英稟は序盤、一度も無理をしなかった。命運の誓約を書かされた武人は、書かされた線の内側で、最も効率のいい戦をしていた。

 

「星宮軍より式軍へ」伝令符が飛んでくる。「——中盤、甕星の一斉射を合わせます。合図は七耀の三度鳴り」

 

「承知した、と返せ」

 

初日の盤面は、押し引きの均衡で暮れた。

 

日没の鐘で、休戦。軍鑑の条は夜戦を禁じている。六つの陣に篝火が入って、白原は祭りの夜のような、葬式の前のような、奇妙な静けさになった。

 

初日の勘定——早雲、命運四十のうち二十九。星宮、三十六。うち、三十四。東の三軍は、三十三、三十五、三十七。

 

数字だけ見れば、削り負けている。

 

だが、まだ誰の切り札も出ていない。あちらの紅蓮獄は特殊実体化の条件を満たしていないし、こちらの——俺の帯の裏には、まだ誰にも見せていないものが二つある。

 

一つは、ルクシエル。

 

もう一つは……まだ、誰にも言う気のないものだ。

 

────

 

夜営の天幕で、二つ目の符叢を検めていると、茶が来た。

 

苑子だった。

 

盆の音がした瞬間、俺は札を伏せた。四十枚、全部だ。癖のようなものではない。この束だけは、まだ誰の目にも入れないと決めてある。中身どころか、存在ごとだ。

 

苑子は、伏せた札の背と、卓の端の見慣れない符叢箱と、俺の手の速さを順番に見て——何も見なかった顔を作った。作るまでに、一秒だけかかった。その一秒が、この女なりの驚き方だった。

 

「……見なかったことに、いたします」

 

「そうしてくれ」

 

「一つだけ」苑子は盆を持ち直した。「それは——この戦で、お使いになるのですか」

 

「いや」

 

俺は札を箱に戻した。

 

「この戦では使わない。これは……保険だ。この戦の、次に来るかもしれないものへの」

 

「次、ですか」

 

「勝った後の話だ」

 

苑子はそれ以上聞かなかった。聞かないのがこの女の職能だ。ただ、下がり際に一言だけ残した。

 

「……お茶、二杯にしておきました。長い夜になるでしょうから」

 

────

 

天幕を出ると、篝火の間にエリナが立っていた。

 

白銀の甲冑を磨き上げて、明日の準備をすべて終えた顔で、終えたのに眠れない顔をしていた。

 

「クラウスは、明日か」

 

「はい。算定官の陣は明日、うちの正面に回ります。星読み殿の観立てでは」

 

「読めているか、あいつの手は」

 

「型は。……心も、たぶん」エリナは篝火を見た。「あの男は、私が円卓を出たことを『資産の毀損』と呼ぶでしょう。惜しかった、とすら言わない。損耗の帳面に一行書くだけです。……それが、あの国のやり方で——私が売られた時のやり方です」

 

「明日、それに落とし前をつけるか」

 

「つけます。ただ」

 

エリナはこちらを向いた。騎士の顔の下から、一枚だけ別の顔が覗いた。

 

「……出陣前の騎士は、主君から祝福を受けるものです。故国の作法では、剣に口づけを、でしたが」

 

「剣は持ち歩いてないな」

 

「はい。ですから——代わりのものを」

 

天幕に入れて、灯りは落としたままにした。

 

「甲冑は」

 

「……着けたままで、お願いします」エリナは言った。「脱げば、気が緩みます。緩んだ顔で受ける祝福では、ないので」

 

「なら、立ったままだ」

 

天幕の支柱に、両手をつかせた。白銀の胸甲はそのまま。腰の草摺だけを持ち上げて、下履きを膝までずらす。夜気に触れた白い腿が、篝火の漏れ明かりの中でかすかに震えた。

 

「……っ。……こ、これは——騎士の姿勢では——」

 

「祝福を受ける姿勢だ。今決めた」

 

「……横暴、です……っ」

 

言葉と裏腹に、指を這わせた場所はもう熱かった。撫でるたび、甲冑の継ぎ目がかちゃりと小さく鳴る。

 

「濡れてるぞ。祝福の前から」

 

「……っ♡ ……い、言わないでください——体が、勝手に——明日を、覚悟した体は——こうなるんです——っ♡」

 

「いい体だ。騎士の体だ」

 

立ったまま、後ろから入れた。

 

「——んんっ……♡♡」

 

エリナは自分の籠手を噛んで、声を殺した。天幕の布一枚の向こうは陣地だ。見回りの足音、篝火の爆ぜる音、遠くの馬の嘶き。その全部の中で、腰だけが動く。

 

ぐち……ぐち……。

 

「……っ♡ ……よ、鎧が——鳴ります——っ♡ ……音が——」

 

「鳴らないように受けろ。訓練だと思え」

 

「……む、無理な訓練を——っ♡♡ ……あっ♡ ……ふか……っ♡♡」

 

草摺を掴んで引き寄せるたび、胸甲の下の体が反ろうとして、鎧に阻まれて、行き場のない快感が中の締めつけに変わった。着けたまま、というのは、こういうことになる。

 

「……せいちさま——っ♡ ……きし、の——騎士の、姿勢が——保てませ——っ♡♡」

 

「騎士の姿勢は捨てろ。女の姿勢で受けろ」

 

「——♡♡!」

 

その一言で、支柱についた肘が落ちた。腰が上がる。誇りの語彙が剥がれて、殺した声の隙間から、女の音だけが漏れ始めた。

 

「……っ♡♡ ……ん——んぅ——っ♡♡ ……もう——きます——わたし、もう——っ♡♡」

 

そのとき、天幕のすぐ外を、見回りの足音が通った。

 

エリナの全身が硬直した。中が、絞るように締まった。足音は二歩ぶん止まり——篝火に薪を足して、離れていった。

 

「……〜〜〜っ♡♡♡」

 

声にならない声で、エリナは達した。恐怖と快感の境目のない、鎧の中の絶頂だった。

 

「……いったな。見回りで」

 

「……い、言わないで、ください……っ♡ ……最低です……わたし……騎士なのに……っ♡」

 

「仕上げだ。祝福を注ぐ」

 

「……はい……っ♡ ……奥に——明日の分まで——お願い、します——っ♡♡」

 

奥まで入れて、出した。

 

「——っ♡♡♡」

 

エリナは籠手を噛んだまま、長く震えた。鎧の下に注がれたものを、一滴も落とさないように、内腿を閉じて。

 

身繕いは、騎士らしく速かった。草摺を直し、下履きを上げ、髪を撫でつけ——最後に、胸甲の上から自分の胸に手を当てた。

 

「……これで——明日は、負けません」

 

「負けてもいい。生きて戻れ」

 

「……その言い方は、ずるいです」

 

エリナは甲冑の襟を直して、騎士の顔に戻って、自分の陣へ歩いていった。歩き方だけ、ほんの少し、ぎこちなかった。

 

────

 

篝火の向こうに、遠見の街の灯が見えた。

 

あの灯りのどこかの奥殿で、栞が寝ずに空を見ているのだろう。風音と小夜に挟まれて、川の字の——真ん中の一本で。

 

俺は符叢の帯に手をやった。

 

押し花の栞が、札の間で少しだけ角を立てていた。

 

名前だけ連れてきた。連れてきた名前に、まだ勝ち戦しか見せない予定でいる。

 

予定通りに行けば、だが。

 

東の空の下で、機械の陣の篝火だけが、等間隔に並んでいた。火の間隔まで規格で刻んだような、気味の悪い夜だった。

 

────

 

二日目の朝、こちらは番替えを宣言した。

 

軍鑑の条では、休戦をまたいで盤の打ち手を替えられる。旗と符叢は替えられない。替えられるのは人だけだ。百枚の合戦符叢は軍の百枚——うちの符叢には、俺の色衣の動線と、律也の炎武者と、そしてエリナの円卓の翼が編み込んである。

 

「式軍、本日の打ち手——エリナ・ソルベルク」

 

記録官の読み上げに、東の一角がわずかに反応した。

 

ヴァンダリア義勇技術士官団の陣。算盤の音が一度止まって、クラウス・フォン・シュタッヘルが自ら盤に着いた。

 

「……来た」とエリナが小さく言った。

 

「読み通りだな」

 

「はい。あの男は、私が出れば必ず自分で出ます。……感傷ではありません。『離反資産の性能検証』です。私の現在値を、自分の目で計測しに来る」

 

「なら、高くついたと思わせてやれ」

 

「そのつもりです」

 

エリナは兜を抱え直して、盤に向かった。歩き方が騎士のそれに戻っていた。

 

二日目の盤面は、消耗の応酬になった。

 

クラウスの翼は、初日の算定と同じ型で、より徹底していた。規格式突撃兵——同じ顔の機械兵が、毎手番、同じ角度で突っ込んでくる。壊せば壊れ際にこちらの符叢を一枚齧り、壊さなければ蒸気鎧を着て二枚齧る。約定:規格化焼却が両軍の符叢を毎手番一枚ずつ焼く。自分も減るのに、あちらは平気な顔だ。補充の効率が違うから、対等な出血はあちらの得になる。

 

「壊しても壊しても、同じ札が出てくる……」律也が唸った。「気持ち悪いですよ、あれ。さっき壊したやつが、また出てきてるみたいだ」

 

「実際、また出てきてる。四枚積みの規格兵だ。あの符叢に『一点もの』はほとんどない」

 

「符叢って、その人の履歴なんじゃないんですか」

 

「あちらの思想では、履歴は不良資産だ」

 

エリナは、対照の極みで戦った。

 

一騎だった。

 

聖旗の白銀騎士。円卓の翼の中心。エリナはその一体に、聖旗を持たせ、聖剣の祝福を重ね、従騎に脇を固めさせた。量産の波の中に、名前のある騎士が一人だけ立っている。

 

聖約:白銀円卓が場に敷かれると、クラウスの展開が一手番一体に縛られた。物量の蛇口を、契約で細める。

 

「ほう」クラウスが初めて声を出した。「対量産の最適解を、教本通りに」

 

「教本はあなたたちに書かされました」エリナの声は平坦だった。「円卓の騎士は、あなたたちの帳簿に資産として載せられたまま、戦わされていた。……知っています。今は、違う場所で戦っているだけです」

 

「ええ、存じています。資産の毀損は把握していました」

 

来た、と俺は思った。エリナの言っていた通りの言葉が、言っていた通りの温度で。

 

「毀損、ですか」

 

「円卓第三席の離反は、帳簿上、軽微な損失として処理済みです。あなたの市場価値は皇帝選挙の広告塔としてのもので、実戦価値は当時から二線級と算定していました。……ですが」

 

クラウスは手を止めずに続けた。

 

「本日の観測値は、算定を上回っています。装備効率、判断速度、損切りの躊躇のなさ——いずれも旧値の三割増し。興味深い。環境を変えた資産が増価する事例は、我が国では稀です」

 

「……それは」

 

「そこで提案です。ヴァンダリアは、あなたを買い戻します。現在の観測値に基づく再算定で。式符侯の下より、良い条件を保証しましょう」

 

盤を挟んで、それを言うのか。

 

エリナは、三秒黙った。それから、笑った。声を立てずに、騎士の姿勢のまま。

 

「……値札は、自分で外しました」

 

「ふむ?」

 

「私は毀損ではありません。成長です。——あなたの帳簿には、その欄がないだけです」

 

白銀騎士が、量産兵の壁を正面から割った。

 

聖剣の祝福が乗った一撃は、突撃兵を三体まとめて薙いで、そのまま算定官の本体に届いた。統率傷が入る。クラウスの符叢が、音を立てて削れた。

 

「——観測値、修正します」

 

クラウスは顔色を変えなかった。変えないまま、緊急補充の布石を三枚連続で開いて、亀のように守りを固めた。攻めを完全に捨てた守り方だった。

 

昼過ぎから日没まで、エリナは押し続けた。クラウスは守り続けた。命運の勘定ではこちらの勝ちだ。だが、潰し切るには届かなかった。

 

日没の鐘。

 

「……逃げ切られました」エリナが戻ってきた。汗と、収まりきらない何かで顔が光っていた。「申し訳ありません。あと三手あれば」

 

「充分だ。今日の勘定を見ろ。あちらの命運は残り十九。統率傷も積んだ。……それより、気になることが一つある」

 

「はい」

 

「クラウスは今日、勝ちを買わずに延命を買った。緊急補充を三枚——あれは本来、攻めの継ぎ目に使う札だ。守りに三枚吐くのは、損得で打つ男のやることじゃない」

 

「……何のための、延命ですか」

 

「それが問題だ。時間を買う理由が、あの陣のどこかにある」

 

東の本陣を見た。

 

煉十郎は、今日も動かなかった。紅炉本軍の盤面だけが、初日と寸分違わぬ精度で回り続けている。歯車が墓地に落ちる数を、俺は今日も数えていた。四枚。ちょうどに向かって、静かに積んでいる。

 

盤面は読める。読めるのに、胸のざわつきが消えなかった。

 

────

 

夜営に、冬子が来た。

 

星読みの帳面を胸に抱えて、天幕の入り口で立ち止まった。その立ち方で、茶飲み話でないことはわかった。

 

「読めない動きが、あります」

 

「聞こう」

 

「戦場の星は、全部読めています。六つの軍、二千の兵、桟敷の観客まで。心のあるものは、星に映ります。……ですが」

 

冬子は帳面を開いた。白原の外周に、鉛筆の薄い円がいくつも描いてあった。

 

「戦場の外に——映りの薄い群れが、います」

 

「薄い、とは」

 

「星は心を映すんです。心の薄いものは、映りが薄い。……普通の兵なら、恐れや昂りで、夜はむしろよく映ります。この群れは、ほとんど映らない。いることだけが、輪郭でわかる」

 

心の薄い兵。

 

嫌な言葉が、頭の中で像を結んだ。式符化。ヴァンダリアの技術。体に符を刻んで、意識を上書きする——アニメ第三部で見た手口。心を薄くされた兵は、星読みの網の目をすり抜ける。

 

「数は」

 

「読めません。五かもしれず、五十かもしれず。……位置も、夜の側、としか」

 

「夜の側」

 

「街道の北。山裾です。——遠見の、方角です」

 

俺は即座に手配をした。奥殿への伝令。警備の倍増。苑子の手の者を山裾の道に二組。風音と小夜への文には「夜間、栞を蔵の間から出すな」と書いた。

 

書きながら、頭の中では読みを組んでいた。

 

——狙いは隠し蔵だ。宝庫の在り処を探る斥候。式符化兵は貴重品だ、多くは割けない。十かそこらの偵察部隊。奥殿には風音と小夜がいる。蔵は移してある。十人までなら、あの二人で足りる。

 

計算は、していた。

 

────

 

天幕に戻る途中、後方の祈祷所に灯りが見えた。

 

セレスティーナが、まだ祈っていた。聖華の正装のまま、簡易の祭壇の前に膝をついている。政治のための祈り——そう手配したのは俺だが、この女の祈りの姿勢は、政治にしては真っ直ぐすぎた。

 

「まだ起きていたのか」

 

「祈りの当番ですもの」セレスティーナは振り向いて、少し笑った。「エリナには祝福を差し上げたそうですね。昨夜」

 

「耳が早いな」

 

「陣中の噂は祈りより速いんですのよ。……では、司祭には何をくださいますの」

 

「何がいる」

 

「——懺悔を、聞いてくださいませ」

 

セレスティーナは祭壇の蝋燭を一本残して吹き消した。

 

「今日の祈りの間、わたくし、不敬でしたの。神々の御名を唱えながら——あなたの勝つ顔ばかり、思い浮かべておりました」

 

「それは確かに不敬だ」

 

「ですから、罰を」

 

「懺悔の作法は」

 

「……罪を、口で申し上げます。赦しは——体で、いただきます」

 

祭壇の陰に、膝をつかせた。祈りの姿勢だ。組んだ両手を祭壇の縁に、額をその上に。深紅の聖装は一枚も脱がさず、裾だけを腰までたくし上げた。蝋燭一本の灯りに、白い臀部が浮かぶ。

 

「懺悔を続けろ。止まったら——俺も止める」

 

「……っ。い、意地の悪い、赦し方ですわ……」

 

後ろから、ゆっくり入れた。

 

「——ん、んぅ……っ♡♡」

 

「一つ目」

 

「……ひ、一つ……祈りの最中に——殿方の、勝つ顔を——思い浮かべました……っ♡ ……三度……いえ——ご、五度……っ♡♡」

 

「正直でよろしい。二つ目」

 

律動を、告白の速さに合わせた。ゆっくり話せばゆっくり、詰まれば止まる。セレスティーナはすぐに理屈を悟って、真っ赤になった。

 

「……っ♡ ……ず、ずるい……止まると——つらいのは——わたくし——っ♡♡ ……ふ、二つ目——聖務の帳面に——遠見の日付ばかり——数えて——っ♡♡」

 

「三つ目」

 

「……み、三つ目……っ♡♡ ……戦のさなかに——こんな——祭壇の陰で——嬉しいと、思って——っ♡♡♡ ……いま——思って、いますこと——っ♡♡♡」

 

ぐちゅ……ぬちゅ……。

 

聖装の絹が、腰を打つたびに乾いた衣擦れの音を立てた。祭壇の蝋燭が揺れる。外からは、陣の詠唱と篝火の音。神の家の形をした天幕の陰で、元枢機卿が祈りの姿勢のまま崩れていく。

 

「……かみさま——ごめんなさい——♡ ……でも——とまりません——っ♡♡ ……わたくしの、はたけ、が——っ♡♡」

 

「畑?」

 

「——ちがっ♡ ち、比喩は——封印して——おりましたのに——っ♡♡ ……出ます——崩れると——出ますの——っ♡♡♡」

 

「懺悔が増えたな。四つ目だ」

 

「……よ、四つ目——比喩を——まだ、捨てきれて——おりませ——っ♡♡♡ ……あっ♡ ……おく——そこ——っ♡♡♡」

 

告白の呂律が、溶け始めた。

 

「……ごつ目……いつつめ——なんでしたかしら——っ♡♡♡ ……もう——数字が——わからな——っ♡♡♡♡」

 

「なら締めだ。赦しがいるか」

 

「——いりますっ♡♡♡ ……ゆるしを——おく、に——そそいで、くださいませ——っ♡♡♡♡」

 

祈りの姿勢のまま、最奥で出した。

 

「——んんん……っ♡♡♡♡」

 

組んだ両手が祭壇の縁を握りしめて、聖装の背中が波打った。蝋燭の火が、一度だけ大きく揺れて、戻った。

 

「……あぁ……♡ ……ゆるされ、ました……♡ ……たっぷり……♡」

 

「都合のいい神学だ」

 

「……天声派ですもの……♡ ……今の声が、啓示ですわ……♡」

 

終わってから、セレスティーナは乱れた裾を直しながら、ふと真顔になった。

 

「……一つご報告を。祈りの間、ずっと耳に障っていたことがあります」

 

「言え」

 

「あちらの陣の詠唱——夜の勤行の声が、揃いすぎています。人の祈りは、ばらつくものです。眠い者、怖い者、家を思う者。声はどうしても、ほつれる。……あの陣の夜の声には、ほつれが一つもありません」

 

「……心が、薄いからだ」

 

「まあ。……では、あれは」

 

「祈りじゃない。動作確認だ」

 

セレスティーナはうすら寒そうな顔をした。

 

────

 

天幕で一人になってから、符叢の帯の栞に触れた。

 

明日は三日目。エリナがクラウスを削り、英稟の甕星が一斉射の機を待ち、浅葱の要塞はまだ立っている。盤の上の戦況は、悪くない。

 

夜の側の山裾で、星に映らないものたちが、静かに数を揃えている。俺はその数を、十かそこらと見積もっている。

 

読みは立てた。

 

立てた数字が違っていたことを、俺はまだ知らない。

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