『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
三日目の昼、戦況はこちらに傾いた。
七耀の鈴が三度鳴って、英稟の甕星が一斉射を放った。溜めに溜めた輝星を弾に変えた星の雨が、鋼輪衆の陣を正面から割った。紅蓮骨格が二度目の霊体化に沈み、鋼輪衆の命運は残り十四。浅葱の土公はまだ立っている。エリナに削られたクラウスは、今日も亀のままだった。
数字の上では、勝ちの坂に入っていた。
なのに、ざわつきは消えなかった。
紅炉本軍は今日も、勝ちに来なかった。煉十郎の盤面は精密に回り、墓地の歯車は五枚——ちょうどまであと一枚を、わざと積まずに温存している。待っている盤面だった。何かを。
日没の鐘が鳴ったとき、俺は自分の読みをもう一度検めた。夜の側の群れ。十かそこらの斥候。蔵狙い。奥殿には警備の倍増と、風音と小夜。
足りる、と俺は読んでいた。
夜半、遠見の空が光った。
天幕を出た瞬間に見えた。街の方角の夜空が、下から突き上げるように明るんで——桜色だった。花弁の柱が、月を掠める高さまで立ち上がっていた。
一拍遅れて、狼煙。三本。
三本は「敵襲」ではない。「敵襲・多数・内郭」だ。
「馬ァ!!」
自分の声が、自分のものでないように遠かった。
────
俺は街道を馬で割っていた。
遠見の空の花弁の柱は、近づくほどに太くなった。すれ違った伝令が、馬上から叫んだ報告は三つ。賊は三十余。警備は壊滅。奥殿の最終防衛線——交戦中、状況不明。
三十余。
読んでいなかったわけではない。夜の側の群れも、蔵狙いも、読んだ。読んだ上で、規模を十かそこらと置いた。式符化兵は貴重品だから多くは割けない——それも含めて、全部、俺の側の常識で読んだ数字だった。
軍鑑符闘は、盤の決着に全てを預ける作法だ。二千の兵を並べておいて、誰も剣を抜かない。その約定の重さを、俺は疑わなかった。盤上で勝ち筋を積んでいる最中に、その盤を自分から軽んじる——符士には、あり得ない発想だ。少なくとも、俺には読めなかった。前の世で俺が重ねてきた対局は、すべて遊戯だった。遊戯の盤には、盤の外がない。負けて失うのは勝敗だけで、盤を捨てて得られるものは何もない。盤の外から対局そのものを殺す一手は、俺が万回打った遊びの中の、どこにも存在しない手だった。
煉十郎は、符士ではない。あの男にとって盤は工程の一行で、別の行に「回収」と書いてある。盤で勝つ必要すら、最初からない。白原の盤は、俺たち全員をあの平野に釘付けにしておく——ただの留め金だった。
(……読み負けた)
盤の内で読み勝って、盤の外で、読み負けた。
手綱を握る手が、白くなった。
(二人が、いる)
風音。小夜。俺の盤面で、最後まで安全圏に置いたはずの二人。その安全圏に今、三十余が踏み込んでいる。
状況不明。伝令の四文字が、これほど重い夜はなかった。
怒りは、あった。だがそれ以上に、背筋を冷たいものが這っていた。
この夜襲は回収作戦だ。回収には、受け取りに来る者がいる。三十の賊は露払いで、露払いの後ろには——
前方の夜空で、花弁の柱が、二つに割れた。
割れた間から、遠見の星が見えた。
星が、泣いていた。そうとしか言えない揺れ方で、夜空全体が明滅していた。
「……間に合え」
俺は馬の腹を蹴った。
────
奥殿の門は、内側に倒れていた。
馬を乗り捨てて、俺は敷地に入った。庭は桜の吹雪で、視界が白かった。倒れた警備の符士たち。壁際に寄せられた近侍——生きている。呼吸で分かる。連中は誰も殺していない。殺さない几帳面さが、かえって底冷えした。
残った賊は十ほど。渡り廊下の入り口に、それが立っていた。賊の一人が短く「甲号」と呼んで、道を空けさせた。
人の形をした、符叢そのもの。胸元に式符の窓が並び、俺を見て、その一つが光った。
「式符侯 式世一。戦闘値——」
「よせ」
声は、奥から来た。
「お通ししなさい。証人は多い方がいい」
桜吹雪の奥、蔵の間へ続く渡り廊下の前に、紅炉煉十郎が立っていた。
本陣にいるはずの男が、ここにいた。羽織も乱れていない。夜襲の現場に、昼の執務室の顔で立っていた。
「これは式符侯。夜分に、遠いところを」
「……あんたが自分で来るとはな」
「回収は工程の最終段です。最終段は、責任者が立ち会う。それだけのことです」
俺は廊下の手前で足を止めた。
止めたのは、見えたからだ。
扉の前に、風音が倒れていた。扉の桟に指をかけた形のまま。符叢は散り、帯に押し込んだ跡だけが残っている——最後は符士の技を捨てて、体一つで塞いだということだ。廊下の床に、符撃の焦げ跡が三つ。三度分。三度、あれの前に立ち直ったということだ。
柱の根本に、小夜が崩れていた。天井裏の板が二枚外れ、毒煙の染みは敵の側にだけ寄っている。狩りの手順は、どこにも狂いがない。ただ一本——柱の高いところに、影縫いの針が刺さっていた。甲号の立ち位置から、指二本分。三月前のこの女なら、外さない距離だ。
指二本分。三月分の、幸せの重さの分だけ、逸れた針だった。
二人とも、胸が上下している。生きている。
終局図は、読めば分かる。この廊下で何があったかは、倒れ方と傷と札の散り方が、全部語っていた。読めていなかったのは——読み違えていたのは、俺の方だ。
生きている、を確認した俺の中で、何かが順番に、静かに冷えていった。
「……規格外の抵抗でした」煉十郎が二人を一瞥した。「予定損耗の三倍を出されるとは。ですが——誤差です」
「誤差」
「工程は最終段に達しています。式符侯。あなたには証人をお願いしたい。これから行われるのは略取ではなく、譲位です。帝国法の手続きに則った、穏当な」
煉十郎は懐から書状を出した。譲位の詔書。署名の欄だけが、白い。
「陛下」
煉十郎は、扉に向かって呼びかけた。ノックすらした。丁寧に、三度。
「お迎えに上がりました。……この扉は、内からしか開かない造りのようだ。開けていただけますか。あなたが開けなければ、誰にも開けられない」
——そうだ。
その扉は、内からしか開かない。開けるかどうかは、最後の最後で、あの娘だけのものだ。
長い沈黙があった。
俺は動かなかった。動けなかったのではない。動かないと、決めていた。理由はまだ、自分に説明できていなかった。
やがて。
閂の音がした。
扉が、内側から開いた。
栞が、立っていた。
寝間着のままだった。裸足だった。両腕に漆箱を抱えていた。箱は鳴り続けていた。九つの封が、九つの音で。
栞は敷居をまたいで、まず風音の横に膝をついた。それから小夜のところへ行って、膝をついた。二人の呼吸を確かめる間、誰も何も言わなかった。煉十郎すら、待った。工程表に「待つ」と書いてあるような待ち方だった。
小夜の指が、畳の上でかすかに動いた。薄目が、一瞬だけ開いたように見えた。夢と現の間で、何かを見た目だった。
栞は立ち上がった。
そして、倒れた二人と煉十郎の間に、立った。
「……初めまして、に、なりますか」
声は震えていた。膝も、箱を抱く腕も。
「紅炉煉十郎、です、よね」
「御意。……お初に御意を得ます、陛下」
煉十郎は臣下の礼を執った。完璧な角度で。完璧な角度のまま、譲位の詔書を差し出した。
「道中でお読みいただくつもりでしたが、この場で申し上げます。条件は三つ。譲位。宝庫の返納。鋼輪領での静穏な余生——幽閉という言葉は使いません。警備つきの離宮です。読み書きも、庭も、猫も許されます」
「……猫も」
「調書にございます。夜長、と」
底冷えのする几帳面さだった。この男は、栞の暮らしを全部、調べ上げている。
「代わりに、あなたが署名すれば——誰も死にません。この戦は今夜で終わり、諸家の抵抗は根拠を失い、継承は完了します。内乱の死者は、盤の上の数字だけ。……継承コストが、最小になります」
「……」
「陛下。あなたは悪い君主ではなかった。記録を精査しました。裁可の遅い君主ではあった。ですが悪意の裁可は一度もない。……ただ、高くつく君主だった。それだけです。個人の資質の問題ですらない。仕組みの問題です。あなたが署名を拒めば、死者が出ます。署名すれば、出ません。これは脅しではなく、算術です」
正しい算術だった。
反吐が出るほど、正しい。この男の言葉には嘘が一つもない。嘘のない言葉だけを積んで、人をどこへでも運んでいく。
栞は、長いこと黙っていた。
震えは、止まっていなかった。止まっていない震えのまま、栞は口を開いた。
「……あなたの言うことは、たぶん、正しい計算です」
「恐れ入ります」
「わたしは、ずっと、そういう計算から逃げてきました。裁可が遅かったのは、そのせいです。決めれば誰かが損をする。だから決めない。……あなたの言う通り、高くつく君主でした」
「ご自身でお分かりなら——」
「でも」
栞の声が、そこで変わった。
震えたままだった。震えたまま、芯だけが、通った。
「今夜、この廊下で、わたしは全部聞いていました」
「……」
「警備の人たちが沈黙する音を。近侍が斬られる音を。風音さんが——三度、立ち上がる音を。小夜さんが、最後に、出てくるなと言うのを。……扉一枚の内側で、膝を抱えて、全部」
栞は箱を抱え直した。
「あなたの算術には、この夜の音が入っていません。風音さんの三度目の足音の値段が、入っていません。……入れられないんです。あなたの帳簿には、その欄がない」
——聞いた台詞だった。
エリナがクラウスに言った言葉と、同じ形をしていた。教えてもいないのに、この娘は扉の内側で、同じ場所に辿り着いていた。
「わたしは、ここで、初めて守りたいものができました」
栞は言った。
「計算に入っていないものが、ここにあります。だから——署名は、しません」
煉十郎は、書状を持ったまま、初めて瞬きをした。
「……再考を。陛下、それは死者のでる判断です」
「いいえ」
栞は首を振った。
「誰も死なずに決着する道が、あなたの持ってきた律令の中に、ちゃんとあります。……それを選びます」
栞は漆箱を、廊下の床に置いた。
蓋を、開けた。
九つの封が、一斉に光った。桜吹雪が渦を巻いて廊下に流れ込み、九つの光と絡んで柱になった。夜が、昼の色になった。
「神符帝国第百二十六代符帝——空夜」
娘は名乗った。寝間着のまま、裸足のまま、震えたままで。
「軍鑑の条、親征の条に拠り、白原の合戦符闘に、朕の軍を立てます」
朕、と言った。
初めて聞く一人称だった。たぶん、本人も生まれて初めて、自分の意思で使った一人称だった。
「符帝の旗を、七つ目に立てます。賭けるものは、帝位と、この身。……受けますか、紅炉煉十郎」
沈黙は、三拍あった。
この夜、初めて、煉十郎の工程表に無い頁がめくられた音を、俺は確かに聞いた。
だが、この男の恐ろしさは、その先だった。
「————いいでしょう」
煉十郎は詔書を畳んで、しまった。
「予定を変更します。譲位の詔書より、上等な文書が手に入る。……公式の場で、符帝御自身が敗れた記録。これに勝る継承の根拠は、この世にありません」
「では」
「はい。白原にて。——最も高価な検証を、させていただきます」
煉十郎は深く礼をして、踵を返した。甲号と残兵が、音もなく従った。門のところで一度だけ振り返って、俺を見た。
「式符侯。よい観測でした。……あなたの陣の娘が、こうなると計算していましたか」
「……いや」
俺は正直に答えた。
「計算の外だ。いつもな」
「羨ましいことです」
それは、皮肉に聞こえなかった。聞こえなかったことが、一番不気味だった。
────
賊が去って、屋敷が動き出した。符治師が走り、風音と小夜が運ばれ、近侍が手当てを受けながら「御衣を」と譫言のように繰り返した。
手当ての合間に、断片だけ聞いた。警備の生き残りは「……あんなの、人じゃない」とだけ言った。小夜は一度だけ薄目を開けて、俺にではなく天井に向かって「……遅くなったの、知ってて——それでも後悔してないって言ったの、わたしなので」と言って、また落ちた。風音は目を覚まさなかった。覚まさないまま、指だけが時々、何かの桟を掴む形に動いた。
栞は、箱の前に座り込んでいた。
名乗りの気が抜けて、ただの十六の娘の背中に戻っていた。俺はその横に膝をついた。
「……世一さん」
「なんだ」
「……言って、しまいました」
「言ったな」
「……止めるなら、今のうちです。親征なんて、勝てるはずが——わたし、英稟さんにも勝ったことが——」
「栞」
「……はい」
「よく開けた」
栞の目が、見開かれた。
「あの扉は、内からしか開かない。誰にも開けさせられない。……お前が自分で開けて、自分で名乗った。俺はそれを、止めに来たんじゃない」
「……じゃあ、何をしに」
「見に来た」
半分は、嘘だ。馬を潰す勢いで駆けたのは、見るためじゃない。だが着いて、扉の前のあの男と、扉の内のこの娘の間に立った時——俺は、割って入らないことを選んだ。
俺はこの覚醒を待っていた。ずっと待っていた。……だが、この形でではなかった。倒れた二人の前で、待ち望んだものを受け取る夜が来るとは、計算していなかった。
望んだ結果と、望まなかった経路。どちらも忘れる気はない。忘れないまま——今は、次の手だ。
「勝てるはずが、と言ったな」
「……はい」
「勝つのはお前だ。俺には勝たせてやれん。盤域に立つのは、符帝一人だ。……だが、盤域の外は全部、俺の仕事だ。条文も、段取りも、お前が眠っている間に揃えておく。お前は明け方まで寝ろ」
「……眠れる気が、しません」
「なら、目を閉じているだけでいい。一つだけ覚えて眠れ。——明日の白原で、やることは稽古から何も変わらん。出さない手を選び続けろ。それだけでいい」
「……出さない、稽古」
「そうだ。百回やった。百一回目も、同じにやるだけだ」
栞は俺を見て、それから、倒れた扉の向こう——運ばれていった二人の方を見た。
「……風音さんと、小夜さんに」
「うん」
「……起きたら、全部、話します。約束、しましたから。話せることをぜんぶって。……もう、話せないことは、無くなりました」
「そうだな」
栞は九つの封の上に、そっと蓋をした。
箱は、もう警鐘の音では鳴っていなかった。低く、深く、脈のように鳴っていた。主の名乗りを聞いた九柱が、目を覚ましたまま、静かに待機に入った音だった。
夜明け前、白原へ戻る街道で、振り返った。
遠見の空の桜の柱は消えて、代わりに、東の稜線がうっすらと白み始めていた。
四日目が来る。
七つ目の旗と一緒に。