『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
四日目の白原に、七つ目の旗が立った。
夜明け、俺たちの陣に横付けされた車から降りたのは、もう寝間着の娘ではなかった。
御衣。
近侍が、包帯を巻いた手で夜通しかけて着せたのだという。宝庫と共に帝宮から持ち出されていた、符帝の正装。白地に九柱の紋。小さい体には二回りも大きいはずのそれが、不思議と、大きく見えなかった。
「……変じゃ、ないですか」
「変じゃない」
「歩き方が、まだ、袖に負けます」
「負けたまま歩け。似合ってる」
「……はい」
陣を出て、盤域へ向かう道を、空夜は自分の足で歩いた。
最初に気づいたのは、こちらの兵ではなかった。東軍——紅炉方の徴募兵の列から、どよめきが起きた。年かさの兵が一人、指をさして、それから慌てて指を引っ込めて、膝をついた。
波になった。
星宮の兵が膝をつき、早雲の兵が膝をつき、うちの兵が膝をつき——そして東軍の列のあちこちで、ぽつり、ぽつりと、兵が膝をついた。将校が怒鳴っても、立たなかった。あの兵たちの家は、祖父の代も、その前も、あの旗の下で暮らしてきたのだ。
煉十郎の描いた「抵抗が最小の継承」が、音を立てて高くつき始めていた。
桟敷で白陽が、茶を持ったまま身を乗り出しているのが見えた。数百年ぶりの見ものらしかった。
記録官が駆け寄ってきた。顔面蒼白だった。
「し、親征の条など、当律令の運用実績に——」
「あるわよ」
桟敷から、声だけが降ってきた。白陽は茶を啜りながら、条文をそらんじた。一言一句、古い言い回しのままで。
「……軍鑑の条・第三十一。符帝は何時なりとも自らの軍を合戦に立てることを得る。その旗は七つ目の枠に数えず、諸軍の同盟の外に立つ。——実績なら一度ある。四百年前。……その時の記録官も、あなたみたいな顔をしてたわ」
見てきたような言い方だった。見てきたのだろう。
────
登録は済んだ。符帝軍、一名。統率符士——白陽神祇官・御璽守。
「建御雷じゃないのか」と俺は聞いた。
「旗は、折れない札を選ぶものだと聞きました」空夜は言った。「……受け売りです。建御雷は、旗にすると強すぎます。強い札は、切り札に取っておきます」
受け売りの出所が、俺の受け売りと同じだった。
そこへ、東軍から使者が来た。口上は短かった。
——紅炉煉十郎、符帝陛下に大将符闘を申し入れる。
軍鑑の条・一騎打ちの条。両軍の統率者が合意すれば、全軍の命運を賭けた一対一の符闘で決着に代えることができる。戦国の符将が、兵の消耗を惜しんで使った古法だ。
「受けてはなりません」英稟が即座に言った。「七軍戦なら、我々が盾になれます。一騎打ちは、陛下お一人にすべてが乗ります」
「英稟の言う通りだ」と俺も言った。「断って、七軍で磨り潰す手もある。数字はこちらに傾いてる」
空夜は、少しの間、目を閉じていた。
開けて、言った。
「——許します」
「陛下……!」
「七軍で戦えば、勝っても、みんなの符叢が削れます。符叢は軍で、軍は人です。……わたしのための戦いで、これ以上、誰かの百枚が減るのは、いやです」
それから空夜は、少しだけ、栞の顔で笑った。
「それに——わたし、裁可が遅い君主だったので。最初の裁可くらい、速くしてみたくて」
────
開始前、盤域の手前で、俺は三つだけ言った。
「全部出すな」
「……はい」
「怖いまま決めろ」
「……はい」
「詰まったら、俺の声を聞け。それだけでいい」
「……はいっ」
遠見から早馬の文が届いたのは、その直前だった。符治師の走り書き。——二人とも、命に別状なし。風音は今朝、粥を三杯食べた。小夜は寝言で団子と言った。
空夜はその文を、御衣の胸元にしまった。押し花の栞と同じ場所に俺が挟んでいるものの、対の位置だった。
「……行ってきます」
「行ってこい」
────
大将符闘の盤域が、六角の中央に張られた。六軍が武器を置いて、円になった。二千と千五百が、一つの盤域を見る。数百年ぶりの光景だった。
初期指定式符の公開。
煉十郎——規格歯車兵・一号。
空夜——天命宝典・万象詔録。
「僭越ながら、陛下」煉十郎は盤域を挟んで礼をした。「本日の符闘は、記録されます。一手残らず、諸家の記録官の手で。……よい記録にいたしましょう。どちらが勝つにせよ、後世の判断材料になる」
「……はい。よい記録に、しましょう」
「参ります」
機械が、回り始めた。
煉十郎の序盤は、無駄という概念の否定だった。歯車兵が二体ちょうどで札を引き、点火歯車が火一・金一ちょうどで符叢を削り、統制炉が敷かれ、墓地に歯車が一枚、また一枚と、意図した順番で積まれていく。
工程表が、盤域の上で実行されていた。
空夜の序盤は——豪華だった。
豪華で、噛み合っていなかった。
初手の万象詔録が符叢を掘って、手札にURが並ぶ。建御雷。多々良。常世苗。水鏡。九柱のうち四柱が、開幕三手で娘の掌中に集まった。
まずい引きだった。強すぎる手札は、あの娘の一番古い傷を撫でる。
空夜は御門を置いた。そこまでは良かった。御璽守は統率陣にいる。呼べば「ちょうど一体」が揃う。稽古の通りだ。
だが煉十郎の焼却が二連で走って、命運が音を立てて削れた瞬間——空夜の手が、動いた。
常世苗。
「……っ、あ」
置いてから、気づいた顔をした。
場に二体。天岩戸御門が、静かに崩れて墓地に落ちた。皇城の結界が、自分の手で壊された。
どよめきが円をなぞった。稽古で百回やった失敗を、本番の恐怖が百一回目にさせた。
隣で英稟が、鎧の籠手を軋むほど握り込んだ。声は出さなかった。出せば陛下の耳に入る。入れば、余計に乱れる。分かっているから、この女は音を殺して拳だけ握る。
「……あれ、まずいんですか」と律也が小声で聞いた。
「城の結界を、自分で壊した。……稽古で百回注意された手だ」
「じゃあなんで」
「百回注意されても出る手だからだ。恐怖は、稽古を上書きする」
「——ご覧なさい、諸君」
煉十郎の声は、盤域よりも観客に向いていた。
「素晴らしい資産です。一枚一枚は、私の符叢の全てより高い。ですが——再現性がない。今の一手は、三日前の陛下なら打たなかったでしょう。三日後の陛下なら打たないでしょう。つまり今日の帝国は、たまたま今日の陛下の指先に預けられている。……これが、個人の資質に依存する統治の姿です」
正しくて、意地の悪い講評だった。この男は盤上で政をやっている。一手ごとに、観客の中の「様子見の諸家」に向けて。
空夜の顔から血の気が引いていくのが、ここからでも分かった。
そして、俺には別のものも見えていた。
札が、鳴っている。
空夜の手札の中で、九柱が鳴っていた。昨夜、主の名乗りで目を覚ました神々は——出たがっていた。使え、と。呼べ、と。振るえ、と。手札のURの一枚一枚が、娘の指に熱を送り込んでいる。
恐怖が並べさせ、神々が急かす。内と外から、二重に。
煉十郎の墓地に、五枚目の歯車が落ちた。
ちょうど六枚まで、あと一枚。場の火と金は、すでにちょうど二枚ずつ。紅蓮獄の特殊実体化——完成が、見えていた。
「次の周期で、終わらせます」煉十郎が言った。宣告ではなく、工程の読み上げとして。
空夜が、札を引いた。
引いた札の上で、指が止まった。
角度で分かった。建御雷だった。
盤面は、出せば通る形をしていた。実体化の効果で統制炉を砕ける。砕けば周期が一手遅れる。手札の代償を全部積めば、出せる。出せば、この窮地の景色が一度だけ変わる——ように、見える。
稽古と同じだ。あの夜と、同じ形。
だが今日は本番で、後ろに二千の膝と、遠見の病床の二人と、山の上の寝顔が乗っている。震える指が、札を持ち上げかけた。
俺は、円の外から、一言だけ投げた。
「栞。——出すな」
円がざわめいた。符帝を、女中の名で呼んだ男に。
「……栞?」「誰だ、栞って」「符帝陛下を、いま——」
ざわめきは円を三周した。東軍の将校が眉をひそめ、記録官の筆が止まり、桟敷の白陽だけが、湯呑の陰でにやりとした。
呼び方の正否など、どうでもよかった。
あの娘が三月かけて手に入れた名前は、符帝の方じゃない。追い詰められた盤面に届く名前は、玉座の名前じゃない。夜話の輪の中で呼ばれた名前、団子を分け合った名前、猫に膝を貸した名前——守りたいものの目録と、同じ側にある名前だ。
だから、届いた。
空夜の肩が、一度だけ上下した。息を吐く音が、ここまで聞こえた気がした。
建御雷が——手札の奥へ、沈んだ。
「……見送ります」
代わりに、空夜は黒曜黄泉原の勅封を切った。統制炉ではなく、点火歯車を縛った。周期の歯を、一枚だけ、静かに抜く手。派手さの欠片もない、稽古で覚えた通りの、泥臭い一手。
煉十郎の手が、初めて、半瞬止まった。
「……ほう」
工程表の男が、盤面から目を上げて、初めて空夜の顔を見た。資産ではなく、打ち手の顔を。
「今のは——誰の一手ですか、陛下」
「……わたしの、です」
空夜は言った。まだ震えている声で。震えたまま、初めて、盤域の向こうの男の目を見返して。
「わたしの一手です。ぜんぶ、これから、そうです」
手札の中の九柱の音が——半音、静かになった。
俺にだけ、分かった。
神々が、聞き始めている。
勅封で稼いだ一周期を、煉十郎は正確に取り返しに来た。
再配置レールで盤面を組み直し、焼却式符砲が空夜の命運を削る。残り九。あちらの墓地は歯車五枚。場の火と金は、いつでもちょうどに揃えられる形で待機している。六枚目が落ちた瞬間、紅蓮獄が来る。
空夜は、目を閉じていた。
自分の手番で、だ。円になった数千人が見守る盤域の中で、符帝は目を閉じて、動かなかった。
「……投了のご準備なら、いつでも」と煉十郎が言った。
空夜は答えなかった。
代わりに——白原の風が、花弁を運んできた。
遠見から二里。桜のあるはずのない枯れ野の盤域に、白い花弁がひとひら、ふわりと落ちた。
空夜が、目を開けた。
そして、手札に向かって——話しかけた。
「……ねえ。聞こえてるんですよね、あなたたち」
円がざわめいた。符帝が、札に話しかけている。
「昨日から、ずっとうるさいくらい鳴って。出せ、使え、呼べって。……ごめんなさい。わたし、ずっと勘違いしていました。あなたたちが怖いんだと思ってた。あなたたちの声が、責めてるんだと思ってた」
空夜は一枚ずつ、手札を並べ直した。
「違うんですよね。あなたたちは——応えてただけ。わたしが怖がれば軋んで、わたしが嬉しければ鳴って。帝宮でずっと重かったのは、わたしがずっと、重かったから」
足元に落ちた花弁に、指先で触れた。
「……思い出させてください。わたしが、何を持ってるか」
そこから空夜が口にしたのは、戦術でも、祈りでもなかった。
目録だった。
「小夜さんの、串の焦げた端っこをくれるときの顔」
封がひとつ、鳴った。
「風音さんの、符闘に誘うときの、符叢の束を叩く癖」
ふたつ。
「雪さんが預けてくれた、澄の重さ。夜長が膝で寝るときの、あの、諦めた感じの重さ。苑子さんのお茶の温度。英稟さんの、怒ってるみたいで怒ってない講評」
みっつ。よっつ。いつつ。
円の中の誰も、動かなかった。
数千人が、少女が札に宝物の目録を読み上げるのを、聞いていた。英稟は目を閉じて聞いていた。浅葱は「なにあれ」と呟いたきり、目が離せなくなっていた。エリナは胸の前で、無意識に聖印を組んでいた。祈りの形だと、本人は気づいていなかったと思う。
「近侍が、御衣を着せてくれた手の、包帯の結び目。苑子さんが二杯にしてくれる、お茶。浅葱さんが三日かけて磨いてきた、土公の原符」
「なっ……なんで知って——」桟敷側で浅葱が声を裏返した。
「冬子さんの帳面の、小さい星の頁。エリナさんの、朝の素振りの数。セレスティーナさんの、ばらつく方の祈り。律也さんの、負けた後に強くなる癖。白陽さんの——おいしそうに、お茶を飲む顔」
封の音が、重なっていく。ひとつ鳴るたびに、盤域の花弁が増えた。
「……世一さんの」
そこで空夜は少しだけ黙って、続きは言わずに、笑った。
九つ目の封が、いちばん深く鳴った。
「——そっか」
娘は、手札を持ち直した。
「あなたたちは、ずっと、わたしと一緒に動いていたんですね。……なら、今日は一緒に来てください。守りたいものの目録は、今の、ぜんぶです」
白原の空の星が——昼だというのに、見えた。
見えるはずのない星が、薄青い空に、瞬いた。桟敷の白陽だけが、それを見上げて、目を細めた。
そこからの符闘は、別のものになった。
「天岩戸御門。——置きます」
二枚目の御門が場に降りて、皇城の結界が盤面を縛った。実体化は互いに一手番一体。物量の蛇口が、閉まる。
「御璽守。——来てください」
白装束の神祇官が、御門の前に座った。ちょうど一体。恵みの引きが、毎手番、空夜の手を潤し始める。
煉十郎は即座に御門の除去に動いた。御璽守が防ぐ。二の矢の除去。空夜の指が勅封にかかり——止まった。
「……撃ちたい。撃ちたいですけど」
早業を使えば、御璽守が退く。御門が裸になる。
「——我慢、です」
見送った。逆算の見送り。除去の二の矢は御璽守の護りの前に落ちて、盤面は動かなかった。動かないことが、こちらの得だった。
煉十郎が再配置レールを切った。組み直しの要の早業。
「宝命水鏡・八咫映し——」
伏せてあった布石が水鏡に開いて、レールを鏡写しに呑んだ。代償の手札二枚を、空夜は迷いなく墓地へ置いた。置きながら、笑ってすらいた。
「手札は、また引けます。あなたの工程は、もう引き直せません」
じり、と煉十郎の足が、半歩前に出た。この男が姿勢を変えたのを、俺は初めて見た。
焦れた機械は、火力に頼る。焼却式符砲の三射目が来る前に、空夜は赫御日子の奉火を手に取って——皆が「撃つ」と思った。五枚焼けば、命運の勘定が並ぶ。
空夜は、奉火を伏せた。
「……撃てば、五枚削れます。でも」
盤域の向こうの墓地を、指さした。
「その五枚が、あなたの六枚目を運びます。歯車が、わたしの火で揃う。……そうですよね?」
円の中で、分かる者から順に、息を呑む音が広がった。奉火の五枚削りは、煉十郎の墓地に歯車を落とし込みかねない。ちょうど六枚。最強の一手が、敵の完成を運ぶ罠に変わる盤面だった。
「……よく、お気づきで」
煉十郎の声から、観客向けの響きが消えていた。
「三日前の陛下なら、撃っていたでしょう」
「はい。三日前のわたしなら」空夜は頷いた。「今日のわたしは、撃ちません。今日のわたしの後ろには、目録があるので」
だが、盤面はまだ、あちらに厚かった。
命運九対十七。符叢の残りも、あちらが上。御門の結界で縛っても、機械は少しずつ、別の道筋で「ちょうど」を目指す。長引けば、削り負ける。
空夜には、資源が要った。あと二手分の、燃料が。
空夜は、自分の手札を見た。
建御雷が、そこにいた。開幕から握り続けて、二度見送った、帝国武神の頂点が。
「……あなたに、お願いがあります」
空夜は建御雷の札を、両手で持った。
「あなたを——薪に、します」
どよめきが走った。俺の隣で英稟が「まさか」と呟いた。
「怒りますか。帝国で一番強いあなたを、切り札にもしないで、燃料にして。……でも、あなたが一番強いから、あなたの一枚で、一番遠くまで行けるんです。だから」
ごめんなさい、ではなく。
「——ありがとう」
そのときだった。
空夜の符叢の一番上で、脇札が一枚、光った。
歴代の符帝が添えた、何の変哲もない祈りの札。その表面から古い文字が溶け落ちて、新しい文字が、誰の手も借りずに、書かれていった。
記録官が立ち上がった。「し、新札の顕現——! 約定の自書です! 文献でしか——ぶ、文献でしか読んだことが……!」
筆を持つ手が震えて、記録が三行分、みみずになった。後世この符闘の記録を読む者は、この三行だけ字が乱れている理由を、注釈で知ることになる。
文字は、ゆっくり書かれていった。
誰の筆跡でもなかった。強いて言えば、九通りの筆跡が一画ずつ交代で書いたような文字だった。九柱が、寄せ書きのように、一枚の札を書いていた。書かれていく言葉を、円の全員が、声もなく見守った。
桟敷で白陽が、茶碗を置いた。
音を立てずに置いて、身を乗り出して、数百年ものの目を細めた。
「……久しぶりに見たわ。札が生まれるところ」
「見たことあるんですか」と、隣の桟敷の商人が思わず聞いた。
「あるわよ。……最初の何枚かは、ぜんぶ、ああやって生まれたの。神様と人が、仲が良かったころにね」
白陽は懐かしそうに、それだけ言った。
盤域の上で、生まれたばかりの札が名乗った。誰もが読める高さに、文字が浮かんでいた。
——世一の指南書・不協和の操縦。
円の視線が、一斉に俺に来た。知らん。俺が書いたんじゃない。書いたのは……あの九柱と、あの娘の三月だ。俺の言葉を、あの娘がどう聞いてきたかの、記録だ。
「ふふ」空夜が笑った。「……あなたたち、聞いてたんですね。稽古、ぜんぶ」
空夜は生まれた札を手に取り、使った。
「指南書、起動。——建御雷を、墓地へ」
帝国武神が、光になって崩れた。崩れながら——巨大な武神の残光が、小さな主に向かって、確かに、頭を垂れた。
神が、自分から薪になった。
札が二枚引かれ、次の神の代償が軽くなり——そこから先は、一本の川だった。
勅封が統制炉の最後の望みを縛り、常世苗が墓地の札を符叢へ還し、水鏡の二枚目が最後の抵抗を呑み、御門と御璽守は最初から最後まで、静かに立ち続けた。
互いに殺し合うはずの九柱が——殺し合ったまま、一本の勝ち筋の上に並んでいた。
仲直りではない。神々は今も、互いに譲っていない。譲らない神々の間を、娘の判断だけが、細い橋のように渡っていく。
不協和の、操縦。
煉十郎の手が、手札の上で止まった。
墓地の歯車は五枚のまま、永遠に六枚にならない。場は一体ずつしか並ばず、レールは呑まれ、砲は罠になり、工程表のどの頁をめくっても、次の行がない。
機械が、止まっていた。
「…………」
煉十郎は、長いこと、自分の盤面を見ていた。それから自分の手札を見て、符叢の残りを見て、最後に——空に浮かんだままの、生まれたての札の名前を見た。
「……なるほど」
男は、羽織の紐を、ゆっくりと解いた。
「工程を——破棄します」
工程の破棄は、見事だった。
煉十郎は手札を全部、盤に伏せた。場に残っていた歯車も、宝具も、約定も——全部だ。積み上げてきた盤面の一切を代償の山に変えて、男は静かに宣言した。
「魔導重皇機・紅蓮獄。——正規の代償で、実体化します」
条件は揃っていない。ちょうどの美学も、連鎖の報酬もない。ただ馬鹿げた量の代償を、力ずくで払っただけの一手。効率の男が生涯かけて否定してきた種類の、燃やす一手だった。
鉄と炎の巨人が、白原に立った。
条件を踏んで出た時の凶悪な付録は、何もついていない。それでも紅蓮獄は紅蓮獄だった。見上げる火力が、小さな符帝を見下ろした。
「非効率です」煉十郎は認めた。「再現性もない。教本には決して書かない一手です。……ですが、目の前の一例に勝つには、これしか残っていない」
空夜は、その盤面をしばらく見て——ふ、と目元を緩めた。
「……今の、あなたの一手ですね。工程表じゃなくて」
煉十郎の眉が、ぴくりと動いた。自分が三手前に投げた問いが、そっくり返ってきた形だった。
「……手厳しい」
「褒めたんです」
紅蓮獄が動いた。
火砲の一斉射。空夜の命運が九から、一気に四まで焼け落ちる。焼け残った盤面で、二射目が組まれる。次が通れば、終わる。
御璽守が、立ち上がった。
主を守れる位置に、白装束が進み出る。空夜が息を呑んだ。
「——だめ、です。あなたは」
神祇官は振り向いて、一度だけ礼をした。それから二射目の火線の前に、静かに座った。
護る者の仕事を、最後まで。
「……あなた、ずっとそうでしたね」
空夜の声が、少しだけ揺れた。
「稽古のときも、昨日も、今日も。わたしが早業を我慢するたび、黙って立っててくれて。……名前も呼ばれない仕事なのに」
白装束は、何も言わない。言わないまま、座り直した。それが答えだった。神祇官の職掌は、千年、そういうものだった。
火線が、来た。
白い光が散った。御璽守が墓地に落ちて、空夜の命運は四のまま残った。
英稟の陣で、天津甕星が長く、細く、星光を鳴らした。弔いの音に聞こえた。あの星の神は、九柱に礼を執った夜から、ずっとこちらの盤域を見ている。
空夜は、散った光の跡を見つめた。泣くかと思った。円の全員が、たぶんそう思った。
空夜は泣かなかった。
「……ありがとう、ございました。——あとは、わたしが守ります」
娘の手番。
引いた札を加えて、空夜は手札を全部、確かめるように扇に開いた。それから、俺の位置からも見えるほど迷いなく、その全部を代償の列に並べた。
煉十郎がやったのと、同じ形。ただし、あちらは追い詰められて燃やし、こちらは——澄んだ顔で燃やした。
「皇祖武神・建御雷。——二度目まして、です」
雷が、白原に落ちた。
二枚目の建御雷。開幕から三度見送られ、一枚目は薪になった帝国武神が、最後の最後に、正規の代償で顕現した。
実体化の効果が、雷の腕を振るう。
紅蓮獄が——正面から、砕けた。
戦闘ですらなかった。顕現の余波だけで、工程の破棄が生んだ最後の巨人は、鉄屑の雨になった。
そして空夜の手札には、最後の一枚が残っていた。代償の列に、あえて積まれなかった一枚。
禁城布都御魂多々良。
装備すれば戦力五が乗る。とどめの一撃が、誰の目にも疑いようのない、圧倒的な数字になる。観客の誰もが、その札が出ると思った。神代の太刀を帯びた武神の一撃で幕、と。
空夜は多々良の札を、そっと符叢の横に伏せた。
「……要りません」
建御雷を見上げて、言った。
「あなたはもう、充分に強いです」
過剰は、載せない。外れた時の三枚も、賭けない。要らないものを要らないと言える手が、最後の一手だった。
建御雷が、駆けた。
雷の一撃が、盤域の向こうの男の符叢を、正面から薙いだ。
残っていた札が、白原の風に散った。
「——勝者」
記録官の声が、割れていた。
「————符帝陛下!!」
歓声が来る前の、数拍の静寂の中で、煉十郎は自分の空になった符叢の跡を見ていた。
「……個人は、制度の誤差に過ぎない」
誰に言うでもなく、男は言った。
「私はそう設計してきました。三十年、そのように帝国を測ってきた。誤差は工程で潰せる。潰せない誤差は、存在しない——」
顔を上げた。
「あなたという誤差が、私の全工程を破壊した。……計算し直す、必要がありますね」
負け惜しみでも、呪詛でもなかった。観測結果を受け入れる技師の声だった。最後まで、この男は自分のままで負けた。
「……最後に一つ、伺っても。陛下」
「はい」
「あなたはただ幸運だっただけだ——後世、必ずそう書く者が出ます。それに、どう答えますか」
空夜は、少し考えた。考えて、頷いた。
「はい。幸運でした」
あっさりと認めた。
「遠見に流れ着いたことも、拾ってくれた人がいたことも、友達ができたことも、ぜんぶ幸運です。……でも」
「でも」
「幸運は、扉の外までしか来てくれません。あの扉は、内からしか開かないんです。——開けたのは、わたしです」
煉十郎は、長い息を吐いた。
それから両膝を折り、両手をついて、頭を下げた。作法通りの、降伏の礼だった。
「東軍全軍、武装を解きます。……我が身の処断は、御心のままに」
「裁きは、帝都で」空夜は言った。「律令に則って、開かれた場で。……あなたが戦にすら手続きを求めた人で、よかった。手続きの中で、裁けます」
「————御意」
男の肩が、ほんの少しだけ、揺れたように見えた。
降伏の手続きは、皮肉なほど滑らかだった。工程の男が組んだ軍は、降伏の工程まで整っていた。武装解除の順序、捕虜の名簿、負傷者の引き渡し——書式は全部、揃っていた。
一つだけ、書式にないものがあった。
甲号だった。
停止命令を受けた式符化符士は、その場に膝をついて、胸の窓の光を一つずつ落としていった。最後の窓が消える寸前、あれは白原の空を見上げて——何かを、探すように、視線を彷徨わせた。
探すものが見つかったのかどうか、窓は消えた。
「……あれは」空夜が小さく聞いた。「元は、人、ですよね」
「元は」と煉十郎が答えた。「志願者です。貧民街の。……衣食と引き換えの志願を、志願と呼ぶなら」
「治せますか」
「ヴァンダリアの術式です。私には解けません。……解ける者がいるとすれば」
煉十郎は少しだけ考えて、負けた男の几帳面さで、正確に答えた。
「聖教の奇蹟か——あるいは、符皇時代の古符の技術。伝承が確かなら、ですが」
空夜は、膝をついたままの甲号を、長いこと見ていた。それから記録官に言った。
「その人たちは、捕虜の名簿とは別にしてください。……病人の名簿に」
そこから先は、音の洪水だった。
歓声。二千と千五百がまとめて上げる声。星宮の兵が旗を振り、早雲の兵が槍を突き上げ、東軍の徴募兵までが——武装を解いた解放感からか、泣きながら膝をついていた。
俺は円の内へ歩きながら、この三月の読みを静かに畳んだ。
覚醒は、読みの内だ。俺が三月かけて研いで、この炉に立たせて、望んだ通りの刃になった。
代償は、読みの外だ。風音と小夜。あの二人に、俺は借りを作った。返し方はこれから考える。安く返す気はない。
そして——あの、札が生まれた瞬間と、幸運は扉の外までという言葉。あれは覚醒の読み筋のどこにも入っていない。あの娘はいつも、最後の一行だけ、俺の読みの外から来る。
盤域の中で、空夜がこちらを向いた。
御衣の肩で息をして、汗だくで、泣き笑いの一歩手前の顔で、俺を探して、見つけた。
「……せいちさん……!」
呼んで、一歩、踏み出して——
止まった。
「……あ、れ……?」
娘の体が、揺れた。
「……なんか……へん、です……足が——」
膝が折れる。俺は駆け出していた。だが届く前に——空夜の背中から、光が立ち上がった。
一本ではなかった。九本だった。
九柱の光背が、御衣の背に扇のように開いて、娘の小さい体を宙に半寸、浮かせた。目から、色が抜けていく。
「せいちさ……とまら、な——」
声が、九重の和音に呑まれた。
白昼の空に、星が満ちた。
夜空の星ではなかった。目録の星だった。あの娘が数え上げた宝物の一つ一つが、九柱の力で世界に描き直されて、空に灯っていく。美しかった。美しくて——多すぎた。増えていく星の一つ一つが、大気を軋ませた。
桜が来た。白原のどこにも無いはずの桜が、吹雪の密度で世界を白く塗り始めた。花弁の一枚一枚が硬い音を立てて具足を叩いた。祝福が、暴風の質量を持ち始めていた。
歓声が悲鳴に変わっていく。
英稟の陣で天津甕星が、悲鳴のような星光を上げて、地に伏せた。浅葱の土公が、自分から岩の殻に籠った。エーデルガルトの原符が、俺の帯で灼けるように熱い。神格が軒並み、頭を垂れるか、隠れるかしていた。格上が全開で泣いている場所に、立っていられる神はいなかった。
大地が、低く鳴った。
宙に浮いた娘の顔には、もう表情がなかった。目は開いているのに、誰も映していない。九本の光背が、ゆっくりと、呼吸のように明滅している。
——分かった。分かってしまった。
あれは怒りでも、力の酔いでもない。
溢れているのだ。勝利の安堵、倒れた二人への想い、三月分の幸福、初めての誇り——今夜まで蓋の中にあった全部が、一度に堰を切って、九柱がその全部に、律儀に、全力で応えている。
心が動けば、神が動く。
動きすぎた心に、九柱の神が、動きすぎている。
止め方を知っている人間は、この世界のどこにもいない。符帝家は千年、蓋の閉め方しか伝えてこなかった。蓋なしで全開にした符帝など、史上一人もいなかったからだ。
「————全軍、退避ィッ!!」
叫んだのは、俺だったと思う。
叫びながら、俺の手はもう、懐の奥の——まだ誰にも見せていない二つ目の符叢の箱に、かかっていた。