『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
遠見に戻って三日は、嵐の後始末で潰れた。
栞は丸一日半、目を覚まさなかった。符治師は「霊力の使いすぎです。器が空です。眠らせて満たすほかありません」と言った。俺は執務の合間に寝顔を見に行き、そのたびに枕元の夜長と目が合った。猫は主の枕元から、一歩も動かなかった。
その間に、世界の方が勝手に動いた。
符帝生存、白原に親征、廃立派の首魁を自ら符闘で下す——早馬が諸道に散って、様子見をしていた符家が雪崩を打った。忠誠の使者が街道に列を作り、遠見は一夜で帝国の臨時の中心になった。宰相派と外戚派からは、慇懃で長い文が届いた。要約すれば一行だ。陛下を、帝都へ。
そうだ。符帝は、帝都に帰らねばならない。玉座は遠見には置けない。
分かっていたことが、期日の形になって迫り始めていた。
目を覚ました栞は、その全部を、御衣を着て受けた。使者の謁見。書状への裁可。煉十郎の身柄の処遇——帝都での公判を、改めて命じた。裁可は、もう遅くなかった。
山の別邸から、朔と澄も戻ってきた。
乳母の腕から受け取った雪が、そのまま真っ直ぐ栞のところへ行って、謁見の合間の符帝の腕に、娘を載せた。周囲の女官が卒倒しかけた。御衣に赤子である。
「はい。……覚えてますか、澄。栞ですよ」
澄は覚えていた。というより、気にしていなかった。金糸の刺繍だろうが九柱の紋だろうが、赤子にとっては掴むものでしかない。小さい手が御衣の袖を握って、きゃっきゃと笑った。
「……重くなりましたね。二十日で」
「山の空気で、よく食べたそうです」と雪。
栞の顔が、御衣の上で、栞の顔になった。それを見た冬子が、俺の隣で言った。
「……ですから、聞かなかったでしょう?」
「……そうだな」
「星読み冥利に尽きます。屋敷の上で泣いたり笑ったりしていた大きな星の、名前をようやく知りました。……ずいぶん高い星を飼っていらしたこと」
冬子は帳面を胸に当てて、少しだけ意地の悪い顔をした。貸しの利子が、また増えたらしい。
英稟は英稟で、律儀だった。目を覚ました風音と小夜の病室に真っ先に頭を下げに行こうとして、俺が止めた。順番がある。最初に話す権利は、栞のものだ。
そして謁見の合間に、御衣のまま、栞は奥の病室へ通った。
風音と小夜が、目を覚ましたからだ。
────
俺は障子の外にいた。入るつもりだったが、中の気配で足が止まった。盗み聞きの形になるのは、この家ではいつものことだ。
「……夢の、続きですか」
小夜の声だった。掠れていたが、しっかりしていた。
「あの夜、廊下で……見た気がしたんです。栞が、すごく綺麗な服で、歩いていくの。夢だと思って、それきり……。でも、その格好……夢じゃ、なかったんですね」
「……はい」
栞の声。衣擦れ。御衣の裾が畳を擦る音。
「風音さんも、小夜さんも……お加減は」
「加減はいいよ」風音の声は、平坦だった。「三日寝たからね。……それより、さ。その服、どういうこと。苑子さんも符治師も、何にも教えてくれないんだ。あんたの口から聞けって」
「……はい。約束、しましたから。終わったら、話せることをぜんぶ、って。……もう、話せないことは、ありません」
長い話になった。
帝宮のこと。政変のこと。近侍と逃げた夜のこと。世一に拾われて、栞という名前をもらったこと。書記見習いは半分本当で、身寄りがないのも半分本当で、名前だけが偽物だったこと。三月の遠見の日々のこと。夜襲の夜、扉の内側で全部聞いていたこと。白原のこと。
障子の外で聞きながら、俺は栞が「どこを話さないか」を数えていた。数える必要はなかった。あの娘は本当に、全部話した。符叢の稽古も、体の変化のことも——俺とのことも、言葉は選んだが、隠さなかった。
話し終えたとき、部屋は静かだった。
「……つまり」風音が、ゆっくり言った。「あんたは、符帝陛下で」
「はい」
「あたしたちは三月、帝国で一番えらい人に、団子の食べ方とか教えてた」
「……はい」
「符闘で負かして、笑ったりした」
「……はい。あれは、その、わたしが勝ちましたけど……」
「猫の名前つけさせた」
「夜長は、わたしがつけたくて——」
「陛下に、川の字の真ん中で寝る係とか言った」
「……っ」
「思い返すと」小夜が、ぽつりと言った。「変なところ、いっぱいありました。符闘の筋が良すぎるとか。赤子を抱いたことがないとか。お箸の持ち方が、綺麗すぎるとか。転んだときに、受け身じゃなくて、袖を庇うとか」
「そで……」
「普通は咄嗟に、体を守るんです。袖を庇うのは、転んだ痛みより、衣を汚したあとの方が怖かった人の癖です。汚すと自分じゃなくて、世話をする誰かが叱られる家の——つまり、育ちです。染みついた仕草は、嘘をつけません。……暗殺者は、そういうのを見る訓練を受けてるんですけど」
小夜は自分の手を見た。
「栞のは、見えてたのに、見ないことにしてました。詮索したら、この毎日が終わる気がして。……わたしも、共犯です。だから、騙されたとは思ってません」
「あたしも、思ってない」と風音。「思ってないけど——名乗られてみると、いろいろ蘇ってきて、頭が変になりそうなだけ」
沈黙が落ちた。重い沈黙だった。
そして、栞が先に泣いた。
「……だ、騙していて、ごめんなさい……っ」
畳に手をつく音がした。御衣の符帝が、頭を下げている音だった。
「最初は、命令でした。素性を隠せって。でも、途中からは……わたしが、隠していたかったんです。栞でいる間だけ、わたしは……ただの、友達のいる女の子で……。ばれたら終わると思って、ずっと、怖くて……」
声が、割れた。
「栞のままで、世一様のものに……みんなの、友達のままで……いたかった……っ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
風音の声が、ようやくした。妙なところに引っかかった声だった。
「……ちょっと待って。符帝陛下が、世一さんを様付けって、あべこべじゃない?」
「……ふえ?」
「あべこべです」と小夜。「序列がめちゃくちゃです」
「……え、あの、それは……く、癖で……」
「癖で陛下が臣下を様付け」風音が、ふ、と息を漏らした。笑いの形をした息だった。「……ばっかみたい。ほんと、ばっかみたい。三月も」
「……ごめんなさ——」
「謝んな」
風音の声は、もう平坦ではなかった。
「あたしが言いたいのは、そういうことじゃなくて。……あんた、一人で全部抱えて、扉の中で全部聞いてたんでしょ。あたしらが倒れる音も。それで、一人で出てって、一人で名乗って、一人で戦って。……そっちを謝れ。水くさかったことを」
「……っ」
「守り切れなくて、ごめん。それは、あたしが謝る。でもさ」
衣擦れ。風音が体を起こした音。
「三月の栞が嘘なら、あたしの三月も嘘になるんだよ。冗談じゃない。あれはあたしの、たぶん人生で一番——……とにかく、嘘にされたら困るの」
「……嘘じゃ、ないです」
「なら、いい」
「……ごはん」
小夜が言った。
「……え?」
「栞とまだ一緒に食べてない献立が、残ってます。春の山菜の天ぷら。秋刀魚。年越しの蕎麦。正月の餅。……数え切れないくらい、残ってます」
「小夜、さん……」
「陛下でも、それは変わりません。……変わりませんよね?」
問いの形をした、祈りだった。
栞が何と答えたかは、聞こえなかった。泣き声で、言葉になっていなかったからだ。
────
——それで終わりなら、良かったのだが。
翌々日の夜明け前、栞は一人で発とうとした。
正確には、近侍と二人で、だ。俺が気づいたのは苑子の報せでも見張りの報告でもない。夜長だった。猫が明け方に俺の部屋の障子を引っ掻いて、開けたら廊下を走った。ついていったら、旅装の符帝が門の前にいた。
置き文が三通、文机に残っていたという。俺宛て、風音と小夜宛て、奥殿の皆宛て。
「——どこへ」
栞の肩が、跳ねた。
「……せ、いちさん……なんで」
「猫に聞け。で、どこへ」
「……帝都、へ」栞は目を伏せた。「もう、行かなきゃいけないのは、決まってるんです。使者の方々も、期日も。……なら、早い方がいいと思って。ちゃんとお別れをしたら……わたし、行けなくなるので。だから」
「だから黙って発つ、と。……お前の悪い癖だな。一人で抱えて、一人で決めて、一人で出ていく」
「……っ。……でも、わたしは符帝で……符帝は、遠見にはいられなくて……栞は……」
「栞は、どうした」
「栞は————」
娘の喉が、詰まった。
「栞は、もう、終わりにしないと……いけないんです。ずるずる続けたら、離れられなくなる。わたしは、それが、一番こわい。……この三月が大事だから、大事なまま、終わらせたくて……」
「阿呆」
門の内側から、声がした。
風音だった。寝間着に羽織を引っかけて、包帯の腕で腕組みをして、仁王立ちしていた。隣に小夜。手に、置き文を二通、握り潰している。
「置き文で済まそうとしたね、今」
「な、なんで……」
「猫が起こしに来ました」と小夜。「風音さんと、わたしと、世一さんの部屋を順番に。……夜長は栞より、栞の友達のことを分かってます」
夜長は栞の足元に座って、我関せずの顔で毛繕いをしていた。
門の脇で、近侍が深々と頭を下げた。
「……お止めしたのです。ですが、命令と仰せられれば、私は」
「責めてない。お前は正しく仕えた」
「はい。……ですが、申し上げてよろしければ」近侍は頭を下げたまま、続けた。「帝宮の陛下は、『いやです』を仰いませんでした。今の陛下は、『いやです』も『そうします』も、ご自分で仰います。……ですから今朝の『黙って発ちます』は、陛下が久しぶりにお決めになった、間違った決定かと」
「……近侍まで……」栞が呻いた。
「臣下の務めですので」
風音が、ずかずかと歩いてきて、栞の真ん前に立った。
「一個だけ聞く。——友達が符帝だったら、友達をやめる規則でも、あるんですか」
「……え」
「あるなら律令の何条か言って。ないなら、この話は終わり」
「で、でも、わたしは帝都に——」
「帝都に行くのと、栞をやめるのは、別の話でしょ」
「ごはんも、別の話です」と小夜。「献立は、待てます。栞が来るまで、いくらでも。……でも『もう来ない』は、受け付けてません」
栞は、二人と、猫と、置き文の残骸を順番に見て——最後に、俺を見た。
助けを求める目だった。三月前、客間の隅で居場所を探していた目と、同じ目だった。
「栞は終わらない」
俺は言った。
「符帝が、栞を続ければいいだけの話だ」
「……続け、る……」
「帝都で符帝をやれ。遠見に栞を置いていけ。名前は逃げない。俺が預かるのは、もう慣れてる」
俺は懐から、押し花の栞を出した。白原から持ち帰った、あの一枚を。
「これは近いうちに返しに行くと、九柱の前で約束した。……つまりお前は、これを受け取るまで、俺と会う予定が最低でもあと一度ある。その次の予定はその時に決めろ。その次の次は、その次の時だ。——そうやって続いていくものを、世間では『終わらない』と呼ぶ」
栞の顔が、ぐしゃりと崩れた。
御衣でも旅装でもない、ただの十六の娘の顔で、栞は泣いた。声を上げて泣いた。風音が乱暴に頭を抱え寄せて、小夜が背中に張りついて、夜長が足元で鳴いた。
朝焼けの門前で、それはしばらく、ほどけなかった。
────
朝餉の席で、置き文の処遇が議題になった。
「罰として」と小夜が言った。「音読してください。ご自分で」
「……え」
「置き文で済まそうとした罰です。妥当です」
「お、音読は……音読だけは……」
「あたしも賛成」と風音。「ほら、あたし宛てのやつ。どうぞ」
栞は真っ赤になって、握り潰された文を受け取って、蚊の鳴く声で読んだ。風音さんへ。三月間、わたしの人生で一番——そこまで読んで、続きが読めなくなって、突っ伏した。
「一番、何」
「……よ、読めません……自分で書いておいて、恥ずかしくて死にます……」
「死ぬな」と俺は言った。「今週三度目だぞ、それ」
結局、文は三通とも、書いた本人の手で火鉢にくべられた。「言葉にして言うから、いいんです」というのが、本人の弁だった。燃える文を、夜長が不思議そうに眺めていた。
────
その晩の夜話は、長かった。
女たちの居間に、四人と一匹。俺は例によって、廊下の柱の陰にいた。もはや様式美だ。
「——だからさ、堂々と聞くけど。符帝の符叢って、どんなの」
「ひみつです……と言いたいですけど、風音さんには、いつか見せます。約束します」
「いつかっていつ」
「今度、符闘しましょう。全力の。……わたし、風音さんと真剣で打ってみたかったんです、ずっと」
「はっ、言ったね? 陛下から挑まれたんじゃ、独立符士として受けないわけにいかない」
「手加減、できないかもしれませんよ」
「望むところ。こっちには歯車を止めた実績があるんだ」
「じゃあ、わたしには神様を九柱まとめて怒らせた実績が」
「格が違った……」
「そういえばさ」風音の声が、少しだけ尖った。「英稟様と苑子さんは、最初から知ってたんだよね」
「……はい。秘匿の、命令で」
「今日、お二人が揃って頭下げに来たよ。病室に。大符闘祭一位が、畳に額つけて」
「えっ」
「『欺いたことは事実です。処分はお二人が決めてください』って。……処分て。だからあたし、言ってやった。『じゃあ今度、符闘を一局。負けた方が団子おごりで手打ち』」
「ふふ……英稟さん、なんて」
「『望むところです』って。生真面目な顔で。……ああいう人なんだね、あの人」
「はい。ああいう人です」栞の声が、笑っていた。「わたしの、自慢の藩屏です」
小夜の声が割り込んだ。「はい、そこまで。次の議題です。陛下が真ん中で寝る係の継続について」
「け、継続なんですか、あれ」
「継続です。今夜が最終日かもしれないので」
「……最終日じゃ、ないです」栞の声が、柔らかくなった。「さっき、決めましたから。終わらないって。……でも、今夜は真ん中がいいです」
「じゃ、川の字」
「陛下は『l』の字です」
「それ、読めないって言ってるでしょう……ふふ」
笑い声が、障子越しに滲んできた。
俺は柱を離れた。
離れ際、庭が見えた。桜はまだ咲いていた。散り時を忘れた狂い咲きが、今夜は淡く、灯りのように光って見えた。
九柱に預けた願いの中身を、俺はもう決めてある。
言うのは、あの娘が帝都へ発つ前夜だ。
利子の取り立てには、作法がある。