『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
重い鉄扉を押し開けると、饐えた酒と煙草の匂い、そして熱を帯びた人いきれが一気に流れ込んできた。
階段を数段降りた先に広がっているのは、地下に掘り込まれた大きな空間だった。
天井には古い蛍光灯が連なり、そのぼんやりとした黄色い光の下に、十数卓のテーブルが所狭しと並んでいる。それぞれの卓を囲む男たちが、神符大戦のカードを手に賭け符闘を興じていた。裏の符闘場特有の、血なまぐさい熱気が漂っている。
俺が足を踏み入れた瞬間、何かを察したように、会場の空気がざわりと揺れた。
後ろで英稟と苑子が無言で続く。三人が揃って降り立つと、俺の身体から放たれる圧倒的な「陽」の覇気が、地下空間の空気を侵食するようにして満ちていった。
ルクシエルとアルギメルの魔力回路と完全に同調した今の俺の霊力は、通常の符士が放つものとは桁が違う。
それを肌で感じ取った賭け符闘場の面々が、一人また一人と手を止め、俺へと視線を向けた。
やがて会場全体が水を打ったように静まり返った。
「……誰だ、てめえら」
最初に声を上げたのは、入口近くで腕を組んで番をしていた大柄な男だった。胸元には符闘場の用心棒を示す紋章が光っている。
「客だ。少し場を借りるぞ」
俺が涼しい顔で答えると、男は眉根を寄せた。
「客ねえ……。その覇気、ただもんじゃねえな。だが、ここは招待制だ。会員証のねえ奴は通せねえ」
「残念だが、招待はいらない」
「あ?」
「ここの元締めに会いに来た。通してくれるか」
用心棒の顔色が変わった。その背後から、さらに三人の男が無言で立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる。それぞれの手には抜き身の符叢が握られていた。
「ずいぶん度胸のある野郎だな。元締めに会いたい? そりゃ、ここで叩き潰された後の話だ」
「叩き潰す? どっちがどっちを、だろうな」
俺の背後で、英稟が静かに符叢に手をかけた。黒の外套が翻り、軍服の袖口から「陰」の符気がひやりと溢れ出す。
「甕星流、星宮英稟だ。お前たちの親分に伝えろ。帝国名門・星宮家の継承者が、直々に乗り込んできたと」
英稟の凛とした声が地下空間に響くと、周囲の男たちの間にさざ波のようなざわめきが走った。
星宮の名は、裏の符闘師の間にも当然知れ渡っている。帝国軍の精鋭符家。甕星流の使い手。その名を聞いた用心棒たちが、明らかに動揺した。
「……英稟様」
苑子が俺の斜め後ろから静かに一歩前へ出た。黒い符士装束に身を包んだ彼女の瞳は、揺るぎない意志を宿している。
「三神家の家宰符士、苑子だ。この店がここで好き勝手にやれているのは、星宮家がこれまで目をつぶってきたからだ。若い衆、引け。ここで私に無礼を働けば、その目こぼしを今日で終わりにする」
苑子の名を聞いた瞬間、男たちの間に走ったのは、動揺ではなかった――明確な狼狽だった。
(なるほど。見逃されているだけだと、自分たちでも分かっているわけか)
星宮家の家宰として、この裏社会に対する許容の匙加減を握ってきた苑子の言葉には、脅し文句以上の重みがあった。この場の誰もが、彼女の一言でこの店ごと潰されかねないと知っている。
しかし、それでも用心棒の筆頭格は引かなかった。
「ほざいてろ。ここは玄坐の旦那の縄張りだ。どんな大物が来ようと、ルールは変わらねえ。符闘で勝ったやつだけが通れる」
「望むところだ」
俺は歩を進めながら、符叢を抜いた。
ルクシエルとアルギメルの魔力が満たされた符叢から、圧倒的な「陽」の波動が溢れ出す。
それを感じた瞬間、用心棒の男は思わず一歩後退していた。
「な、なんだこの霊力……っ」
「かかってこい。何人でも同じことだ」
俺が告げると、会場の空気がピンと張り詰めた。
――符闘が始まった。組み符闘の作法通り、まず一人が前に出る。
一人目。陰属性の中堅どころ――「影潜み」を並べて固める、堅実だが芸のない布陣だった。
(数を並べるだけの型だ。中身がない)
「ルクシエル、アルギメル――手札の陽属性を一枚破壊し、代償なしで特殊実体化」
黄金の鎖と白銀の槌が、並んで光を放つ。姉妹の霊力が同調した瞬間、場の陽の圧が跳ね上がった。一体ずつなら中堅、二体が噛み合えば出力の桁が変わる。世界大会でこの符叢を握った理由が、これだった。
「アルギメルで攻撃。戦力差分を、そのまま符叢へ」
白銀の槌が振り下ろされ、影潜みが砕けた。埋めようのない戦力差が、そっくり数値のダメージに変わって符叢を抉る。一人目は、それだけで膝をついた。
「次」
二人目が「泥かぶり」の壁で防御に徹する布陣を敷いたが、ルクシエルの鎖が壁ごと縛り上げ、アルギメルの一撃が防御ごと粉砕する。数手と持たずに符叢が尽きた。
三人目は、すでに戦意を欠いていた。それでも形だけ符叢を開いたが、姉妹の同調した圧の前に、数手で符叢が尽きる。
陽の覇気の前に、陰の術式が蒸発するように消えていく。三人とも、あっという間に床に膝をついた。
「うぐ……」
「次は誰だ」
静寂。
誰も立ち上がらなかった。
俺は静かに符叢を仕舞い、奥へと歩を進める。
割れるように開いていく人垣の向こう、会場の最奥に、高座のように一段高くなったスペースがあった。
そこに陣取っていたのは、恰幅のいい中年の男だった。
脂ぎった顔に、値の張りそうな符家紋の入った羽織を纏っている。その横には、複数の護衛符士が控えていた。
「……玄坐の旦那、と見た」
「そうだ」
男は動じた様子もなく、俺を見下ろしていた。しかし、その奥にある目は、俺の放つ「陽」の覇気を警戒して細く絞られている。
「式世一。俺の名だ。律也を返してもらいに来た」
「律也?」
玄坐は短く笑った。
「あの愚か者か。惜しいな。三神の息子は、亡き陣の符叢を俺に渡す代わりに借金をチャラにすると取引しに来たんだよ。もうほぼ話はついてたんだがな」
俺の視線が、親分の斜め後ろへと動いた。
薄暗い隅の柱に、腕を掴まれてうずくまるようにしている青年がいた。
三神律也だった。
俺を見た瞬間、律也の目が大きく見開かれた。
土気色の顔、投げやりに濁っていた瞳に、信じられないものを見るような困惑と、そして何か焦げるような感情が混じり合った色が宿る。
「せ、世一……様……? なんで、ここに……」
「馬鹿者が一人で突っ込んでくるからだ」
俺はそれだけ告げて、玄坐へと視線を戻した。
「取引はなしだ。律也の借金もその符叢も、まとめてこの場で清算する。符闘で勝ったらの話だが」
玄坐は、しばらくの間俺を値踏みするように眺めていた。
やがて、その厚い唇の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「……面白え野郎だ。いいだろう、受けてやる。うちの筆頭符士・鬼瀬を出す。あの符士に勝ったら、律也の件はすっぱり諦めてやろう」
「それでいい」
護衛の中から、一人の男が静かに前に出た。
鬼瀬と呼ばれたその男は、三十代半ばほどだろうか。引き締まった長身に、無言の凄みを纏っている。腰の符叢から溢れ出す「陰」の霊力は、先ほどの用心棒たちとは比べ物にならない質を持っていた。
(——この男、知っている)
陰の霊力の質が、記憶の中の映像と重なった瞬間、俺の思考が静かに加速した。
アニメ第二部の終盤。燎が遠見市の裏符闘場を調査するエピソードに、この男は出てきた。表向きは場末の用心棒。だが実態はヨモツイクサの先遣符士——符帝家の目が届きにくい地域に先行して入り込み、裏社会に地盤を作る工作員だ。燎でさえ「この男は本物だ」と警戒した、数少ない強敵の一人。
(アニメの中で燎は鬼瀬を倒した。なのに今、こいつはここにいる)
つまりヨモツイクサはすでに遠見市に動いている。律也の借金問題として踏み込んだこの場所が、より大きな動きの末端に触れていたということだ。
(勝つだけじゃ足りない。こいつの符闘から、ヨモツイクサの現在地を読み取る。それがここに来た本当の意味になった)
ただし——鬼瀬がそれを察して逃げる可能性は十分にある。この男の本業は情報戦だ。
「……今夜は面白いものが見られそうだな」
鬼瀬が低く言い、符叢を取り出した。
俺は鬼瀬を見据えたまま、視線だけを横に滑らせた。
会場の壁際。腕を掴まれたまま床に膝をついている律也の手に、一組の符叢があった。玄坐の部下に取り上げられかけているが、まだ律也が握りしめている。
三神陣の形見の符叢だ。
「律也」
俺が呼ぶと、律也が顔を上げた。土気色の頬に、信じられないものを見る目が宿っている。
「その符叢を貸せ」
「え……?」
「俺が今から鬼瀬と符闘する。お前の父親の符叢で」
場が静まり返った。
律也の目が大きく見開かれる。玄坐の部下も、鬼瀬も、会場を取り囲む面々も、誰一人として意味を飲み込めていないようだった。
「な、なんで……世一様の符叢があるのに、なんで俺の——」
「見ていろ。これがお前の父親が遺した符叢で何ができるか」
それだけ告げて、俺は律也のそばに歩み寄り、部下の手首を軽く押しのけた。部下は俺の放つ陽の覇気に無意識に圧された様子で、抵抗もせず手を引いた。
律也が震える手で差し出した符叢を、俺は受け取った。
重い。カードの束に込められた、使い込まれた魔力の質感が手のひらに伝わってくる。三神陣が長年かけて育て、調整し続けた符叢だ。
俺はすっと符叢をシャッフルした。
最初の数枚を確認する。火属性の展開補助、墓地の炎武者を巡らせる回収サイクル、そして最奥に控える火車の存在感。炎武者連鎖――場と墓地の炎武者を繋いで燃料に変え、最後に火車で盤面を焼き払う型だ。全体の動線が、指先を通じて読み取れた。
(なるほど。堅実だが、奥が深い)
表のコンセプトは墓地蘇生による消耗戦。だが本質は違う。陣はこの符叢を、「相手のリソースを枯らしながら、最後の一手で圧倒する」設計にしている。要所要所に仕込まれた罠の構造が、熟練者の手癖そのものだった。
「……ほう」
鬼瀬が静かに言った。こちらを観察する目が、先ほどよりも細く絞られている。
「他人の符叢を数秒触って、もう回し方が見えた顔をしている。何者だ、あんた」
「符闘が好きな一般人だ。始めろ」
鬼瀬の口の端が微かに動いた。嘲笑とも、値踏みとも取れる表情だった。
符闘の結界が展開され、地下空間の空気が一変した。魔力の波紋が床を這い、天井の古い照明が揺れる。
先攻は俺だった。
序盤は手数を抑え、鬼瀬の符叢の動きを見た。
陰属性のコントロール型——手札誘発『影食みの咎』で展開を潰し、消耗させて落とすスタイルだ。隙がない。だが、アニメで見た通りの型に嵌まっている。
(ヨモツイクサの符士は、個々の練度は高いが、型から外れない)
おそらく組織として戦術を統一している。個人の閃きより再現性を重視する運用だ。戦場での安定性は高いが、想定外には脆い。
三神の符叢で俺が仕掛けたのは、その「想定外」だった。
墓地に落ちた炎武者を、通常の連鎖蘇生ではなく、速攻符『連火』のコストとして即座に切る。連鎖の燃料を一枚、蘇生ではなく点火に回す――陣が設計した符叢には、そのための抜け道が随所に仕込まれていた。本来の正規ルートより一手速く火車へ辿り着く、もう一本の動線だ。
おそらく律也はこのラインを見つけられていなかった。
「——っ」
鬼瀬の表情が、初めて動いた。
「そのルート……三神陣の符叢にそんな経路があったのか」
「設計者本人も意図したかどうかは分からない。だが構造上、ある」
俺は手を止めず、次の展開を続けた。
鬼瀬の妨害が一手遅れた。そのズレを突いて、火車が盤面に展開される。
「火車」(かしゃ)——三神家の炎武者連鎖の核。墓地に積み上げた炎武者を一気に燃やし尽くし、相手の盤面を根こそぎ刈り取る切り札だ。
鬼瀬の防衛ラインが崩れた。
だが俺は畳み掛けなかった。
あえて一手止める。
(……察した)
鬼瀬の目が、微かに変わっていた。符闘の盤面ではなく、場全体を見ている目。出口を計算している目だ。
この男の本業は情報収集と撤収だ。「勝てない」と判断した瞬間に逃げる。それがアニメでの鬼瀬の動き方でもあった。燎が勝ちを急いで追い詰めたとき、鬼瀬は一瞬の隙をついて姿を消した。
(俺が勝ちを確定させた瞬間、こいつは逃げる。それより先に、もう一手情報を引き出せるか)
「鬼瀬」
「……なんだ」
「ここに来て何日目だ」
鬼瀬の目が、僅かに動いた。
「——質問の意図が分からないな」
「遠見市に入ってからの話だ。イクリプスに根を張るのに、どれくらいかかった」
沈黙。
それ自体が答えだった。この男はすでに遠見市に相当の期間潜伏している。
「……やはり、ただの符闘好きじゃないな、あんた」
鬼瀬はそう言って、静かに後退した。
「今夜は参った。だが——また会う機会があるかもしれない」
次の瞬間、鬼瀬の身体が陰の霊力に包まれ、会場の暗がりの中に溶けるように消えた。
符闘の結界が解ける。
「……逃げた」
苑子が低く呟いた。
「追いますか、世一様」
英稟が問う。俺は首を振った。
「いい。今夜の目的は律也だ。鬼瀬の件は別で動く」
俺は手の中の符叢を見下ろし、それから律也へと目を向けた。
律也は壁際で、ただ茫然と立っていた。
腕を掴んでいた玄坐の部下は、結界が展開された時点で離れ、今は玄坐の背後に固まって俺を窺っている。
玄坐は、額に汗をかきながら俺を見つめていた。筆頭符士を一蹴されたことと、鬼瀬が自分の「客」だったことを今ごろ理解しているのだろう。
「……約束通りだ、親分。律也の借金は今夜でチャラにしてもらう」
「あ、ああ……」
「返事が小さい」
「——わ、わかった! 三神との件は、すべてなかったことにする!」
「よし」
俺は律也に歩み寄り、手の中の符叢を差し出した。
律也はその符叢を、震える手で受け取った。父親の形見の束を、両手で包むように抱きしめる。
「世一……様」
「見たか」
「……はい」
「お前の父親の符叢は、ちゃんと強い。問題はお前が使い切れていなかっただけだ」
律也の喉が動いた。
「俺には……あのルートが、見えていなかった」
「当然だ。まだ経験が足りない。だが——見えた今なら、次は自分で動かせる」
律也は俯き、しばらく黙っていた。
やがて顔を上げたとき、その目には、かつて俺が初めて会ったときの投げやりな濁りが消えていた。
まだ迷いはある。それでも、何かを掴み直そうとしている目だった。
そのとき、酒場の入口の方から足音が聞こえた。
「律也くん……!」
駆け込んできたのは紬だった。
事前に「決着がついたら来い」と伝えておいた合図を受け、近くで待機していたのだろう。息を切らし、涙をこらえながら律也を見つめている。
「紬……なんで、ここに」
「あなたが心配で……っ。怪我は、怪我はない……?」
律也は目を見開き、次の瞬間、小さく笑った。
久しぶりに見る、素直な笑い顔だった。
「……ない。もう大丈夫だ」
俺は二人から視線を外し、英稟と苑子のいる方へと歩いた。
更生プログラムの総仕上げは、完了した。
鬼瀬は取り逃がした。だが遠見市にヨモツイクサの爪が伸びていることは確認できた。
それを律也に気取らせる必要は今はない。あの二人には、今夜の終わりをそのまま感じさせてやればいい。
(次の盤面は、もう動いている)
イクリプスを後にした帰り道、俺の足取りは驚くほど軽かった。
英稟と苑子を先に帰し、律也に最後の言葉をかけて、一人で旧市街の路地を歩く。秋の夜風が、戦いで汗ばんだ首筋を冷やしていく。
俺は頭の中で、今夜のことを整理してみた。
賭け符闘場を制圧し、元締めの玄坐を屈服させた。筆頭符士の鬼瀬を退け、律也の借金と過去の因縁を清算し、更生させた。そして、ヨモツイクサの動きを炙り出した。
かつての俺なら、ここで何か重いものが胸に残っていたはずだ。
あいつらの目に滲んだ恐怖を夜中に思い出して、「やりすぎじゃないか」「俺みたいな人間が、こんなことをしていいのか」——そういう声がじわじわと染み出てきたはずだ。
だが今夜は、そんな声がどこにもなかった。
胸の中はただ、静かだった。
(……消えた、か)
俺は足を止め、夜空を仰いだ。
いつからだ。いつからこの静けさが当たり前になった。英稟の初夜の後か。苑子への取引を突きつけた夜か。それとも——ルクシエルが最初に囁いた、あの縁側の夜か。
掘り返そうという気が、まったく起きなかった。
なぜなら——その静けさは、不快ではなかったから。
むしろ、これが正しい感触だった。
(元の世界の俺は、倫理という名の鎖を大量に首に巻いて、半分窒息しながら生きていた)
朝の電車の中で誰かの足を踏んでも「すいません」と先に頭を下げた。上司に理不尽な仕事を押しつけられても、反論する前に「仕方ない」と自分を鎮めた。ゲームの世界では何百回も世界の命運を背負って決断してきたのに、現実では、コンビニのレジ袋一枚断れなかった。
その落差が当たり前だと思っていた。
あの俺は、間違っていた。
「欲するままに動いてください、世一様」
耳の底でルクシエルの声が蘇る。甘く、穏やかで、揺るぎない。
(そうだ。俺はただ、欲するままに動いている)
ためらいは鎖だ。遠慮は損だ。それは——かつての俺が、自分を閉じ込めるために学習させられた、条件反射に過ぎなかったのだ。
俺は再び歩き始めた。
星明かりの下で、足取りはさらに軽かった。