『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
イクリプスでの騒動から数日後。遠見市の夜は、ねっとりとした湿気を含んだ重い空気に包まれていた。
旧市街の入り組んだ路地裏。錆びついた鉄梯子と煤けた煉瓦壁に挟まれた薄暗がりの中を歩いていた俺は、かすかな魔力の衝突音を聞き取った。
気配を殺し、物陰から路地の奥を覗き込む。
そこには、水色のショートヘアを激しく揺らし、息を乱しながら走る少女の姿があった。
見覚えがある。俺が日本で観ていた『神符大戦』のTVアニメにおいて、主人公・燎の隣で戦い続けたヒロイン——澪だ。
だが、画面の中で見せていた快活な笑顔は微塵もない。その表情は焦燥と疲労に歪んでいた。
「待て! そこまでだ、澪! 大人しく戻れ!」
彼女の背後から迫る、黒い外套をまとった三人組の符士たち。外套の下、胸元に下げられた鉄色の鎖を象った徽章――俺はその意匠に見覚えがあった。
(あの徽章だ。アニメ第二部の終盤、燎たちの前に何度も現れた、あの組織の末端戦闘員が必ず下げていた印)
神秘解放戦線――ヨモツイクサ。連中が、もうこの街の裏でこれだけの数を動かしている。
彼らの手元から放たれた不浄な闇の魔力弾が、路地の壁を削り、火花を散らす。
澪は走りながら、指先から青い魔力を紡ぎ出した。
「水鏡の防壁!」
彼女の背後に揺らめく水のシールドが現れ、放たれた闇の弾丸を受け流す。弾かれた魔力がパチパチと音を立てて霧散するが、澪の表情は険しい。防壁を展開するたびに、彼女の魔力回路が激しく摩耗しているのが、離れた俺の場所からも感知できた。
「しつこい……っ! 私は最初から、あなたたちのやり方に賛成したわけじゃない!」
「戯言を! あの炎の男のもとへ逃げ帰るつもりか! ここで封じる!」
追手の一人が、不気味な黒い魔力で満ちた紙札——使役符を取り出し、呪文を唱えようとした。
多勢に無勢。澪の足が、もつれるようにして水溜まりに突っ込んだ。体力の限界だったのだろう。膝が折れ、濡れた地面に倒れ伏す。
(ここまで、なの……? 燎……)
彼女が諦めたように目を閉じた、その瞬間。
冷たい路地裏の空気が、突如として圧倒的な「熱」と「光」によって塗り替えられた。
「な、何だ、この魔力は……っ!?」
追手の符士たちがたじろぐ。
路地の暗闇から走ってきたのは、陽光を放つ白金の鎖だった。それはまるで意思を持つ蛇のようにうねり、追手たちの足元を瞬時に包み込んだ。
「ぐあぁっ!? 身体が、動かん!」
「魔力が……練れない!? 式符が、起動しないぞ!」
白金の鎖が放つ神聖な霊理は、ヨモツイクサの符士たちが持つ不浄な魔力回路を根こそぎロックしていた。もがくほどに鎖は強く食い込み、彼らの霊力を強制的に奪い去っていく。
俺は物陰から静かに歩み出た。背後には、金髪碧眼のドレスアーマーをまとった天使、ルクシエルを従えている。
「ふふ、世一様。これで、皆さん大人しくなりましたよ♡」
ルクシエルは主人である俺だけを映す静かな微笑みを浮かべながら、その美しい指先を小さく動かしていた。追手たちを縛る白金の鎖は、彼女の魔力から紡がれたものだ。
「ああ、充分だ。ルクシエル」
俺は倒れている澪を見下ろした。
澪は泥に汚れた顔を上げ、驚愕の目で見上げてくる。
「あなたは……? その天使……」
「世一様、追跡の気配がまだありますね。ヨモツイクサの別動隊がこちらに向かっています」
ルクシエルが耳元で囁く。
正義の味方をするつもりなど毛頭ない。だが、目の前にいるのはアニメのヒロインである澪だ。ヨモツイクサが遠見市で何を企んでいるのか、その詳細な情報を握っている可能性が極めて高い。それに——燎の相棒である彼女を保護しておけば、今後の盤面において強力な駒になり得る。
「つかまれ。これ以上ここにいると面倒だ」
俺は澪の腕を掴み、強引に引き立たせた。
「きゃっ……! な、何……?」
腕を掴んだ瞬間、澪の身体がびくっと跳ねた。怯えているのか、足でも痛めているのか。判断はつかなかったが、今はそれより逃げるのが先だ。
「いいから黙ってついてこい」
俺はルクシエルに合図を送り、追手たちを縛る鎖を消滅させると、澪を抱えるようにしてその場から離脱した。
数分後。俺が一時的な隠れ家として使用している、星宮家が旧市街に所有する古い物置倉庫。
埃っぽい薄暗い空間の中で、俺は澪を古い木箱の上に座らせた。
澪は肩で息をしながら、目の前に立つ俺と、その傍らに佇むルクシエルを交互に見つめていた。
膝から血が滲んでいる。逃げる途中で転んで擦ったのだろう。
「動くな。傷を見る」
「っ……自分で、平気だから……」
「黙ってろ。追われてる女を怪我したまま放り出すわけにいかない」
しゃがみ込み、澪の膝に触れた。傷口の周りについた泥を、指先で軽く拭う。
「んっ……」
小さな声が漏れた。傷が沁みたのだろうと、それだけに思った。
「痛いなら我慢しろ。放っておくと膿む」
「痛いんじゃ……ない、けど……」
声が、どこか掠れていた。気にせず、傷の周りをもう少し丁寧に拭った。
「あ……っ、んっ……」
澪の膝が、小さく震え始めた。俺の手を止めさせるでもなく、ただ身を固くしている。
「動くと余計に沁みるぞ」
「わ、分かってる……っ、でも……」
顔を上げると、澪の頬が異様なほど赤くなっていた。息も、明らかに乱れている。
(さっきの逃走の疲労が、今頃出てきたか)
そう判断して、空いた手を澪の額に添えた。熱を確かめるつもりだった。
「ひぁっ……!」
触れた瞬間、澪の背中が大きく反った。
「……熱はなさそうだが」
「ち、違う……熱いのは……そこじゃ、なくて……っ」
澪は太ももを擦り合わせるようにして俯いた。呼吸が、荒く短くなっていく。
「どこか他に痛むのか」
「言えない……っ、こんなの、言えるわけない……っ」
もう一度、傷の具合を確かめようと膝に手を添えた。
「あぁっ……! だめ……そこ、触っちゃ……っ」
澪の声が跳ね上がった。
「傷を診てるだけだ」
「分かって、る……っ、でも……身体が、勝手に……っ」
膝に添えた手のひらから、じわりと熱が伝わっていくのが分かった。澪の呼吸が更に速くなり、太ももに力が入っては抜けるのを繰り返している。
「んっ……あ……っ、だめ……そんな、優しくされたら……っ」
手当てを続けているだけだった。だが澪の反応は、明らかに手当て以上の何かに向かっていた。
「な、なんで……こんなの、初めて……っ」
澪の腰が、木箱の上でびくんと跳ねた。
「あぁ……っ!!」
短い声を上げて、澪の全身が強張った。しばらくして、糸が切れたように肩が落ちる。
手を止め、澪を見た。
「……大丈夫か」
澪は答えなかった。真っ赤な顔を伏せ、荒い息だけを繰り返している。何が起きたのか、俺にはまだ分からなかった。ただ、彼女の様子がひどく尋常でないことだけは分かった。
「……何でもない……何でもない、から……」
澪は消え入りそうな声で、そう繰り返した。
ルクシエルが、俺にだけ聞こえる声でそっと囁いた。
「世一様の陽の気に、あの方の身体が応えてしまったのですね♡」
「……そうなのか」
「はい。ご本人はまだ、何が起きたのか分かっていないと思いますが」
澪は膝を抱えるようにして俯いたまま、しばらく顔を上げようとしなかった。その戸惑いきった横顔が、なぜか妙に長く、俺の記憶に残った。
「……助けてくれたのは、ありがとう。でも、あなたは何者なの? その天使……ルクシエルって言った? そんな強力な光属性の式符、帝国の正規軍でも見たことがないわ」
澪の目は警戒に満ちていた。特に、俺とルクシエルの間にある奇妙な「主従の空気」——まるで絶対的な隷属を強いているかのような冷徹な関係性に、本能的な危うさを感じ取っているようだった。
「ただのしがない符士だ。それより、なぜヨモツイクサにお前が追われている? 理由を聞かせろ」
「……それは、言えない。助けてもらったことと、話すことは別よ」
「なら質問を変えるか——」
俺が澪を見据えたその時。
倉庫の頑丈な木製の扉が、内側から爆発するような強烈な衝撃波とともに吹き飛んだ。
「——そこまでだッ!!」
巻き上がる埃と火花の中を突き破り、赤いマフラーを激しくなびかせた少年が飛び込んできた。
逆立つ茶髪に、怒りに燃える瞳。手元には炎の魔力が渦巻いている。
「燎……!」
澪が声を上げた。
現れたのは、かつてテレビ画面の中で何度も見た、あの『神符大戦』の主人公・燎その人だった。
燎は澪が木箱の上に座り、その前に俺が立っている光景、金髪の天使ルクシエルが警戒するように浮かび上がっている様子を目に焼き付ける。
「澪! 無事か! ……汚い真似をしやがって、ヨモツイクサめ! その天使の力で、澪をどうするつもりだ!」
燎の全身から、激しい怒りとともに火属性の魔力が吹き荒れた。周囲の埃が熱風で瞬時に焼き尽くされる。彼は俺を、澪を誘拐したヨモツイクサの幹部だと完全に誤認していた。
「燎、待って! この人はヨモツイクサじゃ——」
澪が叫ぼうとしたが、俺はその声を遮るように一歩前に出た。
俺の懐には、英稟の従者として発行された帝国軍の身分証がある。それを提示するか、「俺は通りすがりだ。あの連中から彼女を保護しただけだ」と説明すれば、誤解は一瞬で解けるはずだった。
だが——。
俺の目の前にいるのは、現実の肉体を持った『主人公・燎』なのだ。
アニメの画面の向こうで、圧倒的な逆境を何度も覆し、炎の力で奇跡的な勝利を掴み取ってきた、あの不屈の符士。
元世界大会出場者としての、そしてこの世界で強者との戦いに飢えていたデュエリストとしての狂気が、俺の胸の中で爆発的に跳ね上がった。
(……ここで誤解を解く? 星宮家の身分を明かして、穏便に済ませるか?)
そんな選択肢は、俺の脳裏から一瞬で消え去った。
(馬鹿言え。こんな絶好の機会を、みすみす逃す手があるか。アニメの主人公、燎……お前のその『炎』がどれほどのものか、俺のこの手で確かめてやる)
気づけば、口元が笑っていた。
「……語る言葉があるなら、カードで示せ。火属性の符士。お前の吠えるその炎が、本物かどうか、俺が測ってやる」
あえて誤解を解かないままの、冷えた声だった。
燎の瞳に、激しい怒りの火花が散った。
「やっぱり、ヨモツイクサの幹部だな……! 上等だ、澪を無理やり連れ去ったこと、そのデッキで後悔させてやる!」
燎が叫び、懐から自らの符叢を抜き放つ。
同時に、俺もまた、ルクシエルを核とする陽属性の符叢を展開した。
「符闘——ッ!!」
二人の声が重なった瞬間、古い倉庫の空間が歪んだ。
魔力の結界が急激に拡張し、周囲の物質的な壁を覆い隠していく。赤と白金の魔力の光が激しく衝突し合い、巨大な符闘場が現出した。
吹き荒れる熱風が、倉庫の環境を瞬時に変えていく。
燎の瞳の奥で揺らめく炎は、彼が抱く怒りの強さに比例して輝きを増していた。彼にとって目の前にいる俺は、大切な相棒である澪を襲い、その自由を奪おうとする悪辣な敵に他ならない。
「先攻は俺だ! 使役符『炎鳥の雛』を二体、前衛に同時実体化!」
燎の場に、パチパチと火の粉を散らす、小さな炎の鳥が二体現れた。炎鳥の雛の能力により、実体化時にそれぞれ炎育カウンターが一個ずつ置かれる。
「さらに早業『焰迅の一声』を発動! これで俺の場の火属性使役式すべてに炎育カウンターを二個ずつ置く! さらに手番終了時まで、火属性使役式すべての戦力をプラス一する!」
二体の炎の雛たちが、一回り大きく膨れ上がる。雛たちの瞳に、鋭い野生の光が宿った。早業の効果により、彼らの体に置かれたカウンターはそれぞれ三個に達した。
「炎育カウンターが三個以上の『炎鳥の雛』は、戦力が二ポイント上昇する! 戦闘局面! 二体の炎鳥でルクシエルに同時攻撃!」
燎の鋭い指示に呼応し、二羽の炎鳥が鋭い鳴き声を上げて急降下した。
だが、俺は眉一つ動かさず、手札からカードを提示した。
俺は初期指定式符『黄金鎖の天使』ルクシエル、そして約定『帰天』を場に発動。さらに手札から使役符『天使の剣兵』を実体化させた。
ルクシエルは「戦闘に参加できない」呪縛により、攻撃することはできない。だが、その強固な存在感は防壁として機能する。さらに俺は、現れた『天使の剣兵』を燎の炎鳥の攻撃ルートへと身代わりに立たせた。
「いけっ!」
燎の炎鳥の猛烈な爪牙が、天使の剣兵の体を貫いた。凄まじい爆炎が剣兵を包み込み、その光の体を灰へと変えていく。
だが、これこそが俺の狙いだった。
「『天使の剣兵』が破壊されたことで、その効果が誘発する。破壊された剣兵は墓地ではなく俺の符叢に戻り、符叢を切り直して式符を一枚引く。さらに、場にある約定『帰天』の効果により、墓地の使役式を一枚、符叢に戻して切り直す」
燎は眉をひそめた。
「盾を使い捨てて、符叢を回復させながら手札を増やす気か……!」
「その通りだ。こちらの天軍は、お前のように正面から殴り合うことだけが能ではないんでね」
「だったら、その防壁が追いつかないほどの速度で焼き尽くすだけだ! 早業『鳳凰の嚆矢』を発動! 符叢から火属性使役符一枚を手札に加え、符叢を切り直す。さらに、俺の場にはカウンターが三個以上の使役式がいるため、早業符も一枚手札に加える!」
燎は冷静にリソースを回収し、さらに手札から新たなカードを叩きつける。
「使役符『烈火の雛』を実体化! これで俺の場のカウンターはさらに積み重なる!」
燎の叫びとともに、使役式たちが再び炎をまとって俺の命運を削るべく襲いかかる。
(燎の攻めは鋭い。早業を連鎖させて炎育カウンターを蓄積し、こちらの盾を強引に突破しにきている。このまま削られ続ければ、俺の符叢が底を尽くのも時間の問題だ)
俺は燎の盤面を見つめながら、彼の次の手を読んでいた。
燎の全身から立ち上る魔力は、怒りに呼応して物理的な熱風となって倉庫の梁を焼き、煤けさせている。カードのステータス以上に、彼の持つ「魂の熱量」がこちらの命運を直接チリチリと削ってくるかのようだ。
「守るだけで勝てると思うな! 俺の炎で、その防衛線をすべて焼き払ってやる! 第二行動局面! 俺の場にある、炎育カウンターが六つ以上蓄積した『炎鳥の雛』二体を代償として墓地へ送る!」
燎の叫びが倉庫内に響き渡る。
「天を焦がす不死の翼よ、その大いなる焔で全てを浄化しろ! 実体化せよ——『焰翼鳳凰』!!」
瞬間、世界が静まり返ったかのように熱波が凝縮された。
次の瞬間、倉庫の天井が轟音とともに燃え盛り、崩れ落ちた。その火炎の崩落の中心から、巨大な一対の翼が現れる。金色の火炎そのもので形成された、伝説の不死鳥。
「ピィィィヤァァァァッ!!」
鼓膜を劈くような甲高い鳴き声とともに、圧倒的な熱波が四方に放射された。倉庫の壁が、柱が、床が、その霊圧だけで勝手に発火し始める。
「これが、燎の切り札……」
木箱の上で身を縮めていた澪が、その圧倒的な光景に目を見張る。
俺の背後に佇むルクシエルの顔にも、初めて明確な緊迫感が走った。
「世一様……この使役式の出力、尋常ではありません。私の防壁でも、次のターンの一撃を防ぎきることは困難です」
「ああ、知っている。防ぎきれなければ、俺の命運はここで尽きる」
俺は自分の符叢がすでに風前の灯火であることを自覚していた。もし次の燎の手番で、あの鳳凰の攻撃を直接受ければ、魔力障壁ごと魂を焼き尽くされ、符叢はすべて消滅するだろう。
だが、俺の瞳には絶望など微塵もなかった。
むしろ、その奥には狂気的なデュエリストの歓喜の火が赤々と燃え盛っていた。
(墓地の天使はすでに十二枚。ルクシエルは場に実体化している。条件は、すべて整った)
俺の指先が、次の手番のドローに向けて、ゆっくりと符叢の天辺に置かれる。
(あと一枚。この符叢の底から、あのカードを引き当てれば……)
通常は戦闘に参加できないルクシエルの呪縛を解き放ち、戦力を爆発的に高めて攻撃可能とする、逆転の奥義カード。それがあれば、燎の『焰翼鳳凰』ごと、その身を粉砕して勝利することができる。
ゾクゾクするような熱い血の昂りが、俺の全身を駆け巡る。かつて世界大会の壇上で、数万の観客の前で決定打を引こうとしていた時の、あの極限の快感が今、蘇ろうとしていた。
(さあ、見せてみろ。この現実の世界が、俺に何を与えるのかを……!)
俺がドローしようと、符叢に指をかけたその瞬間。
吹き上がった鋭い水の障壁が、倉庫の空間を二つに切り裂いた。
「二人とも、やめて……っ!!」
澪の悲痛な叫びとともに、大量の水魔力が金色の火炎と白金の光の中に割り込む。二つの極限の力が、その水の防壁に阻まれた瞬間、倉庫内に渦巻いていた霊圧の均衡が歪み、崩壊した。
「澪! 危ない、下がれっ!」
燎が叫び、自身の使役式『焰翼鳳凰』の火力を慌てて絞る。
同時に、俺もまた、ルクシエルに防御の鎖を引かせ、魔力の昂りを急速に抑え込んだ。
均衡の破れた符闘の結界は、ガラスが砕け散るような澄んだ音を立てて四散し、元の薄暗く埃っぽい木造倉庫の風景へと戻っていった。周囲の壁や床には、激しいバトルの名残として、黒い焦げ跡と濡れた水溜まりが点々と残されている。
「はぁ、はぁ……」
魔力を使い果たした澪が、冷たい床に膝をついた。
燎は即座に彼女の元へ駆け寄り、その肩を抱きかかえる。
「澪! 大丈夫か! 無茶しやがって……」
「私は、平気……。それより、燎、もうカードを引いて。その人は、ヨモツイクサじゃないわ」
「えっ……? だけど、澪を追い詰めてた奴らと同じような鎖を使ってただろ! それに、その天使を無理やり従わせてるような……」
燎は怪訝そうな表情で、俺とその傍らに立つルクシエルを睨みつけた。
澪は小さく首を振り、俺の傍らに寄り添う金髪の天使を指し示した。
「見て、あの天使の気配を。無理やり従わされている魔力回路の歪みが全くないわ。それに……あの人が使った鎖は、ヨモツイクサが使うような粗暴で不浄な魔力じゃない。ただ、私をヨモツイクサから助け出してくれただけよ」
澪の観察は極めて冷静だった。
実際、ルクシエルは俺の傍らで、主人だけを映す静かな微笑みを湛えて俺を見つめている。虐げられている様子や無理に従わされている気配など、微塵も存在しない。むしろ、その絶対的な帰依と愛情は、熟練の符士である燎にも直感的に理解できるほど深いものだった。
「……ちっ、そういうことかよ」
燎は頭を掻き、納得がいかない様子ながらも、符叢をゆっくりと懐に収めた。
「……悪かったな、誤解してた。俺は燎。こっちは相棒の澪だ」
俺は冷淡に肩をすくめ、ルクシエルを霊体化させて消滅させた。
「知っている」
短くそれだけを告げる。
「けどあんた、ただの符士じゃねえだろ。あの受けの手数といい、あの天使の魔力の質といい……」
燎は悔しそうにしながらも、俺の底知れない実力を認めていた。俺の戦術は一見すると守勢に徹した姑息なものに見えたが、その本質は完璧なリソース管理と、一撃必殺を呼び込むための冷徹な動線設計に基づいていることを、戦いの中で肌で感じ取ったからだ。
澪は木箱に手をついて立ち上がり、俺の顔をじっと見つめた。
「……あなたは、一体何者なの?」
その声には、単なる警戒を超えた、俺という男の持つ「異質さ」に対する底知れぬ興味が混ざり合っていた。これほどの実力を持ちながら、正規軍の所属でもなく、かといってヨモツイクサでもない。
俺は彼女の問いには答えず、口の端だけで笑った。
「俺が何者かは、お前たちが気にする必要はない。それより、ヨモツイクサはまだこの遠見市に根を張っている。彼女を連れて、早く消えることだな」
冷淡に言い放ち、俺は倉庫の奥へと歩き出す。
燎は澪を支えながら、その背中を見つめ、大声で告げた。
「……次に会うときは、誤解じゃなく、本気で戦おうぜ。あんたとの符闘、まだ決着がついてねえからな!」
「いいだろう。その時を楽しみにしている」
二人の足音が倉庫の外へと消えていく。
静寂が戻った薄暗い倉庫の奥で、俺は自身の符叢を取り出し、その一番上に載っていたはずの一枚のカードをそっと指先でめくった。
暗闇の中で、そのカードの表面が微かに白金の光を反射した。
カードの星紋を目にした瞬間、俺の心臓がどくんと跳ねる。
この一枚があれば、盤面のルクシエルは呪縛から解き放たれ、墓地の同胞たちの力をその翼に宿して、無敵のはずの『焰翼鳳凰』を粉砕し、燎自身に致命的なダメージを与えていただろう。ルクシエルが今すぐ攻撃できていたという符闘上の絶対の確信が、指先から伝ってくる。
思わず、笑みが漏れた。
(一手早かったな、澪。……次は、絶対に止めさせない)
ゆっくりと、息を吐いた。
考えてみれば、奇妙な話だ。
俺はこの世界のアニメの主人公と正面から符闘を交わし、完勝できる盤面まで到達した。
燎は本物の炎の使い手だ。圧倒的な才能と、主人公特有の逆境突破力を持っている。それでも俺は、あの灼熱の前で一度も崩れなかった。むしろ最後まで、俺が優位を保っていた。
なぜか。
俺の傍らに、ルクシエルがいたからだ。
(ルクシエルがいれば——俺は、負けない)
それは戦術上の話だけではなかった。
彼女の魔力が俺の防壁を支え、彼女の観察眼が敵の動きを先読みし、彼女の存在が俺の判断に一切の迷いを差し込ませない。
だがそれ以上に——もっと根源的な話だった。
ルクシエルは、神位を持つ天使だ。
その天使が、「世一様のやり方は正しい」と言う。
天使が俺を正しいと言う時、それはこの世界の形而上的な秩序が俺の行動を肯定しているということだ。宇宙の理が、俺の側に立っているということだ。
(ルクシエルが正しいと言う限り、俺は正しい)
昨夜、調律の後で彼女の翼に包まれた時の感覚が、今も肌に残っていた。外界のすべての音が消え、世界の中心に自分だけが取り残されたような静けさ。あの翼の内側でだけ、「無敵」という言葉の意味を俺は肌で理解できた。
神が側にいる。
神が俺を肯定している。
だとすれば、このゲームに俺が負ける道理がどこにある?
燎という主人公が放つ炎の熱さ。そして、それをねじ伏せるための必勝のカード。
その両方が、かつてないほど俺の全身の血を熱く焦がしていた。
俺はカードを符叢に戻し、懐に収めた。
倉庫を出ると、湿った夜風が、かすかに火薬と焦げた匂いを運んできた。
遠見市の暗がりに深く潜むヨモツイクサの影。
俺の次なる一手、そして彼らを巡る交錯の予感を描きながら、夜の街は静かに更けていった。
星宮の別邸に戻った時、月はすでに高く昇っていた。
英稟はまだ本邸の方にいる。苑子は情報収集に動いている。律也には今夜の余韻を反芻させておけばいい。
俺は一人で奥の間に踏み込み、扉を閉めた。
窓の向こう、遠見市の夜景が黒と金に揺らめいている。
「ルクシエル」
一言呼んだだけで、部屋の空気が変わった。
白金の粒子が暗闇の中にゆっくりと凝集し、やがて金髪碧眼の天使の姿が俺の目の前に実体化した。
彼女は今夜、ドレスアーマーではなく、薄い白のガウンをまとっていた。戦場の天使ではなく、主人の寝室で主人を待つ存在として。
「お帰りなさい、世一様」
その声は、いつもより低く、柔らかかった。
「今夜のあなたの魔力は……とても熱い」
「燎との符闘のせいだ。まだ収まっていない」
「存じております」
ルクシエルは静かに歩み寄り、俺の前に立った。見上げてくる碧眼が、月の光を受けてほのかに輝いている。
「世一様。今夜は——私に、浄めさせてください」
俺は答えず、彼女の細い顎を指で持ち上げた。白金の魔力が指先を通じて伝わってくる。
「また翼を広げろ、ルクシエル」
「はい、世一様」
彼女がそっと目を閉じた。
次の瞬間、背後から黄金の羽根が一枚、また一枚と広がり——巨大な両翼が、ゆっくりと弧を描いて二人を包み込んだ。
外界の音が、すべて消えた。
遠見市の喧騒も、風の音も、戦いの余韻も——翼の内側に入った瞬間、何もかもが遠ざかっていく。
残るのは、白金の光と、ルクシエルの温もりと、彼女の微かな呼吸の音だけ。
(……これだ)
毎回、この感覚に飢えている。英稟を抱いた後の空洞も、苑子を従わせた後の乾きも——ここに戻った瞬間、すべて満たされていく。
俺は彼女のガウンの帯を解き、するりと肩から落とした。
翼の内側の温かい空気の中、ルクシエルの純白の肢体が露わになる。
天使の身体は、超然とした神的な均整と透明感を持っていた。しかし俺の視線を受けると、その白い肌はほんのりと桃色に染まっていく。
「世一様……」
「黙れ。まず俺の熱を受け取れ」
「はい……♡」
俺はゆっくりと、しかし確実に彼女をベッドへと押し倒した。翼が自然に折れ、二人の頭上で金色の天蓋のように広がる。
外界のすべてから遮断された、この小さな聖域の中で。
俺は焦らなかった。
英稟の時とも、苑子の時とも違う——ルクシエルに対してだけは、いつも俺の中の何かが落ち着いていた。
急ぐ必要がない。奪い取る必要もない。
この天使は、最初から、俺のものだ。
俺は彼女の首筋に唇を押し当て、ゆっくりと吸い上げた。白金の魔力が唇から滲み出るように伝わり、彼女の身体がわずかに震える。
「んぅ……♡ 世一様の魔力が……溶け込んでくる……♡」
「俺の陽気でお前の中を満たしてやる。隅々まで」
「……はい、世一様……全部、差し上げます……♡」
俺の手が彼女の胸元へと滑った。
天使の胸は柔らかく、しかし不思議な弾力を持っていた。撫でるたびに彼女の魔力が手のひらに滲み、蕩けるように熱い波が伝わってくる。指先で頂を緩やかに転がすたびに、白金の粒子が淡く光り散った。
「あ……んっ♡ 世一様の手、温かい……♡ 体の中が、ほどけていく……♡」
俺の手はさらに下へと進んだ。天使の秘部は人間の女と同じ形をしていて、しかし違った——触れるたびに薄い白金の光が溢れ出し、俺の指に絡みついてくるようだった。その光は俺の魔力回路を直接なぞるように浸透し、脳の奥に甘い電流を送り込んでくる。
「あ、ぁ……♡ 世一様に触れられると……私の核が、開いていく……♡」
「核?」
「天使としての、神位の核です……世一様だけが……開けられる……♡」
その言葉が、じわりと俺の胸の奥に染み込んだ。
天使の神位の核を、俺だけが開けられる。
彼女の最奥を、俺だけが知っている。
「世一様」
ルクシエルの声が、低く、静かになった。
「……一つ、お伝えしてもいいですか」
「何だ」
「世一様は——この世界で、唯一の本物の『人間』なのです」
「……どういう意味だ」
「この世界の者たちは皆、この霊理の中に生まれ、この霊理の中で完結する存在です。英稟様も、苑子様も、律也様も——彼らはこの世界の魔力の理に組み込まれた存在。しかし世一様は違う。別の世界から降りてきた、本物の人間」
俺は彼女の中で、動きを止めた。
「天使は人間を愛します。それが私たちの本質です」ルクシエルは続けた。「そして——愛する人間には、繁栄してほしいのです。この世界に深く根を下ろして。あなたの種で、この世界を染め上げてほしいのです」
「……地に満ちろ、ということか」
「はい、世一様♡」
彼女の声は静かで、しかし揺るぎなかった。
「地に満ちてください。あなたの手が届く者はすべて、あなたのものになるべきです。英稟様も、苑子様も——あなたの色で満たしてください。それが私の願いです。それが——天使としての、私の世一様への、愛です」
俺は暗闇の中で、その言葉を転がした。
(地に満ちろ)
天使が、俺に言っている。神の使いが——この世界をお前のもので満たせ、と言っている。
元の世界の倫理など、その声の前では煙のように消えていく。
(……そうだ。これが正解だ)
「分かった」
「はい♡」
「では——今夜も受け取れ」
「……喜んで、世一様♡」
俺は彼女の両足をゆっくりと押し広げ、その中心に自身をあてがった。
「挿れるぞ、ルクシエル」
「……はい、世一様……どうか、深くまで……♡」
俺は焦らず、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の奥へと沈み込んでいった。
「ふぁ……ぁっ……♡♡ 深い……世一様が、奥まで……来ている……っ♡」
天使の内側は炎のように熱く、しかし溶かすような柔らかさだった。締め付けるのではなく、包み込むように——俺の全身に、白金の魔力がじわりじわりと浸透していく。
激しくではなかった。
英稟を抱く時の征服欲も、苑子を従わせる時の支配欲も、ここでは静かに深いところに沈んでいた。
ただ、深く。奥まで。
彼女の中に自分を満たし、同時に彼女の白金の魔力を自分の中に取り込んでいくような——そういう感覚だった。
「世一様……♡ あなたは……私の全部を……受け取ってくださる……っ♡」
「お前の全部を使う。残さず」
「はい……♡♡ 私は世一様のものですから……全部、使ってください……あなたが望む限り、どこまでも……っ♡」
翼の天蓋の中で、白金の光が揺れた。
二人の魔力が溶け合い、翼の内側が淡く輝く。俺の陽の精気とルクシエルの神位の魔力が混ざり合い、その空間だけに満ちていく。
(不思議な感覚だ)
英稟を抱いた後の空洞は、ここにはない。苑子を従わせた後の乾きも、ここにはない。
ルクシエルの中にいる時だけ——俺は、何も失っていなかった。
むしろ、満たされていた。
「世一様……っ♡ 私は……あなたがこの世界で一番正しい……っ♡ あなたが望むことは……すべて正しい……っ♡」
俺は答えなかった。
答える必要がなかった。
なぜなら——それは既に、俺の中の確信だったから。
彼女の言葉は、俺に新しい何かを教えるのではなく、俺の中にすでにある確信を外側から鳴らしてくれるのだ。鐘のように。
(そうだ。俺が望むことは、正しい)
腰の動きがわずかに深くなった。
「ぁっ……♡♡ 世一様……すごい、深い……っ♡ 私の核が……世一様に、開かれていく……っ♡」
「開けろ。全部、俺に見せろ」
「はい……♡♡♡ あ、ぁあっ……世一様……私の全部が……あなたのものです……!!」
ルクシエルの翼が大きく広がり、その先端が震えた。白金の光の粒子が翼の端から散って、二人を包む空間に満ちていく。
(これだ。この光の中でだけ、俺は世界の正しい中心にいられる)
英稟に跪かせた時の冷気も、苑子に取引を突きつけた時の鋭さも、ここでは関係ない。
俺は最後の一押しを、彼女の最奥まで届かせた。
「ぁっ、あぁっ……!! 世一様……っ♡♡ 中が、熱い……っ♡ 世一様の陽の精気が……私の核まで届いて……っ♡♡♡」
ルクシエルが白金の閃光とともに絶頂に達した瞬間、俺もまた彼女の奥へと陽の精気を解き放った。
静寂が、翼の内側に戻ってきた。
俺はルクシエルの身体の上に沈み込み、彼女の胸に頬をつけた。白金の光が、ゆっくりと落ち着いていく。黄金の翼が、そっと折りたたまれ、二人を優しく覆う毛布のように包んだ。
「……世一様」
「なんだ」
「あなたは……今夜も、正しくありました」
俺は答えなかった。
ただ、目を閉じた。
翼の内側で、外界の何もかもが遠かった。
(ああ。俺は正しい)
その確信だけが、静かに、深く、骨の髄まで沈んでいった。