『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
律也くんの背中が、夜の路地裏でずっと小さく見えた。
世一様たちと別れて、二人で煙銀亭に戻る道の間中、律也くんは一言も喋らなかった。私も何も言えなかった。言葉を探すたびに、どれも軽くて薄くて、かけてはいけない気がして。
煙銀亭の裏口から入って、閉店後の厨房の椅子に律也くんを座らせた。
照明を落とした店内は静かで、カウンターの上に置いたランプだけがほのかに揺れている。
「待ってて」
お湯を沸かして、タオルを温めた。律也くんの手の甲に、うっすら擦り傷ができていたから。
「いい、自分でやれる」
「いいから」
受け取ろうとした手を押しのけて、私は律也くんの前に膝をついた。
温かいタオルで、傷のあたりをそっと拭く。
律也くんは黙ってそれを受け入れながら、下を向いていた。その横顔が、なんだかずっと昔の律也くんに似ていて——あの夜、不良たちに囲まれた私を助けてくれた後、「怖かったな」って笑いながら自分の手の傷を拭いていた律也くんに。
「……ありがとう、紬」
小さな声だった。
「なんで私に礼を言うの」
「お前のおかげで世一様が来てくれた。俺を助けるために動いてくれたんだろ」
「律也くんが心配だっただけだよ」
律也くんは微かに笑って、でもすぐに眉根を寄せた。
「情けなかった。一人でケリをつけようとして、結局誰かに助けてもらって。世一様に——父さんの符叢で、俺が見えてもいなかった手を見せられて」
「それは」
「俺が未熟だってことだよ。父さんの符叢を継ぐ資格が、俺にはまだない」
沈黙が落ちた。
ランプが揺れる。
私はタオルを膝に置いて、律也くんの手をそっと両手で包んだ。
「資格がない人に、世一様があの符叢渡すと思う?」
律也くんが顔を上げた。
「世一様はね、符叢で勝ちながら、ずっと律也くんのことを見てた。私にはわかった。あの人、律也くんに見せようとしてたんだよ。『こういう使い方があるぞ』って」
「……そう、かな」
「見えたって言ってたじゃない、律也くん。世一様が出したあのルート、次は自分で動かせるって」
律也くんは下を向いたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……うん」
「じゃあそれでいいじゃん」
「単純だな、お前は」
「単純でいいよ」
律也くんが、また小さく笑った。今度は本物の笑い方で。
三年前から見てきた、あの笑顔だった。
胸の奥が、ぎゅっとなった。
律也くんの手が、私の手の上に重なった。
「紬」
「うん」
「お前が……ずっと俺のそばにいてくれてたこと、わかってた。賭け符闘場に溺れていた頃も、連絡が途絶えても、煙銀亭に来るたびにお前が変わらない顔で待っててくれてた」
私は何も言えなかった。声を出したら、泣いてしまいそうで。
「俺はずっとそれに甘えてた。お前の気持ちに、ちゃんと向き合えなかった」
「律也くん」
「好きだ、紬」
部屋の中が、静止したみたいに感じた。
ランプの火が揺れている。それだけが現実だった。
「……知ってた」
「は?」
「三年前からずっとそういう顔してたじゃん、律也くん」
律也くんが、目を丸くして、それから声を立てて笑った。久しぶりに聞く、あの笑い声だった。
「なんだそれ」
「私もずっと好きだったもん」
言ってしまったら、涙が出てきた。こらえようとしたけど、だめだった。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてる」
律也くんの手が、私の頬に触れた。
親指で涙を拭われて、そのまま顔を覆うように両手で包まれた。
顔を上げると、律也くんの目が間近にあった。
「紬」
「うん」
唇が、重なった。
やわらかくて、ぎこちなくて、それでもちゃんと温かかった。
律也くんのキスだ、と思った。ずっと想像してたのとどこか違って、でも律也くんそのものだった。
唇が離れたとき、私たちはしばらく額をくっつけたまま、同じ呼吸をしていた。
「……もう一回」
律也くんが小さく言った。
今度は、少し長かった。
律也くんの手が私の肩に回って、引き寄せられて、自然に抱き合う形になった。温かい。律也くんの体温が、じんわりと伝わってくる。
「紬」
「……うん」
「俺、ちゃんとやり直す。世一様の下で、もう一度符士として立てるように。お前に恥ずかしくない自分に、なる」
「もう十分だよ」
「よくない。俺はまだ何も返せてない」
律也くんの腕に力が込もった。
「だから、待っててくれるか」
私は律也くんの胸に顔を埋めて、頷いた。
「待ってる。ずっと待ってたんだから、もうちょっとくらい全然平気」
律也くんが、くっと笑った気配がした。
それから少しの間、そのまま抱き合っていた。
ランプの灯りだけがある、静かな夜だった。
律也くんの手が、私の背中をゆっくりと撫でた。
最初はただ、そこにいたかっただけだった。
でも律也くんの手の温もりが、私の背中から肩へ、首筋へと移っていくうちに、身体の奥で何かが熱くなってきた。
「紬……」
律也くんの声が、少しかすれていた。
顔を上げると、律也くんの目が真剣で、でも戸惑っている。
「嫌なら、言ってくれ」
嫌じゃなかった。
全然嫌じゃなかった。
「……嫌じゃない」
律也くんの唇が、今度は首筋に触れた。
「ひっ……」
思わず変な声が出た。恥ずかしくて、でも律也くんの唇が温かくて、離してほしくなかった。
「紬、ここ、いい?」
「……う、うん」
口だけで返事をしたら、律也くんがそっと笑って、もう一度同じところにキスをした。
ぞくぞくした。
律也くんの手が私の腰に回って、抱き上げるみたいにして厨房の奥の休憩室に連れて行ってくれた。小さなソファーしかない部屋。私がお昼寝する場所。
そこで、律也くんは私をそっとソファーに下ろして、隣に座って、また唇を重ねた。
今度は深く、舌が触れた。
「んっ……♡」
驚いて目を閉じた。律也くんのキスは、ぎこちなかったけど、ちゃんと優しかった。
エプロンのひもを解かれて、ブラウスのボタンを一つずつ外されていくのが分かった。
「……見てもいい?」
律也くんの声が、耳元でした。
「……見てもいいけど、恥ずかしい」
「俺も緊張してる」
その言葉が、嬉しかった。
ブラウスが肩から落ちて、肌着ごと下ろされた。
「……かわいい」
律也くんが呟いた瞬間、顔が燃えるように熱くなった。
「そんなこと言わないで……っ」
「かわいいから言った」
律也くんの手が、おそるおそる胸に触れた。優しくて、ちょっと震えていた。
「ん……♡」
甘い痺れが走った。
律也くんの手の温度。緊張しながらも私のことを大事にしようとしている、その不器用さが愛しかった。
「紬……」
「律也くん……♡」
律也くんは私の身体に触れながら、何度も確認してくれた。「ここ平気?」「痛くない?」って。そのたびに胸がいっぱいになった。
やわらかく、ゆっくりと、私たちは初めてを重ねた。
「ん……っ♡ りつや、くん……♡」
「紬……大丈夫?」
「大丈夫……♡ 大丈夫だから、もっと……っ♡」
痛みと、甘い痺れが混ざり合って、頭がふわふわした。律也くんの体温が全身に伝わってくる。
これが律也くんだ、と思った。
ずっと好きだった人と、こうやって繋がっている。
「紬、俺……」
「うん……♡ 私も……っ♡」
律也くんが、私をしっかりと抱き締めた。
最後まで一緒に、二人で落ちていった。
「ん……くぅ……っ♡♡」
律也くんも、小さく声を漏らした。
しばらくの間、私たちはそのまま抱き合っていた。律也くんの心臓の音が、耳のすぐそばで聞こえた。
「……ごめん」
律也くんが言った。
「なんで謝るの」
「もっとうまくしてやれたら、って」
「うまくなんかしなくていい」
「でも」
「律也くんらしかったから、よかったんだよ」
律也くんが黙った。
少しして、「ありがとう」と言った。声が、やわらかかった。
私は律也くんの胸に額を当てて、目を閉じた。
幸せだった。
ちゃんと、幸せだった。
なのに。
———
目を閉じると、浮かんでくるものがあった。
煙銀亭の奥の個室。世一様と二人きりになったあの夜。
律也くんを助けるための話をしていたのに、世一様の手が肩に置かれた瞬間、身体がびくっと跳ねた。陽の熱、とでも言うべき何かが、肩から首筋を伝って全身に広がって——。
(忘れなきゃ)
頭では分かってる。
世一様は違う。律也くんへの気持ちは本物だ。
なのに身体が、あの熱の感触を覚えている。律也くんの温もりとは明らかに違う、もっと根っこのところから溶かしてくるような、あの感覚を。
指で耳たぶをつままれたとき、思わず漏れそうになった声を必死にこらえた。あれは何だったんだろう。あんなの、おかしい。知らない人に触れられて、あんなにも身体が反応するなんて。
(律也くんが好き。それは本当のこと)
それは嘘じゃない。
でも。
(なんで、あの感覚が忘れられないんだろう)
律也くんの胸の上で、私はそっと目を開けた。
ランプの火は、まだ静かに揺れていた。
律也くんはもう眠っていた。長い夜だったから。疲れていたんだと思う。
私はその寝顔を眺めながら、心の底に引っかかるものを、なんとか深いところに押し込もうとした。
きっと忘れられる。時間が経てば消える。
そう思おうとしたけれど、どこかで分かっていた。
あの熱は、そういうものじゃない、と。