『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
煙銀亭から戻った夜だった。
自室で早雲家の資料を畳み、灯りを落とそうとした時、別邸の裏手からかすかな音が聞こえた。石畳を打つ、規則的な足運びの音。
裏手の私設符闘場に、律也がいた。
符灯を一つだけ点けて、一人で立ち位置の反復をしている。踏み込み、指の突き出し、魔力の連動。昼にやったドリルと同じ動きだ。額の汗が符灯の光を反射していた。
「夜稽古か」
律也の肩が跳ねた。振り返った顔には、隠しようのない焦りが浮かんでいた。
「……世一様。すみません、眠れなくて」
「謝ることじゃない。だが」
俺は符闘場の中央まで歩いた。
「その稽古じゃ、今日の問題は直らない」
律也が黙った。図星なのだろう。拳が固く握られていた。
「速さは足りている。動線も頭に入っている。だが今日、冬子の前でお前は動けなかった。息が詰まったと、自分で言ったな」
「……はい」
「桔梗も早雲の人間だ。あの圧の、種類は同じだ。当日、盤を挟んで正面から浴びる。稽古を何百回繰り返しても、圧への耐性はつかない」
「じゃあ、どうすれば」
「浴びるしかない。本物をな」
俺は邸の方へ顔を向けた。渡り廊下に、灯りがひとつ動いていた。
英稟だった。軍刀を腰に、稽古着のまま立っている。眠れないのは律也だけではなかったらしい。冬子と学院で二度打ち合った話を、俺にした夜だ。無理もない。
「英稟。ちょうどいい。相手をしてやれ」
英稟は驚いた顔をして、それから律也を見た。律也の顔が強張った。
「……俺が、英稟さんと?」
「不足か」
「いや——不足なのは俺の方で……格が違いすぎます」
「それでいい」
俺は二人の間に立った。
「律也。この符闘の勝敗は問わない。お前の目標は一つだけだ——甕星の圧の下で、三ターン目の連鎖を、崩さずに打ち切ること。迷って一手でも止まったら、その時点でお前の負けだ。符叢が尽きるのは負けに数えない」
「……圧の下で、打ち切る」
「英稟は全力でやれ。手加減された圧に慣れても意味がない」
英稟が軍刀の位置を直し、静かに頷いた。
「承知しました。——律也。私は容赦をしません。それが世一様のご指示であり……あなたのためでもあるので」
「……お願いします」
律也が深く頭を下げた。
二人が石畳の魔方陣を挟んで向かい合う。俺は結界の縁まで下がった。
「では——甕星流、開式」
英稟の宣言と同時に、空気が変わった。
陰気が薄く、床を這うように広がっていく。約定「陰気の奔流」——第一段階。それだけで、符闘場の温度が一段下がった気がした。名門の符家が数百年かけて磨いてきた霊理の圧が、盤面の外まで滲み出てくる。
律也の喉が、上下に動いた。
(冬子のものより軽い。だが、質は同じ系統だ。名門の「格」が持つ圧——これを浴びせるために、英稟を選んだ)
律也のターン。
「炎武者、二体展開」
声が、わずかに硬い。それでも手は止まらなかった。炎の武人が二体、火の粉を散らして場に立つ。連鎖の起点。教科書通りだ。
英稟のターン。
「「陰気の奔流」——第二段階、重ね展開。布石——「幽玄の罠」設置」
伏せられた札が一枚、陰気の中に沈んだ。
律也の目が、その一枚に吸い寄せられた。
(見えている罠は、罠として機能する。次の実体化を撃ち落とされると分かっていて、お前はどう動く)
律也のターン。手札を見て、一呼吸。
「……炎武者・小灰、実体化」
聞き慣れない名の、小型の炎武者が場に出た。父・陣の符叢の中でも最も安い、連鎖の数合わせにしか使わない一枚だ。
英稟は動かなかった。罠を切らない。小物に使う札ではないという判断だ。
「炎武者・骸火、実体化——」
「——幽玄の罠、発動。実体化を無効とし、手札へ戻す」
骸火が、実体化の途中で霧散した。律也の連鎖の軸が撃ち落とされる。
だが。
「知ってました」
律也が言った。
「早業——「火事場の馬鹿力」。手札の骸火を墓地へ送り、場の炎武者全体の攻撃力を引き上げる」
撃ち落とされることを前提に、骸火を燃料へ変える動き。三体の炎武者が一斉に燃え上がった。
(——ほう)
俺は結界の外で、わずかに目を細めた。囮の小灰で罠の基準を測り、本命を止められた瞬間に用途を切り替えた。今日の昼までの律也には、なかった手つきだ。
「攻撃。英稟さんの符叢へ」
戦力差分——四枚。英稟が静かに符叢から四枚を取り除いた。
「……いい判断です。ですが」
英稟のターン。
「「陰気の奔流」——第三段階。完成」
陰気が天井まで満ちた。符灯の光が細くなる。
「甕星、実体化」
天津甕星が、夜の符闘場に降り立った。
瞬間、圧が桁を変えた。
大型の陰属性神符が放つ霊圧が、結界の内側の空気を丸ごと押し下げる。石畳が軋むような、重い静けさ。俺ですら皮膚に感じる圧力だ。正面で受けている律也には、この比ではないだろう。
律也の足が、半歩下がった。
指先が止まる。目が見開かれたまま、動かない。
(——来たな)
昼間、冬子の前で詰まった息。あれと同じものが、今、律也の喉を掴んでいるはずだった。
俺は口を挟まなかった。ここで声をかけたら、この稽古は意味を失う。
一秒。二秒。
律也の唇が動いた。声にならない何かを、自分に言い聞かせるように。
それから——大きく息を吐いた。
「……止まらねえって、決めたんだ」
足が、半歩、前に戻った。
「甕星・連鎖効果」
英稟は待たなかった。全力でやれと言ったのは俺だ。
「「陰気の奔流」を消費——使役式全体へのダメージと、符叢へのダメージを同時に」
黒い奔流が律也の場を薙ぎ払った。炎武者三体が一掃され、符叢が八枚、まとめて墓地へ落ちる。
盤面が、更地になった。
昼までの律也なら、ここで崩れていた。展開した炎武者が全滅すれば、連鎖の型は根本から折れる。やけになって手札を全部叩きつけるか、逆に固まって動けなくなるか。賭け符闘場に落ちていた頃の律也は、いつもそのどちらかだった。
律也のターン。
律也は自分の手札を見た。それから、顔を上げて甕星を見た。
「炎武者、二体展開。——温存してた分です」
盤面が全滅しても、手札の燃料を切らしていなかった。序盤に全部を並べず、二体で止めていた理由がこれだ。
「連鎖、起動。二体で甕星に攻撃——相打ち覚悟で、一体目」
炎武者が黒い巨躯に斬りかかり、弾かれ、墓地に落ちる。連鎖効果で三体目が場に湧く。
「二体目、三体目——連鎖、継続」
炎が、途切れずに繋がっていく。一体が落ちるたびに次の炎が立ち上がり、甕星の巨躯にダメージが蓄積していく。戦力差を、手数で埋める打ち方だった。
「三ターン目——打ち切ります!」
最後の炎武者が甕星の守りを抜け、英稟の符叢へ届いた。
戦力差分——七枚。
英稟の符叢が、一気に細くなった。残りは片手で数えられる枚数だ。
英稟の目が、一瞬だけ大きくなった。
「……この私が、ここまで削られるとは」
だが、そこまでだった。
英稟のターン。甕星が動く。
「天巡の爪」
黒い爪が律也の残った炎武者を貫き、余波が符叢を薙いだ。律也の命運が尽きる。
決着。夜の符闘場に、陰気が静かに引いていった。
律也はその場に、大の字に倒れた。
「……っはー……。負けた……」
「負けていません」
英稟が符叢を収めながら言った。
「世一様の課題は『圧の下で三ターン目の連鎖を打ち切ること』でした。あなたは打ち切った。甕星の実体化を正面から浴びて、一度止まって——自分で、戻ってきた」
英稟は倒れた律也を見下ろし、それから少しだけ声を和らげた。
「学院の上級生でも、甕星が降りた後にあの枚数を取った者はいません。……次は私も、三ターン目までに終わらせる組み方をします」
「それ、褒められてるんすかね……」
「褒めています」
石畳の端で、灯りが動いた。
苑子だった。手拭いと水差しを盆に載せて、いつからいたのか、結界の外に立っていた。声をかけるでもなく、稽古の邪魔をするでもなく、ただ立っていた。
その横顔から何かを読み取ることは、俺にはできなかった。ただ、目元が少しだけ緩んで見えた。亡き夫の符叢が、息子の手で名門の符叢から七枚を毟り取った夜だ。思うところが、ないはずはなかった。
「律也。今の感覚を忘れるな」
俺は結界の中へ歩きながら言った。
「圧は消えない。桔梗の後ろには早雲の家格が立っている。当日もお前は一度、必ず止まる。——止まっていい。戻ってこられるなら」
「……はい」
律也が跳ね起きた。汗だくの顔に、もう焦りはなかった。
「もう一戦、お願いできますか」
「今夜は寝ろ。回復も調整のうちだ」
「……うっす」
律也が苑子から手拭いを受け取り、顔を埋めた。英稟が軍刀の柄に手を置いて、小さく息を吐いた。二人の間にあった「主家の姫と家臣の子」の硬い距離が、盤を挟んだ一戦分だけ、縮んで見えた。
(炎は、もう圧では消えない)
俺は夜空を見上げた。東の空に、星が出ていた。
五日後の東境戦。第一戦の盤面は、悪くない仕上がりになりそうだった。