『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
調整九日目の朝、俺と英稟は浅葱戦の対策に入った。
浅葱の符叢——木属性・狐使い。狐の霊体化を繰り返し、蘇生でリソースを回収し続ける持久型だ。
「天津甕星で何度攻撃しても、狐は戻ってくる」
英稟が盤面に狐の式符を三体並べて言った。模擬配置だ。
「そうだ。狐を処理しようとすれば、お前の符叢が先に削れる」
「七耀陣であれば——」
英稟が止まった。
「なんだ」
「……いいえ。続けてください」
「狐を倒す必要はない。狐を蘇生できなくすればいい」
英稟の目が、わずかに動いた。
「浅葱の狐が場から離れると、浅葱は蘇生符を使って戻す。その蘇生符が手札にない状態なら——狐は離れたまま戻れない」
「……甕星の陰属性で、蘇生符を先に落とす」
「そうだ。甕星が場に出た瞬間から、浅葱の手札を確認して蘇生符と補充符を優先的に墓地へ送る。狐を倒すのは——その後だ」
英稟が模擬配置の狐を片付け、符叢を組み直した。
「……試します」
模擬戦を三回行った。最初の一回は蘇生符の見極めが遅れ、持久戦に引き込まれた。二回目は甕星の手札確認を先行させることで手番差が生まれた。三回目は五手で決着がついた。
「これが速攻のラインです」英稟が言った。
「五手なら符叢の消耗は最小だ。ただし浅葱が三体以上並べてきた場合は延びる」
「プランBは」
「手払いで一体ずつ処理しながら消耗戦に持ち込む。七手から八手かかるが、成立はする。浅葱の狐リソースは最大でも六体だ。甕星の重圧がある限り、浅葱は手札を補充のために使い続けるしかない。いずれ尽きる」
「……わかりました」
英稟が短く答えた。迷いのない声だった。
夜になった。
俺は廊下を歩き、英稟の部屋の前で止まった。
扉を叩く。
「……世一様?」
英稟が扉を開けた。夜具の上には広げた符叢と書き込みだらけの手控えがあった。まだ作業をしていたらしい。
「こんな刻限に、どのような」
「勝ってこい」
英稟が目を細めた。
「……それを言いに来られたのですか」
「他に理由がいるか」
英稟はしばらく俺の顔を見ていた。それから、扉から一歩下がった。通せという意味だった。
俺は中に入り、英稟の手から手控えを取り上げて机に置いた。
「世一様——」
返事はしなかった。英稟の肩に手を置き、そのまま夜具へ押し倒す。英稟が息を呑んだ。
「……今夜は」
「黙れ」
英稟が口を閉じた。
指先で衿をはだけると、白い肌が露わになる。英稟の体に触れるたびに——いつも思う。この女は俺の前では鎧を脱ぐ。外では誰にも見せない素顔を、俺にだけ向ける。
「ん……っ」
指を這わせると、小さく声が出た。英稟は視線を逸らし、唇を噛んで声を抑えようとした。それでも抑えきれない。
「……っ、世一様……」
「声を出せ」
「……ぁ……」
英稟の腰が、かすかに揺れた。
くちゅ、と音が鳴る。英稟が顔を背けた。しかし俺はその顎を持って正面に向け直した。
「逃げるな」
「……逃げては、おりません……」
「なら目を開けろ」
英稟が、ゆっくりと目を開けた。
俺は英稟の中に入り、動き始めた。
「ぁ……っ……んぁ……」
英稟の声が、少しずつ解けてきた。必死に整えようとしながら、それでも揺れる。この女は——崩れかけるたびに、崩れまいとする。そこが英稟だった。
くちゅくちゅ、と濡れた音が部屋に響く。
「……ぁ……世一、様……っ」
俺は英稟の名を呼ばずに、動き続けた。
最後は英稟が短く息を飲み込んで、全身を震わせた。
静寂が戻った。
英稟が乱れた衿を直しながら、天井を見ていた。
「……私は、七耀陣がなくても勝ちます」
「知っている」
「……では——なぜ、来られたのですか」
「知っているから、来た」
英稟は何も言わなかった。
しばらく二人とも黙っていた。俺は起き上がり、机の上の手控えを英稟の手元に戻した。
「明日、勝て」
「……はい」
英稟の声は、昼間より少しだけ低かった。
部屋を出た。廊下は静かだった。
(温かかった)
封印される前、ルクシエルの夜は——魂ごと満たされる充填だった。まだ数日しか経っていないのに、もう遠くにあるもののように思えた。エーデルガルトの夜は確認だった。英稟の夜は——温かい。空洞は残る。だが今夜は——少しだけ、遠かった。
────
英稟の部屋から戻り、俺は机の前に座った。
手元には明日の対戦用に組み直した符叢。エーデルガルトの原符が先頭に差さっている。その横、机の端——懐用の護符入れに、ルクシエルの原符が静かに収まっていた。符叢は別だ。それでも、封印が解けた時に備えて、肌身から離さずにいた。
翠衣→黒衣→黄衣→蒼衣→緋衣→白衣。
頭の中の動線を追っているうちに、意識が滑った。
金色の光の中だった。
「主様♡」
声だけが先に来た。
「……ルクシエル」
光の中に、黄金の輪郭が浮かんでいた。実体ではない。夢の中でもそれは分かった。封印の向こうから——届いている。
「お久しぶりですね♡ お声が聞けて嬉しいです♡」
「夢に出てくるとは思わなかった」
「まあ。夢でなければ、今は来られませんもの」
軽い声だった。しかしその軽さの奥に、何かが見えた気がした。
「近くに、いるのか」
「ええ。ちゃんとおりますよ♡ いつも懐で、主様の鼓動を聞いております——ただ、表には出られないだけで」
黄金の光がゆっくりと揺れた。
「主様の盤面も、手の内も、ここから全部見えております♡」
ルクシエルが続けた。
「エーデルガルトが、よく仕事をしていると思いますよ。あの子は——正しく使われることを望んでいますから」
「知っている」
「では、あとは主様が使い切るだけですね♡」
俺は黄金の輪郭を見た。実体はない。触れようとしても、触れられない。だが——確かにそこにいる。
「待たせてすまない」
ルクシエルが、一瞬だけ黙った。
「……まあ」
珍しそうな声だった。
「そのような言葉をいただけるとは。主様も、少し変わりましたね♡」
「変わってない」
「いいえ、変わっています。でも——嫌いな変わり方ではありません♡」
金色の光が、少しだけ明るくなった。
「明日、勝ちます」
「はい♡」
「勝ったら、迎えに行く」
「……はい」
今度は短かった。いつもの、語尾で甘く跳ねる響きがなかった。
ルクシエルの声が、ほんの少しだけ——揺れた。
「待っております、主様。ここから——全部、見ておりますから」
────
目が覚めたとき、部屋は暗かった。
机の上の符叢が、そのままあった。エーデルガルトの原符が先頭に。その横の護符入れに、ルクシエルの原符。
俺はその一枚に指先で触れた。
「待っていろ」
誰にも聞こえない声だった。
夜明けは、すぐそこだった。
────
東境の符闘場は、石造りの円形闘技場だった。
早雲家の旗が外周を囲んでいる。観客の大半は早雲家の郷士や家臣だ。星宮側はわずか数名——苑子が控えに立ち、英稟と俺は最前列で盤面を見る位置に立った。
桔梗が先に入場した。
冬子とは違う。糸のように細く閉ざされた目ではなく、伏し目がちな柔らかい目元。黒の衣に夜猫の紋を縫い込んだ装束。冬子の厳格さを持たずに、別の静けさをまとっている。夜の冷気のような、陰属性の使い手らしい佇まいだった。
律也が進み出た。
「三神律也。先鋒として——参ります」
俺は腕を組んだ。
(三ターンで終わらせろ。桔梗の持久戦に入ったら泥沼だ)
────
先手は律也。
開幕、炎武者を二体展開した。盤面が赤く染まる。
桔梗は静かに猫を一体召喚した。小さく白い猫の式符が場に据わった。
律也の炎武者が前に出た。猫に攻撃が通る——撃破。連鎖が起動し、三体目の炎武者が場に加わる。
「……」
桔梗が蘇生符を使った。猫が場に戻った。
律也が眉を寄せた。
(また戻った。どうする、律也)
律也の手が符叢の上で止まった。猫を再び処理するか、迂回するか。
俺の内心で声が出た。
(猫を相手にするな。迷うなら前に出ろ)
律也が手を動かした。
炎武者三体を前進させ——猫をスルーした。連鎖を桔梗への直撃に変える。
桔梗が即座に猫を二体追加召喚してブロックに入る。炎武者一体が猫に阻まれた。しかし——残り二体の連鎖は止まらない。
二体の炎武者が桔梗の符叢を直接削る。
手応えが生まれた。
桔梗が猫を追加しようとして——手を止めた。
「……」
手札が薄い。律也の連鎖の速度が、桔梗の補充より早かった。
桔梗は蘇生符をもう一枚使った。猫を場に戻す。しかし連鎖の燃料は続いている。律也の手元には、まだ炎武者がいる。
四ターン目。
律也が炎武者を四体並べた。それが連鎖の最終形だった。
桔梗の場には猫が二体。炎武者四体の連撃は、猫を一体潰して符叢に直接届いた。
桔梗の符叢が、尽きた。
────
静寂が落ちた。
桔梗は動かずに、律也の方を見た。それから、静かに頭を下げた。
「……見事でした」
律也が息を吐いた。「……強かった」
俺は律也の背中を見た。
(三ターンではなかった。だが四ターンで収めた。十分だ)
桔梗が控えに下がる直前、ふと顔を上げた。俺の方へ——あるいは星宮側全体へ向けた視線だった。
「……お姉様が、お待ちです」
それだけを言って、桔梗は旗の陰に消えた。
俺は視線を前に戻した。
英稟が立ち上がった。
符叢を腰のホルダーに差し、入場の列へ歩き出す。その背中を——俺は黙って見ていた。
(勝ってこい)
昨夜と同じ言葉が、今度は声にならなかった。
英稟は振り返らなかった。ただ、まっすぐ前を向いて歩いていった。
────
浅葱は柔和な顔をしていた。
冬子の細く閉ざされた目でも、桔梗の伏し目でもない。穏やかな、木属性の使い手らしい目元。しかしその目が英稟に向いた瞬間——俺は気づいた。
(準備してきている)
英稟が甕星を召喚した。陰属性の重圧が場を覆う。
甕星の効果が起動した。浅葱の手札が透けて見える——蘇生符が一枚。英稟はそれを即座に墓地へ落とした。
浅葱が狐を二体展開した。蘇生符がない状態での展開だ。速攻が機能する——はずだった。
英稟が甕星で狐を直接攻撃した。一体が破壊される。
浅葱が手札を一枚使った。別の蘇生手段だった。狐が戻る。
英稟の目が、一瞬だけ止まった。
(蘇生ルートが複数ある。冬子から聞いていたか)
英稟は速攻を切り替えた。判断が早かった。長期戦に入り、甕星の重圧で浅葱の補充を一枚ずつ削いでいく。
持久戦が続いた。
浅葱の手が丁寧だった。狐を一体、また一体と並べ直しながら、英稟の甕星の圧力を受け流し続ける。消耗戦に持ち込もうとしていた。
しかし英稟も消耗を覚悟で押し込んでいた。甕星が吠えるたびに、浅葱の符叢が削れる。狐を一体ずつ処理しながら、着実に詰めていく。
十手を超えた頃、浅葱の場に残った狐は二体になっていた。
(あと一体——)
俺の頭に、自動的に動線が浮かんだ。七耀陣があれば、ここだ。広域除去が全体を薙ぎ払い、甕星が直撃に入る。盤面が終わる。
英稟の手が——一瞬だけ、止まった。
それが分かったのは、俺だけだったかもしれない。
止まってすぐに動いた。甕星で狐の一体を攻撃する。破壊。連動して次の手へ——しかし、もう一体の狐が英稟の直撃路を塞いでいた。
浅葱が最後の手札を使った。
残った狐が能力を起動し、英稟の符叢を直接削った。それが連鎖して、もう一枚。
英稟の符叢が、尽きた。
────
沈黙が落ちた。
浅葱が深く頭を下げた。
「……星宮英稟殿」
英稟は動かなかった。
「お姉様から伺っておりました。七耀陣さえなければ、と——」
浅葱が言葉を続けようとした。
「終わった話です」
英稟が遮った。静かな、揺るぎのない声だった。
浅葱が口を閉じた。
英稟は符叢をホルダーに収めた。それから、俺の方を向いた。
表情はなかった。目だけが、一秒だけ——俺を見た。
「……七耀陣がなくても勝つと申し上げました。負けました。言い訳には——いたしません」
それだけを言って、英稟は控えに下がった。
────
俺は前を向いた。
符闘場の中央に、早雲冬子が立っていた。
いつからそこにいたのか分からなかった。静かに、腕を前に重ねて待っていた。細い眼差しが、俺を見ていた。
(あの目だ)
訓練場で訓練場の隅を確かめた、あの目。
条件が整った。
(そうだな。整えたのはお前だ)
俺はエーデルガルトの原符に指をかけた。
「式世一殿」
冬子が口を開いた。
「お待ちしておりました」
俺は何も答えずに、符叢を構えた。
冬子の盤面に、土偶が一体目を踏み出した。
重く、びくともしない。石造りの式符が盤面に降り立ち、冬子の背後に城壁の一角として据わる。その霊圧だけで、場の空気が変わった。
俺はエーデルガルトの原符を符叢から引き抜いた。
「出ろ」
紫黒の粒子が凝集した。エーデルガルトが顕現する。符闘場の冷気の中に、深い夜色の輪郭が立った。
「ご命令を」
一言だけ。
俺は手札の早業を、静かに二枚切った。
『流し替え』——手札一枚を符叢の底へ沈め、二枚引く。『代償整理』——二枚引いて、一枚を底へ。手札は減らない。墓地にだけ、早業が二枚落ちる。着替えの燃料だ。
派手な展開は何もない。観客席が、怪訝にざわついた。だが、この盤面はこうやって回る。
「墓地の早業二枚、符叢の底へ」
俺は最初の色衣を差し込んだ。
翠衣——木属性。
エーデルガルトの装束が緑の光をまとった瞬間、その効果が起動する。冬子の一体目の土偶が霊体化し、盤面から消えた。
冬子は動かなかった。
すぐに二体目の土偶を場に出した。
(補充が早い)
黒衣を差し込んだ。陰属性の色衣がエーデルガルトの装束に重なった瞬間、冬子の手札が透けた。土偶の補充式符が一枚——墓地へ落とす。
冬子の手が、一瞬だけ止まった。
「……」
——何が起きているか、分からない顔だった。
一色か二色で完結するのが常識の盤面で、属性が次々と切り替わる。木が消え、陰が重なる。それが一体の式符の装束の上で、淀みなく回る。観客の誰もが、黙って見ていた。
冬子の目が、わずかに細くなった。
(気づいている。だが読めていない)
黄衣。土属性の色衣がエーデルガルトを包んだ。保護が展開される。冬子の返しが来た瞬間、その攻撃がエーデルガルトを通過した。
三体目の土偶が現れた。
胸の中で、動線が加速した。
(あと一体で約定が完成する。その前に——)
「流し替え。戻すのは白紙補助符——引く」
手札が回り、墓地に早業が積まれていく。蒼衣を差し込む。水属性のドローで符叢から一枚を引いた。早業が手札に来た。灰衣で墓地の早業をもう一枚戻す。早業が二枚。回転が続く。
力押しじゃない。全部、順番どおりだ。
冬子が動いた。四体目の土偶を手札から——
「エーデルガルト」
「はい」
翠衣。
四体目の土偶が霊体化した。約定の完成が止まった。
盤面に土偶が二体。俺は続けた。黒衣。冬子の手札を再度確認し——蘇生符を墓地へ落とす。
冬子が、静かに息を吐いた。
その呼吸が、わずかに乱れていた。
(崩れる。ここから崩れる——)
しかし——
「……なるほど」
冬子が、初めて口を開いた。
「これが、千装魔女の色衣」
答えなかった。
「符叢の早業を燃料に八属性を操り、単色の要塞を八方向から崩しにかかる」冬子の目の奥で、何かが動いた。「……面白い盤面です、式世一殿」
「盤面以外で語ることはないんじゃなかったか」
「…………」
冬子は黙った。
そしてゆっくりと、新しい式符に手を伸ばした。
土偶の補充式符ではなかった。
見覚えのある形——しかし実戦で見たのは初めての式符だった。
(布石だ。約定を守る防御布石——)
冬子が盤面に差し込んだ瞬間、重い土属性の霊圧が増した。場を覆う、厚い何か。
土偶ではない。約定そのものを守る鎧だった。
(緋衣で約定を破壊しようとした瞬間、この布石が壁になる。翠衣と黒衣だけでは崩せない)
俺は色衣の残りを確認した。
緋衣がある。早業が二枚ある。
(タイミングを一手でも誤れば——)
冬子の土偶が、一体、静かに前進した。
エーデルガルトの黄衣が重さを受け止めた。
懐の奥で——ルクシエルの原符が、静かに眠ったままだった。
────
次の手番で、冬子が動いた。
土偶の三体目が再召喚された。俺は翠衣を差し込もうとして——止まった。
(待て)
布石が盤面にある。翠衣を打てば土偶は霊体化する。しかし同時に、布石が起動して緋衣の対象を約定から逸らす効果が発動する。タイミングが噛み合わない。翠衣を先に打てば後で緋衣が通らない。緋衣を先に打とうとすれば、その前に四体目が揃う。
(詰まった)
一手、迷った。
その一手の間に、冬子の四体目の土偶が場に出た。
重い音がした気がした。
盤面に土偶が四体。
「神符約定——堅牢土公」
冬子の声が静かに告げた。
約定が完成した。
土偶四体の輪郭が変わった。それぞれが、単体の式符ではなく、一つの城壁の一部として機能し始める。攻撃を受けるたびに——差分ダメージが返ってくる。
(まずい)
エーデルガルトが前に出ようとした。黄衣の保護が張ってある。しかし約定完成後の返しダメージは、通常の攻撃とは別軸だ。黄衣では防げない。
土偶の城壁が、重圧とともにエーデルガルトへ向かった。
「……っ」
エーデルガルトが一歩だけ下がった。符叢から三枚が削れた。
(返しダメージが来た。このペースで続いたら——)
蒼衣でドローする。早業が——もう一枚しかない。
(早業が切れる。早業が切れたら色衣が回らなくなる)
灰衣で墓地の早業を確認した。一枚だけ残っている。戻す。早業が二枚に戻った。しかしそれが最後だった。次に早業が尽きたら、色衣を回す燃料がなくなる。
冬子の土偶が、また前進した。
返しダメージ。符叢から三枚。
(……このまま押し切られる)
頭の中を、一瞬だけ、黄金の光がよぎった。
ルクシエルがいれば——黄金鎖が一閃し、盤面を薙ぎ払う。約定も、布石も、土偶も、一瞬で消える。
しかし——
ルクシエルはいない。
懐の奥に、封印されたまま、眠っている。
「……」
「……世一様」
エーデルガルトが口を開いた。
試合中に彼女が声をかけてきたのは、初めてだった。
「……正しく使ってください」
それだけだった。
命令でも懇願でもなかった。ただ——確認だった。
(正しく、か)
俺は頭の中を整理した。
(今、ルクシエルのデッキの動線で読もうとしていた。あれは制圧型——盤面を一閃で薙ぎ払うミッドレンジの発想だ。この符叢は違う)
千装魔女の色衣は、コントロール型だ。俺の盤面は、積み上げる。
(布石を越えるには——布石が機能する条件を先に潰す)
布石の効果を確認した。「緋衣の対象を約定から逸らす」——これは「緋衣が打たれた瞬間に」起動する。ならば、緋衣を打つ前に布石の維持条件を壊せばいい。
布石を維持しているのは何か。土偶が四体揃っていること——約定が完成している状態が条件だ。
(約定の完成を崩せば、布石も維持できなくなる)
翠衣。土偶を一体霊体化する。約定の完成が崩れた。
布石の輝きが、わずかに揺らいだ。
(今だ)
黒衣。冬子の手札を確認——布石の維持に必要な式符が一枚ある。墓地へ落とす。
冬子の目が細くなった。
「……」
布石が、静かに盤面から消えた。
俺は緋衣を差し込んだ。
火属性の光がエーデルガルトの装束を包んだ瞬間——「神符約定:堅牢土公」が、直撃を受けた。
重い音がした。
城壁の中核が、崩れた。
────
約定が消えた盤面に、残った土偶が二体立っていた。
ただの式符だった。返しダメージはない。それでも重い。土属性の霊圧が澱んで、まだ壁を張ろうとしていた。
翠衣。一体を霊体化する。
もう一体——エーデルガルトが向かった。押し込んで、足場ごと踏み倒す。
盤面が空になった。
「お待ちください」
声が、場の外から割って入った。
三国査察団の席から、聖華教皇国の使節——セレスティーナ・ヴァル・アストラが立ち上がっていた。白の法衣が符闘場の光を受けていた。
「その胸元には、観察封印の対象が携えられております」
落ち着いた声だった。しかし確信が乗っていた。
「黄金鎖の天使ルクシエルは、聖教が定める神聖使役禁止令の対象です。その霊力が符闘場に影響を及ぼしている可能性がある以上——試合の正当性を担保することができません。一時中断を要求いたします」
——懐が、光った。
俺は胸元の護符入れに手を当てた。
わずかな金色だった。炎ではない。星でもない。呼吸のような、ごく薄い輝きだった。
封印は——解けていない。しかし。
「……この場に、私が在ります」
声が、懐の一枚から届いた。
ルクシエルだった。
符闘場が、完全に静まり返った。
「聖教の御名において封印を求めた方々に、申し上げます」
声は静かだった。怒っていない。断罪でもない——ただ、確認だった。
「私はこの符士の——主と認めた者の傍らに、自らの意志でおります。封印は私が外に出ることを制限している。しかし——私がここにいることを、誰も制限することはできません」
一拍。
「セレスティーナ殿。あなたの教義において、天使の言葉とは誰の言葉か——今一度、お確かめください」
セレスティーナの顔から、色が失せた。
法衣の両手が、胸の前で聖印を切った。体が動いた。考えてではなく——体が動いた。そのまま、ゆっくりと座った。
エリナが口を開きかけた。クラウスが目で制した。
三国が、黙った。
金色の光は、消えていた。
俺は胸元を押さえた。
(ルクシエル)
声は届かない。封印がある。しかし——いる。ここにいる。全部、見ていた。
「……式世一殿」
冬子の声が、横から届いた。
「どうぞ」
俺の指が、白衣を引いた。
最後の色衣だった。
差し込んだ瞬間——エーデルガルトの装束が、変わった。翠の緑が瞬き、緋の赤が走り、黄の土が鳴り、蒼の水が流れ、黒の陰が閉じ、灰の無色が解けた。八つの光が一度だけ重なって、消えた。そして——白い輝きが、彼女の全身を包んだ。
八色が一巡した証だった。
俺の指の感触に、何かが重なった。
(この感触だ)
世界の頂を争う盤面で、何百回も繰り返した、この最後の一枚。あの決勝でだけ——打てなかった一枚。ストレージの奥に仕舞って、忘れたふりをしていた動線が、今ここにある。
エーデルガルトの戦力が上がった。霊力が漲った。
彼女は一度だけ、俺を見た。
無言だった。しかしその目に、「はい」があった。
「行け」
エーデルガルトが冬子の盤面へ向かった。
————
冬子の手が、最後の式符へ伸びた。
届かなかった。
エーデルガルトが先に到達していた。白衣の戦力が直撃に変わり、冬子の符叢を薙いだ。
符叢が、尽きた。
符闘場が静かになった。早雲家の郷士たちが黙っていた。誰も何も言わなかった。
冬子は動かなかった。
しばらく——本当にしばらくの間、俺はその静けさの中に立っていた。
冬子が、符叢を下ろした。
「……式世一殿」
「……」
「あなたは——私が思っていたよりも、ずっと先を歩いていた」
冬子の瞳が、俺をまっすぐに見ていた。
「条件次第では、私の要塞を崩せると申し上げました。条件は——整えました。それでも、崩されました」一拍だけ間があった。「今日の盤面に、悔いはありません。見事でした」
「符闘は盤面だ。条件じゃない」
「……はい」
冬子が頭を下げた。真摯な一礼だった。
そして——目が英稟へ向いた。
「英稟様」
英稟が、俺の横に並んだ。
一歩だけ、前に。言葉はなかった。ただ、まっすぐに冬子を見返した。負けを認めても、頭は下げない——そういう目だった。
冬子は笑わなかった。しかしその伏せた目の奥で、何かが静かに動いた。
「……承知しました」
それから、英稟へ向けて言った。
「いずれ七耀陣を取り戻した星宮家が、どう変わっていくか。今日のあなた様を見た後では——それも、遠い話には思えません」
英稟は答えなかった。
しかし——その肩が、かすかに動いた。
冬子が一礼して、早雲家の控えへ下がった。その背中は最後まで、動かない城壁のようだった。
————
観客席の郷士たちが、ざわめきながら立ち上がり始めた。
その端に——見覚えのある外套が一つ、フードを目深に被って紛れていた。フードの奥から、水色の髪が一房こぼれている。
目が合った。合った瞬間、フードの主はぷいと顔を背け、人波に紛れて消えた。
(……確認は、済んだらしい)
腑抜けたままじゃないか見に行く——そう言っていた女は、宣言通りに来て、宣言通りに何も言わずに帰っていった。
————
律也が大きく息を吐いた。
苑子が静かに頭を下げた。
英稟が俺の方を向いた。
「……世一様」
「わかっている」
それだけで、英稟は何も言わなかった。
俺は符叢を収めた。それから、懐の護符入れを開いた。ルクシエルの原符が——封じられたまま、そこにあった。
指先で、その一枚に触れた。
(もう少しだ)
冷たくはなかった。
封印の向こうで、かすかな熱があった。錯覚かもしれなかった。
それでも——まだいる、と思った。