『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
翌朝。
冬子が来たのは、夜明けから間もない頃だった。
文書は薄紙に包まれて、紐で結ばれていた。
「深淵海国の動向に関する倉橋家の記録です。三十年分——選んで持ってきました」
俺は紐を解き、薄紙を開いた。三十年分の記録を、要点だけ拾うように目で追う。
「……ざっと見た」
「お役に立てば」
冬子が一礼して引こうとした。
「待て」
「……はい」
「セレスティーナ・ヴァル・アストラに会う。今日のうちに」
冬子の表情が、わずかに動いた。
「倉橋の記録——持参します」
「ああ。同行しろ」
「……かしこまりました、世一様」
────
セレスティーナが逗留していたのは、遠見市の北端にある聖教系の修道施設だった。訪問を申し入れると、思ったより早く通された。
(昨日の出来事の後で、会いたくないとは言えなかった、ということか)
応接の間。石造りの壁に、嵌め込みの燭台。窓から朝の光が入っていた。
セレスティーナはすでに座っていた。深紅の枢機卿服。金糸の刺繍。肩にかかる銀灰色の髪が一筋、こめかみに落ちていた。
「式世一殿。昨日の符闘の労、お疲れ様でした」
穏やかな声だった。笑みも穏やかだった。
ただ——その目の奥に、昨日の符闘場で聖印を切った後の表情の残滓が、まだあった。
「単刀直入に話す」
「どうぞ」
「昨日、ルクシエルはあなたに聖印を切らせた」
「……はい」
「なぜ従ったのか」
セレスティーナが微笑のまま、少し間を置いた。
「天使の言葉でしたから」
「その通りだ」
俺は椅子に座らなかった。立ったまま、窓の光を背にした。
「天使が言葉を伝えた。あなたはそれに従った。それが聖教の信仰の形のはずだ」
「……はい」
「しかし、観察封印はルクシエルが正式な符闘場に立つことを禁じている」
「封印の大義名分は——神秘存在の管理状態の確認であり——」
「昨日、ルクシエルが語りかけた相手はあなただ」
セレスティーナが、唇を閉じた。
「私は何も言っていない。俺はルクシエルに何も命じていない。あれはルクシエルが自分の判断で、あなたに向けて語りかけた」
「……」
「封印の根拠は、天使が一個人の命令に従う状態の是正、のはずだ。昨日の出来事は——その前提と違う」
静かな沈黙が落ちた。
「天使が自らの意志で言葉を伝えた。それが神の意志の伝達なら——三国の外交措置がその行為を縛ることができるのか。あなたの信仰と、あなたが署名した封印は、整合しているのか」
セレスティーナは答えなかった。
穏やかな微笑みが、初めて、固まった。
壁の燭台の炎が揺れた。
(この人は知性的だ。反論できないことは分かっている)
しばらくの後、セレスティーナが静かに言った。
「……あなたの論は、筋が通っています」
「だが」
「聖座の決定を、私一人が覆すことはできません」
「知っている」
「では——」
「問いを持ち帰ってほしい」
冬子が前に出た。
「早雲冬子と申します。猊下」
冬子が文書を両手で差し出した。
「倉橋家の記録です。三十年分の——南から来る嵐の痕跡を追ったもの」
「……倉橋家の」
セレスティーナの目が、文書に落ちた。
「観察封印が成立した根拠を、猊下はご存じですか。三国それぞれの動機を——神秘存在の管理という大義名分の裏に、何があるかを」
「……」
「この記録は、深淵海国の動向を追ったものです。三国がルクシエル殿への封印を執行した時期と、深淵海国が北方へ向けて動き始めた時期は——符合します」
セレスティーナが文書を受け取った。少し間があった。
「これは——」
「聖座への報告材料として、お使いください」
セレスティーナは文書を開かなかった。胸の前で、両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
「……お時間をいただいてよいですか」
「どれくらい」
「三日——いただければ、聖座への書簡を出せます」
「待つ」
俺は立ち上がった。
「一つだけ聞く」
セレスティーナが顔を上げた。
「昨日、ルクシエルはあなたに聖印を切らせた。あなたはそれに従った」
「……はい」
「あれは——あなたにとって、正しい信仰の形だったか」
セレスティーナは答えなかった。
固まらなかった。ただ、静かに——目を伏せた。
それで十分だった。
────
修道施設の門を出たところで、冬子が並んで歩いた。
「……三日と言いました」
「ああ」
「書簡が聖座に届き、返答が来るまでは、最短でも十日——」
「分かっている」
「並行して、第二手を動かします」
「符帝家の危機派に記録を流す件か」
「別写しを、すでに用意してあります」
俺は少し、冬子を見た。
「いつの間に」
「昨夜——世一様がお休みになった後に」
(昨夜。あの後で)
「……手が早い」
「時間を無駄にする趣味はありません」
冬子は前を向いたまま歩いていた。白い横顔だった。
「接触ルートは」
「符帝家の内部に、南方の危機を深刻に捉えている者がいます。深淵海国の動向は、三国封印を支持した主流派には不都合な情報になる。だからこそ、主流派と対立する動きへ流す価値があります」
「主流派の足元を揺らす」
「聖教側と符帝家側——両方から圧力がかかれば、三国は再交渉の席に着かざるを得なくなります」
俺は朝の光の中を歩きながら考えた。
「第三手の準備は」
「こちらは世一様に直接、動いていただく必要があります」
「ルクシエルが昨日動いた事実の公式記録化」
「はい。審判官と、昨日の符闘場にいた三国代表の証言を、正式な符闘記録として残す手続きです。セレスティーナ殿が証言者になれば——最も重い記録になります」
「今日の謁見が、そこへの布石にもなる」
「はい」
冬子がわずかに口の端を動かした。笑みとは違った。
(この女は感情を——特に認めたくないものを——表情に出さない)
「三手が揃えば」
「次に世一様が符闘場に立った時、ルクシエル様が再び動かれる根拠が整います。観察封印は『正式な符闘場での召喚を禁じる』外交措置です。天使が自発的に動く事実が公式記録として確立すれば——封印の前提が揺らぐ」
「三国が再交渉の席に着く」
「法的に、崩せます」
石畳の上を、二人の足音が続いた。
(待っていろ、ルクシエル)
どこか遠くで、鐘が鳴った。聖教の鐘ではなかった。遠見市の、どこかの鐘だった。
「世一様」
「なんだ」
「セレスティーナ殿の、最後のお顔を——ご覧になりましたか」
「見た」
「あの方は、信仰に従いたいと思っている人です」
「ああ」
「三日で——動きます」
俺は答えなかった。
(そうだな。あの目は——昨日から、まだ答えを探している目だった)
足音が、石畳を叩いた。
────
「符帝家に——繋ぎをつけました」
その日の夕方、冬子が言った。
「誰だ」
「岳見宗典。符帝家の南方参与です。深淵海国の動向を最も長く追ってきた官僚の一人。三国干渉には当初から反対の立場をとっていました」
「いつ動ける」
「明日——すでに確認しています」
────
岳見が来たのは翌日の午後だった。
五十代。白髪交じりの短い髭。地味な外套に符帝家の紋章が小さく入っていた。派手さのない人間だった。長く実務をやってきた人間の、すり減った静かさがあった。
「倉橋家の記録は——拝見しました」
着座してすぐ、そう言った。
「我々も同様の観測はしていた。ただ証拠が薄かった。倉橋家の文書は——重みが違う」
「知っていて三国干渉を止められなかったのか」
「……止めようとした者はいました。主流派には通らなかった」
俺は岳見の顔を見た。
(言い訳ではない。事実を言っている)
「三国干渉を支持した主流派の判断で、帝国の内部が弱体化した。今それが外の隙になりつつある」
「同意します」
「ならば話が早い」
俺は二つのことを言った。
「一つ。星宮家に七耀陣を返せ」
岳見が、少しだけ眉を動かした。
「甕星流の本来の力を使えなくして、外の脅威に備えさせるのは矛盾だ。七耀陣は担保として符帝家の手にある間、星宮は半分の力しか出せない」
「……七耀陣の返還は、他の符家への前例として——」
「外の脅威を前にして、内の担保を温める場合か」
岳見が口を閉じた。
「二つ。俺が二領の実権を持つことを、帝国が正式に認めろ」
「……二領とは」
「星宮と早雲だ。俺はすでに符闘で星宮英稟と早雲冬子を傘下に収めた。帝国の法に則った決着だ。その実態を追認してほしい」
岳見が少し間を置いた。
「追認するということは——式世一という人間を、二領の支配者として符帝家が公式に位置づけることになる」
「そうだ」
「……あなたが何者かも分からない状況で」
「符闘で決めた。それが帝国の法だろう」
岳見はしばらく黙っていた。手の甲に視線を落として、考えていた。
「……なぜそれが、符帝家にとって得になるとお考えですか」
「危機に際して動かせる実力者が、帝国の内側に正式な立場を持つ。使いやすいだろう」
「……」
「それだけではない」
俺は続けた。
「俺の傘下には、倉橋家の星読みと早雲家の情報網がある。今後、深淵海国の動向をいち早く把握できる体制が必要になる。符帝家の主流派が腰を上げる前に動ける人間が、帝国の外ではなく内にいた方がいいはずだ」
岳見が、顔を上げた。
初めて、その目に何かが動いた。
「……持ち帰ります」
「どれくらいかかる」
「一週間——それより早くなるかもしれない」
「分かった」
岳見が立ち上がった。帰り際に、一度だけ振り返った。
「早雲家も——本当に傘下に」
「組み符闘の決着で、符闘の慣わし通りだ」
「……あの早雲冬子が」
岳見はそれだけ言って、出ていった。
────
夜、冬子が俺の部屋に来た。
「いかがでしたか」
「悪くない。一週間待つ」
「……あの方は動きます」
「知っている」
「南方参与という立場は、主流派に対して発言力が限られています。ただ——」
「危機が深刻になるほど、発言力が上がる立場だ」
冬子が、わずかに頷いた。
「今、三つが同時に動いています」
「ああ」
「セレスティーナ殿の書簡。岳見参与の報告。そしてルクシエル様の記録——第三手の証人確保は、世一様に直接動いていただく必要があります」
「三国の代表に証言を取る」
「はい。審判官には私から接触できます。ただ——三国側の証言として最も重いのは、セレスティーナ殿です」
「今日の謁見で、あの目を見た」
「……はい」
「三日待てば——あの人は動く」
冬子は答えなかった。
ただ、今夜初めて——何かを認めるような沈黙だった。