『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
荷物は多くない。
猫符は符叢に戻してある。着物が三枚。飾り細工が二つ。倉橋から借りた符術書が一冊。それだけだ。
三神家に持っていくものなど、そんなものだ。
「桔梗」
引き戸の向こうから浅葱の声がした。返事をしないでいたら、勝手に開けて入ってきた。双子だから許している。それだけだ。
「……荷物、少ないな」
「いらないものは置いていく」
浅葱が畳に腰を下ろした。いつも通りの、のんびりとした座り方で。しかし目が、いつもと違う。
私は荷物の蓋を閉めた。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「……ないよ」
「なら帰れ」
「……桔梗」
浅葱がもう一度、私の名前を呼んだ。それだけで、何もかも言い終えたような顔をした。
(言わなくてもわかる)
私も同じだから。
双子というのは不便なものだ。言葉にしなくても伝わってしまう。泣いていなくても気取られる。平気なふりをしても、十六年間ずっと隣にいた弟には、何もかもお見通しだ。
「三神家は、どういう家なんだろう」
浅葱が呟いた。独り言のような声で。
「古い家だ。蒼東道じゃなく——皇畿道か?」
「……わからない。調べていない」
「調べなかったのか」
「嫌だったから」
正直に言った。
調べれば現実になる。調べなければ、まだ一晩だけ——ここが、ここのままでいられる気がした。
浅葱が少し黙った後、「そうか」と言った。
責めなかった。
それがまた、腹立たしいほど優しかった。
「姉さんが決めたことだから」
「姉さんが決めたんじゃない」と私は言った。「符侯の命令だ」
「でも——姉さんは、なにも言わなかった」
そうだ。冬子は何も言わなかった。婚姻政策の内容を告げ、「お前が三神律也のもとへ行く」と言った。抗議する間も与えず、「符侯の采配は帝国の制度だ。お前は早雲家の娘として、それに従え」と。
その目が——揺れていなかった。
だから私は何も言えなかった。
(姉さんの目が揺れていたなら——私は泣いていたかもしれない)
揺れていなかったから、私も揺れなかった。
「……浅葱」
「何?」
「狐符、ちゃんと使えてるか」
「……うん」
「三ターン目の霊体化のタイミング、まだ早い。もう一手引き付けてから使え。お前のリソース管理は甘い」
浅葱が苦笑した。
「そんな話がしたいの?」
「したい」
私は言った。
(他の話は——したくない)
浅葱はしばらく私を見ていた。それから小さく笑って、「わかった」と言った。
それから二人で、たいした話もせずに夜が過ぎた。
浅葱が帰り際、引き戸の前で一度振り返った。何か言いかけて、やめた。
「おやすみ」とだけ言った。
「おやすみ」と私も言った。
引き戸が閉まった後、私は少しだけ目を閉じた。
(双子というのは、本当に不便なものだ)
———
三神家は遠見市の北側にある。
大きくはない。名門符家と呼ぶには少し手狭な規模だが、手入れは行き届いている。庭に植わった梅が三本、白い花をつけていた。
出迎えたのは、律也本人だった。
従者もなく、一人で門の外に立っていた。
(……こういう男か)
私は一度だけ見た。組み符闘で向かいにいた時と、同じ顔だった。十八歳。炎武者使い。三神家当主。符侯の麾下。
「……来てくれた」
「拒否できない命令だった」
律也が少し黙った後、「そうだな」と言った。
「俺も、拒否できなかった」
(……正直な男だ)
私は少し意外に思った。
「どういう意味だ」
「桔梗さんを娶れ、と言われた時——俺も、できれば断りたかった」
「……」
「本人に向かって言うことじゃなかったな。すまない」
謝った。
符家の当主が、初対面の相手に向かって「断りたかった」と言って「すまない」と謝る。常識のない男だと思った。しかし——嘘をつかなかった。
「正直なのか、それとも礼儀を知らないのか」
「両方だと思う」
律也が頭を掻いた。炎武者使いの、符闘で鍛えた手だった。
「……俺、こういうことが苦手で。言葉を選ぶのが下手だ」
「見ればわかる」
「だよな」
なぜか律也は少し笑った。私が嫌みを言ったのに、笑った。
(……わからない男だ)
「中に入ってくれ。は——か……苑子殿に色々教わったんだが、どこまで準備できてるか自信がない」
(……今、何と言いかけた)
律也の背中を見た。わずかに首の後ろが赤かった。
世一の奥殿世話役が手を貸したのか——と思いかけて、やめた。苑子殿、と呼んだ。そうではなく、一度だけ「か」と言いかけた。
私は荷物を持って、三神家の門をくぐった。
庭の梅が、頭上で揺れた。
———
食事は悪くなかった。
律也が作った、と聞いた。
「符士が料理を?」
「苦手なんだけど——まあ、一応」
「下手ではない」
「それ、褒めてるのか?」
「観察だ」
律也はまた、理由のわからないところで笑った。
(なぜ笑うのか、わからない)
この男のことが、まだわからない。組み符闘では符闘の相手として見ていた。炎武者連鎖の速度と、夜猫の燃料がどちらが先に切れるか——そういう計算の対象として。
しかし今は、計算の外にある。
夜が深くなった。
「……その、今夜のことなんだが」
律也が切り出した。
「符侯から——まあ、早い方がいいとは言われてる。お前のためにもならないから早く済ませろ、みたいなことを」
「世一様は、そういう言い方をする人だ」
「うん。まあ——嫌ならそう言ってくれ。俺は……」
「嫌ではない」
私は言った。
「符家の娘だ。これが政の一部だということはわかっている」
律也がしばらく黙った。
「……桔梗さんは、強いな」
「弱くはない」
「俺より、ずっと覚悟ができてると思う」
「お前の方が年上だろう」
「関係ない気がする」
律也が立ち上がって、私の傍に来た。
近くで見ると——体が大きかった。炎武者使いの、符闘で鍛えた体格。私より頭一つ分高い。
「怖かったら言ってくれ」
「言わない」
「なんで」
「怖くないから」
本当のことだった。
怖いのではなかった。怖いのとは少し違う——なんと呼べばいいかわからない、うっすらとした緊張が、ある。それだけだ。
「……わかった」
律也の手が、私の肩に触れた。
組み符闘では確かに私に勝った手だ。符闘では速かった。しかし今は——ゆっくりだった。
(……不器用なのか)
動きのひとつひとつが、こちらの様子を確かめるように遅い。炎武者使いらしい直情さはどこへ行ったのかと思いながら、帯が解けるのを感じた。着物が落ちた。
「……っ」
律也がわずかに息を詰めた。
「……きれいだ」
私は答えなかった。
答えたら、何か大事なものが崩れる気がした。
敷布の上に横たわった。律也が私を見た——符闘の相手としてではなく、別の目で。
(炎武者使いが——こんな目をするのか)
「……痛かったら言ってくれ」
「さっきと同じことを言う男だ」
「俺にはそれしか言えない」
正直すぎる。しかし——嘘をつかれるよりは、よかった。
律也が静かに、私の中に入ってきた。
「……っ——」
声が出た。出るつもりがなかった。しかし出た。
「痛いか」
「……少し」
「止めるか」
「止めなくていい」
律也がゆっくり動いた。最初は痛かった。次第に、痛みと別のものが混ざった。
(……この男は——符闘より、こちらの方が不器用か)
しかし不思議と、嫌ではなかった。
ゆっくりとした律也の動きが、少しずつ変わってきた。私の息が乱れるたびに、律也の動きも深くなった。
「……っ♡——んっ……」
「……桔梗さん」
律也が、私の名前を呼んだ。符闘の時と——同じ声だった。しかしまったく違う呼び方だった。
「……なんだ……っ♡」
「……ありがとう」
「なぜ礼を……っ♡——言う」
「わからないけど、言いたかった」
わからない男だ、とまた思った。
しかし今度は——それがあまり腹立たしくなかった。
「……っ♡——……っ♡」
律也が深く動くたびに、私の声が漏れた。猫符の使い手が、こんな声を出すものかと思いながら——もうそれを止める余裕がなくなっていた。
律也が最後に深く押し込んで、私の中に熱いものを注いだ。
しばらく二人とも動かなかった。
律也が体を離す前に、一度だけ私の額に額をつけた。
(……符闘の時にそういう動きはしなかったはずだが)
私は何も言わなかった。
天井を見た。三神家の天井は、早雲家よりわずかに低かった。
(……ここが、私の家だ)
そう思ったら——不思議と、静かだった。
———
翌朝、紬が来た。
小鳥遊 紬。
煙銀亭の看板娘、と律也が言った。十七歳。栗色の短い髪に、白いエプロン。符家の娘ではない——どこからどう見ても、旧市街の下町の娘だった。
「おはようございます」
紬が笑った。力みのない、明るい笑顔だった。
「桔梗さん、ですよね。聞いてました。早雲家の……猫使いの」
「そうだ」
「わあ、本物の符士だ」と紬は言った。「私、符闘を直接見たことがあまりなくて。律也くんの試合は何度も見てるんですけど。桔梗さんと律也くんが戦ったやつは、見逃しちゃって」
「……見たかったのか」
「見たかったです」
「負けた」
「律也くんが?」
「私が」
紬は少し驚いた顔をした後、「そうなんですね」と言った。驚きが、すぐに引っ込んだ。
(この娘は——飾らない)
私は少し、この娘を見直した。
符家の娘なら、負けたという言葉に何か反応する。慰めるか、あるいは微妙な顔をするか。紬はどちらでもなかった。「そうなんですね」と言って、次の話題に移った。
「律也くん、料理はどうでしたか? 一緒に練習したんですよ。まだ下手なんですけど」
「悪くはなかった」
「褒めてますか?」
「観察だ」
紬が律也の方を見た。律也が苦笑した。「桔梗さんはいつもそう言う」と言った。
(……この二人は)
私は二人を見た。
符侯の麾下と、酒場の看板娘。世一が「お前が更生したのは紬の目があったからだ」と言って命令を出したと聞いた。律也の隣に——この娘が、いつからかいた。
嫉妬か、と問われると、違う。
しかし——(私の入る隙間が、どこにあるのか)
「桔梗さん」
紬が、私を見た。
「仲良くしてください。私、符家のこと全然わからないから、色々教えてほしいことがあって」
「……お前が、私に?」
「律也くんに聞くと、試合の話しかしてくれないんで」
律也が「そんなことはない」と言った。紬が「ありますよ」と言い返した。
私は、この二人を見ていた。
(……符家の世界を知らない娘が、この家に来る)
(符家しか知らない私も、この家に来た)
「……教えてやらないこともない」
私は言った。
「でも対価をよこせ。私の知らないことはお前が教えろ」
「いいですよ」と紬はすぐに言った。「私、料理は得意です。あと旧市街の安い市場の場所とか——符家の人には関係ないかな」
「……関係あるかもしれない」
「そうですか? じゃあ今度一緒に行きましょう」
律也が二人を交互に見て、「なんか——思ったより早く仲良くなってる」と言った。
「仲良くなどなっていない」と私は言った。
「なってますよ」と紬が笑った。
私は窓の外を見た。三神家の庭の梅が、朝の光を受けていた。白い花が三本の木に咲いていた。
(浅葱)
ひとつだけ、頭の中で名前を呼んだ。返事はない。当たり前だ。ここは三神家で、浅葱は雲嶺領にいる。
しかし——
(……帰るつもりはない)
私は思った。
帰る場所は——もう、ここだ。
猫は炎に近寄らない。それが習い性というものだ。しかし——
(この家には、炎よりも、もっとわけのわからないものがいる)
紬が律也に何か言いかけて、律也が困ったような顔をしていた。
私は少しだけ口角を上げた。
猫は炎に近寄らない。でも、火のそばは——あたたかい。
それだけのことだ。
———
慣れた、と気づいたのは、梅の花が散って青葉が出た頃だった。
三神家の廊下の軋み方に慣れた。律也が稽古から帰る時刻に慣れた。紬が台所で鼻歌を歌う習性に慣れた。
慣れるつもりなど、なかったのに。
「桔梗さん、食べる前から難しい顔してますよ」
「してない」
「してますよ。眉間がこう——」
紬が自分の眉間を押さえた。似ていない。そう言ったら笑われた。
律也が向かいで黙々と飯を食いながら、二人を交互に見ている。
「……お前は食うのが速すぎる」
「腹が減ってるんだ。今日は世一様の稽古で一日中走らされた」
「符士が走るのか」
「足腰がないと符闘で持たない——って世一様が言う」
(符侯の稽古は厳しいらしい)
私は黙って箸を動かした。
遠見市にいた頃は、律也のことなど対戦相手の一人だった。炎武者連鎖の速度と、夜猫の燃料の切れ目を計算する対象。それが今は——向かいで飯を食っている。
「今日のは美味い」
律也が言った。紬の方を見ていたが、私の方にも一度目をやった。
「桔梗の出汁だ」
「え、そうなの?」
「紬の勧めに従った。それだけだ」
紬が「二人の合作ですね」と笑った。律也が「なら最強だ」と言った。
(大げさな男だ)
しかし箸の動きは、止まらなかった。
———
夜になった。
律也と紬が先に床についた。私は符叢の確認をしてから行くつもりで、縁側に出ていた。
庭は暗かった。梅の木が三本、夜の中で黒い輪郭を作っている。
あの木が白い花をつけていた日に、私はここに来た。
随分遠くに来た気がする——距離の話ではない。自分の中の、どこかの話だ。
「桔梗さん」
後ろから紬の声がした。振り返ると、紬が廊下に立っていた。寝巻きのまま。
「もう寝るんじゃなかったのか」
「眠れなくて」
「律也は」
「寝てます。稽古が厳しかったみたいで」
私は縁側に腰を下ろしたまま、庭を見た。紬が隣に来て、同じように座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「……桔梗さん」
「何だ」
「律也くんの——好きなところって、ありますか」
(唐突な問いだ)
「なぜ聞く」
「私のことを好きな理由は知ってるんです。でも桔梗さんのことは、あの人あんまり言わないから」
「好きだとは言っていない」
「そうですか?」
紬がこちらを見た。その目がいつもより静かだった。
(——こいつには敵わない)
「……正直な男だ」と私は言った。
「正直?」
「言いにくいことでも嘘をつかない。初対面で『断りたかった』と言ってすぐ謝るような男だ。うまくはないが——信用はできる」
紬がしばらく黙っていた。
「私も、それが好きです」
「知っている」
「桔梗さんが言うと、なんか重みがありますね」
「観察の結果だ」
紬がくすりと笑った。私は庭を向いたまま、口角を少し上げた。
「寒いなら入れ」
「桔梗さんも来ますか」
「……行く」
縁側から立ち上がって、二人で廊下を戻った。
律也の部屋の前で、紬が少し立ち止まった。
「……桔梗さん」
「何だ」
「一緒に入りますか」
私は紬を見た。紬は真っ直ぐに私を見ていた。ためらいではない——問いだ。
「……お前が決めることか」
「律也くんに聞いてもいいんですけど。多分喜びます。でも——私は桔梗さんに聞きたかった」
(この娘は——正直だ)
律也と同じ種類の正直さだ。符家の世界を知らない娘が持っている、飾らない誠実さ。
「……入る」
私は言った。それだけ言って、先に扉を開けた。
中に入ると、律也が布団の上で目を開けていた。寝ていなかった。
「……起きてたのか」
「符叢を片付ける音が止まったから」
「嘘だ」
律也が少し笑った。首の後ろが、暗い中でもわずかに赤いのがわかった。
「……二人とも来た」
「来たからには用がある」
私は直接に言った。律也が目を瞬いた。紬が後ろで「桔梗さん……」と呟いた。声に笑いが滲んでいた。
「……わかった」と律也が言った。「二人とも、こっちへ来い」
———
律也の体は大きい。
それは最初の夜から知っていた。しかし紬と並んで律也の両側に横たわると、その大きさが別の意味を持った。
律也の手が、二人の肩をそれぞれ引き寄せた。
「……どっちから」と律也が言った。
「好きにしろ」と私は言った。
「桔梗さんから」と紬が言った。「私は後で」
律也が紬を見た。紬がこっくりと頷いた。
律也が私の方を向いた。
(……炎武者使いのくせに。目が、やわらかい)
「桔梗」
「なんだ」
「来い」
「命令口調か」
「……来てくれ」
(直しやがった)
私は律也の胸に手をついて、身を乗り出した。律也の唇が、私の唇に触れた。
最初の夜より、ずっと——上手くなっていた。
数ヶ月で、律也はよく学ぶ。それだけは認める。
唇が離れると、律也の手が私の着物の帯に触れた。帯が解けて、着物が肩から落ちた。律也の手の温かさが、背中に触れる。
「……背中、緊張してる」
「していない」
「してる」
「……黙れ」
律也が小さく笑った。その笑いごと腹が立つが、今夜はそれを口にしなかった。
律也の手が背中から腰へ回った。引き寄せられると、律也の体温が直接伝わってくる。
「ん……」
「桔梗」
「……何だ」
「今日、出汁、美味かった」
「何を言っている」
「言いたかっただけだ」
(……わからない男だ。相変わらず)
しかし——嬉しかった。嬉しいと思った自分に少し驚いたが、律也の目が真剣だったので、否定できなかった。
律也が私をそっと押し倒した。
紬が後ろで見ているのはわかっていた。恥ずかしいと思いながら——おかしなことに、嫌ではなかった。
律也が私の中に入ってきた。最初の夜より、ずっと自然に深く。
「……桔梗、いいか」
「いい……から、動け」
「まだ早い」
「っ——早くしろと言っている」
「うるさい」
律也がゆっくりと動き始めた。腹が立つほど丁寧な動き方だった。しかしその丁寧さの一つひとつが、数ヶ月かけて積み上げたものだと、私にはわかった。
「……んっ……」
「桔梗……」
「……律也」
名前を呼んだ。最初の夜は呼べなかった。今は——自然に出た。
律也の動きが少し深くなった。後ろで紬の息が乱れているのがわかった。声にはなっていないが——乱れていた。
「ぁ……っ——んっ……く……っ」
「桔梗……いくか」
「……っ——くる……っ」
律也が最奥まで押し込んで、私の中に熱いものを注いだ。
「ぁあっ……!——んっ……」
全身の力が抜けた。律也が私の額に一度だけ唇を当てた。最初の夜と同じ動きだ。この男はこういうところで律儀だ。
「……ありがとう」
「礼を言うな」
律也が私から体を離した。
次に向いたのは、紬だった。
私は乱れた着物を胸まで引き上げ、横を向いた。
紬が——律也の方を見ていた。目が潤んでいた。自分でも気づいていないような顔で、律也の名前を口の中で呼んでいた。
(……この娘は)
(本当に——律也のことが好きなのだ)
わかっていた。わかっていたが、こうして隣で見ると、違う重さで伝わってくる。
律也が紬の頬に触れた。
「紬」
「……うん」
「待たせた」
「待ってたよ」と紬が言った。声が震えていた。「ずっと見てた。律也くんと桔梗さんが——」
紬が言いかけて、止まった。
「……きれいだと思って」
律也が少し驚いた顔をした。
私も——少し驚いた。
(……変なことを言う)
しかし嫌ではなかった。
律也が紬を引き寄せた。紬がそのまま律也の胸に顔を埋めて、律也の手が紬の背中を包んだ。
「律也く……っ♡」
紬の声は——最初から高い。律也もそれを知っているから、最初から深く、しかし丁寧に動いた。
「ひぁ……っ♡ 律也くん……っ♡ すき……っ♡」
「俺もだ、紬」
「……ちゃんと言ってくれるじゃん……っ♡」
「桔梗の前で言えないのは情けない」
(——何を巻き込んでいる)
私は顔が熱くなるのを感じながら、天井を見た。
紬の声が続いた。律也の低い声が混じった。二人の体温が——隣から伝わってきた。
「んっ……♡ りつや、くん……っ♡ いく……っ♡」
「紬……」
「律也くん……なかに……っ♡♡ いっしょに……っ♡♡♡」
律也が深く一度だけ押し込んだ。紬が高く声を上げた。
しばらく、三人とも動かなかった。
私は目を閉じた。
(三神家には——炎よりもわけのわからないものがいる——と、思ったことがあった)
今もそう思う。
しかしその「わけのわからないもの」が、だんだん温かくなっている。
それだけだ。
———
目が覚めた時、三人で雑魚寝をしていた。
律也が真ん中で、左右に私と紬が収まっていた。
(……どうしてこうなった)
律也はまだ寝ていた。紬も寝ていた。紬の寝顔は——満足しきった猫みたいだった。
私は静かに身を起こして、乱れた着物を整えた。
冬の朝の光が、障子から薄く差し込んでいる。三神家の庭の梅が三本、また見えた。
「……桔梗」
律也の声がした。目を覚ましていた。
「なんだ」
「寒くなかったか」
「三人いれば寒くない」
律也が声に出さない笑い方をした。
「……ありがとう。昨夜のこと」
「礼を言うなと言った」
「言いたいんだ」
(……この男は)
(こういうことをやめない)
「……どういたしまして」
私は言った。
律也の目が、少し驚いた後に——やわらかくなった。
紬がもぞもぞと動いた。律也と私を交互に見て、眠そうな顔で「……おはようございます」と言った。
「起きたのか」
「起きました。……おなかすいた」
「昨夜散々食っただろう」
「でもすいた」
律也が「飯にするか」と言って身を起こした。
「私が作る」
「え、桔梗さんが?」
「文句があるか」
「ないです、ないです」
紬が笑った。
私は立ち上がって、台所へ向かった。
朝の三神家は静かだ。庭の梅が、窓越しに見える。
(帰る場所はここだ)
前に一度思ったことを、また思った。
今度は——もう少し、確かだった。