『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
翌朝八時、英稟が来た。
律義な女だと思った。「つけたまま来い」という命令を、まさか本当に守ってくるとは思っていなかった。正確に言えば——守ってくる可能性は六割と見ていた。残り四割は、朝になって正気に戻り、部屋のドアの前で立ち止まるだろうと予想していた。
英稟は立ち止まらなかった。
「……報告に参りました、ご主人様」
扉の外から声がした。
「入れ」
英稟が入ってきた。正装の軍服。詰襟が首まで閉じている。チョーカーは隠れている。表情は凛としていた。符侯の正妻の顔だった。
しかし——歩き方がわずかに違った。
奥で何かを感じながら歩いている女の歩き方だった。
「おはよう。昨夜はよく眠れたか」
「……眠れません、でした」
「そうか」
「……夜中に何度か、取り外そうかと思いました」
正直に言った。俺は少し意外に思った。
「なぜ取り外さなかった」
「……ご主人様の命令だったので」
「それだけか」
英稟が少し間を置いた。
「……取り外したら、また昨夜の盤面に戻る気がしました。三戦とも負けた、あの感覚に。チョーカーをつけていると——不思議と、あの感覚が少し遠かったので」
(なるほど)
そういうことか。
英稟はすでに「チョーカーをつけている=重圧から距離が置ける」という連関を、一夜で自分の中に作りかけていた。俺が植え付けようとしていた回路を、英稟が自分で組み始めている。
予想より早い。
「今日は昼に使者が来る。蒼東道の符家——倉橋の使者だ」
「……倉橋家の。はい」
「お前が対応しろ。俺は隣に座る」
英稟が静かに頷いた。
「わかりました」
「一つだけ追加する」
俺は机の引き出しから小さなものを出した。掌に収まる、細長いもの。
英稟の目が、それを見た。
「……」
「昨夜のプラグに埋めた符核と、対になっている。これを握って陽気を通せば、プラグが震える。俺が持つ。プラグはお前の中にある。俺がいつ出力を上げるか、お前にはわからない」
英稟の顔から、わずかに色が引いた。
「……使者の前で、ですか」
「使者の前で、だ」
「……それは」
「困るか」
英稟が俺を見た。昨夜よりも少しだけ——揺れていない目で。
「……困ります」
「正直だな」
「正直に言わなければ、取り除いてもらえないと思いまして」
「取り除かない」
「……そうですよね」
英稟が嘆息した。
「……ご主人様は、私に何をさせたいんですか」
「符侯の正妻として使者と交渉しながら、スカートの下で発情する自分を同時に感じろ。その二つが共存できるようになれば、甕星を出す一瞬に余計なことを考えなくなる」
英稟が少し黙った。
「……ずいぶん、遠回りな鍛錬の方法ですね」
「遠回りじゃない。一番の近道だ」
英稟がまた少し黙った。
「……わかりました」
それ以上言わなかった。
俺は操作機を懐に収めて、立ち上がった。
「使者は昼前に来る。それまでに書類を三枚片付けろ。昨日の分が残っていたはずだ」
「……はい」
「行け」
英稟が一礼して出ていった。
廊下に足音が遠ざかった後、俺は窓の外を見た。
(昨夜より姿勢が良くなった)
一夜つけて眠ったことと、「外せなかった」という自覚が、何かを変えた。背骨が伸びている。迷いの澱みが、少し薄くなっている。
二夜目、三夜目と重ねていけば——形になってくる。
────
倉橋の使者は昼前に来た。
若い男だった。二十代前半、細身、倉橋家の淡い灰色の符士衣。丁寧な礼をした。
「符侯様、星宮当主様。倉橋家よりご挨拶に参りました。北方の異変につき、当家当主よりの書状をお届けに上がりました」
俺は書状を受け取った。横で英稟が姿勢良く座っていた。
(今のところ平静だ)
俺は机の下で、掌の中の小さなものに陽気を込めた。
「ん……っ」
英稟の顔に、かすかに色が走った。ほんの一瞬だった。使者には見えない。
しかし——俺には見えた。
「倉橋家からの件、詳しく聞かせてもらえるか」
使者が書状の内容を補足し始めた。俺は書状を読みながら、出力をもう少し上げた。
英稟が手元の筆を、わずかに強く握った。
(いいぞ)
「——星見領の北方で、先月より不審な気配が観測されております。倉橋の星読みでは方角と動向のみの把握となりますが、南から北へ向かう大きな気の流れが——」
使者が説明を続けていた。英稟は端正な顔で、適切な相槌を打っていた。
「倉橋家として、星宮殿への情報提供を引き続き継続したいと存じますが——」
「わかった。詳細は当主から返答する」
俺が引き取ると、使者が英稟に向いた。
「星宮殿の御意向は」
英稟が答えた。
「倉橋家からの情報提供を歓迎します。北方の動向について、倉橋の星読みの追加資料をいただきたい。こちらでも冬子に読ませ、突き合わせます。期日は——」
英稟が俺を見た。
「——十日後で構わないか」
「問題ない」
英稟が使者に向き直った。
「十日後を目処に。様式は以前の通りで」
「承りました」
使者が礼をして、退室した。
扉が閉まった。
英稟が息を長く吐いた。
「……ご主人様」
「よくやった」
「……もう少し出力を下げていただけますか。今でも、椅子の下が、少し……っ」
「下げない」
「……っ」
俺は立ち上がって英稟の横に立った。
「体の芯を乱されながら十日後の期日を設定した。それができたなら、甕星を出す一瞬に当主の重圧が入り込む隙間はどこにある」
英稟が俺を見上げた。
「……ない、かもしれません」
「なかった。見ていた」
英稟が少し黙った。
「……符闘と、これが、繋がっているんですか」
「繋がっている。余計なことを考えながら外面を保つ練習だ。甕星を出す一瞬も同じ構造をしている——お前の内側にノイズが走っても、牙だけは鋭く出す」
英稟がまた少し黙った。
「……今夜も、訓練場ですか」
「行きたいか」
英稟の頬が、かすかに赤くなった。
「……行きたい、です」
(二夜目が来る)
俺は英稟の顎を親指で持ち上げた。
「いい犬だ」
英稟の目が、揺れた——しかし今度の揺れは、昨夜とは少し違う色だった。
絶望ではなく。
奇妙な、熱を帯びた何かだった。
────
夕刻、律也がもう一通の書状を持ってきた。
「符侯様。……聖華教皇国からです」
封蝋に、翼の紋章が押されていた。
内容は形式的な挨拶だった。ただ、末尾の一文に用件が透けていた。
『貴領において保護されておられる二柱の神使につき、その現状を確認いたしたく、しかるべき使節の派遣を検討しております』
署名は聖座枢機卿会議。その脇に、副署が一つ添えられていた。
第三枢機卿、ヴィクトル・ダンテ。
「保護、ときたか」
「……向こうの言い分では、そうなるんでしょうね」と律也が言った。「隷属でも、所有でもなく」
「この副署の男は」
「調べさせています。枢機卿会議でも古株、というくらいしか——まだ」
「使節はいつ来る」
「まだ正式な打診ではありません。ですが、この文面を寄越した以上、そう遠くないかと」
律也が下がった後、俺は書状をもう一度読んだ。
遠回しな外交文の芯に、一つの問いが透けていた——神使の意志は、本来の在り方から歪められていないか。
(天使の意志、か)
ルクシエルは俺を主と仰ぐ。アルギメルは俺の符叢にいる。それを「歪み」と呼ぶ者たちが、海の向こうから来る。
窓の外はもう暗い。今夜も訓練場で、英稟が待っている。自分で「行きたい」と言った女が。
考えは途中で止めた。盤面に乗せるには、まだ札が足りない。