『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
星宮邸の湯殿は、広い。
石造りの大浴槽に、蒸気が立ち込めている。温泉ではなく、符術で沸かした湯だ。英稟が管理させている。壁には、星宮家の紋様が彫り込まれていた。先代が建てた湯殿だと聞いている。
普段は、俺一人か、せいぜい奥殿の女たちと使う場所だった。三国の使節を招くのは、初めてのことだ。
三人を連れてきた。
リタニア——茶髪が解けている。眼鏡は外してある。眼鏡なしの顔は、思っていたより柔らかかった。旅装の観測者の顔から、素の学者の顔に戻っていた。
セレスティーナ——白い聖衣を脱いだ姿を、改めて見た。背筋は湯の中でも真っ直ぐだった。三十を過ぎた体の重みが、湯の中では、いつもより無防備に見えた。
エリナ——黄金色の髪が湯に濡れて、肩に貼りついている。首輪だけ外していない。本人が外さなかった。青灰色の目が、湯気の向こうで、まだ少し落ち着かなげに揺れていた。
俺は湯の縁に背を預けた。
ダンテの使節が遠海を去ってから、半月が経っていた。三国の代表それぞれが、それぞれの持ち場へ帰る前に——一度、腹を割って話しておく必要があった。盤面の上の話ではない。三人が、これからどう動くつもりかという話だ。
「順番に聞く」
三人が俺の方を向いた。
「リタニア。ヴァンダリアに戻ったら何をする」
リタニアが少し考えた。
「……学術院に報告書を提出します。遠海の符術体系の一部と、リベラティオの理論的骨格について」
「全部書くか」
「……書きません。核心は——私の手元に残します」
「なぜだ」
「核心を提出すれば、学術院が動きます。学術院が動けば——筆頭選帝侯が動きます」
俺はリタニアを見た。
「わかっているではないか」
「……観測者ですので」
「観測者だからと言って、何もしないつもりか」
「……何もしない、とは言っていません。核心を書かないことも、観測の一部です。書けば、書いた瞬間から、観測対象そのものが変わってしまいますから」
「変わるとは」
「学術院が動けば、遠海への視線が変わります。視線が変わった遠海は、もう、私が最初に見た遠海ではなくなります。……観測者は、対象を壊さない距離を選ぶ義務があります」
俺は、湯の中でリタニアを見た。
「都合のいい理屈だな」
「都合がいいと同時に、正しい理屈です。両方が成り立つことは、珍しくありません」
「筆頭選帝侯が動けば、どうなる」
「……最悪の場合、遠海が『解析対象』ではなく『脅威』として扱われます。学術院の観測から、軍の警戒対象へ。それは、私の望む結末ではありません」
「お前の望む結末は何だ」
リタニアが、少し考えた。
「……このまま、私だけが見続けることです。誰にも邪魔されず、正確に」
「独占欲か」
「……学者の欲、と呼んでください」
セレスティーナが小さく息を吐いた。
「記録を抑える学者というのは——信用できるのか、できないのか」
「信用されるために来ているわけではありません。観測に必要な距離を保っているだけです」
「同じことです」
「違います」
二人の間に、蒸気が流れた。
俺はセレスティーナの肩に手を置いた。
「……っ」
「続けろ。聖教の話を聞いていない」
セレスティーナが姿勢を正した——正そうとして、湯の中なので足元がわずかに揺れた。
「セレスティーナ。聖都に戻ったら何をする」
「……聖教の内側の話ですか」
「そうだ」
「……ダンテ枢機卿の動向については、私が直接抑えます。聖戦決議は保留のままにできます。ただ——」
「ただ何だ」
肩から、首筋へ指を動かした。
「——っ……ただ——保留には根拠が必要です。アルギメル様の証言が——今後も——有効でなければ——」
「ルクシエルがいる」
「……ルクシエル様の証言は——教会の正式な審問でも通用しますか」
「通用させるのがお前の仕事だ」
セレスティーナが少し黙った。
「……わかりました」
手を離した。セレスティーナの首筋が、赤くなっていた。湯のせいだけではなかった。
エリナが湯の中で、静かに膝を揃えた。
「エリナ」
「……はい」
「マギニアとの糸は残っているか」
「……残っています。書状のやりとりは続いています。向こうは私が——まだ使節だと思っています」
「いつまで使える」
「……疑われるまでは」
「疑われたらどうする」
エリナが少し間を置いた。
「……その時は、糸が切れます。ただ——切れる前に、渡せるものは渡しておきたいのです」
「密約の件か」
「……はい」
「渡し方は」
「……密約の件を——どこで、どのように使うかを——世一様に——決めていただきたいです。私が動けば——マギニアの意志になります。世一様が動かせば——別の話になります」
俺はエリナを見た。
「……よく考えた」
「……一晩、考えました」
リタニアが静かに言った。
「昨夜の——直後から、ですか」
エリナが少し顔を赤くした。
「……うるさい」
「観測です」
「観測じゃない」
セレスティーナが小さく笑った——珍しいことだった。
俺はエリナの腰に手を回した。
「——っ」
「密約の暴露は、俺が決める。その時まで、お前は証人だ」
「……はい——」
「ちゃんと返事をしろ」
湯の中で、腰を引き寄せた。
「——は——はい——世一様——っ——」
リタニアが手帳を持っていないことを、少し惜しそうにしていた。
「リタニア、今何を考えている」
「……観測しています」
「何を」
「……エリナ様の声の高さが——条件によって——どう変わるかを」
エリナが水を跳ねた。
「記録するな——!」
「記録していません。手帳がありません」
「頭の中でするな——!」
「それは——」リタニアが一拍置いた。「止められません」
「……観測者の性、というものですか」とセレスティーナが、面白がるように言った。
「性ではありません。習慣です。……習慣と性の違いは、意志で変えられるかどうかです」
「変える気はないだろう」
「ありません」
エリナが、湯の中で頭を抱えた。
「……三国出向のあいだ中、ずっとこうだったのですか」
「昨夜からです」とセレスティーナが答えた。「それまでは、もう少し節度がありました」
「昨夜、何があったのですか」
「……何も」
「先生、また目を逸らしています」
「エリナまで、リタニア殿の観測に染まるのは——やめてください」
エリナが、少し笑った。
「……染まったのではありません。ただの、疑問です」
セレスティーナが、湯の中で少し身を縮めた。
「……昨夜、何かあったのですか」
セレスティーナが、視線を逸らした。
「……何もありません」
「今、目を逸らしましたね」
「観測が過剰です、リタニア殿」
セレスティーナが湯の縁に肘をついた。
「やはり信用できない学者です」
「枢機卿殿は——今夜の御自身の声を——覚えていますか」
「……」
セレスティーナが黙った。答えないことが、答えだった。
エリナが、湯の中で笑いを堪えていた。
「……先生も、普通の人なのだと、少し安心しました」
「普通の人間として、扱ってほしいものです」
俺はセレスティーナの背中に手を回した。
「——っ——世一様——」
「お前たちは仲良くなれるか」
三人が——少しの間、沈黙した。
「……なれない、と思います」とリタニアが言った。「枢機卿殿とは、信仰の根本で合いません」
「具体的には」
「……この方は、天使の意志を『問うべきもの』だと考えています。私は、意志の有無そのものを、観測で確かめるべきものだと考えています。前提から、違います」
「同感です」とセレスティーナが言った。「この方の『観測』には、これからも苛立つでしょう」
「何が気に入らない」
「……観測者は、対象の外側に立つことを美徳としています。私は、外側に立ったまま千年、天使の意志を見過ごしてきた側の人間です。……この方の距離の取り方を見ると、時々、あの頃の自分を見ているようで、落ち着きません」
エリナが湯の中で、二人を順番に見た。
「……私も、お二人の物言いは、時々冷たすぎると思います」
湯殿が、静かになった。
それから——エリナが続けた。
「でも——あの卓で、同じ紙に署名しました。結論が違っても、手続きは一つに合わせられる。……仲が良いかどうかより、そちらの方が、あてになる気がします」
リタニアが少し考えた。
「……観測の結果——否定できません」
セレスティーナが、目を細めた。
「……エリナ。あなたは、いつからそんな言い方をするようになったのですか」
「……いつから、でしょうか。マギニアの円卓では——ここまで割り切った言い方は、しませんでした」
「変わりましたね」
「……変わったのだと思います。良い方に、だと信じたいです」
「良い方だと思います」とリタニアが言った。「少なくとも——観測上は」
「観測上、とわざわざ付ける必要がありますか」とセレスティーナが聞いた。
「あります。私の主観は、いつも観測を汚しますから」
「主観を持つのは、悪いことではありません」
「悪いことではありませんが——混ぜてはいけません。混ぜた瞬間、それは観測ではなく、願望になります」
セレスティーナが、小さく笑った。今夜二度目だった。
蒸気が、湯の上を流れた。
結論の違う三人が——同じ湯に肩まで浸かって、同じ卓の話をしていた。
それで、十分だった。
湯気の向こうで、三人の顔が、それぞれ違う表情をしていた。それでいい。同じ顔をした三人になど、俺は用がない。それぞれの盤面を持つ女たちの方が、ずっと頼りになる。
────
エリナとリタニアが、先に湯殿を出た。それぞれの部屋へ戻る足音が、廊下に短く響いて、消えた。
湯殿を出ると、廊下の灯りが落ちていた。夜も遅い。
セレスティーナだけが、いつもより長く、湯の中に残っていた。
「戻らないのか」
「……もう少しだけ」
「何を考えている」
「……何も。ただ——温かいものに、もう少し浸かっていたいだけです」
その答えが、いつもの理路整然とした彼女らしくなかった。三十年、教義と手続きで生きてきた女が、理由もなく湯に浸かり続けるというのは、珍しい。だが、深く問うほどのことでもないと思った。
「先に戻る」
「……はい。すぐに、参ります」
湯気の向こうで、セレスティーナの横顔が、いつもより少しだけ、疲れて見えた。
俺は湯殿を出た。振り返らなかった。
背中越しに、セレスティーナの小さな息の音だけが、しばらく聞こえていた。それが、いつまで続くのか、俺は確かめなかった。
────
湯上がりの体に、夜風が心地よかった。
自室に戻る途中、律也とすれ違った。
「符侯様。お戻りになられましたか」
「何かあったか」
「……いいえ、特には。ただ——」
律也が、少し言い淀んだ。
「言え」
「……セレスティーナ様宛てに、聖都から使いが来ていたようです。詳細は、私も聞いておりません」
「よくあることだ」
「……はい。それだけ、お伝えしておこうと」
「わかった。ご苦労だった。下がっていい」
律也が深く一礼して、廊下を去っていった。
俺は、しばらくその背中を見ていた。律也の足取りは、いつも変わらず一定だった。
セレスティーナが、聖都から使いを受け取るのは珍しいことではない。神使監察という職は、教会内部の書状のやり取りが多い。今日も、明日も、その次の日も、同じような使いが来るだろう。
(聖教の中のことだ)
そう思い直して、自室へ向かった。廊下の灯りが、静かに揺れていた。