『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
深夜、法廷の裏手に回った。
聖都の夜は静かだった。表通りの警邏は、まだ増えていない。ダンテは、まだ俺がここにいることを知らない。動くなら、今のうちだった。
宿を出る前、英稟が最後に確認した。
「……本当に、法廷を待たれないのですね」
「待たない」
「万一、これが罠であった場合は」
「その時は、罠ごと壊す。どちらにせよ、待つよりはましだ」
英稟が、それ以上は何も言わなかった。ただ、剣の柄を、一度、確かめるように握り直した。
イゾルデの見取り図通り、目立たない小さな扉があった。清掃用の通路だという。
「ここから先、地下へ続きます」
「先導しろ、頼む」
「……本当に、よろしいのですか。正式な手順を踏まずに」
「正式な手順は、お前たちを地下へ突き落とした側が使った言葉だ。俺は、それには従わない」
イゾルデが、それ以上は何も言わなかった。ただ、頷いて、先に立った。
扉をくぐると、石造りの階段が下へ伸びていた。灯りは、壁の燭台だけだった。空気が、一段冷たくなった。
だが——予想していた警邏の姿が、なかった。
「……妙です」と英稟が声を落とした。「この時刻でも、拘束区画には見張りが立つはず。それが、一人も」
「イゾルデ。心当たりは」
イゾルデが、階段の先を見て、少し間を置いた。
「……あの方が捕まった日のことが、騎士団の中で噂になっています。協力者の名簿を、騎士団の目の前で、自分の手で燃やした。誰も売らず、全部一人で被った。……そういう捕まり方をした咎人を、下の者たちは、放ってはおけないのだと思います」
「持ち場を、わざと空けたということか」
「……たぶん。声には、出せないので」
階段を下りきると、答えが待っていた。
通路の脇に、白銀の鎧が二体、壁に背を預けて立っていた。見張りだ。だが、剣は鞘に納まったままだった。
「止まれ」と、一人が言った。言ったが、それきり動かなかった。「……と、言うのが役目だ。言った。あとは、儂の耳が悪いだけだ」
もう一人が、通路の奥へ、顎をしゃくった。行け、という合図だった。
「見逃すのか」
「見逃してなどおらん。儂は、何も見ておらん」騎士が、目を伏せた。「……あの方には、儂の弟が世話になった。棄教しかけた弟に、教義ではなく、飯を食わせた人だ。今夜のことは、その飯代だと思ってくれ」
英稟が、鞘の柄から手を離した。抜く必要が、どこにもなかった。
────
奥へ進むと、空気が変わった。
冷たく、乾いていた。壁の石組みが、より古い様式になっていた。松明の数も減り、闇が濃くなっていく。
「……ここからが、結界の間です」とイゾルデが言った。「聖堂石守の管理区域だと聞きました。石を操る法儀に長けた者たちで、聖堂の奥深くを代々守ってきたと」
通路の先に、石の扉があった。表面に、幾何学的な紋様が刻まれている。
その扉が——俺たちが着く前に、内側から、低い音を立てて開いた。
土色の法衣を纏った男が一人、扉の陰に立っていた。年配の、落ち着いた目をした石守だった。
「……無断の立ち入りは、許されません」
静かに、そう言った。言ってから、脇へ寄った。
「——と、私は職務上、申し上げねばならない。申し上げました。結界は、今夜だけ、緩めてあります。……あの方は、我々石守の区画に移された時、一度も、我々を『下働き』とは呼びませんでした。名を、覚えていてくださった。この石組みを二百年守ってきて、名を呼ばれたのは、あの方が初めてです」
「……開けてくれるのか」
「開けてなどおりません。結界が、勝手に緩んだのです。石とて、恩は覚えます」
石守が、一礼して、闇の奥へ退いた。エリナが、開いた扉に手をかけた。抵抗は、なかった。
俺は、殴り込むつもりで来た。剣も、天使も、陽気も、全部使う覚悟で、宿を出た。
だが——ここまで、一合も交えていない。
見張りが目を伏せ、石守が結界を緩め、扉が勝手に開いていく。俺の力ではなかった。この地下の暗がりに、俺の知らないところで、セレスティーナが撒いておいた種が、今夜、いっせいに芽を出していた。
(この女は、こんな場所でも、名前を覚えていたのか)
自分を鎖に繋ぐ側の人間の名前を、一人ずつ。下働きと呼ばず、飯を食わせ、声を聞いた。それが、今夜の道を開けている。俺が壊すつもりだった壁を、この女は、捕まる前から溶かしていた。
────
結界の奥は、狭い通路だった。
牢が並んでいた。空の牢がほとんどだった。石壁に染みついた古い匂いが、長くこの場所が使われてきたことを物語っていた。
リタニアが、壁の石材を指でなぞった。
「……古い建材です。少なくとも、二百年以上前のもの。この場所自体は、長く使われてきたようですね」
「観測している場合か」
「観測は、いつでもしています。それが、私の仕事ですので。……ですが、今夜のこれは、記録に困ります。誰も、抵抗していないので」
エリナが、通路の壁を一瞥した。
「……ここは、聖堂騎士団の記録にも載っていない区画です。存在自体が、秘匿されています」
「教会の懺悔室の裏側、ということか」
「そのようなものです。……表の教義には、こういう場所は存在しないことになっています」
「……セレスティーナ様は、この先です」とイゾルデが、声を落として言った。「清掃で来た時、一番奥から声が聞こえたことがあります」
一番奥に、明かりの漏れる部屋があった。
扉の前に、最後の見張りが一人立っていた。年配の騎士だった。俺たちを見ても、剣に手をかけなかった。
「……セレスティーナ様を、お目当てで」
「そうだ。他に用はない」
見張りが、しばらく俺を見た。それから——静かに、脇へ寄った。
「儂は、ただの門番だ。だが——三十年、この扉の前に立ってきた。何度、あの中から声が聞こえたか、数えたこともない。……今夜だけは、その声に応えてやりたい」
イゾルデが、驚いた顔で見張りを見た。
「……あなたも、ですか」
「儂だけではない。今夜、この地下で持ち場を空けた者は、一人や二人ではあるまい。……声には出さん。出せば、みな処罰される。だが、扉は、勝手に開く。それだけのことだ」
英稟が、静かに問うた。
「処罰は」
「受ける。老いぼれの持ち場を離れる罪くらい、この歳なら、軽いものだ」
見張りが、そう言って、静かに笑った。長年、この暗い場所に立ち続けてきた男の、達観した笑い方だった。
扉を開けた。重い軋みが、狭い通路に響いた。
────
石造りの、窓のない部屋だった。
セレスティーナが、そこにいた。壁際に、座らされていた。
枢機卿服を剥がれ、白い囚人衣を着せられていた。手首に、鎖。壁際に、原符の台があった。十七枚、並んでいた。中央の一枚——カエリエルは、光がひどく薄くなっていた。
セレスティーナが、顔を上げた。
俺と目が合った瞬間、その顔が、大きく、はっきりと揺れた。
「……なぜ——なぜ、来たのですか」
「迎えに、来た」
「……法廷の証人として、ですか」
「違う。お前を、取り戻しに来た」
セレスティーナの目が、見開かれた。それから——ゆっくりと、涙が滲んだ。
「……わたし——手紙に、追わないでと——」
「読んだ。だから殴り込んだ」
「……っ」
セレスティーナが、鎖の許すかぎり、体を寄せてきた。頬に、涙が伝っていた。安堵と、罪悪感と、隠しきれない喜びが、同時に顔に出ていた。
その顔を、俺はしばらく見ていた。三十年、教義と手続きだけを頼りに生きてきた女の顔が、今は、ただの一人の女の顔になっていた。
俺は、鎖を見た。
「英稟。鎖を外せ」
「はい」
英稟が、鍵の在りかを見張りに問い、すぐに鎖を外した。手首に、赤い痕が残っていた。皮膚が擦れて、うっすらと血が滲んでいる箇所もあった。
俺は、その痕に軽く触れた。
「痛むか」
「……もう、平気です」
痩せ我慢だった。触れた瞬間、セレスティーナの体が、わずかに強張ったのが分かった。
セレスティーナが、自由になった手で、俺の袖を掴んだ。
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
俺は、セレスティーナの目を見た。
「なぜ俺に言わなかった」
セレスティーナが、静かに止まった。
「……巻き込みたく——ありませんでした」
「俺を巻き込むかどうかを、お前一人で決めるな」
セレスティーナの顔が、歪んだ。
「……申し訳——」
「謝罪はいい。理由を、聞いている」
長い沈黙があった。
「……怖かったのです」とセレスティーナは言った。「世一様が、本当に来てしまうことが」
「来るとわかっていて、隠したのか」
「……はい」
「なぜだ」
セレスティーナが、目を伏せた。
「……教会の問題くらい、自分一人で片付けられなければ——世一様の隣に、立つ資格がないと思いました」
「資格の話をした覚えはない」
「……はい。……私の、勝手な意地です」
セレスティーナが、床に膝をついたまま、俺を見上げた。
「後悔しています。世一様に、黙って行ったことは」
「それだけか」
セレスティーナが、少し間を置いた。
「……いいえ。名簿を燃やしたことは、後悔していません。イゾルデたちを、守れたことも」
「なら、全部が誤りだったとは言うな」
セレスティーナが、俺を見た。
「……はい」
腹の底で、抑えていたものが、ふつりと切れた。
この女は、一人で消えた。一人で捕まり、一人で鎖に繋がれ、一人で全部を被って、俺には手紙一枚で追うなと書いた。その痩せた手首の痕を見ていると——理屈より先に、陽気が迸った。灯りのない石の部屋に、俺の気が、熱を持って満ちていく。壁際の原符が、いっせいに、びくりと反応した。
「もういい。連れて帰る」
俺は、セレスティーナの腕を掴んだ。有無を言わせるつもりはなかった。この女を、二度とこんな場所に置かない。それだけが、頭にあった。
「——世一様」
「歩けないなら、担ぐ。法廷も、教会も、どうでもいい。お前を、遠海へ連れて帰る」
「……世一様、待って——お待ちください」
セレスティーナが、掴まれた腕を、振りほどかなかった。振りほどかないまま、もう片方の手で、俺の袖を、強く握った。
「……お願いします。……帰る前に、法廷へ、連れていってください」
「まだやるのか。こんな目に遭わされて」
「はい。ですが——今度は、一人では行きません」
俺は、動きを止めた。迸っていた陽気が、行き場を失って、ゆっくりと引いていく。
「……一人でやり切る意地は、もう捨てたか」
セレスティーナが、少し考えた。
「……捨てては、いません。ただ——一人でやることと、一人で背負うことは、違うと気づきました。今夜、教えていただきました」
俺は、しばらくセレスティーナを見た。掴んでいた腕から、手を離した。
「……そうしろ」
セレスティーナが、俺を見上げた。安堵とは、別の色が、その顔に差していた。
「……世一様は」
「なんだ」
「……そんなに、お怒りに、なるのですね。……わたし一人が、いなくなったくらいで」
「一人が、なんだ。お前だ」
セレスティーナの頬に、ゆっくりと、赤みが上った。囚人衣を着せられ、鎖の痕を残した女が——今さら、そんな顔をした。
「……こんな時に……こんな、格好で……嬉しいと思うのは……はしたない、でしょうか」
「知るか。思えばいい」
「……はい」
セレスティーナが、うつむいた。うつむいた口元が、疲れきった顔の中で、それでも、確かに笑っていた。
「英稟」
「はい」
「カエリエルの原符を運べ。壊すな」
「……承知しました」
十七体の原符を、布に包んで運び出した。
石造りの牢を抜け、階段を上ると、聖都の夜が広がっていた。白い尖塔に、月が当たっていた。
「明日、あの広間へ行く」
セレスティーナが、俺の隣で、頷いた。
「……ちょうどいい。私が提出した異議申立ての審理が、明日の午前に組まれています。ダンテは、その場で私を破門に付すつもりでした。……その卓に、被告としてではなく、原告として立ちます」
「並んでな」
「……はい。今度は、並んで」