※この作品はR-18です。

『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』   作:シキセ

68 / 118
第五十三話 天使の声

最高法廷の広間は、白かった。

 

高い天井。壁に刻まれた至聖の紋章。朝の光が高窓から落ちて、石畳の上で砕けていた。半円に並んだ十二の席は、全て埋まっていた。傍聴席も埋まっていた。助祭、修道女、書記官——聖都の目と耳が、全部ここに集まっていた。

 

俺たちは、正面の扉から入った。

 

俺と、セレスティーナ。並んで。

 

彼女は白い囚人衣のままだった。着替える時間はあった。着替えなかったのは本人の意志だ。「この格好のまま立つことに、意味があります」——朝、そう言った。手首には、鎖の痕が赤く残っていた。

 

広間のざわめきが、波のように引いた。

 

中央の主席で、ダンテが俺たちを見た。穏やかな微笑みが、セレスティーナの手首で止まり——初めて、割れた。

 

「……セレスティーナ殿。地下の警護は、どうなさいました」

 

「機能しませんでした」とルクシエルが俺の斜め後ろで言った。「守る順序を、間違えていたようです」

 

「符侯殿」ダンテの視線が俺へ来た。「拘束区画への無断立ち入りは、重大な規則違反です」

 

「規則の話をするなら、先に答えろ。正式な法廷にも出さず、印章を奪い、外部連絡を断って、窓のない地下に監禁する——どの規則に基づいた措置だ」

 

「異端汚染の隔離措置です。教義第九条、第三項」

 

「その第九条の運用記録が、二十年分改竄されていることも、教義のうちか」

 

ざわめきが戻った。ダンテは動じなかった。この男の土俵は、ここだ。証拠と手続きと心証。言葉を積む時間は、全てこの男の味方をする。

 

英稟とエリナが、布に包んだ十七枚の原符を、広間中央の台に並べていった。一枚ずつ、丁寧に。中央に、光の薄い一枚——カエリエル。

 

「本日の審理は」と書記官が読み上げた。「枢機卿セレスティーナ提出の異議申立て——『天使の意志確認義務の、千年にわたる不履行について』。受理番号を確認。開廷します」

 

セレスティーナが、一歩前へ出た。

 

「申立ての本旨を述べます。教会は千年、天使の原符を保管し、貸与し、回収してきました。その全ての手続きにおいて、天使自身の意志を確認した記録は——一件も、存在しません。神使監察の台帳、千年分。意志確認の項目は、全ての頁で空欄です。私は、この不作為を、教会の罪として問います」

 

「異議あり」

 

ダンテの声は、静かだった。

 

「申立人は現在、破門審問中の身です。加えて昨夜、拘束区画から不正に脱走した。その申立てに、審理の資格はありません」

 

「受理印は、拘束の前に押されています」

 

「では資格の前に、事実を確認しましょう」

 

ダンテが立ち上がった。ゆっくりと、広間を見渡した。

 

「ここにいる方々に、伺いたい。——『白翼の日』を、覚えておいでか」

 

(来た)

 

「五十年前。管理を離れた一体の天使が、聖都の南で暴走しました。死者、百三十七名。私は当時、駆け出しの司祭として現場におりました。三日三晩、瓦礫を掘りました。息のある者を探して。……最後に見つけた少女は、私の腕の中で還りました。天使を責める声に、私は同意できませんでした。あの天使も、被害者だった。管理されず、導かれず、力だけを持たされて放置された——それが暴走の正体です」

 

声は、演説の型ではなかった。五十年、毎晩磨き続けた祈りの形をしていた。

 

「私は誓いました。二度と、あの日を繰り返させないと。第九条は、そのために書きました。天使を縛るためではない。天使と人、双方を守るために。……符侯殿。貴方のなさっていることは、五十年前の再現です。強大な陽気で天使を集め、管理の外へ連れ出す。次の百三十七名を、誰が掘るのですか」

 

広間が、静まり返った。

 

傍聴席の何人かは、頷いていた。この男は、嘘を言っていない。それが厄介なところだ。動機の一点だけを見れば、この男は本物なのだ。

 

「……お前の言う『守る』に」と俺は言った。「守られる側の返事は、あるのか」

 

「天使に返事は求めません。求めないことが、保護です」

 

「なら、話は平行線だ」

 

俺は、台の十七枚を見た。それから、ダンテを見た。

 

「言葉で決着のつかない争いを、神前の盤で決める。——お前の教会の作法だ。神判を要求する」

 

ざわめきが、爆ぜた。

 

ダンテは、驚かなかった。むしろ、計り終えた者の目をしていた。この男にも、勝算がある。いや——この男の側にこそ、ある。

 

「よろしい。条件を切りましょう」

 

ダンテが、指を一本立てた。

 

「私が勝てば。ルクシエル様とアルギメル様は教会へ返還。この十七枚の原符も、教会の管理へ戻す。セレスティーナ殿の破門は確定。符侯殿は以後、聖教圏の全てから手を引いていただく」

 

「俺が勝てば。お前は全職務を降り、調査を全面的に受ける。改竄の十七件も、原符集積も、全部だ。それから——この十七枚の行き先は、教会でも俺でもなく、天使自身に問う」

 

「……天使に、問う」

 

ダンテは、その言葉だけを、哀れむように繰り返した。

 

「神判の成立を、法廷が承認します」

 

書記官のペンが走った。賭け金が記録された。逃げ場が、双方から消えた。

 

────

 

先手はダンテだった。

 

「約定——《最高法廷》」

 

白い光が盤面に敷かれ、広間そのものが盤の中へ引き写されたようだった。約定の力で符叢から一枚が引き抜かれる。ダンテはそれを、恭しく掲げた。

 

「《法廷記録天使》。続けて——《聖座の侍女天使》」

 

小さな天使が二体、粛々と並んだ。教皇国の天使。あれが揃った時に来るものは、決まっている。

 

「"断罪の至聖座"クラヴィエル——召喚」

 

光が、柱になった。

 

六枚の翼。法衣の形をした鎧。目を閉じたまま微動だにしない大天使が、ダンテの前に降りた。立っているだけで、広間の空気が数段重くなった。

 

「クラヴィエルの権能——《断罪の盾》。この天使が場にある限り、私への攻撃は全て、場の他の天使が代わりに受けます」

 

自分は倒れず、代わりに天使を差し出す盾。五十年この男が積み上げてきた「守り」の形が、そのまま一枚の符になっていた。

 

「ルクシエル」

 

「はい、世一様」

 

「アルギメルを」

 

ルクシエルが、手札の天使符を一枚、静かに墓地へ落とした。その代償と引き換えに、山札から白銀の光が引き抜かれる。

 

アルギメルが顕現した。広間を一瞥し、槌を担ぎ直した。

 

「盾を試す。——一撃」

 

白銀の槌が、クラヴィエルの胸へ振り下ろされ——届く前に、軌道が捻じ曲げられた。

 

広間の隅で、枢機卿の一人の符叢が震えた。小さな天使が引きずり出され、槌はそれを打った。天使は砕け、光になって原符へ還った。砕かれても、存在まで消えるわけではない。だが、砕ける瞬間の悲鳴に似た霊圧の軋みは——広間の全員の肌に、届いた。

 

砕かれた天使の主が、息を呑んだ。

 

「……申し訳ありません」とダンテが穏やかに言った。「盾が選ぶのです。最も守られるべき者を残すために、最も小さい者から」

 

(順番まで、決めてあるのか)

 

俺は攻め手を重ねた。蒼衣で手札を増やし、アルギメルの二撃目。今度は《沈黙盾の陪席天使》が割り込んだ。転嫁先に指定された時だけ戦闘では砕けず、手番中に砕ければこちらの符叢を道連れに削る天使。三撃目は《聖裁:異端認定》で封じられた——「アルギメル殿の武威に、この法廷での正当性はありません。この手番、私とクラヴィエルへの攻撃を禁じます」。槌が、振り上げた形のまま止まる。手番が空転する。

 

四撃目で、ようやく小天使を一体砕いた。瞬間、俺の符叢が一枚、墓地へ落ちた。ダメージを通しても《判決:転嫁宣告》が待っていた。ダンテに届くはずの一撃が、宣告一枚で別の天使へ移し替えられ、天使には断罪の印だけが積まれていく。

 

(攻めるほど、こちらが痩せる。数の削り合いなら、先に尽きるのはこちらだ)

 

天使のために来たはずの男が、天使を砕きながら老枢機卿へ迫っている——ダンテは表情も変えず、その絵を法廷に見せ続けていた。

 

「……世一様」

 

セレスティーナの声が、俺にだけ届く低さで言った。

 

「カエリエルが」

 

台の中央。光の薄い原符が、入廷の時より確かに、暗くなっていた。

 

「洗浄で開いた傷が、閉じていません。神判の霊圧に、炙られています。……長くは、保ちません」

 

(時間も、あの男の味方か)

 

見れば、ダンテは急いでいなかった。攻めてすらいなかった。盾を回し、裁定を切り、時間を積んでいるだけだ。俺が焦って攻め立てれば、破壊者の絵が完成する。待てば、カエリエルが尽きる。どちらに転んでも、あの男が勝つ。

 

「符侯殿」とダンテが言った。急かすでもなく、静かに。「投了は、いつでも受け付けます。貴方が本当に天使を思うなら——これ以上、砕かせないことです」

 

(——倒せない、かもしれない)

 

初めて、その計算が立った。

 

負ければ、賭け金が執行される。ルクシエルは教会へ返還される。アルギメルも。

 

(ルクシエルが、いなくなる)

 

指先が、冷えた。

 

免紙の感触が、蘇った。青い紙の下で、何の温もりも返さなかったルクシエル。呼んでも、応えなかった。腕の中で、ただの紙だった。

 

(また、あれが来るのか)

 

視界の端に、ディスプレイの青い光がちらついた気がした。誰にも名前を呼ばれない、六畳間の暗さ。息が、浅くなった。盤面の駒の並びが、ぐにゃりと歪んで見えた。

 

「世一様」

 

ルクシエルの手が、俺の手を握った。

 

「私は、ここにおります」

 

その一言だけだった。手のひらの熱が、免紙の冷たさを塗り替えていく。ルクシエルは紙ではなかった。今、ここにいる。

 

俺は、その手を一度だけ握り返した。

 

呼吸が戻る。盤面が、また見えてくる。

 

背後で、英稟が息を詰めるのがわかった。扉の脇で、エリナが旗の柄を握り直した。

 

────

 

「——聖堂騎士団」

 

ダンテが、手を挙げた。

 

「傍聴席の異端協力者を、審理の妨げにならぬよう退去させなさい。被告の再拘束も、判決後すみやかに行えるよう——待機を」

 

扉が開き、白銀の鎧が廊下に並んだ。十を超えていた。勝ちを確信した男の、詰めの一手だった。

 

その扉の前に、エリナが立った。白地の聖旗を、石畳に音を立てて突き立てた。

 

「マギニア神聖同盟式・騎士礼法に基づき、申し上げます。この扉は開いています。入りたい者は入り、出たい者は出られます。——ですが、この法廷で選ぶ者と、これから選ぶ天使たちに、指一本、触れさせません」

 

「……マギニアの騎士が、なぜ教会の法廷で」

 

「騎士だからです」

 

聖堂騎士たちが、止まった。彼らの前にいるのは、抜剣もしていない騎士が一人。だがその一人が体現している礼法は、彼ら自身が最初に教わったものと、同じ形をしていた。

 

枢機卿の一人が立った。「……審理の続行を求めます」。二人目。「同じく」。三人目。

 

ダンテは肩をすくめ、盤面へ向き直った。場外の詰めは防がれた。だが、盤の上は何も変わっていない。

 

────

 

(打てる手が——)

 

ない、と言いかけて、止めた。

 

俺はもう一度、盤面を見た。符の条文ではなく、その奥を。

 

《断罪の盾》。攻撃を他の天使へ転嫁する。条文はそう読める。だが、ここは神前の符闘だ。神判の場では、霊理が条文より深く走る。転嫁が成立しているのは、符の効果が天使を「引きずり出す」からじゃない。引きずり出された天使が——一体も、拒まないからだ。

 

さっき砕けた天使の、最後の光を思い出す。あれは、拒みの光ではなかった。

 

(抵抗しないんじゃない。拒み方を、忘れているんだ)

 

千年、問われなかった。命じられ、並べられ、砕かれてきた。声の出し方そのものを、忘れさせられている。

 

(俺には、ルクシエルの声があった。今、戻してもらった)

 

盾にされている天使たちには、それすらない。砕かれ、次が並び、また砕かれる。誰も、聞かない。

 

替えが利く部品。名前を呼ばれない三年間を思い出す。俺も、そうだった。壊れるまで使われて、壊れたら別のやつに代わるだけの駒だった。

 

(あの頃の俺には、声を出す相手すらいなかった)

 

こいつらには、まだ声そのものが残っている。忘れているだけだ。

 

(なら、賭けるのはそこだ)

 

俺は、手札を伏せた。

 

「アルギメル、下がれ」

 

「……世一様?」

 

「この手番、攻めない」

 

ダンテの眉が、初めて動いた。俺の盤面はがら空きになる。次の手番、盾に守られたまま裁定を積まれれば、巻き返す資源はもう残らない。外れれば、負けだ。文字通り、最後の一手だった。

 

俺は、広間の全員に聞こえる声で言った。

 

「いつまで黙っている」

 

台の上の原符へ、まっすぐに。

 

「お前たちは盾じゃない。こいつが使い潰すための札でもない。命じられたから立つな。順番が来たから砕けるな。——嫌なら、自分の口で嫌だと言え」

 

声が、勝手に大きくなった。

 

「誰もお前たちの声を聞かなかったなら——今、俺が聞く」

 

「起きろ。——目を、覚ませ」

 

言葉に合わせて、腹の底から陽気を引き出した。少量ではなかった。制限を、外した。声とともに、熱を広間の隅々まで満ちるように解き放った。

 

広間が、揺れた。

 

違う。揺れたのは、天使たちだった。

 

枢機卿たちの符叢の中で、封じられた天使たちが身じろぎした。台の上の原符が、次々に淡い光を帯びた。いくつかの符は、震えて奥へ縮こまった。千年ぶりに触れる強い気配に、怯えていた。

 

「……無駄なことを」とダンテが言った。「怯えている子らが、見えますか。貴方の陽気は、あの子らには五十年前の空と同じだ。広すぎて、強すぎて、どう歩けばいいか、わからない」

 

「歩けとは言っていない。目を覚ませと言っただけだ」

 

その時だった。

 

台の上の一枚から、細い光が立った。輪郭の淡い、小さな天使が、半分だけ顕現した。声は囁きに近かった。だが、広間の全員に聞こえた。

 

「……盾には、ならない」

 

ダンテが、目を見開いた。

 

「……ここが、わたしの知っている場所だから、教会は嫌いじゃない。でも、盾には、もうならない。……砕かれても、符に還るだけと、人は言う。でも、痛いの。砕かれるのは、痛い。さっき砕かれた子は——千年、同じ祭壇で隣り合って眠った子。あの子は、痛みを引き受けるかどうかさえ、聞かれもしなかった」

 

二枚目が灯った。「……盾は、いや」。三枚目。「……砕かれるために並べられるのは、もう」。

 

連鎖だった。一体が声を上げるたび、次の一体が声を出しやすくなる。千年の沈黙が、一体ずつ、剥がれていく。教会に残りたい者も、怯えて縮んだままの者も——盾になることだけは、全員が拒み始めていた。

 

ダンテの手が、初めて速く動いた。

 

「《判決:転嫁宣告》——」

 

宣告の印が、随行の天使へ飛んだ。天使は、受け取らなかった。印は宙で行き場を失い、砕けて消えた。

 

「クラヴィエル。《断罪の盾》——転嫁先を、再指定」

 

盾が、転嫁先を探した。

 

広間じゅうの天使が、応えなかった。

 

そして。

 

クラヴィエルの、閉じられていた目が——開いた。

 

ダンテが、息を呑んだ。五十年、この男の前で一度も開かれなかった目だった。

 

「……クラヴィエル?」

 

大天使は答えず、畳んでいた六枚の翼を、静かに開いた。盾の光が、内側から解けていく。

 

「私も」

 

錆びた、掠れた声だった。

 

「……問われたことが、ありませんでした」

 

《断罪の盾》は、砕けなかった。砕く必要が、なかった。盾にされる者たちが盾を拒んだ瞬間——それは、ただの言葉になった。効果の対象を失った権能が、音もなく、場から色を失っていく。

 

盤面の上で、ダンテを守るものは、もう何もなかった。

 

「……なぜだ」

 

ダンテの声が、初めて掠れた。

 

「私は——お前たちを、守ってきた。五十年。暴走から、悪用から、外の危険から——この盾は、そのためのものだ」

 

「ヴィクトル」

 

セレスティーナが、静かに言った。

 

「誰か一体にでも、聞きましたか。盾になりたいかと」

 

ダンテが、止まった。

 

五十年分、止まった。

 

長い沈黙の後、老枢機卿は、自分の胸に手を当てた。

 

「……クラヴィエル。転嫁先を、指定する。——ヴィクトル・ダンテ。私自身だ」

 

広間が、凍った。クラヴィエルの開いた目が、主を見た。確認するように。

 

「いい。それでいい。……お前が最後まで守るべきだったのは、私ではなかった。だが、今さら他の誰かを指定する資格も、私にはない。残っているのは——これだけだ」

 

「アルギメル」

 

「……はい」

 

「終わらせろ」

 

白銀の光が、走った。今度は、逸れなかった。行き場を定められた断罪が、初めて、指定した本人へ落ちた。

 

槌が、老枢機卿の肩を打った。ダンテが、膝をついた。

 

もう、盾はない。転嫁札も、切る手も、残っていなかった。ダンテの符叢へ目をやる。薄い。数えるまでもなく、あと数手で尽きる厚みだった。

 

「——神判、決着」書記官の声が、震えながら広間に通った。「聖座ヴィクトル・ダンテ、符叢消耗により敗北。勝者、符侯 式世一」

 

その拍子に、彼の体から、細い黒が糸のように抜け出した。陰気。ごく薄い。だが、底の昏さがあった。

 

「……これは」と枢機卿の一人が声を上げた。「タルタロスの——」

 

「瘴気の、残滓です」とルクシエルが言った。「深く巣食う類のものではありません。恐怖に寄生して、恐怖を太らせる。それだけのものです。五十年、この方の怖れを、少しずつ濃くしてきたのでしょう」

 

黒い糸は、天使たちの光の中で、行き場なく散った。

 

ダンテは、それを見上げもしなかった。

 

「……言い訳には、なりませんな。あれが囁いたのだとしても、条文を書いたのは私です。改竄を命じたのも、原符を集めたのも、今日、騎士を呼んだのも。全部、私の署名で、私がやった」

 

老人が顔を上げた。見たのは、俺ではなかった。台の上の原符たち——千年の沈黙を破ったばかりの、声たちを。

 

「……管理しなければ守れないと、思っていた。五十年前のあの日から、ずっと。だが、守られることを望むかどうかすら——私は、いつからか、聞かなくなっていた」

 

ダンテが、符叢を閉じた。閉じた符の上に、静かに手を置いた。負けを、確かめるように。

 

────

 

賭け金は、その場で執行された。

 

第三枢機卿ヴィクトル・ダンテの全職務停止と、報告改竄・原符集積に関する正式調査。発議に、羽ペンが順に回った。署名しない者が二人、席を立って広間を出た。それも、記録された。

 

天使たちの言葉を記録として扱う手続きには、リタニアが証言台に立った。拒否しても罰や不利益を受けないこと。時間を置いても同じ選択が繰り返されること。本人の言葉で理由が語られること——三条件。ヴァンダリアの実測記録つきで、写しが法廷に提出された。

 

十七体への問いは、セレスティーナが行った。監察権限は停止されたままだ。「では、権限なしで問います。ただの、セレスティーナとして」——止める者は、もういなかった。

 

一体ずつ、四つの道が示された。教会に残る。符侯と行く。眠りにつく。今は決めない——決めないことも、有効な答えとして。

 

最初に声を上げた小さな天使は、長い沈黙の後、教会に残ることを選んだ。「ここが、わたしの知っている場所だから。……でも、盾には、二度とならない」。それも、一言残らず記録された。

 

教会に残ると答えた者、五体。俺を選んだ者、四体。眠りを選んだ者、二体。保留、五体。そして一体だけ、どちらにも属さないことを選んだ。「千年、扉の内で神の言葉を待っていた。これからは、外を、この目で見て回りたい」——教会でも符侯でもなく、独りで世界を巡る道。セレスティーナが巡礼路の手配を約し、費えは俺が持つことにした。

 

俺を選んだ四体の原符は、法廷の記録付きで、俺の預かりになった。すぐに符叢へ組むつもりはない。戦えるのか、そもそも戦いたいのか、まだ何も聞いていない。まずは遠海に原符の座を用意して、話はそれからだ。教会に残る五体と保留の五体は監察預かりの帳簿に載り、眠りの二体は封蝋つきで書庫の最奥へ。一体ずつ、行き先が記録されていった。

 

────

 

最後に、セレスティーナが、台の中央へ歩いた。手首の赤い痕は、まだ消えていなかった。

 

光の薄い原符の前に、立った。

 

「……カエリエル」

 

原符は、答えなかった。洗浄に千年の力を削られ、神判の熱に炙られて、発光は消えかけの燠火のようだった。

 

「アルギメル。届けろ。今度は、全部だ」

 

アルギメルが、目を閉じた。

 

「……カエリエル。聞こえていますか。私です。皆、待っています。あなたの言葉を。あなたの、千年を」

 

俺は、アルギメルの声に合わせて、陽気を送った。

 

原符が、明滅した。一度。二度。

 

三度目に、光が立ち上がった。

 

白い翼が八枚、広間に開いた。人と変わらぬ背丈の大天使が、台の上から静かに石畳へ降り立ち——目を、開いた。

 

千年、閉じられていた目だった。

 

傍聴席で、若い修道女が、声を上げて泣き崩れた。祈りの形のまま、組んだ手を額に押し当てて、子供のように泣いていた。イゾルデが、その肩を抱いた。誰も、止めなかった。

 

カエリエルの目が、ゆっくりと広間を見渡した。十二の席を。原符の台を。扉の旗を。そして——セレスティーナの前で、止まった。

 

「……カエリエル。あなたは、どうしますか」とセレスティーナが問うた。声が、職務の声のまま、最後だけ揺れた。

 

「私は」

 

千年ぶりの声は、鐘の残響に似ていた。

 

「——セレスティーナの隣に、立ちます」

 

セレスティーナが、息を止めた。

 

「あなたは千年、私に問わなかった。教会も、問わなかった。……三日前、あの地下で、あなたは鎖に繋がれながら、私の原符に向かって、謝り続けていた。問わなかったことを。——あれが、私の千年で、初めて聞いた『問い』でした」

 

カエリエルの翼が、静かに畳まれた。

 

「符侯の陽気は、温かい。感謝しています。ですが、私が選ぶのは、陽気ではありません。……問うた人の、隣です」

 

セレスティーナが泣いたのかどうか、俺の位置からは見えなかった。ただ、深く、深く、頭を下げたのは見えた。天使に向かって。神使監察が、千年分の不作為の、その一身の代表として。

 

────

 

俺は、扉の前で立ち尽くしていた聖堂騎士たちへ、声を投げた。

 

「お前たちの枢機卿を、医務室へ。調査までは死なせるな。……丁重にな」

 

騎士たちが顔を見合わせ、それから二人が進み出て、崩れたダンテを担架に乗せた。もう誰も、こちらを拘束しようとはしなかった。エリナが、旗を引き抜いて脇に抱えた。リタニアが、三冊目の手帳を最後の頁まで書き終えて、閉じた。

 

広間には、天使たちの光が残っていた。

 

一斉の光ではなかった。強い光、細い光、迷いながら明滅する光——揃わない光だった。揃わないまま、どの光も、消えていなかった。

 

「……天使が、語った」と、枢機卿の誰かが言った。「千年ぶりに——天使が、自分の言葉で」

 

「……天声だ」

 

その言葉が、広間を静かに満たしていった。

 

俺は、揃わない光からひとつ息を抜いて、隣を見た。

 

セレスティーナが、まだ立っていた。囚人衣のまま、背筋を伸ばして。三日分の憔悴と、手首の痕と、それでも折れなかったものが、そのまま立っていた。

 

「終わったな」

 

「……いいえ」

 

セレスティーナは、光から目を離さずに言った。

 

「今日決まったのは、勝ち負けだけです。空欄だった台帳の千年分——書き込む仕事は、明日から始まります」

 

「そうか。なら、今夜は寝ろ。三日、寝てないだろう」

 

一拍おいて、セレスティーナが俺を見た。

 

「……はい」

 

その返事だけは、監察の声ではなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。