『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
雨で試合のない日だった。
苑子が、机の上に紙の束を二つ並べた。左が大会の公開選手表。右が、登録初日に写しを取らせた事前登録の資料だった。
「……一晩、突き合わせてみました」
苑子の目の下に、薄い隈があった。
「まず、独立符士枠の登録番号。公開表では二百十一番から二百四十七番まで並んでいますが——二百十九、二百三十一、二百四十の三つが、飛んでいます。事前資料には、三つとも名前がありました」
「消えた三人は」
「棄権扱いです。ただ——棄権届の受理時刻を確認すると、一件は、本人の初戦が始まるより前の刻限になっています。試合に出るつもりで宿を引き払っていない人間が、試合の前に棄権を出す理由がありません」
苑子が、二枚目を出した。
「次に、所属欄です。事前資料で『無所属』だった独立符士のうち四名が、公開表では別の所属に書き換わっています。書き換えの筆跡は——四名とも、同じ手です」
「同じ役人が書いたか」
「役人なら、まだいいのですが」苑子が三枚目を置いた。「宿泊の記録と、会場の入場記録も突き合わせました。宿に泊まっていないのに毎日入場している者が六名。逆に、入場記録がないのに試合記録だけがある者が二名」
「幽霊が試合をしたのか」
「記録の上では」
苑子の声は乾いていた。
「そして、これが一番わかりません。——同じ人物に、管理番号が二つ振られている例があります。表の番号と、頭に『予』の字がつく番号。予備番号の方は、公開表のどこにも出てきません」
「予備番号は何に使う」
「大会規程のどこにも、記載がありません」
記載のない番号が、正規の書式で発行されている。つまり——書式を作れる側の人間が、規程の外で使うために作った番号だ。
「写しは全部残せ。原本の在り処も控えておけ」
「済ませてあります」
────
午後、小夜を呼んだ。
「お前が組織から渡された通行証を見せろ」
小夜が懐から木札を出した。雨に濡れないよう、油紙で丁寧に包んであった。
「……見せるだけですよ。返してください。ないと怒られるので」
苑子が受け取って、あらためた。表の焼き印。裏の墨書。透かしの符印。
苑子の手が、止まった。
「……世一様」
「どうした」
「これは——大会運営の正式な書式です。紙も、符印も、管理番号の体系も。偽造ではありません。偽造なら、透かしの符印までは真似られない」
「つまり」
「この通行証は——大会運営の中で発行されています。正規の手続きで」
小夜が、目を丸くした。
「……私、正規の人だったんですか」
「お前は正規の紙で通される、非正規の駒だ」
ヨモツイクサは、外から大会に忍び込んでいるのではなかった。大会の内側の誰かが、正式な書類を刷って渡している。門は破られていない。最初から、開けてある。
「小夜。これを渡してきた人間の顔は」
「……見ていません。組織の連絡は、いつも置き文です。受け取り場所だけ指定されて」
「受け取り場所は」
「……大会本部の、裏の資材置き場でした」
苑子が、静かに息を吸った。
────
夕方、浅葱が濡れた外套のまま部屋に来た。
「義兄上。頼まれていたもの、手に入りました。……手に入ってしまいました、と言うべきか」
机に置かれたのは、命令書の写しが二枚だった。
「一枚目。神廟警備隊の第二班を、大会会場の警備応援に回す旨の命令。日付は開幕の前日。……符帝印が、押されています」
朱の印影が、雨の日の光の中でも鮮やかだった。
「二枚目。同じ日付で、神廟警備を増員する旨の命令。宛先は警備隊の別の部署です。……こちらにも、符帝印が」
二枚を並べた。
減らせ、という命令と、増やせ、という命令。同じ日に、同じ印で。
「どちらかが偽物か」
「それが」浅葱が首を振った。「印影を見比べましたが、どちらも本物の符帝印です。偽造の印は、縁の欠けまでは再現できません。二枚とも、欠けの位置が一致しています」
「同じ印で、矛盾する二枚が出ている」
「はい」
苑子が、二枚の命令書を長く見てから、言った。
「……どちらも、『符帝陛下のご命令』という形式です。形式上は、二枚とも有効です」
「形式が同じでも、出した人間が同じとは限らない」
俺は二枚の印影を見た。
印は、押した者の名を語らない。印が語るのは「符帝印がここに押された」という事実だけだ。誰の手が押したのか。押す前に、誰が文面を書いたのか。そして——符帝本人は、この二枚のどちらかでも、読んだのか。
「浅葱。符帝印は、符帝が自分で押すものか」
「……まさか。印璽の管理は帝宮の官僚です。外戚の家からも管理役が出ていると聞きます。符帝本人が文書を読んでから押される、という建前ですが——一日に何百と出る文書を、全部は読めません」
「読まずに押される命令と、読んでから押される命令の、見分けは」
「つきません。印は同じですから」
つかないように、できている。
(署名のない命令だ)
印はある。形式もある。効力もある。だが、そこに本人の意思があったことを示すものが——どこにもない。
────
夜、風音が来た。
濡れた髪を拭きもせずに、立ったまま言った。
「……公開の選手表で、同じ独立枠の知り合いが、棄権になっていました。前の晩に、次の試合の組み立てを一緒に考えた相手です。本人に確かめたら——棄権した覚えはない、と」
「それで」
「……自分の登録も、信じられなくなりました。大会本部に、登録書の原本を見せてほしいと言いました。断られました」
「理由は」
「独立符士には、原本の閲覧権がないそうです。閲覧できるのは貴族符家と、その代理人だけ」
「自分の登録なのにか」
「自分の登録なのに、です」風音の声が硬かった。「私の名前で、私の知らない書類が作られていても——私には、確かめる権利すらない」
風音が、一度、口を結んだ。
それから、頭を下げた。
「……借りを作るのは、嫌です。でも、自分の名前がどう扱われているかは、知りたい。——お願いします」
「顔を上げろ」
「……閲覧の代理を、頼んでいます」
「わかっている。苑子」
「明朝、手配します」
風音が顔を上げた。まだ硬い顔のままだった。
「……対価は」
「要らない。俺も原本が見たい」
「……それでは借りに——」
「お前の登録書に、俺の調べたいものが載っている可能性がある。利害の一致だ。借りじゃない」
風音が、少しの間、俺を見た。
「……わかりました。利害の一致で」
────
翌朝、苑子が原本の写しを持ち帰った。
風音の登録書だった。名前。属性。符叢の申告。管理番号——二百二十六番。
その下に、もう一つ。
『予二百二十六』。
風音本人が知らない予備の番号が、正規の欄外に、正規の筆で記されていた。所属欄は——空欄のまま、枠だけが引かれていた。
「……これは、何ですか」と風音が言った。
「後からお前を、別の所属に書き入れるための枠だ」
「私の同意なしに、ですか」
「同意欄は、ない」
風音が、写しを持つ手に力を入れた。紙の端が、少し歪んだ。
「……つまり、私はいつでも——誰かの帳面の上で、別の何かにされる準備がされている」
「そうだ。大会記録から消す準備、と言ってもいい」
「誰が」
「それを調べている」
風音は長く黙った。それから写しを、丁寧に、皺を伸ばして机に戻した。
「……写しを、私にも一部ください。自分の名前がどう扱われているか——自分でも、持っておきたいので」
「そうしろ」
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夜、雨が上がった。
宿の窓から、大会会場の方角が見えた。灯りの落ちた競技場の輪郭の上に、符帝家の紋を掲げた観覧席の屋根が、ひときわ高く黒く残っていた。
誰も座っていない席だ。
開幕からこちら、あの席に人影が入ったことは一度もない。それでいて、場内の告知は「符帝陛下のご意向により」で始まり、俺への退けの伝言は「符帝家のご意向」として届き、神廟の警備は符帝印で減らされ、同じ印で増やされている。
符帝の名は、帝都の至るところにあった。
だが本人の声だけが、どこにもなかった。
(名前と印だけが歩き回っている)
その名前の主が、どこで、何を見ているのか——あるいは、何も見せられていないのか。
確かめる手段は、今の俺の手札にはなかった。
ないまま、決勝の週が来る。