※この作品はR-18です。

『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』   作:シキセ

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第六十八話 私闘

翌朝、宿の外に出たところで燎がいた。

 

宿の前の路地。壁に背を預けて、腕を組んでいた。前夜と同じ符叢の薄さ。夜のうちからそこにいたような、動かない立ち方だった。

 

宿の前を、朝の物売りが通り過ぎていく。豆腐売りの声。味噌汁の匂い。いつもと同じ帝都の朝だった。それが、燎の気配とひどく不釣り合いだった。

 

燎が俺を見た。値踏みとも、確認とも違う目だった。倉庫で刃を交えたときから、この男の目は変わらない。前へ、前へと燃える目だ。

 

「澪と、どういうつもりでいる」

 

俺は答えなかった。

 

燎は「答えなくていい」と言った。「顔を見れば、大体わかる」

 

「そうか」

 

燎が壁から背を離した。路地に一歩、出た。

 

「……昔の話をする。俺の母親は、符帝の妾だった」

 

俺は黙って聞いた。アニメで見た筋書きだ。だが、燎の口から直接聞くのは、これが初めてだった。

 

「祭りの夜になると、母はいつも俺を置いて出かけた。誰の元へ行くのか、子供でもわかった。朝方帰ってくると、着物の柄が変わっていることもあった。聞かれもしないのに、母は時々、笑って言い訳をした。仕方ないのよ、燎。あの方が力を持っているから——って」

 

燎の拳が、わずかに震えていた。過去の話をしているはずなのに、声は今の怒りを引きずっていた。

 

「力のある男のそばに、女が当然みたいな顔で引き寄せられていく。それを子供の頃から見てきた。……だから、力ずくで女を従わせる男が、俺は嫌いだ」

 

「お前もそれだ、という話だ」

 

俺は燎を見た。

 

「否定はしない」

 

燎の目に、火が入った。

 

「澪は、自分で決めてお前のところへ通ってる。お前が力づくで連れてきたわけじゃない。……わかってるんだ。それくらいは、澪を見てりゃわかる」

 

燎の声が、少し落ちた。

 

「わかってるから、余計に腹が立つ。……あいつの意志を尊重しているお前と、あいつを言い訳に使ってた母を囲った男が、俺の中じゃ、うまく区別がつかない」

 

(何年隣にいた。何年守った。何年戦った。それでも指一本伸ばさなかった——その苛立ちも混じっているんだろう)

 

「区別する必要はない。俺はお前に、認められたいわけじゃない」

 

「……そうかよ」

 

燎が短く息を吐いた。それ以上、その話を続けなかった。

 

「もう一つ、聞きたいことがある」

 

「言え」

 

「符帝家を、恨んでるのか」

 

「恨んでる」燎が即答した。「今の符帝がどんな面かも知らん。声も知らん。それでも、名前と印だけが母を囲って、名前と印だけが俺を落胤にした。……顔も知らない相手を恨むのは、性質が悪い。行き場がないからな」

 

初めて、声から刃が外れていた。

 

「符闘しろ」

 

唐突ではなかった。話の流れの、行き着く先だった。この男にとって、言葉で片をつけられる話ではない。

 

「いいだろう」

 

倉庫での一戦は、こいつの相棒を巡る誤解から始まって、途中で終わった。天使の光と、炎鳥の羽ばたきと、崩れ落ちる木箱の音——あの夜の熱が、今も燎の目の奥に残っている。次に会うときは本気で戦おう——別れ際に、燎はそう言った。その約束を覚えている顔だった。

 

「今夜、夜の会場外だ。人目のないところでやりたい」

 

「わかった」

 

大会の正式試合の外——符士同士の私的な符闘は、帝都のどこで行使してもいい。大会の結果には含まれない。含まれなくていい。

 

「澪には言うか」

 

「言わない」

 

「……なんでだ」

 

「知れば、来る」

 

燎が「……わかった」と言って、背を向けた。

 

「燎」

 

燎が振り返った。

 

「怒りを高めておくといい。お前のデッキは、それで動く」

 

炎育カウンターは感情に呼応して積み上がる。手数を重ね、怒りを燃やすほど、終盤の一撃が跳ね上がる。こいつのデッキの芯は、倉庫で一度、この目で見ている。

 

燎が「——うるさい」と言った。

 

それだけ言って、消えた。

 

宿に戻ると、苑子が朝餉の支度をしていた。

 

「……お客様でしたか」と苑子が聞いた。

 

「そうだ」

 

「顔色が——いつもと違います」

 

「そうか」

 

「……お疲れですか」

 

「疲れてはいない」

 

苑子がそれ以上は聞かなかった。膳を並べる手だけが、少し静かになった。

 

しばらくして、苑子が小さく言った。

 

「……今夜、お戻りが遅くなるようでしたら、先に休ませていただきます」

 

「そうしろ」

 

「……何も、伺いません」

 

膳の上の椀から、湯気が立っていた。苑子はそれ以上、何も聞かなかった。長く仕えてきた分だけ、聞かないことの重さを知っている女だった。

 

小夜が縁側で干し柿を齧りながら、こちらを見ていた。何かを察している目だった。

 

「……世一さん、今日はなんか、剣呑な感じがします」

 

「気のせいだ」

 

「……そうですか」

 

小夜が干し柿をもう一口齧って、それきり黙った。詮索しない態度が、この娘なりの気遣いだとわかっていた。

 

朝餉を済ませ、部屋に戻った。窓の外で、大会二日目の喧騒が始まっていた。太鼓の音、呼び込みの声、遠くの符闘場から漏れる歓声——いつもと変わらない一日が、当たり前のように続いていく。

 

夜までは、まだ長い。それでも、思っていたよりは短く感じられた。

 

(——来る。予想通りに)

 

それだけだった。

 

────

 

日が落ちてから、支度に時間はかからなかった。使う符叢はすでに決めていた。

 

夜の会場外れ。結界のかかった訓練区画に入ったのは、日暮れを過ぎた刻だった。

 

結界の四隅に、淡い青の光の柱が立っていた。外の音を遮断する結界だ。ここで何が起きても、大会の記録には残らない。

 

小夜が「ついていきます」と言った。断った。苑子が「お供します」と言った。断った。二人とも納得しない顔だったが、引き下がった。

 

一人で来た。

 

燎はすでにそこにいた。符叢を手にして、結界の中央に立っていた。焚かれた松明の炎が、日に焼けた横顔を赤く舐めている。

 

足元に置かれた符叢入れは、革の擦り切れ具合が場数を物語っていた。独立符士として、何百回とこの手の勝負をくぐってきた男の道具だった。

 

結界の外では、大会二日目の熱狂がまだ続いているはずだった。ここにはその音が届かない。祭囃子も、見物客の声も、遠く隔てられている。静けさだけが二人を囲んでいた。

 

「符侯、か」

 

「そうだ」

 

「……朝の話の続きだ。名前と印で人を動かす側の男。母を囲った符帝と、お前は同じ側に立ってる。——で、その符侯様が」

 

燎が、俺の腰の符叢を顎で示した。

 

「大会前から、澪のことは計算に入れてたんだろう」

 

俺は答えなかった。

 

「路地のあれも、そうだ。わざと見せた。……炎育は怒りで積み上がる。怒らせて、燃やして、一番仕上がった俺と打ちたい——そういう魂胆だろう」

 

「否定はしない」

 

燎が短く笑った。乾いた、自分に向けた笑いだった。

 

「見抜いてたんだよ、これでも。挑発だ、乗るだけ馬鹿だ、ってな。カードで殴り合ったところで、澪の気持ちが動くわけでもない。……全部わかってて、まんまと怒って、まんまとここに立ってる」

 

燎が、じっと俺を見た。

 

「澪は——お前のことを、話す時だけ声が違う。……それだけで、もう答えは出てる。盤の外じゃ、俺はとっくに負けてるんだ」

 

自嘲は、そこで終わった。

 

燎が符叢に手をかけた。指先の火の粒子が、今夜は消えなかった。滲んで、灯って、燃え広がっていった。

 

「それでもな——盤の上のことは、盤の上で返す。それしか知らずに、ここまで来た。……怒りが薪だってんなら、望み通りだ。これ以上ないほど、くべてもらったからな」

 

燎が構えた。

 

「——始めるぞ」

 

────

 

どのデッキで行くかは決めていた。

 

ルクシエルもエーデルガルトも使わない。

 

あの倉庫で、黄金の鎖と焰翼鳳凰が激突した夜——決着はつかなかった。澪の水が割って入って、結界ごと砕けた。俺が黄金鎖解放に指をかけた、その一手前でだ。あと一手で、盤面はどちらにも転んだ。今夜、同じ危うさを許す理由はない。

 

主導権争いじゃない。縄張りだ。雌を巡って、雄が雄を潰す。

 

削り勝ちでは終わらない。叩き潰す。

 

好都合な理由もある。感情型の炎デッキは、手数を重ねるほど炎育カウンターが積み上がり、終盤の爆発力が跳ね上がる。時間をかければかけるほど、あいつに理屈をつける隙を与える。

 

俺は三つ目の符叢を抜いた。

 

いつも使う二つとは、色が違う。薄い緑の——木属性の符叢だった。

 

燎が「——それは何だ」と言った。

 

「第三のデッキだ」

 

「……あの時の天使じゃないのか」

 

「今夜は違う」

 

燎の目が細くなった。

 

「……何が来ようが、やることは変わらねえ」

 

一手目。

 

俺は約定を展開した。

 

盤面の中央に、種が落ちた。落ちた先から、根が地を裂いて広がり、幹が音を立てて空へ伸びた。枝が結界の天蓋まで届き、葉の一枚一枚が淡い光を帯びる。

 

「——神符約定:世界樹イルミンスル」

 

燎の目が、初めて大きく見開かれた。木属性——今まで一度も見たことのない色だった。

 

生命の芽吹き。手番の開始ごとに、樹は一枚多く札を落とす。大樹の恩恵。各手番に一度、戦力三以下の獣人を、代償なしで根元から実体化させる。

 

その根の間から、最初の一体が這い出た。

 

森の案内猫ミーニャ。掌に乗るほどの、小さな猫の獣人。戦力一。大したことはない。だが一手目に出る速さがある。ミーニャが金色の目で符叢の上三枚を覗き、次の獣人を俺の手札へ手繰り寄せた。小さな爪が土を掻く音だけが、しばらく結界に響いていた。群れが一つ、数を増やす。

 

燎の目が、掌に乗るミーニャではなく、その手が探った符叢の上三枚を追っていた。

 

「……展開札を持ってくる猫か。厄介なのを一手目に置きやがる」

 

「わかるか」

 

「わかるさ。一体ずつは大したことねえが、揃うほど面倒になる型だろ。……揃う前に潰す」

 

燎が炎の使役式を展開した。火属性の熱が盤面に広がり、炎育カウンターが一つ、灯った。

 

(——まだ一つだ)

 

二手目。世界樹が札を落とす。

 

大樹の恩恵で、梢跳びの栗鼠獣人を代償なしで枝から降ろした。

 

群れ——場に他の獣人がいる。ミーニャと栗鼠が互いの匂いを嗅ぎ、認め合う。牙を鳴らすでもなく、ただ寄り添うだけで、二体の戦力が一ずつ跳ね上がった。

 

栗鼠が枝を蹴って、燎の命運へ真っ直ぐ飛んだ。世界樹の恩恵で実体化した手番だ。降りたその手番に殴る獣は、命運を直接抉る。爪が通った。抉れた差分だけ、燎の符叢が一枚、墓地へ落ちた。

 

「小癪な……!」燎が舌打ちした。揃う前に潰す、と言った口だ。速さで抜かれた分を、そのまま速さで返しに来る。

 

燎が手札から一枚切った。

 

「炎鳥の雛、追加召喚だ」

 

小さな炎の鳥が、また一羽増えた。実体化と同時に、炎育カウンターがもう一つ乗った。速度でこちらに追いつこうとする、焦りの滲む動きだった。

 

燎の炎使役式がカウンターを積んだ。二つ、三つ。

 

(——三つ。十に届く前に、こちらの群れが揃う)

 

数えながら、燎の手元を見ていた。このまま押し切れば、あの炎は膨らみきる前に消える。

 

(さあ、どうする)

 

往来で澪を抱き寄せたのは、この男に見せるためだ。怒りが薪になるというなら、くべられるだけくべてやったつもりだった。それで、三つ。

 

(——ここで終わるなら、興醒めだぞ)

 

燎の目に、気づきが走った。額に、汗が浮いていた。暑さのせいではない。

 

三手目。世界樹が札を落とす。

 

俺は手札から一枚を切った。

 

「早業——群れ呼びの角笛。手札から、戦力三以下の獣人を代償なしで特殊実体化。世界樹がある場合、場の全獣人の戦力を、手番の終わりまで加算する」

 

札から、低く長い音が立ち上った。角笛の音に応えて、若牙の狼獣人が茂みを割って現れた。喉の奥で低く唸る、若さの残る声だった。

 

新しい牙が群れに加わる。獣人が場に出るたび、この狼の戦力は跳ね上がる仕組みだ——出た瞬間から、若い狼の背が一回り膨れた。角笛の恩恵が全獣人に乗った。ミーニャも栗鼠も狼も、揃って戦力を上げる。

 

燎の顔から、余裕が消えていった。今まで一体ずつ相手にしていた盤面が、突然、群れという単位に変わったことに気づいたのだろう。

 

三体が同時に地を蹴った。

 

「——っ」

 

燎の炎使役式が一体、群れに噛み砕かれた。カウンターは乗ったが、攻撃は届かない。届く前に潰された。命運がまた削れた。

 

「囲まれてる……」燎が呟いた。数の意味に、ようやく気づいた声だった。一体ずつなら勝てる相手が、群れになった途端に牙を剥いてくる。

 

燎が反撃に入ろうとした——その前に、花冠の鹿巫女ユンファが、世界樹の根方に降り立った。

 

世界樹があるかぎり、ユンファは主に札を配り、要らぬ手を捨てさせる。俺は一枚引き、一枚伏せ、手を整えた。群れがまた一つ、数を増やす。

 

鹿の角に絡んだ蔦が、淡く発光していた。盤面の主導権は、こちらへ傾いていた。

 

燎の炎が勢いを増した。カウンターが積み上がり、使役式の一体ずつが炎をまとって膨らんでいく。熱風が結界の内で渦を巻き、松明の火が煽られて長く伸びた。感情の熱が、盤面に乗ってきている。

 

痺れを切らしたのか、燎が育ちきっていない炎の使役式で先制した。命運を浅く抉られた。熱い痛みが走ったが、致命傷には遠い。

 

「効いてないみたいだな」燎が言った。

 

「効いている。だが、今夜はそれ以上に速い」

 

「——だろうな」

 

燎が、手札の一枚を裏返した。速い動きではなかった。むしろ、ずっと前から握っていた札を、ようやく置く手つきだった。

 

「揃う前に潰すって言ったろ。数えてたのは、お前だけじゃねえ」

 

札が炎を上げた。

 

「——業炎浄滅」

 

熱が、盤面の高さまで一度沈んだ。

 

それから、横に走った。

 

炎は真上へ噴き上がらなかった。地を舐めるように結界の端まで走り、獣の背丈のところで止まった。低く、平たく、薙ぐ火だった。ミーニャが金色の目を見開いた。栗鼠が枝から飛ぼうとした。狼が牙を剥いて、火の壁へ正面から踏み込んだ。

 

三体とも、届かなかった。

 

「場の使役式を、双方すべて破壊。——自分の場もだ」

 

燎の炎の鳥たちも、同じ火に呑まれて灰になった。積み上げたカウンターだけが、主を失って宙に残る。自分の盤面ごと更地にする札だ。

 

群れが、消えた。

 

世界樹の枝から、焼けた葉が降ってきた。結界の底に、灰が薄く敷かれた。さっきまで三体が土を掻いていた場所には、もう何の音もしない。

 

「これで対等だ」燎が言った。肩が上下していた。「お前の数の利は消えた。カウンターは残ってる。——ここからは、俺の土俵だ」

 

正しい判断だった。理屈も通っている。あの火は、群れという単位そのものを狙って撃たれた。一体ずつ潰しても間に合わないと悟った男が、自分の場を代償にしてでも盤面の前提を壊しに来た。

 

俺は、焼け残った幹を見上げた。

 

枝は焦げていた。葉も落ちた。だが、根は割れていない。この火は、地面より上しか薙いでいない。

 

「潰したのは、群れだ」

 

「あ?」

 

「森じゃない」

 

世界樹が、手番の頭に札を落とした。焼かれた分を埋める一枚。次の手番も、その次も、この樹がある限り落ち続ける一枚だ。

 

三手目の終わり。俺は落ちてきた札を、そのまま場へ返した。

 

大樹の恩恵で、代償なしにミーニャがもう一度、根の間から這い出てきた。焦げた土を掻き分けて、金色の目が同じ場所に灯る。

 

「……おい」

 

栗鼠が枝を蹴った。二枚目の角笛を切ると、焦げた結界の中に同じ音が響いて、狼が茂みを割った。群れが数を取り戻していく。焼かれる前と同じ形が、焼かれた場所にそのまま組み上がった。

 

燎が、初めて言葉を失った顔をした。

 

「そういう樹だ」

 

俺は言った。

 

「焼けば減る。減れば落ちる。落ちれば出る。——お前の火は、この樹の飯だ」

 

炎鳥の使役式の畑を焼き払った代償に、燎が失ったのは自分の場だけだった。こちらは焼かれた分を樹が補って、更地から同じ盤面まで戻した。息切れという木属性の弱点を、この一枚が根こそぎ埋めている。

 

「……卑怯だろ、それ」

 

「符叢に入れてある札を使っただけだ」

 

燎が笑った。灰を吸って掠れた、ひどい笑い方だった。

 

「そうかよ。——なら、こっちも入れてある札を使う」

 

燎が符叢に手をかけた。

 

カウンターが、跳ねた。

 

四つ。五つ。六つ。自分の場を焼いた炎が、そのまま数として積み上がっていく。業炎浄滅は、盤面を捨てる代わりに、灰の分だけ炎育を進める札だった。七つ。八つ。

 

「言ったよな。怒りが薪だって」

 

九つ。

 

「——薪は、お前がくれた」

 

十。

 

結界の中の熱が、変わった。

 

松明の火が、風もないのに横へ倒れた。灰が、床から浮き上がった。浮いた灰が渦を巻いて、盤面の中央で一点に集まっていく。

 

「炎育十——特殊実体化」

 

灰の渦が、内側から膨れた。

 

「——炎獄王ガルダ」

 

現れたのは、鳥だった。

 

倉庫の夜に見たものとは違う。あれは天へ昇る翼だった。これは違う。地に降りる鳥だ。鉤爪が床石を掴んで、掴んだ先から石が焼けた。翼は畳まれたまま、開かない。開く必要がないのだろう。首を低く据えて、こちらを見ている。目だけが、燎と同じ色をしていた。

 

「戦力は、積んだカウンターの数だけ上がる。——十だ」

 

膨れ上がった戦力が、結界の空気を歪ませた。数字を見るまでもない。あれは、こちらの群れが何体束になっても正面から受け止められる大きさではなかった。

 

「今度は、逃がさねえ」

 

いい面構えになった、と思った。

 

さっきまでの、殴る相手を探す顔ではない。符闘で勝ちに行く男の顔だ。この一手のために、あいつは自分の場を全部焼いた。

 

だから、こちらも出し惜しみはしない。

 

四手目。

 

俺は場の獣人三体を——ミーニャを、栗鼠を、狼を、まとめて霊体化した。三つの小さな光が、世界樹の幹へ吸い込まれていく。

 

「——覇獣王ヴォルガード」

 

根元が、轟音とともに割れた。土煙が結界の中に舞い上がった。

 

這い出てきたのは、小さな獣たちとは格が違う。黄金の鬣。地を軋ませる体躯。踏み込むたびに、地面に爪痕が刻まれた。群れの気配に呼応して、その戦力がさらに膨れ上がった。

 

「王の帰還——場の木属性・獣人三体を霊体化することで、代償なしで特殊実体化」

 

黄金の獣と、炎の鳥が、灰の敷かれた結界の中で向かい合った。どちらも王を名乗る札だった。片方は森が長い時間をかけて育てたもの。片方は、一晩の怒りを全部くべて生まれたもの。

 

戦力は、向こうが上だ。

 

「まだ足りない」

 

俺は手札から、もう一枚を切った。木を三枚、代償に置く。

 

「早業——巨木の重槌」

 

世界樹の枝が一本、音を立てて折れた。折れた枝が落ちながら形を変え、黄金の獣の手に収まった。幹の芯から削り出した、節くれ立った槌だった。ヴォルガードがそれを握り込むと、握った腕の筋が盛り上がった。

 

「対象の戦力を、手番の終わりまで七つ上げる」

 

数字が、入れ替わった。

 

黄金が、炎を上回った。

 

この手番だけの数字だ。次の手番には、槌は消える。上げた七つも消える。——この一手で決めろという意味でもある。

 

「行け」

 

ヴォルガードが地を蹴った。

 

炎獄王が正面から迎え撃った。二つの巨躯がぶつかって、結界の内側が白く光った。衝撃で灰が一斉に舞い上がり、世界樹の枝がしなって鳴った。

 

槌が、振り下ろされた。

 

炎の羽根が裂けた。差分が津波になって、燎の符叢を直撃する——はずだった。

 

「——灰翼の威圧」

 

燎が伏せていた札を起こした。

 

畳まれていた翼が、初めて開いた。舞い上がった灰が羽根の隙間を埋めて厚みになり、その一枚が槌の一撃を受け止める。木の芯が軋む音がした。

 

「この手番、王は破壊されない。代償に、次の手番は動けねえ」

 

炎獄王が、片脚を折った形で踏みとどまった。裂けた羽根から火の粉が噴き出している。倒れてはいない。

 

「耐えたぞ」燎が言った。歯を食いしばっていた。「一撃で終わると思ったか」

 

「思っていない」

 

手札は、焼かれてからの二手で厚くなっていた。世界樹が手番の頭に落とし続けた分だ。その中に、こういう夜のために入れてある一枚があった。

 

「終了局面。ヴォルガードを霊体化——しない」

 

「あ?」

 

「ユンファ」

 

焼け残った根方に、花冠の鹿巫女が降り立った。角に絡んだ蔦が、淡く光を取り戻していく。

 

「世界樹があるかぎり、この巫女は札を配る。——一枚引き、一枚捨てる」

 

引いた札を、そのまま伏せた。

 

五手目。世界樹が札を落とす。

 

炎獄王は動けない。灰翼の威圧の代償だ。燎の手番は、来て、そのまま過ぎた。

 

「……くそ」

 

「動けない王ほど、大きい的はない」

 

ヴォルガードが二度目の踏み込みに入った。動かない炎の鳥へ、真上から槌が落ちる。

 

灰の翼が、もう一度広がろうとした。

 

広がりきらなかった。

 

「伏せていた札——若葉の縛め。この手番、相手の布石符は起きない」

 

灰が、翼になる前にほどけた。

 

槌が、今度は何にも遮られずに炎獄王の頭へ落ちた。

 

炎の羽根が内側から砕けた。積み上げた十のカウンターごと、王の形が崩れて墓地へ落ちていく。

 

差分が、燎の符叢を直撃した。

 

厚みのあった束が、目に見えて薄くなった。

 

燎の膝が、わずかに折れた。踏みとどまったが、片手を地面についていた。肩で息をしていた。積み上げたカウンターの分だけ、失った時の反動も大きかったのだろう。膨らみきった熱が、行き場を失って消えていく感覚だったに違いない。

 

燎の炎が、消えた。

 

命運が尽きた。

 

────

 

沈黙があった。松明の炎の爆ぜる音だけが残った。

 

風が結界の中を一度だけ吹き抜けて、灰を薄く払った。焼け残った世界樹の枝が、さらさらと乾いた音を立てた。松明の炎だけが、変わらず赤く燃えていた。

 

燎が符叢を手に持ったまま、立ち尽くしていた。

 

「……なんだ、そのデッキは」

 

「第三の符叢だ」

 

「……わかってる。なんで——今まで、隠してた」

 

「使う相手がいなかった」

 

「……その木は、何て名だ」

 

燎が「聞いてどうする」と聞き返した。

 

「知っておきたいだけだ」

 

「世界樹イルミンスル」

 

燎が口の中でその名を繰り返した。覚え込むような繰り返し方だった。二度と忘れないというように、何度も。

 

燎が「——」と口を開いて、閉じた。

 

しばらく黙っていた。積み上げた十を、あいつは残らず使い切っていた。出し惜しみも、取り置きもなかった。それでも足りなかったという事実だけが、灰になって床に敷かれている。

 

燎の拳が、握られたまま震えていた。殴る相手も、燃やす対象も、もうそこにはなかった。

 

「俺は——」

 

「負けた」

 

俺は先に言った。

 

燎が「わかってる」と言った。声が低かった。

 

「澪のことは——俺がどうこう言えることじゃない」

 

「そうだ」

 

「……けど」

 

燎が言葉を切った。しばらく黙っていた。

 

「あいつを、泣かせるなよ」

 

短い忠告だった。命令でも脅しでもなかった。ただの、置き土産のような一言だった。

 

俺は答えなかった。答える必要のあることではない。

 

燎が俺を見た。目に、まだ火が残っていた。それでも、最初にここへ来た時の目とは、どこか違っていた。焼き尽くす熱ではなく、燃え残りに近い熱だった。

 

燎が背を向けた。

 

歩き出した背中に、まだ薄く熱が残っていた。それでも、来た時のような張り詰め方はしていなかった。

 

今度は振り返らなかった。

 

(十まで積んで、届かなかった)

 

炎はまだ、こいつの中にある。だが今夜、あれは一度しか撃てなかった。積むのに手番を使い、出すのに全部くべて、砕かれたら何も残らない。一点に賭ける札は、賭けた一点を外した時に、それまでの全部を持っていく。

 

強い。だが、強さの形が細い。俺は太いものを何本も持っている。それだけの話だ。

 

根を張った世界樹が、夜の結界の中で、静かに光を散らしていた。戦いの余韻の中、松明の火だけが、まだ小さく揺れていた。

 

(誰にも属さないことが、こいつの独立か)

 

風音は、選べることを独立と呼んだ。小夜は、属した先に使い捨てられかけている。俺は——多数を、一つの盤面として運用する側だ。

 

同じ言葉を、四人が別の意味で使っている。どれが正しいかは、知らん。

 

ただ——名前と印だけを恨んで生きてきた男が、あの一枚まで辿り着いた。恨みで積んだにしては、上等な火だった。

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