『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
親符家グループの総当たりは、五日で四試合。間に一日、休養が入る。
符叢は色衣を持ち込んだ。ルクシエルは置いていく。桔白戦で色衣を見せた以上、次に出せば「符侯は陰の札の男」で読みが固まる。固めさせておけばいい。固まった読みは、後で外す時にいちばん効く。
その上で、縛りを置いた。エーデルガルトを実体化させない。着替えだけで勝つ。
切り札は、切れる場でしか切れない。切れない場で戦う稽古は、切れる場では積めない。
初日の霞月家は、家伝の陣が張るまでに三手かかった。翠衣で主力を霊体化し続けて、その三手を永遠に来させなかった。二日目の白峰家は、五分で終わった。符叢が四十枚とも、神符格の一枚を出すためだけに組まれていた。軸が止まれば、何も起きない。
こういう符叢を、この国の連中は「良い符叢」と呼ぶ。値段の話をしているだけだ。
二人とも、負けた理由を聞いてこなかった。聞く発想がないのだろう。引きが悪かったからだと思っている顔だった。
ただ、白峰の当主には一つだけ、気になるところがあった。
負けている間、ほとんど盤面を見ていなかった。視線が観客席を泳いでいた。泳ぐこと自体は珍しくない。負け始めた符士は、大抵どこかへ目を逃がす。
だが、泳ぎ方に規則があった。
西の警備詰所。東の通用口。符帝家観覧席の下の、警備の立ち位置。同じ順で、三度。三度目は、こちらが符叢を削り切る直前だった。自分の命運が尽きようとしている手番に、この男は数え直していた。
(見ているのは試合じゃない)
覚えておくことにした。それ以上は、その時は考えなかった。
三日目は休養日だった。苑子が組んでいた。
────
四日目が玲瓏家だった。
当主代行は二十代の若手だった。名を玲瓏静馬という。向かいに立った時、符叢を持つ手が一度、握り直された。開始前に構えを直す符士は、場数の少ない符士だ。
「玲瓏静馬です。二十四になります」
「知っている」
「当主代行の身で符侯様と当たるのは、本来なら分不相応です。ですが——」
「前置きはいい」
静馬が口を閉じた。素直に閉じた。
審判が開始を告げた。
先手は静馬だった。初期手札七枚。互いの符叢は四十枚。命運は、削られた札の分だけ減っていく。
一手目、静馬が布石を一枚伏せた。それだけで終了を宣言した。
(早い)
一手目に伏せて終わる符士は珍しくない。だが、この男の手つきには迷いがなかった。開始前に符叢を握り直した男が、最初の一手だけは決めてあった。組む前から、初手は決まっていたということだ。
俺の手番。翠衣を選んだ。エーデルガルトの縁取りが緑になる。実体化はしない。縛りは縛りだ。
「着替えだけで来られますか」
静馬が言った。驚いていなかった。
「調べたか」
「桔白様との試合を見ました。……あの試合で、符侯様は色衣を八回替えています。同じ色を二度使ったのは一度だけでした」
数えていたのか。
二手目、静馬が布石をもう一枚伏せた。そして約定を張った。
盤面に、細い光の環が広がった。展開補助の型だ。場に式符が増えるほど恩恵が乗る、ごく一般的な約定だった。市場の棚に並んでいる札で、値は安い。
(——展開してくる)
伏せ二枚に、展開の約定。読める形だった。後続の使役式を並べて数で押す型だ。この約定を先に潰せば、後続は空回りする。
三手目。俺は黒衣に着替えた。
「黒衣。手札破壊」
エーデルガルトの縁取りが黒に変わる。静馬の手札から一枚を落とした。落ちたのは、展開の芯になる使役符だった。
これで約定は空回りする。
静馬の指が、止まった。
止まり方が、遅かった。
驚いた人間の手は、驚いた瞬間に止まる。この男の手は、俺が札を落としてから、半拍置いて止まった。止まる演技をする時間の分だけ。
(——待て)
気づいた時には、伏せていた布石が起きていた。
「布石——共鳴痕」
墓地で、落としたばかりの札が光った。
「墓地に落ちた自分の式符一枚につき、この符の戦力が上がります。……相手が落としたものでも、勘定に入ります」
光が実体を取った。人の背丈ほどの、黒い痕のような形だった。戦力の数字が、墓地の枚数に等しく立ち上がる。
墓地は三枚。戦力三。
低い。今の時点では低い。だが数字の伸びる先が見えた。
「もう一枚、伏せてありましたね」
静馬が二枚目の布石を起こした。
「連鎖痕。共鳴痕が場にある間、こちらの式符が墓地へ落ちるたび、相手の代償に置かれた札を一枚、墓地へ送ります」
代償——実体化のために重ねてある札だ。それを削られるということは、実体化した式符が丸ごと落ちるということでもある。
俺の代償から、二枚が墓地へ落ちた。
盤面の均衡が、ひと息で傾いた。
(こういう手があったか)
見えていた作戦を潰した——その瞬間に、本命が動いた。落とさせた札そのものが起爆符だった。俺が「読み切った」と思った一手が、そのまま向こうの入口だった。
顔を上げると、静馬がこちらを見ていた。
勝ち誇ってはいなかった。むしろ、確かめるような目だった。仕掛けが通ったことより、通った相手が誰かを確かめる目だ。
四手目。切り返しにかかった。
金衣に着替えた。墓地から札を回収する色だ。墓地が減れば共鳴痕の戦力も落ちる——そう組み立てた。
「金衣。墓地から二枚、手札へ」
墓地が五枚から三枚に減る。共鳴痕の戦力が二つ下がった。
「回収されますか」
静馬が言った。想定内の声だった。
「では、こちらも積みます」
静馬が使役符を一枚、代償なしで捨てた。自分の手札から、自分の墓地へ。
「墓地肥やしです。安い札ですが、共鳴痕の数字にはなります」
墓地が四枚。戦力が一つ戻った。
こちらが減らした分を、向こうが自分で積み直す。回収は無駄手だった。
(——読み違えた)
五手目。方針を変えた。共鳴痕そのものを落としにいく。
蒼衣に着替えた。ドロー加速の色だ。手札を厚くして、除去札を掘る。
三枚引いた。除去は来なかった。
代わりに、連鎖痕がまた起きた。静馬が自分の式符を一枚、墓地へ落としたからだ。俺の代償から、また一枚が落ちる。
命運が削れた。四十枚あった符叢が、三十二枚になっていた。
静馬の符叢は三十六枚。四枚の差が付いていた。
(追われている)
この符闘を始めてから、初めて自分の符叢の残りを数えた。
数えて、もう一つ気づいた。
こちらの手札は六枚ある。厚い。蒼衣で掘ったからだ。だが厚いだけで、使える札がない。除去は来ず、手元に残ったのは実体化用の代償に回す札ばかりだった。
その代償を、連鎖痕が毎手番削っていく。
(——手札を厚くしたことが、餌になっている)
厚くした手札は、実体化に使わなければただの紙だ。実体化すれば代償として場に置かれ、連鎖痕の的になる。使っても使わなくても損をする。
静馬が最初に言った通りの盤面だった。妨害しても、しなくても、向こうが得をする。
「符侯様」
静馬が言った。責めるでも煽るでもない、確認するような声だった。
「その手札、どう使われますか」
答えなかった。答えられる形になっていなかった。
六手目。除去を引いた。緋衣に着替える。焼き払う色だ。
「緋衣。共鳴痕を破壊する」
炎が黒い痕を包んだ。
痕が、燃えなかった。
「共鳴痕は、墓地の式符を代償に一度だけ破壊を肩代わりします」
墓地から一枚が消えた。痕は残った。戦力が一つ下がっただけだ。
除去札を一枚、無駄に切った。
静馬が初めて、わずかに前へ出た。
「符侯様。……あと三手で、届きます」
計算を口に出した。虚勢ではない。実際に、向こうの盤面はそこまで来ていた。共鳴痕の戦力は六。連鎖痕が毎手番、俺の代償を削る。三手あれば、削り切られる。
負ける筋が、初めて具体的に見えた。
(——落ち着け)
ここまで、俺は共鳴痕を「強い札」として扱っていた。潰そうとして、潰せずに手を失った。
違う。
共鳴痕は強い札ではない。墓地の枚数に依存する札だ。強さの出所が、盤面ではなく墓地にある。
そして墓地は、俺の手でも増やせる。
七手目。灰衣に着替えた。
「灰衣。早業符を墓地から二枚、符叢の底へ戻す」
自分の墓地を減らす色だ。今まで、この色は資源の再利用にしか使ってこなかった。
「……何を」
「お前の勘定表を、書き換える」
俺の墓地が減った。だが共鳴痕の戦力は変わらない。当然だ。共鳴痕が数えているのは静馬自身の墓地であって、俺の墓地ではない。
これは布石だ。本命は次の色にある。
八手目。白衣。
「白衣。エーデルガルトの戦力を上げる」
上がった。実体化はしていない。霊体のままだ。霊体のエーデルガルトは符士を直接殴れない——だが、霊力での戦闘には出られる。
「霊体戦を仕掛ける」
「……霊体で?」
静馬の声が、初めて揺れた。
共鳴痕は実体化している。実体化した式符は戦力で戦う。霊体の相手には霊力で応じることになるが、共鳴痕の霊力は低い。墓地の枚数で上がるのは戦力だけだ。
戦力六の痕が、霊力二のまま霊体戦の場に引きずり出された。
白衣を着たエーデルガルトの霊力が、それを上回った。
黒い痕が、内側から裂けた。
「——」
静馬が、初めて言葉を失った。
「数える対象を間違えている」
俺は言った。
「墓地を数える札を作ったなら、墓地の数え方だけは相手に渡すな。お前は戦力の勘定を完璧に組んだ。霊力の勘定を、組んでいなかった」
連鎖痕が単独で残った。だが共鳴痕がなければ、連鎖痕は起動しない。俺の代償が削られる流れが、そこで止まった。
九手目。静馬が動いた。
墓地から式符を一枚、場へ戻した。共鳴痕の再展開だ。二枚目を握っていたということでもある。
「まだ入っています。四枚まで入れられますので」
墓地は十一枚に育っている。戻ってきた痕の戦力は十一。さっきの倍近い。
だが、二枚目には代償がない。破壊を肩代わりする札を、一枚目で使い切っている。
「同じ手だ」
白衣のまま、霊体戦を仕掛けた。
戦力十一の痕が、霊力二で応じるしかない。二枚目も裂けた。
「……そうなりますか」
静馬の声に、力がなかった。手札は二枚。符叢は十四枚。盤面には何も残っていない。
十手目。蒼衣で二枚掘った。除去はもう要らない。要るのは打点だ。
十一手目。緋衣。
エーデルガルトが纏った緋の炎が、静馬の空いた場を通り抜けて、符叢そのものを焼いた。
十四枚が、灰になった。
命運が、ゼロになった。
沈黙があった。
俺の符叢は、二十一枚まで減っていた。四十枚から十九枚を失っている。この大会に入ってから、いちばん削られた符闘だった。
「……お強い」
静馬が符叢を伏せて言った。声に悔しさがなかった。それが、この符闘でいちばん気になったことだった。
「あの布石は、家伝か」
「いえ。私が組みました」
「誰に習った」
「習っていません。……家の符叢は、代々の当主が読み合いで勝つ前提で組まれています。私には、その読みがありません。二十四です。踏んだ符闘の数が、違いすぎる」
だろうな、と思った。開始前に手を握り直したのも、それで揃う。
「だから、読み合いにならない形にしました。削られたら、削られた分だけ強くなる。妨害しても、しなくても、こちらが得をします。……読みの要らない盤面なら、私でも組めますので」
札の効果で、経験の差を埋めにきたということだ。
技量が足りないなら、技量の要らない構築にする。当たり前の発想だが、当たり前を実行できる人間は少ない。大抵は、勝てる構築より自分の得意な構築を選ぶ。
そして、この男の符叢には——高い札が一枚も入っていなかった。
思い返せば、初手からそうだった。共鳴痕も、連鎖痕も、俺が削った展開札も、どれも符商の棚に並んでいる安い札だ。玲瓏の蔵には家伝の神符が眠っているはずだが、静馬はそれを一枚も持ってこなかった。持ってこなかったのではない。要らなかったのだ。
「いい組み方だ」
静馬が顔を上げた。
「お前の符叢に、高い札は一枚もなかった。全部、市場で買える札だ。それで俺の手を七つ止めた。今大会で、俺を一番長く止めたのはお前だ」
「……安い符叢で申し訳ありません」
「聞いていなかったのか」
俺は言った。
「褒めている」
静馬の目が、わずかに見開かれた。
「安い札同士が互いを立てて、どこを止めても別のところが機能する。削れば強くなる符を軸に据えたのも、俺に選択肢を渡さないためだろう。四十枚が、全部仕事をしていた」
言いながら、覚えのある感覚だと思った。
初動が来なくても、切り札を失っても、それでも回る形にしておく。どの一枚が欠けても別の経路が残るように、四十枚を組む。安い札しか買えない人間が最初に覚えるのは、その組み方だ。
この男は、誰にも教わらずに、そこへ辿り着いている。二十四で、独りで。
「勘違いするな。次は止まらん」
共鳴痕はもう読めている。同じ手は二度と通らない。この男もそれはわかっているはずだ。わかった上で、次までに別の形を組んでくる。
組んでくるなら、また潰す。それだけの話だ。
「——はい」
静馬が、初めて年相応の顔をした。悔しさと、それより少し多い何かが混じった顔だった。
試合後、苑子が「……緊張しましたか」と聞いた。
「しない」
「私はしました」
「そうか」
苑子が言い淀んだ。言い淀む女ではない。
「……もう一つ、ご報告が。白峰様の件です」
「言え」
「入場記録は、毎日ございます。初日から欠かさず。試合のない日もです。……ただ、どの席で何を見ていたか——誰も、覚えていないのです。記録係も、案内の者も。顔は知っている、毎日見ている、と言うのですが。どこにいたかを聞くと、皆、思い出せないと」
毎日いて、誰の記憶にも残らない。
そういう立ち方を、訓練で身につけた人間がいる。
(——同じだ)
静馬は、潰させるために札を見せた。俺は見えているものを潰しにいって、潰した手そのものを起爆させられた。
白峰は、負けに来ている。負けて、警備の配置を数えて帰っている。
こちらに見えているのは「大会中に不審な動きをする没落符家」だ。見えやすい。潰しやすい。
(潰しやすいものが置いてある時は、潰した先を疑え)
大会参加者という身分は、会場のどこにでも立てる通行証だ。
(参加者に偽装した目が、他にもいる)
苑子を見た。
「白峰は泳がせろ。手を出すな」
「よろしいのですか」
「見えている目を潰すと、見えない目だけが残る」
────
五日目は翠嵐家だった。
今大会の下馬評で三位以内に入る家だ。当主は四十代、落ち着いた展開型。三手目まで付き合って、一手ごとに盤面が硬くなっていくのがわかった。守りの札を一枚置き、その守りを守る札をもう一枚重ねる。三手で、崩すのに五手かかる形ができていた。
(この符闘を長期で戦えば、勝てても二十手)
二十手を戦う体力はある。問題は、二十手のあいだ、こちらの手の内が二十手ぶん見えることだ。決勝トーナメントは明後日から始まる。
読み合いが通じる相手だった。静馬とは逆だ。通じるなら、読ませればいい。
四手目から、組み替えた。
白衣。エーデルガルトの戦力が跳ね上がる。守りを固める相手に、正面から上回る数字をぶつける形だ——と、当主は読んだはずだ。読んだ通りに、守りをもう一枚重ねてきた。
その重ねた瞬間に、翠衣へ着替えた。
上げた戦力は囮だった。狙いは、重ねさせること。重ねた札は場に固まって動けない。動けない主力を、翠衣が霊体化させた。
固めた盤面が、固めたまま、機能を失った。
蒼衣、金衣、緋衣。三連で符叢を削り切った。七手目だった。
「……見事です。まさか、詰めてこられるとは」と翠嵐当主が言った。「長期になれば、こちらのものでしたが」
「だから捨てた」
長く戦う力があることと、長く戦うことは別だ。時間が敵に回る盤面では、時間ごと捨てる。
グループは四戦全勝で抜けた。決勝トーナメントに進む。
────
グループ戦の最終日、会場を出たところで風音がいた。
独立符士枠のブロックは別の会場だ。だが場所が同じ側の出口を使う。
「また会いましたね」
「そうだな」
風音が俺の隣に並んだ。並んでから少し考えた顔をして、それでも歩いてきた。言うかどうかを迷っている歩き方だった。何歩か分の距離を使って、決めたらしい。
「……この間の二択、使いました」
「どっちを」
「遅らせる方です」
風音が、少し得意そうな顔をした。すぐに引っ込めたが、間に合っていなかった。
「三回戦の相手が、私の速さだけを見ていました。実体化の瞬間を狙って除去を構えているのが、構えの形でわかったので——一拍、待ちました。向こうが痺れを切らして先に撃って、空振りして、そこから入りました」
痺れを切らして先に撃つ。今日、俺がやったことだ。
「うまくいったか」
「……うまくいきました」風音が少しだけ声のトーンを落とした。「あの話を聞いていなければ、最速で入っていたと思います。除去に合わせて、そのまま落とされて——そこで終わっていた」
「お前が判断した」
「でも——」
「俺が言っても、お前が使わなければ意味がなかった」
風音が黙った。否定も肯定もしなかった。
屋台が並ぶ通りに出た。焼き鳥の匂いがした。
「何か食うか」
「……おごっていただけますか」
「いいだろう」
風音が串を受け取りながら、「世一さんって——何者なんですか」と言った。
「野良だ」
「嘘くさいです」
「そうだな」
「でも——聞いても教えてくれないんですよね」
「そうだ」
風音が串を一口食った。少しの間、歩きながら黙った。
「……聞かないでおきます」
「そうしろ」
「でも——大会が終わったら教えてもらえますか」
「どうだろうな」
「……意地悪ですね」
「そうか」
風音が「……答えてくれましたね、一つだけ」と言った。
「どれだ」
「意地悪かどうか聞いたら——否定しなかった」
俺は答えなかった。
風音が串の残りを食いながら「明日も会いますか」と聞いた。
「わからない」
「わかったら——また教えてください」
「なぜ」
「……また、聞きたいことがあるので」
「符闘の話か」
風音が少しだけ間を置いた。
「……そうです。符闘の話です」
────
名門符家トーナメントの組み合わせ表が出たのは開会三日前だった。
苑子が持ってきた。
「英稟様と浅葱様が——準決勝で当たる可能性があります」
英稟がいた。符叢の調整をしていた手が止まった。
「……そうですか」
「ブロックが分かれていますが、二人が勝ち進めば準決勝です」
英稟が組み合わせ表を受け取った。一度だけ見た。返した。
「わかりました」
それだけ言った。英稟はそのまま符叢の調整に戻った。ただ、符束を切る手が、いつもより半拍だけ速かった。
────
俺は試合を見ていた。
英稟の初戦、二回戦は問題なかった。甕星を一体、手符を七枚。七耀陣なしの制約の中で、手番管理を徹底して相手の符叢を削った。派手さはなかった。確実だった。
準決勝の当日、英稟の前に来た。
「浅葱の符闘は見ているか」
「……三回戦まで確認しました」
「どう見た」
英稟が少しの間、考えた。
「狐の蘇生ループが本軸です。霊体化で被弾を回避しながら、墓地の狐を手に戻す早業を繰り返して手数を維持する。甕星の手札破壊で狐そのものを墓地に送っても——蘇生手段が複数あるので消耗が追いつかない」
「どう崩す」
「蘇生手段ごと破壊します。墓地から呼ぶ早業を狙って先に手から落とす。甕星の手札破壊を蘇生カードに絞って使えば、ループの根を断てます。ただし——甕星の手符コストが嵩む。終盤の手数が細くなる」
「読んでいるな」
「……以前に当たった相手です」
以前。東境の組み符闘。英稟が浅葱に負けた試合だ。あの結果が、英稟の雌犬化調教のきっかけになった。
「今日は違うか」
英稟が俺を見た。
「違います」
それだけだった。
────
浅葱が先手を取った。狐の式符を展開した。霊峰の眷属——穀国稲荷の狐が二体、場に出た。
英稟は動かなかった。手符を一枚伏せた。甕星を霊体化させた。
「……甕星を最初から引っ込めますか」
浅葱が言った。声に驚きはなかった。読んでいた。
「守りに徹するつもりですか、義姉上」
「いいえ」
英稟が手符を展開した。甕星の手札破壊効果が起動した。浅葱の手から一枚が墓地に落ちた。
浅葱が素早く確認した——落ちたのは、狐の蘇生早業だった。
「……一枚目から狙ってきましたね」
「そうです」
浅葱が次の手を打った。狐が霊体化した。別の早業で蘇生カードを引いた。
英稟が再び手符を使った。甕星の圧力を維持しながら、浅葱の手から二枚目の蘇生カードを落とした。
試合は中盤に入った。
浅葱の場は狐二体のまま変わらなかった。蘇生ループが機能しなくなりつつあった。しかし英稟の甕星も手符コストを使い続けていた。符叢の残りが細くなっていた。
「あの時と似た盤面だ」
浅葱が言った。
「あの時——義姉上が甕星を畳み掛けて来た時に、俺は墓地の狐を蘇生し続けた。義姉上の手符コストが先に尽きました」
「覚えています」
「今回も同じです。義姉上の符叢の残りが俺より少ない」
英稟が答えなかった。
その代わり、手を打った。
甕星を実体化させた。英稟自身の早業を一枚展開した——甕星の戦力を倍加させる速攻型の布石だった。
「っ……」
浅葱が止まった。
これは甕星を畳み掛ける動きではなかった。甕星一体の打点を高め、符叢を削り直接殴りきる短期決戦への切り替えだった。
「手符コストを節約して手数を伸ばすより——一撃で終わらせます」
英稟が言った。
「以前の私なら、この手は選びませんでした。符叢の消耗戦で、じりじり削り合う道を選んだはずです。……世一様なら、たぶん今も、継続戦を選ばれます。手を残しながら詰める——あの方の盤面はそうできている。でも」
英稟が、伏せ符に指を置いた。
「私は、次の一手を残しません。今ここで、勝ち切ります」
観客席で、俺は内心、逆の手を組んでいた。
(俺なら継続だ。伏せを温存して、二手先で詰める)
英稟の手は、俺の手ではなかった。俺の手ではない手で、英稟は勝ちに行っていた。
(——それでいい)
俺の模倣ではない英稟の符闘を、初めて見た。
浅葱の狐が霊体化した。英稟の甕星の攻撃を回避した。
英稟が伏せていた手符を開いた。狐の霊体化を無効にする罠符だ。逃げ場を失った狐が実体化したまま固定され、そこへ甕星の直接攻撃が通った。浅葱の符叢が、残らず削り切れた。
沈黙があった。
「……参りました」
浅葱の声だった。負けに慣れていない声だった。
「義姉上」
「何ですか」
「俺が勝てたのは、あの一度きりです。あの時の義姉上には、届いた」
英稟は答えなかった。
「今日は、同じ人と打っている気がしませんでした。……あれから、何があったんですか」
英稟がしばらく黙った。
「お前に負けた後、しばらく、まともに打てませんでした。甕星が出ても、手が鈍る。……その状態で、毎日打たされました」
「誰に」
英稟は答えなかった。答えずに、符叢を仕舞う手だけが動いた。
「鈍ったまま打って、鈍ったまま負けて、それでも次の日がありました。……逃げ道がなかった、と言えばいいでしょうか。折れる暇を、もらえなかった」
「……それは」
「お前が知る必要のあることではありません」
浅葱が口を閉じた。それから、一度だけ観客席を見上げた。誰の下でそれが行われたのかを、確かめる目だった。
目が合った。浅葱は何も言わなかった。言わずに、英稟へ向き直って頭を下げた。
「……次は、勝ちます」
英稟が一礼を返した。言葉はなかった。そのまま符闘場を出て行った。
浅葱が符叢を抱えたまま、しばらくその場に立っていた。
負けた側が動けなくなる符闘を、英稟は打てるようになったということだ。仕上がっている。決勝で当たるなら、こちらも相応の手を出すことになる。
────
決勝トーナメントの前日夜、英稟が部屋に来た。
「決勝トーナメント——世一様はどこで当たりますか」
「準決勝か決勝だ」
英稟が「そうですか」と言った。表情が動かなかった。
「怯えているか」
「……いいえ」
「本当か」
英稟が俺をまっすぐ見た。
「以前なら怯えていました。でも今は——当たりたいと思っています」
「そうか」
「世一様に勝てるかどうかは——わかりません。でも——一位を取ると言いました。その邪魔になるなら——世一様にも勝たなければなりません」
「そうだな」
英稟が「……お願いがあります」と言った。
「言え」
「当たった時、手を抜かないでください」
「抜かん」
「いいえ」英稟が首を振った。「勝つために手を抜かない、という意味ではありません。……世一様は、私を育てている途中の駒として見ています。浅葱に負けてから、ずっとです。私がどこで折れるか、どこまでなら保つか——測りながら打つはずです」
英稟が一歩、前に出た。
「測らないでください。育てる相手としてではなく、その日に潰す相手として打ってください。……それで潰れるなら、私はその程度です。一位を取ると言った口が、嘘だったというだけのことです」
俺は少しの間、英稟を見た。
「わかった」