『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
灰の炎が、内側から割れた。
炉の唸りが悲鳴のように高く跳ね上がり、それから、ぷつりと止んだ。
「——特殊実体化。焰翼鳳凰」
燎が、育ちきった雛たちをまとめて墓地へ置いた。積み上げた炎育の全てを代償に、手札から、無代償で——それが降りた。
裂け目から噴き上がったのは、灰を含まない、透き通るような橙だった。翼が広がり、広間の天井いっぱいに炎の羽根が満ちた。祭祀殿の焦げた柱間が、初めて赤く照らされる。この空間はこういう技を受け止めるために作られていたのだと、遅れて実感した。旧式の符闘場は、伊達に広くはなかった。
美しかった。認めるしかない。
偽帝式は、この一体を無理に作るための装置に過ぎない。鳳凰そのものは炎鳥のテーマが元から持っていた到達点だ。灰を焚べて焼き急がせた果てに、燎は、あの夜には届かなかった場所へ届いた。届かせたのが本人の意志ではないという、その一点だけが今夜の紛い物だった。
降りた瞬間、鳳凰の目がこちらを向いた。実体化と同時に、相手の使役式を一体、焼き砕く力。狙いは当然、エーデルガルトだ。
降臨の熱で判断が半拍でも溶ければ終わる。溶かさなかった。降りる前から、着替えの手は原符に掛けてあった。条件が揃った時点で、最初に来るものは決まっている。読めている一撃は、どれほど大きくても一撃でしかない。
「黄衣・防御」
黄土色の外套がエーデルガルトを包む。効果の対象にならず、効果では破壊されない。鳳凰の視線が掴む先を失って空を撫で、焼き砕くはずだった力が天井を炙った。焦げた柱間に、新しい焦げ目が一本増えた。
「……躱したか」
燎の声に、わずかな間があった。
(——今のは、読み上げじゃないな)
機械の報告なら、結果だけを言う。無駄撃ちだな、許容の内だ——今夜のこの男はずっとそうだった。躱したか、と問いの形でこちらへ拾うのは、盤を挟んだ相手と喋っていた頃の言い方だ。想定の表の一行目が空振りして、空振りの隙間から、表の外の言葉が一語だけ漏れた。すぐに平坦へ戻ったが、聞き逃す耳は持っていない。
殻に罅が入る音というのは、案外こういう小さな音だ。
続けて鳳凰が翼を引き絞り、正面から突っ込んでくる。効果ではなく、質量と炎の体当たり。黄衣では受け止め切れない重さだ。
宣言から着弾までの、短い隙間。
「白衣」
エーデルガルトの纏いが黄土から白鋼へ裏返る。「ご命令を」と、白鋼の内から静かな声がした。決着の色に替えるたび、いつも同じ声で応える。防ぐ衣から、迎え撃つ衣へ。二色を交互に着替え続けるこの型は、訓練区画では使わなかった。使う必要のある相手が、いなかったからだ。
白鋼の腕が炎の翼を正面から受け、押し返し、翼の付け根を割った。熱と光が弾けて、先に崩れたのは炎だった。鳳凰の巨躯が灰を撒きながら床へ沈み、輪郭が崩れて墓地へ落ちる。天井を満たしていた橙が一気に引いて、祭祀殿がまた暗くなった。
一度目。
「……まだだ」
燎の声は平坦なままだった。読み上げの声で、事実だけを言っている。そして事実、まだだった。
この札を初めて調べた夜から、頭に入れてあった。焰翼鳳凰は、一度砕かれてなお、次の手番の頭で自力で還ってくる。代償もなしに、墓地から。それがこの札の底力であり、最後の切り札だ。一度目の撃破で読みを終える符士から、この札は二度目を奪う。
つまり次の手番の頭で、翼は還る。還るとわかっている一手番——ここからが、今夜の本題だった。
機械を終わらせるだけなら、道は一本の直線だ。還った翼を黄と白の交互で受け、白の窓でもう一度折る。二度目の翼は還らない。そのまま直接叩けば、前借りで薄くなった符叢は数手で尽きる。
だが、それで終わらせる気が失せていた。
選択を放棄した人形を裁定で片付けて、それで何が残る。俺が取り返したいのは機械の敗北届ではなく、あの夜の対戦相手だ。
「なあ、燎。人形の符闘ってのは、見ていて不快なんだよ」
吐き捨てた。返事は期待していない。
符叢は生き様だと、俺は思っている。手札は選べない。引きも選べない。元の世界で俺に配られた手札は、六畳間と借金と、擦り切れるだけの勤めだった。誰かの決めた手順を回すだけの日々——盤面としては、とうに詰んでいた。
それでも俺は、投了しなかった。
理由は一つで、引きを諦めていなかったからだ。この世界の符闘律は、いい規則を一つ持っている。勝敗は命運——符叢が尽きることでしか決まらない。裏を返せば、符叢に一枚でも残っているうちは、盤面がどれほど腐っていても負けはまだ確定していないということだ。次の一枚が何を連れて来るかは、引くまで誰にも分からない。
現に俺は、あの夜、黄金鎖の天使を引き当てた。
財布に千円札が三枚、月の残りが六日という夜に、勘定をやめて掴んだ三パックの、最後の一枚。かつてどれだけ欲しがっても手に入らなかった幻の一枚が、擦り切れた日々のどん底で俺の手に落ちて、箱の底で埃を被っていた符叢を組み直させ、詰んだはずの盤面ごと俺を別の世界へ引きずり出した。諦めなければ、引きから運命を掴むことだってある。俺はその一枚で、現にここに立っている。それが俺にとっての真理で、符闘が生き様だという言葉の中身だ。
符叢の奥で、黄金の気配が小さく揺れた。
選択を取り上げられた符闘は、その真理の正反対だ。俺が一番よく知っていて、一番憎んでいる形——手だけが動いて、選ぶ主体がどこにもいない日々の形を、よりにもよってこの男の符叢でやっている。
(潰すだけでは足りん。選ばせる)
俺の手番。ここで全部組む。
「黒衣」
エーデルガルトの縁取りが黒に変わり、燎の手札が裏返る。三枚。焰迅の一声、低い盾がもう一枚——そして、鳳凰強襲令。見せてもらった。機械の持ち札は、これで全部割れた。
「緋衣」
返す手で纏いを緋に裏返し、場に残った低い盾を焼き払う。直接攻撃の窓が開いた。
「白衣。——通せ」
白鋼の一撃が、遮るもののない燎の正面へ通った。結界が符叢から札を数えて削り、束が目に見えて薄くなる。あと数回も通れば尽きる薄さだ。窓は開いたまま、俺の手数は残ったまま。逃げ道は先に刈り、守り札は数えて潰した。次の手番、還った翼を含めても、機械に読める道はすべて負けへ繋がる。
ただ一枚、あの強襲令を除いて。
還ったばかりの鳳凰は、還ったその手番のあいだ「特殊実体化した鳳凰」だ。強襲令の条件は、次の手番にだけ開く。手札と符叢を追加で削り、戦力を上乗せし、低い盾を素通りする一撃。真っ直ぐ切れば俺は白で迎えて終わらせる。それも機械には読めているから、期待値の表の上であの札は死に札で、切らないし、切れない。合理の答えとしては、それで正しい。
正しくて、つまらない。
あの札が生きる道は一本だけ、着替えの呼吸を外すことだ。黄から白へ、白から黄へ——俺の切り替えには拍があり、その拍を読んで半拍ずらし、衣の裏返る継ぎ目に刃を差し込む。読み合いと度胸だけでできた、期待値の表に載らない一手であり、確率で打つ頭には未来永劫見えない筋だ。
「次の手番で詰む」
宣言してやった。親切ではなく、実況だ。
「返しは一筋だけ残してある。機械には打てん筋だ。……どんな薄い手札にも、探せば道は残っている。符叢が尽きるまで、負けは決まらん。探すのをやめた符闘を、俺は符闘と呼ばん。——選べ、燎」
言い切って、視線だけ左へ流した。餌は仕掛けた。焼ける前に、こちらの獲物を火から下ろしておく。
「ルクシエル。刻限を読め」
「……儀式の予定まで、まだ間があります。ただ——風音さんの符が、温まり始めています。運び手を長く待たせる作りには、なっていません」
左の袋小路では、影の網が狭まり続けていた。
「……もう、鈴は聞きません」
小夜の声が静かに数えている。速度型の手数には底がある。循環で回っているように見えて、脱出専用の布石だけは使うたびに確実に減っていく。小夜は最初からそれだけを数えていた。
(俺のものにする予定の女を、連中の火種で燃やされて堪るか)
伏せてあった二枚を、ここで起こす。
一枚は、エーデルガルトの黄衣の理を紙一枚に写し取る白紙式の補助符。もう一枚は、写した理を指した先へ貼り直す布石。刻印は結界の裁定線に耳を当てて、起動の条件が満ちるのを待っている。札で塞げないのは「隣の符闘」であって、裁定線そのものは四人の共有物だ。共有物に紙を貼るのは、誰の符闘への干渉でもない。
「黄衣」
一瞬だけ纏いを黄土に戻し、白紙の札がその理を写し取る。効果の対象にならない——外套一枚ぶんの理が紙に移り、布石がその紙を、風音の符叢と刻印を繋ぐ読み口へ貼り付けた。
刻印が起動の条件を読みに行く。読みに行った先が、効果の対象に取れない紙になっている。条件は永遠に満ちない。餓える符だ。
「……読み口が、塞がりました」ルクシエルの声に、確かめるような間があった。「刻印が符叢へ手を伸ばして——掴めていません。燃料の道が断たれて、彫りが、冷え始めています」
「解除か」
「起動は、もうできません。残った彫りは……冷え切れば、後から安全に外せます」
(爆符の勘定は、これで帳消しだ)
俺のものは、俺が決めた時に使う。他人の起爆装置には触らせない。
「小夜。袋小路のまま保て。体の命令はまだ生きている。締めるのは俺の合図だ」
「……はい」
視線を正面へ戻す。燎の手番が、来た。
墓地が熱を持ち、鳳凰が灰の中から二度目の翼を広げた。砕けたはずの巨躯が灰を逆さに巻き上げながら組み上がり、羽根の一枚一枚が空中で燃え直して、天井いっぱいの橙が戻ってくる。降臨の瞬間、実体化の目がまた、こちらの盤面を掴みに来た。
「黄衣」
二度目の視線も、空を切らせた。読めている一撃は、二度来ても一撃でしかない。
機械は殴らなかった。読み通りに焰迅の一声で鳳凰の火を積み増し、最も負けの遅い形を選ぶ。正しく——正しく、負けている。強襲令の窓は、この手番の終わりで閉じる。閉じれば、残るのは数手の消化だけだ。
燎の手が、符叢の上で止まった。
手番終了の宣言へ動きかけた指が、止まったまま、震え始めた。
半拍の往復ではなかった。指の付け根から手首まで細かい痙攣が這い上がり、額に汗が浮いた。今夜初めて見る汗だった。命令で縛られた体は、かく理由を消されているから汗をかかない。その体が、いま内側から絞られている。
「……世一様」ルクシエルの声が揺れた。「刻印が——軋んでいます。中から、押されて」
騒ぐな、と目で答えた。
これは救出ではなく符闘だ。詰みの盤面に返しの一手が見えてしまった打ち手は打たずにいられない生き物で、その衝動は洗脳ごときで塞げるものではない。
機械は、それでも手順を進めようとした。
手番終了の宣言。口が開き——閉じた。開いて、また閉じた。宣言の言葉が、喉の途中で堰き止められている。命令は「続行」を出し続けているはずだが、その中身がもう選べない。全ての選択肢が負けに繋がる表を前に、期待値の機械は最も遅い負けを選ぼうとし、その手をもう一つの何かが掴んで離さない。
指が、手札に触れた。
離れ、また触れた。命令が引き戻し、何かが押し返す。祭祀殿の静けさの中で、紙が指の腹に擦れる音だけが二度、三度と続いた。汗が顎の線を伝って、灰の床に落ちた。
「……ちが、う……だろ……」
声が、出た。
掠れて、ひび割れて、ほとんど息だけの声。だが読み上げの平坦さは、そこになかった。
「そこ、じゃ……ねえ……」
首筋の赤い紋様が明滅の周期を乱した。速く、不規則に、警報のように。刻印が締め直しに掛かり、締め直される端から盤面が男を引き摺り出していく。俺は動かなかった。手を貸す気もなければ、貸せる手もない。これはこいつが、こいつの好きなもので自分の頭を取り返す局面だ。
燎の目が、盤面を舐めた。
焦点が、合った。
鳳凰。盾の残骸。エーデルガルトの纏い。自分の手札。自分の符叢の薄さ。一つずつ順番に、値踏みの目が走っていく。あの夜と同じ、腹の立つほど速い読み手の目だった。
「……くそっ……」
歯の間から、絞り出すような声がした。
「この局面……この手札からでも……まだ、通る筋が、あるのか……!?」
それは悲鳴ではなかった。没頭だった。
「答えは自分で出せ。教えたら符闘にならん」
燎の指が、手札の一枚を掴んだ。
迷いのない掴み方ではなかった。震えて、汗で滑って、二度目でようやく指が掛かった。それでも——選んだのは本人だった。期待値の表を破り捨てた位置にある、一枚だった。
首筋の赤い光が、一際強く燃え上がり——
弾けるように、掠れた。
「……世一様、刻印が——燃えて、います。外からではなく、内側から。あの方の熱で、彫りが焼き切れて——」
知ったことか。符闘の途中だ。
燎の口の端が、引き攣るように持ち上がった。笑おうとして、笑い方を思い出している途中の顔だった。
その手が、札を高く掲げた。