『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
戸の開く音で目が覚めた。
熱は引いていなかった。天井が近いのか遠いのか、しばらく判断がつかない。右肩から先が、自分の腕という感じがしない。枕元でルクシエルが手を当てていた。実体化したまま、たぶん夜通しそこにいたのだろう。目の縁が赤い。
「……お目覚めですか」
「今、何時だ」
「日が傾いています。表彰式は、先ほど終わったと」
戸口に英稟が立っていた。軍服のまま、まだ会場から戻ったばかりの姿だった。襟元に灰の匂いが残っていない代わりに、汗の乾いた跡がある。表の符闘は火薬も灰も使わない。使わないまま、人の体力だけを削って終わる。手に符を一枚持っている。優勝者に授けられる符——大符闘祭の一位が、家格の記録として符の形で渡される。星宮の家に、何十年ぶりかで戻る一枚だ。
英稟が寝台の脇まで来て、それを俺の目の高さに掲げた。
「取りました」
「見せろ」
受け取ろうとして、指が動かなかった。英稟が察して、俺の見える位置で符を止めた。意匠を確かめる。偽りのない、帝国の一位だ。
「上出来だ」
「……はい」
英稟の背筋が、そこで初めて緩んだ。緩んでから、自分が緩んだことに気づいて、また伸びた。壇上で一位の符を受け取って、そのまま会場を出て、宿までの道を軍服のまま歩いてきた女の背中だ。祝いの席にも顔を出していないだろう。
「宵月は」
「決勝で当たりました。封陣で甕星の力を半分に落とされましたので——その甕星を囮に使って、封陣ごと上書きしました」
「危ない橋だな」
「はい。長引けば負けていました。ですので、長引かせませんでした」
俺の手ではない。継続戦で二手先を詰めるのが俺の型で、この女はもう俺の型を写さない。あの夜「測らないでください」と言った女が、自分の呼吸で勝ち切って帰ってきた。
「これで家格は守れます。星宮は、当分は誰にも削らせません」
「そうだな」
それだけ言った。俺の出るはずだった席で、俺の駒が帝国の表を獲った。帳簿の上では、俺が取った一位と同じ欄に入る。悪い気分ではない。
英稟が符を胸に抱えたまま、寝台の脇に膝をついた。
「……昨夜、何があったのかは、聞きません」
「そうしろ」
「ただ——世一様が棄権なさるほどのことが、昨夜あった。それだけは、わかっています」
苑子は何も言わなかったはずだ。この女は、俺の予定と体を天秤にかけて、後者が勝った日を、それだけで嗅ぎつける。
「余計なことを考えるな」
「はい。……ですので、ここからは、余計なことを申し上げます」
一度言葉を切って、英稟が符を持ち直した。
英稟が顔を上げた。
「当主としての務めは、今日で果たしました。ここからは妻として申し上げます。……早く、治ってください。それだけです」
「それだけか」
「それだけです。……ほかは、治ってから伺います」
治ってから伺う、の中身は聞かなくてもわかる。この女が次に欲しがるのは俺の席だ。あの夜「その日に潰す相手として打ってください」と言った女が、一位の符を持って戻ってきて、殊勝に治れとだけ言って引き下がる。狙いを隠しもせず、それでいて急かしもしない。
いい女だ、と思った。手駒の出来を測る時の頭とは、別の場所でそう思っていた。
「……英稟」
「はい」
「その符は、星宮の蔵にしまうな。当分、手元に置いておけ」
「……よろしいのですか」
「一位の符を持った女が俺の隣に立っているというのは、それだけで交渉の札になる。……それと、次に当たる時は、手を抜かん」
英稟の目が、わずかに開いた。それから、深く頭を下げた。
「——お待ちしています」
────
英稟が下がった後、部屋の隅で小さな光が二つ、三つと散った。
「使役主様、お加減はいかがですかっ♡」
「お水、持ってきました♡ 冷たいの、飲めますか?」
剣兵と弓兵が、いつの間にか枕元に並んでいた。呼んだ覚えはない。陽の気が弱っているのを符叢の中から感じて、勝手に出てきたのだろう。誰も止めていないところを見ると、ルクシエルが黙認したらしい。
「冷やした布を、替えます♡」
「肩、痛いですか? 私、風を送りますね♡」
弓兵の一人が翼を小さく煽いで、額のあたりに風を作った。加減がわからないらしく、最初の一煽ぎで前髪が乱れた。
「強い」
「ごっ、ごめんなさい♡」
慌てて弱くする。今度は届かない。三度目でようやく、ちょうどよくなった。
騒がしい。だが、悪くない騒がしさだった。符叢の中で長く共にいた連中は、こういう時に理屈抜きで出てくる。使い勝手を測る対象ですらない、ただの騒がしい所有物だ。
「使役主様、痛いところ、他にありませんか♡」
「ない」
「じゃあ、手、握っててもいいですか♡」
「好きにしろ」
歓声が上がって、動く方の左手に三人分の小さな手が重なった。重ねる順番で軽く揉めていた。
ルクシエルは、その間ずっと右肩に手を当てたまま、何も言わなかった。
「何がだ」
「熱が、下がりません。……傷は塞ぎました。ですが、体の芯の焼けは、私の力では追いつかなくて」
「鳳凰の火だぞ。塞いだだけで十分だ」
「……はい」
そう答えて、なお手を離さない。俺の右肩に当てた掌から、薄い光が絶え間なく流れ込んでくる。
「一晩中それをやっていたのか」
「原符に戻れば、力は満ちます。ですので——夜のうちに二度、戻りました」
戻る、というのは札に沈むということだ。実体を解いて、紙の中で力を汲み直して、また出てくる。人の眠りとは仕組みが違う。疲れて倒れる体を持たない代わりに、この女は出たり入ったりを一晩に二度繰り返した。
「二度も沈んだのか」
「……はい。三度目は、まだ要りません」
要らない、ではなく、まだ要らない。訊けば正直に答える。訊かなければ黙って三度目に沈むのだろう。
「……昨夜の符闘のことを、一つだけ申し上げても」
「言え」
「昨夜の、八色の回しです。着替えの命令は、世一様の気を一本の道にして札へ通ります。火と水、陽と陰——性質の違う理を同じ道に交互に流すのですから、本当は一色ごとに、道を慣らす間が要るのです。昨夜のあの速さは、その間を全部捨てた速さでした」
「勝ち筋がそこにしかなかった」
「存じております。ですから、勝てました。……それでも、二度と使わないでいただきたいのです。今の熱は、慣らしを捨てた道が焼けた——その代金です」
「褒めているのか、禁じているのか」
「両方です。両方が、本心ですので」
千年ものの女は、物言いまで千年ぶんの厚みがある。
「覚えておく。……使う場面が来たら、また使うがな」
「存じております。ですので、先に申し上げました」
言ってから、掌の光を少し強めた。抗議の仕方まで、この女は静かだ。
その光が強まったあたりで、左手を握っていた三人が、そろそろと顔を上げた。
「……あの」
「……私たち、そろそろ」
「お水、置いておきますね♡」
言い終わる前に、六つの小さな光が一斉に符叢へ吸い込まれていった。逃げ足だけは剣兵より弓兵の方が速い。ルクシエルは何も言っていない。目も向けていない。それでも空気の重心だけで察したらしい。下級とはいえ天軍だ。上官の機嫌の読み方だけは、体に入っている。
部屋が、急に静かになった。
左手なら動く。伸ばして、俺の肩に置かれた手の甲を撫でた。それから指を上げて、金糸の髪を耳の後ろへ流してやる。
ルクシエルの肩が、小さく跳ねた。
「……世一様。今は、治療中です」
「片手が空いている。遊ばせておく理由がない」
「……そういう、ことでは」
言いながら、耳の縁が赤くなっていた。それでも右肩に当てた掌は動かさない。務めと羞恥が両立していて、どちらも譲る気がないらしい。指の腹で耳朶を挟むと、光がわずかに揺れた。
「揺れたぞ」
「……申し訳、ありません」
「謝る場面じゃない」
もう一度撫でて、手を止めた。これ以上続ければ治療にならん。夜通し二度も沈んだ女に、三度目を出させる趣味はなかった。
天井を見た。腕の感覚は戻らない。だが焦っても指は動かない。動かないものは動かないと帳面に書いて、次を数える。それだけの話だ。
「風音は」
「隣の部屋です。まだ眠っています。刻印の跡は、痕だけになりました。命に関わるものは、何も残っていません」
「そうか」
「……起きられたら、いろいろ、お聞きになると思います」
「だろうな」
騒がせておけばいい。抗議で始まる交渉を、終わる頃には本人が居場所を欲しがっている取引に変える。それが交渉というものだ。ただし今日は指が動かん。卓に着くのは、腕が戻ってからでいい。
────
風音が目を覚ましたのは翌朝で、その日のうちに苑子から報告が上がった。
「まず、ご自分の体を確かめておられました。それから、ここはどこか、と」
「順番が符士だな」
「はい。……その後、なぜ助けられたのか、と聞かれました。答えられる範囲でお答えしました。神廟の近くで倒れていたところを、世一様がお連れになった、と」
「符侯だと言ったか」
「名を申し上げましたら、ご自分で気づかれました」
そうだろう。屋台で串を売る相手が符侯だとは思わない。名を聞いて、はじめて像が結ぶ。
「反応は」
苑子が少し間を置いた。
「……しばらく黙っておられました。それから一言だけ、『あの人が』と」
独立符士は符侯を恨むように出来ている。登録料を倍にしたのも、枠を締めたのも、貴族の側の都合だ。風音は制度と戦うつもりで大会に出た女で、その制度の頂点にいる男から助けられた。矜持の骨が一本、折れる音がしたはずだ。
屋台で聞いた話を覚えている。勝てば名前が残る、後に続く者の扱いが少しは変わる——そういう理屈で、倍になった登録料を払って出てきた女だ。その大会は棄権の二文字で消され、消した連中に運ばれて、貴族に拾われた。自分の名前で仕事を取ると言った女にとって、これ以上ない皮肉な結末だろう。
折れた骨は、こちらで継げばいい。継いだ骨は、継いだ側の形になる。
「世一様が怪我をしたか、と聞かれました。……お答えしませんでした」
「それでいい」
答えなければ、答えたのと同じになる。わかっていて黙ったのだろう。この女はそういう黙り方をする。
「登録の件は」
「まだ申し上げていません。……お伝えすれば、間違いなく、こちらへ来られます」
「起きてすぐに歩かせるな。三日は寝かせておけ」
「承知しました。……食は、細いです。水は取られました」
「符叢は」
「枕元に置いてあります。目を覚まして最初に手を伸ばされたのが、それでした」
符士だ。体より先に四十枚を確かめる。
「返してやれ。取り上げていると思われるのが一番面倒だ。……刻印の跡のことは、俺から話す。他の者から聞かせるな」
「はい」
三日あれば、俺の指も少しは戻る。交渉は、両方が立てるようになってからでいい。
────
表彰式のことを聞いたのは、その日の夕方だった。
「滞りなく終わりましてございます」と苑子が言った。「英稟様が一位の符をお受けになり、慣例通り、優勝者の要求を問われました」
優勝者は符帝家へ一つだけ要求を申し立てられる。私的な願いを述べる場ではない。観客と諸家の代表と官吏が居並ぶ前で述べる、公の要求だ。慣例では家格の追加か領地の便宜あたりに落ち着く。俺が出る予定だったなら、遠海の交易権の一つでも取っていた。
「英稟は何を要求した」
「家格の件かと、皆が思っておりました」
「思っていた、か。……外したな」
「はい」
苑子の返事に、含みがあった。この女が結論を先に言わない時は、結論の方が重い時だ。
「言え」
「『帝国神廟の封印状態と、先夜の警備配置。大会参加者登録の改竄。符帝名義で出された、相矛盾する二つの命令書。これらについて、星宮家立会いのもとで正式な調査を行うことを求めます』——と」
熱で鈍っていた頭が、そこだけ急に冴えた。
「……その通りに言ったのか。言葉を変えずに」
「はい。私の耳が覚えている限り、一言も違えておりません」
「官吏は止めなかったのか」
「大会の要求としてはいささか、と申しかけました。英稟様が最後まで言わせずに——慣例に要求の内容を問う定めはない、優勝者は一つの要求を申し立てられる、私は申し立てた、この場の皆が聞いた、と」
「受理されたな」
「はい。取り下げの求めもございません。諸家の代表が、残らず聞いておりましたので」
昨夜のことは何も聞かないと、あの女は言った。実際、聞かなかった。聞かないまま、俺の裏の一夜を、公の場で丸ごと守れる形に組み替えて帰ってきた。
神廟の一件を隠蔽させない。俺の侵入を、ただの不法侵入として処理させない。風音を犯罪者として始末する道を塞ぐ。偽造の棄権届を公の問題に引き上げる。符帝印の矛盾した命令を、調査の対象に据える。
一位の要求は一つきりだ。その一つを、あの女は自分の家のためには使わなかった。
(……なるほどな)
苑子が「いかがなさいますか」と聞いた。手を打つ必要があるなら今夜のうちに、という顔だった。
「何も要らん。もう終わっている」
「……よろしいのですか」
「あれ以上の手はない。俺が同じ場に立っていても、あの要求は思いつかん。……あの場に立っていたのは英稟で、要求を持っていたのも英稟だ。俺の指図が入っていないから効くんだ」
大勢の前で公に述べられた要求は、握り潰せない。符帝が政から遠ざけられていようが、官僚や外戚がこの件を伏せたかろうが、諸家の代表が耳で聞いた事実だけは消えない。表の盤で取った一位が、裏の盤の後始末を、そのまま政治的に片付けていた。
表と裏が、別々に決着して、互いを支えている。
俺が組んだ形ではない。俺の駒が、自分の判断で組んだ形だ。
(——手を抜かん、と言ったのは正解だったな)
次に卓を挟む時、あの女は俺の想定した通りには打ってこない。そういう符士に育った。育てたのは俺だが、育ち切った先までは俺の設計ではない。
悪くない。実に、悪くない。
今夜の帳簿を締める。
一位は取った。星宮の家格は当分安泰で、一位の符は俺の隣に置いてある。神廟の一件は、握り潰されない場所へ引き上げられた。燎は目を覚まして次の約束を置いていき、風音は隣の部屋で息をしている。連中の企ては、封印の一層も破らせずに空振りに終わった。
払ったのは右腕一本ぶんの時間と、決勝の席が一つ。
(釣りが来すぎだ)
腕が戻ったら、まず英稟と打つ。決めておいて、目を閉じた。