『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
出立の朝だった。
荷をまとめ終えて、あとは馬を出すだけという段になったところで苑子が部屋に入ってきた。
「……世一様。お客様がいらしています」
「誰だ」
「お名前は——明かせないとおっしゃっています。ただ、『符侯・世一様に直接お目通りを』と」
「何人だ」
苑子が「二人です」と答えた。「一人は男の方。もう一人は——小柄な方です。顔を隠していらっしゃいます」
怪しさで言えば満点だった。名を明かせない客が二人、出立の朝を狙いすまして戸を叩いている。
だが、殺しに来る連中は目通りを願い出ない。神廟の連中のやり口は偽造と裏口で、正面から戸を叩くのはそもそも殺しの筋ではない。名を明かせないというのは、明かせば騒ぎになる名だということだ。そして先日、俺の手元には「ご意向」とだけ書かれた紙が届いている。差出人の顔が見えない借りを、俺は一つ抱えたままだった。
(取り立てか、顔見せか。……どちらにせよ、会って損のない客だ)
「英稟を呼べ。他は下がらせろ」
人払いは礼儀ではなく保険だ。読みが外れて刃物の類が出ても、英稟が一人いれば盤面は足りる。
英稟と苑子だけを残して、俺は客を通した。
先に入ってきたのは、四十がらみの男だった。黒い装束。腰に符叢を下げている。動きが洗練されていた——長い実戦の経験がある立ち方だ。
男が膝をついた。
「お目通り、感謝いたします。私は——近侍を務めております」
名は名乗らなかった。
名乗らないのではなく、名乗れないのだろう。家名を伏せて役職だけ、それも「近侍」とだけ言う。誰に近侍しているのかを言わずに済ませて、それで話が通ると踏んでいる名乗り方だ。この帝国でそれが通る主は一人しかいない。政変中の帝都で、名を伏せた小柄な連れ。客の出所は、ほぼ割れた。
「連れがいるな」
「はい」
「呼べ」
扉の外に、ずっと気配があった。
間があった。
扉がゆっくりと開いた。
深めに被った外套。身の丈は英稟より低い。体の細さが布越しにわかった。
人影が室内に足を踏み入れた。
——その瞬間、止まった。
俺の陽の気に触れたのだとすぐにわかった。
外套の内側で、人影の呼吸が変わった。吸う息が浅くなった。吐く息が熱を帯びた。唇が少し開いたまま、次の言葉が出てこない。
「外套を取れ」
「……っ、は——」
短い声が漏れた。それでも人影はゆっくりと外套を外した。
夜目にも淡い、白に近い髪。細い首。白い肌。年は十五、六か——それより幼く見えた。
顔が赤かった。
息を整えようとして、できていない。目を合わせようとして、直視できていない。胸が小さく速く上下していた。
これは緊張ではない。
帝宮の奥で生きてきた身体が、生きた雄の陽の気というものを知らない。それが空気を通じて流れ込んできて——処理できていない。
「……す、みません。少し——なにか、熱くて」
「そうか」
「部屋が——そういうわけでは、ないとは、思うのですが——」
空夜が口を閉じた。自分でも何が起きているかわかっていない顔をしていた。
近侍が低い声で言った。「こちらが——符帝陛下にあらせられます」
英稟が気配を変えた。苑子の息が止まった。二人の膝が落ちるより先に、俺は言った。
「よせ。ここで拝礼をしたら、素性を触れ回るのと同じだ」
それから、目の前の娘を見た。
「俺はお前を符帝としては扱わん。この部屋にいる間から、もうただの娘だ。……不服か」
空夜は首を横に振った。振ってから少し迷って、口を開いた。
「……では、私も。……世一様と——呼ばせていただいて、よいですか」
符帝が臣下に様をつける。帝宮なら誰かが卒倒する言い方だ。それをこの娘は自分から選んだ。
「好きにしろ」
「は——い」
声がまだ乱れていた。
空夜が俺から視線を外した。外そうとして、また引き戻された。引き戻されてから、また逸らした。それを三度繰り返して、ようやく俺の肩の少し下あたりに視線を落ち着けた。
近侍が話した。
「帝都では現在、廃位派が動いています。紅炉家を中心とした符家連合が——符帝陛下の廃位を宣して、皇宮内外の要所を抑えにかかっています」
「外戚と宰相は」
「対抗しています。しかし均衡は長くもちません。陛下の御身が——最大の焦点となっています」
「一つ、確かめる」
俺は空夜を見た。
「大符闘祭のことをどこまで知っていた」
空夜が少し困った顔をした。
「……大符闘祭が開かれていたことは、存じています。ですが——誰が出場し、誰が勝ったのかは、今日まで教えられていませんでした」
「星宮家の格付け条件を決めたのは、お前か」
「……いいえ。格付けの文書に私が目を通したことはありません」
「俺に『退け』と伝えさせたのは」
空夜がまばたきをした。
「……そのような伝言を出した覚えはありません。世一様というお名前を私が知ったのは——今日、この部屋に入ってからです」
近侍が低い声で補った。
「符帝印は、帝宮の印璽方と、外戚の家から出た管理役が握っております。陛下の御裁可を仰がずとも、『符帝命令』として処理される文書が日に数百。神廟警備の異動命令も——陛下はご存知ありませんでした。優勝者要求の内容すら、まだ届いておりません」
(そういうことか)
大会中に俺が対峙していたのは空夜本人ではなかった。空夜の名義を使って帝国を動かしていた複数の手だった。符帝という名前と印だけが独り歩きして、本人の声は帝宮の奥に遮断されていた。
無力なのではない。無能なのでもない。情報を断たれ、制度に隔離されていた。それだけだった。
「……私は」空夜が膝の上で手を握った。「私の名前でたくさんのことが決められていたと、今、知りました。……何が私の意思で、何が違うのか——私自身、わからなくなっています」
近侍の目が静かだった。感情を押さえ込んでいる目だ。
「遠見にお連れしたい。符侯の独立した権限のもとで、しばらく御身をお守りいただきたい」
「なぜ遠見だ」
「世一様は——神廟の一件で、陛下にとって信頼できる数少ない方のお一人です。また遠見は帝都から遠く、外の勢力が手を出しにくい。廃位派の手が届く前に、まず御身の安全を確保することが先決です」
英稟が「……判断は世一様に」と言った。表情を変えずに。
俺は空夜を見た。
空夜が再び視線を引き戻された。今度はこらえて、目を合わせた。ほんの少しだが、頬の赤みが深くなった。
「……遠見に行かせていただけますか」
「お前が決めることか」
「……私が——決めることです」
呼吸は乱れたままだったが、声の芯は通っていた。
「政変が起きているのに、私が帝都を出て良いのかどうか——わかりません。でも近侍が言うには、ここを出なければ利用されるだけだと。私には——符闘で守れるほどの強さがありません。自分では——」
空夜が口を閉じた。
「わかった」
近侍が「よろしいのですか」と顔を上げた。
「連れていく。ただし条件がある」
「……はい」
「素性を外に漏らすな。他の者には身寄りをなくした書記見習いの少女として通す」
近侍が「それで構いません。むしろ——」と頭を下げた。「……その方がよろしゅうございます」
「名は」俺は空夜に言った。「今日から栞だ」
空夜が「……しおり」と繰り返した。
「不満か」
「いいえ——」空夜が小さく首を振った。「……栞と、呼んでいただけるのですね」
「そうだ」
空夜が「……はい」と言った。どういうわけか、また頬が赤くなった。
「苑子」
「はい」
「馬を一頭増やせ。荷はそのままでいい。風音と小夜に——同行者が増えると伝えろ」
「承知しました」
苑子が下がった。英稟が静かに近侍の方を向いた。二人が低い声で話し始めた。
空夜は部屋の端に立っていた。
英稟と近侍のやりとりを目で追いながら、居場所を決めかねている様子だった。俺が荷の確認に動くたびに、空夜の視線が追いかけてきた。追いかけてきて、気づいて逸らした。
「……世一様」
「なんだ」
「……遠見は、どんなところですか」
「山に囲まれた盆地だ」
「帝都とは違いますか」
「全然違う」
空夜が「そうですか」と言った。少しの間があってから、「……楽しみです」と続けた。
どういう顔で言えばいいのかわからないという様子だった。楽しみという言葉が自分に許されるかどうかも測りかねているようだった。
「怖いか」
「……少し」
「慣れる」
「……はい」
部屋を出た。廊下に出たところで風音がいた。
俺を見た。俺の後ろの近侍と空夜を見た。空夜を一瞬長く見て、何かを聞きかけて止めた。
「……出立の準備ができています」
「わかった。こちらも行く」
「……同行者が増えるとは聞きました」
「ああ。栞だ。書記の見習い。しばらく連れていく」
風音が空夜を見た。空夜が風音を見て、小さく会釈した。
「……よろしくお願いします」
「千歳風音です。独立符士で、風の符を使います。……道中の護りは、私と小夜が持ちます」
風音が俺を見た。何も聞かなかった。聞きたいことは山ほどある顔で、それを全部、出立の後ろに並べた顔だった。
門前に馬が揃えてあった。小夜が馬列のそばに立っていて、俺と空夜が出てくるのを見て、「また増えましたね」と言った。
「そうだ」
「……何者ですか」
「書記の見習いだ」
小夜が空夜を頭から足まで見た。それから「小夜です。耳と足を担当してます。……道が塞がったら、私についてきてください。逃げ道を見つけるのは得意なので」と言った。
空夜が「……はい」と答えた。名乗られるとは思っていなかった顔だった。
小夜は、それ以上は聞かなかった。世一が名を伏せた娘の素性を詮索しない程度には、この稼業の作法を知っている。
北の空に、また煙が一筋増えていた。馬に乗るとき、俺が手を貸した。
空夜の細い手首を取った瞬間、空夜が止まった。
全身が止まった。
皮膚を通じて陽の気が流れ込んだのだ。手首一本でも直接触れると跳ね上がりが違う。空夜の呼吸が一度完全に止まって、それから浅く再開した。
「……っ」
「乗れるか」
「は——い」
声が出なかった。喉から息が漏れただけだった。
それでも空夜は馬に乗った。鞍の上で背筋を伸ばして、膝の震えを止めようとしていた。
隣に近侍が馬を寄せた。空夜の体がわずかに落ち着いた。
俺は馬を進めた。
発って間もなく振り返ると、帝都の北に黒い煙が細く上がっていた。
空夜が煙を見ていた。見ながら何も言わなかった。
「……私のせいですか」
「違う」
「でも——」
「火をつけたのはお前じゃない」
空夜が黙った。
「ただ、勘違いするな。お前のせいじゃないことと、お前に関係ないことは別だ」
空夜が顔を上げた。
「あの火はお前の名前を使って起きた。お前が知らないところで、お前の印で動いた者たちが起こした。……いつか空夜として帝都に戻る時、あの火のうちどれを自分の名で消すのか——それはお前が決めなきゃならん。今じゃない。だが逃げ切れる問いでもない」
空夜が煙をもう一度見た。
「……はい。……いつか、自分の名前で」
小さいが、はっきりした声だった。
しばらく馬を並べてから、「……遠見に着いたら——何をすればよいですか」と聞いた。
「書記の見習いだ。それらしくしていろ」
「……それらしく」
「それと、符闘を覚えろ。遠見は符侯領だ。札に触れない者の方が、かえって浮く」
「……私が、符闘を」
「符帝としては扱わんと言ったはずだ。お前は栞で、栞は遠見の書記見習いだ。あそこの書記見習いは、札くらい触る」
空夜がしばらく黙った。
「……宮でも、習いはしました。ただ——勝ちに行く符闘は、一度もしたことがありません」
「ここから先は、打つ側だ」
空夜が手綱を握り直した。手綱の握り方ひとつまだ覚束ない手が、それでも言葉の意味だけは取りこぼさずに掴んだのがわかった。
「……はい」
小さいが、返事に芯が入っていた。それから独り言のように付け足した。
「……あなたは当たり前のように、明日のことを決めてしまうのですね。……少し、怖い方です」
「そうか」
「でも——怖いだけじゃ、ないような気も——します」
「寝ぼけているのか」
「……え」
「朝から陽の気に当てられれば、そういう気分になる。慣れたら消える」
空夜の顔がまた一段赤くなった。
「……そういうことを——平然と、おっしゃるのですね」
「事実だ」
空夜が「……はい」と言った。俯いた。
(しばらくは落ち着ける——そのつもりだった)
英稟の湯船の言葉が戻ってきた。「遠見に帰ったら——落ち着けますね」。俺は「しばらくはな」と答えた。
楽観だった。そう断じる材料は、この時はまだ北の空の煙一筋しかなかったが。
世の動きは俺が帝都を出る前から動いていた。
遠見に何が来るかも、もう決まっていた。
後ろで馬を並べていた英稟が、俺の視線の先を追って、同じ煙を見た。何も言わなかった。言わないまま、馬の位置を半歩だけ栞の側へ寄せた。守りの位置だった。指示はしていない。この女はもう、俺の盤の読み方で自分の位置を決める。
帝都の北の煙が、もう一筋増えた。
俺は目を向けなかった。
見るべきものは前にある。動かない右腕と、増えた同行者と、これから帰る家。帝都の火は、帝都に残した連中の盤面だ。俺の盤面は、東の山の中にある。
遠見への道を、馬が進んだ。