『神符大戦 ──世界大会決勝で負けて底辺に堕ちた男、TCGの勝敗が全てを決める異世界で美少女達を調教しながら盤面制圧を目指す──』 作:シキセ
玄関を上がると、廊下の奥から足音がした。
冬子が奥の間から出てきた。朔を抱いていた。生まれてから二月半。赤子らしい重みが出てきた顔をしていた。
冬子が俺を見た。肩を見た。
視線が、吊った腕から晒しへ、晒しから顔へ、順に動いた。星読みの女だ。この距離でも、こちらの気の乱れくらいは読める。読んだ上で、口に出すのは違うことだった。
「……お帰りなさいませ」
声は静かだった。
「ただいま」
冬子が朔を俺の方へ少し持ち上げた。
「朔。父上がお帰りになりました」
朔が俺を見た。見て、口をもごもごさせた。
俺は左手の指を一本差し出した。朔が握った。細い指だった。二月半で、握る力がついている。出立の日は、指に触れるだけで握り返せなかった。
抱いてやろうとして、やめた。片腕では受け止め損ねる。
冬子がそれを見て、朔を抱き直した。
「……もう少しお怪我が治りましたら、抱いていただきます。それまでは、私が抱いております」
責める言い方ではなかった。段取りを述べる声だった。
「そうしろ」
「はい」
冬子が朔の頬に自分の頬を寄せた。それから、一度だけ、俺の右肩を見た。
「……星が、乱れておりました」
「いつだ」
「十日ほど前の、夜半でございます。……そのあたりから、読めない日が続きました」
神廟の夜だ。この女は、山の中から、それを見ていたことになる。
「読めない日は、どうしていた」
「朔を抱いておりました。……それしか、できませんでしたので」
それきり、冬子は何も聞かなかった。
代わりに、腕の中の朔を少し揺すった。赤子は父の指を握ったまま、まだ離さない。
「……この子は、あの夜、よく泣きました」
「星のせいか」
「わかりません。……ただ、泣き止んだのが、明け方でした」
明け方。祭祀殿を出て、宿へ戻った頃だ。偶然だろう。偶然だと思っておく方が、都合がいい。
冬子はそれ以上言わなかった。言わずに、朔の手を俺の指からそっと外して、抱き直した。
「お食事に、いたしましょう。……皆様、長旅でしょうから」
────
雪が廊下を歩いてきた。走りかけて、途中で歩きに直した足取りだった。
「……世一さん」
「ああ」
雪が俺の肩を見て、唇を一度結んだ。
「……ちゃんと帰ってきた」
「そうだ」
雪が「……そうだ、じゃないですよ」と言った。声が少し震えていた。怒っているのか安堵しているのか、自分でも判断がついていない顔だった。
「すみません」
「……謝らないでください。余計に腹が立ちます」
「そうか」
雪が「……馬鹿にしないでください」と言ったが、声の震えは止まっていた。
それから雪は、俺の吊った腕に手を伸ばしかけて、途中で止めた。触れれば痛むと思ったのだろう。宙で行き場をなくした手を、自分の胸の前で握り直した。
「……何日で治りますか」
「数週間か、数ヶ月か」
「そんな怪我をしたんですか」
「そういう夜だった」
雪が唇を噛んだ。それ以上聞かない代わりに、聞かなかった分だけ顔に出ていた。この娘は、感情を隠すのが下手なままでいる。番外編の夜からずっとそうだ。
それから、俺の後ろに立っている面々を見て、目を丸くした。
「……増えてませんか」
「増えた」
「……三人も」
「そうだ」
雪がしばらく数え直すような顔をして、それから小さく息を吐いた。
「……あとで、全部聞きます」
「長くなるぞ」
「聞きます」
────
奥座敷に、一位の符を据えた。
英稟が自分で持ち込んで、床の間の中央に置いた。星宮家が何十年ぶりかで取り戻した一位が、この家の一番上座に戻った。
律也が正装で座を整え、家中の者を並ばせた。冬子が朔を抱いたまま座り、雪が隣に座り、苑子が末席に控えた。風音と小夜と栞は、少し離れた廊下側に座った。
英稟が符の前で頭を下げ、それから短く言った。
「大符闘祭、一位。星宮家当主として、家格を守りました。……父の代から数えて、久しく途絶えていた席です」
家中の者が一斉に頭を下げた。
律也が「……おめでとうございます」と言った。声が掠れていた。この男の父は、星宮の先代を庇って死んでいる。守るために死んだ家の名が、今日、一位の符とともに帰ってきた。
苑子が末席で、袖口を目に当てた。一瞬だった。すぐに下ろして、背筋を伸ばし直した。夫を星宮に捧げた女が、その家の一位を末席で見ている。俺は見なかったことにした。
冬子が「……星が、今日は明るいです」と言った。
雪が英稟の方を見て、それから何も言わずに深く頭を下げた。二人の間にどういう勘定があるのか、俺は知らない。知らないまま、下げた頭の角度に、勝った女への敬意が入っているのはわかった。
英稟が座を立って、俺の隣に座り直した。
「……これで、家の話は終わりです」
「そうだな」
「ここからは、あなたの話をします。……治りが遅いようでしたら、私が代わりに動きます」
「もう動かせている」
「では、もっと動きます」
そう言って、英稟は前を向いた。それきり何も言わなかった。
────
その後で、三人を引き合わせた。俺は、名だけ言った。
「三人だ。あとは、自分で名乗れ」
風音が、一歩前に出た。
「星宮家と契約した独立符士、千歳風音です。家臣ではありません。契約で、ここにいます」
冬子が「……よろしくお願いいたします」と返した。契約で、という一言に、わずかに目を留めたが、何も聞かなかった。
雪の方が反応した。
「……契約って、何の契約ですか」
「符士としての契約です。任務と、報酬と、期間が決まっています」
「期間があるんですか」
「あります」
雪が「……ふうん」と言った。値踏みの声だった。この家の女たちには期間がない。それを言外に確かめた顔だった。
風音も、それを察したはずだ。察した上で、目を逸らさなかった。
「期間が切れたら、出ていくんですか」
「切れたときに、考えます」
「……正直ですね」
「嘘をつく理由がないので」
雪が少し黙って、それから「……わかりました」と言った。納得したというより、この女はそういう女だと帳面に書いた顔だった。
冬子が「雪」と短く呼んだ。それだけで雪が口を閉じた。この二人の順序は、俺がいない間に出来上がっている。
小夜が続いた。
「情報収集と、陰符を担当します。小夜で通します。本名は、勘弁してください」
「……承知しました」と冬子が言った。
「あと、台所はどこですか」
「……台所ですか」
「夜に小腹が空いたときのために、先に場所を知っておきたいので」
冬子が少し驚いた顔をして、それから初めて表情を緩めた。
「……厨は東の端です。夜も火を落としませんので、声をかけてください」
「助かります」
小夜が本当に助かった顔をした。この娘は、腹が満たせる場所を確保することで安心する。それを笑う者は、この家にはいない。
最後に、栞が進み出た。
一度だけ、俺の方を見た。それから、まっすぐ前を向いて、言った。
「書記見習いの、栞です。帝都で、身寄りをなくしました。……しばらく、お世話になります」
符帝として、ではなかった。栞として、初めて遠見の人々に名乗った。
その名が偽りであることを知っているのは、この場では俺と英稟と、近侍だけだった。栞自身は、自分の口で「栞です」と言った。言うたびに、その名が、少しずつ本物になっていく。
冬子が栞を見た。細さと、白い肌と、少し幼い顔立ちを見て「……病弱なのですか」と聞いた。
「少し」と栞が答えた。「……ご迷惑を、おかけします」
「いいえ」と冬子が言った。「部屋は暖かいところを用意させます。山の夜は冷えますから」
栞が「ありがとうございます」と言った。声が少し詰まっていた。
冬子が朔を抱えたまま、栞の方へ少し身を寄せた。
「……お腹に、力が入っていませんね。ここへ来るまで、ずっと張り詰めていらしたのでしょう」
栞が息を呑んだ。
「……なぜ、それを」
「そういうものが、少し見えるだけです」
冬子はそれ以上言わなかった。星読みの女が何をどこまで読んだのか、俺にもわからない。ただ、栞の肩から力が抜けたのは見えた。
紹介の後、それぞれの性分が出た。
風音は、割り当てられた部屋の位置を苑子に確かめてから、「……家臣の長屋ではなく、客間なのですね」と念を押した。「契約独立符士です。家中ではありません。そこは、はっきりさせておきたいので」。苑子が「……承知しております」と返した。
小夜は、部屋より先に厨へ行った。それから寝床の厚みを手で確かめて、「……暖かい。ここでいいです」と一人で頷いた。
栞は、二人のやりとりを少し離れて眺めていた。英稟が、その栞を一度だけ見た。正体を知る目だった。だが英稟は何も言わず、視線を苑子の方へ戻した。表には出さない、と決めた顔だった。
近侍については別に話した。冬子と雪には「明日には帝都に戻る、帝都の動きを知らせてもらう手はずになっている」とだけ伝えた。
冬子が頷いた。全員分を受け取った顔をしていた。
────
夕餉が終わって、各々が部屋に下がった。
英稟が「……澄に会ってきます」と言って席を立った。
俺は縁側に出た。
山が暗くなっていた。遠見の夜の空気は、帝都と違って静かだ。音が少ない。
遠見の山は変わらなかった。俺の陽の気が染みた山が、暗闇の中で静かに立っていた。
十日前、この山の下で、冬子は読めない星を見ていた。俺は帝都の祭祀殿で、灰にまみれて色を回していた。どちらもそれぞれの場所で、それぞれの盤面を持っていた。
盤は、俺一人のものではない。元からそう組んである。
「世一様」
苑子が後ろに立っていた。
「……大勢になりましたね」
「そうだな」
「……賑やかになります」
「そうだな」
苑子が少し間を置いてから「……皆、良い顔をしていました」と言った。
「一位の符のことか」
「それもございます。……ですが、それだけではございません」
苑子が廊下の奥へ目をやった。
「厨から、笑い声がしております。小夜様が、雪様と何かの話で盛り上がっておられるようで」
「早いな」
「食べ物の話でしょう。あのお二人は、たぶん、合います」
そういうものか、と思った。
「風音は」
「客間で、符叢を検めておられます。……先ほど、厨の場所を聞きに来られました」
「腹が減ったのか」
「いいえ。『小夜が入り浸る場所を、把握しておきたい』と」
見張るためか、混ざるためか。本人にもまだ決まっていないのだろう。
「栞様は、冬子様のお部屋におられます。朔様を見せていただいているようで」
「泣かせていないか」
「ご機嫌でございます。……栞様の方が、少し泣いておられました」
帝宮の奥で、あの娘は赤子を抱いたことなどなかったはずだ。抱かせてもらえる場所に来たというだけで、崩れるものもあるのだろう。
家というのは、俺が組んだ盤の外側で、勝手に形を作っていく。今夜のこれも、俺の指図ではない。
指図した覚えのないものが増えるのは、悪くない。増えた分だけ、守るものと使えるものが同時に増える。帳簿の両側に同じだけ数字が乗る、そういう類の増え方だ。
苑子が「……お休みになりますか」と聞いた。
「もう少し外にいる」
「では、火鉢を持ってまいります」
「要らん」
「山の夜は冷えます」
言うだけ言って、苑子は下がっていった。しばらくして、火鉢が縁側に置かれた。俺が要らんと言ったものが、いつの間にか置かれている。この家は、大体そういうふうに回っている。
俺は答えなかった。
山の闇が静かだった。