追っ手に進退窮まり、滝へと身を投じた彼女が目を覚ましたのは──
幻と謳われる、黒龍の棲む洞穴だった。
冷たく気高い人間の令嬢と、朗らかで超然とした漆黒の龍。
閉ざされた滝壺で交わされるのは、
剣の手ほどきと、夜ごとの「取引」。
龍族の女が持つ、人ならざる証──
女の身に在るはずのない、その昂ぶりを突きつけられて。
最初はただの取引だった。
屈服させられ、容易く翻弄される、一方的な夜。
けれど剣を交え、季節を重ねるうち、令嬢の中で何かが変わっていく。
そして、龍も──儚いはずの人間に、少しずつ、崩されていることに気づきもせず。
冷たい龍が、熱を持つとき。気高い令嬢が、自ら手を伸ばすとき。やがて二人は、与える側と受け取る側の境を失っていく。
人と龍。支配と陥落。その果てに──。
★女性同士+両者ふたなり(龍族の「証」)という作者に都合のいい設定と描写を含む、成人向け百合作品です★
しかもエロないよ(笑)
追っ手の松明が、夜の森を赤く焦がしていた。
セレスティアの足は、もう動かなかった。ドレスの裾は泥と血に汚れ、かつては黄金に輝いた髪も、逃避行にやつれて、輝きを失い、くすんでいる。誇りだけが、辛うじて彼女を立たせていた。背後には、底も知れぬ谷底へと轟々と水を落とす、見上げるほどの大瀑布。前には、国を奪った者たちの影──ガルニア帝国の旗印が、炎に照らされて獣のように嗤っている。
ソレイユ王国。太陽の名を冠したその王国は、もう、ない。王家の傍系として国の柱であった筆頭公爵家ヴェルフォールも、ただ一夜で灰に帰した。父も、母も、弟も。すべてを焼き、すべてを奪ったのは、ガルニア帝国が誇る若き猛将──ヴァルガス・フォン・ガルニア。まだ三十にも届かぬ、その男の率いる軍勢だった。
「セレスティア・オーレア・ヴェルフォール公爵令嬢、と言ったか」
闇の向こうから、ヴァルガスの声がした。若い。獲物を追い詰めてなお、退屈すら滲ませる、勝者の声。
「念には念をってね……一族郎党、悪く思わないでくれや」
肩に剣を担いだ獰猛な男が、後ずさる令嬢に、距離を詰めていく。
両者の距離は、崖際……轟々と水の奔流が流れる、そのきわで止まる。
「……ワタクシを、捕らえた、おつもり?」
掠れた声で、令嬢は嗤った。最後まで、跪く姿を見せてやるものか。一族の名にかけて──。
彼女は振り返り、迷わず白い闇へと身を委ねた。
落ちていく感覚。
冷たさ。
岩を打ったのか、水に呑まれたのか──
それすら判然とせぬまま、
轟音が遠のき、
やがて
すべて
黒く
──目を覚ました。
最初に感じたのは、ありえないはずの呼吸だった。けれど、それは呼吸と呼ぶにはあまりに浅い。吸おうとするたび、胸の奥で折れた何かが軋み、肺は半ばも膨らまぬうちに激痛に潰される。入り込んだ水を咳で吐くことすら、許されない。一度むせれば、全身を鉄串で刺し貫かれたような痛みが奔り、視界が白く明滅した。
身体は、死に体も同然だった。右腕は肩の付け根からあらぬ方へねじれ、感覚がない。打ちつけた背も腰も砕けたように熱を持ち、片足は地につけることさえ叶わぬ。こめかみから流れ落ちた血が、片目を赤く塗り潰している。指を一本曲げるのにも、決死の覚悟が要った。
滝壺へ落ちたのだ。ただの──魔法の心得もなき、ひとりの貴族の娘が。あの高さから、生身のまま。息をしていることのほうが、よほど道理に合わない。生きている、というより、死にきれずにいる、と言うほうが近かった。
混濁した意識が、潮のように満ち、引いていく。仰向けの視界に映るのは、洞窟の岩肌。淡く青白い光が、水面の揺らぎを天井に投げかけている。
ここは、どこなのか。なぜ、息をしているのか。
霧の晴れた頭の隅で、幼い頃に学び舎で読まされた、古い言い伝えが、ふと甦った。
──滝壺の底には、龍が棲む。
そして、その滝壺へ身を投げて生き永らえた者は、龍に「気に入られた」のだという──
子供だましの寓話。誰も信じてなどいない、古い、古いお伽噺。
「ほう、目を覚ましたか」
声は、頭上から降ってきた。鈴を転がすように朗らかで、それでいて、骨の髄まで響くほど深い。
セレスティアが、痛む肩を庇いながら、辛うじて身を起こすとそこには──
岩棚の上に悠然と腰掛けた、人ならざる女。
長身の肢体に、夜を流し込んだような、濡羽色の黒髪。
それが滝の青白い光を弾いて、艶やかに揺れている。
瞳は縦に裂け、肌のところどころに、淡く光る鱗の名残が散っていた。
深淵そのものを纏ったような、その姿。
──知っている。
亡き王国の宮廷で、王族たる者の教養として、彼女は確かに学んでいた。お伽噺の挿絵ではない。本物の。深淵に棲まう、漆黒の──驪龍《リーロン》。建国神話にその名を刻む、伝説そのもの。お伽噺だと、嗤っていたはずのそれが、いま、目の前にいる。
令嬢は、思わず息を呑んだ。
「滝壺に飛び込んでくるとは、酔狂な娘じゃのう。わらわの寝床に、生きた人間が転がり込んできたのは──さて、何百年ぶりか」
女は愉快そうに目を細めた。墨を溶いたような黒髪の隙間から覗く双眸が、零落した令嬢の金の髪を、面白そうに撫でるように見やる。
「ふむ。中も外も、よう壊れたものじゃのう。──その身体で、まだ息をしておるとは」
珍しい虫の生死でも検分するような口ぶりだった。娘の痛みを気づかう響きは、どこにも無い。
「わらわは驪龍。リーロン、と──気安う呼ぶがよい」
その言葉に、セレスティアの背筋が、痛みとは別のもので強張った。
(──罠だ)
王族としての教育が、警鐘を鳴らす。龍の真名を、対等の者のごとく口にすること。それは、龍の逆鱗に触れる行いのひとつ。古き盟約の書にも、はっきりとそう記されていた。気安く名を呼べという誘いそのものが、人の品定めをする、龍の試し。
彼女は、乾いた唇を引き結んだ。そして、痛む膝を岩へつき、零落してなお崩れぬ礼の所作で、深く頭を垂れる。
「……お言葉なれ、ど。その御名を……ワタクシごときが、軽々しく呼ぶなど、できませんわ。深淵の御方よ」
ただ礼をする、言葉を話す、それだけでも意識が飛びそうになるほどの痛苦に耐えながら、そう返答する。
ほんの一拍、洞窟に沈黙が落ちた。
リーロンは、つまらなそうに頬杖をついた。
「ほう。名を与えてやったに、呼ばぬか」
漆黒の睫毛が、ゆっくりと伏せられる。
「……ふん。正当な教育を受けておるようじゃの。つまらん」
落胆を隠さぬ声。──けれど、気のせいだろうか。その縦に裂けた瞳の奥で、退屈とは裏腹の、何かがちろりと光ったように見えた。
「して。死に損ないの貴族の娘が、何用じゃ。礼儀作法しか能のない娘なら、放っておくが」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
哀れみを乞う言葉は、誇りが許さない。
この龍が何を求め、何に飽いているのか──
測りかねたまま、軽々しく望みを口にするのは、亡国の姫君のすることではない。
その沈黙を、リーロンは急かしもしなかった。退屈そうに──けれど待つでもなく。岩棚に頬杖をついたまま、気だるげに、宙へ指先を一つ、滑らせる。
──応えたのは、滝だった。
轟々と落ちていた水の柱が、ふいに重力を忘れた。
砕けた飛沫のひとつひとつが宙で静止し、青白い光を孕んで、
無数の宝玉のように洞窟いっぱいへ散らばっていく。
轟音が、嘘のように凪いだ。
その一粒一粒が、見えざる手に導かれるまま、ゆっくりと座を移す。
やがて水は撚り合い、薄い帷となり、糸となり──
指先のひと撫でに従って、岩壁へと、巨大な影を編み上げた。
そこには、伝承の──お伽噺でみた、龍そのものがあった。
滝壺の水のみで象られた、見上げるほどの漆黒の龍。
鱗の一枚一枚までが、しぶきの細密で描き出されている。
それは深淵から立ち昇り、洞窟の天井をのたうち、長い髭を揺らして──
零落した令嬢を、ひたと見下ろした。
水でできたはずの双眸の奥にすら、底の知れぬ深淵が覗いている。
途方もなく壮大で、息を呑むほど精緻。
神域の、妙技。
そのすべてを、リーロンは指一本で成し、しかも──ろくに眺めてすらいなかった。あくびを噛み殺すような横顔で、ただ、持て余した退屈を埋めるためだけに。
ふ、と指が下りる。龍は霧へ還り、宝玉は雨となって滝壺へ崩れ落ち、何事もなかったように轟音が戻ってきた。
「重ねて問おう」
朗らかな声が、濡れた岩肌に反響する。
「小娘──何用か」
──力、人智の及ばぬ、圧倒的な力。
その瞬間、令嬢の胸の奥で、燃え尽きたはずの炎が、ふたたび熱を持った。くすんだ金の髪の奥で、青い瞳が、爛と光る。
(……この力があれば)
哀願ではない。取り引きだ──そう己に言い聞かせて、セレスティアは身を起こそうとした。
できなかった。
ねじれた肩が灼け、折れた肋が一動きごとに肺を抉る。
半身を起こそうとしただけで、目の前が白く明滅し、胃の腑がせり上がった。
立つどころか、本来なら、指の一本も動かせず、ただ呻いて事切れるのを待つよりほかにない身体だ。
それでも──彼女は、這った。
動く側の腕一本だけで、岩肌に爪を立て、血の滲む指で身を引きずる。
一寸進むごとに潰れた胸が悲鳴を上げ、引きずる脚が、濡れた岩へ細い血の筋を残していく。
力など、もう何ひとつ持たぬ。剣も、魔も、守るべき民も。
残されたのは、窶れきった人間の娘という事実と──
痛みごときに屈してなるものか、というただの意地だけ。
取り引きだと、誇りは言い張る。
けれど血を引きずって這うその姿は──
どう繕おうと、死にかけの虫が、光を求めて力なく動く……そんな様だった。
リーロンが、わずかに目を瞠った。頬杖をついたまま、縦に裂けた双眸が、這い寄る娘を、上から下へとゆっくり舐める。
「ほう」
興を覚えた声が、低く転がった。
「耐えがたい痛みじゃろうに。それをおしてまで──何を望む。小娘」
セレスティアは、龍の足下で顔を上げた。掠れた声に、初めて熱が戻る。
「ワタクシは……セレスティア・オーレア・ヴェルフォール。ソレイユ王国、筆頭公爵家の、最後のひとり」
血の味のする唇が、震えながら言葉を継ぐ。
「国は、ガルニア帝国に焼かれました。父も、母も、民も、すべて」
青い瞳が、まっすぐに龍を射貫いた。
「深淵の御方よ。お願いが、ございます。ワタクシの国を滅ぼした者たちを。あの者たちを、あなたの力で──滅ぼしてはいただけませんか」
やはりそれは、取り引きなどではなく……命のすべてを賭した、懇願だった。
リーロンは、心底つまらなそうに頬杖をつき直した。漆黒の髪が、岩棚を滑り落ちる。
「いやじゃ。面倒くさい」
あまりに、あっさりと。
そこに怒りも、嘲りもない。
リーロンはもう、セレスティアを見てすらいなかった。
岩棚の縁を伝って落ちる雫の行方を、つまらなそうに目で追っている。
命を懸けた願いも、この龍にとっては、たったいま落ちて消えた水滴ほどの意味も、持たぬらしかった。
悪意ではない。
ただ、興味が失せた。それだけのことだった。
セレスティアが、声を失う。──が。
ふいに、何を思いついたものか、雫を追っていた縦長の瞳が、ぱちりと娘へ戻った。
龍の唇の端が、ゆるりと吊り上がる。
「じゃがの──お主を鍛えてやるのは、やぶさかでない。自分の手で仇を討てるよう、わらわが直々にな。礼儀正しいだけの娘が、どこまで牙を剥けるようになるか。退屈しのぎには、ちょうどよい」
希望と警戒の入り混じった瞳が、龍を見上げる。リーロンはゆっくりと岩棚から降り、痛みに強張る令嬢の顎を、ひやりと冷たい指先で掬い上げた。
間近に迫る、夜色の髪と、縦に裂けた瞳。
「ただし、タダとは言わぬぞ」
朗らかな声が、ふいに、甘く低く沈む。
「見返りは──お主の、その身体じゃ」
へへ、初めましてじゃない人がいるかもしれないので一応
PCがふき飛んでテキストデータとある程度考えてた構想ぜーんぶ吹き飛んだし仕事忙しすぎて創作のやる気が全部ないなっておりましたわ!
……また、1から、ゆっくり投稿していきます、よろしくお願いします~
旧作はそのうちリメイク……したい……なあ……仕事辞めようかな……