※この作品はR-18です。

光の軍医 ルカ   作:時野彼方

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「呪いか、それとも祝福か。少年を待ち受けるのは、容赦なき世界の洗礼」

両性体の肉体を持って生まれた少年・ルカ。周囲から迫害され、孤独の穴を抱える彼を優しく包み込んでくれたのは、最愛の母・フレイアだった。しかし、幸福な時間はあまりにも短く、ルカは過酷な運命によって「ワンダラーパレス」の凍えるような暗闇へと追放されてしまう。
後に「光の軍医」と呼ばれるルカの、全ての原点となる苦難と孤独のプロローグ。


第一章「光の子」

第一章 光の子

 

第一節 光の祝福

夜の森は、どこまでも深く、静まり返っていた。

 

大気を揺らすのは、梢を渡る気まぐれな風の囁きと、密やかな葉擦れの音だけ。漆黒の天鵞絨(びろうど)に火花を散らしたような満天の星々は、遥か上空で白銀の光の花を咲かせ、山間にひっそりと佇む小さな集落を、冷ややかに、美しく照らし出していた。

 

ここは、猫のような耳と尾を持つ少数民族、ミコッテ族が、外界の目を逃れるようにして暮らす隠れ里。その静寂の奥深く、集落の外れにある古い祠の前で、一人の女性がただ静かに膝を突いていた。

 

フレイア・エレミヤ。

 

月光を浴びてきらめく長い銀髪を背に流した彼女の姿は、まるで森の木々が具現化した精霊のように儚げだった。彼女は毎夜、この地を永きにわたり見守ってきたとされる「光の神」の祠へと、細い指を組み、祈りを捧げ続けていた。

 

その祈りは、決して大それたものではなかった。

病に伏せる老人が、少しでも穏やかな眠りを迎えられるように。

危険な狩りへ出かけた若者たちが、誰一人欠けることなく無事に帰れるように。

そして、明日も子供たちが無垢な笑い声を響かせられるように。

世界から見放されたような小さな集落で、ただつつましく生きる人々のための、ささやかで、あまりにも無私の祈り。――その夜を迎えるまでは。

 

ふいに、視界のすべてが真っ白に染まった。

 

「……え……?」

 

フレイアは息を呑み、その双眸を見開いた。

祠の真上から垂直に降り注いだのは、月光でも、星明かりでもなかった。それは目を灼くほどに神々しく、それでいて、肌を粟立たせるほどに不思議な温もりを孕んだ光の奔流だった。

 

逃げ出そうという思考は、瞬時に霧散した。恐怖よりも先に、胸の奥底を甘やかに満たしたのは、魂のどこかでずっと切望していたような、狂おしいほどの懐かしさだった。

それはまるで、遠い創世の記憶にある誰かに、その細い身体を、肌の隙間まで容赦なく抱きしめられているかのような……優しく、濃密な温感。

 

まばゆい光は、フレイアの輪郭を優しく、しかし貪欲に包み込んでいく。

その神聖な熱に当てられ、彼女の銀色の耳先が、小さく、悦びに震えるようにして戦慄いた。背後でふわりと揺れた尻尾が、光の粒子を撒き散らす。

やがて、光は彼女の肌の毛穴から、肉の奥深くへと融けるようにして侵入し、下腹部の奥底――生命の揺り籠のなかに、小さな、けれど決して消えない灯火を宿した。

 

それは一瞬の出来事だったのか、あるいは永遠の融和だったのか。

気付けば、視界を覆っていた白銀の奔流は消え去り、森は再び元の静寂を取り戻していた。

 

フレイアは、ただ呆然と立ち尽くしていた。

夢か、あるいは夜の優しさが魅せた幻覚だったのだろうか。そう自問しようとした瞬間、彼女の手は自然と自身の腹部へと向けられていた。

 

衣服の布越しに手のひらを当てた、その刹那。

確かに感じたのだ。身体の内側、自身の血肉のそのさらに奥で、言葉にならないほど神聖な、新しい生命の脈動が、トク、と小さく跳ねるのを。

 

「……まさか……」

 

震える声が、冷たい夜空へと溶けていく。

まだ、誰も知らない。この密やかな夜の邂逅が、やがて生まれる一人の少年の運命を、残酷なまでに決定づけてしまうことを。

 

光の祝福を受けた子。

のちに「ルカ」と名付けられるその幼子は、最初は里の「希望」として熱狂的に迎えられ、やがて人間の理解を超えた「呪い」として忌み嫌われ、恐れられることになる。

 

けれど、その時のフレイアには、訪れるべき絶望の未来など知る由もなかった。彼女はただ、生命の宿った自身の腹部を愛おしげに愛撫しながら、月明かりの中で静かに、幸福な微笑みを浮かべていた。

 

「生まれておいで……」

 

愛に満ちた優しい声が、夜風に乗って森へと優しく伝わっていった。

 

「あなたが、たとえどんな子であったとしても……お母さんは、あなたのすべてを愛しているわ」

 

 

 

第二節 光の子

ルカがこの世に生を享けた日、天は一片の曇りもない、透き通った青に染まっていた。

その誕生は、集落中の人々にとって、神の奇跡そのものだった。誰もがフレイアの粗末な家へと集まり、新しく産み落とされた小さな命を、割れんばかりの歓声で祝福した。

 

「なんて、綺麗な子だ……」

 

誰かが、恍惚とした溜息とともに呟いた。その言葉に、異論を唱える者など一人もいなかった。

産着に包まれた赤子は、新生児特有の赤黒さなど微塵もなく、神秘的なほどに整った、完成された造形をしていた。

初雪のようにどこまでも白い肌。春の夜霧のように柔らかな、青い髪。そして、夜明け直前の東の空を思わせる、深く、艶やかな紫の瞳。まだ何も見えていないはずのその双眸は、ガラス細工のように澄み渡り、どこかすべてを見透かしているかのような大人びた光を湛えていた。

 

「光の神様が遣わされた、本物の神の子だ」

 

集落の長老が、震える声でそう言い残し、深く頭を垂れた。

フレイアが天の光を受け、男を介さずに身籠ったという逸話は、すでに集落の隅々にまで浸透していた。だからこそ人々は疑わなかった。この子は、自分たちのような卑小な存在とは違う、至高の祝福を与えられた聖なる存在なのだと。

 

「ルカ」

 

フレイアは、壊れ物を扱うようにして我が子を抱き締め、その耳元で囁いた。

 

「ルカ。それが、あなたの名前よ」

 

胸に抱かれた赤子は、その長い睫毛を揺らし、小さく瞬きをした。まるで、母の呼ぶ声に確かな意志を持って応えたかのように。

その健気な仕草に、周囲を取り囲む大人たちから、どっと温かな笑い声が湧き上がる。フレイアもまた、胸を満たすあまりの幸福感に、目尻を濡らしながら微笑んだ。

 

幸せだった。世界に二人きりしかいないかのような、完璧な充足だった。

だからこそ――のちに彼らを待ち受ける運命の歯車は、より一層、残酷な音を立てて狂い出すことになる。

 

 

ルカは、里中の歪んだほどの愛情を一身に浴びて成長していった。

集落の者は誰もが彼を目に入れ、幼いルカが細い足取りで歩けば、誰もが競うようにしてその柔らかな青い髪を撫で、彼が唇を綻ばせて笑えば、世界が明るくなったかのように皆が相好を崩した。

 

殊に、身体の動かない老人や病に苦しむ者たちは、ルカを神仏のように盲信し、可愛がった。

それは単なる容姿の美しさゆえではない。不思議なことに、ルカがただ傍に佇んでいるだけで、すうっと病の痛みが引き、体調が劇的に回復する者が後を絶たなかったからだ。

 

ある日、里の子供が崖の上の木の実を取ろうとして転落し、膝を激しく擦りむいて泣き叫んでいた。

血を流すその痛々しい姿を見て、幼いルカは居ても立ってもいられず、自身の小さな、色白の手をその傷口へとそっと重ねた。

 

「痛いの、飛んでいけ……」

 

ルカが心の中で強く願った瞬間、彼の指先から、目に見えないほど微かな、仄かな温もりが溢れ出た。するとどうだろう、子供の激しい嗚咽はぴたりと止まり、見る見るうちに傷口の赤みが引き、痛みが消え去ってしまったのだ。

またある時は、高熱を出して今夜が山だと言われていた老婆の手を、ルカがただ「死なないで」と涙を浮かべて握り続けただけで、翌朝には奇跡のように熱が下がり、老婆は自力で起き上がれるまでになった。

 

もちろん、幼いルカ自身には、それが己に宿る「光の力」の仕業だという明確な自覚はなかった。

ただ、目の前で苦しんでいる大切な人たちを見ると、胸が締め付けられるように苦しくなり、放っておけなかった。ただ、それだけだった。

 

「本当に、なんて優しくて、神聖な子なんだろうねぇ……」

 

命を救われた老婆が、涙で濡れた目を細めながら、ルカの華奢な手を何度も拝むように擦り合わせる。

ルカは気恥ずかしそうに、頭の上の獣耳をペたりと伏せ、細い尻尾をきゅっと縮めた。

 

「そうかな……」

 

「そうさ。お前様は、この里の救い主だよ」

 

「俺……みんなが元気で、笑っててくれたら、それだけで嬉しいよ」

 

その無垢な言葉に、老婆は堪えきれずに嗚咽を漏らした。

誰かの幸福をただひたすらに願う、そのあまりにも純粋な心。それは他でもない、母であるフレイアから、血とともに受け継いだ、彼の一番の美徳だった。

 

 

夜が訪れると、ルカはきまって、母の柔らかな膝の上にその小さな頭を乗せるのが常だった。

家の外には、降るような満天の星空。静まり返った森に響く、心地よい虫の音と、夜の冷気を含んだ暖かな風。

フレイアは愛おしげに、ルカの耳の周りの、絹のように細い青髪を指先で優しく梳いていく。

 

「お母さん」

 

「なあに、ルカ?」

 

「みんなね、俺のこと『光の神様の子』って言うんだ。……俺、本当に神様の子なの?」

 

小さな不審を湛えた紫の瞳が、じっと母を見つめる。フレイアの手が、一瞬だけ止まった。彼女は少しだけ寂しげに目を伏せ、それから、いつもの慈愛に満ちた笑みを浮かべて我が子の頬を両手で包み込んだ。

 

「違うわ、ルカ」

 

「違うの?」

 

「ええ。あなたは、神様のものなんかじゃない。私の身体から生まれてきた、私だけの子よ」

 

ルカは安心したように、長い睫毛をぱちぱちと瞬かせた。フレイアは愛おしさを堪えきれないように、その美しい顔を近づける。

 

「神様が、私たちに授けてくれた宝物かもしれない。でもね……」

 

彼女は、ルカの白く滑らかな頬を、指の腹でそっとなぞった。

 

「ルカは、ルカよ。他の誰でもないわ」

 

ルカは、その言葉が何よりも好きだった。神の子という、実体のない重い衣を着せられる中、母だけは自分を「ただのルカ」として見てくれる。それが嬉しくて、ルカは尻尾をぱたぱたと左右に揺らしながら、甘えるように母の腹に顔を埋めた。

 

「じゃあ俺、お母さんの宝物?」

 

「そうよ」

 

「世界で、一番?」

 

「もちろんよ。何ものにも代えがたい、お母さんの一番の宝物」

 

ルカは満足したように、その艶やかな紫の双眸を閉じた。

フレイアは、規則正しい呼吸を始めた我が子の寝顔を、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。

月の光を吸い込んで発光しているかのように白い肌、あまりにも整った、どこか性別を超越していく予感を孕んだ美しい輪郭。まるで、光そのものが肉体を持って生まれてきたかのような我が子。

 

だが、その母親の胸には、時折、言葉にならない不安が過ることがあった。

 

(この子は……美しすぎる。そして、優しすぎる……)

 

この世界は、ただ美しいだけの存在、ただ優しいだけの存在には、あまりにも残酷にできている。異質なほどの純粋さは、いつか必ず、周囲の濁った欲望に傷つけられ、引き裂かれる日が来るのではないか。

そんな、不吉な予感。

 

けれど、フレイアはその不吉な思考を振り払うように頭を振り、ルカの清らかな額へと、祈るように深い口づけを落とした。

 

「大丈夫……」

 

誰に言い聞かせるでもなく、彼女は小さく呟いた。

 

「きっと、大丈夫よ。お母さんが、命に代えても守るから……」

 

天上の星々は、何も語らずに静かに瞬いていた。これから訪れる、取り返しのつかない凄惨な未来を、すべて知っているかのように。森の闇だけが、その親子の抱擁を、冷ややかに見守り続けていた。

 

 

 

第三節 祝福の光

ルカが十歳の大節目を迎えた、ある夏盛りの頃だった。

 

集落の外れに広がる、険しい断崖に囲まれた森の中で、悲劇は起きた。一人の少年が、大人たちの真似事をして狩りを行っていた最中、足を滑らせて数十メートル下の岩場へと転落したのだ。

異変に気づいた大人たちが血相を変えて駆け付けた時には、少年はすでに頭部から大量の鮮血を流し、ぴくりとも動かずに意識を失っていた。片方の脚はあり得ない方向へと複雑に折れ曲がり、その胸の上下は、今にも停止してしまいそうなほどに浅く、弱々しい。

 

「まずい……これは、もう……」

 

一人の狩人が、絶望に顔を歪めて呟いた。集落には、薬草を用いた簡易な治療術や、微弱な癒やしの気を使える者もいた。だが、この傷はあまりにも深すぎる。いまから山を降り、遠い街から高明な医者を呼んできたとしても、その間に少年の命の灯火は確実に消え果てるだろう。

我が子の無惨な姿を前に、狂ったように泣き叫ぶ母親。青ざめ、ただ立ち尽くすことしかできない大人たち。

その絶望の輪の外から、一筋の青い風のように、小さな影が迷いなく駆けてきた。

 

「どいて……っ! お願い、どいて!」

 

ルカだった。耳を後ろに伏せ、青い髪を激しく揺らしながら、大人の合間を縫って少年の傍らへと滑り込む。

 

「ルカ! ダメよ、戻りなさい!」

 

背後からフレイアの制止の声が響いた。だが、ルカはその声を頭から振り払い、瀕死の少年の横に膝を突いた。

ルカの胸は、張り裂けそうなほどの苦痛で満たされていた。血に塗れ、生命の気配を失っていく友人の姿を、ただ見ていることなんて、彼にはどうしてもできなかった。

 

(助けたい。死なせないで。お願いだから、生きて……!)

 

ただ、それだけだった。

ルカは震える両手で、少年の冷たく血に汚れた手をぎゅっと握りしめた。その肌は驚くほど冷え切っており、今にも魂が指先からこぼれ落ちてしまいそうだった。

 

「お願い……っ!」

 

誰に向けた、叫びだったのか。

天に座す光の神か。

それとも、どこまでも高いこの空か。

あるいは、自身の内に眠る、得体の知れない「何か」に対してか。

ルカ自身にも、それは分からなかった。

 

――その瞬間、世界の色彩が完全に消失した。

 

「……っ!?」

「な、なんだ……これは……っ!」

 

集まった全員が、あまりの光量に目を圧し折り、息を呑んだ。

まばゆい、という言葉すら生ぬるいほどの圧倒的な純白の光が、ルカの小さな身体を中心として、爆発的に溢れ出したのだ。

 

それは、これまでにルカが見せてきた微弱な癒やしの気などとは、根本から次元の異なるものだった。白く、熱く、それでいて世界を丸ごと融解させてしまうほどに圧倒的な、神威の輝き。まるで、世界の始まりを告げる原初の陽光が、その場に具現したかのような光の檻。

光は、生き物のようにうねりながら瀕死の少年の身体を優しく包み込んでいった。

 

信じがたい光景が、大人たちの目の前で展開される。

ドロドロと流れ出ていた頭部の鮮血が、時間を巻き戻すかのように傷口へと吸い込まれ、肉が瞬時に結合していく。不自然な方向へ折れ曲がっていた少年の脚が、骨の軋む音を立てて元の位置へと滑らかに戻り、完全に再生していく。今にも止まりそうだった浅い呼吸が、一息ごとに深く、力強いものへと変わっていく。

 

やがて光が穏やかに収束していったとき、少年は、まるで長い昼寝から覚めたかのように、ゆっくりとその瞼を持ち上げた。

 

「……あれ? ぼく……なんで、ここに……?」

 

周囲の空気が、完全に凍りついた。誰もが声の出し方を忘れたかのように、ただ呆然と、口を開けて立ち尽くすことしかできなかった。

奇跡、だった。誰の目から見ても、それは人間に許された領域を遥かに超えた、神そのものの業だった。

 

「ああ……あああ……っ! 助かった……!」

 

我に返った母親が、地面に崩れ落ちるようにして息子を抱き締め、狂喜の涙を流す。

その姿を見て、ルカは胸の動悸を抑えながら、はぁ、と小さく安堵の息を漏らした。

良かった。本当に、死ななくて良かった。ルカの胸にあったのは、ただただ純粋な、一人の友人を救えたことへの安堵、それだけだった。

 

しかし、彼を取り囲む大人たちの反応は、ルカのそれとは全く異なっていた。

 

「見たか……いまの光を……」

「信じられん……あんな傷が、一瞬で……」

「光だ……本物の、光の神の御業だ……!」

 

じわじわと、地鳴りのようなざわめきが広がっていく。

里の長老が、まるで自身の老いた身体の重みすら忘れたかのように、震える足取りでルカへと近づいてきた。そして、泥に汚れるのも構わず、十歳の子どもであるルカの足元に、 ドサリと両膝を突いたのだ。

 

「光の子よ……我らが神の、大いなる御使いよ……っ!」

 

ルカは恐怖に似た困惑に囚われ、思わず後ずさった。

 

「え……? 長老、なんで……?」

 

「やはり、お前は祝福された、特別な存在なのだ。我ら卑小なるミコッテを導くために降り立った、神そのものなのだ……!」

 

長老の行動を皮切りに、周囲の大人たちが、次々と地面に額を擦り付け、ルカに向かって平伏し始めた。誰もが目を血走らせ、狂信的な光を宿して彼を仰ぎ見ている。

 

ルカは、猛烈な拒絶感に襲われ、身体を小さく震わせた。

 

そんなつもりじゃなかった。俺は、神様なんかになりたくてやったんじゃない。ただ、目の前の友達を、助けたかっただけなのに。

 

「やめてよ……っ!」

 

ルカは思わず、悲鳴のような声を上げた。

 

「やめて、みんな変だよ! 俺はそんな、すごい奴じゃない! ただのルカなんだ……っ!」

 

しかし、平伏する大人たちの耳には、その子供の悲痛な叫びなど届いていなかった。人々の目に宿っていたのは、もはや純粋な親愛や愛情ではなかった。それは、不可侵の神殿に祀られた、冷たい「聖像」を拝むかのような、狂気的な畏敬の色。

 

その異様な狂熱の中で、ただ一人、フレイアだけは周囲に同調しなかった。彼女は青ざめた顔で人々の輪を掻き分け、震えるルカの華奢な肩を、壊れ物を守るように強く、強く抱きすくめた。

 

「大丈夫よ、ルカ……」

 

彼女は我が子の耳元で、世界を拒絶するようにして低く囁いた。

 

「何も、怖がることはないわ。あなたは、何も変わらない」

 

ルカは縋るようにして母を見上げた。その美しい紫の瞳が、涙で細かく揺れている。

 

「でも……みんな、変だよ。俺を、人間じゃないみたいに見てる……」

 

「そうね……」

 

フレイアは、胸を切り裂かれるような、あまりにも寂しく、哀しい微笑みを浮かべた。

 

「人はね、ルカ。自分たちの理解を超えた『分からないもの』を、安易に神様にして、奉りたがる生き物なのよ。そうして遠くに置かなければ、怖くて仕方がなくなってしまうの」

 

「俺は、神様じゃない……」

 

「ええ、もちろんよ」

 

母は、一瞬の躊躇もなく、毅然と言い切った。

 

「あなたは神様なんかじゃない。私の可愛い、ルカよ」

 

その言葉を聞いた瞬間、凍りつきそうだった胸の奥底が、じんわりと温かな涙で満たされていくのを感じた。ルカは溢れそうになる涙を堪えるように、母の細い肩へとその額を強く預けた。

 

周囲では、今なお大人たちが、頭を地面に擦り付けながら、ルカが起こした「光の奇跡」について興奮気味に語り合っている。

だが――その狂信的な平伏の輪の中に、たった一人だけ、全く違う表情を浮かべている男がいた。

 

それは、集落でも一、二を争う腕肉を持つ、中年の狩人だった。

彼は他の者たちのように膝を突くことなく、物陰から、ルカとフレイアの姿をじっと見つめていた。その眉は不快そうに歪められ、固く結ばれた唇からは敵意が漏れ出ている。

 

彼の瞳に宿っていたのは、神への畏敬ではなかった。純粋な羨望でもない。

それは――人間の理解を凌駕する絶対的な力に対する、生々しい「恐怖」と、それに裏打ちされた「嫌悪」だった。

 

他者を一瞬で癒すその奇跡の光は、裏を返せば、一瞬で他者の命を奪い去ることもできるのではないか。

自分たちと同じ肉の身体を持ちながら、なぜあの子どもだけが、そのような超越した力を有しているのか。不気味だ。恐ろしい。あの一親子は、里を滅ぼす魔物の一種ではないのか――。

 

まだ十歳に満たない無垢なルカは、その男の瞳の奥に宿った、どす黒い感情の正体を知る由もなかった。

 

祝福は、時として、容易に「恐怖」へと反転する。

人々が神を神として崇め奉ることができるのは、その神が、天の上の決して届かない「遠い場所」にいるからだ。

だが、その神の力が、自分たちと同じ地平を歩む「隣人」の手の中に宿った時、脆弱な人間が抱くのは、畏敬よりも先に、身を護るための防衛本能――すなわち、凄絶な「恐怖」と「排除の欲求」である。

 

ルカのあずかり知らぬところで、破滅への種子は、静かに、しかし確実に里の土壌へと根を張り、芽吹き始めていた。

 

 

 

第四節 違和感

十三歳という季節は、少年たちにとって、自らの肉体がひそかに獣としての荒々しさを獲得していく、いささか無骨な大季節(シーズン)だった。

 

集落の少年たちの肩幅は目に見えて広がり、その皮膚は陽に灼けて褐色を帯び、喉仏の突き出た喉からは低く濁った声が漏れ始める。彼らは互いの肉体の成長を競い合うようにして、森を駆け、狩りの真似事に興じていた。

 

ルカは、その集落で最も名を知られた子どもであり続けていた。

数年前のあの日、崖から落ちた友人を光の奇跡で救って以来、彼の周囲には常に人々の視線があった。病人を癒やし、怪我人を助け、時には罠にかかって傷ついた山の獣さえも、その白く細い手から溢れる光で包み込み、治癒してしまう。

誰もが彼を愛し、神の御使いのように崇めていた。――少なくとも、その表面上は。

 

「おい、ルカ!」

 

密林の木漏れ日を浴びながら歩いていると、背後から賑やかな笑い声とともに、同年代の少年たちが駆け寄ってきた。

彼らはルカの細い肩に容赦なく腕を回し、その顔を覗き込む。間近で嗅ぐ彼らの皮膚からは、少年から男へと変わりつつある、特有の汗の青臭い匂いが立ち上っていた。

 

「お前、また背が伸びてないんじゃないか? 筋トレが足りねえんだよ」

 

「うるさいな……。俺だって、これでも一生懸命、肉を食べてるよ」

 

「ははは! 嘘つけ、お前の腕、俺の半分くらいしかねえぞ!」

 

悪意のない、無邪気な冗談だった。

ルカもまた、いつものように耳を小さく揺らし、困ったような微笑みを返した。

だが、その微笑みの裏側で、ルカの胸の奥底には、澱のような冷たい違和感が確実に澱んでいた。

 

自分だけが、周囲の成長の歩調から、完全に置き去りにされている。

男らしい筋肉が付く気配はいっこうになく、腕はどこまでも細く、大腿はしなやかな丸みを帯びていく。肩幅は狭く、鎖骨のラインは削り出した硝子のように繊細だ。何より、声が変わらない。彼らの低い笑い声に混じる自分の声は、あまりにも高通りのする、鈴を転がしたような響きを持っていた。

 

「お前、本当は男のフリした女の子なんじゃないの?」

 

一人の少年が、何気なく口にした。

周囲の少年たちが、どっと快活に笑う。ルカもまた、調子を合わせるようにして、つられたように笑った。

けれど――なぜだろう。

その瞬間、ルカの胸の奥の、まだ名もなき器官が、針で深く刺されたかのように疼いたのだった。

 

 

その夜。ルカは、自室の壁に掛けられた、歪んだ木枠の鏡の前に素肌で立っていた。

 

暖炉の残り火が、彼の少年の輪郭を、妖しく、そしてあまりにも艶やかに浮かび上がらせている。

鏡の中に映る自分を、ルカはじっと見つめた。

最近、衣服を着替えるたびに、どうしても目を背けられない事実があった。

 

自分の身体の線は、あいつらとは、根本的に何かが違っている。

雪のように色白な胸元には、ここ数ヶ月で、わずかな――けれど確実に掌に収まるほどの、柔らかな膨らみが兆し始めていた。その先端には、淡い、未熟な果実のような色調が宿っている。それだけではない。腰の位置は妙に高く、そこから大腿にかけての曲線、股間にあるものは男のそれではなく、まるで……。

 

「……変だよな。やっぱり、おかしいよ……」

 

ぽつり、と掠れた声が室内にこぼれる。不安を体現するように、背後の細い青色の尻尾が、床の上で力なく左右に揺れた。

 

その時、音もなく木製の扉が開いた。

 

「ルカ……?」

 

入ってきたのは、フレイアだった。

ルカは弾かれたように身を翻し、両腕で自らの胸を隠すようにして、慌てて衣服を引っ掴んだ。

 

「お、お母さん……っ」

 

フレイアは、息子のそのあまりにも怯えた仕草と、衣服の隙間から見えてしまったその身体の輪郭を前に、すべてを察したように息を詰まらせた。彼女の美しい紫の瞳が、見たこともないほど激しく揺らめく。

 

「どうしたの……? ルカ」

 

ルカは言い淀んだ。胸を突く羞恥と恐怖に、耳が完全に頭の毛に伏せられる。けれど、生まれてからずっと自分を愛してくれた母親にだけは、この胸の拠り所のなさを隠し通すことはできなかった。

 

「俺……」

 

ルカは、自らの肉体を呪うような視線で、足元を見つめた。

 

「俺、みんなと……あいつらと、身体が違う気がするんだ。あいつらみたいに、男らしくなれない。胸が、なんだか、変に痛くて……膨らんできて……」

 

沈黙が、重く室内にのしかかった。

フレイアはそれ以上何も問いかけず、ただ、吸い寄せられるようにルカへと歩み寄ると、その華奢な身体を、両腕で狂おしいほど強く抱き締めた。

 

「お母さん……?」

 

「大丈夫よ、ルカ。大丈夫……」

 

その声は、ひどく震えていた。息子の問いに対する明確な答えは、何ひとつ含まれていなかった。

ただ、ルカの項(うなじ)に回された母の細い指先が、微かに戦慄いている。まるで、ずっと先送りにして、見ないふりをしてきた恐るべき運命の足音が、とうとうこの家のすぐ裏手まで迫ってきているのを、その肌で感じ取ってしまったかのように。

 

夕暮れが過ぎ去った集落は、いつもと変わらず穏やかで、静かだった。

けれど、目に見えない暗がりのなかで、ルカという存在を狂わせる歯車は、確実に、ゴト、と冷酷な音を立てて噛み合い始めていた。

 

第五節 隠された真実

集落に、外界からの旅の治療師が訪れたのは、それから数日後のことだった。

薬草の知識に長け、大陸各地の奇病や異能の症例を見てきたという、ひどく年老いた、眼光の鋭い老婆だった。

 

その老婆は、長老に連れられてルカを一目見るなり、その皺だらけの瞼を大きく見開いた。

 

「この子かい……?」

 

「そうだ。我らの里の至宝、光の神の祝福を宿した子だ」

 

長老が誇らしげに頷く。だが、治療師の老婆は、長老の盲信を冷ややかに聞き流しながら、ただルカの細い肢体を、頭の先から尻尾の先まで、あまりにも長い時間、ねめ回すように見つめ続けた。

やがて、彼女は表情を消し、静かに告げた。

 

「……少し、この診療小屋で、その身体を診せてもらいましょうかね」

 

その瞬間、ルカの隣にいたフレイアの顔色から、一瞬にしてすべての血の気が引いていくのを、ルカは見逃さなかった。

生まれた時から、母が誰かに対してこれほど生々しい「恐怖」を露わにしたことなど、一度もなかった。フレイアは、ルカの華奢な肩を抱き寄せるようにして、その細い指先を小刻みに震わせていたのだ。

 

二日目の午後。ルカは母に手を引かれ、乾燥した薬草の匂いが充満する小さな診療小屋のなかにいた。

窓から差し込む斜陽が、埃の粒子を黄金色に煌めかせている。

 

「そこへ、上着を脱いで座りなさい」

 

老治療師の、低く濁った声。ルカは言われるがまま、粗末な木製の椅子に腰を下ろした。

対面に腰掛けたフレイアは、自身の膝の上で、白くなるほど固く両手を握り締めている。その呼吸は浅く、今にも消え入ってしまいそうだった。

 

治療師の老婆は、ルカの脈を測り、その夜明け前の空のような紫の瞳の裏を覗き、そして――ルカが最も恐れていた、その衣服の下の身体へと、冷たい指先を触れさせた。

 

ルカの細い腰が、異物感に小さく跳ねる。

老人の指先は、ルカの小ぶりながらも確実に膨らみつつある胸に触れ、その鎖骨をなぞり、そして、男の象徴があるはずの下腹部へと、容赦なく進んでいった。

 

ルカは羞恥に顔を真っ赤に染め、きゅっと目を閉じた。

治療師は、指先からわずかなエーテルを照射しながら黙々とその奇異な肉体の構造を確かめていく。体調のゆらぎ、最近の身体の火照り、骨盤のわずかな開き。

すべての検診が終わったとき、小屋のなかには、耳が痛くなるほどの長い沈黙が支配していた。

 

やがて、老治療師は、肺の底から搾り出すような、深く重いため息を吐き出した。

 

「……そうかい。やはり、ね……」

 

「先生……っ」

 

フレイアの声は、悲鳴に似ていた。彼女はそれだけで、老人が手繰り当てた「真実」のすべてを理解したようだった。その美しい顔は涙に濡れ、声もなく崩れ落ちそうになっていた。

 

「お母さん? なんで泣くんだよ……。俺、どこか悪いの? 悪い病気なの?」

 

ルカは混乱し、椅子から立ち上がろうとした。誰も答えてくれない。窓の外で、ヒュウと風が不吉な音を立てて鳴いた。

 

「ルカ」

 

治療師の老婆が、ルカの肩を優しく、けれど拒絶を孕んだ力で押し止めた。その声は、ひどく憐憫に満ちていて、だからこそルカには、冷たい刃物のように恐ろしく感じられた。

 

「お前は、確かに特別な子だ。だがね……それは光の力だけのことじゃない」

 

「どういう、こと……?」

 

老老婆は、フレイアの涙を見つめ、それからルカの紫の瞳をまっすぐに見据えた。真実は、どれほど隠そうとも、いずれこの少年の肉体そのものが暴いてしまう。ならば、今この場で、残酷な現実を突きつけることこそが、この旅の医療者の義務であるかのように。

 

「お前の身体は、普通の男とも、女とも違う。……男としての象徴を持たず、奥には、女として命を宿すための『子宮』がある。だが――その子宮は完全に未成熟で、生殖の機能を持たない。お前は、男でも女でもない。そして、誰の子孫を残すこともできない……極めて異質で、不妊の『両性体』だ」

 

意味が、分からなかった。

男でも、女でもない? 子宮? 子孫を残せない?

ルカの頭の中は、真っ白な霧に覆われたように思考を停止した。

ただ、その言葉の響きが、自らの存在そのものを世界の枠組みから叩き落とすような、恐ろしい響きを持っていることだけは理解できた。

 

「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、ルカ……っ!」

 

フレイアが、床に膝を突き、ルカの細い太ももに縋り付いて激しく泣き崩れた。

なぜ、母が謝るのか。なぜ、母がこんなにも絶望した顔で自分を見るのか。

夕日が窓から容赦なく差し込み、小屋のすべてを、血のような赤色で染め上げていた。

 

第六節 母の願い

診療小屋から帰宅したその夜、エレミヤ家の食卓には、冷たい静寂だけが横たわっていた。

 

暖炉の薪が時折、パチ、と爆ぜる音だけが室内に響く。いつもなら、ルカが今日あった出来事を話し、フレイアがそれを愛おしげに聞く暖かな時間。だが、今夜のフレイアは、魂をどこかへ置き忘れてきたかのように、ただ一点を見つめて黙り込んでいた。

 

「お母さん」

 

耐えきれなくなったルカが、小さく声を絞り出した。

 

「俺……病気じゃないんだよね? 先生は、俺の身体が変だって言ったけど、どこも痛くないよ? 身体が、少しみんなと違うだけなら……俺、病気じゃないんだよね?」

 

フレイアの細い肩が、びくりと跳ねた。彼女はゆっくりと首を振る。

 

「ええ……病気なんかじゃないわ、ルカ。あなたは……生まれた時から、少しだけ、神様に特別に創られただけなの」

 

「特別って、なに……? 男でも女でもないって、あいつらに知られたら、俺……」

 

ルカの言葉は、それ以上続けられなかった。集落の連中が、どれほど「普通の枠組み」から外れたものを気味悪がるか、子どもながらに理解していたからだ。神の子として奉られている今の地位が、もしこの『異形の身体』を知られたら、どうなってしまうのか。

 

「男の子でも、女の子でもない部分を、ただ一緒に持っているだけ。それが、あなたの本当の姿よ……」

 

「俺は、男だろ……?」

 

ルカは、自らのアイデンティティにしがみつくように、必死に声を荒げた。「俺」という一人称が、今の自分を繋ぎ止める唯一の鎖だった。

 

「ええ、そうよ。あなたは私の、勇敢な男の子よ」

 

フレイアは即座に答えた。その言葉に、ルカの胸の尖った痛みが、ほんの少しだけ和らぐ。

けれど、母の表情に宿る、夜の深淵のような暗さは消えなかった。

 

「でもね、ルカ……」

 

フレイアは立ち上がり、ルカの前に跪くと、その華奢な両手を自身の両手で包み込んだ。彼女の瞳からは、大粒の涙が、堰を切ったように次から次へと溢れ出ていた。

 

「違うの、ルカ。悪いのはあなたじゃない。絶対に、あなたの身体は間違ってなんかいないわ……!」

 

「じゃあ、なんで……なんでそんなに泣くんだよ……っ!」

 

ルカの瞳からも、堪えていた涙が溢れ出した。

母の流す涙の正体が、ルカには怖くて仕方がなかった。それは、この先に待ち受ける、筆舌に尽くしがたい「拒絶」と「破滅」の未来を、母親の直感ですべて予感してしまっているがゆえの、絶望の涙だったのだ。

 

「お母さん……」

 

「ルカ、よく聞いて」

 

フレイアは、ルカの涙をその細い指の腹で優しく拭い去り、これ以上ないほど切実な、祈るような眼差しで我が子を見つめた。

 

「人はね、自分が理解できないもの、自分の知らないものを、本能的に怖がってしまう生き物なの。でもね、彼らがそれを『怖い』と思い、お前を『異形』だと拒絶したとしても……お前が、間違っていることには絶対に、ならないのよ」

 

ルカには、その言葉の本当の重みはまだ理解できなかった。けれど、母の言葉の熱だけは、その肌へと直に伝わってきた。

 

「だからね、ルカ。もしこれから、世界中の誰もがあなたの身体を、その存在を否定する日が来たとしても……あなただけは、自分を嫌いにならないで。自分を、呪わないで……」

 

「なんで……? 俺、みんなと違うのに、男なのに子どもも残せないのに、何のために綺麗でいればいいの?」

 

フレイアは、胸が張り裂けんばかりの哀切を込めて、ルカの頬に額を押し当てた。

 

「だってあなたは……こんなにも、美しく、清らかな光を持って生まれてきてくれたのだから。お前のその肢体も、その心も、誰よりも綺麗よ。……どんなに辛いことがあっても、その美しい身体と、美しい心のままで、生きて、ルカ……」

 

「……うん。お母さんがそう言うなら、俺、自分を嫌いにならない。美しく生きてみせるよ」

 

ルカは、母を安心させるために、無理に小さな唇を綻ばせて笑ってみせた。

大したことじゃない。身体が少し人より珍しいだけだ。俺にはみんなを癒やす光の力があるんだから、きっと大丈夫だ。――そう、自分に言い聞かせるようにして。

 

だから、ルカは気づかなかった。

その夜、自分が深い眠りに落ちた後も、母がずっと窓辺に座り、冷たい月光を浴びながら声を殺して泣き続けていたことに。

 

(神様……光の力を授けた、偉大なる神様……)

 

フレイアは、血を吐くような思いで、天へとその細い指を組み、祈り続けていた。

 

(どうか……どうかあの子を守ってください。あの清らかな子から、居場所を奪わないで。あの子の美しい身体を、呪いにしないで……っ。私がどうなっても構わない、だから、ルカだけは……!)

 

その切実な祈りは、かつて胎内に光を宿したあの夜よりも、遥かに濃密で、狂おしい悲痛を孕んでいた。

 

けれど、夜空の深淵は、今夜は何の光も返してはくれなかった。

冷徹な星々だけが、無慈悲に瞬いている。まるで、この親子の行く末にある、血と暴力に塗れた破滅のシナリオを、淡々と肯定するかのように。森の闇はただ深く、母の祈りの声を、静かに飲み込み続けていた。

 

 

 

第七節 ささやき

季節は、燃えるような黄金色から、枯れた灰褐色へと、静かに移ろおうとしていた。

森の木の葉は水分を失ってカサカサと乾いた音を立て、朝夕に吹き抜ける風は、肌を刺すような冷気を含み始めている。

 

そんなある秋の日の午後。ルカはいつものように、薬草を詰めた小さな籠を手に、集落の小道を歩いていた。

耳に触れる風の冷たさに、無意識のうちに肩をすぼめる。十三歳を過ぎてなお、彼の身体は一向に厚みを増す気配がなく、衣服の隙間から覗く首筋や手首は、なぞれば容易に折れてしまいそうなほど白く、細いままであった。

 

「おばあちゃん、頼まれてた関節の痛みを和らげるお薬、持ってきたよ」

 

いつものように馴染みの老婆の家の戸を叩き、静かに開け放つ。

けれど、いつもなら「よく来たねぇ、かわいいルカ」と破顔して迎えてくれるはずの、暖かな声は返ってこなかった。

 

薄暗い室内の中央、古びた木椅子に腰掛けた老婆は、ルカの姿を見るなり、びくりと肩を震わせた。その皺だらけの顔に浮かんだのは、歓迎ではなく、明らかな「動揺」だった。

 

「あ……ああ、ルカかい。ご苦労様。……そこに、置いておくれ」

 

老婆は慌てたように唇を歪めて笑ったが、その声はひどく上擦り、ぎこちなかった。

ルカは、微かな違和感に頭の上の耳をぴくりと動かした。けれど、深く詮索するようなことはせず、素直に薬の包みを机に置いた。いつものように、最近の体調を気遣う世間話を振ってみる。

それでも、何かが、決定的に違っていた。

 

老婆は笑っている。言葉も優しい。昔と何一つ変わらないはずだった。

それなのに、彼女の濁った双眸は、決してルカの瞳と正面から交わろうとはしなかった。ルカが少しでも距離を詰めようとすると、ほんの数インチだけ、椅子の上の身体を引く。

そこには、目に見えない硝子の壁が、強固に隔てられているかのような――冷たい距離があった。

 

 

同じ頃、集落の中心にある井戸端では、冷たい秋風に混じって、密やかな「囁き声」が絶え間なく交わされていた。

 

「ねえ、聞いたかい? 旅の治療師様が残していった、あのエレミヤ家の子の話……」

 

「ああ、誰もが大声では言わないが、里中その話でもちきりさ。……やっぱり、本当なのかい?」

 

女たちが、バケツを握る手を止めて肩を寄せ合う。悪口を言っているわけではない。誰かを呪っているわけでもない。ただ、彼女たちは怯えていたのだ。自分たちの平穏な理解の範疇を超えた「異物」が、すぐ隣に存在しているという事実に。

 

「男の魂を持ちながら身体は女っぽいうえに、その奥には女の臓器があるんだって。……男でも、女でもない。子どもを宿すことも、残すこともできない、神造の異形だとか」

 

「そんな身体が、本当に『光の神の祝福』なわけあるのかい…?」

 

そこで、一人がハッと息を呑み、声を一段と低く潜めた。

 

「……じゃあ、あの子の宿しているあの凄まじい光は、本当に神様の力なのか? ……もし、神様なんかじゃなくて、里を滅ぼすような、もっと不吉な魔物の……」

 

沈黙が、冷たく井戸端を支配する。

誰もその先を口には出さない。出すだけの確証も、根拠もない。

けれど、答えのない疑問は、ひとたび人の心の泥に落ちれば、疑心という名の根を恐るべき速さで張り巡らせていく。

悪意なき「恐れ」という名の種子は、静かに、確実に芽吹き始めていた。

 

 

その日の夕方。ルカは里の裏手にあるなだらかな斜面で、友人たちと遊んでいた。

幼い頃から泥に塗れて一緒に駆け回ってきた、気心の知れた仲間たち。変わらない顔ぶれ。だからこそ、ルカは彼らの輪の中にいる時だけは、胸の奥の不穏な寒さを忘れ、安心していられた。

 

「なぁ、ルカ」

 

不意に、一人の少年が地面の枯れ草を毟りながら、ぽつりと声を掛けてきた。

 

「ん? なに、カイル」

 

「お前さ……その、本当に、大丈夫なんだよな?」

 

ルカは紫の瞳を丸くし、瞬きをした。

「何が?」

 

「いや……」

少年は、きまずそうに視線を泳がせ、自身の頭をガシガシと掻いた。

「ほら、うちの親父たちがさ、夜に大勢で集まって、お前のところの変な話をしてたから。……その、お前の身体が、普通じゃないとか、どうとか」

 

周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。

他の少年たちも、一斉に動きを止め、気まずそうに下を向いた。彼らもまた、それぞれの家庭で、大人たちが声を潜めて語り合う「ルカの異形」についての会話を、盗み聞いていたのだ。

 

ルカの耳が、ペたりと頭の毛に伏せられた。

自分が里の人々の間で、得体の知れない「怪物」のように噂されている。それを、最も信じていた友人たちの口から突きつけられた、初めての瞬間だった。

 

「お、俺……」

 

「あ、いや! 別に気にするなよ!」

別の少年が、ルカの青ざめた顔を見て、慌てて取り繕うように大声を上げた。

「みんな、お前のこと大好きなのは変わらないし! お前には、俺たちを助けてくれた凄い光の力もあるんだからさ!」

 

大好き。その言葉は、確かに温かいはずだった。

しかし、その後に続いた無邪気な一言が、ルカの心臓を容赦なく踏みにじった。

 

「でもさ……ちょっと、怖いっていうか。ほら、あまりに凄すぎる力だし、身体も、俺たちと全然違うだろ? だから、大人たちもどう接していいか分かんねえんだよ」

 

ルカの全身から、血の気が引いていくのが分かった。

少年自身も、口走った瞬間に「あ、しまっ……」という顔をして両手で口を覆ったが、もう遅かった。

 

風が、ヒュウと音を立てて二人の間を吹き抜ける。誰も、何も言えなかった。

ルカは、いつものように冗談っぽく笑い飛ばそうとした。笑えば、この恐ろしい空気は霧散して、また元の無邪気な日々に戻れるはずだと、必死に顔の筋肉を動かした。

けれど、引き攣った唇からは、乾いた声しか出なかった。

 

「……そっか」

 

やっとの思いで、それだけを絞り出す。

胸の奥の、最も柔らかい部分が、バリバリと音を立てて軋み、壊れていくような感覚。

 

――怖い。

 

その二文字だけが、ルカの頭の中で狂ったように反響していた。

俺は、光の力でみんなを助けた。折れた足も治した。死にそうだったおばあちゃんの熱も下げた。みんなの喜ぶ顔が見たくて、ただそれだけのために、この力を差し出してきたのに。

それなのに、怖い、のか。

なぜだろう。俺が、男でも女でもない異形だからか。俺の身体が、気味が悪いからなのか。

いくら考えても、十三歳のルカには、その理不尽な現実の答えが、どうしても分からなかった。

 

 

夜、重い足取りで家へ帰ると、フレイアがいつもと変わらぬ優しい微笑みで迎えてくれた。

食卓の上には、湯気を立てる温かな野菜スープと、焼き立ての素朴なパン。いつもと何も変わらない、世界で一番安全なはずの光景。

けれど、ルカは椅子に腰掛けたまま、スプーンを握ることもせず、ただ暗いスープの水面を見つめて黙り込んでいた。

 

「ルカ? どうしたの、スープが冷めてしまうわよ」

 

フレイアが心配そうに覗き込んでくる。ルカはしばらく、唇を噛み締めて答えなかった。

やがて、堰を切ったように、ぽつりと、掠れた声がこぼれ出た。

 

「お母さん……」

 

「なあに?」

 

「俺って……怖い、のかな。……みんなにとって、俺は、気味の悪い生き物なのかな」

 

その瞬間、室内の時が止まった。

フレイアの手から、木製のスプーンが床へと滑り落ち、コトン……と乾いた、虚しい音を立てて転がった。

 

ルカは驚いて顔を上げた。だが、何よりもルカの胸を締め付けたのは、対面に立つ母の表情だった。

フレイアは、今にも声を上げて泣き出しそうなほどに顔を歪め、奥歯を噛み締め、押し寄せる絶望に必死に耐えていた。

彼女は、引き寄せられるようにしてルカの元へと歩み寄ると、椅子に座る我が子の細い身体を、壊れ物を守るように強く、狂おしいほど強く抱き締めた。

 

「違う……っ、違うわ、ルカ……っ!」

 

母の細い指先が、ルカの背中で激しく戦慄いている。

 

「あなたは、世界で誰よりも優しい子よ。誰よりも、清らかな光を持っているの……っ」

 

ルカは、母の胸の中で、ただじっと動かずにいた。

抱き締める母の力が強くなればなるほど、その裏側にある絶望の質量が、ルカの肌へと直に伝わってくる。

 

フレイアは、きつく目を閉じた。

本当は、分かっていたのだ。もう、誰にも止められない。里のなかに染み出し始めた、歪んだ噂、根拠なき疑念、そして生々しい「恐れ」。この冷酷な波は、いずれ自分たち一親子を丸ごと飲み込み、引き裂くまで終わらないということを。

けれど――それでも、守りたかった。せめて、あと少しの間だけでも。この汚れなき我が子が、自分を呪わずに、笑っていられる時間だけは。

 

窓の外では、容赦のない秋風が不吉な音を立てて吹き荒れていた。

木々の葉が、断末魔のように揺れる、酷く静かで、凍えるような夜だった。

 

 

 

第八節 境界線

冬の足音が、すぐそこまで迫っていた。

大気は吸い込むたびに肺を白く染めるほどに冷え込み、森を包む朝霧は、世界の輪郭を隠すように濃くなっていく。

 

ルカは、周囲の視線が変わっていくのを感じながらも、相変わらず人々を癒やし続けていた。

熱を出した子どもがいれば駆けつけ、腰を痛めた老人がいればその細い手を当てて光を注ぐ。他者を救うことだけが、自分がこの里に存在することを許される、唯一の免罪符であるかのように。

変わったのは、ルカではない。彼を取り巻く、周囲の人間たちだった。

 

 

ある朝のこと。集落の幼い子供が、原因不明の激しい高熱を出して引き付けを起こした。

母親は、青ざめた顔で我が子を抱き抱え、狂ったように家から飛び出してきた。

かつてであれば、彼女は何の躊躇もなく、真っ先にルカの家へと足をもぎ取らんばかりに駆けていっただろう。

だが――彼女は、広場の分岐点で、一瞬だけその足を止めた。

 

ほんの数秒。

ルカの家の方角を見つめ、その瞳に「躊躇」と「生々しい不審」の影を走らせた。

その数秒は、確かに存在した。

 

結局、我が子の苦しそうな喘ぎ声に背を押されるようにして、彼女はルカを呼びに走った。

ルカは報せを受けるやいなや、冷たい風を突いて必死に駆けつけ、自らの内に眠る光の力を限界まで絞り出して、子どもの熱を和らげた。

一命を取り留めた我が子を抱き締め、母親はルカに向かって、何度も、何度も床に頭を擦り付けるようにして感謝の言葉を述べた。涙を流し、神の奇跡を称えるように。その感謝の念には、何の一片の嘘もなかった。心からの、真実の安堵。

 

だが――ルカが治療を終え、辞去しようと背を向けた、その刹那だった。

母親は、安堵の息を漏らす我が子を、無意識のうちに自らの身体の奥へと、ぎゅっと引き寄せたのだ。

まるで、立ち去ろうとするルカの背中から、何かしらの病魔や呪いが移るのを防ぐかのように。隠すように、護るように。

 

その何気ない、本能的な防衛の仕草が――ルカの胸の奥底に、決して抜けない、鋭利な棘となって深く突き刺さった。

 

 

数日後の夜。集落の長老の呼びかけにより、ルカには知らされていない臨時の集会が開かれた。

広場の中央、赤々と燃え盛る焚き火を囲むようにして、村人たちが神妙な面持ちで集まっている。

 

ルカはその集会に呼ばれていなかった。

けれど、自室の粗末な窓から、遠くに見えるその光景を、じっと見つめていた。

火の粉が舞い散る中、大人たちが深刻な顔で、あるいは怯えた顔で、何かを激しく話し合っている。

時折、誰かの視線が、焚き火の向こうにあるルカの家へと向けられる。暗闇の窓辺に佇む、ルカ自身の姿を射抜くように。

それは、まるで――手に負えない、呪われた厄災の「答え」を、遠巻きに探るかのような、冷徹な眼差しだった。

 

集会から帰ってきたフレイアの顔色は、幽霊のように真っ白だった。

 

「お母さん……何の話をしてたの?」

ルカが静かに問いかける。フレイアは一瞬だけ唇を震わせ、それから、いつもの無理な笑顔を作ってみせた。

 

「なんでもないわよ、ルカ。……これからの、厳しい冬支度の相談をしていただけ」

 

嘘だった。ルカにも、それが明確な偽りであることくらい分かった。母は、昔から大切な我が子に嘘を吐くのが、酷く下手な人だったから。

けれど、ルカはそれ以上、追及することはしなかった。

これ以上、あの焚き火の向こうで交わされていた真実を剥ぎ取ってしまえば、二度と、昨日までの「優しい世界」には戻れなくなるような、底知れない恐怖があったからだ。

 

焚き火の周囲で交わされていたのは、このような、残酷なまでの「正論」だった。

 

『ルカは、確かに良い子だ。里のために、尽くしてくれている』

誰もがそう言った。そこに異論を唱える者は、一人もいなかった。優しい。働き者だ。彼の光の魔法によって、どれほどの命が救われてきたか、全員が身を以て知っている。

 

『だが……もし、あの身体が、本当に神の祝福ではなく、悪魔の呪いだとしたら?』

『男でも女でもない身体なんて、生生しい、気味が悪すぎる。本当にあれは、人間なのか?』

『もし、あの尋常ならざる光の力が、いつか里に災いをもたらす引き金になったら、誰が責任を取るんだ?』

 

不安には、何の根拠もなかった。悪魔を見た証拠など、どこにもない。

けれど人間という脆弱な生き物は、自らの理解の範疇を超える存在に対し、安易な「理由」を付けたがる。そして、理由が見つからなければ、自らの内にある最悪の想像力でその空白を埋め、それを「正当な恐怖」へと仕立て上げていくのだ。

 

 

翌朝。ルカは誰にも何も告げず、一人で深い森の奥へと向かった。

ただ、人間たちの視線が存在しない場所へ行きたかった。胸が、押し潰されそうなほどに苦しくて、呼吸の仕方が分からなくなっていたからだ。

 

森の奥深く、幼い頃から大好きだった、巨木の根元。湿った苔の上に、ルカは力なくその肢体を投げ出した。

そして――そこで、生まれて初めて、声を上げて泣いた。

 

大声で叫ぶわけではない。ただ、その白い頬を、大粒の涙が、ぽたり、ぽたりと絶え間なく零れ落ち、地面の枯れ葉を濡らしていく。

 

「なんなんだよ……。俺が、何をしたっていうんだよ……っ」

 

呟く声は、誰に向けたものでもなかった。

何がこんなに辛いのか、何が悲しいのか、ルカ自身にも正確な言葉にすることはできなかった。

里の誰かに、直接暴力を振るわれたわけではない。面と向かって石を投げられたわけでも、罵倒されたわけでもない。みんな、今だって会えば親切にしてくれる。

なのに――苦しかった。

 

昨日まで、確かにそこにあったはずの、温かな世界との繋がり。それが、目に見えない強固な「境界線」によって、少しずつ、少しずつ、外側へと押し出されている。自分という存在だけが、世界ののけ者にされていくような、底なしの孤独。

 

「俺……何か、悪いこと、したのかな……」

 

震える声に、森の木々は何も答えてはくれない。ただ、冷たい風が通り過ぎていく。

 

その時だった。ルカの涙に呼応するように、彼の細い指先から、ふわりと暖かな光の粒子が溢れ出した。

それは白銀の、美しい小さな光の群れ。悲しみに暮れる主を慰めるように、あるいはその華奢な身体を甘く愛撫するように、ルカの周囲を優しく漂い、ゆらゆらと踊る。

 

「……光が、慰めてくれてるのかな……」

 

ルカは涙を拭い、自らの力から生まれた光を見つめ、かすかに唇を綻ばせた。その瞬間だけは、彼の美しく儚い横顔に、かつての無垢な輝きが戻ったかのように見えた。

 

けれど――森の入り口の物陰から、その神秘的な光景を、息を殺して凝視している者がいた。

 

例の中年の狩人だった。

彼は足を止め、ルカの周囲で異常な高密度を持って明滅する光の群れを見つめていた。その瞳に宿ったのは、やはり、底知れない「恐怖」だった。

 

主の悲しみに寄り添うはずの光の奇跡。それは、狩人の目には、人外の化け物が、森の魔力と交信して怪しげな術を操っている不気味な儀式にしか、見えなかったのだ。

 

説明のつかない力。理解を超えた身体。

その恐怖は、男の口から、また新たな歪んだ噂となって集落の闇へと広がっていく。

誰も気づかないうちに、ルカと人間たちの間に引かれた境界線は、取り返しのつかない深さへと、刻一刻と刻み込まれていった。

 

 

 

第九節 離れていく手

とうとう、空から白い雪が舞い降りてきた。

集落の茅葺き屋根は瞬く間に白く染まり、森の木々もまた、物言わぬ冬の装いへと姿を変えていく。

 

ルカは、十五歳という大節目を迎えていた。

けれど、彼の身体は相変わらず、時が止まったかのように華奢で、小柄なままだった。

同年代の少年たちが、いよいよ大人の男としての骨格を完成させ、逞しい肢体を誇るようになる中、ルカだけは、まるで美しい少女が男の服を纏っているかのような、残酷なほどに瑞々しく、儚い輪郭を保ち続けていた。

だが――それでも、友人たちはまだ自分の側にいてくれる。ルカは、心のどこかでそう信じ込もうとしていた。

 

 

その日の昼下がり。ルカは雪が激しく降り積もる森の入り口で、一人、凍える手を吐息で温めながら待っていた。

約束をしていたのだ。幼い頃から、どんな時も一緒にバカ笑いをして過ごしてきた、親友のカイルたちと。今日は、大人の狩りに同行するための、秘密の特訓をしようと約束していた。

 

ザク、ザクと、新雪を踏みしめる重い足音が聞こえてくる。

遠くの雪霧の向こうに人影が見えた瞬間、ルカの顔に、パッと花が開くような明るい笑顔が戻った。

 

「カイル! 遅いよ、待ちくたびれちゃった……」

 

ルカは嬉しそうに駆け寄ろうとした。

だが、数歩進んだところで、カイルはその場にピたりと足を止めた。その顔は、酷く歪み、まるで罪人にでも会ったかのように困惑と気まずさに満ちていた。

 

「どうしたの……? 他のみんなは?」

さらに近づこうとするルカに対し、カイルは弾かれたように、一歩――明確な拒絶の意志を持って、後ろへと下がった。

 

その、わずかな後退が。

ルカの胸の温もりを、一瞬にして氷点下へと叩き落とした。

 

「……ごめん、ルカ」

カイルは地面の雪を見つめたまま、消え入りそうな声で呟いた。

「今日の約束……行けなくなったんだ。他のみんなも、来ない」

 

「え……? なんで? 具合でも悪いの?」

 

カイルは、どうしてもルカの紫の瞳を見ることができなかった。唇を血が出るほど噛み締め、答えたくない、逃げ出したいという色を全身から滲ませている。

 

「親父が……」

そこで、少年の言葉が詰まる。

ルカは、それ以上の先を促す言葉を発することができなかった。続きを聞いてしまえば、本当にすべてが終わってしまう。その予感が、喉を締め付けていた。

 

「親父が……もう、お前とは遊ぶなって。あの一親子は、里に何をもたらすか分からないから、近づくなって……。ごめん、ルカ。俺……」

 

静寂が、世界を支配した。

上空からは、ただ音もなく、容赦なく、白い雪が降り積もっていく。すべてを白く、冷たく、覆い隠すように。

 

ルカは、笑おうとした。

「なんだよそれ、気にしすぎだって!」と、いつものようにカイルの肩を叩いて笑えば、彼も「だよな!」と笑ってくれるかもしれない。そんな、一縷の、惨めなまでの希望に縋ろうとした。

けれど、凍りついた唇からは、空気の抜けるような音しか出なかった。

 

「……そっか」

 

やっとの思いでそれだけを告げると、カイルは今にも泣き出しそうな顔をしてルカを見上げた。

 

「お、俺は……! 俺自身は、お前の身体のことなんて、何とも思ってないんだ! 昔通り、お前は仲間だと思ってる、だから……っ!」

 

必死に取り繕うとするそのカイルの言葉が。

なぜだろう、今のルカにとっては、どんな罵倒よりも、生々しく胸を切り裂く刃となった。

『何とも思っていない』――それは裏を返せば、カイル自身も、ルカの身体が「何かしら異常で、気にするべき異形である」という事実を、すでに明確に認識しているという証明に他ならなかったからだ。

 

「うん……分かってるよ、カイル」

ルカは、静かに頷いた。

「怒ってないよ。……教えてくれて、ありがとう」

 

本当に、怒ってなどいなかった。ただ――胸の奥の空洞が、これ以上ないほどに冷たく、悲しかった。

「ごめん……!」

カイルはもう一度そう叫ぶと、自らの罪悪感から逃れるようにして、脱兎のごとく雪の向こうへと走り去っていった。その背中を、ルカは追いかけることも、呼び止めることもできなかった。

 

 

その日の夕暮れ。家へと帰る途中、ルカは集落の中央にある広場を通りかかった。

雪の積もる広場では、里の幼い子どもたちが、無邪気に雪玉を投げ合って遊んでいた。かつては、ルカもその中心にいて、彼らの笑顔を守るお兄ちゃんだったはずの場所。

 

一人の子供がルカの姿に気づき、パッと顔を輝かせて手を振ろうとした。

その瞬間、物陰から飛び出してきたその子の母親が、まるで魔獣の襲撃から我が子を庇うかのような苛烈な勢いで、子供の華奢な肩を自らの胸元へと抱き寄せた。

 

子供は不思議そうな顔でルカを見つめ、母親は、酷く気まずそうに、けれど明確な嫌悪の影を瞳に宿して、ルカから視線を逸らした。

悪意があったわけではない。ただ、我が子を「得体の知れない異物」から守りたいという、あまりにも原始的な、それゆえに最も残酷な母性本能。

 

ルカは足を止めることなく、ただ、前だけを見つめて歩き続けた。

心臓の奥が、冷たい氷の楔で何度も突き刺されているかのように痛かった。

 

 

夜。エレミヤ家の食卓には、いつも通り、湯気の立ち上る温かなシチューが並べられていた。

フレイアは、何事もなかったかのように、いつも通り明るく、健気に振る舞おうと必死に言葉を紡いでいた。

けれど、ルカは気づいていた。母もまた、里のすべてが変わってしまったことを、自分が世界から弾き出され始めていることを、すでに知っているのだと。

 

「お母さん」

ルカは、シチューに手をつけないまま、静かに口を開いた。

フレイアの動かす手が、ぴたりと止まる。

 

「なあに、ルカ?」

 

「俺……」

ルカは少しだけ言い淀み、それから――あまりにも悲しげな、諦念に満ちた笑顔を浮かべた。

「俺さ、みんなに……嫌われちゃったみたいだ」

 

その瞬間、フレイアの美しい顔が、目に見えて激しく歪んだ。まるで、鋭利なガラス破片で、その心を直接引き裂かれたかのように。

 

「違うわ……っ! そんなこと、絶対にないわ、ルカ! みんな、冬の寒さで少し余裕がないだけで……っ」

 

「違わないよ、お母さん」

ルカは、静かに首を振った。

生まれてから十五年間、ルカが母の紡ぐ言葉を、明確に否定したのは、これが初めてのことだった。

 

「分かるんだ。みんな、俺を見る目が、あいつらを見る目と全然違う。まるで……触っちゃいけない、汚いものを見るみたいに、俺を見るんだ」

 

フレイアは、言葉を失った。

どんな美しい慰めも、どんな力強い励ましも、今この瞬間のルカの傷ついた瞳の前では、あまりにも空虚で、欺瞞に満ちた偽りになってしまうことを、彼女もまた悟ってしまったからだ。

 

ルカは視線を落とし、窓の外で降り続く雪を見つめた。

どこまでも白く、すべてを押し潰していく世界。

 

「俺……何か、悪いことしたのかな。みんなを助けたくて、一生懸命がんばったのに、男でも女でもない身体に生まれたら……それだけで、俺は悪い子なのかな」

 

その悲痛な問いかけに、フレイアの目から、堪えていた涙が一気に溢れ出した。

彼女は声を震わせながら、激しく首を振る。

「してない……っ! あなたは、何一つ悪いことなんてしてないわ、ルカ……っ!」

 

フレイアは立ち上がり、ルカの元へと駆け寄ると、我が子を押し潰さんばかりの力で何度も、何度も抱き締めた。かつて彼が生まれたあの青空の日と同じように、自らの命のすべてを使って、この理不尽な世界から我が子を隠し、守ろうとするかのように。

 

「あなたは何も悪くない……。何一つ、間違ってなんかいないわ……っ!」

 

ルカは、母の細い肩にそっと額を預けた。

母の身体は、驚くほど暖かかった。けれど、その温もりが、今のルカにとっては逆に、耐え難いほどの痛みを伴って胸に染み込んできた。

世界中で、この母親だけが変わらない。母親だけが、自分を「ルカ」として愛してくれる。

だからこそ、明確に分かってしまうのだ。自分を愛してくれていたはずの、他のすべての世界が、完全に自分を拒絶し、変わってしまったという冷酷な事実が。

 

窓の外では、音もなく、ただ静かに雪が降り続いていた。

これから二人に訪れる、あまりにも過酷で、あまりにも長い、破滅の冬の到来を告げるかのように、白い闇が世界を深く、深く包み込んでいった。

 

 

 

第十節 母への視線

冬は、容赦なくその深みを増していった。

日を追うごとに雪の層は厚くなり、集落のすべてを物言わぬ白の世界へと厳重に閉じ込めていく。

 

かつてであれば、ルカにとって冬は大好きな季節だった。

幼馴染たちと笑いながら雪玉を投げ合い、冷え切った身体で帰宅しては、暖炉の爆ぜる火の前で母の淹れてくれた温かいお茶を飲み、他愛のない話に花を咲かせる――そんな、どこにでもある当たり前の冬。

だが、十五歳になった今のルカの周りには、ただ硝子のように張り詰めた沈黙だけがあった。

 

友人たちは、もう誰もルカの家を訪れなかった。森への誘いも、他愛のない悪ふざけの声も、雪の中に完全に消えてしまった。

村人たちは、道で会えば相変わらず挨拶をしてくれる。体調を気遣う言葉もかけてくれる。けれど、その優しさは、どこまでも遠かった。まるで、分厚く冷たい硝子を何枚も隔てた向こう側から、義務的に注がれる温もりのように。

 

 

ある朝。ルカは防寒の上着を羽織り、家の前で一人、薪を割っていた。

重い斧を振り下ろすたびに、カァン、と乾いた、虚しい音が冬の澄んだ空気に響き渡る。

 

その時だった。

積もった雪を踏みしめながら、家の前を通り過ぎていく数人の女性たちの話し声が、ルカの鋭敏な耳に届いた。風の悪戯だった。決して、聞き耳を立てるつもりなどなかったのだ。

 

「……でも、フレイアも本当に可哀想よねぇ」

 

「ええ……。まさかあんな、男だか女だか分からないような子になるなんて、夢にも思わなかったでしょうに」

 

ルカの細い腕が、ピたりと止まった。振り上げた斧の重みが、そのまま肩に重くのしかかる。胸の奥の臓器が、一瞬にして凍りついたかのように冷たくなった。

 

「本人が悪いわけじゃないのよ、分かってるわ。ルカは本当に優しい、良い子なんだもの」

 

「ええ、分かっているわ。でもねぇ、やっぱり……」

 

その先は、遠ざかる足音とともに雪の彼方へと消えていった。

ルカは、凍りついたように動けなかった。

――あんな子。

その、悪意のない、哀れみに満ちた言葉の響きだけが、いつまでも、いつまでも耳の奥で、鋭い針のように回り続けていた。

 

 

その日の夜。フレイアは、夜がすっかり更けてから、疲れ果てた足取りで帰宅した。

いつもより幾分か小さく見えるその肩には、夜の湿った雪が、重そうに降り積もっている。

 

「遅かったね、お母さん」

暖炉の前で膝を抱えていたルカが、静かに声をかけた。

フレイアはハッとしたように顔を上げると、すぐにいつもの、無理に作った明るい微笑みを浮かべた。

 

「ええ、少し長老のところへ行って、冬の備蓄の相談をしていたの」

 

ルカは何も言わずに、ただ炎を見つめた。

最近、こういうことが明らかに増えていた。長老の家、臨時の集会、終わらない話し合い。

大勢の大人たちが集まって、何かを話し合っている。自分に関する、何か恐ろしい決定を下そうとしているのを、ルカは肌で感じ取っていた。

 

「お母さん」

 

「なあに、ルカ?」

 

「……俺のせい?」

暖炉の爆ぜる音が、不意に大きく聞こえた。

フレイアの表情が、凍りついたように硬直する。

「何が……? 何を言っているの、ルカ」

 

「お母さんが、里のみんなに冷たい目を向けられて、嫌な思いをしてること。……俺のせいでしょ」

 

沈黙が、重く室内にのしかかった。薪がパチリと音を立てて火の粉を散らす。

フレイアはゆっくりと目を伏せ、きつく唇を噛み締めてから、静かに首を振った。

「違うわ、ルカ。そんなこと――」

 

「嘘だ」

ルカは、生まれて初めて、母の言葉を明確に、強く遮った。

声を荒げたわけではない。ただ、その声があまりにも悲しげで、すべてを悟ってしまっている響きを持っていたからこそ、フレイアの胸を深く抉った。

 

「最近、みんなお母さんを見る目も変だよ。避けるみたいに、哀れむみたいに見てる。……俺だけじゃない。俺のせいで、お母さんまで……っ」

 

その瞬間、フレイアの胸は張り裂けんばかりに締め付けられた。

自分に対する噂など、どうでもよかった。どんな陰口も、軽蔑の視線も、愛する我が子を守るためなら、喜んで耐える覚悟があった。

だが――ルカが、そのことに気づいてしまっていた。自分の存在が母親を苦しめているのだと、そんな残酷な免罪符を、十五歳の小さな胸に抱え込ませてしまっていた。それが、何よりも辛く、耐え難かった。

 

 

翌日。集落の広場で、本当に、些細な事件が起きた。

一人の幼い子供が、雪に足を取られて派手に転び、膝を擦りむいてしまったのだ。子供は、痛みに顔を歪めて激しく泣き出した。

 

近くにいたルカは、反射的に身体が動いていた。

生まれた時から、誰かが傷つけば、その痛みを癒やすために手を差し伸べてきたのだ。考えるより先に、雪を踏みしめて駆け寄る。

 

「大丈夫かい? 痛いの痛いの、飛んでいけ、って……」

ルカは子供の前に膝をつき、自らの白く細い掌に、温かな光を灯そうとした。

 

その時だった。

 

「待って……! 触らないでっ!」

 

切り裂くような母親の悲鳴が、白銀の広場に響き渡った。

ルカの動きが、ピたりと止まる。

子供の母親は、狂ったような形相で駆け寄ると、ルカの手を払いのけるようにして、我が子を乱暴に抱き上げた。その顔は、恐怖で幽霊のように青ざめている。まるで――我が子が、底知れない致死の毒物にでも触れそうになったのを、必死で防ぐかのように。

 

静寂。

広場の空気が、一瞬にして氷結した。

母親自身も、自分が何をしてしまったのか、ルカに対してどれほど残酷な「拒絶」を剥き出しにしてしまったのかを、その瞬間に理解したのだろう。

 

「ち、違うの……」

彼女は震える声で、必死に言い訳を探そうとした。

「私は、ただ……その、ごめんなさい……っ、違うの……」

 

しかし、言葉の続きは出てこなかった。

ルカは、ゆっくりと立ち上がった。そして、泣きそうな顔をしている彼女を安心させるために、無理に、酷く痛々しい微笑みを浮かべてみせた。

 

「……気にしないで。俺、大丈夫だから。……お大事に」

 

声が、少しだけ掠れていた。

誰も、何も言わなかった。母親は今にも泣き出しそうな顔で我が子を抱き締め、周囲の大人たちも、気まずそうに視線を落とした。

広場にいる全員の胸が、苦しさで満たされていた。

誰も、ルカを悪意を持って傷つけたいわけではないのだ。ルカが良い子であることも、みんな知っている。

けれど――それ以上に、彼らの中にある「未知なるものへの恐怖」が、善意をいとも簡単に、打ち負かしてしまった。ただ、それだけのことだったのだ。

 

 

その夜。ルカはベッドに入っても、どうしても眠ることができなかった。

静かに起き上がり、冷え切った窓辺に座って、月光に照らされる雪景色をじっと眺めていた。

音のない、白い、美しい世界。

 

ルカはふと思った。あの昼間の母親は、悪い人だっただろうか、と。

違う。彼女はとても優しい人だった。昔はルカに会うたび、笑顔でお菓子をくれたし、彼女自身が病気になった時は、ルカの光に涙を流して感謝してくれた。

なのに、なぜ。どうして、みんなこんな風になってしまったのだろう。

 

答えは、出なかった。

ただ、一つだけ、世界の確固たる事実として分かってしまったことがあった。

みんなが変わってしまったのではない。みんな、ルカという「異形」をどう扱っていいか分からず、苦しんでいるのだ。

そして、そのすべての苦しみと歪みの原因は――自分自身なのだ、と。

 

まだ十五歳の少年は、この長い冬の中で、少しずつ、世界の残酷な仕組みを学び始めていた。

人間の心にある「恐れ」という怪物は、時に、どんなに積み重ねた「善意」よりも、遥かに強く、容易く世界を支配してしまうということを。

 

 

 

第十一節 長老たちの夜

その夜、集落の端にある頑強な集会所には、重々しい火がともされていた。

外では雪が激しさを増し、冷たい地吹雪が木製の壁を激しく叩く音が、絶え間なく室内に響いている。

 

天井の低い室内には、里の主要な大人たちが十数人、押し黙ったまま集まっていた。

長老、屈強な狩人たち、薬草を管理する薬師、そして、幼い子供を持つ親たち。全員が、まるで葬儀の場にいるかのように、暗く、重い顔をしていた。誰一人として、好きでこの場に集まった者などいなかった。

そして、その張り詰めた空気の片隅に、フレイアもまた、毅然とした、けれど今にも折れてしまいそうな佇まいで座っていた。

 

 

「……まず、皆の共通の認識として、確認しておきたい」

 

長老が、深く刻まれた顔の皺を揺らしながら、ゆっくりと口を開いた。その老いた声には、隠しきれない疲弊が滲んでいる。

 

「我らの中に、ルカを憎んでいる者は、一人もおらん。……それは、事実だな?」

 

誰も反論しなかった。ただ、誰もが静かに頷いた。それは紛れもない事実だったからだ。

ルカは優しい。誠実だ。頼まれれば嫌な顔一つせず、その奇跡の光で多くの命を救ってきた。皆、知っている。皆、心から感謝しているのだ。

 

「だが……」

長老は言葉を区切り、重いため息とともに続けた。

「……ルカを『恐れている』者が、日ごとに増えているのもまた、紛れもない事実なのだ」

 

沈黙。誰も否定できなかった。

一人の母親が、耐えかねたように深く俯き、肩を震わせた。

「私も……」

それは、昼間に広場でルカを拒絶してしまった、あの母親だった。彼女は涙を溢れさせながら、掠れた声で訴えた。

「怖いのです……っ。悪意なんてありません、ルカには感謝しています。でも、あの子の周囲で、誰も命じていないのに、あの恐ろしいほどの白銀の光が、生き物のように舞うのを見たのです。……まるで、人ではない、もっと別の恐ろしい何かが、あの子の身体を器にして潜んでいるようで……っ」

 

「やめてください……っ!」

 

フレイアが、初めて口を開いた。

静かな、けれど地響きのような強さを持った声だった。彼女は立ち上がり、集まった大人たちを紫の瞳でまっすぐに見据えた。

 

「ルカは、人間です。……私の、お腹を痛めて産んだ、血の通った優しい子です。誰よりも里を愛し、誰よりも他人の痛みに寄り添える、ただの十五歳の男の子なんです……っ!」

 

「分かっている、フレイア。お前の言うことは、すべて正しい」

長老が、宥めるように手を挙げた。

 

「なら……!」

フレイアの声が、悲鳴のように大きくなる。

「なら、なぜこんな残酷な話し合いをしなければならないのですか! ああやって遠巻きにして、怯えて、あの子から微笑みを奪って……何が満足なのですか!」

 

誰も答えない。答えられなかった。

彼らの恐怖は、理屈ではない。本能が告げる「未知への警戒」だからこそ、フレイアの正論では、どうしても上書きすることができないのだ。

 

 

やがて、壁際に腕を組んで立っていた、一人の大柄な狩人が重い口を開いた。

あの雪の日の森で、泣いているルカの周囲を舞う神秘的な光を、目撃してしまった男だった。

 

「……俺にも、何が正しいのかは分からん」

低い、地を這うような声。

「ルカが良い奴なのは知ってる。だが……俺は見てしまったんだ。あの雪の森で、あいつの涙に合わせて、あの世のものとは思えんほど美しい光が、あいつの身体を愛撫するように蠢いていた。……俺は、長年この森で獣を狩ってきた。どんなに獰猛な獣でも、目を見れば、次にどう動くか、危険かどうかが分かる」

 

狩人は、自身の無骨な拳をギチ……と固く握り締めた。

「だが、あいつの宿している『あれ』だけは、どうしても分からんのだ。人間とも思えん身体、人間とも思えん力。……分からないものは、防ぎようがない。それが、俺たちには堪らなく恐ろしいんだ」

 

その言葉を聞いた瞬間、フレイアの顔から、一滴の血も残らないほどに血の気が引いていった。

――分からない。

それこそが、この里の人々を突き動かしている、底なしの恐怖の本質だったのだ。ルカがどれほど善行を積もうとも、「本質が分からない」という一事だけで、彼は不吉な怪異へと仕立て上げられてしまう。

 

 

長老は深く目を閉じ、長い沈黙の末に、誰もが心の中で思いながらも、決して口に出したくなかった最悪の結論を告げた。

 

「……しばらくの間、ルカには、集落の中心から少し離れた場所に、移り住んでもらった方が良いかもしれん。……お互いのために、な」

 

ガタァン……ッ!

 

激しい音が、集会所に響き渡った。

フレイアが立ち上がった拍子に、木製の椅子が床へ激しく倒れたのだ。

 

「駄目です……っ!」

即答だった。彼女の瞳には、怒りと、我が子を絶対に守るという狂おしいほどの母性が、烈火のごとく燃え盛っていた。

「それだけは、絶対に認めません! 集落から離すということは、あの子を化け物として追放するのと同じです! そんな残酷なこと、母親として、絶対に許しません……っ!」

 

誰も、フレイアと目を合わせることができなかった。皆、苦しそうに顔を背けた。

分かっているのだ。自分たちがやろうとしていることが、決して「正しいこと」ではないと。恩人を裏切る、卑劣な行為であると分かっている。

けれど、このまま不安が広がり続ければ、いつか誰かが暴走し、ルカに対して直接的な暴力を振るうかもしれない。里が破滅するかもしれない。その前に、物理的な「距離」を置くしかないのだという陰湿な空気が、すでに室内を完全に支配していた。

 

 

話し合いが終わり、解散となったのは、夜が完全に更けた深夜だった。

外の雪はさらに激しさを増し、吹き付ける風がフレイアの頬を凍らせていく。けれど、彼女の胸の奥を焦がす痛みに比べれば、冬の寒さなど無に等しかった。

 

トボトボと雪を踏みしめ、我が家へと辿り着く。

見上げれば、家の小さな窓から、橙色の暖かな灯りが、静かに雪の世界へと漏れ出ていた。

あの子が、いる。世界でたった一人の、自分の愛する宝物が、あの中で待っている。

 

扉を静かに開けると、暖炉の残り火が、室内を優しく照らしていた。

そして――机に突っ伏したまま、静かな寝息を立てて眠っているルカの姿が、そこにあった。

 

翌日の勉強をしていたのだろう。机の上には開かれた古びた本と、ルカの細い筆跡で書かれた、いくつかの走り書きの文字。

フレイアはその姿を見つめたまま、玄関先で立ち尽くした。

 

(十五年前の、あの青空の日……)

 

初めてこの腕に抱き上げた、あの小さくて、壊れそうなほどに柔らかかった命。

初めてルカが自分を見て笑ってくれた日。初めてその細い足で歩いた日。そして……その小さな掌から、初めて祝福の光を溢れさせた日。

全部、鮮明に覚えている。昨日のことのように、すべて。

 

「どうして……」

フレイアの唇から、血を吐くような呟きがこぼれた。大粒の涙が、床の雪解け水へと落ちていく。

「どうして、あんなに優しくて綺麗なこの子が、こんな目に遭わなければならないの……。神様、答えてください……っ!」

 

天は何も答えない。神はただ、冷徹な沈黙を保ったままだった。

フレイアはそっとルカの傍らに膝をつくと、眠る我が子の青い髪を、壊れ物に触れるように優しく撫でた。

月光を浴びて眠るルカの顔は、あまりにも綺麗だった。里の誰よりも、世界の何よりも。

だからこそ、胸が張り裂けそうだった。

 

フレイアは、まだ知らなかった。

この優しくも悲しい夜が、母と息子の平穏な時間を繋ぎ止める、最後の冬の夜になるということを。

 

 

 

第十二節 春を待つ家

冬は、どこまでも長かった。

積もった雪は遅くまで溶け残りに抵抗し、集落は長い間、物言わぬ白の骸の中に閉じ込められていた。

 

けれど、どれほど拒もうとも、季節は確実に動き始めていた。

差し込む日差しは、ある朝を境にふわりと柔らかくなり、遠くの梢からは、帰ってきた鳥たちのさえずりが聞こえ始める。耳を澄ませば、山の向こうから、かすかに雪解けの水がせせらぐ音が響いていた。

世界には、確かに春が近づいていた。

 

けれど、ルカたちの家だけは違った。そこだけ、時間も季節も、永遠に冷たい冬のままで止まってしまっているかのようだった。

 

 

最近のフレイアは、以前よりもよく笑うようになっていた。

不自然なほどに、絶え間なく。

朝になれば、過剰なほどに明るい声でルカを起こし、朝食を作りながら楽しそうに鼻歌を歌い、他愛のない冗談を言って笑う。

まるで、そうしていなければ、自らの内側から溢れ出してしまいそうな「絶望」と「恐怖」を、隠し通すことができないかのように。

 

ルカは、そんな母の姿を、すべて気づいていた。

お母さんは、無理をしている。自分には言えない、恐ろしい何かを、その細い背中に一人で抱え込んでいるのだと。

けれど、ルカは何も聞かなかった。今ここで「何があったの?」と問い詰めてしまえば、張り詰めた糸が切れ、お母さんを決定的に傷つけてしまうような気がしたからだ。

だから二人とも、あえて核心には触れず、他愛のない会話だけを交わし続けた。

それは、お互いを狂おしいほどに想い合う、優しさゆえの「沈黙」だった。

 

 

ある日の夕方。ルカは家の裏手で、薪の束を運ぶ作業をしていた。

カサカサと枯れた薪を抱え、家の角を曲がろうとした、その時だった。

 

家の前に、誰かの話し声が聞こえた。

長老の、低く掠れた声だった。ルカは反射的に、凍りついたように足を止めた。

聞いてはいけない。今すぐここから立ち去るべきだ。頭ではそう分かっているのに、自らの宿命を察知したかのように、身体が石のように固まって動かなかった。

 

「……まだ、決定したわけではない。里の者たちを、儂が必死に宥めている段階だ」

長老の苦渋に満ちた声。

「だが……村人たちの不安は、もう限界まで広がっている。フレイア、お前だって分かっているだろう」

 

数秒の沈黙の後、風に乗って聞こえてきたのは、激しく震えるフレイアの声だった。

「……だからといって、あの子から、この里の居場所を奪うというのですか」

 

ルカの心臓が、ドクン、と大きく跳ね上がった。

――自分のことだ。

すぐに、すべてを理解した。やはり、大人たちは自分を排除しようとしているのだ。

 

「誰も、そんな大層なことを言っているわけでは……」

 

「同じことです!」

フレイアが、長老の言葉を激しい気迫で遮った。

穏やかで、誰に対しても礼儀正しかったあの母親が、里の最高権力者である長老に向かって、これほど強く言い返すなど、生まれてから一度も見聞きしたことがなかった。

 

「あの子が、どれほど傷ついているか、あなた方に分かりますか……っ! 毎日です! 毎日、大好きな里の人たちから怯えられ、避けられ……あの子の心が、毎日どれほど血を流しているか、分かっているのですか……っ!」

 

フレイアの声が、過度の感情に耐えかねて、かすれ、震えている。

静寂。冷たい春の風が、二人の間を吹き抜けていく。

裏手でそれを聞いていたルカは、呼吸をすることさえ忘れ、ただ胸を両手で強く押さえていた。

苦しい。息ができないほどに、胸の奥が痛くて、痛くて、たまらなかった。お母さんに、あんな声をさせているのは、全部、自分の存在なのだ。

 

 

その夜。ルカは、やはり眠れなかった。

暖炉の火は小さく衰え、灰の底で赤く燻っている。隣の部屋からは、疲れ果てた母の、微かな寝息が聞こえていた。

世界は静かだった。けれど、ルカの頭の中は、嵐のように雑音が吹き荒れていた。

 

――居場所を奪う。

 

長老の言葉が、どうしても頭から離れない。

里の大人たちは自分のことで悩み、村人たちは自分を恐れて怯え、何より、世界で一番大切なお母さんが、自分のために、身を削るようにして苦しんでいる。

全部、全部――自分のせいだ。

 

「……俺さえ、いなければ」

 

ぽつりと、暗闇の中に言葉を零した。その言葉は、冷たい室内の空気に吸い込まれ、消えていく。

もし自分という「男でも女でもない異形」がいなければ。

お母さんは、夜中に声を殺して泣くこともなかった。里のみんなも、怯えて暮らす必要はなかった。この集落は、かつてのように平和で、穏やかなままだったはずなのに。

一度頭の中に芽生えたその暗い思考は、冷たい泥のようにルカの心を侵食し、二度と消えることはなかった。

 

 

翌朝。珍しく、ルカの方から朝食の席で話しかけた。

堅いパンを小さくちぎり、スープに浸しながら、極めて平穏を装った声で言った。

 

「ねえ、お母さん」

 

「なあに、ルカ?」

フレイアは、いつも通りの優しい、聖母のような笑顔を返してくれた。ルカが何よりも大好きで、守りたかった、その笑顔。

だからこそ、ルカは決意した。

 

「もしさ……俺が、この村を出て行ったら」

 

一瞬にして、室内の空気が完全に凍結した。

本当に、世界の時間が強制的に止められてしまったかのように、フレイアの動きがピたりと止まる。彼女は、スプーンを握ったまま、呼吸をすることさえ忘れたようにルカを見つめた。

 

「……何を、言っているの? ルカ」

掠れた、今にも消え入りそうな母の声。ルカは、その瞳から逃げるように視線を落とした。

 

「だって……その方が、みんな安心するだろ? 俺がいなくなれば、お母さんも変な目で見られなくて済むし。……俺、光の力もあるから、一人でもどこかで生きていけるし――」

 

その言葉を、最後まで紡ぐことは許されなかった。

 

ガタッ!!

 

激しい音を立てて椅子が倒れ、フレイアがテーブルを回ってルカの元へと突進してきた。

そして、ルカの華奢な身体を、壊れてしまうのではないかと思うほどの苛烈な力で、強く、強く抱き締めた。今まで生きてきた中で、最も激しく、狂おしい抱擁だった。

 

「駄目……っ! 駄目よ、ルカ……っ! そんなこと、二度と言わないで……っ!」

 

ルカは驚き、目を見開いた。母の全身が、まるで極寒の地に放り出されたかのように、ガタガタと激しく震えていたからだ。

 

「お母さん……っ」

 

「お願い……お願いだから、ルカ……っ!」

フレイアの声は、完全に涙で濡れ、悲鳴のように、あるいは祈りのようにルカの耳元で響いた。彼女はルカの肩を掴んで自らの身体を引き離すと、真っ赤に充血した瞳で、我が子の顔を必死に見つめた。

 

「あなたは、ここにいていいの……っ! 里の誰が何と言おうと、世界があなたを拒絶しようと……あなたは、ここにいていいのよ! あなたは、間違ってなんかいない……! 私の元に、生まれてきてくれて、本当によかったの……っ!」

 

ルカの紫の瞳が、激しく動揺に揺れ動いた。

 

「何度でも言うわ……! 世界中があなたを否定しても、お母さんが、何度でも、一生をかけて言い続けるわ……っ!」

フレイアの目から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出し、ルカの頬へと滴り落ちる。その声は、残酷な運命に対する、母親としての最後の、決死の抵抗だった。

「あなたは私の、世界で一番の宝物よ……ルカ……っ!」

 

ルカは、何も言えなかった。

ただ、胸の奥が焼けるように熱く、涙が溢れそうだった。

だからこそ――ルカは、泣かなかった。これ以上、自分が泣いてしまえば、お母さんの心が本当に壊れてしまうと分かっていたからだ。

ルカは、自身の痛みをすべて心の奥底へと圧し込め、お母さんを安心させるために、ふわりと、いつもの優しい微笑みを浮かべた。

 

「……分かったよ、お母さん。ごめんね、変なこと言って」

 

小さく頷くルカの頭を、フレイアは愛おしげに何度も、何度も抱き締めた。

違う。謝るのはあなたじゃない。悪いのは、あなたを拒絶する世界の方なのに。そう言いたかったけれど、フレイアの喉は、嗚咽に遮られて言葉にならなかった。

 

家の窓の外では、長い冬の終わりを告げるように、屋根の雪がポツリ、ポツリと、確かな音を立てて解け落ち始めていた。

けれど、その雪解けのしずくは、二人の元に訪れる「本当の春」の兆しなどではなく、破滅への扉が開く、不吉な足音のようでもあった。

 

 

 

第十三節 春の傷跡

雪解けの歩みは、驚くほどに速かった。

山の斜面を穿つように流れる雪解け水が、ゴーと清冽な音を立てて響き、冬の間眠っていた木々には、瑞々しい若葉が春の陽光を浴びて一斉に芽吹き始めていた。

 

本来であれば、それは長く苦しい冬を耐え抜いた里の人々にとって、諸手を挙げて喜ぶべき祝福の季節であるはずだった。

けれど、エレミヤ家の周囲にだけは、本当の春はついに訪れなかった。

 

 

ある暖かな朝。ルカは朝露に濡れる森の奥へ入り、薬草を摘んでいた。

頬を撫でる風はどこまでも生温かく、梢の間からは求愛を交わす鳥たちの賑やかな声が響いている。

自然は、何一つ変わらない。ただ、人間たちの心だけが、冬の間に冷酷に変貌してしまった。

そんな暗い思考を振り払うように頭を振り、ルカは薬草の籠を抱えて集落への帰路についた。

 

木々の隙間から、見慣れた集落の広場が見えてきた、その時だった。

「……おかしい」

ルカの耳が、遠方の異変を察知してぴくりと跳ねる。

広場の方から、尋常ではない人々のざわめきが地響きのように伝わってきたのだ。それは楽しげな春の喧騒などでは断じてない。怒号、罵声、そして――誰かの、鋭い悲鳴。

 

胸騒ぎが、冷たい汗となってルカの背筋を駆け抜けた。

ルカは薬草の籠を強く握り締めると、弾かれたように泥を蹴って走り出した。

 

 

広場には、大勢の村人たちが、まるで何かの見世物を遠巻きに見るかのように、異様な密度の人垣を作っていた。

その輪の中心から、焦げ付くような緊迫感が漂っている。ルカは必死に彼らの肩を押し分け、人垣の隙間へと身体をねじ込んだ。

そして――ルカの視界は、一瞬にして真っ白に凍りついた。

 

「お母さん……っ!?」

 

悲鳴のような叫びが、ルカの喉から迸る。

 

そこには、泥に塗れた地面に、力なく倒れ伏すフレイアの姿があった。

彼女の美しい青い髪は乱れ、その額からは、どくどくと生々しい鮮血が流れ落ちて、色白な頬を赤く汚している。彼女の傍らには、激しい衝撃で真っ二つに割れた、頑丈な木桶の破片が転がっていた。

誰かが、彼女に向けてそれを投げつけたのだ。

 

周囲は、声もない騒然とした空気に包まれていた。

木桶を投げつけた張本人である中年の男は、自らの仕出かした事の重大さに気づいたのか、幽霊のように顔を青ざめさせ、ガタガタと両手を震わせて後退りしていた。

 

「ち、違うんだ……っ! 俺は、そんなつもりじゃ……っ」

 

誰も、男を責めることも、フレイアを助け起こすこともできずに固まっていた。

発端は、本当に些細な口論に過ぎなかったのだ。集落の男たちが酒の勢いも手伝って、ルカの「異形」や「不吉な噂」について陰口を叩いていたところへ、フレイアが毅然とした態度で割って入り、我が子を必死に弁護した。

言い争いは白熱し、感情を暴走させた男が、手近にあった木桶を、衝動的に彼女の頭部めがけて投げつけた――それだけのことだった。本当に、それだけの大した理由もない暴力だった。

 

――怖い、という大人たちの集団心理が、防衛の皮を被った凶器へと変り、最も無抵抗な母親を直撃したのだ。

 

「お母さん! お母さん、しっかりして……っ!」

ルカは籠を投げ捨て、フレイアの元へと駆け寄って地面に膝をついた。

母はピクリとも動かない。額から溢れる赤黒い血が、地面の春の草を無慈悲に染めていく。頭部への打撃――それは、人体の構造において、最も脆弱で不吉な場所だった。

 

「フィジク……っ! フィジク……!!」

ルカは半狂乱になりながら、母の傷口に両手を翳した。

彼の細い掌から、狂おしいほどの白銀の治癒の光が溢れ出し、フレイアの額の傷口を優しく包み込んでいく。光の奇跡はまたたく間に肉体を繋ぎ合わせ、溢れていた出血を止め、傷口そのものは瞬く間に跡形もなく塞がった。

 

だが――フレイアの長い睫毛は、閉ざされたまま、微塵も動こうとはしなかった。

 

「起きてよ……お母さん、お願いだから目を開けて……っ」

ルカの声が、涙で激しく 震える。手のひらからさらに光を強め、いくら魔力を注ぎ込んでも、母の意識は深い深海に沈んだまま、一向に浮かび上がってくる気配がない。

 

騒ぎを聞きつけた長老や、経験豊富な老薬師が息を切らせて駆けつけ、すぐにフレイアの診察が始まった。

広場を支配する、耳が痛くなるほどの重苦しい沈黙。

やがて、フレイアの脈や瞳孔を確かめていた薬師が、ひどく暗い表情で顔を上げた。

 

「……傷は、ルカの力で完全に塞がっている。外傷は、何一つない」

 

その言葉に、ルカの瞳に微かな希望の灯火が宿った。しかし、老薬師の次に紡いだ冷酷な言葉が、その希望を木端微塵に打ち砕いた。

 

「だが……衝撃によって引き起こされた、頭の中の……脳の深い損傷までは、ルカの魔法でも戻せない。命の器そのものが、内側から壊れてしまっている」

 

ルカは、呼吸をすることさえ忘れた。

理解したくなかった。薬師が何を言っているのか、脳が受け拒否を起こしていた。それを理解してしまえば、自分の世界が完全に終わってしまうと分かっていたから。

 

「そんなの、嘘だ……っ。傷は治したんだよ!? どこも悪くないはずじゃないか……っ」

 

老薬師は、ルカの紫の瞳を見つめることができず、痛痛しげに目を伏せた。

「……いつか、ふっと目を覚ますかもしれない。だが……」

 

誰もが、その言葉の裏にある「絶望」を理解した。

目を覚ますかも『しれない』。それは裏を返せば、このまま二度と目覚めることなく、静かに息を引き取る可能性の方が遥かに高いという、残酷な宣告に他ならなかった。

 

 

フレイアは、村人たちの手によって静かにエレミヤ家のベッドへと運ばれた。

彼女の意識は戻らないままだった。かすかな呼吸はあり、胸の鼓動も確かに時を刻んでいる。けれど、その姿はまるで、魂をどこか遠くへ置き忘れてきてしまった、精巧で美しい人形のようだった。

 

ルカは、一歩も母のベッドの傍らから離れようとはしなかった。

朝の光が部屋を満たそうとも、昼の太陽が虚しく輝こうとも、夜の暗闇がすべてを包み込もうとも。

三日三晩、ルカはずっと、フレイアの細く、まだ仄かに温かい手を、自らの両手で握り締め続けていた。

 

「起きてよ……お母さん」

何度も、何度も、耳元でその名前を呼んだ。

「俺だよ、ルカだよ。……お母さん」

 

けれど、どんなに懇願しても、その暖かな手はピクリとも動かず、ルカの手を握り返してくれることはなかった。いつもの優しい微笑みでルカを見つめてくれることも、その美しい声で、自分の名前を呼んでくれることもない。

 

 

その夜、集落は死んだような静寂に包まれていた。

誰もが自らの内に宿る罪悪感と恐怖に怯え、眠りにつくことができなかった。

木桶を投げつけたあの男は、自宅の暗がりのなかで、家族の前で何度も頭を抱え、大声を上げて泣き崩れていた。

 

「違うんだ……俺は、ただ……あの一一族が怖かっただけで、殺したかったわけじゃないんだ……っ!」

 

本当に、男の言う通りだったのだろう。彼はフレイアを殺したかったわけでも、傷つけたかったわけでもない。

けれど、引き起こされた結果は、何一つ変わらない。

人間たちの心に巣食った「分からないものへの恐怖」が、平穏だった一人の男を怪物へと変え、誰も望まなかった決定的な破滅の傷跡を、この里に深く刻み込んでしまったのだ。

 

深夜。ルカは暖炉の消えかけた光のなかで、母の穏やかな寝顔をじっと見つめていた。

かすかな寝息、安らかな表情。今にも「よく眠ったわ」と、目を覚ましそうなほどに綺麗な顔。

 

「俺さ……」

ルカは、誰に届くともない小さな声を、掠れさせながら呟いた。

「……頑張るから。みんなに何を言われても、もっと一生懸命がんばるから。もっと強くなるから……っ」

 

大粒の涙が、握り締めた母の手の甲へと、ぽたりと静かに落ちていく。

「だからお願い……起きてよ、お母さん……っ!」

 

返事は、やはりなかった。

窓の外では、何も知らない春の生温かい風が、木々を揺らして吹き抜けていく。

世界はこんなにも暖かな季節を迎えているというのに、ルカの心だけは、永遠に明けることのない、漆黒の極寒のなかに閉じ込められていた。

 

 

 

第十四節 母の願い

三日目の朝が訪れた。

窓の隙間から差し込む朝の光は、どこまでも柔らかく、悪戯に部屋のなかを黄金色に照らし出している。遠くの梢からは、朝を告げる鳥たちの清らかなさえずりが響いていた。絵に描いたような、美しい春の朝だった。

 

ルカは、ベッドの傍らの木椅子に腰掛けたまま、浅い眠りに落ちていた。

フレイアの細い手を、両手で固く、固く握り締めたまま。この三日間、彼はほとんど水も喉を通さず、一睡もせずに母の奇跡を祈り続けていたのだ。肉体も精神も、すでに限界を迎えていた。

 

その時――

ルカの掌のなかに、微かな、本当にわずかな「感触」が伝わってきた。

握り締めていた母の指先が、ほんの数ミリだけ、拒絶を解くように小さく動いたのだ。

 

ルカの頭の上の耳が、その奇跡の肉体反応にぴくりと弾かれた。

ハッと重い瞼を持ち上げ、顔を伏せていたベッドから顔を上げる。

 

「……お母さん?」

声が、極度の緊張で細く震える。

 

フレイアの、長い睫毛に縁取られた瞼が、微かに揺れた。

そして――ゆっくりと、本当に深い海の底から這い上がるかのような遅さで、その紫がかった美しい双眸が、静かに開かれた。

ルカは、息をすることさえ忘れてその瞳を見つめた。

 

「お母さん……ッ!」

ルカは椅子をひっくり返しそうになりながら、ベッドの上へと身を乗り出した。

堪えていた涙が、堰を切ったように両目から溢れ出し、止まらなくなる。

「よかった……っ、本当によかった……っ! お母さん……っ!」

 

何度も、何度も、言葉を繰り返す。

フレイアは、まだ焦点の定まらない瞳で我が子の泣き顔を捉えると、ひどく弱々しく、けれど慈愛に満ちた微笑みをその唇に浮かべた。その顔は、三日間の死線を超えて酷く疲れ果てていたけれど、紛れもない、ルカの愛するお母様の笑顔だった。

 

「……ルカ……」

 

その、掠れた、懐かしい響きが耳に届いた瞬間、ルカの張り詰めていた心の糸が、完全に千切れた。

十五歳になった少年は、まるで幼子に戻ったかのように声を上げ、母の柔らかな胸のなかに顔を埋めて、激しく泣き崩れた。

 

 

その日の昼下がり、エレミヤ家のなかには、久しぶりに暖かな平穏の空気が戻ってきたかのように見えた。

報せを聞いた長老や老薬師も訪れ、目覚めたフレイアの姿を見て、一様に胸を撫で下ろした。彼らの安堵の表情には、一抹の嘘もなかった。本当に、フレイアが奇跡的に助かったのだと、誰もが信じ込んでいた。

 

だが――ただ一人、老薬師の瞳だけは、深い絶望の色彩を帯びたままだった。

診察を終えた後、彼は静かに長老を家の外の、誰もいない木陰へと連れ出した。その表情は、鉛のように重い。

 

「……長老、覚悟を決めておいてくだされ。時間があまり残されていないかも知れぬ」

 

長老の老いた顔が、衝撃に激しく歪む。

「何だと……? 傷は塞がり、意識も戻ったのではないか! どれくらい、持つのだ」

 

薬師は、苦渋に満ちた目で地面の泥を見つめ、静かに首を振った。

「……長老たちの前だから、あの方も最後の気力を振り絞って、正気を保っておられるだけです。脳の崩壊は、内側から静かに進んでいる。……長くて、あと数週間。あるいは、数日ということもあり得る」

 

春の風が、二人の間を吹き抜けていく。

どこまでも暖かく、命の息吹に満ちた風。だからこそ、老薬師の告げた死の宣告は、あまりにも冷酷に、二人の老人を凍りつかせた。

 

 

夕暮れ時。ルカは暖炉の側で、薬草を細かく刻み、熱い湯で煎じていた。

母の身体が、少しでも楽になるように。少しでも長く、一緒に生きていられるように。彼は必死だった。その華奢な背中から溢れんばかりの、切実な愛情。

 

ベッドの上に上体を起こしたフレイアは、そんな我が子の愛おしい後ろ姿を、静かに、慈しむように見つめていた。

彼女は、すべてを理解していた。自らの肉体のなかで、命の灯火が急速に燃え尽きようとしていることも、自分に残された時間が、もう砂時計の最後の一粒ほどしか残されていないことも。母親という生き物は、我が子の前では、自らの死期すらも本能的に悟ってしまうものなのだ。

 

「ルカ」

静かに、我が子の名前を呼ぶ。

ルカは弾かれたように振り返った。

「どうしたの、お母さん? どこか痛むのか?」

 

いつもの優しい声。いつもの、少し困ったような、愛おしい顔。そのすべてが、フレイアにとっては世界の何よりも尊いものだった。

「……こっちへおいで」

 

ルカは首を小さく傾げながらも、煎じていた薬の手を止め、ベッドの傍らに歩み寄って腰を下ろした。

フレイアは、鉛のように重い腕をゆっくりと伸ばすと、ルカの美しい青い髪に触れ、その頂にある柔らかな耳の輪郭を優しくなぞった。彼が生まれたあの日から、何千回、何万回と繰り返してきた、愛おしい我が子への癖。

 

「……本当に、綺麗な子ね」

 

ルカは、照れ隠しを隠すように困ったように笑ってみせた。

「もう、またそれ? 子どもの頃から、ずっとそればかりじゃないか」

 

「またよ、何度だって言うわ」

フレイアもまた、鈴を転がしたような声で笑った。

かつてと何一つ変わらない、幸せな親子の会話。だが、二人の心は、これが二人に残された、あまりにも特別で、二度と戻らない最後の時間であることを、残酷なほどに察知していた。

 

 

「ルカ」

フレイアの声から、笑みが静かに消え、底なしの穏やかさが宿った。

「……よく聞いて」

 

少年は、言葉の重みに息を呑み、静かに頷いた。

フレイアは、窓の向こうに広がる、夕焼けに染まった美しい青空を見つめた。茜色の雲が、ゆっくりと流れていく。本当に、美しい世界だった。

 

「これから先……あなたが歩む道のりには、今よりももっと、辛いことや悲しいことがあるかもしれない」

 

ルカは、微かに眉をひそめ、強がるように小さな唇を尖らせた。

「そんなの、今だって十分に辛いよ。里のみんなに、あんな風に見られて……」

 

フレイアは、切なげに微笑み、その細い指の腹でルカの頬をなぞった。

「そうね……本当に、よく耐えてくれたわ。でもね、ルカ」

彼女の紫の瞳が、ルカの瞳の奥深くを、まっすぐに見据える。それは、命を懸けて我が子の未来を照らそうとする、母親の、烈火のごとき強い眼差しだった。

 

「どんなに世界が理不尽でも、どんなにあなたが傷つけられ、血を流す日が来ても……どうか、誰よりも『美しい心』のままで生きて。……誰かを憎んではいけないわ。そして、何より……自分自身を、決して憎まないで。あなたは、誰よりも優しくて、清らかな子なのだから」

 

ルカは、じっと俯いてその言葉を聞いていた。泣きたくはなかった。ここで自分が泣けば、母を余計に苦しめてしまう。けれど、込み上げる感情は、十五歳の未熟な胸にはあまりにも大きすぎた。

 

「そして――」

フレイアは、世界で一番優しく、そして一番哀切な微笑みを浮かべた。

「……その『美しい身体』で、誇り高く生きて、ルカ」

 

その瞬間、ルカの肩が、激しく戦慄いた。

その言葉だけは――他のどんな美しい言葉よりも、今のルカにとっては、受け入れることのできない残酷な欺瞞に思えたのだ。

 

「嫌だ……っ!」

ルカは思わず、母の手を振り払うようにして叫んだ。

「嫌だよ、お母さん……っ! こんな身体……っ!」

 

大粒の涙が、ルカの目からボロボロと溢れ出し、ベッドのシーツを濡らしていく。ルカは自らの衣服の上から、未熟な膨らみを帯びつつある胸を、引きちぎらんばかりの力で固く掴み、指先を震わせた。

 

「こんな身体……ただの『呪い』じゃないか……っ! 男でも女でもなくて、一族のために子どもも残せなくて……! だから、みんな俺を怖がるんだ! みんな、俺から離れていくんだよ……っ!神様の失敗作なんだ!」

 

初めてだった。ルカが生まれてから十五年間、自らの肉体に宿る「異形」への、生々しい本音の絶望を、母親の前で剥き出しにして叫んだのは。

 

フレイアは、その我が子の悲痛な叫びを、静かに、すべてを受け止めるように聞いていた。

決して遮ることも、否定することもしない。ルカの流した血の涙を、自らの魂で丸ごと抱きしめるように。

そして、彼女はそっと手を伸ばすと、拒絶するように縮こまるルカの華奢な身体を、自らの胸元へと静かに抱き寄せた。

 

「違うわ、ルカ。……違うのよ」

耳元で囁かれる、消え入りそうな、けれど確固たる母の声。

ルカは母の胸の中で、声を殺して泣き続けた。

 

「あなたは、神様の失敗なんかじゃない……っ。不吉な呪いなんかでは、絶対にないわ。……あなたは、お母様にとって、この世界で唯一の、最高の『誇り』よ……ルカ……っ」

 

その言葉が、ルカの心の最奥の、最も柔らかい防壁を粉々に砕いた。

ルカは、もう感情を堪えることをやめ、子供のように声を上げて激しく泣き叫んだ。母の細い腕のなかで、何度も、何度も、魂を擦り減らすようにして、泣き、 泣き続けた。

 

窓の外では、沈みゆく夕陽が、部屋のすべてを、血のような、あるいは燃えるような赤色で美しく染め上げていた。

その光景は、まるで――二人に訪れる、最後の春の終わりを、残酷に祝福するかのように、どこまでも、どこまでも美しかった。

 

 

 

第十五節 春の終わり

春は、引き止める間もなく、足早に駆け抜けていった。

森の木々は深い深緑を取り戻し、色鮮やかな花々が里のあちこちで狂い咲く。集落の景色は、目を奪われるほどに美しかった。

 

けれど、それと反比例するように、フレイアの肉体は、日を追うごとに目に見えて衰えていった。

ルカの魔法によって傷口は塞がっているため、外側から見れば、どこも悪くないように見える。だが、彼女の命の灯火は、内側から確実に、容赦なく削り取られていた。

もう、あと数日の命。その冷酷な事実を、誰よりも深く理解していたのは、フレイア自身だった。

そして――ルカもまた、そのことに、疾うに気づいていた。ただ、気づかないふりをしていなければ、今この瞬間に、精神が崩壊してしまいそうだったから、必死に目を背けていただけだった。

 

毎朝、ルカは母のために薬草を丁寧に煎じ、喉を通りやすい食事を作り、新鮮な水を汲み、部屋を清潔に掃除した。

そして、少しでも空いた時間があれば、狂ったように母の身体に手を翳し、治癒魔法(フィジク)をかけ続けた。

何度も、何度も、何度も。自らの魔力が底を突き、視界が火花を散らすほどに、白銀の光を母の肉体へと注ぎ込み続けた。

 

けれど――良くならない。

傷は、どこにもないのだ。病の毒素があるわけでもない。それなのに、母の命だけが、ルカの指先をすり抜けて、静かに、静かに遠ざかっていく。

ルカは、この時初めて知ったのだ。この世界には、どんなに強大な奇跡の力を持っても、決して「救えないもの」が、確実に存在するのだという絶望を。

 

 

ある春の終わりの夕方。窓から、燃えるような黄金色の夕暮れの光が、室内のすべてを包み込むように差し込んでいた。

生温かい風が、開け放たれた窓のカーテンを、優しく、揺らしている。

ベッドの上のフレイアは、その光に満ちた窓の外を、じっと見つめていた。

 

「……綺麗ね、ルカ」

小さく、消え入りそうな声で呟く。

ルカもまた、本を読む手を止めて窓の外に目をやった。山々の稜線が、息を呑むほどに真っ赤に染まっている。

 

「……そうだね、お母さん」

ルカは静かに答えた。

しばらくの間、二人の間には、音のない沈黙だけが横たわっていた。けれど、それは決して気まずいものではなかった。お互いの鼓動と、流れる時間が、完全に溶け合っているかのような、言葉を必要としない、至上の聖域。

 

「ルカ」

やがて、フレイアが愛おしげに我が子の名前を呼んだ。

 

「ん? なあに、お母さん」

 

「……ありがとう。お母様の元に、生まれてきてくれて」

ルカは、気恥ずかしさと、胸を突く不穏な予感から、咄嗟に顔を背けた。

「何だよ、急に……。改まらなくても、俺はいつもここにいるよ」

微笑んでみせる母の顔は、あまりにも穏やかで、だからこそ、ルカは怖くて仕方がなかった。それが、まるで永遠の別れの挨拶のように聞こえてしまったからだ。

 

 

夜が訪れた。暖炉の火が静かに揺れ、窓の外からは、夏の到来を告げる虫たちの声が、微かに響いている。それは、一つの季節の終わりを告げる、物悲しい旋律だった。

 

ルカは、いつもと同じように母のベッドの傍らに座り、彼女の手を握り締めながら、古びた魔導書を読んでいた。

けれど――ルカは、途中で文字を追うのをやめ、静かに本を閉じた。

横たわるフレイアの気配が、あまりにも、静かすぎたからだ。

 

「お母さん……?」

ルカは顔を上げ、ベッドの中を覗き込んだ。

フレイアは、眠りの中で、優しく微笑んでいた。どこまでも穏やかに、どこまでも深く。

 

「どうしたの……? お母さん?」

ルカの問いかけに、フレイアはゆっくりと、微かに目を細めて我が子を見つめた。その瞳は、まるで、遠い昔の懐かしい宝物を見つめているかのように、優しく、潤んでいた。

 

「……本当に、大きくなったわね……ルカ」

 

ルカは、泣き出しそうな胸の痛みを隠すように、小さく笑ってみせた。

「今さら何を言ってるんだよ。俺、もう十五歳だよ」

 

「そうね……本当に、そうね」

フレイアもまた、満足そうに微かに笑った。そして、最後の力を振り絞るようにして手を伸ばすと、ルカの白い頬へと、そっと触れた。

ルカの青い髪、夜明け前の空のような紫の瞳、絹のように滑らかな白い肌。

赤ん坊の頃から、何一つ変わらない無垢さを宿しながら、確かに、自分の愛によってここまで成長してくれた、自慢の息子。世界で一番、愛おしい、自分の命そのもの。

 

「ルカ……」

その声は、まるで遠い世界の向こう側から響いてくるかのように、酷く、微かだった。

「……幸せに、なってね。……どうか、幸せに……」

 

その瞬間、ルカの胸の奥が、目に見えない強固な手で、握り潰されるかのように強く締め付けられた。

最悪の予感が、全身の毛穴から溢れ出す。急に、どうしようもないほどの「恐怖」が、ルカを支配した。

 

「やめてよ……っ! お母さん、そんなこと言うなよ……っ!」

掠れた声で叫びながら、ルカは弾かれたように立ち上がった。両目から、大粒の涙が溢れ出る。

「今、またフィジクを使うから……っ! 魔導書を持ってくるから、待ってて……っ!」

 

光の粒子が、ルカの周囲に激しく集まり始める。けれど――フレイアは、力を失いかけた頭を、ゆっくりと横に振った。

 

「……もう、いいのよ、ルカ。……十分よ」

それは、すべての苦痛から解き放たれたかのような、どこまでも優しい声だった。

「お母さんは……あなたを授かって…本当に、十分に幸せだったから……」

 

ルカの全身が、激しく戦慄いた。

嫌だった。そんなこと、絶対に認めたくなかった。ずっと前から、この日が来ることは分かっていたはずなのに、どうしても、受け入れることなどできなかった。

 

「置いていかないでよ……っ!」

ルカの唇から、ぽつりと、子供のような泣き言がこぼれ落ちた。

そこには、里の人々を癒やす、毅然とした十五歳の神の子の姿などなかった。ただ、母親の愛を失うことを恐れて怯える、幼い、無力な子どものルカだった。

 

「俺……お母さんがいなくなったら、本当に、一人ぼっちになっちゃうじゃないか……っ! 一人にしないでよ……っ!」

 

涙が、母の胸元へと激しく滴り落ちる。

フレイアの瞳が、我が子のその最後の弱音に、張り裂けんばかりに揺れ動いた。母として、その言葉だけは、残していく我が子のその孤独だけは、あまりにも胸が痛かった。

 

「……大丈夫よ」

彼女は、もう一度、自らの魂のすべてを込めて呟いた。

「あなたは……誰よりも、強い子だから。お母さんが、ずっとあなたの心の中にいるから……」

 

「強くなんかないよ……っ! そんなの、知らない……っ!」

ルカは声を上げて泣いた。喉の奥が詰まって、言葉にならない。苦しくて、悲しくて、世界が反転していく恐怖のすべてが、彼の小さな胸に凝縮されていた。

 

フレイアは、最後の、本当に最後の命の残火を振り絞るようにして、ゆっくりと身体を起こした。

そして、泣きじゃくるルカの身体を、その細い両腕で、優しく、静かに抱き寄せた。幼い頃、彼が夜泣きをするたびに、何度も、何千回もそうしてきたように。

 

「愛しているわ……ルカ」

母の温かな吐息が、ルカの耳元で囁かれる。

「世界で、誰よりも……一番、愛しているわ」

 

ルカは、息を呑んだまま、母の胸の中で固まった。涙が、止まらない。

 

「だから……どうか、自分を、嫌いに……ならないで……」

 

かすかな、掠れた吐息。

ルカは、泣きながら何度も、何度も首を振った。嫌だ、行かないで、お母さん。言葉にならない叫びを胸の中で繰り返す。

 

フレイアは、最後まで、世界で一番美しい笑顔を浮かべたままだった。

そして――

ルカの膝の上へと、そっと、その美しい頭を預けた。

 

春の、穏やかで生温かい夜風が、窓のカーテンをふわりと揺らした。

 

「お母さん……?」

ルカが、恐る恐る呼びかける。

返事は、なかった。

 

「ねえ、お母さん……起きてよ……」

もう一度、震える手でその肩を揺らす。

けれど、やはり、優しい声が返ってくることは二度となかった。

 

フレイアは、ただ、眠っていた。

本当に、今さっき心地よい眠りについたかのように、穏やかな、美しい微笑みをその唇に残したまま。

 

ルカは、動かなかった。動くことが、できなかった。

ただ、冷たくなっていく母の細い手を、自らの掌のなかで固く、固く握り締めたまま。

夜が静かに更け、やがて冷酷な朝の光が部屋を満たし、夜が明けるまで。

ずっと、ずっと、その場に石のように座り続け、涙を流し続けていた。

 

そして翌朝。

集落中に、一つの厳かな報せが響き渡った。

里の最も美しい女性であり、ルカの唯一の理解者であった、フレイア・エレミヤの死が。

 

そして、その残酷な春の終わりを境に――ルカをこの世界の手から守り、無条件で愛してくれる唯一の存在は、この世界から、永遠に失われてしまったのだった。

 

 

 

第十六節 独りの家

フレイアの葬儀が執り行われたその日は、天を呪いたくなるほどに、抜けるような快晴だった。

皮肉なほどに空は高く青く澄み渡り、吹き抜ける春の風はどこまでも穏やかで、里のあちこちには名前も知らぬ美しい花々が狂い咲いていた。

世界だけが、何事もなかったかのように、冷酷な足取りで前へと進み続けている。

 

集落の者たちは、一人残らずその場に集まっていた。

長老も、屈強な狩人たちも、老薬師も、そして幼い子供たちも。誰もがフレイアという、優しく、困った者を見捨てなかった聖母のような女性を心から愛していた。だからこそ、皆、地面に掘られた深い穴の前に跪き、涙を流していた。心から、本当に、申し訳なさそうに、泣いていたのだ。

 

けれど――世界でたった一人の肉親であるルカだけは、一滴の涙も流していなかった。

いや、流せなかったのだ。あまりにも巨大すぎる喪失の前に、彼の未熟な感情は完全に麻痺し、追いついていなかった。

お母さんが死んだ。その冷たい事実だけが、灰色の霧のように頭の中を漂っている。

理解できないのか、それとも、理解したくないのか。どちらなのかすら、今のルカには判別がつかなかった。ただ胸の奥が、からからに乾いた空洞になってしまったかのように、何も感じられなかった。

 

埋葬が終わり、人々はルカに声をかけることすら躊躇いながら、一人、また一人と去っていく。

最後に残った長老が、痛痛しげに目を細めてルカの細い肩に手を置いた。

「……ルカ」

返事はなかった。長老は言葉を続けようとした。

「何かあれば、いつでも儂を……」

けれど、その言葉は途中で不自然に途切れた。自分たち里の大人に、この孤独な少年を支える資格など本当にあるのだろうか。その欺瞞に、老人自身が耐えかねたのだ。

ルカは、ただ感情の失せた瞳で、小さく首を縦に振るだけだった。

 

 

夕暮れ時。ルカは、かつて母と暮らした我が家へと、トボトボと戻ってきた。

重い木製の扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。

室内は、静かだった。耳が痛くなるほどに、あまりにも、静かすぎた。

 

「……ただいま」

反射的に、その言葉が唇からこぼれ落ちていた。

当然、返ってくる声はない。もう、あの優しい声で「おかえり」と迎えてくれる人は、この世界のどこにもいないのだ。分かっている。頭では、嫌というほど分かっているのに、胸の奥の臓器が、ギリギリと音を立てて軋んだ。

 

食卓には、向かい合わせに椅子が二つ。

暖炉の前にも、語らい合うための椅子が二つ。

棚には、フレイアが愛読していた古い本、使い古された裁縫道具、そして数日前まで彼女が書き綴っていた手記。

部屋のすべてが、昨日まで確かにここに一人の人間が生きていたという、鮮烈な痕跡を残したままだった。主を失ったそれらの遺品だけが、色褪せぬままそこにある。

 

ルカは、自分の定位置だった椅子に、泥人形のように腰掛けた。

そして、向かい側にある、フレイアの椅子をじっと見つめる。

そこには、ただ虚無の空間が広がっているだけだった。空っぽだった。それだけのことなのに、ルカの視界から、世界のすべての色彩が急速に失われ、灰色に染まっていくような気がした。

 

夜が訪れても、ルカはベッドへ向かうことができなかった。

寝室へ行き、横たわって眠りについてしまえば、それを「認める」ことになってしまうからだ。母のいない明日がやってくることを。フレイアが二度と、あの扉を開けて帰ってこないという現実を、完全に受け入れることになってしまうから。

 

だからルカは、暖炉の前にただ座り続けた。

薪もくべず、小さく衰えていく炎を、何時間も、何時間も、ただぼんやりと見つめ続けていた。

 

ふと、視界の端に、見慣れた小さな影が映り込んだ。

机の上に置かれた、一冊の古びた革手帳。母がいつも肌身離さず持ち歩き、他愛のない日常やルカへの想いを書き留めていた手帳だった。

ルカは、吸い寄せられるように手を伸ばした。中身を覗き見るつもりなど、本当になかったのだ。ただ、母の温もりに少しでも触れていたかった。

だが、気づけば、彼の細い指先は静かにその頁をめくっていた。

 

そこには、見紛うはずもない、フレイアの筆跡があった。

優しく、少し丸みを帯びた、美しい文字。ルカは、肺の空気をすべて吐き出すように、不意に息を止めた。

 

『もしルカが、これを読んでいるなら』

 

ガタガタと、ルカの指先が激しく震え始めた。指先だけではない。呼吸も、視界も、彼の世界のすべてが震え、崩壊していく。

 

『ごめんなさい』

 

それが、最初の一文だった。

ルカは激しく首を振った。違う。謝らないでほしかった。お母さんは何も悪くない。謝るべきなのはお母さんじゃない。絶対に、絶対に違う。

 

涙が、堰を切ったように両目から溢れ出し、紙面へとポタポタと落ちて、美しい文字を滲ませていく。それでもルカは、胸を掻きむしりながら、必死に文字を追い続けた。

 

『あなたを一人にしてしまうことが、何よりも心残りです』

『もっと一緒にいたかった。もっと、あなたの美しい未来を見ていたかった』

 

ルカは、両手で激しく顔を覆った。

お母さんは、もういない。その絶対的な絶望を、本当の意味でルカの心が理解したのは、この瞬間だった。

 

『でもね――私は、本当に幸せでした』

 

その一文に、ルカの瞳が釘付けになる。

 

『あなたが、私の元に生まれてきてくれたから』

『あなたが、たくさん笑ってくれたから』

『あなたが……誰よりも優しい子に、育ってくれたから』

 

震える唇からは、もう声にならなかった。ヒュウ、ヒュウと、喉が悲鳴のような呼吸を繰り返す。

 

『だから、お願い。……ルカ』

 

また、その言葉だった。お母様は、自らの命が尽きる最後の瞬間まで、我が子の未来だけを願い続けていたのだ。

 

『どうか、自分を嫌いにならないで』

 

「無理だよ……ッ!!」

 

ルカはついに、椅子から崩れ落ちるようにして床に頽れ、激しく泣き崩れた。

もう、耐えられなかった。我慢することなんて、到底でき y なかった。

 

「無理だよ……お母さん……っ! お母さんがいなきゃ、俺……っ!!」

 

激しい嗚咽が、無人の室内に木霊する。誰も聞いていない。誰も抱きしめてはくれない。それでも、ルカの喉からは、悲痛な叫びが止まらなかった。

 

「無理だよ……置いていかないでよ、お母さん……お母さん……っ!!」

 

独りきりになった静寂の家の中に、十五歳の少年の、母を失った迷子の子供のような、狂おしい泣き声が夜通し響き渡り続けた。

ルカは泣き続けた。夜が深い闇へと沈み、声が完全に枯れ果てるまで。何度も、何百回も、届かぬ母の名前を呼び続けながら。

 

やがて、窓の外に冷酷な夜明けが訪れた。

それは、ルカの悲しみなど嘲笑うかのように、残酷なほどに美しく、輝かしい朝だった。

フレイアのいない、本当の最初の朝。

ルカ・エレミヤという孤独な少年が、この広い世界のなかで、本当の意味で完全に「独り」になった朝だった。

 

 

 

第十七節 沈黙の村

フレイアが永遠の眠りについてから、二週間の月日が流れた。

春はまたたく間にその終焉を迎え、初夏の気配が里を包み込もうとしていた。

森は生命力に満ちた鮮やかな深緑に覆われ、色とりどりの花々が心地よい風に吹かれて誇らしげに揺れている。世界は、あまりにも美しかった。まるで、この地上から何一つ大切なものが失われてなどいないかのように。

 

ルカは、毎朝、母が生きていた頃とまったく同じ時間に起床した。

重い斧を振るって薪を割り、冷たい井戸から水を汲み、無人の家の中を寸分の狂いもなく掃除し、裏手の畑の手入れをする。

以前と、何一つ変わらない日常。そう周囲に見えるように、そうであらねば自分が壊れてしまうからこそ、ルカは必死に身体を動かし続けていた。

 

だが、家の中だけは、相変わらず不自然なほどに静かだった。

「……おはよう」

口から出かけた言葉が、途中で虚しく消える。当然、返事はない。

「行ってきます」

返事はない。

「ただいま」

返事はない。

その言葉の不発を確認するたびに、ルカの胸の奥深くで、何かがギチギチと音を立てて軋みをあげた。

 

ある日の午後。ルカは、丁寧に梱包した薬草の包みを抱え、集落の中心にある広場へと向かっていた。

森での作業中に足を深く負傷した老人がいる、と風の噂で聞いたのだ。

以前であれば、里で誰かが怪我をすれば、真っ先に「ルカ、頼む!」と声がかかっていた。けれど、今は違う。ルカが自ら赴き、玄関先に薬草だけをそっと置いて、誰とも目を合わせずに帰ることが増えていた。

それでも――ルカは、困っている人を放っておくことなど、どうしてもできなかった。

 

老人の家へと向かう途中、必ず通らなければならない広場に差し掛かった。

そこでは、初夏の陽光の下で、大勢の子供たちが賑やかに駆け回って遊んでいた。その中には、かつて毎日のように泥まみれになって笑い合っていた、昔の友人たちの姿もあった。ルカを慕っていたカイルも、そこにいた。

 

ルカは、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、その場に足を止めた。

心のどこかで、昔のように「カイル!」と笑顔で声をかけ、あの輪の中に戻れるのではないかという、儚い幻想を抱いたのだ。

だが――ルカが言葉を発するより早く、カイルの母親が、血相を変えて我が子の元へと駆け寄った。

 

「カイル! 早くおいで、帰るわよっ!」

 

まだ昼を過ぎたばかりで、遊びは途中の段階だった。カイルは不満そうな顔をしたが、母親は拒絶を許さない強い力で息子の華奢な肩を抱き寄せた。そして――ルカの存在を最初からそこになかったかのように、徹底的に視線を逸らしながら、早足でその場を立ち去っていった。

 

周囲の子供たちの親も、一斉に我が子を呼び寄せ、蜘蛛の子を散らすように広場から消えていく。

カイルだけが、去り際に何度も、何度もルカの方を振り返っていた。その瞳は、何かを必死に訴えたそうに揺れていたけれど――結局、彼は母親の手に引かれ、何も言えずに雑踏の向こうへと消えた。

 

ぽつんと、広い広場の中心に取り残されたルカ。

彼は、誰もいなくなった空間に向けて、ふわりと微笑んでみせた。

ちゃんと、いつものように。誰にも自分の傷や痛みが伝わらないように、静かに、優しく笑ったのだ。

 

その、痛々しいほどの笑顔を、遠くの物陰からじっと見つめている男がいた。

あの日――激昂のあまり、フレイアに向けて決定的な凶器となった木桶を投げつけた、あの中年の男だった。

 

男は、ルカの笑顔を見た瞬間、幽霊でも見たかのように顔を青ざめさせ、激しい胃の痛みに襲われて胸を押さえた。

ルカの姿を見るたびに、男の脳裏にはあの日、白銀の広場を真っ赤に染めたフレイアの鮮血と、自らの怒りに狂った醜い両手の感触が、鮮烈に蘇るのだ。

 

「違うんだ……俺は、そんなつもりじゃなかったんだ……」

誰に向けたわけでもない、この二週間、呪文のように何度も何度も繰り返し呟いてきた言い訳。だが、どれほど言葉を重ねようとも、フレイアが死に、この少年が独りになったという残酷な現実は、何一つ変わりはしない。

 

その日の夜。男は里の小さな酒場の片隅にいた。

普段は滅多に口にしない強い酒を、浴びるように喉へと流し込んでいる。彼の向かいには、かつて雪の森でルカの「人ならざる光」を目撃した、あの屈強な狩人が座っていた。二人とも、何年も老け込んだかのような、酷く疲弊した顔をしていた。

 

「……なぁ、俺たちは、どこで間違えたんだ?」

男が、掠れた声でポツリと呟いた。

狩人は答えない。否、答えられなかったのだ。

 

「フレイアは、本当に良い人だった。ルカだって……あいつだって、本当は何も悪くない、優しい良い子だ」

男は震える手で酒杯を煽り、机に叩きつけた。

「なのに……なのに、なんでこんなことになっちまったんだ……っ!」

 

狩人は、無骨な拳をギチギチと固く握り締めた。

「……分からん。本当に、俺にも分からんのだ」

それが、彼の偽らざる本音だった。

 

彼らはルカを、そしてルカの宿す未知の力を恐れていた。それは事実だ。そして、フレイアが死んだ今、その恐怖はさらに深まっている。それもまた事実だった。

だが――恐れていたからといって、こんな最悪の結末を、誰一人生きている人間が望んでいたわけではなかったのだ。

 

「最近……」

男は、両手で顔を覆い、狂いそうな声を漏らした。

「……ルカを見るのが、堪らなく怖いんだ。あいつのあの、何も責めないような、優しい目が……責められてるようで…俺を殺しに来るような気がして、怖いんだよ……っ!」

 

狩人は静かに目を閉じた。自分も、まったく同じ恐怖を抱いていたからだ。

 

ルカは、誰も責めない。

男を怒鳴りつけることも、里の人間を恨む言葉を吐くことも、一切しない。

それが、大人たちにとっては、余計に耐え難い精神的な拷問となって、彼らの胸を抉り続けていた。

もし、ルカが声を荒げて自分たちを憎んでくれたなら。化け物の本性を現して、暴力を振るってくれたなら、どれほど楽だっただろう。「やっぱりあいつは危険な化け物だ」と、正当防衛の免罪符を得て、自らの罪を正当化できたかもしれないから。

 

だが、ルカは何も言わない。ただ静かに、傷つきながらも生きている。

唯一の守り手を失い、完全に独りぼっちになってもなお、里の困っている誰かを、その細い手で助けようとすらしている。

その圧倒的な「善性」が、彼ら自身の「醜悪さ」をこれ以上ないほどに照らし出す。それが、あまりにも痛く、苦しかった。

 

 

その頃、ルカは薄暗い家の窓辺に座り、沈みゆく初夏の夕焼けをじっと見つめていた。

それが、ここ最近の彼の静かな日課だった。フレイアもまた、一日の終わりにこの景色を見るのが大好きだったから。

 

机の上には、何度も、何度も読み返した母の革手帳が置かれている。頁に書かれた文字は、もう一言一句違わず暗記しているほどだった。それでもルカは、頁をめくる。

そうしていなければ、母の優しい声の響きを、その手の温もりを、世界の冷たさのなかで完全に忘れてしまいそうだったから。

 

そして――ルカの心の奥底で、誰にも気づかれないうちに、一つの小さな「歪み」が、深い根を張り始めていた。

 

(……俺は、ここにいてはいけないんだ)

 

最初は、気の迷いのような、本当に小さな思いつきに過ぎなかった。

けれど、日に日に対人関係の沈黙が深まるにつれ、その考えは拒絶の形をとって巨大化していく。

 

お母さんは、もういない。里の誰もが、自分の存在のせいで苦しみ、怯え、歪んでしまっている。

自分がこの里にいる限り、この集落は、かつてのような平和で穏やかな姿を取り戻すことは、絶対にないのだ。

 

(もし……俺が、ここからいなくなれば。みんな、元通り笑えるのかな)

 

その決定的な考えが脳裏を過った瞬間、ルカは自らの膝に顔を伏せた。

見知らぬ外の世界へ行くことは、十五歳の少年にとって、死ぬほど怖かった。けれど、どこかで「それが一番正しいのだ」と、妙に納得してしまっている自分も、確かに存在していた。

 

窓の外では、夕陽が山の向こうへと完全に沈み、血のような赤い残光が部屋のすべてを不吉に染め上げていた。かつて、母と手を繋いで見た、あの美しい景色と同じはずなのに。

 

そしてルカは、まだ知る由もなかった。

集落の最奥にある長老の家で、一部の大人たちによる、極秘の話し合いが再び開始されているということを。

 

今度の議題は、「あの異形の子をどう遇するか」という生易しいものではなかった。

「このままあの子を里に置いておけば、俺たちの心が、この里の秩序が、恐怖と罪悪感でいつか内側から完全に崩壊してしまう」――限界を迎えた人間たちの防衛本能が、最悪の決断を下そうと、暗闇の中で静かに動き始めていた。

 

 

 

第十八節 崩れ始めた均衡

初夏の風は、世界の悲劇など一顧だにせず、爽やかに集落の緑を揺らしていた。

森は日ごとにその色彩を濃くし、鳥たちは生命の喜びを歌い上げ、天を仰げばどこまでも突き抜けるような青空が広がっている。本来であれば、最も美しい、祝福された季節。

だが、集落を支配する空気だけは、目に見えない強固な鎖で縛られたかのように、重く、息苦しく張り詰め続けていた。いつ破裂してもおかしくない風船のような日々。

 

その決定的な「異変」は、ある凄まじい嵐の夜に、突如として引き起こされた。

 

山の天候というものは、時に恐ろしいほどに変貌する。

昼間まで穏やかに晴れ渡っていた空は、夕方を境に急速に不吉な黒雲に覆われ、夜が訪れると同時に、大地を震わせるほどの激しい雷鳴が轟き始めた。バケツをひっくり返したような暴風雨が森の木々を激しく叩きつけ、枝葉がまるで悲鳴を上げるかのように不気味に揺れ動いている。

 

そして――運が悪かった。本当に、ただただ、最悪の偶然が重なったのだ。

 

激しい風雨によって、集落の外れにある共同牧場を囲っていた頑強な木製の柵が、無残にもへし折れてしまったのだ。驚いた家畜たちが、闇夜の暴風雨のなかへ一斉に逃げ出すという大混乱が発生した。

村人たちは、この天候のなか、総出で家畜の捜索へと向かわざるを得なくなった。雨に打たれ、泥まみれになりながら、松明の灯りを頼りに漆黒の森へと足を踏み入れる。

 

その、捜索の最中だった。

一人の若い男が、雨でぬかるんだ急峻な崖の淵で、激しく足を滑らせたのだ。

 

「うわああああっ!?」

 

短い悲鳴。そして、暗闇の底への落下。

男の身体は、崖下に突き出た容赦のない巨岩へと、凄まじい速度で激突した。

 

男の負傷は、誰の目にも一目で「手遅れ」だと分かるほどの重傷だった。胸部を強く強打したため、肋骨は粉々に砕けて内臓を突き刺し、口からは絶え間なく溢れる鮮血が溢れている。微かな呼吸は今にも途絶えそうで、集落の集会所へと急いで運び込まれた時には、誰もが「もう助からない、死を待つだけだ」と絶望し、家族は声を上げて泣き崩れていた。

 

その時、混乱に満ちた室内の片隅から、一人の男が絞り出すように叫んだ。

 

「……ルカを! ルカを呼べっ!! あいつの光なら、あるいは……っ!」

 

その一言に、一瞬にして室内に不気味な沈黙が生まれた。

集まった村人たちが、お互いに気まずそうに、そして恐怖に満ちた目で顔を見合わせる。

かつてであれば、それは誰もが真っ先に口にする、当たり前の救命の言葉だった。だが、フレイアが死んだ今、彼らにとってルカの光は、感謝すべき奇跡であると同時に、底の知れない「異形への畏怖」そのものへと変貌していたのだ。呼ぶべきか、それとも、このまま男を見取るべきか。大人たちが躊躇った、その時――

 

長老が、机を激しく叩いて怒鳴り声を上げた。

「何を迷っている! 目の前の命が消えかけているのだぞ! 早くルカを呼んでこいっ!!」

 

 

要請を受け、ルカは嵐の雨の中を、一心不乱に走って集会所へと駆けつけた。

息を切らせ、衣服を濡らし、泥だらけになりながら、彼は瀕死の青年の枕元へと滑り込む。

 

青年は、すでに死の淵に片足を踏み入れていた。床には広がる赤黒い血の海。周囲では、若い妻と幼い子供が、狂ったように彼の名前を呼びながら泣き叫んでいる。

ルカの心に、迷いは一切なかった。

「大丈夫、今助けるから……っ」

 

ルカは青年の横に膝をつくと、使い古された魔導書を素早く開き、自らの両手をその潰れかけた胸元へと、強く翳した。

 

「――フィジク……っ!!」

 

その瞬間、集会所の中が、白昼をも凌駕するほどの圧倒的な「白銀の輝き」によって完全に満たされた。

それは、今までルカが放ってきたどの魔法よりも、激しく、狂おしいほどに強力な奇跡の力だった。ルカ自身の「何としてもこの命を救うのだ」という切実な願いが、彼の肉体に宿る人ならざる魔力を、極限まで引き出したのだ。

 

光の粒子が生き物のように青年の身体を包み込み、皮膚の内側へと染み込んでいく。

すると、どうだろう。砕け散っていた胸の骨が不気味な音を立てて結合し、内臓の裂傷が瞬く間に塞がり、溢れていた鮮血がピたりと止まった。浅く喘いでいた呼吸は、見る見るうちに深く、安定したものへと変わっていく。

 

奇跡だった。誰がどう見ても、神の御業としか言いようのない、完璧な救命だった。

 

青年の家族が、今度は嬉し涙を流して床に泣き崩れた。

「ああ……っ、ありがとうございます……っ! 助かった、本当に助かった……っ!」

周囲の大人たちも、一様に長い息を吐き出し、胸を撫で下ろした。命が繋がったのだ。ルカの奇跡によって、また一つの命が救われた。

 

だが――惨劇の引き金は、その直後に引かれた。

 

バリバリバリバリッ!!!

 

鼓膜を破らんばかりの、凄まじい爆音が集落全体に轟き渡った。至近距離への落雷だった。大地が、まるで生き物のように激しく鳴動する。

誰もが悲鳴を上げて頭を抱えた。

そして、窓の外から、一気に不吉な赤黒い炎の光が差し込んできたのだ。

 

「火事だ! 集落の外れにある、あの村の象徴の巨大樹に、雷が直撃したぞっ!!」

 

見張りの男の悲鳴が響き渡る。暴風雨のなか、激しい炎を上げて燃え盛る巨大樹の姿が、窓の向こうに不気味に浮かび上がっていた。怒号と混乱が、再び集会所を支配する。

 

その時だった。人々の狂乱のなかから、一人の男が、ひっくり返った声で指を指しながら叫んだ。

 

「……ルカだ……っ! きっと、あいつの仕業だっ!!」

 

その決定的な一言が、室内のすべての音を掻き消した。

「あいつが、あの不吉な『白い光』を使ったから、天の怒りに触れて雷が落ちたんだよ……っ!!」

 

静寂。世界の時間が、完全に停止したかのような錯覚。

そこには、何の理屈もなかった。何の証拠も、因果関係もない。嵐の夜に木に雷が落ちるなど、山の暮らしにおいては、ただの不運な自然現象に過ぎない。

けれど――人々の中に澱のように溜まっていた「ルカへの恐怖」が、その最悪の偶然を燃料にして、ついに牙を剥く明確な形を得てしまったのだ。

 

「見ただろ!? あんな人間離れした光、まともな神の祝福なわけがない!」

男の顔は、狂気と恐怖で醜く歪んでいた。

「フレイアが死んでからというもの、この里は災いばかりだ! あいつが、あの一族が、この里に呪いを持ち込んだんだよっ!!」

 

「やめろ! 口を慎めっ!」

長老が、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。

だが、もう遅かった。理性よりも、恐怖の伝染の方が遥かに速かったのだ。一度「呪い」という形をとった妄執は、目に見えない疫病のように、集まった大人たちの心のなかに一瞬にして感染し、広がっていった。

 

「……やっぱり、神の祝福なんかじゃないんだ」

誰かが、怯えた声で呟く。

「……呪いだ。あの子は、呪いの子なんだ……」

 

その言葉が耳に届いた瞬間、ルカの身体から、一滴の血も残らないほどに血の気が引いていった。

全身が、凍りついたように動かなくなる。

 

――呪い。

 

お母様が、自らの命の灯火を燃やし尽くしながら、何度も、何度も必死に否定してくれた、あの残酷な言葉。

そして、ルカ自身が、自らの鏡を見るたびに、心の奥底で最も恐れ、嫌悪していた、あの決定的な烙印。

それが今、自分が命を救ったばかりの人々の口から、剥き出しの現実の声として、自分に向けて一斉に放たれている。

 

ルカは、何も言わなかった。否、何も言えなかった。

ただ、震える身体を必死に抑えながら、静かに立ち上がった。

今さっき助けたばかりの青年を見る。その傍らで泣いている家族を見る。そして、自分を化け物を見るような目で見つめている、村人たちを見渡した。

 

誰もが――ルカと視線が合うと、弾かれたように、気まずそうに、怯えたように視線を地面へと逸らした。

それが、彼らの出した、無言の「答え」のすべてだった。

 

ルカは、何も言わずに、静かに集会所の扉を開けて外へと出た。

外では、まだ冷たい雨が、少年の華奢な身体を容赦なく叩きつけ、濡らし続けていた。けれど、彼の心のなかに吹き荒れる極寒に比べれば、雨の冷たさなど、もう何も感じられなかった。

 

そして長老は、この時まだ知る由もなかった。

この最悪の嵐の夜、集落の排斥思想に染まった一部の人間たちが、長老にすら相談せず、誰の許可も得ず、ある「決定的な一線」を越える決断を下してしまったことを。

 

「あの子を、今すぐこの里から完全に排除しなければならない」という、二度と取り返しのつかない、決定的に間違った破滅への決断を――。

 

 

 

第十九節 嵐の夜

雨は、世界のすべてを圧殺するかのように、激しく降り続いていた。

夜が更け、真夜中を過ぎ、丑三つ時を迎えてもなお、天の底が抜けたような黒い雨雲は集落の上空に居座り続けている。

吹き荒れる暴風に、周囲の巨木たちがまるで怨嗟の声を上げるかのようにギチギチと唸りを上げていた。山そのものが、目に見えない巨大な不安にガタガタと震えているような、不穏極まりない夜だった。

 

ルカは、眠ることができなかった。

冷え切った家の中、薪の爆ぜる音だけが響く暖炉の前で、ただじっと赤黒い炎を見つめ続けていた。

フレイアのいない家。あまりにも静かすぎる空間。

もう、この孤独には慣れたはずだった。それなのに、時折、胸の奥からせり上がってくるどうしようもない息苦しさが、彼の小さな身体を強く締め付ける。

 

――呪いだ。

――あの子は、呪いの子なんだ。

 

昼間、集会所で浴びせられた大人たちの剥き出しの声が、耳の奥で何度も、何度も、呪詛のように蘇る。

 

「……違う」

ルカは膝を抱え、ひび割れた唇で小さく呟いた。

脳裏に母の優しい声を必死に呼び戻す。違う。お前の力は呪いなんかじゃない。お母さんは、命を懸けてそう言ってくれた。

 

だが――もし本当に違うのだとしたら、なぜ自分の周りでは、こんなことばかりが起きるのだろう。

お母さんは死んでしまった。里の誰もが、自分を見て怯えている。誰も近寄ろうとせず、腫れ物に触れるように視線を逸らす。

自分がこの場所に存在しているだけで、世界そのものが少しずつ狂い、おかしくなっていくような、そんな底なしの恐怖がルカの心を支配しつつあった。

 

その時だった。

 

コンコン――。

 

激しい雨音の隙間を縫って、不意に木製の扉を叩く音が響いた。

深夜、時計の針はとうに寝静まるべき時間を指している。ルカは弾かれたように顔を上げた。

こんな時間に、一体誰だろう。長老だろうか。

 

ルカが警戒もせずに扉を開くと、そこには蓑を纏った三人の男たちが立ち尽くしていた。

全員、見慣れた顔だった。同じ集落で暮らし、かつてはルカに笑いかけてくれたこともある大人の狩人たちだ。

 

「……ルカ」

先頭に立つ男が口を開いた。その声は、鉄のように硬く強張っていた。

「長老がお呼びだ。大事な話がある。今すぐ一緒に来てくれ」

 

ルカは少しだけ驚きに眉を動かした。

こんな暴風雨の深夜に、呼び出しがかかるなど前代未聞だった。だが、ルカは男たちを疑わなかった。昼間のあの凄まじい騒動があったのだ。長老も、今後のことについて一人で悩み、自分と静かに話し合うためにこの時間を選んだのかもしれない。そう思ったのだ。

 

「……分かった。すぐ行くよ」

ルカは小さく頷くと、上着を羽織って外へと足を踏み出した。

一歩外に出た瞬間、凍りつくような冷たい雨が少年の頬を激しく濡らした。

 

道中、男たちは一言も発しなかった。ルカもまた、黙って彼らの背中を追いかける。

夜の山道は、吸い込まれそうなほどに漆黒だった。男たちが掲げる提灯の、揺れる小さな灯りだけが、ぬかるんだ地面を辛うじて照らし出している。

 

だが、十分ほど歩いた頃だった。ルカは足元に、明確な違和感を覚えた。

 

(……おかしい。長老の家へ向かう道じゃない)

 

長老の家は集落の中心近くにある。しかし、今歩いているのは、里の外れ――それどころか、人が立ち入ることを禁じられた山の深奥へと向かう獣道だった。

ルカの足が、ピタリと止まる。

「……ねぇ、どこへ行くの? 長老の家はあっちだよ」

 

三人の男たちも、同時に足を止めた。だが、誰も振り返らない。誰もルカの問いに答えない。ただ、叩きつけるような雨音だけが、周囲の静寂を無慈悲に埋めていく。

 

胸の奥で、ドクンと冷たい塊が跳ねた。本能が、これは決定的な危険だと警告を発している。

 

「……長老は、どこにいるの?」

 

なおも沈黙が続く。

やがて、長い拒絶の時間の後、最も年長である狩人の男が、ひどく掠れた声でようやく口を開いた。

 

「……知らん」

 

ルカの細い身体が、恐怖でカチリと強張った。

「え……?」

 

男は頑なに俯いたままだ。決して、ルカの方を見ようとはしない。

「長老は……何も知らん。俺たちが、勝手にやっていることだ」

 

雨が降る。激しく、冷たく、大人の醜い背中と、少年の身体を濡らしていく。

 

「何を、言って……」

ルカの言葉が、途中で掠れて止まった。

 

すべてを、理解してしまったのだ。

彼らがなぜ自分をこんな時間に連れ出したのか。自分に、これから何をしようとしているのか。

脳裏に浮かんだ最悪の推測。理解したくなかった。信じたくなかった。

 

「やめろ……っ」

ルカの声が、初めて情けなく震えた。

「やめてくれよ……! お願いだから……っ!」

 

だが、ルカを囲む男たちの身体もまた、小刻みに激しく震えていた。

彼らもまた、狂いそうなほどに恐れていたのだ。人知を超えた光を放つルカという存在を。彼を追放しようとしている自分たち自身の罪悪感を。そして、この先に待ち受ける不吉な未来のすべてを。

 

「……すまない」

年長の男が、顔を覆うようにして呟いた。その声は、明白な涙声だった。

「本当に、すまない……ルカ。だが、こうするしかないんだ。お前がここにいちゃ、俺たちの心が……里が、みんな壊れちまうんだ……っ!」

 

男たちの涙を見て、ルカの胸の奥が、張り裂けんばかりに痛んだ。

湧き上がってきたのは、怒りではなかった。

ただ、どうしようもなく悲しかった。自分を裏切り、山へ捨てようとしている大人たちが、本気で怯え、本気で苦しみながら泣いているから。

彼らをここまで追い詰めてしまったのは、他ならぬ自分自身なのだと突きつけられた気がして、それが何よりも悲しかった。

 

「……俺が、そんなに怖いのか?」

 

誰も答えなかった。

顔を背け、雨の中で肩を震わせる大人たちの沈黙そのものが、残酷なまでの「肯定」だった。

 

ルカは、ゆっくりと俯いた。

頭の上の獣の耳は力なく垂れ下がり、いつも微かに揺れていた尻尾も、完全に動きを止める。

彼の心の中心が、氷の塊になっていくように、静かに、少しずつ冷え切っていった。

 

「……そう、か」

 

呟いたのは、それだけだった。

叫びもしない。大人たちを怒鳴りつけもしない。逃げようと抵抗することすら、一切しなかった。

ルカは、どこまでもそういう「優しい子」だった。彼のその従順さが、男たちの罪悪感をさらに鋭く抉り、彼らの方が子供のように声を上げて泣いていた。

 

そして、歩みが再開される。彼らはさらに、山の奥深くへと進んでいく。

木々が鬱蒼と生い茂り、里の人間が誰一人として近づかない、呪われた禁忌の場所。

 

そこに、それはあった。

苔むした、崩れかけの石造りの入口。地下へと続く、闇に染まった階段。

幼い頃から、長老や大人たちに「絶対に近づいてはならない」と教え込まれてきた、古の伝承に謳われる禁忌の迷宮。

 

――ワンダラーパレス。

 

凶悪な魔物たちの棲処。

その巨大な闇の口を見た瞬間、ルカは自分の運命のすべてを悟った。

 

雨は一向に止む気配がない。

男たちは、ガチガタと歯の根を合わぬほどに震わせながら、最後までルカの顔を見られないまま、彼の背後に回った。

 

「頼む……ルカ……」

一人が、消え入りそうな声で懇願する。

「俺たちを……里を、許してくれ……っ」

 

ルカは、何も答えなかった。答えるための言葉を、もう持ち合わせていなかった。

胸の中にあるのは、彼らへの憎しみや呪いではない。ただ、世界のすべてから切り離されてしまったかのような、底の知れない、どうしようもないほどの孤独だった。

 

どん、と、男たちの震える手が、ルカの華奢な背中を強く押した。

 

傾斜に足を滑らせ、ルカの身体は、暗黒の階段へと転がり落ちていく。

 

(……お母さん)

 

ルカは心の中で、最愛の母の名前を叫んだ。

もう一度だけ、あの温かい腕で抱きしめてほしかった。自分は何も悪くないと、言ってほしかった。

だが、返ってくる言葉はない。

拒絶された世界には、ただ、すべてを洗い流そうとする激しい雨の音だけが、冷酷に響き渡り続けていた。

 

 

 

第二十節 間に合わなかった朝

夜明け前、まだ東の空が仄暗い紺色に包まれている頃。

長老は、まるで心臓を直接掴まれたかのような激しい悪寒と共に、跳ね起きるようにしてベッドから飛び起きた。

嫌な予感だった。具体的な理由は何も分からない。だが、胸の奥が不吉な鐘を打ち鳴らすように、激しくざわついて仕方がなかった。

この里の長として長く生きてきた。経験が彼に教えていた。こういう、魂が危険を告げるような予感は、決まって当たる。そして、最悪の形で当たってしまうのだと。

 

慌てて衣服を着替え、使い古された杖を掴むと、長老は転がるようにして外へと出た。

外は、まだ雨が降り続いていた。昨夜の激しさに比べれば、幾分か勢いは弱まっている。だが、上空を覆う雲はどこまでも重く、暗く、世界を圧迫していた。

 

その時だった。集落の向こうから、一人の若い若者が、泥まみれになりながら長老の家へと死に物狂いで駆け込んできた。

その顔面は紙のように白く、呼吸は激しく乱れ、目には狂気じみた怯えが宿っている。

 

「長老……っ! 長老っ……!!」

 

その悲痛な叫び声を聞いた瞬間、老人の脳裏に、最悪の確信が閃いた。

何かが起きた。いや――自分が最も恐れていた取り返しのつかない事態が、すでに起きてしまったのだと。

 

長老は、若者の胸ぐらをつかまんばかりの勢いで杖を突き出した。

「……何をした。お前たち、一体何をやらかしたっ!!」

 

若者はガタガタと身震いするばかりで、すぐには言葉を発することができない。

 

「答えんかッ!!」

 

老人の、裂けるような怒鳴り声が静まり返った里に響き渡る。その威圧感に耐えかねたように、若者はその場にへたり込み、子供のように泣き出した。

 

「連れて……連れて行ったんです……っ! 俺たちじゃ、もうどうしようもなくて……っ!」

 

長老の身体から、一瞬にしてすべての血の気が引いていくのが分かった。心臓が冷たく凍りつく。

「……誰を、どこへ連れて行った」

分かっていた。そんなことは、聞くまでもなかった。それでも、聞かなければならなかった。己の耳で、その罪を確認しなければならなかった。

 

「ルカを……あの呪いの子を……っ」

 

世界が、完全に停止した。

 

長老の手から、カラン、と乾いた音を立てて木製の杖が床へと落ちた。

「……どこへだ」

掠れた、老婆のような声が老人の喉から漏れる。

 

「ワンダラー……パレスです……。あそこの、底へ……落としてきました……っ!」

 

「お前たち……なんということを……っ!!」

 

長老は、落ちた杖を拾うことすら忘れ、そのまま外へと走り出した。

およそ老人とは思えない、狂気的なまでの速度だった。

ぬかるんだ雨の森を、泥を激しく蹴り上げながら、一心不乱に突き進む。草木が顔を打ち、衣服を切り裂いても、そんな痛みなど何も感じなかった。

 

心臓が破裂しそうなほどに痛い。肺が焼け付くように苦しい。足がもつれ、何度も転びそうになる。

それでも、立ち止まることなど絶対に許されなかった。

 

走る老人の視界の向こうに、亡きフレイアの、あの穏やかな笑顔がありありと浮かぶ。

あの日――彼女が死の床で、長老に残した言葉。

 

『長老……あの子を、ルカをお願いします……。どうか、独りにしないで……』

 

長老は、確かに約束したのだ。その細い手を握り締め、命に代えてもルカを守ると。見守り続けると。決して、彼を独りにはさせないと。

それなのに。自分は一体、何をしていたのだ。里の大人たちの心の歪みに気づきながら、長老でありながら、何も手を打てずに眠りこけていた。

 

守れなかった。またしても、あの優しい親子を、自分たちは裏切ったのだ。

 

死に物狂いで森を抜けると、前方に古びた石畳の境界が見えてきた。

崩れ落ちた不吉な遺跡。黒ずみ、苔むした巨大な石柱群。

 

――ワンダラーパレス。

 

その禁忌の入口に到着した瞬間、長老は、糸が切れた人形のようにその場に立ち尽くした。

 

周囲には、誰もいなかった。ルカを捨てた男たちは、罪から逃れるように走り去った。

そこにはただ、ぽっかりと不気味な巨大な口を開けた、地下へと続く漆黒の闇の入口だけが、静かに佇んでいる。その向こうには、小さな子供など生きては戻れぬであろう底なしの迷宮が、どこまでも深く広がっているのだ。

 

遅かった。

完全に、すべてが遅すぎた。

 

老人の膝がガクガクと震え、そのまま泥水の中に崩れ落ちた。地面に両手をつき、泥の中に顔を伏せる。

「ルカ……っ! ルカぁっ……!!」

裂けた喉から、少年の名前を叫ぶ。

 

だが、返ってくる声はない。

当然だった。闇の底へと、突き落とされてしまったのだから。

 

長老は、泥まみれの拳を固く握り締めた。鋭い爪が手のひらに食い込み、血が滲む。

胸の内を焼き尽くさんばかりに湧き上がってきたのは、他ならぬ「自分自身」への、猛烈な怒りと憎しみだった。

 

もっと早く、村人たちの異常な怯えに気づいていれば。

もっと強く、彼らの愚行に反対し、ルカの傍に寄り添っていれば。

自分が、この集落をまっとうにまとめ上げる力を持った長であったなら――。

頭を巡るのは、 押し潰されそうなほどの後悔と、取り返しのつかない過去の仮定ばかりだった。

 

その時、長老の涙に濡れた視界に、入口近くの泥の中に何かが落ちているのが映った。

 

それは――鮮やかな、小さな青い布切れだった。

 

ルカが、いつも身に纏っていた衣服の一部だった。フレイアが生前、彼の身体に合わせて夜なべをして縫い上げてくれた、普段着の端切れ。

それが、冷たい雨に打たれ、無惨に泥に汚れたまま、そこにぽつんと遺されていたのだ。

 

長老は、這いつくばるようにしてそれを拾い上げた。震える、皺枯れた指先で、まるで我が子の遺髪でも扱うかのように、愛おしそうに胸に抱きしめる。

 

そして――長老は、生まれて初めて、声を上げて大粒の涙を流した。

フレイアが亡くなった時も、集落の絆が崩壊し始めた時も、長としての矜持の元に涙を堪え続けてきた老人が、今、子供のように激しく泣き叫んでいた。

 

「すまん……っ、すまん、ルカ……っ!! 儂を……儂ら愚かな大人を、許してくれ……っ!!」

 

天からの雨は無慈悲に降り続く。

老人の悔恨の涙を隠すように。

森を濡らし、呪われた遺跡を濡らし――そして、たった一人で暗黒の迷宮へと突き落とされた、孤独な少年の小さな足跡を、静かに、完全に消し去っていった。

 

 

 

第二十一節 光の残滓

ワンダラーパレスの内部は、想像を絶するほどに暗かった。

ここには昼も夜も、時間の概念すら存在しない。ただの一条の陽光すら届かない、永遠の沈黙が支配する地下迷宮。

肌にまとわりつく湿った石壁、今にも崩落しそうな巨大な石柱。どこか遠くの深淵から、絶えずヒタヒタと聞こえてくる不気味な水音。そして――時折、闇の向こうで「何かが這い回る」ような、おぞましい気配。

 

ルカは、よろよろと歩いていた。

当てもなく、ただひたすらに、前へ、前へと足を動かし続けていた。

 

最初の数時間は、ただ涙が止まらなかった。母を思った。自分を気にかけてくれた長老のことを思った。そして、かつて笑い合っていた故郷の思い出を振り返った。

けれど、その涙も長くは続かなかった。

どれほど泣き叫んでも、どれほど許しを請うても、誰も自分を助けてはくれない。その絶対的な法則を、ルカはすでに嫌というほど知ってしまっていた。

 

激しい空腹がルカを襲い、喉はからからに渇き、濡れた身体は凍えるように冷え切っていく。

それでも、ルカは歩みを止めなかった。

 

(……お母さんなら、こんな時、どうするだろう)

 

涙をふき、何度も、何度も、心の中で母に問いかけた。

そのたびに、ルカの脳裏には、革手帳に遺されたあの最後のメッセージが浮かび上がる。

――生きなさい。どうか、前を向いて生きるのよ、ルカ。

 

お母さんなら、きっとそう言う。だから、歩いた。

どれほど周囲が暗くても、どれほど身体が恐怖に震えていても、ただ「生きる」というその一点のためだけに、ルカは進み続けた。

 

その時だった。

 

――ギャアアアアアアッ!!!

 

迷宮の空気を激しく振動させる、耳を切り裂くような凶悪な咆哮が響き渡った。

ルカは、恐怖に息を呑んで勢いよく振り返る。

 

闇の向こうから、そいつは現れた。

これまでに見たこともないような、巨大で禍々しい魔物。

全身を覆う針のような黒い毛皮、肉を骨ごと噛み砕くであろう鋭い牙、そして暗闇のなかで血のように妖しく光る、一対の赤い瞳。

故郷の山で遭遇した、どんな凶暴な野獣よりも遥かに大きく、悍ましい存在。

 

人の命を貪る「魔物」だった。

 

ルカの細い身体が、一瞬にして恐怖で完全に凍りついた。

逃げろ。今すぐ走って逃げろ。生物としての本能が、頭の中で狂ったように警報を鳴らす。

 

ルカは反転し、全速力で走った。

濡れた石畳を必死に蹴り、暗闇の通路をがむしゃらに駆け抜ける。

だが、背後からは地響きのような足音と、飢えた咆哮が急速に近づいてくる。

魔物の動きは、圧倒的に速かった。ルカがどれほど必死に足を動かそうとも、その距離は一歩、また一歩と無慈悲に縮まっていく。

 

(……死ぬ)

 

ルカは、生まれて初めて、自分の「明確な死」を実感した。

このまま背後から引き裂かれ、喰い殺される。

脳裏に、フレイアの優しい顔が鮮烈に浮かんだ。

 

(お母さん……ごめんなさい。約束、守れそうにない……っ)

 

心の中でそう呟いた、次の瞬間。魔物が凄まじい跳躍を見せ、ルカの背後から鋭い爪を振り下ろして飛びかかってきた。

迫り来る圧倒的な死の質量。

ルカは、半ば反射的に、狂ったように振り向きながら、両手を魔物の巨躯に向けて強く突き出していた。

 

「――フィジク……ッッ!!! 止まれえええっ!!」

 

それは、本来であれば傷を癒やすための、ただの治癒魔法のはずだった。

だが――死への極限の恐怖と、「生きたい」という狂おしいほどの防衛本能が、ルカの体内に眠る膨大な魔力を暴走させた。

 

ドガアアアアアアンッ!!!

 

ルカの両手から放たれたのは、優しい癒やしの光などではなかった。迷宮のすべてを真っ白に埋め尽くすほどの、狂暴なまでに凝縮された「白銀の閃光」――衝撃波となって激発したのだ。

 

凄まじい轟音と共に、飛びかかってきた魔物の巨躯が、言葉通り真後ろへと吹き飛ばされた。

魔物は頑丈な石柱へと激しく激突し、その衝撃で石柱が根本から砕け散って、大量の土砂と共に崩落する。

短い悲鳴。そして、すべてが土煙に包まれた後、迷宮には再び水を打ったような静寂が戻ってきた。

 

ルカは、自らの両手を見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。

何が起きたのか、自分の頭ではまったく理解が追いつかない。自分は確かに「フィジク」を唱えたのだ。それなのに、目の前の狂暴な魔物を、一撃で叩き伏せてしまった。

誰かを救うはずの治癒の光が、強大な「破壊の暴力」へと反転してしまった。

ルカは初めて――他人の目ではなく、自分自身の内に秘められたその「異形の力」に対して、心の底から凄まじい恐怖を覚えた。

 

だが、安堵する間もなく、崩落の向こう側の遠い通路から、複数の人間の声が響いてきた。

 

「おい、今の凄まじい光はなんだ!?」

「こっちだ、今の轟音はこっちの通路から聞こえたぞ!」

 

それは、聞き慣れた集落の人間たちの声ではなかった。もっと野暮ったく、力強い――武装した「外の世界」の男たちの声だった。

暗闇の向こうから、複数の松明の灯りが揺れながら急速に近づいてくる。

 

誰か、人がいる。この恐ろしい迷宮の中に、自分以外の人間がいる。

助かるかもしれない。ルカの心に、微かな希望が芽生えた。

 

だが、次の瞬間――ルカの身体の限界が、ついに訪れた。

ここ数日間の精神的な緊張、追放の疲労、極限の空腹、そして今し方の魔力暴走。すべての負荷が、一時に彼の小さな肉体へと押し寄せてきたのだ。

 

視界が、ぐにゃりと大きく揺れる。

足元から力が抜け、ルカの身体は操り人形のようにその場に頽れた。

冷たい石畳の感触が頬に触れる。急速に意識が深い闇の底へと沈んでいくなか、ルカの視界の端に、松明の灯りに照らされた一つの大きな人影が映り込んだ。

 

それは――大きな斧を肩に担いだ、見知らぬ大柄な人間の男だった。

男は、倒れているルカを発見し、その強面を驚愕に歪めて叫んでいた。

 

「……おい、嘘だろ!? こんな迷宮の奥底に……子供だと……っ!?」

 

その声を最後に、ルカの意識は完全に途切れた。

 

「おい! まだ生きているぞ!」

「急げ! 荷物から毛布を出せ!」

「治療班、おい、早くこっちへ来いっ!!」

「馬鹿な……こんな危険な場所に、なぜこんな子供が一人で倒れているんだ……っ!」

 

遠くで、騒がしい怒鳴り声が聞こえる。まるで、長い夢のなかにいるようだった。

けれど――自分の身体が、とても温かい何かに包まれているのを感じた。

誰かが、自分を優しく抱き上げ、必死に声をかけてくれている。

誰かの、生きている人間の温かい体温を感じたのは、一体いつ以来だろう。それだけで、ルカの凍りついた心が、微かに融かされていくような気がした。

 

そして、完全に意識を失い、深い眠りに落ちる直前。

ルカは、微かに開けた瞼の隙間から、一人の人物の姿を捉えていた。

 

綺麗な、純白のローブを身に纏った人物。

その人は、見たこともないほどに優しく、そして心からの心配が宿った瞳で、ルカの顔を覗き込んでいた。自分と同じ、傷を治す「癒やし手」の雰囲気を纏ったその人物は、慌てた様子でルカの小さな手を握り締め、周囲に向かって強く叫んだ。

 

「――この子は、私が絶対に助けます……っ!!」

 

その、優しくも確固たる決意に満ちた声だけが。

暗闇の底へと沈んでいくルカの耳の奥に、最後の救いとして、いつまでも、いつまでも暖かく残り続けていた。

 

 

 

ー第二章「光の軍医」へ続くー

 

 

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