ワンダラーパレスの深淵から斧術士ギルドに救い出され、仲間たちとの温かい日々の中で軍医としての道を歩み始めたルカ。誰かを救うことで己の存在意義を繋ぎ止め、戦場の英雄となっていく。仲間たちに囲まれ、温かい居場所も手に入れた。
だが、そんな彼の前に現れたのは、圧倒的な強さと狂気を纏った帝国の皇太子・ゼノスだった。激しい衝突、完膚なきまでの敗北。そしてルカは、捕虜として捉えられ帝国へ連れ去られてしまう――。
第二章 光の軍医
第二十二節 癒しの手
最初にその身に感じたのは、圧倒的なまでの「温かさ」だった。
頬を冷たく刺す石畳の感触ではない。自らの身体を芯まで凍えさせた、あの嵐の雨の冷たさでもなかった。
まるで羽毛のように柔らかく、優しい何かに全身を包み込まれているような、ひどく心地の良い温もり。その微かな感覚に導かれるようにして、ルカは底のない暗闇から、ゆっくりと意識を浮上させていった。
瞼が、鉛のように重い。
全身の筋肉という筋肉が凝り固まり、指先一つ動かすのすら酷く億劫だった。それでもルカは、微かな力を振り絞って、ゆっくりと両目を開いた。
視界は、最初は白くぼやけていた。
だが、何度か瞬きを繰り返すうちに、輪郭がはっきりとしてくる。
見慣れない白い天井。美しく磨かれた木造の壁。そして、開け放たれた窓からは、きらきらとした柔らかな木漏れ日のような光が差し込んでいた。
どこか遠くから、ザザーン、ザザーンと、規則正しいリズミカルな水の音が聞こえてくる。山育ちのルカにはそれが何なのか分からなかったが、胸が落ち着く不思議な響きだった。
(……ここは、どこだろう。俺、死ななかったのかな)
そんなことをぼんやりと考えていた、その時。
ルカの視界の端に、不意に小さな人影が映り込んだ。
「……あ」
短い声が聞こえた。それは、まだ若い女性の声だった。
心からの安堵が混じった、弾むような、嬉しそうな響き。
「良かった……! 目を覚ましたのね!」
慌ただしく椅子が引かれる音が、室内に響く。ルカは重い首を、時間をかけてゆっくりと声のする方へと向けた。
そこにいたのは、清潔な純白のローブを身に纏った女性だった。
艶やかな栗色の髪を肩の後ろできれいに結び、その奥にある透き通った青い瞳が、ルカをじっと見つめている。
――あの時。ワンダラーパレスの暗闇の底で、意識を失う直前に自分を覗き込んでいた、あのヒーラーの女性だった。
ルカは何か言葉を発しようと、乾いた唇を震わせた。だが、喉が砂漠のように干からびていて、掠れた吐息しか出てこない。
女性はルカの異変にすぐに気づき、小さく声を上げた。
「あ、無理に喋っちゃ駄目よ。待っていてね」
彼女は慌てて卓上の水差しを手に取ると、ガラスの杯に冷たい水を注ぎ、ベッドの傍らへと戻ってきた。そして、ルカの華奢な背中を折れ物を扱うかのようにそっと優しく支えながら、少しずつ、少しずつ水を口元へと運んでくれた。
冷たい水が、渇いた喉を潤していく。ルカは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
こんな風に、誰かから無条件に優しく、大切に扱われたのは、一体いつ以来だろうか。
お母さんが亡くなってから。いや、あの集落の人々が自分を恐れ始めてから、ずっとずっと、味わうことのなかった人の温もりだった。
「ゆっくりでいいからね」
女性は、ルカが水を飲み干すのを見届けると、柔らかく微笑んだ。
「無理もないわ。君、あの迷宮から運び出されてから、丸三日も眠り続けていたんだから」
ルカの頭の上の猫耳が、ぴくりと驚いたように跳ね上がった。
「……み、っか……?」
「そう、三日。私、君がこのまま目を覚まさなかったらどうしようかって、本当に心配したんだから」
驚愕のあまり固まるルカを見て、女性はくすくすと悪戯っぽく笑った。
「でも、大丈夫。こうしてちゃんと生きてる。君の心臓は、すっごく元気に動いているわ」
――ちゃんと、生きている。
その、あまりにも当たり前のはずの言葉が、ルカの胸の最深部を激しく突き刺した。
じわじわと、視界が熱くなっていく。
ワンダラーパレスの闇に突き落とされたあの雨の夜、ルカは自分の命はここで完全に終わるのだと確信していた。誰にも知られず、誰にも看取られず、化け物として暗闇の中で朽ち果てていくのだと。
だから今、こうして温かいベッドの上で息をしていることが、奇跡のようで、どうしようもなく不思議だった。
「……どうして」
ひどく掠れた、消え入りそうな声がルカの唇から漏れた。
女性は、小首を傾げた。
「どうして、って何が?」
「どうして……俺なんかを……助けたんだ?」
その問いに、女性は一瞬だけ丸い目を瞬かせた。
そして、ルカが何を恐れているのかをすべて包み込むように、少し困ったような、けれど至極当然だと言いたげな口調で笑った。
「変なことを聞く子ね。理由なんて、一つしかないわよ」
彼女はルカの目から逸らすことなく、まっすぐに答えた。
「君が、目の前でボロボロになって倒れていたから。ただ、それだけよ」
ルカは、二の句が継げなくなった。
彼女の瞳には、一切の嘘も、計算も、偽善もなかった。
特別な理由などない。目の前で行き倒れている子供を見捨てる理由がなかった。だから、手を差し伸べた。それだけなのだと。
ルカが生まれ育ったあの集落では、決して得られなかった「当たり前の慈悲」が、今のルカには、直視できないほどに眩しかった。
「私はミリア」
女性は自らの胸に手を当てて、明るく自己紹介をした。
「この街の、斧術士ギルドに所属している治療士よ」
そして、もう一度優しく微笑む。
「君の名前は?」
ルカは、ほんの少しだけ躊躇った。
自らの、呪われた名を名乗ることに。それを口にすれば、目の前のこの優しい女性すらも、あの村人たちのように恐怖で顔を歪めて離れていってしまうのではないかという、根深い恐怖が頭を過ったのだ。
だが――ミリアの青い瞳には、何の偏見もなかった。
異形への恐れも、忌むべきものを見る嫌悪も、憐れむような同情すらもない。ただ純粋に、目の前にいる一人の少年の存在を認め、待っている。それだけだった。
「……ルカ」
少年の口から、消え入りそうな、けれど確かな声が紡がれる。
「ルカ・エレミヤ、です」
ミリアは、弾けたような笑顔になって嬉しそうに深く頷いた。
「ルカ。響きのいい、とっても素敵な名前ね!」
その瞬間、ルカは大きく目を見開いた。
ただ、自分の名前を褒められただけだ。それだけのことなのに、胸の奥に強固にかけられていた錠前が、音を立ててするりとほどけていくような感覚がした。
フレイアが亡くなってから――初めてだった。自分が、ただそこに生きているという事実を、誰かに無条件で受け入れられたのだと感じられたのは。
窓の外では、見たこともないほどに広大で青い海が、陽光を浴びてキラキラと輝いていた。
何もかもが知らない土地。誰も自分を知らない人々。
それなのに、ミリアのいるこの小さな部屋だけは、不思議なほどに温かい空気に満ちていた。
そしてルカは、まだ知る由もなかった。
このミリアという一人の治療士との出会いが、自らの過酷な運命の歯車を、全く新しい方向へと大きく狂わせることになるのを。
彼女の差し伸べた「癒しの手」こそが、暗闇の底にいた少年ルカの未来を切り拓く、最初の偉大なる光になることを。
第二十三節 海都リムサ・ロミンサ
ミリアの懸命な看病のおかげで、数日後、ルカは自分の足でベッドから起き上がれるまでに回復していた。
とはいえ、体力はまだ戻りきってはいない。長期間に及ぶ精神的な飢餓と、あの迷宮での命を削るような極限の恐怖。ルカの小さな肉体は、自覚している以上に深く消耗していたのだ。
それでも、目覚めてからずっと窓の外に見えていた「未知の世界」の景色に、ルカの心は少しずつ、静かな好奇心を抱き始めていた。
どこまでも続く青い海。風をいっぱいに孕んで進む、巨大な白い帆を張った船。潮風にパタパタと揺れる、見たこともない紋章の旗。
険しい山々に囲まれた、閉鎖的な集落だけで生まれ育ったルカにとって、それはおとぎ話の絵本の中にすら存在しなかった、あまりにも壮大な光景だった。
「ルカ、今日は天気がいいし、少し外の空気を吸いに出てみる?」
着替えの包みを持ってきたミリアが、弾んだ声で尋ねる。
ルカは一瞬、外に出る恐怖に身をすくませたが、窓の向こうの青さに背中を押されるようにして、小さく首を縦に振った。
「……うん。行って、みたい」
その返事を聞いた瞬間、ミリアはまるで自分のことのように、顔いっぱいに嬉しそうな笑みを浮かべた。
ルカは、その表情が少し不思議だった。なぜ、この人は自分がただ一歩外に出るだけのことで、こんなにも喜んでくれるのだろう。
けれど、そんな戸惑いを胸に抱えながらも、ルカは彼女に優しく付き添われ、療養所のある建物の外へと一歩を踏み出した。
その瞬間、ルカは文字通り、その場に釘付けになって立ち尽くした。
「……すごい……っ」
感嘆の言葉が、自制する間もなく唇から漏れ出していた。
ルカの目の前に広がっていたのは、白亜の石造りの建造物が幾重にも重なり合う、見たこともないほどに巨大な港湾都市の全貌だった。
港を埋め尽くす無数の巨船。せわしなく巨大な荷物を運ぶ労働者たち。腰に立派な武器を携え、堂々と闊歩する冒険者たちの姿。市場から響く、地を震わせるような威勢のいい呼び込みの声。人々の高らかな笑い声、荒々しい怒鳴り声、どこからか流れてくる陽気な歌声――。
無数の異なる生命の音が複雑に入り混じり、街全体がまるで一つの巨大な生き物であるかのように、ドクドクと力強く脈打っている。
ルカは、息をするのも忘れてその光景を呆然と見つめ続けた。
自分がこれまで全てだと思って生きてきた、あの静かで、冷え切った村とは比べものにならない。世界という場所は、こんなにも広く、こんなにも熱量に満ちあふれていたのか。
「ここが、海都『リムサ・ロミンサ』よ」
ミリアはルカの隣に立ち、誇らしげに海を見つめながら言った。
「かつて海を統べた海賊たちが創り上げた都。そして、今ではエオルゼアでも有数の、交易と冒険者の集う大都市よ」
ルカは黙ったまま、行き交う人々の波を見つめていた。
村を追われ、世界のすべてに絶望してから、本当に初めてのことだった。胸の奥の、固く閉ざされていた心の隙間に、ほんの少しだけ「もっと知りたい」という好奇心の芽が芽生えたのは。
だが、ルカはふと気づき、小さく呟いた。
「……ここの人たちは、みんな……俺のことを、見ないんだな」
ミリアは不思議そうに首を傾げた。
「見ない? 何をかしら?」
「その……俺の、この耳とか」
ルカは、自らの頭の上で微かに動く獣の耳に触れ、少し言葉を詰まらせた。
「……この、体型…とか。男なのに、こんな風に、普通じゃなくて、歪だから……。でも、誰もこっちを気にしないし、も指をささない」
男とも女ともつかない、あるいは両方の特徴をその身に宿したルカの身体は、あまりにも華奢で、どこか妖絶なまでの美しさを孕んでいた。
絹糸のような青い髪に、しなやかな花の茎を思わせる細い腰、そして未成熟な面影を残す独特の体躯。それは生まれ育った故郷では「忌むべき異形」として扱われ、恐怖の対象の視線に晒される原因そのものであった。ルカは自らの身体を隠すように、無意識に身を縮める。
ルカの言葉の意図を察したミリアは、一瞬だけ神妙な顔をして、ルカのその不思議な美しさを湛えた姿を見つめた。けれど、すぐに全てを笑い飛ばすように、あっけらかんとした口調で微笑んだ。
「そりゃあ、珍しい髪の色や綺麗な耳をしてるから、純粋な興味で見る人はいるわよ? それに、確かに、あなたは珍しい身体をしているわ。男の子なのに花の茎みたいにしなやかで、とても綺麗で、特別な姿をしている。まるで絵画から抜け出してきたみたいに綺麗だもの」
そして、包み込むような優しい視線のまま口を開いた。
「でもね、ルカ。この街をよく見てごらんなさい」
彼女は、賑わう大通りを優しく指差した。
ルカが目を凝らすと、そこには信じられないほど多様な「姿」の人々が交錯していた。
人間を二回りも大きくしたような、岩石を思わせる巨躯のルガディン族。人間の膝元ほどしか身の丈がない、愛らしい小柄なララフェル族。頭部に美しい角と鱗を持つアウラ族。しなやかで長い耳を持つエレゼン族。そして、ルカと同じように豊かな耳と尻尾を持つミコッテ族の人々や、すらりと長い肢体にウサギのような長い耳を頭上に戴いた高貴な佇まいのヴィエラ族までもが、何食わぬ顔で談笑しながら歩いている。
「この海都にはね、世界中から色んな種族や、色んな背景を持った人が集まってくるの」
ミリアは優しくルカの肩に手を置いた。
「変わっている人、珍しい特徴を持った人なんて、数え切れないくらい幾らでもいる。だから――誰もそんなこと、気にしないわ。ここではみんな、ただの『一人の人間』だもの」
「誰も、気にしない……」
そんな世界が、本当にこの地上のどこかに存在していたのか。
もし、母がまだ生きていて、この光景を一緒に見ていたなら、一体何と言っただろうか。
きっと、いつものように優しく笑うはずだ。
『ほらね、ルカ』
耳の奥で、懐かしい母の声が響く気がした。
『世界は、私たちが思っていたよりも、ずっとずっと広くて優しいでしょう?』
その時だった。
「おいっ、ミリア!!」
鼓膜を揺らすような、途方もなくバカデカい大声が響き渡った。
ルカが驚いて振り返ると、人混みを割るようにして、一人の大柄な男がこちらに向かってドシドシと歩いてくるところだった。
男の背中には、彼の身の丈ほどもある巨大な鋼鉄の斧が担がれている。陽に焼けた屈強な肌と、豪快極まりない破顔。まるで、服を着た熊が歩いてきたかのような圧倒的な威圧感だった。
「坊主!元気になったか?」
ミリアが嬉しそうに頷く。「この通り、広場を歩けるくらい回復したわよ、ブラン」
ブランと呼ばれた大男は、ルカの前に立つと、影を作るほどの高さからじっと見下ろしてきた。
ルカは思わず身体を強張らせ、身構えた。だが、男の瞳の中にあったのは、恐怖でも嫌悪でもなく――ただの、純粋で剥き出しの「興味」と「感心」だけだった。
「お前さん、あんな化け物塗れの迷宮の奥底で、たった一人でよく耐えたな?」
ルカは、緊張で声を詰まらせながらも、小さく頷いた。
するとブランは、顎が外れんばかりの勢いで豪快に笑い飛ばした。
「ガハハハハ! 普通の人間なら、入口の一歩先で恐怖で失神するか、魔物の餌になって死んでるぜ!」
あまりにも直球な言葉に、ルカは目を丸くした。
ブランはさらに、ルカの細い肩をパチンと大きな手で叩いた。
「それなのに、お前さんは見事に生きてここに立ってる。大した根性だ、気に入ったぜ!」
ルカは、何も言えなかった。
褒められている。化け物だと忌み嫌われ、捨てられたはずの自分が、初めて会った、こんなにも強そうな戦士に、真っ直ぐに認められている。その事実が、どうしても信じられなくて、胸の奥が震えた。
「俺はブラン。斧術士ギルドの戦士だ」
ブランは自らの厚い胸板をドンドンと叩いた後、少しだけ真面目な顔になってルカを覗き込んだ。
「……でよ、一つ聞きたいんだが。あの日の、あの迷宮を丸ごと埋め尽くした、もの凄ぇ『光』だ」
ルカの身体が、一瞬にして冷たく強張る。あの、魔物を吹き飛ばし、自分自身をも恐怖させた、暴走した力の記憶。
「あれ、お前さんがやったんだろ?」
ルカは、小さな手を震わせながら、ゆっくりと頷いた。
「……分からないんだ。俺はただ、傷を治すための『フィジク』を使っただけなのに、気づいたら魔物が吹き飛んでいて……」
「フィジク?」
「うん。誰かの傷を癒やすための、光の魔法だよ」
ブランとミリアは、一瞬だけお互いに顔を見合わせ、それから同時に吹き出すように苦笑した。
「おいおい、治癒魔法の光で、あのワンダラーパレスの凶悪な魔物を一撃で吹っ飛ばす奴がどこにいるよ」
「そうね。普通はあり得ないわ。フィジクはそんな、大砲みたいな魔法じゃないもの」
ルカは、ますます困惑して俯いた。自分でも本当に分からないのだ。あの力が何だったのか。なぜ、自分の治癒の光があんな恐ろしい破壊を生み出してしまったのか。
するとミリアが、ルカの目線に合わせるようにして優しくしゃがみ込み、その細い手を握りしめた。
「だったらね、ルカ。これからゆっくり、調べてみればいいじゃない」
「……調べる?」
「そうよ」
彼女は、力強く頷いた。
「君のなかに眠っている、その不思議で、とっても強い力の正体を。ここで、私たちと一緒にね」
その言葉に、ルカは静かに息を呑んだ。
自分の、力。
これまでは、ただ恐れることしかしていなかった。村を滅ぼす呪いかもしれないと、自分を孤独にする異常な凶器かもしれないと、ただ目を背けていただけだった。
だが――もし、違うのだとしたら。もし、あの力に、自分が生き残ったことに、何か別の、温かい意味があるのだとしたら。
「俺にも……」
ルカの唇から、壊れそうなほど小さな声が漏れる。
「……できるのかな。自分の力と、ちゃんと、向き合うことが」
ミリアは太陽のように微笑み、ブランもまた、海風を割るような大声で笑った。
「できるに決まってんだろ! できないことなんか、この海都にはねぇよ!」
その答えは、あまりにも簡単で、あまりにも自然だった。まるで、ルカの未来が開かれていることなど、最初から世界の当たり前であるかのように。
その瞬間、ルカの胸の最深部で、今にも消えかけていた小さな、小さな火種が、パチリと音を立てて再び揺らめき始めた。
まだ、誰の目にも見えないほどに弱い光。
けれど、それは確かに、そこに灯っていた。絶望の深淵から拾い上げられた少年が、未来へと歩み出すための、小さな希望の灯火だった。
第二十四節 戦う者を支える者
それから数日後の朝。ルカはミリアに手を引かれ、リムサ・ロミンサの中心部にそびえ立つ、斧術士ギルドの広大な本部へとやってきていた。
そこは、朝一番から独特の熱気と活気に満ちあふれていた。
自らの身の丈を超える巨大な斧を易々と担ぐ者、激しい実戦を物語る傷だらけの甲冑を身に纏った者、まだあどけなさの残る若い見習いの戦士たち。様々な背景を持つ人々が、大声を掛け合いながら慌ただしく行き交っている。
その、荒々しくも生命力に満ちた光景に、ルカは完全に圧倒されていた。
これほど多くの「戦う人々」を、ルカは今までの人生で一度も見たことがなかったのだ。
「ふふ、やっぱり緊張してる?」
隣を歩くミリアが、ルカの様子を見て可笑しそうに笑う。
ルカは、無意識のうちに頭の上の耳をペタリと伏せてしまっていた。
「……うん。少し、怖いかも」
「大丈夫よ、みんな見た目は怖いけど、根はいい人ばかりだから」
ミリアはそう言ってルカを安心させながら、迷いなく建物のさらに奥深くへと進んでいく。
やがて、頑丈な木製の扉の前で立ち止まると、彼女は「失礼します」と声をかけて扉を押し開けた。
その瞬間、ルカは微かに息を呑んだ。
そこは、想像していたよりもずっと広く、清潔な匂いのする「医務室」だった。
微かに漂う、薬草を煎じた独特の瑞々しい香り。整然と並べられた白いシーツのベッド。そして――そこに横たわる、数多くの負傷した戦士たち。
腕に白い包帯をぐるぐる巻きにされた者、足を深く負傷して顔をしかめる者、肩口を刃で深く斬り裂かれたのか、痛々しい当て布をされた者。皆それぞれ、厳しい戦いの中で負った傷を抱えていた。
だが――不思議なことに、その部屋には、ルカが知っている「死」や「絶望」の悲壮感は、微塵も漂っていなかった。
「はい、次の人! 傷口を開きたくなかったら、大人しく座ってて!」
「おいおい、無茶をして怪我をしたのは自分でしょうが! 治療士の手を煩わせないの!」
至る所で、エプロンを纏った治療士たちの、活気に満ちた叱咤激励の声が飛び交っている。
忙しい。とにかく、目が回るほどに忙しい空間。まるで、もう一つの戦場がここにあるかのようだった。
ミリアは慣れた足取りで、ルカを連れて部屋の奥へと歩みを進める。
「あら、ミリア。お帰りなさい」
近くで薬瓶を整理していた、ベテランらしい年配の女性治療士が顔を上げた。
「その子が、例の……ブランたちが迷宮から拾ってきたっていう?」
「はい。ルカくんです。今日から少しずつ、ここを手伝ってもらおうと思って」
女性治療士の鋭い視線が、ルカへと向けられた。
ルカは思わず身体を強張らせ、叱責を待つように身をすくめた。だが――その年配の女性の瞳に宿ったのは、嫌悪でも警戒でもなく、ただの、純粋で温かい「慈愛」だった。
「あらまあ……!綺麗な子!」
女性治療士は、一瞬で顔を綻ばせて嬉しそうに笑った。
「それに、なんて可愛らしい子なのかしら! ミコッテの男の子だなんて、このむさ苦しいギルドには勿体ないくらいだわ!」
ルカは、完全に硬直してしまった。
可愛い、と言われた。どう反応していいのか、自分の人生の経験則の中には、その答えがどこにも見当たらなかった。
その様子を見て、ミリアが堪えきれずに吹き出した。
「でしょ? 最初に見た時から、すっごく可愛い子だなって思ってたのよ」
「もう、ミリアったら、でしょ? じゃないわよ。こんな小さな子を驚かせちゃ駄目でしょ」
二人の女性治療士が、楽しそうに笑い合う。それにつられるようにして、周囲のベッドにいた負傷した戦士たちや、他の治療士たちまでもが、クスクスと好意的な笑い声を上げ始めた。
ルカは、ただただ困惑していた。
けれど――自分が、誰かの「笑顔の輪」の中心にいる。
それは、決して自分を馬鹿にする冷笑ではなく、傷つけるための嘲笑でもなかった。ただ自然に、そこにいることを歓迎されている。その不思議な温かさが、ルカの頑なな心を、内側からそっと抱きしめてくれるようだった。
その、穏やかな時間を切り裂くように、医務室の入口から慌ただしい怒鳴り声が響いた。
「担架だ! 重傷者が入るぞ、道をあけろっ!!」
一瞬にして、室内の空気が一変した。
治療士たちの表情から笑みが消え、一プロのヒーラーとしての鋭い顔つきに変わる。
激しく扉が開け放たれ、二人の屈強な斧術士が、一人の若い男を担架で運び込んできた。
男の肩から胸にかけて、何か巨大な魔物の爪で引き裂かれたような、深く悍ましい裂傷が走っていた。そこからは未だに、ドクドクと赤い鮮血が溢れ出し、床へと滴り落ちている。
ルカの身体が、恐怖でカチリと強張った。
(……ひどい傷だ。あんなの……村だったら、もう……)
村での記憶が蘇る。あんな傷を負えば、祈る間もなく死を待つしかなかった。助かるはずがない、そう思うほどの致命傷。
しかし――この医務室の人々は、全く違っていた。
誰一人として、声を上げて慌てない。誰一人として、絶望の悲鳴など上げない。
「ベッドへ! すぐに止血の準備を!」
ミリアが、風のような速さで負傷者の元へと駆け寄った。彼女は素早い手つきで男の傷口を確認し、鋭い声で告げた。
「大丈夫、出血は多いけど、肺の奥までは届いてないわ! まだ繋ぎ止められる!」
その力強い一言だけで、周囲の治療士たちが電光石火の如く動き出した。
適切な薬品、清潔な包帯、縫合のための器具。必要な資材が、一瞬にしてミリアの手元へと集められていく。
そして――ミリアは、男の無惨な傷口の上に、自らの両手を静かに重ね合わせた。
「――フィジク」
ミリアの細い手から、溢れんばかりの、柔らかな、翡翠色を帯びた光が溢れ出した。
ルカは、その光景に激しく目を見開いた。
フィジク。
それは、ルカ自身も嫌というほど知っている、あの呪われたはずの治癒の力。
だが――ミリアの放つ光は、ルカの知るものとは、まるで違っていた。
どこまでも優しく、どこまでも温かく、傷つき、苦しむ者の命を、慈しむように包み込む聖なる光。ルカが迷宮で暴走させた、あの狂暴な破壊の光とは、対極にある「生命の輝き」そのものだった。
光の粒子が染み込んでいくにつれ、男の胸の凄まじい裂傷が、魔法のように少しずつ、確実に閉じていく。血が止まり、男の苦しげだった喘ぎ声が、見る見るうちに深く、安定した呼吸へと変わっていった。
数分が経った頃。先ほどまで死の淵にいたはずの男が、信じられないことに、自らの力でベッドの上にガバリと起き上がったのだ。
「……ふぅ、助かった。死ぬかと思ったぜ、ありがとな、ミリア」
ミリアは額の汗を拭い、男の頭をパチンと軽く叩いた。
「お礼を言うなら、次は絶対に無茶をしないこと。いいわね?」
「アハハ、善処します、治療士様」
「絶対にする気がない顔ね、それ。次運ばれてきたら、化膿止めのお薬を二倍苦くしてあげるから」
医務室の中に、ドッと温かい笑い声が沸き起こる。命を救われた男も、本当に嬉しそうに笑っていた。
生きている。
死を乗り越え、助かったからこそ、彼らはこうして笑い合えるのだ。
その光景を見つめながら、ルカは、その場から一歩も動くことができなくなっていた。
胸の奥から、言葉にならない熱い感情が、波のように込み上げてくる。
治療魔法とは――本当は、こういうものだったのだ。
誰かを怖がらせたり傷つけるための化け物の力なんかじゃない。
戦う誰かの命を救うための力。
その人の未来を、明日を、もう一度繋ぎ止めるための力。
そして――その人の帰りを待つ、大切な誰かを、自分のように絶望させないための、世界で最も気高い力。
気づけば、ルカは忙しそうに次の患者の元へと動き回るミリアの背中を、食い入るように見つめ続けていた。
彼女の顔は、ひどく忙しそうで、額には汗が浮かんでいたけれど――その表情は、どこか誇らしげだった。
自らの仕事に。自らが宿す「癒やしの力」に、絶対の誇りと喜びを持っている、そんな人間の美しい顔だった。
ルカの脳裏に、あの優しかった母姿が、鮮烈に重なり合う。
いつも誰かのために、その細い手を差し伸べ、最後までルカの未来を願い続けてくれた、大好きな母。
そして今、目の前にも、全く同じ志を持って、誰かの命を救うために生きている人がいる。
その瞬間だった。
少年の胸の奥の奥で、微かに揺れていた希望の灯火が、明確な一つの「想い」として、確固たる形を結んだ。
それは、誰かへの漠然とした憧れなどではない。
もっと切実で、もっと真っ直ぐな、彼が自分の意志で初めて抱いた、未来への強き願い。
ルカは、小さく唇を動かした。誰の耳にも届かない、掠れた小さな、けれど魂の底から絞り出された声だった。
「……俺も」
言葉が、自然と、何一つ迷うことなく続いていく。
「俺も……あんな風に、誰かを救える人になりたい」
その願いは、今はまだ、あまりにも小さく無力なものだったかもしれない。
けれど、それは間違いのない本物だった。
故郷を追われ、世界のすべてを失った少年ルカ・エレミヤは、この海都の喧騒のなかで、人生で初めて、自らの意志で「夢」を見つけたのだった。
第二十五節 光の正体
それからしばらくの間、ルカの一日は斧術士ギルドの医務室へ通うことから始まるようになった。
もちろん、怪我人としてではない。ミリアの傍らでその技術を学ぶ、「見学者」としてだった。
ミリアは、どれほど医務室が戦場のように忙しくとも、ほんの僅かな合間を見つけてはルカに様々なことを熱心に教えてくれた。
皮膚を引き裂く傷の手当ての順序。山や森に自生する薬草の正しい見分け方と調合の割合。筋肉を固定するための包帯の巻き方。そして何より、心まで傷ついた怪我人たちとどのように言葉を交わし、接するべきかという、癒やし手としての心構え。
ルカの知識の吸収速度は、ミリアに「恐ろしいほど」と言わしめるものだった。
高度な医学知識や魔法の術理を、まるで乾いた砂が水を吸い込むように、一度聞いただけで完璧に記憶してしまう。彼にとって学ぶことは決して苦ではなく、むしろ知れば知るほど、さらに深く知りたくなる――そんな、魂が歓喜に震えるような未知の感覚だった。
ある日の午後。
医務室のさらに奥にある、厚い石壁に囲まれた小さな訓練室で、ルカはミリアと二人で向かい合っていた。
部屋の中央にある古い木机の上には、一冊の古い魔導書が置かれている。
ルカの魔導書だ。ワンダラーパレスの暗闇の底で発見されたあの瞬間も、彼が小さな腕で決して離そうとせず、頑なに抱え続けていた、亡き母の遺品だった。
「ルカ。今日は座学じゃなくて、実際に君の力を見せてもらおうと思うの」
ミリアが、真剣な眼差しで告げた。
ルカは、細い指先を少しだけ緊張に震わせながら、小さく頷いた。
「……うん。俺、何をすればいい?」
「まずは、いつものように普通に『フィジク』を使ってみて」
ルカは精神を集中させ、ゆっくりと魔導書を開いた。小さく深呼吸をして、室内の虚空に向けてそっと右手をかざす。
「――フィジク」
唱えると同時に、彼の掌の先から、淡く清らかな光が生まれ出た。
それはどこまでも柔らかな、冬の暖炉の炎のような、優しい温かさを持つ緑の光だった。
ミリアは隣で、その光の輝きを静かに、そして鋭く観察している。光は一定の輝きを保ったまま安定しており、不自然な揺らぎも全くない。治癒術士としての純粋な素質だけで見れば、この時点で十分に一流の領域に達していた。
だが――問題は、そこではなかった。
「次はね、ルカ」
ミリアは、訓練室の壁際に設置された、頑丈な木製の訓練人形を指差した。
「……あのワンダラーパレスの夜に起きたことを、もう一度だけ、頭の中で鮮明に思い出してみてほしいの」
その言葉が出た瞬間、ルカの美しい顔が、目に見えて暗く曇った。
あの日、深夜の雨のなか、大人たちに裏切られた絶望。禁忌の迷宮の暗闇。目の前に迫ってきた、巨大な魔物の鋭い牙と赤い瞳。そして、自らの死を確信したあの極限の恐怖――。
ルカにとっては、二度と思い出したくない、魂に刻まれた深い傷跡だった。
ルカの身体が小刻みに震え始めるのを見て、ミリアはすぐに痛ましそうな顔をして声をかけた。
「ごめんなさい、無理なら今すぐやめてもいいわ。強制することじゃないもの」
しかし、ルカは小さく首を横に振った。
「……ううん。やるよ、ミリア」
逃げたくなかった。自分がなぜ生き残ったのか、あの時自分の身に何が起きたのかを、知りたかった。自分の持つ力を、自分自身を、もう誤魔化しておきたくはなかったのだ。
ルカは再び、魔導書へと強い意識を向け、そっと両目を閉じた。
押し寄せる暗闇。冷たい石畳の感触。迫り来る飢えた咆哮。大好きな、けれどもう会えないお母様の最期の顔。そして、世界から見捨てられたという、底なしの死への恐怖。
そのすべてを、脳裏に強烈に呼び起こす。
胸がキュッと苦しくなり、酸素がうまく吸えずに呼吸が浅くなる。
だが、その時だった。
ルカの身体の奥底、魂の最も深い場所から、何かが凄まじい勢いで溢れ出してきたのだ。
それは、先ほどのフィジクとは明らかに違う、暖かい――けれど、暴虐的なまでに強烈なエネルギーの奔流だった。まるで、昇り初める烈日の太陽そのものが、自らの小さな胸の中に宿っているかのような感覚。
ルカは耐えかねたように、カッと両目を見開いて前方へ両手を突き出した。
「――っ!!」
言葉にならない叫びと共に、光が放たれた。
それは先ほどのような穏やかな光などでは到底なかった。訓練室の四方の壁を真っ白に焼き尽くさんばかりの、圧倒的なまでに眩い白銀の閃光。
ドガアアアアアアンッ!!!
鼓膜を破らんばかりの轟音が室内に炸裂した。
閃光は一直線に突き進み、正面にあった頑丈な訓練人形を、木の葉のように易々と吹き飛ばした。人形は石壁へと猛烈な勢いで激突破砕し、無数の木片となって室内に激しく舞い散る。
やがて、完全な静寂が訪れた。
ルカは、自らの両手を見つめたまま、言葉を失って呆然と立ち尽くしていた。ミリアもまた、あまりの威力に息を呑み、声を失っている。
その直後、訓練室の頑丈な扉がガシャーンと勢いよく蹴り開けられた。
「おいっ!! 今の地響きみたいな音は何だ! 」
飛び込んできたのは、巨大な斧をむき出しにしたブランだった。
そしてブランは、粉々に粉砕されて四散した訓練人形の残骸を見つめ、それからルカを見つめ、最後にミリアへと視線を移した。
数秒の、張り詰めた沈黙。
「……おいミリア。まさか、今の、やったのか?」
「ええ……」
「この、子供が……?フィジクで?」
「そうよ、ブラン」
さらに訪れる、長い沈黙。
ブランはゆっくりと斧を背中に戻すと、ガリガリと頭を抱え込んだ。
「……なんだそりゃ。おいおい、何が起きたらフィジクで壁が砕けるんだよ」
ルカも、心の中で全く同じことを呟いていた。
――なんだそりゃ、である。
そのあまりの理不尽さに、ミリアが堪えきれずにプッと吹き出した。その笑い声につられるようにして、部屋の中に満ちていた重苦しい緊張が、少しだけ緩んでいく。
しかし、ミリアはすぐに、今までにないほど真剣な、そして深い慈愛に満ちた表情でルカを見つめた。彼女は歩み寄り、ルカの紫色の美しい瞳をじっと覗き込む。
「ルカ。君の宿しているその力はね、普通の治癒魔法なんかじゃないわ」
ルカは、溢れそうになる涙を堪えながら、黙って彼女の言葉を待った。
「これはきっと――『光』そのものなのよ」
ミリアは、窓の外から差し込む、街を等しく照らす陽光へと視線を向けた。
「傷ついた人を、優しく癒やすこともできる。その命を守ることもできる。だけど、大切なものを脅かす敵が現れたなら……その光は、戦うための強大な武器にもなる。そんな、万能の可能性を持った力」
ルカの胸が、ドクンドクンと静かに、けれど激しく高鳴り始めた。
「そんな……そんな都合のいい力が……俺の中にあるの?」
「あるのよ」
ミリアは優しくルカの頭を撫で、お母様のように微笑んだ。
「少なくとも、今私の目の前にいる、ルカ・エレミヤという少年の中にはね」
その瞬間、ルカは生まれて初めて、心の底からそう思ったのだ。
もしかしたら。本当に、もしかしたら。
この、自分を孤独にし、村から追いやった忌むべき光は――呪いなんかでは、なかったのかもしれない。
過去の傷はあまりにも深く、今すぐには簡単には癒えない。けれど、心のどこかで、ほんの少しだけ、あの時母が命を懸けて遺してくれた言葉を、本当の意味で信じてみたいと思えたのだ。
――お前の光は、呪いなんかじゃない。
それは、祝福なのだと。
その想いはまだ、吹けば簡単に消えてしまうほどに、小さく儚い火種に過ぎなかったけれど。
確かに、少年の胸の中で、未来へ繋がる新しい希望として、確固たる産声を上げ始めていた。
第二十六節 守りたいという願い
ルカが海都の斧術士ギルドで暮らし始めてから、早いもので半年ほどの月日が流れていた。
朝一番には医務室へ向かい、負傷者たちの手当てや薬草の調合を手伝う。昼には訓練室に籠もり、ミリアの指導のもとで魔力制御の訓練を行う。そして夜になれば、蝋燭の灯りを頼りに、魔導書やギルドにある医学書を貪るように読み漁る――。
それが、今のルカの日常だった。
ミリアもブランも、ルカのその凄まじい集中力と向上心を見て、「これほど熱心な生徒は見たことがない」と、事あるごとに周囲に自慢していたほどだった。
しかし――ルカ自身は、その現状に決して満足していなかった。
ある日の午後。活気あふれる訓練場の片隅で、ルカは一人、膝の上に魔導書を開いていた。
「……フィジク」
小さな声で唱える。彼の掌から放たれる緑の光は、半年前とは比べものにならないほどに強く、そして完全に安定していた。治療に関する知識も技術も、すでに並の治療士を凌駕しつつある。
それでも。どうしても、胸の奥につかえる「足りない」という違和感が、彼を焦らせていた。
「なんだ、ルカ。またそんな、世界が滅びそうな難しい顔をして」
頭上から、地響きのような豪快な声が降ってきた。
振り返ると、巨大な両手斧を肩に担いだブランが、ニカッと白い歯を見せて笑っていた。
ルカは小さくため息をつき、魔導書を閉じた。
「……ブラン。俺の魔法は、遅いんだ」
「ああん? 遅いって、お前、発動速度ならそこらのベテランよりよっぽど早いぞ?」
「そうじゃないんだ」
ルカは自らの小さな両手を見つめ、ぽつりと続けた。
「……怪我をして、血を流して、苦しんでいるのを見てからじゃないと、俺のフィジクは役に立たない。それじゃ、遅いんだよ。みんなが怪我をして、痛い思いをする『前』に、光で守ることができたらいいのに」
その言葉を聞いた瞬間、ブランは少しだけ驚いたように目を見開いた。
普通の治療士であれば、絶対に辿り着かない発想だった。傷ついた者を、その後に最高の技術で治す。それこそが治療士の仕事であり、誇りだからだ。
しかし、ルカの思想は根本から違っていた。彼は、仲間が傷つくこと、そのプロセス自体を、光の力で完全に拒絶したいと願っているのだ。
それはルカの比類なき優しさであり――同時に、彼の魂に刻まれた「過去の傷」の裏返しでもあった。
大けがで倒れた母を、ただ見ていることしかできなかったあの日の無力。誰も助けられなかった自分。失われた、あの静かな故郷。
ルカは誰よりも知っていたのだ。傷というものは、どれほど魔法で綺麗に塞いだとしても、心に、魂に、決して消えない深い傷跡を残すのだということを。
だからこそ。血が流れる前に、傷つく前に、すべてを守り抜きたい。少年の瞳には、そんな悲壮なまでの強い決意が宿っていた。
「だったらよぉ」
ブランは、腕を組んで当たり前のように不敵に笑った。
「そんな魔法、お前が自分で新しく作っちまえばいいじゃねぇか」
ルカは驚いて、パチパチと瞬きをした。
「……作る? 魔法を、自分で?」
「おうよ!」
ブランは豪快に笑い、ルカの頭を大きな手でくしゃくしゃと撫で回した。
「前例がねぇだの、歴史がどうだの、そんな古い型なんか知ったこっちゃねぇ。お前が必要だと思うなら、お前の光で作ればいいんだ。違うか?」
あまりにも乱暴で、あまりにも豪快な理屈だった。だが、不思議とルカの胸には、その言葉がストンと深く突き刺さった。教科書のどこにも載っていないなら、自分で生み出せばいいのだと。
その日の夜、ルカは不思議と眠ることができなかった。
静まり返った自室の机に向かい、魔導書を開く。
窓の外には、海原を青白く照らす美しい満月が浮かんでいた。蝋燭の灯りが、微かな潮風に揺れている。
ルカは、暗闇の中でただ一人、考え続けた。
光とは、一体何だろう。
治癒とは、一体何だろう。
自分の不思議な力の本質とは、一体何なのだろう。
何時間も、夜が明ける寸前まで思考の海に沈んでいた、その時。
ルカの脳裏に、ふと、母のあの優しい声が蘇った。
『ルカ、お前は本当に……優しい子ね』
耳の奥で、フレイアが確かにそう言って笑いかけてくれた気がした。
優しさ。誰かを守ること。誰も傷つけないこと。
その切実な「願い」に、もしも自分の持つ光の力が応えてくれるのだとしたら――。
ルカは、吸い込まれるようにして魔導書へと両手を伸ばした。
「……お願いだ。傷つく前に、守って……!」
強く念じた瞬間、ルカの掌から、これまでとは全く性質の異なる光が生まれた。
それは、傷を塞ぐためのフィジクの緑の光ではない。
治癒ではない、けれどどこまでも温かく、強固な輝き。柔らかな黄金色の光の粒子が、ルカの手元からゆっくりと広がり、まるで目に見えない薄い絹の膜のように、少年の身体全体を優しく包み込んだ。
「え……?」
ルカが驚いて立ち上がった、その瞬間だった。
彼の身体の動きに押され、木机の端に置かれていた、火のついたランプが床へと真っ逆さまに落下した。
ガシャン、とガラスの割れる鋭い音が響き、中に入っていた熱い蝋と微かな炎が、ルカの足元へと激しく飛び散る。
だが――その熱い蝋の滴は、ルカの衣服に触れることすらできなかった。
ルカの身体を包み込んでいた、あの黄金色の光の膜が、飛び散った蝋と衝撃を完全に空中で受け止め、無効化していたのだ。
ルカは、息を呑んだ。
「……守った……? 痛く、ない……?」
信じられなかった。それは、傷を治療する魔法ではない。体力を回復させる魔法でもない。
攻撃が届く前に、すべてを遮断する――「防御」と「守護」の、彼が初めて自らの意志で生み出した、新世代の魔法だった。
翌朝。ルカは興奮を抑えきれないまま、訓練場でミリアとブランの前に立っていた。
「……二人とも、見てほしいものがあるんだ」
二人が不思議そうに顔を見合わせるなか、ルカは深く深呼吸をし、魔導書を強く握りしめた。
そして、昨日自らの内に掴み取った「守りたい」という強いイメージを解放する。
一瞬にして、ルカを中心とした周囲の空間に、淡い黄金色の幾何学的な障壁が展開された。
柔らかく、温かく、けれど一切の侵入を許さない、優しい守護の光。
「これは……!」
ミリアが、治療士としての本能でその異常性に気づき、驚愕の声を上げて息を呑んだ。
隣にいたブランが、にやりと不敵な笑みを浮かべ、近くにあった訓練用の頑丈な木剣を持ち上げた。
「おいルカ、そいつの強度、試していいか? 殴るぞ?」
「待ってブラン!」
ミリアが慌てて割って入る。
「相手はまだ子供よ! ちゃんと加減してくださいね!」
「ガハハ、分かってるっての! ちょいとな!」
ブランはそう言うと、大木をも叩き折るような腕力で、木剣をルカの黄金の障壁へと振り下ろした。
ゴッ!!!
鈍い衝撃音が響き渡る。しかし――木剣はルカの身体の一歩手前で完全に静止し、黄金の光の膜がその凄まじい衝撃をすべて吸収し、霧散させた。
障壁の向こう側で、ルカは髪の毛一本すら揺らすことなく、完全に無傷のまま立ち尽くしている。
三人の中に、一時の静寂が訪れた。
やがて、ブランが木剣をぽつりと落とし、呆れたように呟いた。
「……おいおい、大したもんだ。本当に作りやがった。すげぇな、ルカ」
ミリアも、震える手でその光の残滓に触れ、深く頷いた。
「ええ……これは、歴史のどこにもない、全く新しい魔法よ。傷を治す治療士が、傷つく前に人を守るなんて……」
ルカは、未だに自分の両手を見つめていた。
自分が、生み出したのだ。母の魔導書と、自分の光を使って。大好きな仲間たちを、傷の痛みから遠ざけるための、絶対的な守護の魔法を。
その圧倒的な事実が、ルカの小さな胸を誇らしさで激しく震え狂わせていた。
「ルカ。この魔法に、何か名前はあるの?」
ミリアが、愛おしそうな目で尋ねる。
ルカは、少しの間だけ考えた。
これから戦場に向かう仲間たちを、背中から強く励まし、戦う勇気を与え、あらゆる傷から守り抜くための光。
ルカは、前を向いて静かに答えた。
「――『鼓舞激励の策』。これが、この魔法の名前だよ」
その瞬間。後に、カルテノーの戦いや数々の死線において、ガレマール帝国軍から「海都の歩く不落要塞」と恐れられ、軍医ルカの代名詞となる伝説の防護魔法が、この小さな潮風の訓練場で、産声を上げたのだった。
第二十七節 届かない手
ルカが海都の斧術士ギルドへと身を寄せてから、早くも一年の月日が流れていた。
季節は巡り、柔らかな春。海から吹き抜ける風も、ほんのりと花の香りを混ぜて暖かくなり始めていた頃。
その日、ルカは初めて、ギルドが主催する本格的な実地討伐訓練へと参加していた。
もちろん、前線で斧を振るう戦士としてではない。
正式な「治療士見習い」として、ブランが率いる斧術士の小隊に同行し、後方からの負傷者の救護任務を任されたのだ。
場所は、リムサ・ロミンサ近郊に広がる、鬱蒼とした森林地帯。最近になって、野生の魔物たちの活動が異常に活発化しているという報告があり、周辺の安全を確保するための討伐隊が編成されたのだ。
「ルカ、絶対に無理だけはしちゃ駄目よ。危なくなったら、ブランの背中に隠れるの」
出発前、療養所の前でミリアはそう言って、ルカの衣服の襟を優しく整えてくれた。
ルカは「うん、分かっているよ」と力強く頷いた。
だが、彼の小さな胸は、今までにないほどの高鳴りを上げていた。
初めての本物の戦場。本物の救護。自分がこの一年間で必死に学んできたこと、ミリアやブランと培ってきた力が、どれほど通用するのかを試す、大きな機会だったからだ。
最初のうちは、すべてが極めて順順に進んでいた。
討伐隊は規律正しく森の奥へと進み、ブランをはじめとする熟練の斧術士たちが、前衛で鮮やかに魔物を退けていく。ルカはその後方から、魔導書をしっかりと抱え、鋭い視線で戦況の様子を見守っていた。
時折、魔物との小競り合いの中で軽傷者が出た。そのたびに、ルカは泥を恐れずに素早く駆け寄った。
「――フィジク!」
ルカの手から放たれる清らかな光が傷口を覆うと、見る見るうちに皮膚が塞がっていく。
「おお、助かったぜ、小さな治療士殿!」
戦士たちから、次々と感謝の声と笑顔が向けられる。それが、ルカは何よりも嬉しかった。自らの異形と恐れられた力が、今、確かに誰かの命の役に立っている。その確かな実感が、彼の心を強く満たしていた。
しかし――午後を過ぎ、森の最深部へと足を踏み入れた瞬間、状況は一変した。
鬱蒼とした木々の隙間から、地を揺るがすような咆哮と共に現れたのは、当初の報告を遥かに上回る、凶暴な魔物の「大群」だった。
「数が多すぎる……っ! 待ち伏せか!?」
誰かが悲痛な叫び声を上げる。
前方からの圧倒的な物量に、討伐隊の強固だった戦線が、一瞬にして大きく乱された。前衛の斧術士たちが次々と押し込まれ、森の至る所から、肉を引き裂かれる凄惨な悲鳴が響き渡る。
一人の戦士が、魔物の爪に弾き飛ばされてルカの目の前に転がった。
「しっかりして……っ! フィジク!」
ルカは即座に駆け寄り、光を放って彼の傷を塞ぐ。その男は一命を取り留めた。
だが、安堵する間など一秒もなかった。
「ぐあああっ!!」
すぐ右側の茂みの向こうから、別の戦士の叫び声が響く。
振り返ると、そこには深く太ももを斬り裂かれ、大量に出血している男が二人、同時に倒れ込んでいた。
「今行くよ……っ!」
ルカがそちらへ走ろうとした、その瞬間――さらにその遥か向こう、左側の前線からも、肉を骨ごと噛み砕かれるような鈍い音と、三人目の悲鳴が上がった。
ルカの顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが分かった。
(……足りない)
自分が、一人しかいない。
あっちの人も、こっちの人も、向こうの人も、みんな激しい血を流して苦しんでいる。
助けたい。全員を、今すぐ、一人残らず助けたい。
でも――自らの小さな両手は、どうあがいても「今、目の前にいる一人」にしか、届かないのだ。
必死に走って一人にフィジクを使えば、その間に、また別の場所で誰かが致命傷を負う。そちらへ急いで駆けつければ、今度はさらに別の場所から、命が消えゆく最期の悲鳴が聞こえてくる。
息が、うまく吸えない。胸の奥が、狂いそうなほどに苦しい。
押し寄せる強烈な焦燥。恐怖。そして、圧倒的なまでの無力感。
それは――あの激しい雨の夜、目の前で命を落としていった母を、ただ泣きながら見ていることしかできなかった、あの日の絶望と、全く同じ感覚だった。
助けたいのに。こんなに強い光があるのに。
どうして、誰の手にも届かないんだ――。
その時だった。ルカの視界の端で、あの頼れる大男、ブランの巨躯が、超大型の魔物の強烈な一撃を浴びて、激しく宙を舞った。
ブランは地面を何メートルも激しく転がり、背後の大木に激突してようやく止まる。彼の屈強な肩口からは、今までに見たこともないほどの大量の鮮血が、ドクドクと溢れ出していた。
「ブラン……っ!!」
ルカは、裂けるような悲鳴を上げて叫んだ。
今すぐ、ブランの元へ走らなければ。彼をフィジクで、鼓舞で救わなければ。
だが――ルカの足元には、今まさに腹部を裂かれ、意識を失いかけている別の若い見習い戦士が倒れていた。この子から手を離せば、この子は数十秒と持たずに死ぬ。
どちらを選ぶ。
どちらを、今すぐ助ければいい。
選べない。そんな残酷な選択、選びたくなんてない。
誰も。誰一人として、自分の目の前で見捨てたくなんてないんだ……っ!!
その瞬間だった。
ルカの胸の、魂の最深部が、爆発するかのような凄まじい熱量を帯びて沸騰した。
全身の血管を、魔力の奔流が駆け巡る。
それは、傷を治すフィジクの光とも違う。個人の身を守る鼓舞激励の策の輝きとも全く違う。
もっと広く。もっと優しく。この戦場にいる、すべての傷つき、苦しむ仲間たちを、そのすべてを包み込みたいという――少年の、命を懸けた、あまりにも巨大な「願い」の力。
ルカは、無意識のうちに魔導書を天高く掲げ、自らの両手を戦場全体へと大きく広げていた。
「お願いだ……っ!!」
涙に濡れた声が、激しく震える。
「みんなを……みんなを、守ってくれええええっ!!!」
ドォォォォォン……ッ!!!
ルカの足元から、地響きのような深い駆動音が鳴り響いた。
次の瞬間、彼の小さな身体を中心に、まるで水面に投げ込まれた石が描く波紋のように、まばゆい黄金色の光の波動が、地面を伝って全方位へと一気に広がっていった。
光の波紋は周囲の草木を照らし、薄暗い森の空間を昼間のように白亜に染め上げ――そして、戦場に取り残されていた、すべての斧術士たちの身体を等しく包み込んでいった。
その場にいた誰もが、驚愕に目を見開いた。
光の陣の内側にいる負傷者たちの傷口が、まるで時間を巻き戻すかのように、ゆっくりと、けれど確実に閉じていく。溢れ出ていた血が止まり、荒く苦しげだった呼吸が、一瞬にして穏やかなものへと落ち着いていく。激痛に歪んでいた戦士たちの顔から、苦痛の色が消え去っていく。
一人ではない。二人でもない。
この戦場にいる、十人以上の傷ついた仲間たちが――全く同時に、その命を繋ぎ止められ、癒やされていく。
それは、エオルゼアの魔法の歴史を根底から覆すような、絶対的な「奇跡」の光景だった。
ルカ自身もまた、その光の中に佇みながら、呆然と自らの生み出した現象を見つめていた。何が起きたのか、自らの頭では理解できていない。
だが――彼の胸の奥だけは、その意味を完全に理解していた。
これは、彼の「願い」そのものなのだ。誰も選ばない。誰も置いていかない。その強い祈りが、光の陣となって具現化したのだと。
「……おいおい、こいつは……」
ブランが、塞がった自らの肩を押さえながら、信じられないものを見る目で呟いた。
「……とんでもねぇな。治療士一人の域を、完全に超えてやがるぜ、あの坊主……」
周囲の斧術士たちも、言葉を失ったまま、自らの身体を包む黄金の光を見つめていた。
その光の陣は、しばらくの間、薄暗い森の奥深くを暖かく照らし続けた。
どこまでも暖かく、どこまでも優しい輝き。まるで――誰かの一番大好きな腕の中に、ぎゅっと抱きしめられているかのような、圧倒的な安心感。
その不思議な温もりに触れた瞬間、ルカの脳裏に、あの大好きな母の姿がありありと浮かび上がった。
フレイアの、優しい腕。自分を呼んでくれた、愛おしい声。命を救ってくれた、あの温もり。
ルカの目から、大粒の涙がポロポロと溢れ、泥の中に落ちていった。
やがて、黄金の光の陣が静かに消え去り、森には再び、元の静寂が戻ってきた。
そこには、先ほどまで死の淵でもがいていたはずの、生き残った仲間たち全員が、力強く自らの足で立ち上がっていた。誰一人として欠けることなく、誰一人として命を落とすことなく。
その奇跡の光景を目にした時、ルカは、ようやく自分が本当に欲しかったものの「正体」を、心の底から理解した。
自分が欲しかったのは、誰かに救われることなんかじゃない。
この異形の手で、この光の力で――誰かの命を、大切な仲間を、自分の手で「救うこと」だったのだと。
後に、カルテノーの悲劇をはじめとする数多の凄惨な戦場において、数千、数万の同盟軍兵士たちの命を絶望から繋ぎ止め、軍医ルカ最大の象徴として歴史に刻まれることになる、絶対なる広域治療防御陣――。
『野戦治療の陣』
この伝説的な魔法は、この日、「もう誰も、絶対に置いていきたくない」と願った、一人の心優しい少年の涙と祈りから、この世界に産み落とされたのだった。
第二十八節 光の矛
広域治療術『野戦治療の陣』をルカが初めて発現させてから、数か月の月日が流れていた。
いまやルカは、斧術士ギルドの誰もが認める正式な「治療士見習い」であり、その特異で強力な光の力は、海都の荒くれ者たちの間でも静かに名前を知られるようになっていた。
「おい、あの子が例の、ブラン隊にいる『光の子』か?」
「ああ、まだあんなに若いのに大したもんだ。あの陣に何度命を救われたか分からねぇよ」
ギルドの酒場や廊下を歩けば、そんな囁き声が聞こえてくることも珍しくはなくなっていた。
しかし、周囲の評価がどれほど跳ね上がろうとも、ルカ自身は相変わらずだった。誰かに面と向かって褒められれば、気恥ずかしそうに獣耳をペタンと伏せて視線を彷徨わせ、感謝を告げられれば、どう応えていいか分からないといった様子で困ったように小さく笑う。
未だに、己の内に眠る価値を完全には信じ切れないままでいた。
それでも、一年前のように暗闇の底で怯えるだけだった頃に比べれば、彼は確実に、自分の足で一歩ずつ前を向いて歩けるようになっていた。
その日。ブランが率いる小隊は、リムサ・ロミンサ沿岸部の広大な崖地を進む、定期警備任務に就いていた。
当然のように、ルカも治療士として同行している。
空はどこまでも高く澄み渡った快晴で、眼下に広がる広大な海は太陽の光を浴びてキラキラと青く輝いていた。誰もが、今日もいつも通りの穏やかな一日になるだろうと、そう信じて疑っていなかった。
異変が起きたのは、正午を過ぎた頃だった。
突如として、前方の平原から地を裂くような悍ましい悲鳴が上がった。崖の上で斥候を務めていた見張りの戦士が、血相を変えて叫ぶ。
「ま、魔物だあぁっ! 狂暴な大型が来るぞ、構えろっ!」
その一声で、場にいた全員の空気が一瞬で張り詰めた。戦士たちが一斉に抜刀し、巨大な斧を構える。ブランが小隊の先頭へと躍り出て、ルカは訓練通りにその後方へと素早く身を隠す。いつもの、完全に信頼し合った配置だった。
だが、地鳴りを立てて茂みから姿を現した魔物は、ルカがこれまでに遭遇したどんな個体とも違っていた。
体長は三メートルを優に超え、全身を禍々しい漆黒の外殻で覆った異形の巨獣。岩をも易々と削り取るであろう鋭利な鉤爪を持ち、その濁った両眸には、周囲の生けるものすべてを屠ろうとする異様なまでの凶暴性がぎらぎらと燃え盛っていた。
「チッ、ただの野良じゃねぇな……! 野郎ども、気合入れろっ!」
ブランの怒号と共に戦闘が始まった。斧術士たちが果敢に応戦し、肉薄する。
しかし、その魔物は強すぎた。あまりにも、圧倒的に。
黒い鉤爪が一閃するたびに、屈強な戦士が一人のけ反り、生々しい傷口から血を噴き出して吹き飛ばされる。
「フィジク!」
ルカは即座に魔導書を開き、緑の光を放ってその傷を塞ぐ。だが、一人の治療が終わるか終わらないかのうちに、すぐ別の場所から肉を引き裂かれる悲鳴が上がった。
二人目、そして三人目。前線が崩壊しかける。
「みんな、俺の近くに集まって……っ! 『野戦治療の陣』!」
ルカは地面を強く踏み締め、黄金色の光の波動を戦場全体へと広げた。ドーム状に展開された聖なる陣が仲間たちを包み込み、刻一刻と刻まれる傷をその場で癒やし、辛うじて全員の命を繋ぎ止める。
それでも――魔物の進撃は止まらない。
「オラァッ!!」
ブランが渾身の力で両手斧を振り下ろした。しかし、魔物はその一撃を頑強な黒い前足で強引に受け止め、目にも留まらぬ速さでカウンターの爪を払った。
バキッ、という、骨の砕ける嫌な音が平原に響き渡った。
「が、はっ……!?」
あの無敵を誇ったブランの巨躯が、まるで紙切れのように虚空を舞い、背後の鋭い岩肌へと猛烈な勢いで叩き付けられた。地面に転がったブランの手から、愛用の斧が虚しく転がり落ちる。
「ブラン……ッ!!」
ルカの心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
すぐに駆け寄ろうと足を動かす。だが、魔物とブランがいる場所までは、あまりにも距離がありすぎた。
――間に合わない。
魔物は冷酷な瞳で倒れたブランを見下ろし、その太い肉腕を天高く掲げた。岩肌に背を預け、血を吐いて身動きの取れないブランに向けて、命を刈り取るための鉤爪が振り下ろされようとする。
その瞬間。ルカの中で、張り詰めていた何かが、音を立てて完全に切れた。
脳裏を過ったのは、恐怖ではなかった。
対象を呪うような、醜い憎しみでもなかった。
それは――自分の大切なものを、理不尽に奪おうとする世界への、純粋で烈火のごとき「怒り」だった。
どうして。どうしてこの世界は、いつもそうやって容赦なく傷つけるんだ。
どうして、やっと見つけた自分の大切な居場所を、ようやく出会えた温かい人たちを、また奪おうとするんだ。
もう、失いたくない。
母の時のように、自分の手が届かないところで、誰一人として、絶対に失いたくない……っ!!
ルカの胸の奥底で、あの白銀の光が、かつてないほどの熱量で爆発的に燃え上がった。
熱い。まるで太陽をそのまま飲み込んだかのように、あるいは夜空に輝く超新星を宿したかのように、全身の血液が沸騰する。あまりの眩さに、周囲の空間が白く歪む。
ルカは無意識のうちに、魔物を目掛けて右手を真っ直ぐに突き出していた。
掌の先に、すべての魔力、すべての光の粒子が一瞬で集束していく。
それは、傷を癒やすための治癒ではない。身を守るための防御でもない。ただ「目の前の敵を今すぐ排除する」という、ルカの強烈な生存と守護への意志。
極限まで圧縮され、形を得たその光は――まるで、天から降り注ぐ一本の巨大な「白銀の槍」のようだった。
「――ブランから、離れろぉぉぉっ!!!」
ルカの裂けるような叫びと共に、その矛が放たれた。
視界のすべてが真っ白に染まるほどの圧倒的な閃光。
次の瞬間、鼓膜を震わせる轟音と共に、光の槍は寸分の狂いもなく一直線に突き進み、ブランへと振り下ろされかけていた魔物の巨大な胸標を、迷いなく完璧に貫いた。
「ギャアアアアアアアアアアアッ!?」
魔物が、聞いたこともないような絶叫を上げた。
三メートルを超える漆黒の巨体が、光の衝撃波によって後方へと激しく吹き飛び、地面を何度も転がった末に、ピクリとも動かなくなった。
静寂が、平原を支配した。
小隊の戦士たちの誰一人として、何が起きたのか理解できず、言葉を発することさえできなかった。
ルカ自身もまた、呆然としたまま、自らの右手を見つめていた。その指先は、小刻みにガタガタと震えていた。
怖かったのだ。誰かを、何かを、これほどの破壊的な力で傷つけてしまったという事実が、彼の繊細な心を恐怖で満たしていた。
けれど――岩陰の向こうで、ブランはまだ息をしている。仲間たちも皆、生きている。
その圧倒的な事実だけが、ルカの震える胸を静かに満たしていった。
しばらくして、ブランが苦しそうに顔を歪めながら、ゲホゲホと咳き込んで上体を起こした。
「……おいおい、今のは、マジかよ……」
ブランは信じられないものを見る目で、遠くに立つ少年を見つめた。
「お前が……やったのか、ルカ」
ルカは、震える耳を小さく伏せながら、消え入りそうな声で頷いた。
「……うん。ごめん、なさい……」
なぜか、謝っていた。敵とはいえ、誰かを傷つけるための強大な力を使ってしまったことに、罪悪感を覚えていたのだ。
ブランは一瞬きょとんとした顔をしたが、次の瞬間、呆れたようにカカカと大声で笑った。
「ガハハッ! なんでお前が謝るんだよ、馬鹿野郎」
ブランは溢れる血を拭いもせず、ゆっくりと、けれど力強くその足で立ち上がった。
「今、間違いなく、その力に命を助けられたのは……俺たちの方だろ」
その言葉に、ルカは丸い両目を大きく見開いた。
助けた――自分が。魔法で傷を治すだけでなく、障壁で守るだけでもなく、戦うことで、大切な人たちの命をその手でもぎ取って救ったのだ。
吹き抜ける海風が、戦場に残留していた光の粒を、青空へと優しく溶かしていく。
そのあまりにも神聖な光景を遠くから見つめながら、ミリアは後に、ギルドの記録にこう書き残すことになる。
あの日、少年の怒りによって生まれた魔法は、決して破壊や虐殺のための力などではなかった。
ただひたすらに、目の前の大切な仲間の命を繋ぎ止めるために放たれた、どこまでも純粋な『光の矛』だったのだと。
その、敵を穿ち戦場を切り拓く奇跡の魔法は、後にエオルゼア全土で、
『ルイン』
と呼ばれるようになるのだった。
第二十九節 軍医ルカ・エレミヤ
歳月は、誰の元にも等しく流れていく。
かつてワンダラーパレスの暗闇の底で、小さな身体を縮めて震えていた少年は、時の流れと共に、確かな成長を遂げていた。
十七歳。十八歳。十九歳。
そして――二十歳。
少年の面影を残していた華奢な身体は、今ではどこか芯の通った、凛とした青年の姿へと変わっていた。
それでも、周囲の目を釘付けにして離さないその超越的な「美しさ」だけは、昔のまま、いや、成長したことでより一層の妖艶さを増して磨き上げられていた。
夜の海を溶かし込んだような美しい青い髪。神秘的な光を宿す青紫色の瞳。雪のように透き通った白い肌。そして、感情に合わせて小さく揺れる、ミコッテ族特有の美しい耳と尻尾。
それらが、両性具有という神の悪戯のような神秘的な身体の上に成り立っているのだ。ギルドの廊下を歩くだけで、誰もが思わず息を呑んで振り返るほどの美貌だった。
「ルカ先生っ!!」
昼下がり、医務室の頑丈な扉が勢いよく開け放たれた。
飛び込んできたのは、訓練中に肩の肉を深く負傷した若い斧術士だった。
ルカは、机の上に広げていた大量のカルテから静かに顔を上げた。
「――動くな」
短く、けれど深く落ち着いた声だった。そこには、かつて世界に怯えていた子供の面影は一切ない。数々の修羅場を潜り抜けてきた、癒やし手としての静かな自信と風格が備わっていた。
ルカは立ち上がり、慣れた手つきで母の遺品である魔導書を開く。細く美しい指先へ、一瞬にして濃厚な光が集束していく。
「フィジク」
柔らかな緑の光が、溢れる血を包み込む。瞬く間に肉が結合し、傷口が綺麗な皮膚へと塞がっていった。
男は驚いたように何度も肩を回し、顔を輝かせた。
「す、げえ……! もう全然痛くねぇや! ありがとな、ルカ先生!」
「無理はするなよ」
ルカはカルテにペンを走らせながら、困ったように苦笑した。
「いいか、明日までは絶対に安静だ。斧を振るうのも禁止」
「ええっ!? 明日は大事な遠征が――」
「……聞こえなかったか?」
ルカが少しだけ冷ややかな紫の瞳で男を睨むと、ピンと立った猫耳が不機嫌そうに僅かにピクリと動いた。
「ひっ、い、いいえ! 聞こえました! 明日は大人しく寝てます!」
「よろしい」
そのやり取りに、医務室内にいた他の負傷兵たちから、どっと温かい笑い声が沸き起こる。
こうした光景は、今の斧術士ギルドにおいては日常茶飯事だった。
二十歳になったルカは、今やギルド専属の、そしてリムサ・ロミンサの黒渦団からも一目置かれる高名な「軍医」となっていた。多くの荒くれ者の戦士たちが彼を頼り、海を渡る冒険者たちが彼の救いを求めて集まってくる。
前線に赴く負傷兵たちは、いつしか口を揃えてこう言うようになっていた。
「俺たちの後ろに、ルカ先生がいてくれる限り、絶対に死なねぇよ」
と。
当の本人は、そんな言葉を聞くたびに露骨に嫌そうな顔をして、「そんな都合のいい奇跡があるわけないだろ」と冷たく突き放す。
だが、それでも皆が信じていた。ルカという軍医がいる限り、どんな絶望的な戦場であっても、生きて帰るための希望の光は決して消えないのだと。
実際の戦場における彼の存在感は、すでに一人の治療士の枠を完全に超越していた。
前線で斧が激突し、凄惨な血が流れ、兵士たちの悲鳴が響き渡る地獄絵図の真ん中で――ルカが魔導書を掲げれば、どこまでも広く優しい黄金色の光が瞬時に戦場を覆う。
『野戦治療の陣』
その聖なる光に包まれるだけで、兵士たちは魂の底から安堵した。ああ、自分たちはまだ生きられる。生きて、愛する家族の元へ帰れるのだと、戦う勇気を取り戻す。
さらに、その絶対的な防衛線を突破しようとする敵が現れたなら。
「――ルイン!」
ルカの手から放たれる白銀の閃光が戦場を縦横無尽に駆け抜け、迫り来る魔物を正確に撃ち抜き、敵の進撃を力強く退ける。
そして、前線が崩壊しかける決定的な瞬間には。
「『鼓舞激励の策』!」
仲間たちの身体へ、一切の傷を拒絶する強固な黄金の障壁を展開し、絶望的な戦況そのものを一瞬で覆してしまうのだ。
いつしか、海都の人々、そして同盟軍の将兵たちは、畏敬の念を込めて彼のことをこう呼ぶようになっていた。
――リムサ・ロミンサの、若き『光の戦士』。
だが――ルカ本人だけは、その栄光に満ちた呼び名を、どうしても心の底から受け入れることができなかった。
その日の夜。軍医用に与えられた静かな宿舎の一室。
ルカは、窓辺の縁にそっと腰掛け、夜風に吹かれていた。窓から差し込む青白い月明かりが、静まり返った部屋を寂しげに照らしている。
彼は、身につけていた白を基調とした美しい軍医制服の上着を、ゆっくりと脱ぎ捨てた。
それは、ギルドの配慮によって仕立てられた一見女性用ではあるがルカ専用の軍医制服だった。
可憐な意匠の施された上着、膝丈のタイトなスカート、そこから伸びる、男のものとは思えないほどに細くしなやかな脚。華奢な肩幅。そして、布地の下に確かに存在する、柔らかな胸元の膨らみ。
鏡の中に映し出された、あまりにも歪で、あまりにも美しい「自分自身」の身体を、ルカは冷ややかな目で見つめた。
猫耳と尻尾を持つミコッテ族の男――そう見えるはずの自分の輪郭は、衣を脱いだ途端、ひどく危うく揺らいだ。肩の線や喉元、細い手足には確かに少年じみた繊細さが残っている。骨格そのものは華奢な青年のものだ。だが、その上に宿る肉のやわらかさは、どうしようもなく女の身体のものだった。
胸元には、ささやかでありながら確かにふくらみがある。華奢な胸郭の上に乗る小ぶりな乳房は、片手に収まってしまいそうなほど慎ましいのに、男の身体には決して生まれない丸みと陰影をそこに落としていた。鎖骨の下にやわらかく浮かぶそのふくらみは、控えめであるぶん余計に隠しようがなく、白い肌の上でひどく目を引く。
くびれた腰から腿へかけての線もまた、細いだけではない。余分な肉はほとんどないのに、骨ばった冷たさではなく、しっとりとした艶を帯びている。腰の窪みから脚へ落ちていく曲線には、男とも女とも言い切れない、曖昧で甘い色気が宿っていた。
そして、その脚の付け根、小さな下着の中には、男として誇るべき象徴などどこにも存在しなかった。
薄い産毛に守られた秘部には、ただ、滑らかな皮膚の合間にひっそりと穿たれた、一輪の無垢な花弁があるだけだ。男の肉体にあってはならないはずの、淫らで柔らかな割れ目。
男として生きてきたはずの輪郭の内側に、隠しようもなく女の身体が息づいている。
その不揃いさは本来なら歪であるはずなのに、ひどく整って見えた。繊細な喉元も、控えめに膨らんだ胸も、細い腰も、しなやかな脚も――どれもがひとつの身体としてあまりに完成されていて、かえって目を逸らしがたい。
だからこそ、ルカはこの姿を、男として生きる自分を裏切るような身体を誰にも見せたくなかった。
幼い頃と、何も変わっていない。
いや、むしろ年齢を重ねて身体が成熟したことで、その「女性」としての特徴は、隠しようもないほどに男の肉体の上で際立ってしまっていた。
ルカは、耐えかねたように鏡から視線を逸らした。
街に出れば、誰もが噂をする。
『海都の美しい軍医』
『神に祝福された、奇跡の身体』
『世界を救う、光の子』
耳に心地よい、美しい賞賛の言葉ばかりが彼の元に届けられる。
だが、ルカにはそれが、どうしても理解できなかった。
祝福? これの、一体どこが祝福だというんだ。
この異形の身体のせいで。この、忌々しい光の力のせいで。
大好きな母は死んだのだ。生まれ育った故郷の村は、一夜にしてすべてを失ったのだ。
普通の人間として男らしく生きることもできず、女性として生きることもできず。この先、誰かと普通の家族を作ることも、誰かから一人の人間として真っ直ぐに愛される資格すら、自分にはないというのに。
ルカは再び、鏡の中の、紫色の瞳に涙を滲ませた自分を見つめ直した。
「……こんなもの、やっぱり、呪いだ」
ぽつりと、夜の静寂に消え入るような小さな呟き。
誰の耳にも届かない、彼の魂の底からの血の滲むような拒絶の声。
光の戦士。英雄。万能の軍医。
世界の人々は彼を崇め、その背中に希望を見る。
けれど――その眩い光の内側では、あの雨の夜に、燃える村の片隅へ置き去りにされた孤独な少年の心が、今もまだ、膝を抱えて激しく泣きじゃくり続けていた。
そして。
世界を優しく癒やしながらも、自らの孤独に咽び泣く、そんなルカという特異な存在の噂が。
海を越え、遥か遠く離れた北方の軍事国家――ガレマール帝国の地へと、ついに届こうとしていた。
金色の冷徹な瞳を持つ、帝国の皇太子。
ただ純粋な戦いと強者との交わりだけを求め、他者の命を蹂躙する、戦場に飢えた本物の怪物。
ゼノス・イェー・ガルヴァス。
彼はまだ、何も知らない。
これから、自らの退屈に満ちた運命を根底から狂わせ、その魂を激しく激昂させることになる唯一無二の存在が、海の向こうの海都リムサ・ロミンサにいるということを。
そしてルカもまた、まだ知る由もなかった。
この、北方の怪物との出会いが。
自分のこれからの人生を、果てしない光と闇の、どちらの深淵へと染め上げていくことになるのかを。
第三十節 知らない愛情
海都リムサ・ロミンサの、穏やかな昼下がり。
港湾地帯は、今日も世界中から集まった船と人々で活気に満ち溢れていた。
荒くれ者の船員たちの威勢のいい怒鳴り声。市場に並ぶ新鮮な海産物を売り込む商人たちの呼び込み。鼻腔を突く心地よい潮風の匂い。
そして――それらの喧騒と地続きにある、斧術士ギルド医務室の、いつもと変わらない慌ただしさ。それこそが、ルカにとっての、いまや唯一の日常だった。
「ルカーーーっ!!」
突如として、医務室の重い扉が勢いよく蹴り開けられた。
飛び込んできたのは、つい先ほど任務から帰還したばかりの若い斧術士の男だった。その両腕には、これでもかと言わしめるほどの大きな荷物が抱えられている。
ルカは、机の上で書いていた書類から、迷惑そうに顔を上げた。
「……なんだ、騒々しい。ここは医務室だぞ」
「これ、お土産! 買ってきたんだよ!」
「いらない。持って帰れ」
一秒の迷いもない、冷徹なまでの即答だった。
男は目に見えてショックを受けたような顔をして、大袈裟にのけ反った。
「冷てえっ!? まだ中身が何か一言も言ってないだろ!?」
「どうせ、遠征先の港で獲れた魚だろ」
「な、なんで分かったんだよ……」
「臭うんだよ。生臭い」
「酷い!! 傷ついたわ!!」
そのあまりにも容赦のないやり取りに、近くで包帯を巻いていた他の治療士たちから、ドッと大きな笑い声が沸き起こる。
ルカは呆れたようにパタンと耳を伏せ、大きなため息をついた。しかし、男はそれくらいでは全くめげなかった。机の上の僅かなスペースに、丁寧に包まれた荷物をドンと置く。
「ほら、開けてみろって! マジで美味いんだからさ!」
ルカは渋々といった様子で、細い指先でその包みを紐解いた。
中から現れたのは、見事に天日干しにされた、美しく加工された高級な魚の干物だった。一般の市場ではそう簡単に手に入らない、手間暇のかかった高価な品であることが一目で分かる。
「……これ」
「お前、いっつも飯を適当に済ませるだろ? だから遠征先で一番良いやつを仕入れてきたんだ」
男は照れくさそうに鼻を擦りながら、ニカッと笑った。
「食えよ、美味いぞ」
ルカは、どうしていいか分からず、少しだけ困ったような複雑な顔をして視線を落とした。
実は、こうした出来事は、最近のルカの周りでは決して珍しいことではなかった。
ある者は「これ、疲れが取れるお菓子だから」と甘い焼き菓子を持ってきたり。またある者は「珍しい薬草を見つけたから」と山盛りの生薬を届けてくれたり。あるいは、手作りの不器用な木彫りの小物をそっと机に置いていったり――。
彼らがルカにそんな品々を贈る理由は、いつだって、ただ一つしかなかった。
――あの戦場で、命を助けてもらったから。
誰もが、心からの純粋な感謝をルカに伝えたがっていた。
だからこそ、彼らの瞳にある温かい好意が無垢すぎて、ルカはそれを無下に断ることができなかった。だから、どう受け止めていいか分からず、いつも困ってしまうのだ。
「……別に、俺は軍医としての仕事をしただけだ。」
ルカは防衛本能のように、いつもの冷淡な口調でそう言った。
すると、それを聞いた周囲の団員たちから、一斉に、呆れたような優しいため息が漏れ聞こえてきた。
「あーあ、また始まったよ」
「いつもの『ルカ先生の頑なモード』だな」
「本当に、ルカはこういう時だけ、難しくて不器用なんだから」
ルカは、彼らがなぜそんな風にため息をつくのか、その意味が本当に分からなかった。
自分が何かおかしなことを言っただろうか。本当に、心の底から、意味が分からなかったのだ。
その時だった。
「――ルカ」
医務室の奥から、聞き慣れた、けれど誰よりも大好きな女性の声が響いた。
ミリアだった。少しだけ年齢を重ね、大人の落ち着きを増した彼女は、相変わらず凛として美しかった。彼女は歩み寄り、ルカの様子を見るなり、母親のような優しい眼差しで微笑んだ。
「君、今日が自分の『誕生日』だってこと、忘れているでしょう」
ルカの身体が、完全に凍りついた。
その一言が放たれた瞬間、先ほどまで騒がしかった医務室の中が、水を打ったように静まり返った。
数秒の静寂の後――その場にいた全員が、一斉にルカの方へと弾かれたように振り返った。
「た、誕生日ぃぃぃっ!?」
「聞いてねぇぞ、おいっ!」
「ルカ先生、今日で何歳になったんだ!?」
ミリアがクスッと笑いながら答える。「今日で、ちょうど二十歳よね?」
「二十歳!? 知ってた奴、他にいたのか!?」
医務室内は、たちまちひっくり返ったような大騒ぎになった。
ルカは顔を引き攣らせ、両手で自らの猫耳を塞ぐようにして頭を抱え込んだ。
「……やめろ、静かにしろ。騒ぐな」
しかし、一度火がついた荒くれ者たちの興奮は、誰にも止められなかった。
「おい、今すぐ市場で一番でかいケーキ買ってこいっ!」
「よし、今夜は酒だ! 朝まで飲み明かすぞ!」
「馬鹿野郎、ルカに酒はまだ早えだろ!」
「何言ってんだ、二十歳になったんだからもう飲めるよ!」
「なら、ギルドの秘蔵の酒を開けるか!?」
完全に収拾がつかなくなり、ルカは本気でこの場から逃げ出したくなった。
その時、目の前にいたミリアが、そっと小さな木製の箱をルカの前に差し出した。
「はい、ルカ。これ、私から」
ルカはきょとんとした顔をして、箱とミリアの顔を交互に見つめた。
「……俺に? 」
「他に誰がいるのよ。二十歳のお祝い」
開けてみなさい、と優しく促され、ルカは恐る恐るその小さな箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、月明かりを反射して美しく輝く、一対の小さな銀の耳飾り(イヤリング)だった。
その銀細工は、しなやかに揺れる猫の尻尾を模した、極めて繊細で上品な、美しい意匠が施されていた。
ルカは、あまりの美しさに言葉を失い、ただそれを見つめ続けた。
「これ……」
「君に、絶対に似合うと思ってね」
ミリアは、ルカの頭を優しく撫でながら、心からの親愛を込めて笑った。
「この一年も、その前も……君はずっと、誰よりも必死に頑張ってきたもの。おめでとう、ルカ」
その温かい一言に、ルカの胸の奥が、なぜだか急にキュッと痛くなった。
頑張ってきた――そんな風に、自分のこれまでの苦難の道のりを肯定し、労ってくれた大人なんて、あの日死んでしまった母以外には、一人もいなかったからだ。
ルカは慌てて視線を落とした。猫耳の先端が、恥ずかしさで真っ赤に熱くなっていくのが分かった。
胸の奥から湧き上がるこの懐かしい感情は、きっと「嬉しい」というものなのだろう。でも、これまでの人生でそんな温かい感情を他者から与えられた経験が少なすぎて、どうやって受け止め、どんな顔をすればいいのかが、どうしても分からなかった。
すると、その時――突然、上空から巨大な、岩のような大手がルカの頭の上に無造作に乗せられた。
そのまま、せっかく整えていた青い髪を、ぐしゃぐしゃと力任せに撫で回される。
「うわっ……!? な、何をするんだ、ブラン!」
ルカが抗議の声を上げるなか、背後に立っていたブランは、腕を組んで豪快に、けれどどこか感慨深げにルカを見下ろしていた。
「……立派になったな、ルカ」
その言葉は、短かった。
だが、その低く掠れた声の響きには、かつてルカが知ることのなかった、不器用な「父親」のような深い愛情が、確かに込められていた。
ルカは思わず、大きな目を丸くして顔を上げた。
ブランは、我が子の成長を喜ぶように優しく笑っていた。
ミリアも、隣で愛おしそうに微笑んでいた。
そして、周囲を取り囲むギルドの仲間たちも皆――誰も彼もが、温かい目をルカに向け、笑っていた。
腫れ物のように扱われる異形としてではなく。
世界を救うだけの都合のいい道具としてでもなく。
ただ、ルカ・エレミヤという一人の青年が、今日この日に二十歳を迎え、ここに生きて存在していること、その事実自体を、心の底から当たり前のように祝福し、喜んでくれている。
その、生まれて初めて触れるたくさんの「無償の愛情」に満ちた光景を見て。
ルカは、どうしていいか分からず、少しだけ困ったような、はにかむような顔をした。
そして――本当に、ほんの僅かだけ、誰に言われるでもなく、自らの意志で、小さく唇を綻ばせて微笑んだ。
それは、彼がこの海都に来てから、初めて見せた「本当の笑顔」だった。
ルカ自身は、自分が笑ったことにさえ気づいていなかった。
だが、その息を呑むほどに純粋で、聖母のように美しい青年の笑顔を見た瞬間、先ほどまでお祭り騒ぎだった医務室内が、今度こそ完全に静まり返った。
「……おい、今」
一人の戦士が、震える声で呟いた。
「ルカ先生、今……笑ったよな?」
「ああ、笑った。間違えねぇ、今、確実に笑ったぞ!」
「おい大変だ!! ルカが笑ったぞ!! 今日は歴史的な記念日だ!!」
「宴会だ! 街中の酒を買い占めてこい!!」
静寂の直後、先ほどの数倍もの大騒ぎが医務室中に爆発した。
ルカは一瞬にして顔を真っ赤に染め上げ、尖った耳をピンと立てて怒鳴り散らした。
「うるさいっ!! 静かにしろと言っているだろ! 全員、明日の診察の受付を拒否するからなっ!」
その怒り声さえも、荒くれ者たちの温かい笑い声にかき消されていく。
海都の、穏やかで優しい昼下がり。
そこには、確かに一人の青年が、孤独な過去を乗り越えて掴み取った、かけがえのない平和な時間が流れていた。
――そして。
この場にいる誰も、まだ知らなかった。
この、あまりにも愛おしく何気ない日常のすべてが。
あと僅か、ほんの僅かな時間で、無残にも終わりを告げようとしていることを。
遠く北方。凍てつくガレマール帝国の冷徹な玉座にて。
一人の凶悪なる皇太子が、提出された報告書に目を落とし、初めて『光の戦士・ルカ』というその名を呟いていたことを――。
第三十一節 退屈な皇太子
ガレマール帝国首都、帝都ガレマルド。
天空を突くようにそびえ立つ巨大な漆黒の城塞、その最上階に位置する皇太子の私室。
窓の外には、年中この凍てつく北方の大地を覆い尽くす、分厚く重苦しい灰色の雲がどこまでも広がっていた。
その意匠の凝らされた巨大な窓辺に、一人の大男が微動だにせず立ち尽くし、冷徹な双眸でその陰鬱な空を眺めていた。
ゼノス・イェー・ガルヴァス。
ガレマール帝国皇太子であり、戦場においては敵の全軍を単騎で蹂躙する、生ける災厄そのものと恐れられる男。
彼はこれまで、数多の血生臭い戦線を渡り歩き、帝国に歯向かう数え切れないほどの強者や戦士をその刃で討ち倒してきた。
しかし――その金色の瞳に、勝利の高揚が宿ることはただの一度もない。己を満たしてくれるはずの満足感など、どこを探しても存在しなかった。
彼の魂の底に沈殿しているのは、ただ一つ。すべてを灰色に塗り潰す、底なしの「退屈」だけだった。
豪奢な黒檀の机の上には、各地から上がってきた膨大な報告書がうずたかく積まれている。
内政、外交、軍備拡張、前線への補給状況――。
どれもこれも、ゼノスの乾いた興味を惹くにはあまりにも矮小で、退屈な紙切れの山にしか見えなかった。ゼノスはその中から一枚の書類を無造作に手に取り、数秒ほど視線を滑らせると、フンと鼻で笑って机へと放り投げた。
「……つまらん」
部屋の静寂に、低く冷たい声がぽつりと落ちる。
その時だった。部屋の重厚な扉が、規則正しく控えめに叩かれた。
「――失礼いたします、ゼノス殿下」
入室してきたのは、直属の軍務側近の一人だった。手には、新たな黒渦団や西方の動向を記した極秘の書類が握られている。
ゼノスは、振り返ることさえせず、窓外の景色に視線を向けたまま、興味なさそうに顎を僅かに動かした。
「……何だ。手短に言え」
「はっ。エオルゼア、リムサ・ロミンサ方面における我が方の人形(情報屋)からの特殊報告です」
「読め」
側近は居住まいを正し、書類を開いて淡々と読み上げ始めた。
現地における小規模な魔物の討伐状況、第七霊災以降の貿易ルートの回復、周辺諸国との共同軍備増強――。
どこにでもある、ありきたりな地方の小競り合いの内容だった。ゼノスは完全にそれを聞き流し、意識を空へと戻そうとしていた。
しかし、側近が読み上げた「ある一文」で、ゼノスの耳が僅かに動いた。
「――近年、海都周辺の戦線において、極めて特異な単独戦力が確認されています」
「……ほう」
初めて、皇太子から短いながらも反応が返ってきた。側近は僅かに声を強めて続ける。
「所属は海都の斧術士ギルド。前線に同行する『軍医』とのことです」
軍医。その単語を聞いた時点では、ゼノスの興味は未だ薄かった。治療士など、戦場における単なる後方の歯車に過ぎない。
だが、次に紡がれた言葉が、ゼノスの胸の奥の澱みを僅かに揺らした。
「名を、ルカ・エレミヤ」
ゼノスは黙って、その未知の名を聞いていた。
「当該の者は、戦場において広範囲に及ぶ超高等治療魔法を瞬時に展開し、味方の死亡率をほぼ皆無にまで引き下げる絶対的な防御術に行使。同時に、迫り来る我が方の密偵や魔物を一撃で穿つ、強力な白銀の攻撃魔法をも単独で行使するとのこと。現地の将兵の間では、畏敬を込めて『光の軍医』と呼ばれている模様にございます」
部屋の中に、重苦しい沈黙が降りる。
しかし、目の前で直立不動の姿勢を取る側近は、気づいていなかった。窓辺に佇む皇太子の金色の瞳の奥に、これまで見たこともない、仄暗い熱を孕んだ「変化」が生じたことに。
「……続けろ」
短く、けれど拒絶を許さない絶対的な命令。側近は小さく唾を呑み、さらに書類をめくった。
「対象の種族はミコッテ族。年齢は二十歳。戸籍上の性別は……『男性』にございます」
そこまで一気に読み上げて、側近の言葉が一瞬だけ不自然に止まった。手元の書類に、軍事報告としてはあまりにも奇妙で、信じがたい記述があったからだ。側近は少しだけ眉を寄せ、困惑を隠せない様子で言葉を絞り出す。
「……しかし、現地からの身体的特徴に関する複数の証言において、不可解な記述がございます」
「読めと言っている」
「はっ……! 男でありながら、その肉体には明らかな『女性的特徴』を有しており、その容姿は戦場に咲く白百合の如く、目を見張るほどに美しい、と」
漆黒の私室が、水を打ったように静まり返る。
側近自身、このようなものは現地の荒くれ者たちが作り上げた、ただの誇張された噂話の類だろうと考えていた。戦場に現れる美貌の英雄など、吟遊詩人の歌の中だけの存在だと。
しかし――ゼノスは、笑ったのだ。
ふっ、と、本当に僅かではあったが、その美しい端正な唇の端を吊り上げて、愉しげに孤高の笑みを漏らした。
「……面白い」
側近が、驚愕に目を見開いてハッと顔を上げた。あの、世界のすべてを退屈と断じていた皇太子が、明確な興味を示した。それ自体が、この帝国内においては天変地異にも等しい異常事態だった。
ゼノスはゆっくりと歩み寄り、側近の手から直接その報告書を引ったくるようにして受け取った。
そこには、現地の情報屋が極秘裏にスケッチしたと思われる、ルカの簡素な人物画が添えられていた。
遠目からの覗き見を基にした、粗い筆致の絵。決して正確な肖像画とは言えなかった。
それでも、分かった。
そこに描かれた青年は、言葉を失うほどに「美しい」顔立ちをしていた。
あまりにも整った、華奢な輪郭。頭頂部からのぞく猫の耳。長い睫毛に縁取られた、どこか憂いを帯びた瞳。
それは、血生臭い戦場に立つ英雄のそれとは到底思えないほどに、触れれば今にも壊れてしまいそうな、繊細で儚い硝子の細工のようだった。
ゼノスはしばらくの間、その粗末な紙切れをじっと見つめ続けた。
「光の軍医、か……」
誰の耳にも届かないほどの、微かな独り言。
だが、その低い声の輪郭には、久しく彼の人生から失われていた、明らかな「愉悦」の響きが混じっていた。
本当に、どれほど久しぶりのことだろうか。この世界に存在する何かに、己の心がこれほど強く引き寄せられる感覚を覚えたのは。
「――それで、その軍医は……戦えるのか?」
側近は背筋を伸ばし、即座に答える。
「はっ! 過去数回にわたり、我が方の小隊および大型の魔物を単騎で撃破した明確な戦果が確認されています。単なる治療士ではなく、一級の戦闘能力を有していることは間違いありません」
「なるほど」
ゼノスは報告書を握りしめたまま、再びゆっくりと窓辺へと向かった。
窓硝子の向こうに広がる、灰色の空。その雲の切れ目、遥か遠い地平線の向こう側に、まだ見ぬ海都リムサ・ロミンサがある。
一度も会ったことはない。声すらも聞いたことはない。本当に、この報告書通りの異形な美しさと強さを持った人間が実在するのかすら、まだ分からない。
それなのに――なぜだか、胸の奥の鼓動が、静かに熱を帯びていくのを感じていた。
まるで、幼い頃からずっと、長い長い夢の暗闇の中で、その名前だけを聞き続けていたかのような。
「ルカ・エレミヤ」
その名を、自らの唇でなぞるように呟いてみる。それは、これまでに彼が屠ってきたどの英雄の名よりも、不思議で、甘美な響きを持っていた。
もしも、この世界に「運命」という不確かなものが本当に存在するのだとすれば。
それはきっと、このような、誰の目にも留まらない静かな瞬間から、残酷に始まりを告げるのだろう。
海の向こうでは、何も知らない軍医が、今日も変わらず負傷した患者を優しく診ている。
凍てつく帝国では、孤高の皇太子が、ただ一人の青年の名をその魂に深く記憶する。
まだ二人は出会わない。互いの姿さえ知らない。
だが、二人の世界の距離は、この瞬間を境界線として、確実に、そして急速に縮まり始めていた。
第三十二節 光の軍医を追う影
帝国の高名な密偵であり、数々の隠密任務を成功させてきた男、リヒターは、ガレマール帝国から遥か海を渡り、海都リムサ・ロミンサの地へと深く潜入していた。
彼に下された任務は、極めて単純でありながら、同時に最も不可解なものだった。
――海都の『光の軍医』、軍医ルカ・エレミヤの徹底的な調査。
あの、他者への興味を一切持たない冷徹な皇太子ゼノス自らが、名指しで強い関心を示した人物である以上、極めて詳細な行動記録と報告が求められていた。
もっとも、海都に足を踏み入れた当初のリヒター自身は、その任務をどこか冷めた目で見ていた。
所詮は辺境の地方都市が祭り上げた、大袈裟な英雄譚の類だろう。どうせ、小奇麗な顔をした治療士の戦果を、黒渦団が士気高揚のために誇張して噂話に仕立て上げただけに違いない――そう、高を括っていたのだ。
だが、海都へ到着してから、わずか半日。リヒターはその浅はかな考えを、根本から叩き直されることになる。
「おい、お前さん……『光の軍医』…または光の戦士について知っているか?」
リヒターが、港近くの薄暗い酒場で、身分を隠して地元の船員に尋ねてみる。すると、尋ねられた男は「なんだ、お前新顔か?」と笑いながら、当然のようにその名を口にした。
「軍医のルカ先生のことだろ? 知らねぇ奴なんてこの街にはいねぇよ」
「本当にすげぇ人なんだ。俺の親父も、こないだの森の任務で死にかけたところを、先生の光の陣に救われたんだからな」
「戦場にルカ先生の姿が見えるだけで、俺たちは『ああ、今日も生きて帰れるんだ』って、心の底から安心できるのさ」
誰に、どこで、どのように尋ねてみても、返ってくるのは全く同じ、熱を孕んだ崇拝と感謝の反応だった。
人々がルカに向ける視線は、単なる武力に優れた「英雄」に対するそれではない。
傷つき、苦しむ民の命をその手で繋ぎ止めてくれる、絶対的な『守護者』。彼らにとってのルカ・エレミヤとは、そのような神聖な存在として定着していた。
そして、潜入二日目の朝。
リヒターは、潮風の吹き抜ける斧術士ギルドの医務室の対面にある、建物の陰に身を潜めて張り込みを開始した。
それからしばらくして、ギルドの重厚な木の扉が静かに開き、一人の青年が外の通りへと姿を現した。
その瞬間――リヒターは、陰の中で思わず息を呑んだ。
プロの密偵としての警戒心さえ忘れ、ただの男として、その姿に激しく目を奪われてしまったのだ。
(……なんて、美しい男だ)
脳裏に最初に浮かんだのは、戦術的な分析ではなく、その圧倒的な容姿への純粋な感嘆だった。
風に揺れる、耳にかかる程度の長さに切り揃えられた、夜の海のように深い青い髪。
その前髪の隙間からのぞく、どこか遠くを見つめるような、儚い哀愁を宿した紫色の瞳。
雪のように一点の曇りもない白い肌と、感情の機微に合わせて小さくピクリと動く、愛らしい猫の耳。
そして何より、男のものとは到底思えないほどに細く、華奢でしなやかな身体のライン――。
青年は、白を基調とした美しい軍医制服に身を包んでいた。
だが、その衣服は――明らかに、「女性用」として仕立てられたものだった。
身体のラインを美しく強調する上着の裁断。腰元をきゅっと絞った細い意匠。
そして、そこから伸びる細い脚を覆うのは、膝丈の、上品な白のスカートだった。
遠目から一見しただけでは、誰もが「息を呑むほどに美しい女医」だと思うだろう。しかし、その凛とした佇まいと、引き締まった顔立ちは、確かに大人の階段を上り始めた青年のものだった。
男でもなく、女でもない。そのどちらの属性をも併せ持ちながら、そのどちらの枠組みにも決して収まらない――そんな、奇妙で、犯罪的なまでに扇情的な美しさが、そこにはあった。
「なんだ、あれは……。なぜ男があのような格好を……」
リヒターが唖然としながら思わず呟くと、彼の隣で偶然荷物を運ぶために立ち止まっていた地元の若い人足の男が、ガハハと親しげに笑った。
「あぁ、あんた、ルカ先生を初めて見たのか?」
「……ああ。彼は、いつもあのような、女性の衣服を身につけているのか?」
「有名も何も、海都で知らない奴はいねぇよ」
男は人懐っこい顔で肩を竦め、当然のように続けた。
「男なのに女物の制服を着てる、俺たちの命の恩人さ」
「なぜだ? 悪趣味な変装の類か?」
「違う違う!」男は笑いながら首を振る。「サイズが、どうしても合わなかったらしいんだよ」
「サイズ?」
「そうさ。昔、先生がギルドに入りたての頃は、男性用の軍医制服を着てたんだ。だけどよ、先生は肩幅が女の子みたいに狭いし、身体の厚みも薄くて小さいだろ? それに……その、男の服だと、胸元の膨らみがどうしても擦れて合わなくてな。前線で動き回る時に、すごく邪魔で動きづらかったらしいんだ」
リヒターは、男の言葉に思わず眉を跳ね上げた。
「だから、ギルドの裁縫師たちが知恵を絞って、一番身体のサイズにフィットする女性用の制服をベースに作り直したんだよ。本人は大真面目でさ、『実用性と動きやすさ以外に何が必要なんだ?』って、周りの大騒ぎを不思議そうに見てたっけな。本当に、そういうところだけは無頓着で可愛い先生だよ」
人足の男はそう言って、誇らしげに笑って去っていった。
リヒターは再び、遠くに立つルカへと視線を戻した。
確かに、目立つ。あまりにも、戦場においては異質すぎる存在だ。血と泥に塗れた荒くれ者たちの真ん中に佇むその姿は、まるで荒野に咲いた一輪の美しい白百合のようだった。
だが、リヒターのプロとしての目が最も不気味に捉えたのは、その超越的な美しさ以上に、ルカが浮かべている「表情」そのものだった。
ルカは今、ギルドの仲間たちと親しげに言葉を交わし、微かに微笑んでいる。
しかし――その紫の瞳の奥は、どこまでも冷たく、遠い場所を見つめているように見えた。
まるで、どれほど親しく言葉を交わそうとも、自らの心の最も深い暗闇の底にだけは、絶対に誰も入れないように、不可視の透明な壁を周囲に張り巡らせているかのような。そんな、圧倒的な孤独の気配。
その時だった。
「ルカ先生っ!! 大変だっ!」
ギルドの建物から、若い斧術士の戦士が、転びそうなほどの勢いで悲鳴を上げて駆け出してきた。
ルカが素早く振り返る。その猫耳がピンと立つ。
「……どうした。落ち着け」
「え、遠征に出ていた第三小隊が、さっき港に戻ってきたんだ! 途中で想定外の魔物の奇襲を受けて……前線が壊滅状態だ! 今、負傷者が次々と運び込まれてる!」
その一報を聞いた瞬間、ルカの纏う空気が、一瞬にして凄まじい緊迫感へと跳ね上がった。
「――すぐに案内しろ!」
ルカは迷うことなく、スカートを激しく翻して、戦場へ赴く戦士のような鋭い速度で走り出した。その動きには、一ミリの躊躇も、一瞬の迷いもない。
リヒターもまた、細心の注意を払いながら、適切な距離を保ってその後を追った。
ギルドの医務室の中は、まさにこの世の地獄絵図と化していた。
床一面に広がる生々しい鮮血の海。肉を引き裂かれ、骨を砕かれ、苦痛にのたうち回る屈強な戦士たちの絶叫と悲鳴。
その地獄の真ん中へ、ルカが飛び込んだ。
彼は即座に愛用の魔導書を開き、自らの光を解き放つ。
「フィジク!」
緑の光が、今にも息絶えようとしていた若者の傷口を塞ぐ。
「『鼓舞激励の策』!」
黄金の障壁が、ショック状態で暴れる戦士の身体を優しく固定し、二次災害を防ぐ。
そして、部屋の全体へ向けて――。
「『野戦治療の陣』……っ!!」
ルカの声と共に、薄暗い医務室の空間全体が、まばゆい、どこまでも暖かい黄金色の光のドームによって満たされた。
その光が満ちた瞬間、先ほどまで発狂せんばかりに響き渡っていた兵士たちの苦悶の絶叫が、嘘のように一瞬で和らいでいく。傷口が塞がり、命の灯火が力強く蘇っていく。
「助かった……俺、生きてる……」
誰かが涙を流して神に感謝し、誰かが仲間の生存を確かめて安堵の笑みを浮かべる。
その、奇跡の中心には、いつだってルカがいた。
彼は、自分を称える派手な言葉を口にすることはない。英雄らしい誇らしげな演説を打つこともない。
ただ黙々と、額に大粒の汗を浮かべながら、血に汚れるのも構わずに自らの光のすべてを燃やし、目の前の命を一人ずつ救い続けていた。
それを見つめていた密偵リヒターは、確信した。
なぜ、海都の民があれほどまでにこの青年を慕うのか。
なぜ、この地方都市の噂が、海の向こうの皇太子の元にまで届いたのか。
このルカ・エレミヤという青年は、根本から「異質」なのだ。
ただ魔法が強いからではない。ただ容姿が美しいからでもない。
その両方を完璧に持ち合わせながら、その内側には、今にもパリンと音を立てて粉々に砕け散ってしまいそうな、圧倒的な「壊れやすさ」を秘めているからだ。
人間というものは、完璧すぎる無敵の英雄には本当の意味では惹かれない。
その魂に消えない傷を抱え、今にも倒れそうな危うさを孕みながら、それでも他者のために必死に立ち続ける英雄にこそ、狂信的なまでに心を奪われるのだ。
数日後、リヒターが帝国の本国へと送った極秘報告書には、冷静な戦術分析が並べられることになった。
しかし――その報告書の最後の一文だけは、リヒターが密偵としての仮面を外し、一人の人間として、抑えきれない戦慄と感嘆を込めて書き残した言葉だった。
『対象ルカ・エレミヤは、確かに美しい。
しかし、本当に見る者の目を引きつけて離さないのは、その美貌などではない。
まるで、自らの命を削り、自らを顧みず、暗闇の中でただ他者を照らすためだけに光を燃やし続ける――その、歪で、狂気的なまでの生き方そのものである』
その血の通った報告書が、数週間後。
ガレマール帝国皇太子、ゼノス・イェー・ガルヴァスの手元へと届けられることになる。
第三十三節 興味
ガレマール帝国首都、帝都ガレマルド。
皇太子の広大な私室の窓の外では、今日も冷たい雨がしとしとと降り続いていた。
高層建築の石畳を激しく叩く雨音だけが、静まり返った室内に規則正しく響き渡っている。
ゼノスは、大きな長椅子に深く身体を預け、手元にある一通の、分厚い報告書をじっと読み進めていた。
『エオルゼア、リムサ・ロミンサ。
光の戦士。
軍医、ルカ・エレミヤ。』
数週間前、己の気まぐれによって現地に派遣した密偵リヒターから届けられた、詳細を極めた調査結果だった。
最初は、本当にただの思いつきだったのだ。
日々の退屈を紛らわせるための、ほんの僅かな暇潰し。
血生臭い戦場にも、醜い泥仕合の政治にも、すべてに飽き果て、世界が灰色に見えていたあの午後。そんな時にたまたま耳に飛び込んできた、海の向こうの奇妙な美しい軍医の噂。ただ、それだけのはずだった。
だが――ページを読み進めるうちに。
ゼノスの胸の奥に、久しく忘れていた、妙な、奇妙な感覚が生まれつつあった。
それは、彼を常に苛んでいた「退屈」ではなかった。
何年も、何十年もの間、一度も感じることのなかった、魂がじわりと熱を帯びるような純粋な『興味』という名の感情。
ゼノスは、報告書の中に記されたリヒターのある一文へ、金色の瞳を落とした。
『対象は、軍医という後方職でありながら、戦況が最も悪化したが最前線へと自ら飛び出す傾向あり。
負傷者の救護と命の維持を何よりも最優先とし、そのためであれば、自身の安全や命の危険を全く顧みない致命的な傾向が見られる。』
愚かだ――普通の人間であれば、そう切り捨てるだろう。他人の命のために、なぜ自身の命を天秤にかける必要がある。
だが、なぜだかゼノスは、その文字からどうしても目を離すことができなかった。
さらに、指先で静かにページをめくる。
『極めて高い、規格外の治癒能力を保有。
複数の部隊を同時に、完璧な状態で維持可能。
さらに、単独での強力な攻撃魔法の行使をも確認。』
英雄。世間は確かに、そんな男をそう呼ぶのだろう。
だが、ゼノスはその記述の数々から、強烈な「違和感」を覚えていた。
この、ルカという男は――。
決して、英雄になりたくてそんなことをしているわけではない。報告書の端々から伝わってくる彼の行動原理を見れば、それが一目で分かった。
自らの名誉のためではない。民衆からの賞賛や、国家からの富のためでもない。
ただ――ただひたすらに、目の前の誰かを助けたい、その一心だけで動いている。
それが、ゼノスにとってはあまりにも奇妙で、理解しがたい異常性に思えた。
なぜ、そこまでして他人のために己の命を燃やす。
そんなことをして、一体何が得られるというんだ。何が楽しい。
まるで、自分とは根本から構造の異なる、全く別の生き物を見つめているかのような感覚だった。
ゼノスはさらにページをめくった。報告書の最後、数枚の紙。
そこには、密偵リヒターが遠目から写し取ったという、ルカ・エレミヤの『人物画』が鮮明に添えられていた。
そこには、夜の海のような青い髪と、神秘的な光を放つ青紫色の瞳、そして白を基調とした美しい軍医制服に身を包んだ、ルカ・エレミヤの姿が鮮明に描かれていた。
男でありながら、男の衣服ではその細すぎる身体に合わず、胸元の肉的な膨らみさえも拒絶するように仕立てられた、膝丈のスカートを纏う歪な青年の姿。
ゼノスは、ページをめくる手をピタリと止めた。
それから長い間、彼の大きな身体は、彫刻のように一ミリも動かなくなった。
じっと見つめているうちに、ゼノスの胸の奥から、久しく忘れていた、否――人生で一度も覚えたことのない、暗くドロドロとした熱い「衝動」がせり上がってきた。
退屈ではない。それは、魂だけでなく、自らの「肉体」が直接飢餓を叫ぶような、生々しく生理的な欲情だった。
ゼノスは、大きな、戦いによって硬くなった自らの指先を、その紙の上のルカの細い脚、そして腰元の歪な曲線へとそっと滑らせた。
(男でありながら、この肉体……)
絵の向こうの青年は、皆に慕われ、英雄と称えられ、強大な力を持ちながら、世界のすべてを諦めたかのような、あまりにも寂しそうな目をしている。
その、今にもパリンと音を立てて砕け散ってしまいそうな硝子の細工のごとき危うい身体が、突如としてゼノスの脳内で、鮮烈な官能性を帯びて躍動し始めた。
戦場に咲く白百合。その白を、自らの漆黒の泥で、跡形もなく蹂躙し、汚し尽くしてしまいたい。
その細くしなやかな肢体を組み伏せ、自らの巨大な身体の下で、苦痛と快楽に捩れさせたら、一体どんな声を上げるのだろうか。
その青紫色の瞳に、絶望の涙を湛えさせながら、自らの名を呼ばせたい。
誰も立ち入らせないというその心の壁を、肉体の最奥ごと、文字通り力任せに貫き、抉り、暴いて、自分だけのものとして狂わせたい――。
そのあまりにも暴力的で、生々しい陵辱への渇望に気づいた瞬間、ゼノスの股間の奥が、ドクンと熱く、猛烈に果てしなく昂るのを自覚した。
「……は」
喉の奥から、獣のような低い笑いが漏れた。
戦いたいのではない。確かめたいのでもない。
ゼノス・イェー・ガルヴァスという怪物のすべてを以て、あのルカ・エレミヤという美しい獲物を、魂も、その純潔な肉体も、一滴残らず貪り尽くしたいのだ。
これほどまでに、他者の肉体を「抱きたい」と、その皮膚を我が物として引き裂きたいと、激しく昂ったことなど一度もなかった。
窓の外の雨音が、ゼノスの荒い呼吸を掻き消していく。
未だ見ぬ、遥かなる海都の、美しき孤独な青年。
お前を、俺のこの手で、無残に、けれど最高に美しく組み敷いてやろう。
「ルカ・エレミヤ……」
もう一度、その名を口にする。今度の響きには、冷徹な皇太子の声ではなく、獲物を前にした雄の、淫らで悍ましい執着が混じっていた。
何年も続いていた退屈な灰色の日々が、海の向こうの一人の青年の肉体を想像するだけで、どす黒く、熱い情欲の色へと染め上げられていく。
――そして、その頃。
遥か海の向こうの海都リムサ・ロミンサでは。
当の本人が、帝国の皇太子からそんな異常な、自らの純潔を脅かすような情欲を向けられていることなど夢にも知らず、いつも通り医務室のベッドの上で、地元の小さな子供に泣きつかれていた。
「ルカ先生ぇぇー! お願い、お願いだからさぁっ!」
「……うるさい。静かにしろと言っているだろう。一体何なんだ」
ルカは、処方箋を記す手を止め、眉を寄せて子供を見下ろした。
子供はベッドの上でぴょんぴょん跳ねながら、ルカの頭を指差す。
「ルカ先生の、その青い猫耳っ! 一回だけでいいから、触らせてよぉっ!」
「……嫌だ。絶対に断る」
ルカは即座に耳を後ろに伏せ、冷淡に言い放った。
「えぇー! けち! ルカ先生のけちんぼ!」
「けちで結構だ。ほら、薬を飲んだら早く家に帰りなさい」
そんな、どこまでも平和で、どこまでも不器用で、温かい午後。
自らの身に迫る、底なしの愛欲の深淵などまだ何も知らないルカの、ピンと立った美しい猫耳が、潮風に優しく揺れていた。
第三十四節 帰る場所
春の終わりの柔らかな陽光が、海都リムサ・ロミンサを優しく包み込んでいた。
港には幾百もの帆船が並び、市場からは果物や魚を売る威勢の良い声が響く。吹き抜ける潮風はどこまでも穏やかで、人々はただ、当たり前の日常を享受していた。
その日もルカは、斧術士ギルドの医務室でいつものようにカルテを整理し、薬品を調合していた。変わらない一日。彼にとって、それはかつて奇跡と呼ばざるを得なかったほどの、穏やかな平穏の続きだった。
「ルカ先生」
仕事を終えた若い斧術士が、机に寄りかかって声を掛けてきた。
「なんだ」
「今日の巡回が終わったらさ、みんなで酒場に飲みに行かないか? 新しい店を見つけたんだよ」
「行かない」
一秒の迷いもない即答に、周囲のベッドにいた負傷兵たちからどっと笑いが起きた。
「あはは! またかよルカ先生!」
「たまには付き合えって! 寂しいだろ?」
「酒は好きじゃない」
「じゃあ飯! 美味い肉を奢るからさ!」
「……宿で食う」
ルカは面倒そうに肩を竦め、それ以上は取り合わずに書類へ視線を戻した。
人付き合いが苦手。誰かと群れるのも、馴れ合うのも苦手。一人でいる方がずっと楽で、余計な傷を負わずに済む――。
長年、暗闇の中で生き延びてきたルカは、本気でそう思い込んでいた。
ふと、医務室の大きな窓から外の広場が見えた。
暖かな日差しの中、小さな子供たちが元気に走り回って遊んでいる。その中の一人が、窓辺のルカの姿に気がついた。
「あ!」
子供が満面の笑顔で、千切れんばかりに大きく手を振ってくる。
ルカは一瞬戸惑い、気恥ずかしさから思わず目を逸らした。だが、子供は一向に諦めず、声を張り上げて叫んだ。
「ルカーー! ルカ先生ぇーー!」
医務室の中にいる全員の視線が、一斉にルカへと集まる。
ルカは観念したように小さくため息をつき、ピンと立った猫耳を少し伏せながら、窓の外に向けて小さく、本当に小さく手を振り返した。
それを見た子供は、まるで世界で一番の宝物でも貰ったかのように、さらに顔を輝かせて嬉しそうに飛び跳ねた。
「……ハァ」
ルカが少しだけ困ったように眉を寄せると、隣の斧術士が温かい目を向けて笑った。
「相変わらず人気者だな、先生」
「違う」
「違わないだろ。みんな、あんたが好きなんだよ」
違う――そう拒絶しようとして、ルカの唇が不自然に止まった。
本当に、違うのだろうか。
かつて故郷の村にいた頃、誰も自分には近づいてこなかった。両性具有という異形、そして強すぎる光の力。自分は誰かを呪う不吉な存在で、気味が悪い化物なのだと、そう教え込まれて生きてきた。
なのに、この海都は違った。
子供たちが名前を呼び、戦士たちが食事へ誘い、市場を歩けば果物を握らされ、港を歩けば当たり前のように挨拶を交わされる。
まるで、自分がこの世界に存在していい、この街の一員であるかのように。
ルカはその不思議な感覚に、胸の奥がひどく戸惑うのを感じていた。
自分に、そんな温かい場所を許される資格があるのだろうか。今でも、その答えは分からない。
だが――決して、嫌ではなかった。それだけは、認めざるを得ない真実だった。
夕方、すべての仕事を終えたルカは、夕闇に染まる坂道を一人で登っていた。
眼下に広がる海は、美しい茜色に染まり、波が穏やかに光を反射している。心地よい風が耳を揺らし、制服のスカートの裾から伸びる尻尾が、自然とゆっくりと揺れていた。
いつもの宿の前に辿り着き、扉を開けようとした時、ちょうど外へ出てきた宿の女将と目が合った。
女将はルカの姿を見るなり、いつものように何気なく言った。
「おかえり、ルカ。今日も大変だったね」
本当に、ありふれた、何気ない一言だった。
けれど、ルカはその場で釘を打たれたように動けなくなった。
おかえり――。
かつて、大好きな母が、そしてあの優しかったフレイアが言ってくれた、自分の帰りを待つ者が使う言葉。
長い間、故郷を失ったあの雨の夜から、もう二度と自分には縁のない言葉だと思っていた。
「……ただいま」
気づけば、ルカの薄い唇から、掠れた声が静かに零れ落ちていた。
女将はそれを聞いて、ただ優しく微笑み、奥へと戻っていった。
ルカは自らの胸元をそっと押さえた。その奥で、凍りついていた何かが、静かに、じんわりと温まっていくのが分かった。
自覚していないだけで、いつの間にか、ここは彼にとっての「帰る場所」になっていたのだ。守りたい、失いたくない、大切な、たった一つの居場所に。
ルカ自身すら気づいていない、そのささやかな幸福の足元へ。
今、遠く北方から、すべてを焼き尽くす圧倒的な戦火が、確実に近づきつつあった。
――同じ頃。帝国首都、ガレマルドの軍作戦会議室。
巨大な地図を前に、皇太子ゼノスが静かに立っていた。その背後には、冷汗を流す軍司令官たちが息を潜めて控えている。
ゼノスの黄金の瞳が、獰猛な獣のように細められた。
「西方の軍を動かせ。標的は、リムサ・ロミンサだ」
会議室の空気が凍りついた。
誰もその理由を知らない。戦略的な合理性も、大義名分すらも語られない。
だが、誰も逆らうことはできなかった。この怪物の命令は、帝国において絶対の天命であったからだ。
ゼノスの脳裏には、あの報告書の青い髪の少年が、冷たい情欲の熱と共に鮮烈に描き出されていた。
第三十五節 戦場の邂逅
戦は、あまりにも唐突に幕を開けた。
ガレマール帝国軍による電撃的な侵攻。海都周辺の防衛線への激しい圧力がかかり、各地の平原で小規模な衝突が多発し始めていた。
斧術士ギルドの戦士たちも即座に武器を取り、軍医たちもまた、前線での負傷者救護のために駆り出された。当然、ルカもまた、白い女性用軍医制服を翻し、硝煙渦巻く荒野へと足を踏み入れていた。
空は重苦しい雲に覆われ、地を這うような冷たい風が吹き抜けている。
荒野のあちこちから、金属のぶつかる凄惨な音と、兵士たちの悲鳴が響いていた。
次々と運ばれてくる重傷者、飛び交う怒号、肉が裂ける不快な音。いつも通りの凄惨な戦場。
だが――ルカの胸の奥には、かつてないほどの奇妙な「胸騒ぎ」が不気味に渦巻いていた。
本能が、何かが近づいていると警鐘を鳴らしている。理由は分からない。ただ、肌が粟立つような、圧倒的なプレッシャーが戦場全体を支配しつつあった。
「ルカ! 頼む、こっちだっ!」
前線から戻ったブランの焦燥に満ちた声が響く。
振り返ると、息も絶え絶えの戦士が担ぎ込まれてくるところだった。ルカは思考を振り払い、即座に駆け出した。
「『フィジク』!」
魔導書から溢れ出た柔らかな光が負傷者を包み込み、引き裂かれた胸元の傷口を瞬時に塞いでいく。荒い呼吸が落ち着き、周囲の兵士たちがホッと安堵の息を漏らした。
しかし――次の瞬間。
戦場の空気が、完全に変質した。
ぞくり、と。
ルカの背筋を、氷の刃でなぞられたかのような強烈な悪寒が駆け抜けた。全身の毛が逆立ち、ミコッテとしての野生の本能が「今すぐここから逃げろ」と最大級の警告を鳴らす。
ルカは弾かれたように顔を上げた。
戦場を隔てた、遥か遠方の丘の上。
凄惨な殺し合いが繰り広げられる地獄の真ん中に――一人の「大男」が立っていた。
波打つ長い金髪、人間離れした巨大な体躯。異様な存在感を放つ三本の刀。
まるで戦場を統べる絶対的な王のように。あるいは、すべてを喰らい尽くす怪物の如く、男は悠然と佇んでいた。
その足元には、我が方の戦士たちだけでなく、味方であるはずの帝国兵の死体すらも転がっている。彼の周囲だけ、生物が存在することを許されない完全な空白地帯(デッドゾーン)が形成されていた。
ルカは男の顔を知らない。名前も知らない。
だが、その肉体が、魂が、瞬時に理解した。あれは、絶対に目を離してはいけない、この世で最も危険な捕食者だと。
その時だった。
遥か遠方に立つ金髪の男が――ゆっくりと、こちらへ視線を向けた。
ぎらり、と。底なしの狂気を孕んだ黄金の瞳が、ルカを捉える。
戦場を挟んだ、数百メートルはあろうかという果てしない距離。それなのに、まるですぐ目の前で首筋に刃を突きつけられたかのような、凄まじい視線の圧力がルカの肉体を貫いた。
ルカの呼吸が、完全に停止した。
なぜか、目を逸らすことができない。身体が恐怖で恐怖で硬直しているのか、あるいは、その瞳の奥にある底知れぬ深淵に、魂ごと吸い寄せられているのか。
蛇に睨まれた蛙、あるいは、獰猛な肉食獣の前に引きずり出された、無力な獲物の感覚。
(……あの男は、一体、何なんだ……っ)
一方、ゼノスもまた、その場から一歩も動かずに青年を見つめていた。
報告書で見た、夜の海を溶かしたような青い髪。神秘的な紫の瞳。
そして、泥にまみれた戦場にはあまりにも不釣り合いな、白く美しい女性用の軍医制服と、風に揺れる華奢な猫耳。
本物のルカ・エレミヤは――絵などとは比べものにならないほど、息を呑むほどに美しく、そして退屈な世界の中で、あまりにも鮮烈に眩い光を放っていた。
周囲で行われている凡俗たちの殺し合いなど、ゼノスにとってはどうでもよかった。兵士たちの歓声も、断末魔の悲鳴も、すべてが遠い雑音に過ぎない。
ただ一人、黄金の光をその細い身体から放ちながら、懸命に人々を救っている青年の姿だけが、ゼノスの世界のすべてを支配していた。
ゼノスは、自らの唇の端が、抑えきれない愉悦によって吊り上がっていくのに気づいた。
ドクン、ドクンと、何年もの間、死んだように冷え切っていた胸の奥の心臓が、猛烈な熱量で高鳴りを上げている。
股間の奥が、その純潔な獲物を今すぐ組み敷き、引き裂き、自らのものにしたいという生々しい欲情で、どす黒く昂っていく。
「――見つけたぞ」
誰の耳にも届かない、掠れた呟き。その声は、飢えた獣が極上の獲物を前にした時のように、どこか淫らで、甘かった。
ルカはまだ、その言葉の意味を知らない。自分に向けられた視線が、単なる敵意ではなく、自らの身も心も一滴残らず貪り尽くそうとする、悍ましい愛欲と支配欲の塊であることなど、知る由もなかった。
そしてゼノス自身もまだ、この美しい青年との出会いが、自らの運命をどれほど狂わせ、底なしの深淵へと叩き落としていくことになるのか、本当の意味では理解していなかった。
荒野に、冷たい風が吹き抜ける。
二人はまだ、言葉を交わさない。武器を交えることもない。
ただ、戦場を挟んで視線だけが重なり合っていた。それだけなのに、世界のすべてが、音を立てて崩壊し始めるような、決定的な何かが始まってしまった。
第三十六節 視線の意味
あの奇妙な戦場での衝突から戻って、数日の街が過ぎていた。
海都の防衛線は辛うじて維持され、帝国軍は一度後退したものの、緊迫した空気は未だに漂ったままだった。
運ばれてくる負傷兵の治療、山のような報告書の作成、消費した薬品の補充――軍医としてのルカの仕事は文字通り山積みであり、彼は普段通り、冷淡なまでに黙々とそれらをこなしていた。
しかし――ふとした一瞬の静寂の中、ルカの脳裏には、あの戦場の光景が鮮明に蘇っていた。
あの、すべてを凍りつかせるような黄金の瞳。
戦場の向こう側から、自分を射抜いたあの男の視線。
恐怖、嫌悪、警戒――そのどれとも違う、まるで自分の肉体の奥深くまで舐め回されるような、悍ましくも強烈な視線の感覚が、どうしても記憶の底から消えてくれないのだ。
「……ルカ先生? ルカ先生ってば」
「あ――」
正面から声を掛けられ、ルカはハッと我に返った。手元では、調合中だった薬草のすり鉢の手が止まっていた。
声を掛けてきた斧術士が、不思議そうな顔で覗き込んでくる。
「どうしたんだよ、珍しいな。上の空だぞ」
「……そうか? 別に、いつも通りだ」
「いやいや、完全にボーッとしてたろ」斧術士は笑った。「ルカ先生が調合中に手を止めるなんて、明日は槍が降るんじゃないか?」
ルカは曖昧に頷き、再び手を動かした。
自分でも、理由が分からなかった。戦場で恐ろしい強敵や、異様な殺気を放つ帝国兵を見ることは珍しくない。それなのに、なぜあの金髪の大男の姿だけが、これほどまでに胸に引っかかるのか。
何かが、決定的に間違った方向へ進み始めているような、底なしの「嫌な予感」だけが、冷たく皮膚を刺していた。
――その頃、ガレマール帝国の本陣、巨大な訓練場。
けたたましい金属音と共に、何十人もの精鋭の帝国兵たちが、ゴミ屑のように地面へと叩き付けられていた。
誰も立ち上がれない。誰も、息をすることさえままならない。勝負にすらなっていなかった。
ゼノスは、愛刀の刃についた僅かな血を払い、鞘へと収めた。
「……退屈だな」
相変わらず、世界のすべてが灰色で、何も変わらない。凡俗の肉を引き裂いたところで、己の魂が満たされることなど万に一つもない。
だが――最近のゼノスは、以前とは少しだけ違っていた。
目を閉じれば、退屈な闇の中に、鮮烈な「色彩」を持って浮かび上がる存在があった。
あの戦場で見た、夜の海のような青い髪、紫の瞳、そしてあの華奢な身体を包む白い女性用制服の姿。
「殿下」
そこへ、一人の側近が恐る恐る近付いてきた。
「何だ」
「例の海都の軍医……ルカ・エレミヤに関する、さらなる追加報告が届きました」
ゼノスの足が、ピタリと止まる。その黄金の瞳に、ギラリとした肉食獣の光が宿る。
側近は内心、その皇太子の反応に激しく戦慄していた。これまで、どれほど優れた武人や英雄の情報を差し出しても「つまらん」と一蹴していた皇太子が、たった一人の市井の軍医に対し、ここまで異常な執着を示すなど、帝国の歴史上あり得ないことだった。
「聞こう」
「はっ……。対象の年齢、戦歴は先日の報告通り。交友関係ですが、ギルドの仲間たちからは深く慕われているものの、本人は非常に閉鎖的な性格であり、自ら周囲と一線を画し、距離を置く傾向が強いとのことです」
ゼノスは無言で先を促す。
「そして……その、私生活における関係ですが。恋人は――確認できません」
「愛人は」
「確認できません」
「婚約者、あるいはそれに準ずる特別な存在は」
「……一切、存在しません。誰一人として、かの肉体に触れた者はいないとのことです」
短い、重苦しい沈黙。
ゼノスは何も言わなかった。しかし、その顔には、獰猛で歪な「満足感」が浮かんでいた。
側近には、皇太子がなぜそんな風に笑うのか、その理由が全く分からなかった。
ゼノス自身も、その感情の正体を正確には言語化できていなかった。ただ、その報告を聞いた瞬間、胸の奥の飢餓感が、酷く淫らに歓喜したのだ。
誰の手にも汚されていない、無垢で純潔な、世界にただ一人の美しい獲物。
あの誰も立ち入らせないという頑なな身体を、自分が最初に力任せに暴き、その純白の肉体を、最初の一滴から蹂躙して染め上げるのだという、至上の快楽の予感。
「……ふっ、くだらんな」
ゼノスは自嘲するように小さく笑った。だが、その瞳の奥の情欲の炎は、すでに消えることのない業火となって燃え盛っていた。
数日後。海都リムサ・ロミンサの黒渦団軍司令部。
ルカは、滅多にないことに、最高司令官の執務室へと呼び出されていた。
重い扉を開けて部屋に入ると、司令官がかつてないほどに難しい、苦渋に満ちた顔で机の上の書類を見つめていた。
「ルカ、よく来てくれた」
「……何でしょう。治療の要請ですか?」
ルカが小首を傾げると、その美しい猫耳が小さく動いた。
司令官は首を振り、机の上の、最重要機密と捺印された帝国軍の動向書類をルカの前へと差し出した。
「お前について、本国の情報部から……極めて妙な、そして信じがたい報告が届いたんだ」
ルカは不審に思いながらも、その書類に視線を落とした。
その、一文を読んだ瞬間――ルカの美しい紫の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
『――ガレマール帝国皇太子、ゼノス・イェー・ガルヴァス自らが、海都の軍医ルカ・エレミヤに関する執拗な情報収集、および周辺の軍展開を厳命している可能性極めて高い。』
部屋の中が、冷たい静寂に支配される。
ルカは数秒間、息をすることさえ忘れて完全に固まっていた。意味が分からなかった。
「……なぜ、俺を……?」
思わず、消え入りそうな声が口から漏れる。
司令官もまた、苦い顔をして頭を振った。
「それは、こちらのセリフだ。お前はただの軍医だ、ルカ。帝国の皇太子といえば、世界の頂点に立つ怪物の首領だぞ。会ったことも、話したこともないはずの男が、なぜ……お前個人を、指名するようにして狙ってきているんだ?」
窓の外からは、いつも通りの穏やかな潮風の音が聞こえていた。
しかし、ルカの胸の奥で芽生えた小さな不安の種は、あの戦場の黄金の瞳の記憶と結びつき、彼の心臓を、冷たく締め付け始めていた。
第三十七節 黄金の瞳
上空を覆う雲は、まるで冷徹な鉄のように重苦しい鉛色をしていた。
荒野を吹き抜ける風は一段と冷たさを増し、砂塵が舞う中、ガレマール帝国軍と海都連合軍の両軍は、互いに武器を構えたまま不気味な睨み合いを続けていた。
ここ数日、散発的な小競り合いは続いていたものの、今日の戦場は明らかに異様だった。どちらの陣営も本格的な進軍を行おうとせず、まるで天から降りてくる「何か」を恐れ、息を潜めて待っているかのようだった。
ルカは前線の簡易天幕の中で、ひたすら負傷兵の治療にあたっていた。
手際よく包帯を巻き、止血剤を塗り、薬品を配る。いつもと変わらない軍医としての仕事。しかし、胸の奥でドクドクと警鐘を鳴らす不吉な胸騒ぎだけは、どうしても消し去ることができなかった。
「ルカ先生……」
包帯を巻かれていた若い兵士が、不安げにルカの顔を覗き込んだ。
「どうした」
「いや……なんだか、いつもより顔色が悪い気がして。無理しないでくれよ」
「平気だ。これくらいでへばりはしない」
ルカが淡々と首を振った、まさにその瞬間だった。
突如として、騒然としていた戦場全体が、水を打ったように静まり返った。
あまりにも不自然で、暴力的ですらある静寂。誰かが恐怖のあまり息を呑む音が、天幕の外から伝わってくる。次いで、兵士たちの間に、地鳴りのようなざわめきが広がっていった。
「おい……まさか、嘘だろ……」
「本物か? なぜ帝国の皇太子がこんな前線に……」
ルカも手を止め、弾かれたように天幕の外へ飛び出した。
視線の先――帝国軍の中央陣形が左右に割れ、そこから「一人の男」がゆっくりと歩み出てくるのが見えた。
馬にも乗らず、付き従う護衛の兵も一人として連れていない。ただ悠然と、まるで己の庭園を散歩でもするかのように、死線が交錯する戦場の真ん中へと歩みを進めてくる。
波打つ金色の長髪。巨大な体躯を包む漆黒の魔導アーマーと、その上から羽織った不吉な黒い装束。腰には異様な存在感を放つ三本の刀。そして、すべてを見下すような黄金の瞳――。
その姿が視界に入った瞬間、戦場の空気の密度が圧倒的な重圧によって変質した。誰もがその男の名を知っていた。
帝国皇太子、ゼノス・イェー・ガルヴァス。
歩く災厄。戦場そのものの具現。怪物。
ルカの指先が、無意識のうちに強く硬直した。
ゼノスは、ちょうど両軍の真ん中、誰もが恐怖のあまり立ち入ることのできない空白の地帯で足を止めた。
その黄金の瞳が、冷淡に戦場全体を見渡す。ひれ伏す自軍の兵士たちも、怯える海都の指揮官たちも、はためく旗も、向けられた刃も――そのすべてを「無価値なゴミ」として一蹴するように無視し、ゼノスはただ一人、あの青い髪の軍医の姿だけを探していた。
そして、見つける。
バチリ、と戦場の空間を飛び越えて、二人の視線が真っ直ぐに重なり合った。
あの邂逅から二度目。しかし、前回とは決定的に違っていた。互いの吐息や表情の変化さえも、はっきりと捉えられるほどの距離。
ルカは思わず息を止めた。心臓が早鐘を打つ。
間違いない。あの戦場で自分を射抜いた男だ。その黄金の瞳は、最初から他の誰にも、世界そのものにすら興味がないと言わぬばかりに、ルカだけを凝視していた。
ゼノスは、その薄い唇の端をほんの少しだけ吊り上げた。
愉悦と、獲物を完全にロックオンした肉食獣の、酷く歪で恐ろしい笑み。
「――ようやく見つけたぞ、俺の獲物」
地を這うような低い、静かな声だった。それなのに、数百メートルもの距離を無視して、まるで耳元で直接囁かれたかのようにルカの鼓膜へ生々しく届いた。そう錯覚してしまうほど、向けられた視線の熱量と執着が異常だった。
ルカは激しい困惑に襲われる。なぜだ。なぜ帝国の皇太子が、世界の頂点に立つ怪物が、ただの軍医である自分を見つめている。なぜそんな風に笑う。
まるで、ずっと渇望していた至高の宝物を見つけ、今すぐこの手で弄び、奪い尽くしてやろうと企むような、淫らで悍ましい目を。
次の瞬間、ゼノスはさらに口を開いた。今度は戦場全体、天割れんばかりの圧倒的な覇気を帯びた声が響き渡る。
「ルカ・エレミヤ。ここへ来い」
どよめきが爆発するように広がった。
帝国の最高権力者であり怪物の首領が、戦場の真ん中で、海都の一軍医の名前を直接呼んだのだ。味方の兵士たちも、黒黒団の将兵たちも、驚愕のあまり互いに顔を見合わせる。
だが、誰よりも驚いていたのはルカ自身だった。ゼノスの黄金の瞳が、歓喜に細められる。
「来い。俺と戦い、その力を示してみせろ」
短い、だが拒絶など最初から一ミリも想定していない、絶対的な支配者としての命令。
ルカは不快そうに美しい眉をギリッと寄せ、凛とした声で言い放った。
「断る」
一秒の猶予もない即答だった。
周囲の兵士たちが、今度こそ完全に硬直した。あの最凶の皇太子に向かって、真っ向から「断る」と言い放つなど、前代未聞どころの騒ぎではない。
だが、ゼノスは激怒しなかった。むしろ、その拒絶すらも極上の愛撫であるかのように、心底楽しそうに肩を揺らした。
「そうか……ふっ、やはりお前は…」
黄金の瞳の奥で、獣のような情欲の火がどす黒く燃え上がる。
「ならば――俺から行こう」
冷たい風が吹き抜け、ゼノスの背負う三本の刀が、キィンと不気味な金属音を立てて微かに鳴った。
その瞬間、ルカは本能で悟らざるを得なかった。この男は、絶対に自分を諦めない。
第三十八節 運命の刃
戦場に、重苦しい静寂が容赦なく降りてきた。
帝国軍も、海都軍も、あまりの異様な空気に呑まれ、誰一人として指一本動かすことができない。ただ、二人の間に冷たい風だけが吹き抜けていく。
「ルカ・エレミヤ。一騎打ちだ。お前のそのすべてを、俺に差し出せ」
ゼノスの声が再び響く。その響きには、戦いを求める武人の狂気だけでなく、どこか独占欲に満ちた生々しい熱が混じり合っていた。
ルカは不快感に眉を寄せ、鋭い眼差しでゼノスを睨みつけた。どうしても理解できない。皇太子自らが前線へ現れ、一軍医である自分の名を呼び、執拗に迫ってくる。そのすべてが異常であり、狂っていた。
「……理由はなんだ。なぜ、俺を狙う」
ルカが冷徹に問いかけると、驚くべきことに、ゼノスはその声を正確に聞き取ったかのように、ククッと喉を鳴らして笑った。
「理由か…」
ゼノスの黄金の瞳が、ねっとりとした情欲を孕んで細められる。
「決まっている。お前が『ルカ・エレミヤ』だからだ。お前以外の凡俗など、俺の視界には入らぬ」
ざわめきがさらに広がるが、ルカにとっては混迷が深まるばかりだった。お前だから。そんなものは何の理由にもなっていない。
ゼノスは再び、ゆっくりと歩みを進め始めた。一歩、また一歩と近づいてくる度に、彼が放つ物理的な圧迫感と、肌を焼き焦がしそうなほどの淫らな視線の熱が増していく。
ルカは無意識のうちに、腰の魔導書を指が白くなるほど強く握り締めていた。
恐ろしい。脳の髄まで響く野生の本能が、最大級の危険を告げている。だが、その黄金の瞳からどうしても目を逸らすことができなかった。
獣のような、すべてを貪り尽くそうとする目。それなのに、その深淵の奥には、狂おしいほどの情熱が滾っている。
戦意でもない。純粋な殺意でもない。
まるで、長い人生の退屈の中でようやく見つけた「唯一の玩具」を、自らの肉体と愛欲で汚し尽くしたいと願う、狂った捕食者の目だった。
その真っ直ぐで暴力的な視線に、ルカは言いようのない居心地の悪さを感じていた。自分の身体の最奥まで、隠してきた両性としての歪な肉体も、心の傷も、すべてを暴力的に暴かれ、見透かされているような恐怖。
ついにゼノスが足を止めた。
互いの細かな表情、ルカの風に揺れる青い髪の乱れすら視認できる至近距離。初めての、決定的な対面だった。
数秒の間、世界から音が消えた。
ゼノスは、目の前の「実物」をその瞳に狂おしく焼き付けていた。報告書の絵など、この極上の美しさの前には何の役にも立たない。
透き通るような白い肌。潮風に揺れる夜の海のごとき青い髪。神秘的な青紫の瞳。そして、警戒にピンと立ち、微かに震える美しい猫耳。何より、ルカ専用に仕立てられた白い軍医制服から伸びる、その華奢でしなやかな肢体――。
だが、ゼノスを最も激しく昂らせたのは、その「瞳」だった。
強大な光の力を宿しながらも、その奥底には、今にもパリンと砕け散ってしまいそうなほど深い孤独と、脆い傷を抱えている。その強さと脆さの矛盾。
ドクン、とゼノスの股間の奥が、猛烈な情欲の突き上げによって熱く疼いた。
面白い。本当に、気が狂うほどに愛おしく、面白い。
「ルカ・エレミヤ……」
低い、愛撫するような声でその名を呼ぶ。それだけなのに、ルカの全身に鳥肌が立った。
ルカは嫌悪感に顔を顰める。
「気安く名を呼ぶな」
ゼノスは悍ましく笑った。
「思った通りだ。お前は、俺の想像を遥かに超えて、美しい」
空気が完全に凍りついた。周囲の兵士たちが「美しい」という皇太子の言葉に息を呑み、言葉を失う。
ルカもまた、あまりの想定外の言葉に脳が一瞬フリーズした。
戦士としての強さではない。軍医としての価値でもない。ただ、自分という男でありながら女の肉を持つ歪な存在そのものを、正面から「美しい」と、まるで求愛するかのように告げられたのだ。
ルカの猫耳の先端が、困惑と羞恥でボッと熱くなる。怒りでも、喜びでもない。ただただ理解が追いつかない。なぜ敵の皇太子が、自分をそんな熱を帯びた目で見るのか。
ゼノスは、ゆっくりと腰の刀へと手を掛けた。
「確かめさせろ。お前という存在のすべてを。その肉体の奥底、魂の最奥まで……俺の刃で、暴いてみせる」
シャリィン、と冷徹な金属音が響き、ゆっくりと凶悪な刃が現れる。
戦場に一触即発の緊張が走った。ルカもまた、弾かれたように魔導書を大きく開き、魔力を練り上げる。集まるのは救済の光ではない。敵を討つための、鋭利な攻撃の光――「ルイン」。
黄金の瞳と、青紫の瞳が、至近距離で激しく交差する。
一陣の突風が荒野を駆け抜けた、次の瞬間。
ゼノスの巨大な姿が、完全に視界から消えた。
速すぎた。周囲の凡俗の目には、残像すら映らない。
ただ一人、ルカのミコッテとしての野生的本能だけが、その破滅的な接近に反応した。
「ハァッ!」
光が弾け、凄まじい速度で振り下ろされたゼノスの刃が閃く。
ルカの放った魔力の障壁と、ゼノスの刀が真っ正面から激突し、爆発的な轟音が戦場全体を激しく揺るがした。
こうして、二人の運命は完全に噛み合い、もう二度と後戻りできない破滅と愛欲の深淵へと、猛烈な速度で転がり落ち始めた。
第三十九節 欲するもの
凄まじい轟音と共に、眩い魔力の光と鋭利な刃が激突する。
ルカは衝突の衝撃を利用し、白いスカートを翻して身軽に後方へと跳躍した。空中で着地すると同時に、息を乱すことなく即座に魔導書を掲げる。
「『ルイン』――ッ!」
空間を引き裂き、幾重もの鋭い光の矢がゼノスへと容赦なく放たれた。普通の戦士であれば肉体をズタズタに引き裂かれるであろう必殺の輝き。
だが、ゼノスはただ狂おしく笑った。
避ける。弾く。あるいは、その強靭な肉体で強引に斬り伏せる。人間の常識を遥かに逸脱した圧倒的な速度と暴力。
「良い……! 良いぞ、ルカ……!」
低い、心底から湧き上がる愉悦に満ちた声。
ゼノスの刀が風を裂き、容赦ない追撃がルカの頭上へと振り下ろされる。ルカは咄嗟に魔導書を強く開き、叫んだ。
「『鼓舞激励の策』!」
ルカの周囲に、強固な黄金の魔法障壁が展開される。その直後、ゼノスの重量級の刀が叩き込まれた。
バリィィィン! と耳を聾する衝撃音が響き、防御障壁が悲鳴を上げて軋む。足元の地面が蜘蛛の巣状に激しく割れ、凄まじい衝撃波が周囲の兵士たちを吹き飛ばした。
だが――ルカは耐えた。
細い、華奢な脚で大地を踏み締め、決して膝をつかない。逃げない。その美しい青紫の瞳は、激しい怒りと警戒を湛えながら、真っ直ぐにゼノスを見据えていた。
その屈しない頑なな姿を見て、ゼノスの胸の奥に、かつて味わったことのない未知の「衝動」が、さらにどす黒く、鮮烈に跳ね上がった。
強い。だが、それだけではない。
ルカの戦い方は、あまりにも清らかで、美しかった。凡俗どものような利権のための力でもなく、醜い憎しみでもない。誰かを守り、救うために鍛え上げられた純粋な光の力。
血と泥と死臭に塗れたこの薄汚い戦場の中で、ルカの存在そのものが、あまりにも異質で、神聖なほどに眩しかった。
だからこそ――壊したい。汚したい。我が物としたい。
戦いの中で乱れた青い髪がルカの白い頬にかかり、額にはうっすらと汗が滲んでいる。激しい呼吸に合わせて、白い制服の胸元が上下に大きく波打っていた。男でありながら、どこか淫靡な色気を放つその肉体。戦闘の熱気の中で、不思議なほどその肢体から目が離せなくなる。
ゼノスは、自分が戦いながら、相手の「剣筋」ではなく、その「表情」ばかりを執拗に追いかけていることに気づいた。
敵の動きを予測するためではない。ルカの、その苦痛に歪む唇を、拒絶に燃える瞳を、戦うたびに赤く染まっていく耳の皮膚を――その存在そのものを、五感のすべてで貪るように見つめている。
「……ふっ、なるほど。これが……」
思わず、喉の奥から生々しい感嘆の声が漏れた。
ルカは激しく警戒し、眉を寄せる。
「何がおかしい……!」
ゼノスは答えなかった。まだ、この胸に渦巻く猛烈な感情に、正確な名前を付ける言葉を持たなかったからだ。
ただ一つ確かなことは、刃を交えれば交えるほど、この青年のすべてを「もっと知りたい」という狂おしい飢餓感が増していくということ。
その瞳の奥にある深い孤独を、頑なに閉ざされた心を、そして誰も触れたことのないその無垢な肉体を、力任せに暴いてみたいという陵辱への渇望。
理解したい。手に入れたい。自分だけのものとして、自らの腕の中で狂わせたい――。
歪んだ支配欲と生々しい欲情(エロス)が混ざり合い、ゼノスの内で明確な形を取り始めていた。
ルカは再び魔導書を掲げ、眩い光の奔流を放つ。戦場の闇を切り裂く、どこまでも清らかな輝き。
その光に照らされながら、ゼノスは狂おしく、そして酷く甘やかに笑った。
「やはり、お前は面白い。いや――面白いだけでは、最早足りぬな」
違う。面白いという言葉だけでは、この胸を焦がすどす黒い熱を説明できない。
もっと近くで見たい。もっとその肌に触れたい。誰の手にも渡したくない。
その独占欲と愛欲に満ちた感情に「恋」や「情欲」という名を付けるには、二人はあまりにも過酷な敵同士であり、時期尚早だったかもしれない。
だが、抗いようのない真実がそこにあった。
皇太子ゼノス・イェー・ガルヴァスは、硝煙渦巻く戦場の真ん中で、ルカ・エレミヤという美しき獲物から、生涯、二度と目を離せなくなっていくのだ。
第四十節 神造の器
戦いは、なおも熾烈を極めていた。
交差する白刃と眩い魔力の光。荒野を絶え間なく震わせる轟音。
しかし、その地獄の中心で、ゼノスの意識は確実に、そして致命的な方向へと変質を遂げていた。
始まりは、ただの好奇心に過ぎなかった。
海の向こうに現れたという、新たな『光の戦士』。噂に違わぬその実力を、自らのこの手で確かめ、日々の退屈を埋めるだけの、他愛のない暇潰しのはずだった。
だが――刃を交え、間近でその姿を見るほどに、ルカ・エレミヤという青年は奇妙なほどにゼノスの目を引き、その心を激しく掻き乱した。
攻撃の魔術を放つ一瞬の苛烈さ。仲間を守るために展開される、清らかな魔法障壁。
それら戦いの中のすべての挙動が、残酷なほどに美しかった。
いや、戦い方だけではない。彼の存在そのものが、ゼノスの五感を支配し始めていた。
戦場に吹き荒れる風が、青い髪を乱暴に揺らす。
激しい動きに合わせて、白い軍医制服のスカートの裾が艶やかに翻り、その防衛線に立つ耳が鋭く周囲を警戒して動く。血と泥に塗れたこの凄惨な場所に、これほど似つかわしくない美貌を持つ青年がいるだろうか。それなのに、彼は誰よりも気高く、その戦場の真ん中に立ち塞がっている。
そのあまりにも強烈な矛盾が、ゼノスにとっては狂おしいほどに愛おしく、興味深かった。
キィィン、と激しい金属音が響き、二人の距離が再び離れる。
ルカが小さく後退したその瞬間、ゼノスは初めて、ある厳然たる事実に気がついた。
(……華奢だな。思っていた以上に)
自らの巨大な体躯に比べれば、眼前の青年はあまりにも細く、小さかった。
男のものにしては線が細すぎる肩。しなやかだが薄い腕。戦士というよりは、むしろ誰かに庇護され、守られるべき側の肉体だ。
だが、その傷つきやすい身体を盾にして、彼は自分よりも遥かに大きな兵士たちの命を、その背後で必死に守り続けている。
なんと歪で、不条理で、魅力的な存在なのだろうか。
ゼノスは、喉の奥から低い笑いを漏らした。
「本当に、面白いな……お前は」
ルカは荒い息を吐きながら、青紫色の瞳を鋭く細めて顔を顰めた。
「……何がだ」
「お前自身だ」
迷いのない即答だった。
ルカには、目の前の怪物の思考がまったく理解できなかった。今は命を懸けた死闘の最中だ。一瞬の油断が死を招く戦場だというのに、この帝国の皇太子は、戦況の優劣にも勝敗の行方にも、一切の興味を示していない。
ただ、自分という一人の人間を、表情を、その存在のすべてを執拗に見つめている。まるで、極上の獲物を値踏みするように。あるいは、自らの渇きを潤す何かを探し出すように。
ゼノスの黄金の瞳が、どす黒い愛欲を孕んで細められた。
「噂以上だ、光の軍医……いや」
ゼノスはゆっくりと首を振った。
「英雄、光の戦士……どれもお前を表す言葉としては、酷く退屈で安っぽい」
ゼノスは、光の魔力を纏って立ち続ける青年の姿を、その網膜へ深く刻み込んだ。
どれほど窮地に追い込まれ、泥に汚れようとも、決して折れずに立ち続けるその姿。誰よりも気高く美しいのに、どこか今にもパリンと音を立てて砕け散ってしまいそうな脆さを孕んでいる。
その時、ゼノスの脳裏に、一つの言葉が鮮烈に浮かび上がった。
――『神造の器(しんぞうのうつわ)』。
まるで、気まぐれな神が自らの最高傑作として、至上の官能と美を詰め込んで創り上げた、この世にただ一つの芸術品。完成されているからこそ、自らの手で乱暴に扱い、その内側を壊してみたいと思わせるような、危うい存在。
ゼノスは、生まれて初めての強烈な「欲求」に衝き動かされていた。
この手で直接触れてみたい。もっと近くで、その吐息を感じたい。
誰も立ち入らせないというその瞳の奥の深淵を覗き込み、彼が抱える深い孤独を無理矢理に暴き立てたい。その隠された痛みに自らの指先で触れ、彼を自分だけの恐怖と快楽で満たしてみたい――。
それはまだ、世間一般の言う『愛』などという生ぬるいものではなかった。だが、単なる武人としての『興味』を遥かに超えた、生々しく生理的な情欲の昂りだった。
手に入れたい。誰の手にも渡したくない。自分だけが、その純潔な肉体の最初にして最後の支配者でありたいという、底なしの独占欲。
ルカは、自分に向けられたその視線の意味を正確に察知していた。
だからこそ、底知れない不気味さに全身の肌が粟立った。それは、命を奪おうとする敵の目ではない。かといって、単なる獲物を屠ろうとする獣の目でもない。もっと別の、説明のつかない、悍ましいほどの「熱」がそこにはあった。
ゼノスが再び刀を構え、その黄金の瞳が、獲物を追い詰めた愉悦に歪んだ。
第四十一節 手の届く距離
激戦は、さらにその激しさを増していった。
荒野に弾ける眩い光と、空気を切り裂く刃の風。大地は二人の足元で無惨にひび割れ、周囲で戦っていた両軍の兵士たちは、もはや言葉を失ってその光景を呆然と見つめるしかなかった。
これほど長い間、あの帝国の化物――ゼノス皇太子と真っ向から渡り合い、その刃を受け止めてみせる者を、彼らは見たことがなかった。
ただの一軍医であるはずの青年が、世界の頂点に立つ怪物と互角に命を削り合っている。それだけで、この戦場においては完全に異常な事態だった。
だが、ルカの肉体は確実に限界を迎えていた。
肩を激しく上下させ、額からは大粒の汗が流れ落ちて、美しい青い髪を濡らしている。魔力の消耗も著しく、視界がチカチカと点滅し始めていた。
それでも、彼は決して倒れなかった。その青紫色の瞳の奥にある、強靭な生存への意志は、未だに死んでいなかった。
その気高くも、どこか哀愁を帯びた青年の姿に、ゼノスはますます狂おしいほどに興味を惹かれ、股間の奥を熱く昂らせていた。
面白い。本当に、気が狂うほどに面白い。
ただ強いだけではない。傷つき、身体を血に染めながらも、その意志は一ミリも折れない。強大な恐怖を前に、ミコッテとしての野生が怯えに震えていながらも、決して後ろへは退かない。
その姿は、まるで壊れそうでいて決して壊れない、強固な硝子細工のようだった。その頑なな硝子を、自らの肉体で力任せに抱き締め、粉々に砕いてやったら、一体どれほどの至高の快楽が得られるだろうか。
「ハァッ!」
ゼノスが凄まじい踏み込みと共に、一閃を放つ。
ルカは咄嗟に魔導書を掲げ、最後の防衛線を張った。
「『鼓舞激励の策』――ッ!」
ルカの周囲に、眩い黄金の魔法障壁が展開される。
しかし――今度のゼノスの一撃は、これまでとは桁違いの質量を孕んでいた。
バリィィィン! と、空間そのものが割れるような凄まじい轟音が響く。
ルカの目の前で、絶対の信頼を置いていた障壁に、無数の亀裂が走った。美しい紫の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
(……押し切られる……っ!)
そう悟った瞬間には、障壁は跡形もなく砕け散っていた。
凄まじい衝撃波がルカの華奢な肉体を直撃する。ルカの身体は大きく後方へと吹き飛ばされ、荒野の地面を激しく転がった。白かったはずの軍医制服が、泥と砂に無惨に汚れていく。
「ルカ先生――!」
「ルカ――ッ!」
背後から、ブランや仲間たちの悲痛な悲鳴が上がった。
だが、ルカはまだ諦めなかった。
泥にまみれ、膝をガタガタと震わせながらも、ルカは地面に手をつき、再びその足で立ち上がったのだ。乱れた青い髪の間から、鋭い青紫の瞳が、憎悪を込めてゼノスを強く睨みつけ返してくる。
その姿を見た瞬間、ゼノスの胸の奥で、ドクンと大きな衝撃が跳ねた。
(……美しい)
心底から、そう思わざるを得なかった。
明らかな敗北が目の前に迫り、肉体は限界を迎えているというのに、ルカはまだ立ち、まだ己に抗おうとしている。その、無駄だと知りながらも決して屈しない気高さが、どうしようもなくゼノスの目を、心を、魂を奪って離さない。
風が吹き抜け、乱れた青い髪がその白い頬をなぞる。
ゼノスは、ただひたすらに、そのルカの姿を見つめ続けていた。
近付きたい。もっと、彼の近くへ。
戦場を隔てた距離ではなく、自らの手の届く至近距離で、その苦痛に歪む表情を、その掠れた声を、その凍りついた孤独を、すべて我が物として知りたい。
そして、ゼノスはふと、己の異常な変化に明確に気がついた。
自分は今、目の前の戦いの勝敗など、どうでもよくなっている。ただ、ルカ・エレミヤという青年自身のことばかりを、狂おしく考えているのだ。
この頑なな青年は、一体どんな顔をして激昂するのだろうか。自分に組み敷かれた時、どんな顔をして涙を流し、絶望に泣き叫ぶのだろうか。あるいは、自らの腕の中で、どんな声で啼くのだろうか――。
そんな生々しく官能的な妄想ばかりが、ゼノスの脳内を支配していた。
これまで、多くの強者や英雄と刃を交えてきた。だが、その誰に対しても、これほどまでに「欲しい」などと思ったことは一度もなかった。自らの手元に置き、その肉体を蹂躙し、独占したいと渇望したことなど、ただの一度も。
しかし、このルカという青年だけは、完全に違っていた。
ゼノスの黄金の瞳が、酷く淫らに細められる。
「お前は……俺の知らないものばかりを、その身体に秘めているな」
風の音に紛れるほどの、小さな呟き。
当然、満身創痍のルカの耳には届かない。だが、それは偽りのない、怪物が初めて抱いた剥き出しの本心だった。
第四十二節 敗北
戦場を激しく吹き抜けていた突風が、嘘のようにピタリと止んだ。
ルカは、肺を焦がすような荒い呼吸を繰り返していた。体内の魔力は底を突き、指先一つ動かすのさえ鉛のように重い。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
それでも、彼は倒れるわけにはいかなかった。
(俺の背後には、仲間たちがいる……守らなければならない、俺の『帰る場所』を……!)
その一念だけで、ルカは震える手で再び魔導書を開いた。
「『ルイン』――ッ!!」
残された最後の命の灯火を振り絞るような、絶叫。
ルカの細い身体から、眩いばかりの光の奔流が放たれた。荒野の闇を白く染め上げる、渾身の閃光。
だが――ゼノスはその破滅的な光の渦へ向かって、正面から真っ直ぐに突き進んだ。
ギィィン! と凶悪な刀が振るわれ、ルカの放った最後の光が、鋭い一刀の下に両断される。
「……っ!?」
ルカの瞳が、絶望に大きく見開かれた。
次の瞬間、視界のすべてを、ゼノスの巨大な漆黒の影が覆い尽くしていた。
速すぎる。肉体が、完全に反応できない。
「くっ――」
咄嗟に新たな障壁を展開しようとした、その刹那。
ゼノスの構えた刀の硬い『柄(つか)』が、ルカの薄い腹部へと、容赦なく正確に叩き込まれた。
「――が、はっ……!?」
凄まじい衝撃が体内を駆け抜け、ルカの呼吸が完全に止まった。
内臓を揺るがす痛みに視界が激しく歪み、華奢な膝が、ガクリと音を立てて崩れ落ちる。
それでもルカは、最後の意志で意識を繋ぎ止め、倒れまいと踏みとどまろうとした。その、どこまでも執念深く、気高い姿に、ゼノスは静かに黄金の瞳を細めた。
勝利の味など、どうでもよかった。
敗北の、まさにその絶望の瞬間においてすら、なお己に抗おうとするこの二十歳の青年の姿が、あまりにも強く、そしてあまりにも儚く、美しかった。
「もう、終わりだ。お前のすべてを、俺に寄こせ」
低い、地を這うようなゼノスの声。ルカは霞む視界の中で、それでも執念深く男を睨み返した。
「……終わら、ない……っ」
掠れた、今にも消え入りそうな声。それでも、その瞳の奥の光だけは折れていなかった。
その瞬間、ゼノスは完全に理解した。
自分が求めているのは、帝国軍としての戦果などではない。この、自分の前で息を荒げている、このルカそのものなのだ。敵として殺すためでもなく、戦利品として飾るためでもない。もっと別の、自らの肉体と魂の最奥に繋ぎ止め、決して失いたくない「唯一の存在」として。
「……そうか。ならば、」
ゼノスは僅かに、酷く甘やかに笑った。
そして、ルカの首筋へと、容赦なく刀の柄を振り下ろした。最後の一撃。
ついに、ルカの意識がぷつりと途切れた。
青紫色の瞳から光が消え、その華奢な肉体が、力の抜けた人形のように地面へと崩れ落ちていく。
――その、瞬間だった。
ゼノスは、自らの脳で考えるよりも早く、反射的にその大きな腕を伸ばしていた。
ルカの身体が、冷たい泥の地面へと激突する、その寸前。
ゼノスは自らの強靭な腕で、ルカの細い身体を、滑り込むようにしてしっかりと受け止めていた。
完全な、静寂。
戦場のすべてが、時を止めたかのように静まり返った。
海都の兵士たちも、帝国の将兵たちも、目の前で繰り広げられた光景が理解できず、ただ唖然と固まっていた。戦場で誰よりも冷酷に命を奪ってきたあの皇太子が、倒した敵を、まるで壊れ物を保護するかのように、その腕の中に優しく抱き留めているのだ。
ルカの意識は、すでに深い闇の底にあった。
長い睫毛が白い頬に影を落とし、青い髪がゼノスの黒い装束の上に散らばっている。繰り返される、微かな吐息。さっきまであれほど猛々しく戦っていたのが嘘のように、腕の中のルカは無防備で、そして酷く柔らかかった。
ゼノスはしばらくの間、その場から一歩も動かなかった。
自らの腕の中に確かに存在する、ルカ・エレミヤという青年の確かな重みと、その温もりを確かめるように。その美しき獲物を、ただ静かに見つめ続けていた。
「美しい顔だ。まるで聖女のような――いや、それ以上だな」
やがて、ゼノスの黄金の瞳が、周囲へ冷酷に向けられた。
「――この者は、俺が連れて行く」
短く、重い一言。それだけで、この戦場のすべての結末が決した。
帝国の側近や部下たちは驚愕に目を見開いたが、誰一人として異を唱えることはできなかった。皇太子の命令は、この戦場において絶対の天命であるからだ。
ゼノスは、ルカの華奢な肉体を、まるでこの世で最も壊れやすい至宝を扱うかのように、慎重に、そして静かにその胸へと抱き上げた。
ルカを抱いたまま、ゼノスは踵を返し、帝国軍の陣営へと撤退を始めた。
夕暮れに染まる荒野。
背後からは、連れ去られるルカの名を叫ぶ仲間たちの絶望的な声が、遠く遠く遠ざかっていく。
だが、深い闇の中に沈んでいるルカには、もう何も聞こえなかった。
ルカはまだ知らない。この敗北を機に、自分の人生が、その肉体も魂も、底なしの愛欲の深淵へと大きく変えられようとしていることを。
そして、彼を強引に奪い去ったゼノス自身もまだ、この抱き留めた青年の存在が、自らの退屈な運命さえも完全に狂わせ、破滅へと導いていくことになるのを知る由もなかった。
ー第三章「神造の器と獣の愉悦」へ続くー