※この作品はR-18です。

光の軍医 ルカ   作:時野彼方

4 / 5
長い遠回りの果てに。「誰かを愛して、愛されてもよかったんだ。」

仲間たちの元へ戻り、自由と温かい居場所を取り戻したはずのルカ。しかし、彼の心は海都にはなかった。夜毎にゼノスの夢に苛まれ、自らの胸に空いた「空白」の正体を突きつけられる日々。
帝国が終わりを迎え、城が紅蓮の炎に包まれる中、ルカは己の心に嘘をつけず、再びあの男の元へと走る。
そこで待っていたのは、致命傷を負い、独りで死にゆこうとする宿敵との再会だった。
崩れ行く城で激しく求めあう二人。
母の遺した言葉の本当の意味を知り、呪いから解き放たれたルカは――。


第四章「美しいままで」 R18

 

第四章 美しいままで

 

 

第六十八節 空白

海の匂いがした。

それは、かつて自らのすべてを形成していた、酷く懐かしい潮の匂いだった。

 

リムサ・ロミンサ。

どこまでも広がる抜けるような青い海、砕ける白い波。活気に満ちた港を吹き抜ける風が、青い髪を優しく揺らす。

帰ってきたのだ。本当に、ようやく、あの過酷な北の監禁城から、自らの「家」へと。

 

ルカは黒渦団軍医局の窓辺に立ち、ぼんやりと外を眺めていた。

見慣れた白い街並み、聞き慣れた荒々しくも温かい喧騒。遠くの埠頭からは、荒くれ者の船乗りたちの豪快な笑い声が響いてくる。

平和だった。何もかもが、あの戦場で連れ去られる前の日常と同じだった。

 

それなのに。

――胸の奥だけが、気味が悪いほどに静かだった。

中身をそっくりとくり抜かれてしまったかのように、空っぽで、冷たい。

 

「ルカーーーッ!!」

 

重厚な扉が勢いよく開き、室内に喧騒が飛び込んできた。ミリアだった。

相変わらずの騒がしさで、その両手には溢れんばかりの大量の医療報告書を抱えている。

 

「あーっ! またそうやって窓の外見て仕事サボってる!」

「……サボってなんかいない」

「嘘おっしゃい、完全に心ここに在らずって顔で窓見てたじゃない!」

「それは、これからの医療物資の搬入経路について思考を巡らせていたんだ。サボりじゃない」

「言い訳だけは一人前なんだから、このサボり魔!」

 

いつもの、代わり映えのしないやり取り。

以前のルカなら、困ったように苦笑を浮かべていただろう。そして今も――ルカはちゃんと、自然に笑ってみせた。

けれど。

(……遠い)

自分の顔が今どんな表情を作っているのか、ルカには分かっていた。分かっているのに、その笑顔がどうしても自分のものではない、どこか他人の仮面を被っているかのような奇妙な感覚に囚われる。

 

ミリアは捲し立てていた途中で、不意に言葉を止めた。

気付いているのだ。ルカが帝都から戻って以来、何かが決定的に変わってしまったことに。誰よりも近くで彼を見てきた彼女だからこそ、その「空白」に誰よりも早く気付いていた。

だが、彼女はそれ以上追及することはしなかった。ただ、抱えていた書類を机にドサリと置くと、ぶっきらぼうに告げた。

 

「……ちゃんと夕飯、食べなさいよ。また痩せたんだから」

 

それだけを言い残し、彼女は部屋を去っていく。

ルカは小さく頷いた。その深く踏み込もうとしない優しさが、今のルカには酷くありがたかった。

 

 

夜になった。

日中の喧騒が嘘のように、深夜の医務室はしんと静まり返っている。入院している負傷兵たちも、今は皆穏やかな寝息を立てていた。

ルカもまた、ようやく与えられた自室の寝台へと横になる。

 

久しぶりに取り戻した、自分の部屋。馴染みのある、少し潮気の残る天井。

旅を共にしてきた、安らかな夜。

ルカは疲弊した身体を横たえ、そっと目を閉じた。すぐに深い眠りへと落ちていく。

 

そして――悪夢を見た。

 

そこは、赤黒く燃え盛る帝都の城だった。

パチパチと音を立てて爆ぜる炎、崩落していく巨大な天井の石材。その破壊と混沌の真ん中に、たった独りで立っている男がいた。

長い金髪を揺らし、沈みゆく夕陽のような色彩を宿した黄金の瞳。

――ゼノス。

 

夢の中の彼は、あの日と同じように何も語らない。ただ、静かに、じっとこちらを見つめている。

ルカは胸を突き動かされるようにして、男へと手を伸ばした。

だが、届かない。いくら脚を動かしても、二人の間の距離は絶望的に縮まらなかった。声を出してその名を呼ぼうとするが、喉が引き攣って言葉にならない。

そのまま、二人の視界を遮るようにして巨大な火柱がドッと落ちてくる。視界が真っ赤な狂気で染まり――そこで夢は唐突に終わった。

 

「はっ……っ、あ……ッ!!」

 

ルカは弾かれたように寝台から飛び起きた。

呼吸が激しく乱れ、全身から嫌な汗が吹き出している。

胸が、痛かった。手で抉られているかのように、酷く、酷く痛む。

 

窓の外を見やれば、夜はまだ明けていない。冷たい月明かりが、床の上に虚しい四角い光の模様を作っていた。どこまでも静かな、海都の夜。

ルカはシーツを握り締めたまま、自らの胸元を強く押さえた。

 

何故、今更あの男の夢を見る。

何故、あんな地獄のような場所の記憶が、頭から離れてくれない。

あれほど拒絶し、焦がれるようにして帰りたがっていたはずなのに。自分を玩具のように扱い、肉体を蹂躙したあの皇太子を、あれほど憎んでいたはずなのに。

 

何故、目を閉じるたびに、あの男の寂しげな微笑みばかりを思い出してしまうのか。

理解できなかった。自分自身の心が、どうしようもなく分からなかった。

 

 

翌日、ルカは黒渦団の訓練場へと向かった。

そこには、自分を命懸けで連れ戻してくれたミリアやブラン、そして多くの仲間たちがいた。前線での戦いで傷を負った兵士たちも大勢いる。彼らを救うことこそが、軍医としてのルカの使命だった。

 

ルカは古びた魔導書を均等に開き、精神を集中させる。

「――フィジク」

 

ルカの指先から溢れ出た清らかな魔法の光が、兵士の痛々しい傷口を優しく包み込んでいく。見る見るうちに肉が融け合い、傷が塞がっていった。

治療を受けた兵士が、心底嬉しそうに顔を綻ばせる。

「あぁ……痛みが引いていく。やっぱり、ルカさんが医務室にいてくれると安心感が違うな!」

 

周囲の兵士たちも深く頷き、口々に声をかけてくる。皆が笑っていた。皆が、ルカがこの場所に無事に戻ってきたことを、心から喜び、歓迎してくれていた。

 

愛されている。必要とされている。

かつて、孤独の底で生きていた幼い頃のルカなら、到底信じられなかったはずの、温かく幸福な光景。

 

それなのに。

――胸の奥に空いた硝子の穴は、どんなに仲間たちの愛を受け取っても、微塵も埋まることはなかった。

決して癒えることのない傷のように、誰にも見えない秘密の場所に、ぽっかりと冷たい風を募らせたまま。

 

その夜も、ルカは夢を見た。

あの冷徹で、けれど自分といる時だけは僅かに表情を和らげていた黄金の瞳を。自らを追うこともせず、静かに闇の中で見送っていた男の後ろ姿を。

 

そして、ルカの胸の内に、少しずつ、自分でも認めたくない恐ろしい疑問が芽生え始める。

 

もしも。

あの日、あの燃え盛る部屋の扉をくぐる直前、もう一度駆け戻れたなら。

自分は、ゼノスに一体何を伝えたかったのだろうか。

 

そのあまりにも残酷で、切ない答えの正体を――ルカはまだ、何一つ知らない。

 

 

 

第六十九節 残響

ルカは毎晩のようにゼノスの夢を見た。

それは、あの冷徹な帝都の城で、狂おしく抱かれる濃厚で官能的な夢だった。

 

夢の中の空気は、いつも決まって重く、そしてどこか甘い。

漆黒の闇に包まれた寝台の上で、ゼノスは大きな体躯でルカを組み敷き、誰にも触れさせなかったその歪な身体を、貪るように乱暴に、けれど時に酷く愛おしげに暴いていく。

「お前は俺のものだ」と囁く低い声が耳元を打つたびに、ルカの肉体は恐怖を置き去りにして、甘美な疼きとともに熱く歓喜の声を上げた。

 

ゼノスの強靭な指先が青い髪に指を絡め、敏感な猫耳の根元を じっくりと愛撫する。背中を駆け抜ける強烈な快感に、ルカはa甘く喘ぎ、ただその圧倒的な質量に翻弄されるしかなかった。

奪われるたびに、自分がゼノスの色に染まっていくのが分かる。ゼノスの形を覚えていく。憎むべき敵のはずなのに、その熱い肌の温もり、肌を合わせるたびに伝わってくる切ないほどの渇望が、ルカの心と肉体を容赦なく狂わせていく。

 

押し込まれる官能の痛みに耐えかね、ルカはゼノスの広い背中に爪を立て、縋り付いた。

黄金の瞳が、悦楽に歪むルカの顔をじっと見つめている。その眼差しに射抜かれるたび、ルカは自らの魂までをもすべて差し出してしまうかのような錯覚に陥るのだった。

 

「――っ、は……あ、ゼノ……ッ!」

 

自らの口から漏れた、狂おしい悲鳴のようなその名前とともに、ルカは再び跳ね起きる。

 

「はぁ、はぁ……っ、あ……」

 

寝台の上で、ルカは荒い呼吸を繰り返しながら、激しく脈打つ自らの胸元を両手で強く押さえた。

身体の芯が、未だ夢の余熱でじんわりと熱く、痺れている。

手元を見れば、シーツを握り締める指先が、情けないほどに小刻みに震えていた。

 

窓の外からは、夜のリムサ・ロミンサの穏やかな波の音が聞こえてくる。

冷たい月光が照らし出すのは、見慣れた、けれど今はどうしようもなく寒々しく感じられる自室の光景。そこには当然、あの傲慢で圧倒的な男の姿など、どこにもない。

 

「……どうして、なんだ」

 

ルカは膝に顔を埋め、掠れた声で呟いた。

あの日々は監禁であり、自分は陵辱されていたはずだった。光の軍医として、仲間たちの元へ戻れた今こそが正しい姿なのだと、自分に言い聞かせ続けている。

 

それなのに、肉体に刻み込まれたゼノスの感触は、海都の潮風に洗われてもなお、消えるどころか一層鮮烈にその存在感を主張していた。

身体を貪られている時の、あの頭が狂うほどの濃厚な快楽と、満たされるような絶対的な安心感。

それを自らの肉体が、そして心が、今もどうしようもなく激しく求めているという事実に、ルカは深い自己嫌悪と、底知れない恐怖を覚えずにはいられなかった。

 

 

 

第七十節 復帰

 

季節は流れていた。

海都に吹き込んでいた春の湿った風は、いつしか眩しい夏の太陽へと移り変わり、そして今、実りの秋の気配を帯びた涼やかな風へとその姿を変えている。

 

ルカは完全に職務へと復帰し、再び硝煙の立ち込める戦場へと身を投じていた。

光の軍医として。かつてと何一つ変わらない、気高く、慈悲深い姿で。

戦況がどれほど悪化しようとも、彼は常に最前線に立ち、命の灯火を繋ぎ止めるためにその身を粉にして働き続けていた。

 

「――フィジク!」

突き出された指先から、清らかな光が奔流となって負傷した兵士を包み込む。深く引き裂かれていた肉が瞬時に融け合い、傷口が綺麗に閉じていく。

「鼓舞激励の策!」

魔導書から溢れ出たエーテルが強固な光の障壁を展開し、ルカたちを狙って飛来した無数の矢をパキィンと硬質な音を立てて弾き飛ばした。

「野戦治療の陣――ッ!」

ルカが地を蹴り、魔導書を高く掲げると、足元に巨大で緻密な幾何学模様の魔法陣が瞬く間に広がる。ドーム状に展開された淡い緑の光が、陣の内にいる全ての負傷兵たちを優しく包み込み、その痛みを劇的に和らげていった。

 

「おおお! 傷が、痛みが引いていくぞ!」

「ルカが来てくれた! 」

 

戦場の至る所から、地を震わせるような歓声が湧き上がる。

ルカは紛れもなく、戦場の英雄だった。

同盟軍の誰もがその名を知っている。数多の死線を潜り抜け、絶望の淵から人々を救い上げてきた光の戦士。黒渦団が誇る至高の軍医、ルカ・エレミヤ。

 

けれど。

――誰も知らなかった。

その完璧で、美しく、誰もが憧れる英雄の胸の奥に、どれほど深く冷たい穴が空いているのかを。

どれほど多くの仲間たちに囲まれ、どれほど熱い感謝の言葉を注ぎ込まれても、その穴だけは誰一人として埋めることができなかったということを。

 

確かに時間は過ぎた。

肉体に刻まれていた陵辱の痕跡も、今ではすっかり癒えている。傍には命を預け合える仲間がいて、守るべき確かな居場所もある。

それなのに。

夜になり、周囲の喧騒が消え去って一人きりになると、どうしてもあの沈みゆく夕陽のような黄金の瞳が脳裏に浮かび上がってくる。

忘れようと抗えば抗うほどに、その残像はより鮮烈に、より深く、ルカの魂の奥底へと根を張って消えることはなかった。あの濃厚な夜の感触が、今も自らの肉体を支配しているかのように。

 

 

そして、ある日のことだった。

 

前線の作戦本部に召集されたルカは、総司令官から今後の決定的な方針を告げられる。

 

「――周辺国との完全なる同盟が、ついに締結された。これを以て、我が同盟軍は戦力の全てを投入し、帝国への総攻撃を開始する」

 

机の上に広げられた巨大な地図。そこには、かつてルカが囚われていた、あの冷徹で美しい帝都ガレマルドを全方位から包囲するような、無数の赤い進軍ルートが冷酷に描き込まれていた。

 

「目標は帝国の完全なる瓦解、そして――皇子ゼノスの抹殺だ」

 

その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、ルカの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて激しく跳ね上がった。

 

 

 

第七十一節 駆け出した理由

そして。

ついに、その運命の日が訪れた。

 

帝国総攻撃。

それは、数世代にわたり世界を震撼させ、多くの血を流させてきた長い戦争の、決定的な終焉の始まりだった。

圧倒的な物量を投入したエオルゼア同盟軍の猛攻を前に、かつて無敵を誇った帝国軍は無残に敗走を続けていた。

強固な城塞都市は至る所で激しい炎に包まれ、見上げる空は血のような赤に染まっている。立ち昇る無数の黒煙が陽の光を遮り、絶え間ない魔導兵器の爆発によって大地が激しく震えていた。

 

勝利は、誰の目から見ても目前だった。

同盟軍の誰もが歓喜に震え、そう確信していた。

光の軍医として戦線を支えてきたルカもまた、同じように勝利を喜ぶはずだった。

 

だが。

遥か遠く、赤黒く燃え盛る炎の向こう。

かつて自らが捕虜として囚われ、ゼノスと濃密な日々を過ごした巨大な城の姿が視界に飛び込んできた。

その堅牢極まるはずの城塞が、同盟軍の集中砲火を浴び、今まさに音を立てて崩れ始めている。

 

その瞬間だった。

ルカの胸の奥深くで、何かが致命的な音を立てて弾けた。

 

「――っ」

一瞬にして息が止まる。視界がぐにゃりと歪み、激しい目眩が襲った。

肋骨の奥で、心臓が痛いほどに猛烈な脈動を刻み始める。全身の毛穴が逆立つような、どうしようもない、圧倒的な嫌な予感がルカの全身を支配した。

 

「ルカ! 前線が移動するわ、次の負傷兵の元へ――」

 

隣にいたミリアが、ルカの異変に気付いてその名を呼ぶ。何かを叫び、指示を飛ばしている。

けれど、その声はルカの耳には一切届かなかった。今の彼の頭の中は、恐ろしいほどの恐怖で真っ白に染まっていた。

 

あの城が崩れていく。炎に呑まれて消えていく。

もし。あの地獄のような炎の中に、まだ彼がいるなら。

もし。傷を負いながらも、まだ生きているなら。

もし。かつての自分と同じように、誰の助けも拒み、たった一人で暗闇の中にいるなら。

 

――気付けば、ルカの身体は前を向いて走り出していた。

 

「ルカ……っ!? 嘘でしょ、ちょっと、どこへ行くのよ!?」

 

背後からミリアの驚愕に満ちた叫び声が上がる。

けれど、止まれない。いや、自らの意志ではもう、絶対に止まることなどできなかった。

ルカは魔導書を強く握り締めたまま、燃え盛る瓦礫を身軽に飛び越え、視界を塞ぐ濃厚な煙の中を死に物狂いで駆け抜ける。同盟軍と帝国兵が入り乱れて刃を交える、危険極まる戦場を真っ直ぐに横切っていく。

 

何故だ。何故、俺はこんな場所を走っている。

自らの理性が、激しい言葉で問いかけてくる。

敵だろう。相手は冷酷無比な帝国の皇太子だ。自分を力ずくで戦場から拐い、その尊厳を奪い、陵辱し、苦しめ抜いた憎むべき相手のはずだ。

 

それなのに、何故。

何故、あんな男に、もう一度会いたいと願ってしまう。

何故、世界を滅ぼさんとするあの男に、どうか生きていてほしいと、胸が狂うほどに乞うている。

 

分からない。そんな狂った感情の理由など、何一つ分かりたくもなかった。

だが、どれほど理性を総動員して否定しようとも、泥を蹴る自らの足だけは、一歩も速度を緩めようとはしなかった。

 

走るルカの脳裏に、走馬灯のようにあの城での記憶が溢れ出してくる。

瑞々しい緑が芽吹いていた帝都の庭園。部屋を赤く染め上げた窓辺の夕暮れ。心地よい沈黙。

冷徹な男が見せた、あまりにも不器用な会話。よく眠れた朝に、そっと頭を撫でられた掌の重み。悪夢に怯える自分を、無意識に強く抱きしめてくれた夜の温もり。

肌を合わせるたびに触れた体温。自分だけを真っ直ぐに見つめていた、黄金の瞳。

 

知らなかった。忘れたつもりだったのに、自らの心と肉体が、これほどまでにあの日々のすべてを鮮烈に記憶していたなんて。

海都の穏やかな日常に紛れさせて、消えてくれたと思い込んでいた。けれど、消えてなどいなかった。最初から、何一つ忘れられてはいなかったのだ。

 

城が刻一刻と近付いてくる。

吹き付ける炎の熱風が肌を焼き、上空からは破壊された巨大な瓦礫が容赦なく降り注ぐ。

それでもルカは走る。煤に汚れ、煙を吸い込んだ胸が苦しい。呼吸をするたびに肺が焼けるように痛む。

けれど、肉体の痛みなどどうでもよくなるほどに、今のルカは心が、張り裂けそうなほどに苦しかった。

 

もし。もしもこのまま、もう二度とゼノスに会えなくなってしまったら。

その最悪の結末を想像するだけで、胸が、魂が真っ二つに裂けてしまいそうだった。

 

そして、炎の熱に晒されながら、ルカはついに、心の底から理解し始める。

 

帝国から戻ったあの日から、どんなに仲間たちに愛されても消えなかった、胸の奥の冷たい穴。

海都の温かい居場所を取り戻したはずなのに、ずっと自分を苛み続けた空白の正体。

そして、夜毎に夢へと現れ、自らの肉体を甘美な悦楽で狂わせ続けたあの濃厚な感触の理由。

 

その全ての原因が、糸が手繰り寄せられるようにして、ただ一人の男――ゼノスへと繋がっているということに。

 

「……っ、ゼノス……ッ!!」

 

初めてだった。

誰もいない、戦火の吹き荒れる戦場の真ん中で、ルカが遮るものなくその名を叫んだのは。

喉が焼け、掠れきった、ひどく弱い声だった。

だが、それは自らの魂の底から絞り出された、確かな「真実」の声だった。

 

ルカは迷うことなく、激しく燃え盛る炎の渦の中へと飛び込んでいった。

轟音を立てて内側から崩壊していく、あの忌まわしくも愛おしい城へ向かって。

自らの心が導き出した、あまりにも残酷で、美しい答えを確かめるために。

ただひたすらに、前だけを見据えて。

 

 

 

第七十二節 炎の城

城は、激しく燃えていた。

凄まじい轟音とともに天井の巨大な梁が崩れ落ち、ひび割れた石壁が悲鳴を上げるように軋む。紅蓮の炎が生き物のように長い廊下を這い回り、城内のすべてを焼き尽くさんと猛り狂っていた。

誰もいない。かつてこの城を厳格に満たしていた衛兵たちも、召使いたちも、既に蜘蛛の子を散らすように逃げ去った後だった。あるいは、外の戦場で既に同盟軍の刃に倒れたか。

 

帝国は、今まさに終わろうとしていた。

数多の国々を蹂躙し、恐怖で支配してきた長い歴史。終わりの見えなかった長い戦争。その全てが、この圧倒的な炎の渦の中へ沈もうとしている。

 

ルカは走った。

爆ぜる火の粉と熱風が容赦なく肌を打ち、自慢の青い髪が黒い煤で汚れていく。煙を吸い込むたびに喉が焼けるように痛む。それでも、走る足を止めることなど微塵も考えなかった。

 

崩れかけの階段を一段飛ばしで駆け上がり、激しく燃える長い廊下を突っ切る。

見覚えのある道だった。あの監禁されていた日々、幾度となく歩かされ、あるいは腕に抱かれて運ばれた、あの道。

 

そして。

ルカはついに、その場所に辿り着く。

重厚な意匠が施された大きな扉。――ゼノスの私室だ。

 

ドクン、ドクンと、肋骨の奥で心臓が狂ったように激しく脈打つ。

(間に合え……っ、間に合ってくれ……!)

ルカは両手で、燃え盛る重い扉を力任せに押し開けた。

ズザザザと凄まじい轟音を立てて扉が開き、室内の熱風が容赦なく吹き込んでくる。

 

そして――部屋の奥、赤黒く揺らめく炎の影に、彼はいた。

 

ゼノス。

かつて畏怖の対象でしかなかったその巨躯は、崩れかけた壁に力なくもたれかかっていた。

その腹部には、致命的とも言えるほどに深い傷が刻まれている。溢れ出た鮮烈な赤が、豪奢な具足を濡らし、白い大理石の床へと絶え間なく滴り落ちていた。

その姿は、あまりにも痛々しく、悲惨だった。

 

だが。

こちらを射抜いたあの黄金の瞳だけは、以前と何一つ変わっていなかった。

周囲を包む破滅の轟音が嘘のように、その眼差しだけは、驚くほどに静かだった。

 

ゼノスはゆっくりと顔を上げる。そして――その黄金の瞳を、僅かに大きく見開いた。

初めてだった。出会ってからこれまで、どんな戦況でも、どんな悦楽の最中でも冷徹だったこの男が、これほどまでに驚愕に満ちた表情を浮かべるのは。

 

「……ルカ」

 

掠れた、低い声。

それはまるで、死の淵で見せる自らの切ない幻を見ているかのような、掠れた声音だった。

ルカの胸が、抉られるように激しく痛む。

生きていた。本当に、まだ生きていた。その事実だけで、目頭が熱くなり、涙が溢れそうになるほどの圧倒的な安堵が全身を駆け巡る。

 

だが、安堵に浸る時間は与えられなかった。ゼノスの右手には、血に濡れた一振りの刀が握られていた。その冷徹な刃先は――今まさに、自らの喉元へと向けられようとしている。

ルカの思考が凍り付いた。瞬時に理解する。ゼノスが、今ここで何をしようとしていたのかを。

 

「やめろーーーッ!!」

 

考えるより先に、絶叫が喉を裂いて飛び出していた。

ルカは猛然と駆け寄る。ゼノスのすぐ目の前へと膝をつき、狂ったように魔導書を開いた。

「フィジク……ッ!!」

 

ルカの指先から、かつてないほどに濃密で、優しい癒しの光が溢れ出す。その緑のエーテルが、ゼノスの腹部の深い傷口へと吸い込まれようとした、その瞬間。

 

バサリと、ゼノスの血塗られた左手が、ルカの腕を冷酷に払いのけた。

行き場を失った癒しの光が、虚しく火花のように霧散していく。

 

ルカは息を呑み、絶望に視界を揺らした。

「何をするんだ……っ!」

震える声で睨みつける。けれど、ゼノスはただ静かに首を振るだけだった。

 

「無意味だ」

地を這うような低い声。

「敗北した皇太子に……、生きる価値など、ない」

 

揺らめく炎が、ゼノスの端正な横顔を赤く照らし出す。天井が激しく軋み、城の崩壊の足音がすぐそこまで迫っている。

それなのに、ゼノスの声は不思議なほどに穏やかだった。まるで、己の命の終わりを、すべての破滅を、最初から受け入れているかのように。

 

ルカは必死に首を振った。

「違う……! そんなことは、そんなことはない……っ!」

掠れた声で叫ぶが、それ以上の言葉が続かない。敵国の軍医として、帝国の皇太子を生かす大義名分など、今のルカには何一つ持ち合わせていなかったからだ。

 

ゼノスはそんなルカの動揺を、ただ静かに見つめ続けていた。

どこまでも深く、昏い、黄金の瞳。

そして、彼はぽつりと、ルカの魂を突き刺すような問いを投げかけた。

 

「……何故、来た」

 

ルカの身体が、完全に硬直した。

その問いはあまりにも鋭く、的確で――ルカからすべての逃げ道を奪い去るほどに、残酷だった。

 

「お前は、自由になったはずだ」

ゼノスは淡々と言葉を紡ぐ。

「俺の手から離れ、お前を愛する仲間の元へ戻った」

「お前には……帰るべき、温かい場所がある」

 

周囲の炎が爆ぜ、二人の顔を近くで照らす。

「ならば」

黄金の瞳が、酷く切なげに、細められた。

「何故、ここにいる」

 

ルカは答えられなかった。

心臓が潰されそうなほどに苦しい。胸の奥が痛い。

何故だ。何故俺は、ミリアの手を振り払ってまでここへ来た。何故死線を潜り抜けてまで走った。何故、この男に生きていてほしいと、これほどまでに願ってしまうんだ。

戦場を駆け抜けながら、崩壊する城へ向かいながら、ずっと自問自答してきた。

 

そして、今。

その全ての答えが、目の前で血を流すゼノスの存在そのものとして、厳然と横たわっていた。

 

ゼノスは、自嘲気味に静かに言葉を続ける。

「……俺を、殺しに来たのか? お前を陵辱した、その復讐のために」

 

(違う!)

ルカの心が、即座にそれを全力で否定した。違う、そんなはずがない。そんなことのために、俺は命を懸けてここにいるわけじゃない。

なら、何故。何故、自分はここにいる。

 

胸の奥で、帝国から戻ったあの日からずっと空いていた、あの硝子の穴がみしみしと音を立てて軋む。

苦しくて、痛くて、張り裂けそうだ。

けれど、もう目の前の黄金の瞳から、目を逸らすことだけはできなかった。もう、自分自身の本当の気持ちから、逃げることはできない。

 

炎が二人のすぐ近くまで迫り、天井が崩落する轟音が室内に響き渡る。

終わりが、すぐそこに迫っていた。

だからこそ――今、この瞬間に言わなければならなかった。

ルカは震える両手をきつく握り締めた。

そして、その潤んだ青紫色の瞳で、ゼノスの黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

 

その瞬間。

ルカの胸の奥深くで、長い、あまりにも長い時間をかけて頑なに閉ざされていた「真実の扉」が、静かに、音を立てて開き始めた。

 

 

 

第七十三節 つくりかえられたもの

炎が、狂ったように揺れていた。

めきめきと不穏な音を立てて天井の一部が扉をふさぐように崩れ落ち、退路が断たれた。二人のすぐ傍らを猛烈な熱風が吹き抜けていく。

視界を覆う煙の向こう、けれど、二人の視線が離れることは決してなかった。

 

ゼノスはただ、待っていた。

一切の身動きを止め、血を流しながら、ルカの口から紡がれる言葉を。

 

ルカは自らの拳を、骨が白く浮き出るほどきつく握り締めた。全身が小刻みに震えている。

怖かった。命を懸けて強敵と戦うことよりも、肉体を深く傷付けられることよりも、ずっと、ずっと怖かった。

なぜなら、これから口にするのは――生まれてから今日まで、世界の誰にも、ミリアにさえも言ったことのない、自らの最も深い本心だからだ。

 

ルカは耐えかねて一度俯いた。

脳裏を無数の記憶が駆け巡る。厳格だった母の顔。自らを異端として扱った長老の顔。そして、自分を命懸けで愛し、救い出してくれたミリアやブラン、海都の仲間たちの笑顔。

そして――今、目の前で静かに呼吸を繰り返している、この男。

ゼノス・イェー・ガルヴァス。

 

初めて会った時は、ただ恐ろしかった。何を考えているのか理解できず、自らの尊厳を容赦なく踏みにじる、憎むべき敵でしかなかったはずなのに。

いつからだろうか。あの冷徹な黄金の瞳を、無意識に探すようになってしまったのは。その地を這うような低い声を聞くだけで、どうしようもなく心が安心を覚えてしまうようになったのは。

 

ルカはゆっくりと、もう一度顔を上げた。その青紫色の瞳には、堪えきれない感情の波が激しく揺れている。

 

「……お前が」

絞り出すような、ひどく掠れた声だった。

「お前が……俺を、つくりかえたからだ」

 

ゼノスの黄金の瞳が、僅かに見開かれる。

ルカはもう、止まらなかった。自らの意志では止められなかった。胸の奥底、凍りついた檻の中に長い年月をかけて閉じ込めていた言葉が、堰を切ったように溢れ出してくる。

 

「身体も……」

熱い空気を、小さく吸い込む。

 

 

「……心も」

 

 

一瞬、周囲の爆音さえも遠のくような静寂が二人を包んだ。ただ、城を焼き尽くす炎の爆ぜる音だけが、虚しく響いている。

ルカの身体は、自分でも制御できないほどに震えていた。目元に、熱い涙が急速に滲んでいく。

 

「俺は、ずっと……」

言葉が途切れそうになるのを、必死に繋ぎ止める。

「ずっと、自分のこの歪な身体が嫌いだった……っ」

 

ゼノスは何も言わない。ただ、その言葉の破片のすべてを、自らの魂に刻み込むようにして聞いている。最後まで、遮ることなく。

 

「呪いだと思っていた。こんな身体、誰にも必要とされない、愛されるはずがないって。誰かを愛する資格も……誰かに愛される資格も、俺にはないんだって、ずっと、そう思い込んでいた……!」

 

周囲の炎が激しく揺らめく。肌が焼けるように熱い。それなのに、ルカの芯は凍えるように寒かった。独りで泣いていた、あの長い長い孤独の夜の暗闇を思い出すから。

 

「だけど……!」

ルカはゼノスを見た。真っ直ぐに、その瞳から逃げずに。

「母さんとお前だけだった……っ。お前は、俺を『変なもの』として見なかった! 呪いだなんて言わずに……お前は、俺を……」

 

喉がキュッと詰まり、呼吸が止まりそうになる。それでも、どうしても、この男にだけは伝えたかった。

 

「……俺を、一人の『ルカ』として、求めてくれたんだ……!」

 

堪えきれなくなった涙が、煤に汚れたルカの頬を伝い、床へと零れ落ちた。一滴、また一滴と、それは止まることを知らない。

 

「だから……っ」

ルカは、笑った。

大粒の涙をボロボロと流しながら、自嘲するように、けれど酷く愛おしげに、少しだけ唇を歪めてみせた。

「お前が……この世からいなくなるのが、嫌だったんだ」

 

ようやく。ようやく言えた。

海都に帰ってもなお、自らの胸に空いた硝子の穴を広げ続けていた、本当の言葉を。

 

ゼノスは、動かなかった。まるで彼の周囲だけ時間が完全に停止してしまったかのように、その黄金の瞳が微かに、けれど激しく揺れている。

ルカは初めて気付いた。

唯我独尊の怪物が、今、どうしようもないほどの戸惑いに直面している。

 

ゼノスはゆっくりと、一度だけ重そうに目を閉じた。そして、フッ、と小さく笑った。いつもの傲然たる笑みではない。自らを嘲るような、あるいは、何か決定的な運命を諦めたような、ひどく優しい笑みだった。

 

「……そうか」

地を這うような低い声。

「――俺だけでは、なかったか」

 

ルカが涙に濡れた瞳のまま、微かに首を傾げる。

ゼノスは崩壊した壁に身を委ねたまま、ゆっくりと視線を上へと向けた。崩れゆく天井の亀裂の向こう、そこには同盟軍の砲撃と炎によって、真っ赤に染まった帝国の夜空が広がっている。

 

「俺もだ、ルカ」

驚くほどに、静かで、平穏な声音だった。ルカは思わず息を呑む。

 

「お前という存在が俺の前に現れるまで……俺の人生には、何一つ必要なものなどなかった。戦うことだけでよかった。強者を捩じ伏せ、勝利を掴むことだけがすべてで、それ以外の日々は……すべて退屈な、灰色の有象無象に過ぎなかった」

 

それは、間違いなく彼の本音だった。帝国の皇太子という忌々しい肩書を脱ぎ捨てた、ゼノスという一人の男の、剥き出しの魂。

 

「だが」

黄金の瞳が、再びゆっくりとルカの姿を捉える。

「お前がここへ来てから……」

 

言葉が、途切れた。

あのゼノスが、自らの感情を表現するための言葉を、珍しく、本当に珍しく迷うようにして探していた。

 

「妙なものだな……」

ゼノスは、困ったように僅かに苦笑してみせた。

「お前が不器用に笑う顔を、何故か覚えていた。お前が俺を睨み、怒る姿が、どうしようもなく面白かった。お前が去った後のあの部屋は……俺には、あまりにも静かで退屈すぎたのだ」

 

ルカの胸が、今度こそ張り裂けそうなほどに強く締め付けられた。

ゼノスもまた、自分と全く同じだったのだ。

あの別れの日から、同じように胸に埋まらない空白を抱え、同じように夜毎に互いの面影を追い求めながら――。

お互いに、まだ知らないまま。自らの胸を焦がす、この狂おしい感情の名前を。

 

――その時だった。

ズガガガガと、これまでとは比較にならないほどの巨大な轟音が城内に響き渡った。

城全体が激しくのけ反るように揺れ、二人の頭上の天井に、無数の巨大な亀裂が走る。紅蓮の炎が一気に室内に流れ込み、すべてを呑み込もうと牙を剥いた。

 

完全なる終わりが、すぐそこまで近付いていた。

 

だが、不思議だった。ルカの心には、死への恐怖など一欠片もなかった。

ルカはただ、ゼノスを見つめていた。ゼノスもまた、その黄金の瞳でルカだけを、愛おしげに見つめ返している。

 

戦場で最悪の邂逅を果たし、憎み合い、傷付け合い、身体を暴かれ、けれど同時に救いを与えられ――。

長い、あまりにも長い遠回りの果てに、二人はようやく知ったのだ。

自分たちが一体、何を失うことをこれほどまでに恐れていたのかを。

 

崩れゆく炎の城の中で、二人の魂は、初めて真実の場所で触れ合っていた。

 

 

 

第七十四節 最期の契り

城は、轟音を立てて崩れ続けていた。

真っ赤な炎が生き物のように壁を舐め、装飾の施された天井からは、火の粉と共に無数の石片が容赦なく降り注ぐ。

この場所に残された時間もう少ない。

 

だが。

ルカの心は、奇妙なほどに凪いでいた。

目の前にゼノスがいる。ただそれだけの事実が、海都に帰ってからもずっと彼の胸の奥を冷たく締め付けていた、あの終わりのない孤独と空白を綺麗に消し去っていた。ようやく、自分の心が求めていたものの正体に辿り着けたからだ。

 

ゼノスは壁から身を離し、ゆっくりと立ち上がった。

腹部の傷は深く、溢れ出る血は止まらない。並大抵の戦士であれば、立っていることすら不可能なはずの致命傷。それでも、彼は最後まで帝国の皇太子らしく、高傲なる一人の戦士らしく、その身を真っ直ぐに毅然と突き立ててみせる。

 

ルカは反射的に、その痛々しい身体を支えようと手を伸ばした。

その手をゼノスが大きな掌で包み込むようにして取った。ルカの治療を拒んで払いのけるのではない。出会って以来初めて、彼の方から自発的に、ルカの細い手を優しく、けれど強く握り締めたのだ。

 

燃え盛る炎の容赦ない明かりが、ゼノスの黄金の瞳を妖しく、美しく照らし出す。

 

「……ルカ」

 

ただ、低く名前を呼ばれただけだった。それなのに、ルカの胸の奥は、焼け付くような熱さで満たされていく。

 

「お前は自由になったはずだ」

ゼノスはルカの手を握ったまま、静かに言葉を紡ぐ。

「本来ならば、このような死地に再び来る必要など、どこにもなかった」

 

ルカは涙を湛えた瞳で、きつく首を振った。

そんなことはない。来なければならなかったのだ。理屈も大義名分もすべて放り出して、どうしても、最後にこの男に会わなければ、自分の人生は二度と動き出さないと分かっていたから。

 

ゼノスはルカのその必死な拒絶を見て、微かに唇を歪めて笑った。その表情は、かつて誰も見たことがないほどに穏やかで、深い慈しみに満ちていた。

 

「ならば」

黄金の瞳が、真っ直ぐにルカの魂の奥底を射抜く。

「最期まで……お前は、俺のものだ」

 

それは傲慢な命令ではなかった。かといって、弱々しい懇願でもない。ただ、己の死を悟った一人の男が、生涯で唯一心を通わせた大切な相手へと捧げた、至高の願いだった。

 

ルカの青紫色の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。

何故だろうか。帝国が滅び、退路を断たれた崩れ行く城で、自らも死に向かおうとしている悲劇の最中だというのに、ルカの心は、これまでにないほどの幸福感で満たされていた。

 

「……ああ」

ルカは小さく、けれど固く頷いた。震える声を必死に絞り出す。

「俺は……お前のものだ、ゼノス」

 

その言葉を聞いた瞬間、ゼノスの表情が目に見えて柔らかくなった。戦場での冷酷な姿でも、帝都の城でルカを捩じ伏せていた時でも、監禁されていた日々のいつであっても、一度も見せたことのない、一人の剥き出しの男としての優しい顔だった。

 

周囲では、いよいよ崩壊が加速していく。熱風がカーテンを巻き上げ、遠くの塔が凄まじい音を立ててへし折れる響きが室内にまで伝わってきた。

もう、二人に残された時間は一刻もない。

 

ゼノスはゆっくりとルカの頬へ手を伸ばした。数多の命を奪ってきたその大きな指先が、今はまるで硝子の壊れ物に触れるかのように、酷く繊細に、ルカの白い肌を愛おしげになぞる。

ルカはそっと目を閉じた。もう、逃げなかった。逃げる理由など、自らの心の中にはどこを探しても残っていなかった。

 

互いの額が自然と触れ合い、熱い呼吸が重なり合う。それだけで、言葉よりも、何よりも深く、互いの存在のすべてを確かめ合うことができた。

 

どちらからともなく引き寄せ合い、二人は抱き合い、もつれ合いながら、近くの寝台へと横たわった。

これが、二人の最期の契りだった。

 

周囲を囲む紅蓮の炎が、まるで二人を祝福する帳のように揺らめく中、ゼノスは渇望を隠そうともせず、情熱的に、何度も、何度もルカの身体を求めた。ルカの華奢な肩を抱き寄せ、白く柔らかな肌に歯を立て、強く吸い上げた。赤い痕がいくつも刻まれていく。

「はぁっ…あぁっ」

ルカの声が甘く上擦る。ゼノスはさらに下へ唇を滑らせ、ルカの硬くなった乳首を舌先で転がし、歯で甘噛みした。片方の手はルカの細い腰を掴み、もう片方の手はルカの脚の間に伸び、既に蜜を溢れさせている秘部を指で掻き分けた。

 

かつては恐怖と拒絶に満ちていたその行為が、今ではどうしようもないほどに愛おしく、官能的で、美しい儀式へと昇華されていく。

 

ゼノスは指を増やしていき、激しく出し入れする。甲高い嬌声とともに卑猥な水音が部屋に響き、ルカの太ももを透明な蜜が伝っていく。ゼノスはルカの猫耳を口に含み、舌で丁寧に舐めながら、指の動きをさらに速めた。

やがてルカの身体が弓なりに反り、絶頂が訪れた。

「あっ!あっ…ゼノ…っあぁぁ!!」

ルカの瞳が潤み、身体が激しく痙攣した。その瞬間、熱い潮が勢いよく噴き出した。ゼノスの手首を濡らし、シーツに大きな染みを作りながら、何度も脈打つように吹き続ける。ルカはがくがくと痙攣しながら、甘く長い絶頂の声を上げた。

 

ゼノスは低く笑い、ルカの細い顎を大きな手で掬い上げ、貪るように唇をふさいだ。舌が深く侵入し、ルカの口腔を掻き回し、唾液の糸を引きながら何度も角度を変えて啄む。息ができないほどの激しいキスに、ルカは小さく咽びながらも、自ら舌を絡めて応えた。

「ん……っ、ん……、ゼノス……ッ」

 

ゼノスは満足げに目を細め、自身の熱く張りつめたペニスをルカの濡れそぼった花弁に押し当てた。一気に、根元まで埋め尽くす。ルカの内壁がきつく締め付け、熱い肉襞が彼を貪欲に飲み込んだ。

ゼノスはルカの細い腰を抱え上げ直し、角度を変えて最奥を突き上げる。子宮口を何度も叩き、容赦なく抉る。

 

ルカはゼノスの広い背中に腕を回し、その強靭な身体を求めてきつく縋り付いた。突き上げられるたびに内壁が激しく収縮し、ゼノスを締め上げる。ゼノスは低く吼え、動きをさらに激しくした。寝台が軋み、紅蓮の炎が二人の情事を照らす。

 

ゼノスの大きな質量が自らを押し潰し、熱い体温が直に伝わってくるたび、ルカの胸の奥は、確かな歓喜のぬくもりで満たされていいった。与えられる強烈な快感に、ルカは自ら腰を揺らし、熱い吐息を漏らしながら、甘く、狂おしく喘いだ。

傷口から流れるゼノスの血が、ルカの白い肌に滴り落ちていく。けれど、その血の汚れさえも、二人が今、確かに命を燃やし尽くして融け合っているという、何よりの証明だった。

 

「もっと……、もっと……っ」

ルカは涙を流しながら、ゼノスの耳元で淫らに、けれど切実に囁いた。ゼノスは深い口づけで強引に塞ぎ込む。応えるように、さらに深く、激しくルカのすべてを貪り、自らの色で染め上げていく。

ゼノスはルカの身体を抱き上げ、対面で自らの腰へと囲わせると、何度も何度もその細い腰を揺らさせ、飽くなき渇望を満たすように執拗に責め立てる。

何度も体位を変え、何度もルカを絶頂へ追い込んだ。正常位、背面位、対面座位——ゼノスはルカの身体の隅々まで貪り、自身の血でルカの白い肌を染めながら、愛おしげに、けれど獰猛に求め続けた。

「あぁっ、あんっ!あっ、あっ」

ルカはそのたびに声を枯らして喘ぎ、激しい注挿に翻弄されながら、全身の神経が快楽に震えるのを感じていた。

互いの魂が、肉体という境界線を越えて一つに融け合うような、頭が狂うほどに濃厚で、激しい交わり。二人は迫り来る死の影を振り払うかのように、互いの存在を、ぬくもりを、何度も何度も、貪欲に確かめ合い続けた。

激しい突き上げと共に、ゼノスは熱い精をルカの奥深くに注ぎ込む。ルカも同時に潮を吹き、身体を硬直させて絶頂に達し、震えながら互いの唇を重ねた。

二人は破滅の轟音さえも忘れて、命を激しく燃やし尽くすように、何度も何度も強く、狂おしく求め合い続けた。

 

 

やがて、激しい嵐のような交わりが終わりを告げ、部屋には二人の荒い息遣いだけが残された。

ゼノスはルカをその太い腕で優しく抱きしめたまま、乱れたルカの青い髪を、大きな指先で何度も丁寧に梳いていく。敏感な猫耳が、その優しい愛撫に甘えるようにぴくりと震えた。

 

「お前は……本当に、美しいな」

 

不意に、ゼノスがルカの顔を見つめ、ぽつりと呟いた。

 

ルカは胸元で荒い呼吸を繰り返しながら、小さく、幸せそうに笑った。

昔の自分なら、その言葉を激しく否定していただろう。あるいは、自分を侮辱しているのかと怒っていたかもしれない。けれど、今のルカは違った。

 

「母も、そう言っていた」

 

記憶の底から、ずっと忘れていた、けれど大切な懐かしい声が鮮やかに蘇ってくる。

『ルカ。どんなに辛くても……美しい心と、美しい身体で生きてほしい』

母、フレイアが遺した、最期の願い。

 

あの日、ゼノスにその身体を暴かれた時、ルカは母の願いを裏切り、二度と果たせない汚れた身になったのだと絶望した。

けれど、命の灯火が消えゆく今なら、その本当の意味がよく分かる。

 

美しいというのは、傷一つないことではない。

決して身体が汚されぬよう、綺麗に保たれていることでもない。

誰かが定めた理想の形に、自分を当てはめることでもない。

 

泣いても、迷っても、どれほど深く傷付いても。

それでも最期の瞬間まで、自分というたった一つの命を投げ出さずに、愛し、抱きしめること。

他者を想い、誰かを愛する心を、決して失わないこと。

それこそが、母が遺した「美しい心」と「美しい身体」の真実だったのだ。

 

ルカの目から、一筋の涙が静かに零れ落ちた。

それは決して、悲しみだけの涙ではない。長い孤独の旅路の果てに、ようやく自らの魂を赦すことができた、救いの涙だった。

 

ゼノスの不器用な親指が、その涙をそっと拭う。どこまでも優しく、労わるような仕草だった。

ルカは自らの手を伸ばし、その大きな手へと重ね合わせた。白く細い指が、ゼノスの無骨な指の隙間に、そっと絡みついていく。

こんなふうに、自分から他者の手を取り、繋ぎ止めようとする日が来るなんて、想像もしなかった。

 

「俺は、ちゃんと……生きられたかな」

ゼノスはまっすぐな黄金の眼差しをルカに注ぎ込む。

「当たり前だ」

ルカは愛おしさを込めて、逞しい胸へとそっと額を預けた。

トン、トンと、規則正しく、けれど確実に弱まりつつある鼓動が、ルカの額を通じてダイレクトに聞こえてくる。

 

まだ、生きている。確かに、彼は今、俺の目の前に、ここにいる。

 

その圧倒的なぬくもりと、自分を包み込む絶対的な安心感を感じながら、二人は重なり合ったまま、いよいよ間近に迫ってきた終焉の音を聞いていた。

 

炎はすぐそこまで迫り、全てを焼き尽くそうとしている。堅牢だった城は、今度こそ完全に崩壊の時を迎えようとしていた。

けれど、今この瞬間だけは、不思議と何も怖くなかった。

 

あまりにも長く、あまりにも過酷だった旅路の果てに。

ルカは今、ようやく辿り着いたのだ。

世界中の誰にも邪魔されることのない、本当の、心の場所へと――。

 

 

 

第七十五節 最期の口づけ

炎の音が、すぐ近くまで迫っていた。

轟々と音を立てて狂い咲く紅蓮の嵐は、もう誰にも止めることはできない。めきめきと崩壊していく天井からは絶え間なく火の粉が舞い散り、悍ましい熱風が部屋の中を容赦なく吹き抜けていく。

 

それでも。

二人は、ぴくりとも動かなかった。

まるでこの崩れゆく空間だけが世界から切り離され、永久の静寂を与えられたかのように。ただ二人だけの、ひどく静かな時間だけが、そこには流れていた。

 

ルカはゼノスの逞しい胸へ、そっと額を預けたまま、その音を聴いていた。

トクン…、トクン…、と、刻まれる規則正しい鼓動。

どこまでも温かい。監禁されていたあの濃密な日々、何度もその身を重ねるたびに感じてきたはずの鼓動なのに、これほどまでに愛おしい、消えてほしくないと願ったことは一度もなかった。

 

ゼノスの血に濡れた大きな腕が、ゆっくりとルカの細い背中へと回される。

そして、引き寄せるように抱き締めた。

力強く、それでいて、やはり壊れ物を扱うかのような、どこか不器用で優しい抱擁だった。

 

ルカは静かに目を閉じた。自ら進んで、その広大な胸の中へと身体を深く預けていく。

思い返せば、長い間、誰にも寄り掛かることなく生きてきた人生だった。

誰のことも心の底からは信じないように、自分がこれ以上傷付かずに済むように。異端の呪いを背負った身として、ただ一人で頑なに戦場に立ち続けてきた。

 

けれど、今、この最期の瞬間だけは。

一人で張り詰めている必要など、どこにもなかった。

 

ゼノスが、胸元で微かに震えるルカの名前を、静かに呼んだ。

「……ルカ」

ただその低い声に呼ばれただけで、ルカの胸の奥は、張り裂けそうなほど熱くなる。

 

ルカはゆっくりと顔を上げた。

昏く、けれど今はどこまでも穏やかな黄金の瞳。

涙に濡れた、気高い青紫色の瞳。

至近距離で、二つの色彩が互いの姿を真っ直ぐに映し出し合う。

 

ルカは何かを言おうとして、そっと唇を閉じた。

今さら、言葉などでは到底足りない気がしたのだ。伝えたい、残したいものが、あまりにも多すぎた。

 

だから、二人はただ、無言で見つめ合った。

しばらく。本当に、時間の許す限り、そうして互いの存在を瞳に焼き付ける。

 

やがて、ゼノスがそっと、ルカの額へと自らの額を触れ合わせた。

さらに距離が近付き、熱い呼吸が完全に重なり合う。

 

ルカは、そっと目を閉じた。

 

触れ合った唇は、短く、驚くほどに静かな口づけだった。

かつてのように、力ずくで何かを奪うための蹂躙ではない。自らの愛を無理に確かめ合うためのものでもない。

ただ――ここにいる。目の前に、確かに存在している。そのことだけを互いの魂に伝えるための、優しく、切ない、最期の口づけだった。

 

ルカの睫毛から、一筋の涙が静かに零れ落ちる。

それが悲しいからなのか、それとも、ようやく救われたことが嬉しいからなのか、今のルカには自分でも分からなかった。

ただ、どうしようもなく温かかった。

胸の奥の、生まれてからずっと分厚い氷に閉ざされていた場所が、ゼノスの体温によって、今、優しく溶かされていくようだった。

 

ゼノスは愛おしさを噛み締めるように、再びルカを強く抱き寄せる。

ルカもまた、その細い腕をゼノスの首回りに固く回した。

もう、一寸の隙間も空かないように。この地獄の炎の中でも、ずっと共にいるために。

 

すぐ傍まで炎の壁が迫り、城骨がへし折れる凄まじい崩落の音が響く。終わりは、もう目と鼻の先だった。

それでも、二人は抱き締め合ったまま、そこから動こうとはしなかった。

 

(最初から……こうしていれば、よかったのかもしれないな)

ルカはふと、そんな大それたことを思った。

けれど。これほどの過酷な遠回りをしたからこそ、今、この胸にあるぬくもりの有り難みが分かるのだ。あれほどの深い苦しみと絶望があったからこそ、この一瞬の至福が、何よりも尊く輝くのだ。

 

だから、もう後悔はなかった。少なくとも、今、この瞬間だけは。

ゼノスの強固な腕の中で、ルカは子供のように、静かに、穏やかに微笑んだ。

 

 

 

第七十六節 美しいままで

炎は、ついに二人の足元にまで達していた。

バリバリと音を立てて天井の大部分が崩れ落ち、無数の火の粉が狂ったように舞い踊る。吹き荒れる熱風が髪を、肌を容赦なく灼いていく。

 

それでも、ルカは全く恐くなかった。

自分の世界は今、ゼノスの確かな腕の中にすべて収まっていたからだ。

 

振り返れば、激動の人生だった。

まだ二十年しか生きていないはずなのに、まるで何十年もの歳月を生き抜いたかのような、奇妙な充足感と疲労感があった。

異端として迫害され、孤独に震えた幼少期。母・フレイアと過ごした、短くも温かかった時間。ワンダラーパレスの、あの凍えるような暗闇。

斧術士ギルドの仲間たちとの出会い。ミリアやブランと共に、光の軍医として駆け抜けた戦いの日々。

そして――ゼノスとの、あまりにも残酷で、あまりにも濃密な出会い。

 

苦しかった。辛かった。死にたい、殺してくれと願った夜など、数え切れない。

けれど、その全ての足跡は、決して無意味なんかではなかった。何一つとして、欠けていいピースなどなかったのだ。

 

ルカはゼノスの胸へと、愛おしげに頬を寄せた。

耳を澄ませば、聞こえてくる鼓動。それが、先ほどよりも確実に、少しずつ弱くなっている。命が、少しずつ、けれど確実に消えていく音だった。

 

(嫌だ――)

 

胸の奥で、小さな、けれど切実な拒絶が頭をもたげた。行かないでほしい、この温もりを失いたくないと、心が悲鳴を上げる。けれど、そんな願いを口にすることの無意味さも分かっていた。

ゼノスはもう助からない。そして、自分も。

二人はこの猛火の中で、共に終わりを迎えるのだ。

 

恐ろしくはなかった。

死を前にして、今のルカの心象風景は、燃え盛る周囲の喧騒が嘘のように、ひどく静まり返っていた。

 

ゼノスは、腕の中のルカをただ静かに見つめ返していた。

その黄金の瞳の奥には、かつて世界を戦慄させた、あの底知れない狂気は微塵も残っていなかった。他者を害することでしか埋められなかった、底なしの退屈も、飢えも、今は何一つとして存在しない。

 

「……ルカ」

かけられたのは、どこまでも優しい声音。

ルカはそっと顔を上げ、ゼノスの顔を見つめた。

「何だ」

少しだけ、悪戯っぽく笑ってみせる。すると、ゼノスもまた、愛おしそうにその薄い唇を微かに綻ばせた。

 

「お前は……最後まで、美しいな」

 

ルカの紫色の瞳が、優しく揺れる。

その言葉と同時に、ルカの脳裏に、遥か遠い日の記憶が鮮やかに蘇った。

 

最愛の母の声。あの日の、包み込むような優しい微笑み。自分を撫でてくれた、温かい手。

『ルカ。どんなに辛くても、美しい心と、美しい身体で生きてほしい』

 

ルカは静かに目を閉じた。

目尻から、一筋の静かな涙が伝っていく。それはもう、悲しみの涙ではなかった。己の歪な運命が、極上の美しさへと昇華された、救いの涙だった。

 

ゼノスはその大ぶりな指先で、ルカの頬の涙をそっと拭った。

剣しか握ってこなかったその手つきは、どこまでも不器用だったけれど、胸が痛くなるほどに優しかった。

ルカはその大きな手の上に、自分の細い手をそっと重ね合わせる。二つの異なる大きさの手が、固く、固く結ばれる。

 

二人は見つめ合った。

伝えるべきことは、すべてこの肌を通じて伝えた。知るべきお互いの本心も、すべて知ることができたから。

だから、最期の瞬間は、このまま静かでよかった。

 

ゼノスは、満足したようにゆっくりと、その黄金の瞳を閉じた。

そして、掠れた低い声で、ぽつりと小さく呟いた。

 

「お前に、会えてよかった」

 

ルカの胸の奥が、カッと熱くなる。

あの冷酷無比だった帝国の皇太子が、そんな、人間らしい愛に満ちた言葉を口にする日が来るなんて、出会ったあの日には想像すらしていなかった。

ルカは涙を流しながら、今度は心からの、満面の微笑みを浮かべた。

 

「俺もだ」

 

短い言葉。けれど、それだけで、二人の間には十分すぎるほどだった。

 

ズズズズ、と地響きのような凄まじい轟音が響き渡り、頭上の巨大な亀裂が一気に広がっていく。

城の終わり。帝国の終わり。

そして、二人が紡いできた、残酷で美しい物語の終わり。

 

ルカはもう一度、ゼノスの身体へとしがみつくようにきつく抱き付いた。

激しい炎に巻かれても、決して離れないように。置いていかれないように。どこまでも、共に逝くために。

ゼノスもまた、残された最後の力を振り絞るようにして、ルカの身体を強く、しっかりと抱き締めた。

 

紅蓮の炎が、二人を完全に包み込む。

視界のすべてが、圧倒的な赤に染まる。

 

――その、瞬間のことだった。

 

ルカは激しい熱苦しさの中で、不思議な、どこまでも清らかな光を見た気がした。

遥か遠くの、懐かしい記憶の場所。

美しい夕暮れに染まる丘。そこに立つ、一本の大きな木。

その木の下に、一人の美しい女性が佇んでいた。

 

銀色の柔らかな光を纏いながら、彼女はこちらを優しく見つめている。

「……母さん」

それは、紛れもないフレイアだった。

母は何も言わなかった。ただ、あの頃と変わらない、すべてを許すような優しい微笑みを浮かべている。

まるで、――『よく頑張ったね、ルカ』と、その愛しい我が子を労うように。

 

ルカは光の中で、母へと微笑み返した。

(うん……もう、大丈夫だよ、母さん)

俺はもう、孤独ではない。自分のこの身体を、呪う必要なんてどこにもなかったんだ。誰かに愛されてもよかったし、誰かを心の底から愛しても、よかったんだ。

その大切な真実を知ることができたから。

 

ルカの青紫色の瞳が、ゆっくりと閉じられていく。

自分を包み込むゼノスの腕の、確かなぬくもりを全身で感じながら。

 

その時。

崩れ落ちていく天井の向こうから、燃え盛る炎の赤とは明らかに違う、眩いばかりの光が室内に差し込んできた。

それは恐ろしい火の光ではなく、ひどく優しく、温かく、どこか魂の深奥に語りかけてくるような、懐かしい輝きだった。

 

ルカは、微かに薄目を開けた。

ぼやけていく視界の中で、確かに見えたのだ。

自分の胸元の奥底から、淡く美しい光の粒子が、ぽろぽろと零れ落ちていくのを。

 

それはまるで、夜空を舞う蛍の光のように。

小さな、無数の輝く星となって、崩壊する城の天井へと向かって、ふわふわと空へ昇っていく。

一つ、また一つと、空間を満たしていく黄金色の優しい光。

それはルカが生まれたあの日、母・フレイアを優しく包み込んだという、あの祝福の光に、よく似ていた。

 

ルカは、微かに微笑んだ。

還るのだ。過酷で、傷だらけだった長い長い地上での旅をすべて終えて。

ようやく、自分が本当に、あるべき場所へと。

 

その幻想的な光景を、ゼノスもまた、その瞳に映していた。

「そうか……」

静かな、掠れた声だった。

「お前は、やはり――光の子だったのだな」

 

ルカは微笑む。涙に濡れた顔のまま、最高の美しさで。

 

「……そうかもしれない」

 

黄金の光は、静かに、優雅に舞い上がる。

激しく燃え盛る炎の城を抜け、渦巻く黒煙を遥か眼下に置き去りにして、赤く染まった夜空の向こうへ。またたく無数の星々の中へと、融けていく。

 

そして。

最後の一粒の光が、夜空へ消えるその瞬間。

 

どこからか、耳元で、懐かしく優しい声が聞こえた気がした。

 

『――おかえりなさい、ルカ』

 

それが、あの丘で待つ母の声だったのか。

世界を見守る光の神の慈悲だったのか。

あるいは、死の間際に見せた、一瞬の儚い夢だったのかは、もうルカには分からない。

 

けれど、その声は、とても温かかった。

 

だから、ルカは心から安心したように、ゆっくりと目を閉じる。

自分を最期まで離さなかったゼノスの腕の中で、その美しい顔に、穏やかな、満ち足りた微笑みを残したままで。

 

光の子は、静かに、静かに天へと還っていった。

 

 

 

 

 

 

 

エピローグ 光の残したもの

 

春だった。

海から、生命の息吹を乗せた暖かな風が柔らかに吹き込んでいる。

 

世界は少しずつ、けれど確実に変わり始めていた。

あまりにも長く続いた、あの悍ましい帝国との戦争も完全に終わりを告げた。大地にも人々の心にも、未だ癒えぬ深い傷跡は生々しく残っている。けれど、それでも人々は流した血を無駄にせぬよう、しっかりと前を向いて歩み出していた。

 

その日。

海都を見下ろす小高い丘の上に、二人の人影があった。

ミリアとブランだった。

二人の両腕には、優しく瑞々しい香りを放つ白い花束が大事そうに抱えられている。

 

丘の上には、一本の大きな木が泰然と立っていた。

暖かな春風に揺れる青々とした葉、そこから零れ落ちる柔らかな木漏れ日。世界の喧騒から切り離されたような、ひどく静かで、穏やかな場所だった。

 

その木の根元に、小さな、けれど丁寧に磨かれた石碑がある。

ミリアはその前へそっとしゃがみ込んだ。抱えていた白い花束を、優しく手向ける。

石碑の表面には名前が刻まれている。

 

――ルカ・エレミヤ

 

その文字をじっと見つめながら、ミリアは愛おしそうに目を細めた。

 

「……あなた、本当に馬鹿だったわね」

 

ふっと笑いながら、いつものように呆れた調子で言う。

けれど、その声はほんの僅かに、堪えきれない愛しさと寂しさで震えていた。

「私たちを置いて、一人で勝手にあんなところへ行っちゃうなんてさ……」

 

風が優しく吹き抜ける。手向けられた花びらが、寂しさを紛らわせるようにひらひらと舞い上がった。

 

ブランは何も言わず、黙って石碑の前へと歩み出た。その身の丈ほどもある大きな手を、ゆっくりと伸ばす。

そして、ぽん、と大きな音を立てて石碑の頭を優しく叩いた。

昔、訓練で失敗しては落ち込んでいたルカの頭を、励ますように、ぶっきらぼうに叩いていたあの時と、まったく同じ強さで。

 

「……元気に、やってるか」

 

短い言葉。ブランが口にしたのは、たったそれだけだった。

けれど、その無骨な一言には、彼が不器用ながらに抱き続けてきた、弟へのたくさんの温かい想いがこれでもかと込められていた。

 

二人はそれから、しばらくの間その場に佇んでいた。

言葉はなくとも、心で会話をするような、優しく静かな時間が流れていく。

 

やがて、ミリアがゆっくりと空を見上げた。

雲一つない、どこまでも突き抜けるような、澄み切った青空だった。白い綿雲が、のんびりと遠くへ流れていく。

 

「……ねえ、知ってる?」

 

不意に、ミリアが微笑みながら口を開いた。

「あなたが残したあの術式、今でも軍医学校でずっと教えられてるのよ」

 

ブランが、意外そうにその太い眉を僅かに上げる。

ミリアは、まるで自分のことのように少し誇らしげに、胸を張って笑ってみせた。

 

「『野戦治療の陣』。あの画期的な術式、今じゃ前線に立つすべての軍医の必修課程になってるんだから」

 

風がまた強く吹き抜け、丘の上の木々がザワザワと賑やかに揺れる。

 

「『鼓舞激励の策』もそう。お馴染みの『フィジク』の応用理論だってそうよ。ルカの研究は全部残った」

 

ミリアは少しだけ目元を涙ぐませながら、それでも、ルカを安心させるようにとびきりの笑顔を浮かべた。

 

「だからさ、ちゃんと残ってるのよ。今も…あなたの光は」

 

ブランも、愛おしそうに石碑を見つめながら静かに頷いた。

 

ルカ・エレミヤは還った。

だが、彼は決してこの世界から消え去ったわけではない。

彼によって救われた数多の命の中に。彼の意志と技術を受け継いだ若き軍医たちの心の中に。そして――誰よりも彼を愛した、仲間たちの記憶の中に。

ルカの光は、今も確かに、脈々と生き続けているのだ。

 

その時、一際強い風が丘を駆け抜けた。

その突風に煽られ、大樹の緑の葉がブワッと一斉に青空へ向かって舞い上がる。

眩しい陽光の中へ、まるで光の粒子のようにキラキラと輝きながら溶けていく。

 

ミリアは眩しそうに、けれど引き寄せられるように目を細めた。

 

ほんの一瞬。本当に、瞬きをするほどの僅かな刹那。

見えた気がしたのだ。

 

木漏れ日の向こう。眩い銀色の光の中にぽつんと立つ、小柄で、誰よりも見慣れた青年の姿が。

懐かしい、少し癖のある青い髪。すべてを包み込むような優しい青紫色の瞳。

少し照れたように、はにかんだ、笑顔が。

 

気のせいかもしれない。ただの風の悪戯が見せた、幻影だったのかもしれない。

それでも、ミリアは心からの愛を込めて、優しく笑い返した。

 

「……また来るわね、ルカ」

 

そう語りかけると、彼女は名残惜しさを振り払うようにして、すっと立ち上がった。

傍らのブランも、静かに頷く。

二人は並んで、ゆっくりと丘を下りていった。後ろを振り返ることはない。

いつまでも悲しみだけを背負って立ち止まって生きるような真似は、きっと、誰よりも優しいルカが一番望まないことだと分かっているから。

 

夕暮れが、静かに近付いていた。

誰もいなくなった大樹の下には、色鮮やかな白い花束が残されている。

柔らかな春の風が、そっと石碑を撫でるように吹き抜けていく。

 

そして。

世界が穏やかな黄昏色に染まりゆく中、あの広大な丘の上で、一本の大樹だけが静かに、優しく揺れ続けていた。

 

それはまるで。

短く長い旅を終えた、光の子へ。

おやすみ、と囁くように。

 

 

【終】

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。