地図を頼りに北西へ歩き続けて、どれくらい経っただろう。
塔の中では時間の感覚が完全に麻痺している。
「少し休もう……」
俺はアリシアに声をかけて、比較的平らな場所に腰を下ろした。骨の地面は座り心地が最悪だが、贅沢は言っていられない。
彼女も隣に座らせる。術式の操作にもだいぶ慣れた。指輪のおかげで魔力の通りが格段に良くなっていて、彼女の動きはますます自然になっている。
膝を折って座る仕草なんて、生きている人間とほとんど区別がつかない。
「なあ、アリシア。お前さ、今どんな感じなんだ」
俺は彼女のフードを外して、金髪を露わにした。
「俺の魔力で動いてるだけのお前は、やっぱり本物のお前じゃないんだろうな。魂はないんだろう。でも、動いてる。歩いてる。座ってる。俺の隣にいる。それって、本物とどう違うんだろうな」
彼女の冷たい頬に手を当てる。ひんやりとした肌が手のひらに吸い付くみたいだった。
「俺はさ、最近思うんだ。魂があるかないかなんて、大した問題じゃないのかもしれない。だって、生きてる人間の魂だって、誰も見たことないだろ。証明できないものにすがるより、ちゃんと触れて、感じられるものの方が大事だ」
俺は彼女の唇にそっとキスをした。冷たい。でも柔らかい。いつもの感触。
「お前はここにいる。それで十分だ」
立ち上がって、もう一度周囲を見渡す。骨の平原は相変わらず広大で、どこまでも続いている。
でも遠くに、何か違うものが見えた。黒い影。骨じゃない。もっと巨大で、動かない。
「あれは……」
目を凝らす。距離はおそらく数百メートル。巨大な建造物か、それとも。俺はアリシアを立たせて、そちらに向かって歩き出した。
近づくにつれて、その正体がわかってきた。
巨人だった。
倒れている。全長は優に十メートルを超える。人型だが普通の人間の十倍はある。肌は灰色で、ところどころ腐り落ちている。
巨大な肋骨が露出していて、その奥には干からびた臓器らしきものが見えた。顔は潰れていて、片目は潰れ、もう片方の目は虚ろに天井の灰色を見つめている。
「こいつが手記に書いてあった骨の巨人か?最初に襲われたスケルトンとは違うようだが……いや、骨じゃないな。肉が残ってる。もっとすごい死体だ」
俺は巨人の周りを歩いた。一歩一歩が異様に大きい。指一本が俺の腕より太い。
手には、巨大な棍棒が握られたままだった。棍棒にも苔か黴か、何か黒いものがこびりついている。
「何と戦って死んだんだ、お前は」
巨人の身体には無数の傷があった。切り傷、刺し傷、焼け焦げた痕。どれも古い。
何年も、何十年も、あるいは何百年も前に負った傷だ。それでも完全に腐り落ちていないのは、塔の特殊な環境のせいだろうか……?
「すげえ魔力だ」
巨人の死体からは、かすかに魔力が漏れ出していた。
生きていた頃は、相当な力を持っていたに違いない。今はもう死んでいるが、この死体自体が一種の魔力炉みたいになっている。
「なあ、アリシア。これ、動かせると思うか」
俺は考えた。この巨人を自分の死霊術で操ることができたら、どれだけ心強いだろう。
でも、今の俺の魔力では絶対に無理だ。アリシア一人を動かすだけで精一杯なのに、こんな巨大な死体を制御するなんて夢のまた夢だ。
「でも、指一本くらいなら」
俺は巨人の右手に近づいた。人差し指だけが比較的損傷が少ない。長さは一メートルほど。太さは俺の腿くらい。これを動かすだけなら、もしかしたら。
「試してみるか」
俺は右手をかざして、術式を組んだ。アリシアにかけているのと同じ、基本的な死体操作の術式。ただし対象を巨人の指一本に限定して、魔力を集中させる。
「動け」
魔力を込める。指先がぴくりと震えた。
「動け……!」
もっと魔力を込める。指輪が反応して、魔力の流れが加速する。
巨人の指が、ゆっくりと持ち上がった。骨がぎしぎしと軋む音がして、乾いた皮膚がひび割れる。でも確かに動いている。
「動いたぞ、アリシア。見てるか。俺は今、巨人の指を動かしてるんだ」
ばったり。
指が力尽きたように地面に落ちた。魔力が続かない。数十秒が限界だった。
「はあ、はあ、きつい。でもできた。練習すれば、もっと長く動かせるようになるかもな」
俺は息を整えながら、巨人の顔を見上げた。潰れた顔が、少しだけ笑っているように見えた。
……気のせいだ。気のせいだけど、この巨人も誰かに操られて戦って、死んでいったのかもしれない。
その誰かはもういない。でも今、俺がここにいる。
「お前の主はもう死んだんだろ。じゃあ、俺が新しい主になってやるよ。まだ指一本だけど、いつか全身を動かしてやるからな」
巨人は何も答えない。でも俺は約束した。この巨人にも、アリシアにも、自分自身にも。
♢ ♢ ♢
巨人の死体のそばには、小さな祠のようなものがあった。骨を積み上げて作られた祭壇で、その上に何か置いてある。
「また遺物か」
近づいて手に取る。小さな瓶だった。中にはどろりとした黒い液体が入っている。
蓋を開けると、強烈な魔力の匂いがした。何かのエキスだ。死体から抽出した魔力の精髄か、あるいはもっと邪悪な何かか。
「まあ、役に立つかもしれない。もらっておく」
瓶を荷物にしまう。それから祭壇の周りを探ると、骨の下から小さな金属片が出てきた。銀色の板に、古代文字が刻まれている。指輪の内側に刻まれていたのと同じ種類の文字だ。
読めないが、何かの呪文か記録かもしれない。
「後で解読しよう。学院で古代語の講義、ちゃんと聞いとけばよかったな」
俺は立ち上がり、アリシアの方を向いた。
「よし、先に進むか。地図によれば、出口まではまだ距離があるみたいだし」
そのとき、遠くで轟音が響いた。
地面が揺れる。骨の地面ががたがたと震えて、積み重なった骨の山がいくつか崩れ落ちた。巨人の死体も微動したが、持ちこたえる。
「なんだ、今の」
俺は身を低くして、音のした方を見た。北西の方角。出口があるはずの方角だ。
灰色の空の下で、何かが動いている。巨大な何か。骨の巨人よりさらに大きい。いや、そもそも生き物なのか、あれは。
形は不定形だった。黒いもやのようなものが、骨の平原の上を這いずっている。
「oooooo……」
もやの中には無数の顔がある。人の顔、獣の顔、叫んでいる顔、泣いている顔、笑っている顔。すべてがぐちゃぐちゃに混ざって、巨大な塊になって移動している。
「──なんだあれは」
声が震えた。あれはまずい。直感的にわかった。俺の魔力じゃ太刀打ちできない。死霊術の問題じゃない。あれは死そのものが形を持ったような、そんな存在だ。
もやの塊は、ゆっくりと南の方角へ移動していった。幸い、こちらには向かってこない。俺は息を潜めて、それが完全に見えなくなるまで待った。
「はぁっ……はぁっ……」
ようやく息を吐く。
「この平原にはああいうのもいるのか。夜はないけど、でも時間帯でああいうのが活発になったりするのかもしれない。わからないけど、気をつけるに越したことはないな」
俺は決めた。あのもやが去った方角とは逆の方へ、つまり少し遠回りになるが安全なルートを取ろう。
地図を確認する。やはり北西だ。でも直線で向かうのは危険すぎる。少し西に逸れてから北西に向かうのがいい。
「行こう、アリシア。慎重にな」
俺たちは歩き出した。
三十分ほど進んだ頃、また新たなものが目に入った。
今度は、骨の平原にぽっかりと空いた穴だ。直径は五メートルほど。周囲の骨は黒く焦げていて、何か爆発か炎のようなもので抉られた痕跡がある。
穴の底は暗くて見えない。でもそこから、かすかに風が吹き上げてきていた。
「下層への抜け道か、それともただの罠か」
俺は穴の縁に立って、底を覗き込んだ。真っ暗だ。でも、かすかに何かが見える。光?いや、違う。骨だ。もっと深い層の骨が、ぼんやりと白く浮かび上がっている。この穴は、骨の平原の表層を突き破って、もっと深い場所まで続いている。
面白いが、今はまだ潜る時じゃない。まずはこの平原の全体像を掴んでからだ。
「覚えておこう。戻ってくるかもしれない」
俺は地図に穴の位置を書き込んだ。
さらに一時間ほど歩く。途中で二回、遠くにスケルトンの群れを見かけたが、どちらもやり過ごせた。陰キャの処世術はこういう時に役立つ。
気配を消して、息を潜めて、存在を薄くする。俺はそれが得意だ。
そしてついに、目的地らしきものが見えてきた。
それは門だった。
平原の真ん中にぽつんと立っている、巨大な門。二本の柱と、その上に渡された梁。そして中央には、黒く輝く幕のようなものがかかっている。
空間が歪んでいるのがわかる。あの向こうはもう、骨の平原ではない。
「出口だ」
俺は声をあげた。
「地図に書いてあったのは、これで間違いない」
でも、門の前には何かがいた。
スケルトンではない。もっと大きな……騎士の姿をした死体だ。
全身を黒い鎧で覆っていて、手には巨大な大剣を持っている。兜の奥には赤い光が二つ灯っていて、それがゆっくりと俺たちの方を向いた。
「門番かよ」
俺は溜息をついた。
「そう簡単には通してくれないよな、こういうのは」
黒騎士は無言で大剣を構えた。刃渡りは俺の身長より長い。あれで斬られたら、アリシアの身体だって無事では済まない。何より俺が死ぬ。
「今日のところは引き返す。でも覚えておけよ、いずれお前を倒して、その門を通るからな」
俺はアリシアの手を取って、ゆっくりと後退した。黒騎士は追ってこなかった。門を守ることが役割で、侵入者を追うことはしないようだ。助かった。
「撤退だ。いい収穫はあった。巨人の指も動かせたし、遺物も手に入れた。門の場所もわかった。それに」
俺はちらりとアリシアを見た。
「お前と一緒にいられれば、それでいい。急ぐ理由なんてないんだ」
俺たちは門から十分に離れた場所に、今日の野営地を決めた。大きな骨のアーチの下だ。周囲は見通しがよく、何かが近づいてきてもすぐわかる。
アリシアを座らせて、自分の隣に寝かせる。
「なあ、アリシア。あの黒騎士、強そうだったな。今の俺じゃ絶対勝てない。でもさ、お前が生きてたら、一緒に戦えたのにな。お前が前に立って、俺が後ろから魔法で援護して。そしたら……勝てるかもしれないよな」
彼女の髪を撫でる。金髪はまだ絹みたいに柔らかい。腐敗防止の魔法と、この塔の環境が合わさって、彼女の身体は驚くほど良好に保たれている。
「でも、お前が死んでるから今の俺がある。お前が生きてたら、俺はお前を抱けなかったし、お前に触れることもできなかった。そう考えると、死んでてよかったのかもしれない。なんて言ったら怒るよな、お前。でも本音だ」
俺は彼女の横に寝転がった。冷たい肩に自分の腕を回して、目を閉じる。
「明日も探索する。あの黒騎士を倒す方法を探す。この平原にはまだ見てないものがたくさんある。もっと強くなれる遺物があるかもしれないし、術式のヒントがあるかもしれない。俺は必ず強くなる。お前と一緒に、もっと先に進むために」
アリシアは何も言わない。でも彼女の冷たさが、俺の体温をゆっくりと奪っていく。それが気持ちよかった。まるで彼女が、生きているみたいに俺を受け入れている気がした。
「おやすみ、アリシア。また明日、夢で会えるといいな。生前のお前の夢を」
遠くで骨の軋む音がする。平原は今日も静かに、でも確かに生きていた。
死んでいるものだけで構成された世界が、死んでいるからこそ蠢き続けている。俺はその一部になった気がした。
いや、とっくになっているのかもしれない。
目を閉じる。
彼女の冷たい手を握ったまま、俺は眠りについた。