黒騎士のいる門まで、再び足を運んだ。
あれから二日かけて平原を迂回し、慎重に近づいたのだ。
門から三百メートルほど離れた骨の丘の影に身を潜めて、俺は鑑定魔道具を取り出した。レンズ越しに、あの黒い甲冑を見据える。
「頼むぞ、ちゃんと表示してくれ」
レンズの表面に、光の文字が浮かび上がる。俺は息を呑んで、それを読んだ。
『黒騎士デュラハルト / 上級アンデッド(デスナイト) / LV.54 / 魔力値:1270 / 主:腐敗女王ゼーレン』
『ステータス:HP 4200 / MP 980 / STR 410 / VIT 530 / INT 85 / AGI 180 / DEX 210』
『スキル:大剣術(極)、暗黒斬撃(上級)、不死再生(上級)、威圧(中級)、門番の誓約(固有)』
『弱点:主からの魔力供給断絶、聖属性魔法 / 状態:門番(永続的警戒) / 装備:呪われた黒騎士の大剣、黒曜石の全身鎧』
『備考:生前は名のある騎士だったが、死後腐敗女王に拾われ配下となった。門番の誓約により、この門を通過しようとする者を無差別に排除する。戦闘能力は生前を遥かに凌駕する。』
「は?」
声が裏返った。
レベル五十四。四千二百の体力。筋力四百十。なんだこの化物は。生前のアリシアだってレベル三十一だったんだぞ。
おまけに大剣術が極だと。極だぞ。達人ってレベルじゃない、人間の領域を超えてる。いや、人間じゃないけど……。
「無理だ」
俺はレンズを下ろして、改めて黒騎士を肉眼で見た。門の前に直立不動で立つ漆黒の巨体。
兜の奥で赤い光が揺らめいている。こいつを正面から倒すなんて、今の俺にできるわけがない。
「でも、いつかは倒さないと先に進めないんだよな」
黒騎士の主、「腐敗女王ゼーレン」。聞いたことのない名前だった。禁書にも出てこなかったはずだ。塔の主なのか、それとも別の階層に存在する何かなのか。
いずれにせよ、この黒騎士を従わせている時点で、とんでもない相手であることは間違いない。
「腐敗女王、か。趣味の悪い名前だな」
俺は眉をひそめた。でも今は深く考えても仕方ない。まずは目の前の黒騎士に勝つ方法を見つけることだ。
「撤退だ、アリシア。まだこいつには挑めない」
俺たちは音を立てないように注意しながら、門から離れた。黒騎士は微動だにしなかった。
こちらの気配を察知しているのかもしれないが、門から離れる分には追ってこない。門番としての役割に忠実なのだろう。
十分に距離を取ったところで、俺は立ち止まった。
「さて、どうするか」
黒騎士に勝つためには少なくとも三つ課題がある。
一つ目は攻撃力だ。俺の風刃はスケルトンには効いたが、あの黒騎士にはまず通らない。
装甲が厚すぎる。もっと強力な攻撃手段が必要だった。死霊術の中に防御を貫通するような術式はないだろうか。
二つ目は防御力だ。今の俺は素の人間と変わらない。あの大剣の一振りで即死する。
アリシアに盾になってもらうわけにはいかない。彼女だって今は生きている時よりずっと脆いのだ。
三つ目は再生を止める手段だ。レンズの情報によると、黒騎士には「不死再生」のスキルがある。弱点として「主からの魔力供給断絶」とあったが、どうやって断絶すればいいのかわからない。
「とにかくもっと強くならないと。この平原に、使えるものはまだあるはずだ」
俺は地図を広げた。黒い木はすでに見つけた。黒騎士の門もわかった。穴も見つけた。でも、まだ見ていない場所がたくさんある。
地図の端の方には、別の記号もいくつか書き込まれている。崩れた塔のマーク、何かの生き物らしき落書き、それから「泣き声」とだけ書かれたメモ。
「全部回ってみるか。何か一つくらい、役に立つものがあるだろ」
俺はまず、崩れた塔のマークがついた場所に向かうことにした。地図によれば、ここから北東に歩いて数時間の距離だ。
「行くぞ、アリシア。俺は諦めてないからな。むしろ、あの化物を見て逆に燃えてきた。お前を連れて、絶対にあの門を超えるんだ」
骨の平原を北東へ歩き出す。アリシアは黙って隣を歩いている。ステータスがわかってからというもの、彼女の一歩一歩が、今までよりも重みを持って感じられた。
この身体には確かに、生前の彼女の痕跡が刻まれている。魂はなくとも、器は本物だ。
「なあ、アリシア。お前の生前のステータス、すごかったな。筋力三百十二だぞ。俺の魔力値と比べても桁が違う。そんなすごい女が、なんで俺みたいなのに優しくしてくれたんだろうな」
彼女の手を握る。冷たい指が、俺の手の中でかすかに動いた。術式のせいだ。それ以上の意味はない。でも俺は、彼女が握り返してくれたんだと思うことにした。
「俺もお前を守るよ。もう死んでるけど、お前の身体がこれ以上傷つかないように守る。魂はなくても、身体だけは絶対に失わない。俺のものだし、俺が守る」
歩き続ける。灰色の空の下を、二人の足音だけがぺたぺたと響いていた。
「ところで、腐敗女王ゼーレンって誰なんだろうな。黒騎士を配下に置けるくらいだから、かなり高位の存在だとは思うけど。俺たちが目指すべき相手なのか、それとも避けるべき相手なのか。今のところは後者だろうな」
でも、いずれは関わることになるのかもしれない。この塔を攻略するということは、そういう存在と対峙することを意味しているはずだ。
「まあ、その時はその時だ。まずは目の前の課題からだな」
北東に歩き続けること二時間ほど。
前方に、崩れた塔が見えてきた。といっても屍の塔のような大規模なものではなく、せいぜい五メートルほどの小さな塔だ。
半分以上が崩れ落ちていて、基礎部分と一階部分の壁だけが残っている。周囲の骨は不自然に煤けていて、かつてここで火が使われた痕跡があった。
「ここが地図にあった崩れた塔か」
俺は慎重に近づいた。塔の内部には、誰かが野営した痕跡があった。焚き火の跡、破れた毛布、空の瓶がいくつか。それから、壁に文字が刻まれている。
『我は屍の塔の探索者なり。ここに記す。一階層の真の名は「万骨平原」。無限に続く死の大地。出口は黒騎士の門のみ。しかし黒騎士は死霊王の忠実なる僕。倒す術はただ一つ。同じ死霊術で対抗せよ。すなわち、自らの配下を鍛えよ。』
死霊王。また新しい名前が出てきた。腐敗女王ゼーレンとは別人なのか、同一なのか。わからないが、少なくとも黒騎士を倒すためのヒントは「自らの配下を鍛えよ」ということだ。
「配下か。俺の配下はアリシアだけだぞ」
俺は彼女を見た。
「でも確かに、お前がもっと強く動ければ、違うかもしれない。今のお前のステータスは生前よりずっと低い。でもこれって、俺の術式が未熟だからだよな。術式を強化すれば、お前のステータスも上がるのか?」
試してみる価値はある。いや、それだけじゃ足りないかもしれない。
もっと多くの配下を揃えるという手もある。この平原には死体が無数にある。使える死体を集めて、小さな軍団を作れば。
「よし、方針は決まった。アリシアを強化するのと、新しい配下を探すのと両方だ」
俺は壁の文字を指でなぞりながら、笑った。
「やれるだけのことはやってやる。黒騎士だけじゃない、腐敗女王だか死霊王だか知らないけど、塔の主にも喧嘩売ってやる。俺はアリシアに相応しい男になるって決めたんだ。誰にも邪魔はさせない」
アリシアは静かに俺の隣に立っている。俺は彼女の肩を抱いて、崩れた塔を後にした。
「さて、次のポイントに行くか。地図にはまだ『泣き声』ってのもあるしな」
俺たちは再び骨の平原を歩き出す。地平線の彼方に、黒い門と黒騎士の影が、かすかに見えた気がした。
今はまだ遠くから見ているだけだ。でもいつか、あそこに立って、あいつを倒して、俺は次の階層へ進むんだ。
「待ってろよ、黒騎士。俺のアリシアを、誰よりも強くしてやるからな」