地図に記された「泣き声」の場所へ向かう。
崩れた塔から北へ数時間。骨の平原は相変わらず単調で、でも足元の骨の種類が少しずつ変わってきている気がした。
最初の頃は人骨ばかりだったが、この辺りは小動物の骨や、もっと小さな、鳥か何かの骨が混じっている。
「この平原にも、そういう生き物がいたのか。今もいるのかもしれないな」
アリシアは黙って歩いている。もう彼女の無言には慣れっこだ。むしろ、返事がないからこそ、俺は自分の考えを全部しゃべれる。聞き役としては最高だ。
やがて地形が変わった。
骨の平原に、すり鉢状の大きな窪地が現れたのだ。直径は百メートルほど。斜面は急で、底の中心に向かって骨がなだれ込んでいる。
そして窪地の中央には、ぽっかりと暗い縦穴が口を開けていた。
そして、聞こえた。
泣き声だ。
女の声だった。いや、一人じゃない。何人もの女が、めちゃくちゃに重なって泣いている。すすり泣く声、咽び泣く声、静かに涙を流す気配。
それらが混ざり合って、穴の底から絶え間なく響いてくる。
「これが『泣き声』か」
背筋がぞっとした。スケルトンや骨の巨人とは違う種類の薄気味悪さがある。もっと生々しくて、痛々しい。生きている人間の感情をそのまま切り取って閉じ込めたみたいな……そういう悍ましさだった。
「行くぞ、アリシア。何かあるなら確かめないと」
俺はゆっくりと斜面を下り、縦穴の縁に立った。直径は五メートルほど。壁は骨と土が混ざったような層でできていて、ところどころに手掛かりになりそうな出っ張りがある。
底は暗くて見えないが泣き声は確かにそこから聞こえている。それから、甘ったるい腐臭。死体の匂いだ。
「降りるぞ。お前はここで待っててくれ」
アリシアを穴のそばに座らせて、俺は一人で降りることにした。何がいるかわからない以上、彼女を危険に晒すわけにはいかない。彼女の身体は俺の宝物だ。
壁に手をかけて、慎重に降りていく。骨の破片がぱらぱらと崩れて、暗闇の底に落ちていった。
五メートル、六メートル。思ったより深い。十メートルほど降りたところで、足が底に着いた。
周囲は薄暗いが、上の方から差し込む仄かな灰色の光で、なんとか視界は効く。
そして俺は、その光景に息を呑んだ。
穴の底は、思ったよりずっと広い空間になっていた。自然の洞窟というより、誰かが意図的に掘り広げたような半球状の部屋だ。壁には無数の龕が掘られていて、その一つ一つに女の死体が安置されている。
防腐処理でもされているのか、どの死体も腐敗が遅い。中には数ヶ月は経っていると思われるものもあったが、まだ生前の面影を十分に残している。
若い女ばかりだ。二十代から三十代くらいか。身に着けているものは盗賊風だったり、冒険者風だったり。どれもこの塔に挑んだ者たちだろう。
そして、部屋の中央には石の棺が一つ。
棺の上に彼女は座っていた。
長い黒髪を床まで垂らして、白すぎる肌はまるで陶器の人形みたいだった。薄いベールのような布を一枚まとっているだけで、身体の線がはっきり透けて見える。
細い肩、豊満な乳房、くびれた腰。顔立ちは恐ろしいほど整っていて、美人というより、もはや人間離れした美貌だった。
でも、目が空洞だった。黒い眼窩からとめどなく涙が溢れて、白い頬を伝って、棺の上にぽたぽた落ちている。
彼女が泣くたびに、部屋中に悲しげな声が反響する。そして、壁の龕に安置された女たちも、それに呼応するようにかすかにうめき声をあげるのだった。
「なんだ、お前は」
俺は震える手で鑑定魔道具を取り出し、彼女に向けた。
『嘆き女ヴェーネ / 中級アンデッド(バンシー) / LV.23 / 魔力値:680 / 主:黒死のヴァルター』
『ステータス:HP 980 / MP 740 / STR 35 / VIT 90 / INT 310 / AGI 220 / DEX 180』
『スキル:哀哭(上級)、精神汚染(中級)、死体収集(固有)、死体防腐(中級)、誘惑(初級)』
『弱点:物理攻撃全般、火属性魔法、主からの魔力供給断絶 / 状態:泣き続けている(永続)/ 備考:元は塔の探索者の一人だったが、一階層の門を突破できず絶望し死亡。黒死のヴァルターが蘇らせて以来、この穴で女性の死体を集めては弔い、泣き続けている。戦闘能力は高くないが、哀哭と精神汚染のコンビネーションは危険。』
「なるほどな」
俺はレンズをしまって、嘆き女を睨んだ。レベルは二十三。黒騎士よりは遥かに低い。ステータスも、筋力は貧弱で体力も大したことない。でも魔力値は高くて、スキルが厄介そうだ。精神汚染か。食らう前に倒したい。
「お前の泣き声、うるさいんだよ」
俺は右手を掲げて風刃を放った。空気の刃が嘆き女の身体を切り裂く。
ぎゃあ、と悲鳴が上がった。彼女の肩口が裂けて、黒い血が飛び散る。でも彼女は棺の上から動かなかった。代わりに、大きく口を開けて、叫んだ。
瞬間、頭の中に直接響くような声が俺を貫いた。それは叫びでもあり、泣き声でもあり、何人もの女の怨嗟が混ざったようなどろどろした感情の塊だった。
「う、あああ!」
俺は頭を押さえて膝をついた。視界が歪む。頭の中で誰かが泣いている。俺を責めている。『お前のせいで死んだ』『アリシアはお前が殺した』『お前が無能だから』『お前が弱いから』——全部、俺が自分で思っていることだった。
「黙れ……お前に何がわかる……」
俺は歯を食いしばって立ち上がる。精神汚染か。俺の心の弱い部分を増幅して叩いてくる。
陰キャの俺にはきつい攻撃だ。でも、負けるわけにはいかない。こんなところで立ち止まってたら、アリシアに合わせる顔がない。
「それ以上、俺の頭の中で暴れるな!」
俺は風刃を連続で放った。三発、四発、五発。嘆き女の身体に次々と風の刃が突き刺さる。
彼女は棺の上からついに落ちて、床に倒れた。それでもまだ泣いている。黒い涙が床に広がって、じわじわと染みを作る。
「とどめだ」
俺は最後の一撃を放とうとした。
でも、そのときだった。
視界の端で何かが動いた。壁の龕から女の死体が一体、するりと抜け出した。死体はふらふらと歩き出して、俺と嘆き女の間に立ち塞がる。
「動くな、この死体が!」
死体は両腕を広げて庇うような姿勢を取った。操られているのか。嘆き女のスキルの一つか。俺は舌打ちして死体ごと風刃で切り裂こうとした。
でも、できなかった。
死体の顔が、はっきり見えたからだ。若い女。茶色い髪。死んで何日か経っているが、まだ綺麗な顔立ちだった。
生前の彼女は、きっと誰かに優しくされたかったんだろう。誰かに守ってほしかったんだろう。誰かの役に立ちたかったんだろう。
「お前も、俺と同じか」
俺の手が止まる。
でも、戦闘中だ。情けをかけている余裕はない。
「悪いな!」
俺は風刃を放った。死体ごと嘆き女を切り裂くつもりだった。でも風刃が死体に当たる直前、その死体は俺に向かってにっこりと笑った気がした。
気のせいだ。気のせいだけど、その笑顔が俺の胸に刺さった。
死体は切り裂かれて、嘆き女と一緒に床に崩れ落ちた。嘆き女の方はまだ動いていたが、もはや戦う力は残っていないようだった。衰弱して、ただ泣くことしかできないみたいだった。
「はあ、はあ」
俺は荒い息を整えて、嘆き女を見下ろした。
「お前、誰かの配下なんだろ。でも主に忠誠を誓ってるようには見えなかったぞ。ただ泣いてるだけじゃないか。どういうつもりなんだ」
嘆き女は答えなかった。答えられる状態ではなかった。でも、代わりに棺の方からかすかな魔力の気配がした。俺は棺に近づいて、蓋を開けた。
中には銀色の指輪が一つ。それと、古い書物が一冊。
指輪を手に取ってレンズを当てる。
『魂縛の指輪 / 魔道具(レア) / 効果:死体一体に対して使用することで、その死体を完全な配下として魂縛する。通常の死体操作術式より遥かに強力な制御が可能。術者の魔力消費も軽減される。』
「魂縛の指輪!これは……!」
俺は思わず声をあげた。これがあれば新しい配下を作れる。今はアリシアだけだが、もう一体、魂縛の指輪で配下を増やせる。そうすれば黒騎士に挑むための戦力が上がる。
それに書物の方も気になる。手に取ってページをめくると、これは死霊術の手引書だった。『屍体強化の基礎』と表紙に書かれている。
「配下のステータスを強化する方法が書いてあるのか。これも必要だ。アリシアのステータスを少しでも生前に近づけるために」
俺は両方とも大事に荷物にしまった。
それから壁の龕に安置された死体たちを見渡した。二十体以上の女死体が静かに眠っている。どれも防腐処理がされていて、まだ使える状態だ。
「嘆き女、お前は死体を集めて弔ってただけか。……配下にできるかな?」
俺は嘆き女を死霊術で配下にしようとした。だが、出来なかった。
俺の力じゃ無理なのか、それとも別の主がいるから無理なのか……。
「お前は無理か……でも他の奴らは俺が有効活用させてもらうぞ」
俺はその中から一番新しい死体を選んだ。二十代半ばの女。
黒い短髪で細身の身体。冒険者風の革鎧を着ている。顔は眠っているように安らかで他の死体より腐敗が少ない。
「お前、名前は知らないけど、俺の配下になれ。魂縛の指輪の、最初の実験台だ」
俺は指輪を彼女の薬指に嵌めた。瞬間、指輪がぼんやりと赤く光って、彼女の身体に魔力が走る。
俺の魔力と彼女が繋がった感覚があった。アリシアの時より、ずっと強く繋がっている。
「立て」
彼女が目を開けた。といっても光のない死んだ目だ。でも、アリシアよりずっと素早く立ち上がる。指輪の効果か、動きは生前とほとんど変わらないくらい自然だった。
「すげえ。歩け」
彼女は俺の指示に従って、すたすたと歩く。アリシアより速い。迷いがない。完全に俺の支配下にあるという感じだ。
「いいな、これ。でも、魂縛の指輪は一つしかない。アリシアには使えない。いや、使う必要はないか。あいつは俺の術式だけで十分だ。指輪がなくても俺の一番は変わらない」
俺は新しい配下を連れて棺の周りを調べた。他に使えるものはないかと探したが、特に何もなかった。ただ、棺の裏側に文字が刻まれているのを見つけた。
『私はヴェーネ。かつて屍の塔を踏破せんと志した者なり。しかし黒騎士の門を越えられず、絶望の果てにこの穴に籠もった。腐った神々の争いは我に永遠の涙を与え、死体を集めて弔うことを使命とした。それは私の望みでもあった。この塔で死んだ者たちを、せめて安らかに眠らせたかった。でも私はもう泣き疲れた。後世の探索者よ。願わくば、私の使命を継いではくれまいか。この穴に眠る女たちを、ただの死体として消費するのではなく、せめて敬意をもって扱ってほしい。彼女たちはみな、ここに来るまでは戦い、願い、生きたのだから。』
「敬意ね」
俺は読み終えて嘆き女の亡骸を見下ろした。彼女はもう泣いていなかった。黒い涙も止まって静かに目を閉じている。
倒したのは俺だが、これでよかったのだろうか。彼女は彼女で、この塔の中で必死に役割を果たそうとしていただけだ。
「わかったよ、ヴェーネ。お前のことは、ここに埋めてやる。集めた死体はありがたく使わせてもらうけど、敬意は払う。お前のことも、ちゃんと覚えておく」
俺は彼女の亡骸を棺の中に横たえて、蓋を閉じた。それから、穴の底にあった石を積んで、簡単な墓碑を作る。
「お前の使命は終わった。ゆっくり休め」
それから俺は、新しい配下の死体に呼びかけた。
「お前は今日から『エルナ』だ。俺の二番目の配下として、アリシアを守るのが仕事だ。いいな」
エルナと名付けた女死体は無言でこくりと頷いた。指輪の効果で俺の命令をかなり細かく理解できるようだ。これは大きな戦力になる。
穴の壁をよじ登って、地上に戻る。エルナも軽々と登ってきた。アリシアが座ったまま待っていて、俺を見上げる。いや、顔は動かないけど。
「アリシア、ただいま。下でちょっと戦闘があったけど、無事だ。それから新しい仲間だ。エルナって言うんだ。お前の護衛役だ。よろしくな」
アリシアは何も言わない。でもエルナがアリシアの隣に自然と並んだ。俺は二人の死体を見比べて、笑った。
「二人も配下がいる。すごいだろ、俺。陰キャ魔術師だった頃の俺が見たらびっくりするぞ。でもまだ足りない。もっともっと増やして、強くして、黒騎士を倒すんだ」
俺はレンズを取り出して、エルナのステータスを確認した。
『エルナ(命名:クロード) / 剣士(元・冒険者) / LV.18(生前) / 現在LV.― / 主:クロード・ヴァレンタイン』
『生前ステータス:HP 820 / MP 140 / STR 158 / VIT 130 / INT 72 / AGI 210 / DEX 244』
『現在ステータス:HP 340 / MP 依存(主の魔力に依存) / STR 72(死体操作・魂縛による強化) / VIT ―(腐敗防止魔法により維持) / INT ―(魂喪失) / AGI 98(魂縛による高制御) / DEX 112(魂縛による高制御)』
『スキル(生前):双剣術(中級)、回避(中級)、罠感知(初級)』
『状態:死亡 / 魂縛による完全疑似動作(術者:クロード)/ 腐敗防止魔法(術者:クロード)/ 魂不在』
「おお、STR七十二もある。やっぱり魂縛の指輪の効果はすごいな。生前の半分近くまでステータスが回復してる。敏捷性と器用さも高い。元の職業は剣士か。双剣術も使えるなら、戦闘要員として期待できる」
俺は満足してレンズをしまった。
「よし、今日はこの穴の近くで野宿しよう。明日から、エルナの戦闘訓練と、アリシアの強化を始める。『屍体強化の基礎』も読まないといけないしな。やることいっぱいだ」
俺たちは三人で、窪地の斜面に移動した。焚き火はできないが、休むだけなら問題ない。エルナを周囲の見張りに立たせて、俺はアリシアを隣に座らせた。
「なあ、アリシア。今日、ヴェーネって女と戦ったんだ。あいつはずっと泣いてた。この塔に来て、先に進めなくて、絶望して、それでも死んだ者たちを弔ってた。敵だったけど、ちょっとだけ気持ちがわかった。俺もお前がいなかったら、同じように絶望してたかもしれない」
アリシアは静かに隣に座っている。
「でも俺は違う。お前がいるから。お前がいる限り、俺は絶望しない。どれだけ時間がかかっても、必ず黒騎士を倒す。必ず先に進む。お前をもっともっと強く動かせるようになるんだ」
俺は彼女の冷たい手を握って、目を閉じた。
「おやすみ、アリシア。おやすみ、エルナ。明日も頑張ろう」
遠くで、骨の軋む音が聞こえる。泣き声はもうしなかった。穴の底でヴェーネはようやく安らかに眠っているのだろう。俺は彼女の弔いを胸に刻んで、眠りについた。