骨の平原をさらに西へ探索していると、空気が変わった。
今まで感じたことのない湿り気が肌にまとわりつく。万骨平原の空気はどこも乾いてひび割れているはずなのに、ここの空気だけは違う。
じめじめと生暖かくて、それでいて腐臭がひどい。甘ったるくて、鼻の奥にいつまでも残るような。
「なんだ、この先は」
俺は警戒しながら歩を進めた。
「アリシアはまだ動きが完璧じゃない。待っていてくれ」
アリシアを後方に待機させて、エルナだけを連れて偵察する。前衛にはエルナ、俺はその後ろ。連携の基本だ。
やがて、骨の地面が途切れた。
そこには沼があった。いや、沼というより、泥濘だ。ぐちゃぐちゃに溶けた黒い土と、そこに沈む無数の死体。
死体は白骨化しておらず、腐りかけた肉がだらりと骨にぶら下がっている。どの死体も沼に半分埋まっていて、まるで黒い泥そのものが死体を呑み込もうとしているみたいだった。
沼の表面からは泡がぷかりと浮かんでは弾け、そのたびに腐敗ガスの甘ったるい匂いが立ちのぼる。空気は黄色っぽく濁っていて、光源のない平原なのに、このあたりだけは薄気味悪い緑色の燐光が漂っていた。
「これはひどいな」
素直な感想だった。今まで見てきた万骨平原の景色は、乾いた骨の白さが基調だった。でもここは違う。
湿っていて、腐っていて、まだ「死んだばかり」のものが蠢いている。骨になる前の死体が、第二の死を迎えられずにいる場所だ。
そして、沼の中にぼんやりと立っている影があった。
人間だ。いや、元人間だ。腐りかけた肉をぶら下げて、片目は潰れ、腹は裂けて中身がはみ出している。それでも立って、ゆっくりとこちらに向かってくる。
ゾンビだ。
スケルトンよりずっと生々しい。学院の講義で聞いたことがある。骨になる前の死体が、何らかの魔力で動き出すとこうなる。スケルトンより鈍いが、腐肉に魔力が染み込んでいるぶん、打たれ強い。
しかも一匹じゃない。あの泡立つ沼のあちこちから、ぞろぞろと這い出てきている。五匹、六匹、いや十匹以上はいる。
みんな腐敗の程度が違う。まだ人間の顔がわかるやつもいれば、ほとんど溶けかけて肉が骨から剥がれ落ちそうなやつもいる。
「エルナ、戦闘準備だ。影喰いの短剣はまだ使うな。まずは普通の剣で相手をしろ」
エルナは無言で二本の剣を抜いた。彼女のAGIとDEXは生前の半分以上にまで戻っている。ゾンビごときが敵う相手じゃない。
俺は右手を掲げて風刃を放った。一番近いゾンビの首が飛ぶ。でも倒れない。首がなくなっても、ふらふらと歩き続ける。
「そっちかよ。頭を潰してもダメなら、脚を狙う」
次の風刃で脚を切断した。ゾンビはバランスを崩して沼に倒れ込む。泥がぼちゃんと跳ねた。でもまだ腕だけで這いずってくる。しつこい。
「エルナ、脚を斬れ。動きを止めれば問題ない」
エルナは俺の命令通りに動いた。低い姿勢で接近して、すれ違いざまにゾンビの両脚を切断する。
無駄のない動きだ。二匹、三匹と脚を奪われて、ゾンビは泥の中に沈んでいく。
「この程度なら余裕だな。俺一人だと囲まれて危なかったかもしれないが、エルナが前衛にいるだけでこんなに違う」
俺は感心しながら、沼の奥を見た。まだゾンビはいる。でも数は限られているようだ。全部で二十匹もいないだろう。じっくり処理していけば問題ない。
「エルナ、左から三匹まとめて来る。俺が右をやる」
俺は風刃を連続で放った。魔力の消費は前よりずっと効率的になっている。
無駄な魔力を削ぎ落として、一発一発を正確に。ゾンビの脚を狙って、一匹ずつ這いずり状態にしていく。
エルナは三匹をほぼ同時に処理した。双剣をクロスさせて、一匹目の脚を切断し、その勢いのまま回転して二匹目、三匹目もまとめて薙ぎ払う。
生前の戦闘経験が、魂縛の指輪を通じて再現されているようだ。
「よし、あと五匹くらいか。まとめてやるぞ」
俺が風刃を構えたときだった。
沼の奥から、他のゾンビより一回り大きな影が現れた。腐敗がひどく、全身が溶けかかっているのに、そのぶん厚みがある。腹のあたりに無数の顔が埋まっていて、それぞれが苦悶の表情で口を開けている。
「なんだあれ」
レンズを向ける。
『融合ゾンビ(コープスゴーレム) / 中級アンデッド / 複数の死体が魔力で融合したもの / 弱点:核となる死体の破壊』
「核だってよ。腹の顔のどれかが核か。見つけるのは面倒くさいな」
融合ゾンビはゆっくりと近づいてきた。そのたびに沼が揺れて、周囲のゾンビがさらに這い出てくる。さっき倒したはずのゾンビも、沼に沈んだだけでまだ生きている。しぶとさはスケルトン以上だ。
「エルナ、あのデカいのは俺がやる! 短剣を貸してくれ!」
俺は右手に風刃をためながら、左手で影喰いの短剣を受け取った。
相手の動きは遅い。今、自分で試してみる価値はある。融合ゾンビの足元には、緑色の燐光に照らされた濃い影が落ちている。
「その影、斬らせてもらうぞ」
俺は短剣を影に向かって振り下ろした。刃が影を横切る。
瞬間。
融合ゾンビが大きく揺れた。HPに直接ダメージが入った証拠だ。体表には傷一つついていないのに、動きが明らかに鈍った。苦しんでいる。これは効く。
「すごいな、この短剣。でも一撃じゃ倒せないか。何回か斬ればいけるな」
俺はさらに二度、影を斬りつけた。三度目の斬撃で、融合ゾンビはぐずぐずに崩れて、沼に沈んでいった。周囲のゾンビたちも動きを止めて、泥の中に戻っていく。
「はあ。終わったか」
俺は息を整えて、エルナを見た。彼女は無傷だった。ゾンビの返り血を浴びて汚れてはいるが、身体に損傷はない。剣の腕前も、生前にかなり近づいている気がする。
「よくやった、エルナ。お前が前衛にいるだけで、俺は集中できる。これが連携ってやつか。陰キャの俺には縁のない言葉だと思ってたけど、悪くないな」
エルナは無言でこくりと頷いた。剣についた汚れを布で拭って、鞘に戻す。
「アリシアが待ってる。戻るぞ」
沼の端まできれいに歩いて、骨の平原に戻った。アリシアは俺が待機させた場所で、じっと立っていた。外套を被って、フードの下から金髪が少し覗いている。相変わらず美しい。
「アリシア、ただいま。ちょっとゾンビと遊んできた。お前にも手伝ってほしかったけど、まだだ。まだお前を戦闘に出すのは怖い」
俺は彼女の頬に触れた。冷たい。
「エルナは魂縛の指輪があるから、俺の命令が完璧に伝わる。仮に傷ついても修復が効く。でもお前は違う。お前は俺の術式だけで動いてる。戦闘中のとっさの判断に、俺の術式が追いつかないかもしれない。それでお前の身体が傷ついたら、俺は自分を許せない」
本当は悔しかった。アリシアは生前、剣術の達人だった。エルナよりずっと強かったはずだ。
彼女を戦わせられれば、戦力は飛躍的に上がる。でも、俺の死霊術はまだそこまで洗練されていない。アリシアの動きは日常生活レベルではいけても、戦闘で使えるほど精緻ではないのだ。
「いつか必ず、お前を戦場に立てるようにする。そのために屍体強化の基礎もあるし、精気強化もある。もっと俺が上手くなれば、お前も戦えるようになる。それまでは待っててくれ。焦らない。俺たちには時間がある」
アリシアは何も言わない。でも俺の手の中で、彼女の頬は相変わらず冷たくて、それが逆に俺を落ち着かせた。
俺はレンズを取り出して、エルナの状態を確認した。戦闘で蓄積した傷がないか確かめるためだ。幸い、損傷はほとんどなかった。それどころか、実戦を経験したことで動きにさらに磨きがかかっている気がする。
「戦闘経験ってのは大事なんだな。訓練もいいけど、実戦でしか学べないこともある。これからは積極的に戦わせよう。俺たちが強くなるために、必要なことだ」
俺は沼を地図に書き込んだ。「屍の沼」と名付けておく。訓練に使える場所がまた一つ増えた。
スケルトンがいる平原、黒い木がある場所、崩れた塔、嘆き女の洞窟、古戦場、そしてこの沼。一階層は広いが、少しずつ土地勘がついてきた。
「今日はいい訓練になった。戻って休もう。アリシア、今夜はお前をたっぷり抱くからな。戦闘で緊張した後は、いつもより昂ぶるんだ」
俺は二人を連れて野営地に戻った。魔力灯を灯して、アリシアの服を脱がせる。今日の彼女は、いつもよりいっそう輝いて見えた。
戦場から帰ってきた男を待つ女みたいだ。実際は死んでいるし、待ってもいないんだけど。
「アリシア、お前が戦えないのはわかってる。でもそれでいい。お前は俺の心の支えだ。それだけで十分だ。戦闘はエルナに任せて、お前は俺のそばにいてくれればいいんだ……」
彼女の冷たい身体を抱きしめながら、俺は今日も彼女の中に精を注ぐ。精気強化の数値が上がっていくのを感じながら、ゆっくりと眠りについた。