※この作品はR-18です。

結構仲の良かった女騎士の遺体を戦場で発見したとき   作:うお

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20.糸紡ぎの巣

屍の沼からさらに西へ。もうどれだけ歩いたかわからない。万骨平原はどこまでも続いていて、でもところどころに異質なエリアが点在している。

 

黒い木、嘆き女の洞窟、屍の沼。そして今回もまた、妙なものが視界に入った。

 

霧だった。

 

灰色の空と灰色の骨の地面のあいだに、もう一段階濃い灰色の霧が立ち込めているエリアがあった。それだけならただの気象現象だ。

 

でもその霧は、周囲の骨の平原とは明らかに境界があって、目に見えない壁に遮られているかのように、霧の内部だけがどんよりとよどんでいる。

 

「なんだあれ」

 

近づくと、骨の地面が変わっていた。ぱきぱきと乾いた音を立てていた足元が、急にぬめりを帯びて、粘つく感触に変わる。靴の裏に何かがこびりつく。糸だ。細くて白い糸が、地面を覆い始めている。

 

「蜘蛛の巣か?この規模のか」

 

俺は立ち止まって、アリシアを振り返った。彼女は今日も外套を着て、フードの奥から金髪が少し覗いている。

 

「アリシア、お前はここで待ってろ。エルナだけ連れてく。様子がおかしい。危険かもしれない」

 

アリシアを霧の外の安全な場所に座らせて、俺はエルナだけを連れて霧の中に足を踏み入れた。

 

途端に空気が変わった。

 

甘ったるい腐臭。屍の沼のそれよりずっと濃くて、吐き気を催すレベルだ。そして何より、視界のすべてが白く濁っていた。

 

そこら中に糸が張り巡らされている。太いものは俺の腕ほどもあって、細いものは髪の毛みたいに繊細だ。それらが幾重にも絡み合って、迷路のような空間を作り出している。

 

「これはただの巣じゃないな。ダンジョンだ。誰かが意図的に作った迷宮……」

 

ダンジョンの中にダンジョンがあるというのもおかしな話だが、巨大なダンジョンには珍しくはないらしい。俺は始めて見たが。

 

俺は糸に触れないように注意しながら、ゆっくりと奥へ進んだ。エルナが剣を抜いて先行する。もし何かが飛び出してきても、彼女が対応できる。

 

十歩も進むと、最初の繭を見つけた。

 

人間の形のまま、白い糸でぐるぐる巻きにされたそれが、頭上の太い糸からぶら下がっている。繭の表面はべっとりと濡れていて、黄色がかった液体がぽたぽたと滴っていた。

 

顔の部分だけ糸が薄く、中から苦悶に歪んだ男の顔が透けて見える。目は見開かれ、口は悲鳴をあげたまま固まっている。まだ腐敗は浅い。数日前までは生きていたのかもしれない。

 

「助けられないよな、もう」

 

俺が呟くと同時に、繭の表面がぴくりと動いた。いや、繭の中で何かが動いている。男の口が、かすかに開いた気がした。

 

「た……す……け……」

 

声だった。──まだ生きている。

 

初めて見た生きている奴が死にかけとは。

 

俺は一歩後退した。頭ではわかっている。助けられない。仮に繭から出せたとしても、この糸は腐食性の消化液を分泌しているはずだ。

 

男の身体はもう溶け始めている。今さら助け出しても、死ぬだけだ。

 

「悪いな。俺は医者じゃない」

 

俺は男に背を向けて、さらに奥へ進んだ。

 

繭は一つだけじゃなかった。二つ、三つ、五つ、十以上。どれも人間大の繭が無造作にぶら下がっている。中にはもう完全に白骨化しているものもある。糸だけが形を保っていて、繭の下の地面には消化されきった骨が散乱していた。

 

繭の中身が溶けて、液体だけが滴り落ち、残った骨が糸から解放されて地面に落ちる。そういう仕組みなのだろう。

 

「この巣の主は、獲物を捕まえて繭に包み、じわじわ溶かして啜るってわけか。気持ち悪いけど、合理的だな」

 

俺は足を進めながら、異常な光景に見入っていた。糸のあちこちから人間の身体の一部がはみ出ている。

 

繭に巻かれきらなかった腕が、だらんと垂れ下がっている。指はまだ五本とも揃っていて、きちんと爪もある。生前は剣を握っていたんだろう、節くれだった男の手だ。

 

別の場所からは長い黒髪がぶら下がっていて、その先に女の首がついている。首から下は繭の中に埋もれているから、まるで首だけが糸から生えているみたいに見える。

 

「グロテスクだな。でも嫌いじゃない」

 

さらに奥へ。糸の色が変わってきた。入り口付近の糸は白か黄色だったのに、ここは赤黒い。血液や体液が染み込んでいるのだ。

 

地面には粘液の水たまりがあちこちにできていて、その中に骨が沈んでいる。骨の表面が溶けて、ぐずぐずになっているものもある。消化液の水たまりだ。うっかり足を突っ込んだら、俺の脚もああなる。

 

「エルナ、足元に気をつけろ。あの水たまりには近づくな」

 

エルナは無言でこくりと頷いて、ルートを変えた。

 

そのときだった。

 

がさり。

 

音がした。小さな音だ。でも確かに、糸の向こうで何かが動いている。

 

「エルナ、構えろ」

 

俺は風刃を準備しながら、音のした方を見た。

 

糸の奥から現れたのは、仔蜘蛛だった。大きさは子犬くらい。といっても普通の蜘蛛じゃない。脚は八本あるが、その脚の関節から人間の指が生えている。

 

頭部には無数の小さな目がびっしりと並んでいて、それがぎょろりと俺たちを見つめた。

 

一匹だけじゃなかった。二匹、三匹、五匹。糸の隙間から次々と這い出てくる。

 

「エルナ!」

 

エルナはすぐに動いた。双剣を抜いて、一番近い仔蜘蛛を真っ二つにする。切り口から黄色い体液が飛び散って、地面に落ちるとじゅっと音を立てた。消化液を持っているのか。直に触れたら危ない。

 

俺は風刃で二匹をまとめて切り裂いた。残りもエルナが処理する。仔蜘蛛自体は弱い。問題は数だ。そして、この仔蜘蛛たちが何を知らせるかだ。

 

「急ぐぞ。こいつらがなにかを呼ぶ前に、巣の中をもっと調べる」

 

俺たちはペースを上げて奥へ進んだ。

 

ほどなくして、巨大な空間に出た。

 

天井は高く、十メートル以上あるだろうか。糸が幾重にも張り巡らされて、まるで大聖堂のような荘厳さすら感じる。

 

そして、その天井から無数の卵嚢がぶら下がっていた。成人男性の胴体ほどの大きさの卵が、いくつもいくつも連なっている。

 

表面は薄い膜で覆われていて、中で何かが蠢いているのが透けて見える。仔蜘蛛だ。無数の仔蜘蛛が、卵の中で孵るのを待っている。

 

「うわ」

 

俺は思わず声をあげた。

 

卵の一つが、他のよりずっと大きかった。直径は一メートル近い。表面の膜も厚くて、他の卵が白いのに、これだけは淡い琥珀色をしている。

 

そして何より、その卵は脈動していた。どくん、どくん、と心臓のように規則正しく脈打っていて、そのたびに内部で何かがのたうつ影が見える。

 

「普通の卵じゃないな、あれ。なんか価値がありそうだ。後で取れるかどうか試してみるか」

 

俺が卵に手を伸ばしかけたときだった。

 

足首に、冷たいものが巻きついた。

 

「なっ」

 

見下ろすと、地面に這っていた細い糸が、蛇みたいに俺の足首に絡まっている。いつのまに。周囲を見回すと、俺たちが入ってきた道も、側面も、いつの間にか新しい糸でびっしりと塞がれていた。

 

「しまっ」

 

言い終わる前に、足首の糸が一気に締まった。強烈な力で引っ張られて、俺の身体は逆さまに宙に浮く。視界が反転して、頭に血が昇る。

 

「エルナ!」

 

エルナも別の糸に絡め取られていた。両腕を縛られて、天井から吊るされている。

 

剣は落ちていた。彼女は無表情のまま糸を引きちぎろうともがいているが、糸はどんどん巻きついて彼女の細い身体を締め上げていく。

 

「くそ、風刃!」

 

俺は逆さまのまま風刃を放ったが、狙いが定まらない。糸は切れても、すぐに別の糸が足首に巻きつく。きりがない。

 

そして、天井の暗がりから、それが降りてきた。

 

「hhh……」

 

まず見えたのは脚だった。八本の長い脚。一見すると蜘蛛の脚だが、関節の節々から人間の指が無数に生えていて、その指がすべて勝手にうごめいている。

 

脚の表面は黒光りする外骨格で覆われているが、ところどころ剥がれていて、その下からは腐った人肉が覗いている。骨と肉と糸が混ざり合って、一本一本の脚を構成していた。

 

そして脚の付け根には──女の上半身があった。

 

(女……!?)

 

裸だ。腰から上が人間の女の形をしている。肌は青白くて、血管が透けて見えるほど薄い。

 

腹は引き締まっているのに、臍のあたりが裂けていて、そこからも細い糸が何本も垂れている。

 

首は細く、鎖骨は浮き出ている。そして顔。顔だけは恐ろしいほど整っていた。黒い長髪が逆さまになった俺の顔すれすれに垂れてきて、腐った花のような甘い匂いがした。

 

目は三つ。額にもう一つ、縦に開いた目があって、それがゆっくりと俺を見下ろしている。口は耳まで裂けていて、そこから毒々しい紫色の糸がだらりと垂れていた。

 

裂けた口をさらに歪めて、笑った。

 

「hhhhhhhー!!!!!!」

 

俺は震える手でポーチから鑑定魔道具を取り出した。逆さまの視界で必死にレンズを構える。

 

『糸紡ぎ女アラクネイア / 上級アンデッド(アラクネ) / LV.41 / 魔力値:1350 / 主:腐爛の聖女リゼリア』

 

『ステータス:HP 3100 / MP 960 / STR 280 / VIT 340 / INT 220 / AGI 350 / DEX 410』

 

『スキル:糸紡ぎ(極)、消化液分泌(上級)、仔蜘蛛生成(上級)、捕食再生(中級)、空間掌握(固有)』

 

『弱点:火属性魔法、仔蜘蛛生成器官の破壊、主からの魔力供給断絶』

 

『状態:巣の防衛 / 備考:元は屍の塔の探索者だったが、二階層で腐爛の聖女リゼリアに捕らえられ改造された。人間だった頃の意識は完全に消滅している。巣の中心では空間掌握スキルにより戦闘能力が大幅に上昇する。』

 

「レベル四十一、HP三千百、AGI三百五十。はは、黒騎士よりはマシだけど、それでも化物だな!」

 

アラクネイアは俺の叫び声など気にする様子もなく、長い脚で器用に進み、俺のすぐそばまで迫った。裂けた口から紫の糸が伸びてきて、俺の腕に巻きつく。冷たい。そして痺れる。毒があるのかもしれない。

 

「エルナ、自力で抜けろ!糸を切れ!」

 

エルナは無言で必死にもがき、片腕だけ抜けた。そこから剣を拾おうと手を伸ばすが、あと少し届かない。

 

アラクネイアは俺の顔をじっくりと眺めていた。三つの目が、まるで値踏みするみたいに俺を見ている。

 

口がさらに裂けて、中から無数の小さな歯が覗いた。こいつはきっと、俺を繭に包んで、じわじわ溶かして啜るつもりだ。あの男と同じように。

 

「喰われるのはごめんだな……!」

 

俺は残った左手で風刃を放った。至近距離でアラクネイアの顔面に命中する。彼女の左の目が潰れて、黄色い体液が飛び散った。

 

でも彼女はひるまない。むしろ、三つ目の額の目がぎょろりと動いて、俺をまっすぐ見つめた。

 

そのとき、吊るされていた糸がさらに締まって、俺は天井に向かって引き上げられた。

 

エルナも同じだ。俺たちは巨大な卵嚢のあいだを通り抜けて、天井の暗がりの中に消えていく。

 

最後に見えたのは、あの大きな琥珀色の卵だった。どくん、どくんと脈打っている。まるで俺を呼んでいるみたいに。

 

「くそ——」

 

声は途中で途切れた。糸が口にまで巻きついてきたのだ。視界が白く閉ざされていく。糸に包まれながら、俺は必死に意識を保とうとした。

 

アリシアは無事だろうか。彼女は巣の外で待っている。もし俺が戻らなかったら、彼女はあの場所で立ち尽くしたまま、永遠に待ち続けるんだろうか。

 

それは嫌だった。

 

絶対に、生きて戻る。

 

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