アリシアの傷が癒えるまで数日を要した。
といっても万骨平原には昼夜の区別がないから、俺の体内時計で数えただけのいい加減な日数だ。
その間も平原の探索は続けていたが、あまり遠くへは行かず、野営地の周辺でスケルトンを狩るくらいの軽い活動に留めていた。
包帯を外したアリシアの身体は、驚くほど綺麗に回復していた。縫合した脇腹の傷跡もほとんど目立たなくなり、潰れた拳も元の形を取り戻している。
腐敗防止の魔法に加えて、精気強化が彼女の自然治癒ならぬ自然維持を助けているようだった。
「よし、そろそろ遠出するか。今日はまだ行ってない方角を探索するぞ」
俺は地図を広げた。万骨平原の地図も、今ではずいぶんと書き込みが増えている。
黒い木、嘆き女の洞窟、屍の沼、アラクネイアの巣、古戦場、崩れた塔、黒騎士の門。でもまだ何も書かれていなう空白地帯がある。
「ここに行ってみよう。何かあるはずだ」
アリシアに外套を着せて、エルナを先行させる。三人での探索も板についてきた。エルナが前衛で危険を察知し、アリシアが俺の傍らを歩き、俺が後方から指示を出す。理想的な陣形だった。
南西へ向かって一時間ほど歩いた頃、景色が変わり始めた。
骨の地面が、不自然に盛り上がっている。単なる丘ではない。明らかに人の手が加わった地形だった。骨が積み上げられて、なだらかな斜面を作っていて、その斜面を覆うようにして、奇妙なものが生えていた。
蔓だ。白い蔓。
骨でできているのかと見紛うほど白く、でも確かにそれは植物だった。地面を這いずり、盛り上がった骨の斜面に絡みつき、あちこちで絡まり合っている。
蔓には節があり、節の一つ一つから細い枝が伸びていた。枝の先には、これまた白い花が咲いている。
近づいてよく見ると、花びらは薄い骨の膜でできていた。半透明で、光を受けると虹色にきらめく。花の中心には小さな頭蓋骨……鳥か鼠か、とにかく小動物の頭骨が嵌め込まれていて、それが蕊の代わりになっている。
風もないのに花びらがかすかに震えていて、そのたびにさらさらと骨の粉がこぼれ落ちた。
「綺麗だな。グロテスクだけど、綺麗だ……」
素直な感想だった。死と腐敗と白骨でできたこの階層で、初めて見る美しいと感じる景色だった。
もちろん美的感覚が麻痺してきている自覚はある。普通の人間なら嘔吐するかもしれない。
でも俺には、この白い蔓も骨の花も、どこか神聖なものに見えた。
斜面を登っていく。蔓はどんどん密集して、道を作るように左右に分かれていく。
これは意図的な造形だ。誰かがこの庭園を設計し、手入れをしていた。蔓はただの雑草じゃなく、きちんと剪定されて今の形を保っている。
やがて視界が開けた。
そこは庭園だった。
斜面の頂上は広い平坦地になっていて、一面に白い骨の植物が生い茂っていた。蔓だけじゃない。低木もあれば、花壇のように区切られた一角もある。
骨の花びらを持つ花々がいくつも植えられていて、どれも種類が違う。蔓のアーチが通路を作っていて、その先の中央には東屋が見えた。
東屋も骨でできていた。太い大腿骨を柱にして肋骨を屋根の梁に使っている。蔓が柱に絡みつき、屋根の上で白い花を咲かせていた。
そして東屋の中には、誰かが座っていた。
いや、座っているのは白骨だった。
人の骨だ。東屋の中央にある椅子に腰掛けて、膝の上に両手を置いて、少しうつむき加減で動かない。
骨格からして男だろうか……?
頭蓋骨の形に特徴があって、眼窩が大きく、額が広い。魔術師の特徴だ。学院で習った骨相学の知識を思い出す。魔力を多く扱う人間は、頭蓋骨の形が微妙に変わる。この白骨は間違いなく高位の魔術師だった。
ローブの残骸が骨に張り付いていた。元は黒かったのだろう、今は灰色に褪せて風化している。首からは銀の鎖が下がっていて、胸のあたりに小さな鍵がかかっていた。
そして膝の上には、一冊の本。分厚い手記だ。
「邪魔するぞ……」
俺は白骨に声をかけた。返事がないのはわかっている。でも、この庭園には静かな威厳があって、黙って入るのが憚られた。
「アリシア、エルナ、ここで待っていてくれ。一人で行く」
俺は東屋に近づき、白骨の前に立った。椅子に座ったまま死んでいる。死因はわからない。
外傷はないし、骨も折れていない。老衰か、魔力切れか、あるいは自分の意思で死を受け入れたか。
「あんたも屍の塔に挑んだ魔術師なんだな。ずいぶん昔の人のようだ」
俺はまず、白骨の首から下がった銀の鍵を手に取った。小さくて細かい装飾が施されていて、ただの鍵じゃない。
魔力を感じる。何かの魔道具だろう。後で調べようと思い、自分の荷物にしまう。
それから、白骨の膝の上の手記を手に取った。慎重に。何百年も前のものかもしれない、下手に触ると崩れてしまいそうだったが、意外にも丈夫だった。
魔力で保存されていたのか、この庭園の特殊な環境のせいか。
俺は手記を開いた。最初のページには、達筆な文字が並んでいる。古代語でも帝国共通語でもない、魔術師が好んで使う古い表記法の文章だ。学院でかじった知識で、なんとか読める。
『我が名はオルフェウス・グラン。屍の塔、第一階層「万骨平原」にて、この庭園を造りし者。かつて第三階層まで到達したが、■■■に敗れ、再起を誓ってここに籠もった。されど我が身はすでに老い、死は避けられぬ。されば我が知識のすべてをここに記す。後世の死霊術師よ、これを読み、我が遺志を継ぐがよい。』
「グラン。知らない名前だ。でも三階層まで行ったのか。すごいな、あんた」
俺はページをめくった。最初の章は屍体操作の基礎で、これは俺がすでに持っているのと重なる内容だった。
次の章は複数配下の同時制御で、これも連携制御と似ている。
でも三番目の章を開いたとき、俺は思わず声をあげた。
『屍体改造術序説』
「屍体改造術……?」
俺は震える手でページを読み進めた。書かれている内容は、驚くべきものだった。
死体の身体をただ保存し動かすだけではない。死体の構造そのものを変質させ、生前にはなかった能力を付与する術式。
例えば骨を金属のように硬化させたり、皮膚に魔力耐性を持たせたり、筋肉の繊維を増量してSTRを強化したり。改造の内容によっては、死体は生前の強さを超えることすら可能だと書かれていた。
「これは……すごいぞ」
死体のSTRやAGIを生前の数値に戻すだけじゃない。それを超えさせる。今の俺の精気強化には限界があるのかもしれない。でもこの改造術と組み合わせれば、黒騎士に匹敵する配下を作れる。
俺は夢中でページを読み進めた。改造術には素材が必要だった。例えば骨を強化するには硬化したスケルトンの骨粉を練り込んだペーストを塗布する。
筋肉を増量するには融合ゾンビの筋繊維から抽出したエキスを注入する。どれもこの平原で手に入る素材ばかりだった。
知らなかっただけで、今までも何度も遭遇していた敵の素材が、実は改造術の材料だったのだ。
「グラン先生、あんたのおかげで道が開けた。ありがたく使わせてもらいます」
俺は手記を閉じて、白骨に向かって深く頭を下げた。
「約束します。あんたが果たせなかった二階層への道、俺が必ず突破する。黒騎士も倒す。そしてあんたの屍体改造術で、俺の配下たちを最強の戦士に仕立て上げる。それが俺にできる、あんたへの恩返しだ」
白骨はもちろん答えない。でも庭園の骨の花々が、風もないのにいっせいに震えて、骨の粉がさらさらと舞い散った。
祝福のようにも見えたし、単に俺の声が空気を震わせただけかもしれない。俺は前者だと思うことにした。
俺は東屋を出て、庭園をあちこち探索した。手記を読むだけじゃなく、実際の素材も集めたかった。
庭園の一角には、グランが実験用に育てていたらしき植物があった。骨の球根から伸びる蔓に、小さな袋がぶら下がっている。袋の中には硬化した骨粉が詰まっていた。
「これだ、手記にあった骨硬化ペーストの材料だ。他にもあるか」
俺はせっせと素材を集めた。蔓から採取した骨粉、花の蜜のように滴る魔力液、それから庭園の隅に積まれていた「融合ゾンビの筋繊維」の乾燥サンプル。
どれもグランが生前に集めて整理したものらしく、小瓶に分類されて並んでいた。
「整理整頓の行き届いた人だったんだな。陰キャの俺には気が合うかもしれない」
アリシアとエルナのところに戻って、俺は集めた素材を見せた。もちろん二人は無反応だが、俺は嬉しくて仕方なかった。
「今日は大収穫だ。これで俺たちは一段階強くなれる。まずは簡単な骨硬化から試してみようか。エルナの剣が通らない相手がいても、エルナ自身が硬くなればなんとかなるかもしれない」
俺はグランの手記を開いて骨硬化ペーストの調合方法を読み上げた。
「『骨粉を魔力液と練り合わせ、対象の皮膚に直接塗布し、術者の魔力で定着させる。術式は以下の通り——』ふむふむ、これなら今の俺でもできそうだ。なにせ材料も揃ってる。グラン先生、ありがとう」
俺はさっそくその場でペーストを調合した。骨粉と魔力液を混ぜると、ペーストは淡い金色に光り輝いた。
これをエルナの両腕に塗り込み、俺の魔力で定着させる。儀式は数分で終わった。派手な光もなければ劇的な変化もない。
でも、エルナの両腕を触ってみると、肌の質感が明らかに変わっていた。冷たいのは同じだが、表面が陶器のように硬質になっている。それでいて柔軟性は失われていない。素晴らしい技術だ。
「エルナ、自分の腕を剣で軽く叩いてみろ。どのくらい硬くなったか試すんだ」
エルナは無言で自分の片方の剣を抜き、もう片方の腕をこつんと叩いた。金属音が響く。剣の刃が皮膚を滑っている。傷一つつかなかった。
「すごい。これで敵の攻撃を素手で受け止められるかもしれない。試してみないとわからないけど、防御力は確実に上がってる」
俺は手記を大事にしまって、二人の配下を連れて庭園を後にした。帰り道、あの白骨……オルフェウス・グランをもう一度振り返った。彼は今日も椅子に座って、膝の上に何も置かず、静かに頭蓋骨を垂れていた。
「あんたの遺志、俺が継ぐよ。二階層でも三階層でも、どこまでも行く。で、最後にはあんたの墓前に報告に来る。『やりました』って……」
庭園を抜けて、骨の平原に戻る。灰色の空は相変わらずだ。でも俺の心は晴れやかだった。
新しい知識を得た。新しい希望が見えた。まだ黒騎士には遠く及ばなくても、確実に近づいている。
野営地に戻ったら、さっそくエルナの両脚にも骨硬化を施そう。それからアリシアにも。彼女の身体は戦闘で傷つきやすいから、硬化処理で守ってやれるならありがたい。
「アリシア、お前をもっと強くするぞ。もっと硬く、もっと速く、もっと力強く。いつかお前が自分の意志で俺の隣を歩けるようになる日まで、改造は続ける。もうお前は戦わなくていいなんて言わない。お前は戦える。ならば一緒に戦おう」
彼女の冷たい手を握りながら、俺はそう誓った。