禁書を読んでから俺は部屋で、アリシアと向き合っていた。
「立て」
右手をかざす。
魔力を込める。
彼女の身体に、俺の作った術式が流れ込んでいくのが見えた。
光というより、どす黒いもやみたいな、そういう魔力。死霊術の初歩も初歩。魂を呼び戻すんじゃない。ただ死んだ肉に命令を与えるだけの、簡単な術式。
ぴく。
アリシアの指が、動いた。
「……っ」
心臓が跳ねる。
次に、腕。
ガクン、と肘が曲がる。関節から嫌な音がした。死後硬直はとっくに解けてるけど、それでも生きた人間の動きじゃない。がくがく、ぎしぎし。壊れた人形。
「立て。立てよ、アリシア」
魔力をもっと送る。
彼女の上体が、むくりと起き上がった。
ベッドの上で、ゆっくりと。
首ががくんと揺れて、長い金髪がばさりと広がる。
目は閉じたまま。
でも、起きてる。
「……すげえ」
素直に、そう思った。
だってアリシアが動いてる。俺の魔法で。俺の魔力で。
「ほら、次。立て」
彼女の脚が、ベッドから降りる。
裸足の足の裏が、冷たい床にぺたりとついた。
ぐらり、と揺れる。
支えなきゃ、と思って近づいた瞬間、アリシアの身体が前に倒れ込んできた。
「うわ」
抱きとめる。
冷たい。
でも、重い。
温かくないのに。
動いてるのに。
胸が俺の腕に押しつぶされて、やわらかく形を変える。
「立ったな」
俺の肩にもたれかかるアリシア。
返事はない。
でも、立った。
「もう一回やるぞ」
今度は慎重に。術式を微調整しながら。
彼女の脚の筋肉、関節、骨。全部に魔力を通すイメージ。さっきより細かく、細かく。
アリシアが立った。
ぐらつかない。
まっすぐ。
閉じた目のままで。
「……はは」
笑えた。
「立てたじゃねえか、お前」
生前は俺なんかよりずっと強くて、ずっと頼りになった女。
今は俺の魔力がなきゃ、立つこともできない。
なのに。
それなのに。
「……綺麗だ」
口からこぼれた。
死んでるのに。
動かしてるだけなのに。
金髪を下ろしたアリシアは、やっぱり綺麗だった。
「歩くぞ」
俺は彼女から離れて、二歩下がった。
右手を前に。
魔力を細かく調整しながら、一歩、足を出させる。
右足。
ぺた。
次、左足。
ぺた。
ガクガクしない。昨日までの練習の成果だ。
ゆっくり。
でも、自然に。
「いいぞ、アリシア。上手い」
死体を褒める俺。
もう、客観的に見れば完全に狂ってる。
でもいい。
アリシアが俺の前で歩いてる。
それだけで、胸がいっぱいになる。
「これなら、外に出せる」
♢ ♢ ♢
外套は兵舎の物置から拝借した。
誰も使ってない古いやつ。誰も気付かない。陰キャはこういう時、便利だ。
ぶ厚い布地で、フード付き。
これで全身を隠せる。
「着せるぞ」
アリシアに外套をかける。
まず腕を通して。
前を留めて。
フードを被せる。
金髪は、全部中にしまった。
「……これなら」
誰が見ても、顔はわからない。
「歩け」
術式を起動する。
アリシアが立ち上がる。
外套の下で、一歩、また一歩。
ちゃんと歩けてる。
外から見たら、絶対にわからない。
わかるはずがない。
だって、歩いてるんだから。
「行くぞ」
俺はドアを開けた。
兵舎の廊下。
誰もいない。
いつものことだ。端っこの部屋だし、この時間はみんな訓練か酒場。
俺は先に立って、アリシアを歩かせる。
彼女は俺の後ろを、ぺたぺた、静かについてくる。
廊下の角を曲がる。
誰もいない。
また角。
誰もいない。
正門の手前。
衛兵が一人、立ってた。
「……っ」
心臓が縮む。
でも衛兵は俺の顔を見て、すぐに興味を失った顔をした。
「クロードか。なんだ、出かけるのか」
「ああ」
「後ろの奴は?」
「あー……知り合いだ」
俺の後ろで、アリシアはぴたりと止まっている。
フードを深く被って。
顔は、まったく見えない。
「ふうん」
衛兵はそれだけ言って、欠伸をした。
俺に興味なんてない。
後ろの不審な外套の奴にも。
陰キャは、疑われない。
怪しまれない。
だって最初から、存在が薄いから。
「行くぞ」
俺はアリシアに小声で命じた。
彼女はまた、一歩、歩き出す。
正門を抜けた。
外の光が眩しい。
風が吹いて、アリシアの外套の裾が揺れた。
誰も、追ってこない。
♢ ♢ ♢
俺は軍務課に向かった。
休暇届を出す。
旅に出るには、必要な手続きだ。
「二週間の休暇を申請します」
カウンターの向こうで、事務官が書類をめくる。
俺の顔は見ない。
「理由は?」
「個人的な旅行です」
「ふうん」
事務官は判を押した。
あっけない。
「どうせ魔法の研究とかだろ。クロード、お前そういうのだし」
「……まあ」
「はいよ、受理。二週間な。延長すんなよ」
「わかった」
俺は書類を受け取った。
後ろで、アリシアが立ってる。
ぴたりと。
動かない。
事務官は一度も、彼女を見なかった。
♢ ♢ ♢
街に出る。
市場の賑わい。
果物売りの声。
鍛冶屋の槌音。
子供の笑い声。
全部、俺には関係ない。
アリシアだけが、俺の世界の全部だ。
「こっちだ」
路地に入る。
人目を避けて北門へ。
北の山脈には屍の塔がある。
そこに行けば、もっと深い死霊術の知識が手に入る。
アリシアを、もっと人間らしく動かせるようになる。
「なあ、アリシア」
俺は歩きながら、彼女に話しかける。
「お前、今どんな気分?」
返事はない。
わかってる。
でも。
「俺はな」
路地の影で、俺は立ち止まった。
振り返って、彼女のフードに手をかける。
少しだけ、めくる。
白い頬。
閉じた目。
変わらない顔。
「俺はすごく楽しい」
口元が歪んだ。
笑えてるのか泣いてるのか、自分でもわからない。
「お前が隣にいる。それだけで、楽しい。死んでるのに。動いてるだけなのに。それでも」
右手を伸ばして、冷たい頬を撫でる。
「俺、多分、今一番幸せだわ」
生前は、言えなかった。
隣に立つ勇気すらなかった。
でも今は。
「行こう」
フードを戻す。
また歩き出す。
北門が見えてきた。
門の向こうには、街道。
その先には、山脈。
屍の塔。
「待ってろよ、アリシア」
俺は呟く。
「お前が笑えるようになるまで、俺、諦めないから」
彼女は何も言わない。
でも、俺の隣を歩いてる。
それで十分だ。
♢ ♢ ♢
北門の衛兵は、俺たちをちらっと見ただけだった。
「旅人か?」
「ああ」
「北の方は最近、魔物が出るらしいぞ。気をつけろよ」
門を抜ける。街道に出た。
後ろを振り返る。
帝国の街が、小さく見える。
ここから先は、もう。
俺とアリシアだけの旅だ。
俺が一歩踏み出す。
アリシアも一歩踏み出す。
ぺた。
ぺた。
二つの足音が、重なった。
空は曇ってる。
風が冷たい。
でも俺は、あたたかい気持ちだった。
だって、もう一人じゃない。
彼女がいる。
俺だけのアリシアが。
「次にお前が目を開けた時は」
俺は街道を北へ歩きながら、言った。
「ちゃんと名前を呼んでくれよな」
「クロードって」
「……それだけでいいから」
返事はない。
でも、俺には聞こえた。
気のせいだ。
絶対、気のせいだ。
それでも。
「……はは」
俺は笑いながら、歩き続けた。
隣には、俺のすべて。
屍の塔まで……歩こう。
その果てにあるものが破滅だとしても