足を踏み入れた瞬間、後ろの光が消えた。
振り返っても、入り口はない。ただ灰色の闇が広がっているだけだ。
空気は冷たくて、湿っていて、かび臭いような、甘ったるいような、嗅いだことのない臭いが鼻の奥にこびりつく。
「閉じ込められたな」
俺は呟いて、それから前を向いた。
そこに広がっていたのは、平原だった。
「塔の中に広大な空間が広がってるタイプのダンジョンか……厄介だな」
どこまでも、どこまでも続く平原。地平線らしきものがかすかに見えるが、その先にもまた同じ景色が続いているのがわかる。
空はない。頭上には天井のような岩盤のような、あるいは曇り空のような、曖昧な灰色がどこまでも覆っている。光源はないのに薄明るく、すべてがぼんやり見える。
そして地面は白かった。
いや、白いのではない。
──骨だ。
大小さまざまな骨が、地面を埋め尽くしている。人骨、獣骨、それから何の骨かわからない異形の形状。砕けた肋骨、割れた頭蓋骨、無数の指の骨。それらが幾重にも積み重なって、大地そのものになっている。
一歩踏み出すたびに、ぱきぱきと乾いた音が足の下で鳴った。
「すげえな」
素直な感想だった。これだけの骨を集めるのに、どれだけの生き物が死んだんだろう。想像もつかない。
いや、想像したくない。
アリシアは俺のすぐ後ろに立っていた。外套を被って、フードの奥から閉じた目をこちらに向けている。
彼女がここにいるのが、唯一の救いだった。一人だったら多分、正気を保てなかった。
「歩くぞ。あっちに何か見える」
遠くに骨の丘のようなものが盛り上がっているのが見えた。完全な平坦ではないらしい。
俺はアリシアに歩行の術式を送りながら、慎重に平原を進んだ。
骨の地面は歩きにくい。深く踏み込むと、下から古い骨が砕けて足を取られる。何度も転びそうになりながら、十分ほど歩いた。
そこで最初の死体を見つけた。
骨に混じって、まだ肉の残った人間の死体が転がっていた。男だ。
鎧は錆びてぼろぼろで、顔は半分腐り落ちている。死んでからかなり経っているが、塔の中の特殊な環境のせいか、完全には白骨化していない。
腰に着けたポーチが目に入った。俺は屈み込んで、それを漁る。
「何か入ってるか」
革は硬くなっていたが、中には小さな指輪が一つ入っていた。
銀色の細い輪で、内側に何か文字が刻まれている。読めない。古代語か、それとももっと別の言語か。
「危険な感じはなさそうだが……」
俺は指輪を自分の指にはめた。ぴったりだった。
その瞬間、左手の指にじんわりと魔力が流れ込むのを感じた。何かの魔道具だ。効力はわからないが、悪いものではなさそうだ。
顔を上げると、少し離れた場所にもう一つ死体があるのが見えた。そっちに向かう。
今度は女だ。冒険者だろうか。ボロボロのローブを着ていて、胸のあたりに大きな裂傷がある。
何かに切り裂かれたみたいだ。顔は腐敗が進んでいて、性別がかろうじてわかる程度。
でも身体はまだ、女の形を残していた。
「お前もここで死んだのか」
俺は彼女の前にしゃがみ込んだ。ローブを開く。下には布の服。それも開く。
胸が露出した。腐敗しかけているが、まだ形はある。乳房はしぼみかけていて、皮膚は変色していた。
「さすがにこれは、ちょっと……」
俺は首を振った。さすがの俺でも、腐りかけの死体に欲情はできない。
いや、できるのか?ちょっと自分の股間を見る。
反応している自分がいた。
「はは。俺、もう手遅れかもしれない」
でも今はやめておく。目的は先にある。
「アリシア、行くぞ」
立ち上がって、また歩き出す。
しばらくして、骨の地面が不自然に盛り上がっている場所に出た。単なる丘じゃない。
骨が積み重なって作られた、人工的な構造物だ。高さは三メートルほど。その頂上に、何かが突き刺さっている。
「剣か」
古い剣だった。刃は錆びて、柄はぼろぼろ。でもそこから放たれている魔力は、ただの武器のそれじゃない。
近づいてみると、剣の周りの骨が黒く変色していた。呪われているのか、祝福されているのか。
「手を出すのはよそう」
俺は剣を迂回して、さらに先へ進んだ。
そのときだった。
がさり。
「!?」
骨が動く音がした。
俺は足を止めた。アリシアを自分の後ろに隠すように立つ。音のした方を見る。
十メートルほど先で、骨の地面が盛り上がっている。何かが、下から出てこようとしている。
「嘘だろ……」
骨が集まり、組み合わさり、形を作っていく。大腿骨が足になり、肋骨が胴体になり、頭蓋骨が頭になる。
全身が骨でできた、二メートルほどの人型。目の窪みには青白い光が灯っていて、それがぎょろりと俺を捉えた。
スケルトン。
学院で習ったことがある。死霊術の基本中の基本、動く骨。でもこれは、教科書に載ってるような小さなものじゃない。魔力の密度が違う。
──こいつは、強い。
「くそ!」
俺は右手を前に突き出した。攻撃魔法を唱える。火球、いや、骨に火は効きにくい。風の刃だ。空気を圧縮して、刃状に飛ばす。
「風刃!」
バシュ、と音がして、風の刃がスケルトンの胸を直撃した。肋骨が二本、三本、砕けて飛び散る。
「gyaaaa!!!」
でもスケルトンは止まらない。失った骨を周りの骨で補いながら、ずりずりと近づいてくる。
「再生するのかよ!」
俺はもう一度風刃を放つ。今度は頭を狙った。頭蓋骨が砕ける。
でも青白い光は消えない。首の骨がぐにゃりと曲がって、新しい頭蓋骨を周囲から引き寄せ始める。
だめだ、きりがない。
「アリシア、下がってろ!」
俺は彼女を庇いながら後退する。スケルトンはゆっくりと、でも確実に近づいてくる。
骨の手が伸びて、俺の腕をかすめた。ひやりとした感触。冷たいだけじゃない。生命力を吸い取られるような、不気味な冷たさだった。
「こいつ、ただのスケルトンじゃない!」
俺は走った。アリシアの手を引いて、骨の平原を全力で駆ける。後ろから骨の軋む音が追いかけてくる。振り返る余裕はない。
でも音は徐々に遠ざかっていった。追跡を諦めたのか、それとも縄張りから出たのか。
「は、は、は」
息を切らして立ち止まる。肺が痛い。
アリシアは涼しい顔で立っている。いや、顔はもともと涼しいけど。
「お前は無事だな。よかった」
彼女の頬に触れる。冷たい。いつもの温度だ。
「でもやばいな。この階層にはああいうのがいるのか。俺の攻撃魔法じゃ、再生を止められない。もっと別の方法がいる」
俺は周りを見回した。逃げてきた先にも、やはり骨の平原が広がっている。でも少し先に、岩のようなものが見えた。いや、岩じゃない。建物の残骸だ。壁の一部と、折れた柱が骨に埋もれている。もしかしたら、あそこに何かあるかもしれない。
「あそこで休もう」
俺たちは廃墟に向かった。
壁は崩れかけていたが、屋根の一部が残っていて、かろうじて雨風をしのげそうだった。雨は降らないだろうけど、気分的な問題だ。
中に入ると意外にも床は骨で覆われていなかった。石の床がむき出しになっていて、隅の方に布きれと、誰かが置き去りにした荷物があった。
「先客がいたみたいだな。もう死んでるだろうけど」
荷物を開ける。中には干からびた食料と、小さな革袋。
袋の中には青く光る液体の入った瓶が三つ。魔力回復のポーションだ。まだ使える。ありがたくもらっておく。
それから、ボロボロの手記。
手記を開く。文字はかろうじて読めた。古代語じゃない、帝国の共通語だ。古いけど。
「『塔に入って三日。ここが一階層だとは信じられない。どこまでも骨が続いている。食料はあとわずか。仲間は昨日、骨の巨人に殺された。俺はもうだめかもしれない』」
最後のページは、文字が走り書きになって判読不能だった。
「三日か。この人は三日で心が折れたんだな」
手記を閉じる。俺はまだ初日だ。食料はある。それに俺にはアリシアがいる。
「俺は折れないよ。お前がいるから」
アリシアを見る。彼女は相変わらず無表情で立っている。でも俺には、彼女が微笑んでいるように見えた。
……気のせいだ。でもそれでいい。
「ちょっと休んだら、また進もう。でも今日はここで野宿でもいいかもな。疲れた」
俺は壁にもたれて座り込んだ。アリシアも隣に座らせる。術式でゆっくりと腰を下ろす彼女の姿は、生きてる人間とほとんど変わらなかった。
──この指輪のおかげだろうか。さっきから彼女の動きが、より滑らかになっている気がする。
「なあ、アリシア」
俺は彼女の肩に寄りかかった。
「この塔、やばいな。入ってすぐあれだぞ。でもさ、俺はちょっと楽しくなってきた。これだけ死体と骨があれば、お前以外にも仲間が増やせるかもな。別にいいだろ、お前は特別だから。一番はお前だから」
彼女の冷たい手を握る。
「俺、強くなるよ。この塔で全部学んで、お前を誰よりも綺麗に動かせる男になる。だから待っててくれ」
廃墟の外では骨の平原がどこまでも静かに広がっていた。遠くで、骨の軋む音がかすかに聞こえる。
まだ何かが徘徊している。今夜は、ここで休もう。
明日は、もっと奥へ進む。
この平原の果てに、何があるのか。
二階層への会談があるのか。それとも、もっと深い何かが待っているのか。
俺はまだ、この塔の本当の姿を何も知らない。でも、それが逆に心を躍らせた。
「楽しくなってきた」
俺はもう一度呟いて、目を閉じた。