若い男女が二人きりで、嵐の山小屋で一夜を明かしたという「事実」は、あまりにも重い。
もしこれが表沙汰になれば、華族社会に走る醜聞の亀裂は京極宮家の威信を揺るがせ、宮廷の安定を根底から覆しかねない。宮廷の秩序を重んじる大人たちは、この密室の出来事が公になる前に、完璧な形で隠蔽せねばならなかった。
だが、そこには厳然たる「格」の壁が、巨大な障壁として立ちはだかっていた。
「一刻も早くこの一件を処理せねばならぬ。若宮様の御意志もある。もはや、若宮様と六条の娘を結びつけることでしか、宮廷の体面を保つ方法は無い」
「ですが、あまりにも家格が違いすぎる。六条家は男爵相当の家柄。これほど低い家柄から若宮の妃に迎えるなど、前代未聞、宮内省の古狸どもが承知いたしますまい」
「そもそもなぜ京極宮家の宮家令である六条家が男爵なのだ? 功績から言えば子爵でもおかしくはなかったはずだ」
「まあ、それはおいておくとして、だ。娘も今はまだ低いとはいえ華族として遇されているが故に、他の華族たちの反発と嫉妬は火を見るより明らかだ。京極宮家を面白く思わぬ不逞の輩が『若宮に不貞の惧れあり。小屋での一件につき娘の身体を調べさせろ』などと他の華族を唆し始めたら、一線を越えたか否かを問わず若宮の名誉に傷がつく。それこそ大きな醜聞になろうぞ」
「六条が代替わりしていればあの娘は華族籍から除かれ平民の扱いになっていたのだが」
「むしろ庶民の出であったほうが良かった。まだ庶民の出の方が反発は少なくないが、いまはまだあの娘を庶民の出とする訳にもいかぬ」
かつて、父である慶仁もまた、激しい雨の夜の醜聞に巻き込まれた過去があった。しかし、その際の妃候補であった澄子は、旧五摂家筆頭の公爵令嬢という申し分のない格式を持っていた。対する誓子は、一介の男爵相当の臣下の娘に過ぎない。
だが、その不穏な懸念が華族社会の表面に泡立つより早く、鮮やかな手際で事態を収拾したのは、松殿侯爵家であった。
伊勢の悲劇において、慶仁を守るために寛子が散華した松殿家。彼らにとって、六条雅武は、寛子と共に慶仁を支え、寛子亡き後も慶仁の傍らで泥に塗れて宮家を守り通した戦友であった。
「六条殿の娘御が、若宮様との一件で苦境に立たされている」
松殿侯爵が、緊急に親族たちを集め、重々しく語りかけた。
「水面下で、宮内省の過激派どもが娘の身辺調査を、などと不穏な動きを見せている件ですな?」
「馬鹿ばかしい。あの極めて実直な六条殿の娘御だぞ。不埒な醜聞などあるはずがない。若宮様が命がけで彼女を守り抜かれた、それが真実だ」
「であろうな。……だが、男女が二人きりで夜を明かしたという事実は、それだけで外敵の格好の餌食となる」
「……ならば、我らの出番ではないか」
松殿侯爵は、亡き姉の遺影を見つめるように目を細めた。
「あの悲劇の夜、我が姉寛子は京極宮殿下をお守りして散った。その後、御傷心の殿下を一番近くでお支えしたのは六条男爵だ。我らは陰から見守るしか無かった。ならば今度は、我ら松殿家が、六条殿の娘を守り、若宮様の未来をお守りする番ではないか。我が『松殿侯爵』の家名、喜んであの娘に貸し与えよう。亡き姉上もきっと、草葉の陰でそれを望んでいる」
こうして、六条誓子は「松殿侯爵家の養女」として籍を移し、侯爵の格を持って、陸仁の妃として迎えられることが決定した。
松殿侯爵家の決断からの動きは、文字通り電光石火、他家に勘ぐる隙を一切与えぬものだった。
宮内省の宗秩寮へは、表向き「前々から進められていた内々の縁組」として、松殿侯爵の署名が入った養女縁組の書類が極秘裏に提出された。情報が外へ漏れ出す路はすべて、京極宮家、九条公爵家、松殿侯爵家、そして母の生家である中院伯爵家という、宮廷の上層に君臨する有形無形の権力によって完全に封殺された。
そうして華族社会へ向けて速やかに公表されたのは、非の打ち所のない「主従の美談」であった。
『六条誓子は幼少期より寛代子女王殿下の御学友として宮邸に上がり、その生真面目な資質と宮廷への忠義は、両殿下からも高く評価されていた。折しも、松殿家では適齢期の娘がおらず、家名を華やかに彩る高潔な姫君を内々に求めていた。そこで、京極宮家への忠義の絆の象徴として、また六条家への感謝を込めて、中等科卒業の暁には誓子を松殿侯爵家の養女として正式に迎え、松殿の家格をもって宮廷へ恩返しをしたいと申し出ていた。手続き上の不備により許可が遅れていたが、この度正式に養女の許可が下りた』
こうして、誓子は「松殿侯爵家の養女」として籍を移し陸仁の妃として迎えられることが決定した。
東伏水宮家をはじめとする、京極宮家と親しいごく一部の長老格が「してやったり」と愉快そうに首を縦に振る裏で、建前の最終調整は、深夜の京極宮邸の書斎で静かに進められていた。
応接ソファに座る松殿侯爵は、完成した書類に目を通し、ふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「なるほど。誓子嬢を我が家の養女とする理由は……『寛子の早逝以来、沈みがちであった松殿の家門を盛り立てるため、最も信頼の置ける聡明な娘を貰い受けた』ですか。家督に関わることでもなし。これなら宮内省の古狸どもも、他の華族たちも文句の付けようがありませんな。何より、我が松殿の娘となった以上、娘の『身体の詮索』なぞしようものなら、この私が宮内省を相手に一戦交えてやりますよ。誓子嬢は寛代子殿下と幼き頃より馬術、水泳、庭球、西洋舞踏と行動を共にされてきた。純潔検査で純潔の証だてをするなど笑止千万」
「すまない、松殿侯爵。こちらの不始末に、そなたの家名を借りることになってしまって……」
滅多に他人に頭を下げない慶仁が、亡き寛子の弟である侯爵に対し、すまなさそうに頭を下げた。その横では、今回の騒ぎの当事者の父親である六条雅武が、恐縮と胃の痛みのあまり、石像のように硬直していた。
「何を仰います、殿下」
松殿侯爵は首を振った。その視線は、静かに雅武へと向けられる。
「あの悲劇の夜以降、殿下を一番近くで支え続けてくれたのは、他ならぬ六条男爵、あなただ。あなたへの長年の感謝を、こうして誓子嬢を『我が松殿の姫として宮家へ送り出す』という最高の形で表せる。これほど名誉な話はありません」
松殿侯爵の温かい言葉に、雅武は「……勿体なきお言葉にございます」と、声を詰まらせて深く頭を下げた。
かくして、他家が不穏な気配を察知するよりも遥か前に、宮内省の記録には『京極宮家・松殿家・六条家の、長年にわたる絆が生んだ慶事』としての書類が調えられた。
かつて結ばれるはずだった松殿の縁が、時を経て、若宮と六条の娘を結ぶための「美しい額縁」として蘇る──その粋な計らいに、華族たちは皆、静かに得心して口を閉ざすしかなかった。
大人たちの手によって、外堀はまたたく間に埋められていく。だが、その完璧すぎる決定の裏で、当事者である誓子の心は千々に乱れていた。
宮内省への手続きが極秘裏に進められていたある日の午後。宮邸の奥の小部屋で、寛代子は誓子の細い肩をそっと抱きしめていた。
「……本当に、何もなかったのね? 私はお兄様を信じているけれど、それ以上に、あなたの誠実さを信じているから聞くの。お兄様に、無理を言われたり、無体な真似をされたりしたわけではないのでしょうね?」
寛代子の真っ直ぐな瞳に、うなだれる誓子は、静かに、しかし頑なに首を振った。
「……はい。本当に、何も。ただ雨を凌いだだけにございます」
誓子はそう答えながら細い指先を震わせた。
「ですが……、世間はそうは見てくださいません。私は松殿の娘として、ことによると若宮様を『強引な略奪者』の汚名で縛り付ける存在になってしまう……」
誓子の目から、堪えきれぬ涙がこぼれ落ちる。自分の存在が、愛する陸仁の、そして京極宮家の名誉を泥に塗れさせてしまうのではないか。その恐怖に怯える親友を見て、寛代子は毅然と言い放った。
「バカなことを言わないで。あなたが誰よりもお兄様を慕って、誰よりも傷つけないように一線を守ろうとしてきたことを、私がずっと見てきたわ。……いい、社交界の有象無象には言わせておきなさい。明日からは、私の『親友』ではなく、私の『義姉上』として、あの意地張りなお兄様の隣に、誰よりも気高く立って頂戴」
その力強い言葉に、誓子は涙を拭い、小さく深く頷いた。少女たちの間で交わされた密やかな覚悟が、水面下の決定を真実の絆へと変えていく。
すべての政治的処理を終えた後、慶仁は書斎の窓から、秋の気配が濃くなり始めた庭を長い間見つめ、静かに呟いた。
「……雨音は、次の世代にも受け継がれるものらしいな」
隣で報告書を整理していた澄子が、そっと手を止めて顔を上げた。
「殿下。どうなさいますか」
「どうもせん。あやつが自分で仕出かしたことだ」
慶仁は、かつての若き日の自分を思い出すように静かに微笑んだ。
「私が、あの雨の日にお前を引き止めなければ今の我々はなかった。……陸仁も、同じだ。形はどうあれ、絶対に手放したくないものを見つけたのだろう」
澄子は、少しの間黙っていた。ほんのりと頬を染めながら言った。
「……殿下。私達の場合は、雨宿りをしただけでございます。あの夜、一晩中殿下に抱きしめられただけで、あの子たちのように……その、破廉恥な痕を残すような出来事は、何もございませんでしたわ」
「そうだったな」
慶仁はそれ以上何も言わず、澄子の肩をそっと抱き寄せた。
窓の外では、秋の風が庭木を優しく揺らしていた。
嵐の雨音は、次の世代へと、形を変えて確かに受け継がれていた。
忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思うと 『人の問ふまで』
より。
題名に使わなかった【わが恋は】は、純愛編の全話通じたテーマ
寛代子と誓子のイメージ(ドレスが品が無い気もするがまあR指定の話だから良しとするか……)
寛代子(18歳):身長163センチ。バスト83、ウエスト58、ヒップ87。体重52kg
【挿絵表示】
誓子(18歳):身長158センチ。バスト85、ウエスト57、ヒップ86。体重47kg
【挿絵表示】
水着は幼い印象が……
【挿絵表示】
こっちはましか?
【挿絵表示】
「純愛じゃねえ」と仰る方……私もその通りだと思います。
なんでこんな話になったのやら……。はじめのプロットは確かに純愛だったのに。
第2話で余計なこと考えた時からだな。当初は何事も無く山を降りる予定だったから。
第3話は当初の漆黒編をマイルドに変換した。大丈夫、最後までやっていませんし。
寛代子の扱い? 他の宮家に嫁入りか勅をもって特に許された華族への降嫁以外ありません。拙作の皇室典範でそうなっているので。