五月下旬。
学園は、生徒たちにとっての一大イベントであり、同時に最大の試練でもある『一学期中間テスト』の真っ只中にあった。
「……残り五分。解答用紙の見直しを忘れないように」
初日の第一科目、数学。
試験監督を務める初老の教師の事務的な声が、静まり返った二年B組の教室に響く。
聞こえてくるのは、カリカリと焦燥感に駆られるようにシャープペンシルを走らせる音と、時折響く、誰かの重いため息だけだ。
張り詰めた、という表現がこれほど似合う空間もないだろう。
生徒たちの背中からは、少しでも高い点数を、あるいは赤点だけは回避したいという切実なオーラが漂っている。
その重苦しい空気の中で、僕は一人、大きな欠伸を噛み殺していた。
自分の席で、とうの昔に全問埋め終わった解答用紙を机の隅に裏返しにして置き、頬杖をつきながら窓の外の景色をぼんやりと眺めている。
右手でシャープペンシルをくるくると回しながら、時折、だるそうに首を傾ける。
周囲の生徒や試験監督の教師から見れば、難問に匙を投げて諦めているか、あるいは昨夜のテスト勉強のせいで寝不足に陥っている、典型的な『無気力な生徒』にしか見えないだろう。
一年生の時は、学校でのテストは意図的に「平均点より少し上」の点数になるようにコントロールしていた。
目立つことは、極力避ける。
あまりに成績が良すぎれば、教師から目をつけられ、クラスメイトからも変な注目を集めてしまう。
僕の目的は、あくまで
だから、テストの点数も、八十点や九十点が取れる問題でも、あえて途中の計算式でミスを誘発させたり、最後の問題を空欄にしておくことで、意図的に七十点台に着地させていた。
しかし、今回だけは違う。
図書室で
僕は今回、すべての科目において、持てる知識と計算能力のすべてを動員し、『本気』で解答欄を埋め尽くしていた。
数学のこの応用問題も、
テスト開始から三十分で解答用紙を埋めきってしまった僕は、残りの二十分間、退屈と闘わなければならなかった。
「……はぁ」
僕は誰にも聞こえないほどの小さなため息をつき、消しゴムの角を指先で弾いた。
窓の外では、初夏を思わせる陽光が降り注ぎ、校庭の木々が風に揺れている。
雲の形がゆっくりと変わっていくのを眺めながら、僕は頭の中で今日の夕飯の献立を組み立てていた。
テスト期間中は
鶏肉のみぞれ煮と、オクラと豆腐の味噌汁。
それから、デザートには彼女の好きなプリンでも作ってあげようか。
そんな平和なことを考えながら、僕は気だるげに机に突っ伏した。
退屈な時間の中で、僕の視線は自然と、斜め前方の席に座る一人の生徒へと向けられていた。
──『学園の王子様』こと、
普段の彼女なら、テスト中であろうとどこか余裕を感じさせる、涼しげで美しい姿勢を保っているはずだ。
しかし今日の彼女は、問題用紙に覆いかぶさるようにして背中を丸め、シャープペンシルを握る右手に、指の関節が白くなるほど異常な力を込めている。
その真剣な眼差しは、問題文の一字一句を絶対に逃さないという、鬼気迫る執念に満ちていた。
……すごい集中力だ。
頑張ってるな、
僕は心の中で、彼女のその必死な姿に感心しつつ、どうしようもないほどの愛おしさを感じていた。
彼女がなぜ、あそこまで必死になってテストにしがみついているのか。
その理由を知っているのは、この教室の中で僕ただ一人だけだ。
良い成績を取って、親や教師に褒められたいわけじゃない。
クラスの女子たちに「すごい!」と持て囃されたいわけでもない。
──学年トップ十に入って、僕の部屋で、たっぷりと『ご褒美』をもらいたい。
ただそれだけのためだ。
あの凛々しい顔の下で、彼女の脳内は「ご主人様のご褒美」という極限の報酬への期待と、もしトップ十から漏れたら「次の週末まで完全放置される」という恐怖で完全に支配されている。
学校では『王子様』の仮面を被り、息が詰まるようなサラシで胸を締め付けているというのに、今の彼女の頭の中は、僕に抱かれることへの欲情でいっぱいなのだ。
スラックスの下は、テストの重圧と欲情が入り混じって、きっと今頃、先走り汁でじっとりと湿っているに違いない。
本当に、可愛いな。
早くテストが終わって、たっぷり甘やかしてあげたいよ。
僕が気だるげに頬杖をつきながらそんなことを考えていると、ふと、
そして、周囲の試験監督やクラスメイトに気づかれないように、ほんのわずかだけ顔を斜め後ろに向け、僕の方を盗み見てきたのだ。
僕は無気力な顔を一切崩さず、ただぼんやりと彼女を見つめ返した。
僕と視線が合ったその瞬間。
僕は、彼女にしか分からないような微かな動きで、パチンと小さく右目でウインクを送った。
「っ……!」
僕からの合図。
それは「ちゃんと見ているよ」というメッセージであり、同時に「ご褒美を楽しみにしていなさい」という甘い約束の確認でもある。
彼女は慌てて前を向き直し、再び猛烈な勢いで解答用紙に向かい始めた。
その後ろ姿を眺めながら、僕は再び窓の外へ視線を向け、気だるいテストの時間が終わるのをひたすらに待ち続けた。
「そこまで。筆記用具を置いて、後ろの席から解答用紙を集めてください」
チャイムが鳴り、教師の合図で一斉に生徒たちの動きが止まる。
「終わったー!」
「全然時間足りなかったし!」
教室のあちこちから悲喜こもごもの声が上がり始めた。
プリントが前の席へと回されていく。
僕の前に回ってきた
その瞬間、彼女は周囲の喧騒に紛れて、僕にだけ分かるように、小さく安堵の息を吐き出した。
「……ふぅっ。とりあえず、数学は完璧だよ」
疲労を滲ませながらも、その声には確かな自信と、そして隠しきれない熱情がこもっていた。
僕の出したハードルを絶対に越えてみせるという、彼女なりの強烈なアピール。
僕は相変わらず気だるそうな顔のまま用紙を受け取り、一番上に自分の解答用紙を重ねながら、静かに答えた。
「お疲れ様。その調子なら、目標は達成できそうだね」
「うんっ。……楽しみにしててね」
僕は解答用紙を一番前の席に回しながら、心の奥底でそっと微笑んだ。
思っていた以上に読まれてて驚いております。