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四川蜀中の夏は湿気との戦いだ。
高温多湿な四川盆地の夏は、物が腐りやすい。西蜀に拠点を置く唐門も例外ではなく、外弟子・趙活は特に食材の入れ替えに気を使っていた。外堡を買い戻す程に勢いを取り戻してきたとはいえ、唐門の財政はいまだ火の車だ。食材を無駄にするような事があれば帳簿を預かる三師兄が胃を痛め、金の亡者たる四師兄から罵声が飛んでくる事だろう。少しでも痛みそうな肉や魚はすぐさま干してしまい、保存が効くようにしなければならない。とはいえ干し肉や干物ばかりでは物足りない、特に小師妹にはやはり焼き魚を食べてもらいたい。かくして趙活は何を干し、何を漬け、そして何を生で使うかに頭を悩ませていた。
「弟子よ」
そんな時に厨房の入り口から聞こえてきた声。振り向くとそこには彼の師匠、夏侯蘭が居た。相変わらず室内にも関わらず傘を差し、こちらに柔らかな視線を向けている。
あの雪山での出来事以来、二人は恋仲であり夫婦も同然なのだが唐門内ではそのような素振りを見せない。唐門は風紀に厳しい事でも有名なのだ。
「どうしました、師匠?」
「湯浴みのついでに顔を見に来た。今宵、小屋まで酒肴を持ってきておくれ」
人と交わる事を良しとせず常に唐門の裏山にある小屋で生活する夏侯蘭だが、唯一湯浴みの時だけは唐門を訪ねていた。
女たちはこの幽玄にして凄惨たる女傑の凛とした佇まいにあこがれを抱き、男どもはその美しさに見惚れ、ついでにこの美女を手に入れた趙活に対し腹いせとばかりに暴行を加えた。弟子を虐められて不愉快になった夏侯蘭は男たちの首をねじ切ってやろうかとも思ったのだが、彼らが口々に
「おめでとう!!!」
「お幸せに!!!」
と叫び、血の涙を流さんばかりの表情をしながら趙活に拳を繰り出し蹴りを入れる姿を見て流石にドン引きしてしまった。見る限り本気で命のやり取りをしているわけでもなく、趙活の方も殴られ蹴られながら表情が緩んでいるので、まぁ同門のじゃれあいだと思い気にしない事にした。
夜になり自分も湯を浴びた趙活は酒肴を携え夏侯蘭の小屋へと向かう。足取りはそれは軽く、軽功は普段の3倍はあろうかという程だ。
外弟子としての仕事に追われる趙活だが、師匠の小屋には3日と開けずに通っている。2,3言葉を交わすだけで帰る事もあれば、朝まで獣のようにまぐわう事もある。全ては師匠の機嫌次第だ。
ただ、師匠がそういう事を望む時は大抵
「風呂に入ってくるように」
と言ってくる。という事は今日は純粋に酒を飲み肴をつまむのが目的なのだろう。とはいえ、趙活も男である。そういう事があるかもしれない、あったら良いな、神様お願いしますあって下さい……なんて思いながら風呂に入り身を清めやって来た。
小屋を覗くと師匠は不在だった。珍しいと思いつつきょろきょろとあたりを見回す趙活の頭上から、聞き覚えのある声が聞こえた。
「弟子よ、どこを見ている」
上を見あげ、ようやく師匠の姿を確認する。だが、何かがおかしい。酒肴を届けるべく木の枝の上へと来た趙活は息を呑んだ。
「今宵は満月、酒を飲みながらゆっくり眺めようと思ってな」
そう語りながら月のよく見える枝に腰かける師匠――ここまでは良い。
問題は彼女の服装だった。何と師匠は、裸の上に上衣を肩掛けにしただけの姿だったのだ。白く美しい肌が夜の闇に煌き、すらりと伸びた足や意外と肉付きの良い肢体、形の良い乳房までしっかりと見えていた。
「し、し、師匠!? そのお姿は……!?」
「何を慌てているのだ、弟子は。もうとっくに見慣れていると思ったが」
「そういう問題じゃありません!」
彼女が手を伸ばし酒器を欲しがったので、仕方なく趙活は彼女の側へと行き酒器と肴の器を渡す。師匠は弟子に隣に座るよう顎で命じた。
「酌をしてもらおうか、弟子よ?」
からかうように言う師匠の隣、必死にその姿を見ないようにしながら趙活は酒を注ぐ。
師匠はといえば、面白そうにその姿を眺めながら酒を煽った。
「何で上衣以外着ていないんですか?」
「折角湯浴みをしたのに、汗をかいてしまうではないか。私は雪山の生まれで、暑さにはてんで弱くてな」
その言葉を聞きようやく得心する。いや、それにしたって上衣だけ着て下は真っ裸なのは、相当問題ではないだろうか?
確かにこの裏山には趙活以外、ほとんど足を踏み入れない。特に師匠は人付き合いを厭うているとの認識は唐門弟子の全てが共有している。この裏山に物見遊山で立ち入る者は居ないし、師匠の世話は自分に一任されている。が、そうは言っても誰かが見ていやしないかと気が気でない。あと自分の目のやり場にも困る。流石に師匠の美しすぎる身体を直視する勇気は、無い。
そんな趙活の様子を面白そうに見ていた彼女は、酒器を持ち月を眺めながら詠い出す。
懶 搖 白 羽 扇
裸 袒 青 林 中
脱 巾 掛 石 壁
露 頂 灑 松 風
朗々と詠いあげる師の美声に酔いしれながら、趙活もまた月の方を見て呟く。
「――李白ですか」
「弟子は聡いな。今の状況にぴったりだろう?」
趙活は詩を吟じるのが好きだ。それゆえにいくつかの有名な詩は意味まで頭に叩き込んである。
確か、この詩の意味は……
「扇をあおぐのも面倒だ、林の中で服を脱ぎ裸になって、石壁に頭巾をかける、髪を晒し涼しい風に吹かれよう」
「褒美だ、じっくり師の身体を見ると良い」
「俺にとっては美しすぎます、目が潰れますよ」
「もう君のものだというのに」
妖しく微笑みながら師は趙活の方へと手を伸ばす。一瞬ドキリとするが、師匠は動けない弟子の着る青衣の合わせから遠慮なく手を入れた。
すっかり汗ばんでしまった身体を、白皙の手が撫でまわす。その柔らかさと冷たさに、趙活は己の体温が上がる事を実感した。
「ほら、こんなに汗ばんで。弟子よ、君も脱げ」
「勘弁して下さい。師匠の前で、俺の醜い裸なんて晒せませんよ」
「――ほう、師匠を裸に剥いておいて自分は脱ぎたくないと言うのか」
「いや、俺が剥いたんじゃなくて自分で脱いだんでしょう!?」
「いいや、君が脱がしたのだ」
その言葉の真剣さに、はっとして師匠の方を見る。月明かりの下、酒精で少し赤くなった師匠の顔がすぐ近くにあった。そのあまりの美しさ、艶やかさに趙活はしばし息をするのも忘れる。
「師匠……?」
「君は私を裸にしてしまったのだ。私が着重ねた多くの過去、呪いのような思い出、女魔頭という仮面、それを全て剥し取り、夏侯蘭という剝き出しの女に戻してしまったのだ」
師匠は酔っているのだろうか。それとも素面で言っているのか。
分からないまま趙活はその言葉に聞き入っていた。
「弟子よ、君は自分の顔が醜いと思っている。それ故に己そのものが醜いと勘違いしている。自身が醜く小さいから、せめて分際を弁えようとしている」
「――その通りです」
「師に言わせればな、それは大きな間違いだ。君は裸の自分自身を本気で見つめた事が無い。いつも最初に自分の顔を見てしまい、それ故に己自身を正当に評価出来ていない」
「俺は師匠や他の唐門師兄に比べれば、ちっぽけな人間です」
「あぁ悔しい。師匠は悔しいぞ。私の男をこんなに評価しない者が、この世にいるなんて!」
趙活はゾワリとした感触に自分の胸元を見る。いつの間にか近づいた師匠が首筋から心臓のあたりにかけて、唇を押し付け舌を軽く這わせていた。柔らかな唇とぬめる舌の感触が伝わり、頭がおかしくなりそうだ。
「し、師匠……」
「私の心を裸に剥いたお返しだ。これから君にも自身の裸に向き合ってもらうぞ。私の弟子、そして愛する趙少侠よ」
顔を上げた夏侯蘭の蕩けるような笑顔に、趙活はなすすべも無い。
いつの間にか誇りある唐門の青衣は脱がされ、裸に剝かれている。長年下働きと武練で鍛えあげた肢体を、師匠は愛おしそうに見つめながらのしかかってきた。
「師匠、何か今日は雰囲気が……」
「何か違うとでも?」
「いや、随分と積極的だなと」
普段から愛情深い人ではあるが、今日はいつもと何処か違った。
いつもなら無言で小屋の中、暗いままで服を脱ぎ行為に及ぶ。お互い声を押し殺しながらも内功を巡らせ、言葉はなくとも深く繋がる事に愛を感じていた。
ところが今日はいつもと違う。師匠は積極的に裸を見せつけ、こちらを挑発するような言動を繰り返し、まるで淫婦のように誘って来ているようにも見える。
その推理を裏付けるかのように、のしかかってきた師匠はすっと表情を消し、こちらを見下ろして来た。
ぞわり、と嫌な予感が背筋を寒くする。
「……今日、台所でぶつぶつと言っていただろう?」
「え、何を?」
「『小師妹にはやっぱり焼き魚を食べてもらいたい』とな」
昼間の事、どうやら口に出していたらしい。あの時入り口には確か師匠が居た。もしかしたら、聞こえていたのだろうか。
それを聞いた師匠はこんな事を思いつき、こちらを散々挑発して見せつけるようにして、自分の劣情を煽りながら迫ってきていたわけで……
つまり、これは、いわゆる……嫉妬?
趙活は顔を真っ青にした。どうやら雌虎の尾を思いっきり踏んでしまったらしい。
「いや、小師妹はそういうのじゃなくてですね、師匠、ちょっと聞いてます!?」
「老いた師匠には干し肉を食わせ、若い愛人と一緒に美味い焼き魚を食べようと。そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」
「聞いて下さい師匠、って何処を握ってるんですか!?」
「なに、干物しか食えないのなら君も干物になるまで味わうだけだ」
「え、これ俺命の危機!? 搾り尽くされるって事!? だ、誰か助け――!」
夏日山中、響く蟲の声。
松風がそよぎ、擦れる葉の音。
――夏の夜は、まだ当分終わりそうもない。