変身忍者嵐より 千恵(毒蛾くノ一)の異なる未来第2編・江戸での血車党との対決 作:shpfive03
「失礼します」
いったん奥の部屋に引っ込んだ後に朧が手に持ってきたもの
それは黒の忍び装束であった。
そして朧は
「千恵さん、どうぞ」
と、今、自分が持ってきた黒の忍び装束を千恵に手渡す。
「これは‥‥」
どうやら、これは自分に着てほしいということらしいのだが‥‥
予想もしていなかったことに当惑する千恵に対して朧は
「私が持っている黒の忍び装束の予備のものです。私と千恵さんは体格も大体似ていますし、恐らくは大きさも合うのではないかと思いました」
と優しくささやくように言った。
千恵は思わず赤面する。
「朧さん‥‥」
その様子を見たカスミは思わずうつ向く。
千恵の忍び装束に替えがなく、旅の間に傷みも出ていることはカスミも当然気づいていた。
だが、千恵と比べて小柄な自分の忍び装束の予備では大きさが合わず、といってタツマキやツムジの男物の忍び装束では、なおのこと代わりにはならない。
部屋着、あるいは普段着なら母の恵が着ていたものが大きさも合うようなので丁度よかったのだが‥‥
今夜にしてもだ
いったん明日は洗濯するつもりで、一度はツムジに預けていた黒の忍び装束を慌てて着直す事にもなっている。
いずれは千恵のために新しい忍び装束を用意しなければいけないというのは当然、カスミも理解しており、それはタツマキ、ツムジもとっくに承知していることだったのだが‥‥
「朧様」
カスミはそれでもあえて言わないわけにはいかなかった。
「その忍び装束は確かに千恵さんの身長にも合う大きさだし、千恵さんの忍び装束には替えが必要というのも、当然ながらわかっています。けれども」
朧はカスミのその言葉を聞いても、ただニコニコと微笑んでいる。
「朧様の忍び装束というのは、同時に伊賀藤林組に所属するものの忍び装束でもあると理解しています。現状、千恵さんの今後については、まだ何も決まっていません。朧様におかれましては、千恵さんにこのまま藤林組に入ってもらおうとのお考えなのでしょうか?」
カスミはそこまで言いきった後
「ご承知の事と思いますけど、ハヤテさんも伊賀の特定の組の所属となるのは好ましくないという事情から、今でも血車党時代の忍び装束を着続けています」
とも付け加える。
だが朧は
「カスミさん、気のまわしすぎですよ」
と諭すように言った。
「大体、この私が父上になんの断りもなく、自分の判断だけで、千恵さんの今後の伊賀における所属について決められるわけがありません。そうですよね、父上」
いきなり話を振られた藤林長門は咳払いをしながら
「勿論、そうだ」
と答える。
カスミはそれについては疑っていたが、あえて異議はとなえない。
朧が父である藤林長門に断りなく、先に自己の裁量で決めたことを、後から追認、事後承諾してもらうという評判は、勿論、カスミも知るところである。
彼女はそのやり方で将軍世継ぎの争いで、世継ぎの家光と対立関係にあった駿河大納言(家光の弟である忠長のこと)に味方し、伊賀と敵対関係にあった甲賀との和睦を強引に決めてしまっているのだ。
その摩擦は今でも残ったままであり、その火種は後年になり再び噴き出すことになるのだが、それは先の話である。
朧は更にカスミに対して
「これは、あくまでも臨時の応急措置だと思ってください。今すぐ千恵さんに私たち藤林の仲間となってくださいと言う意味ではありません。勿論、千恵さんがこの先にそれを望むなら、私たちは歓迎しますけど」
と言うと
「そうですよね、夜叉丸?」
と、今度はいきなり話を夜叉丸に振る。
だが夜叉丸は
「勿論ですとも、朧様」
と当然のように答えた。
「私はこの度、実際に千恵殿と行動を共にし、信頼できる方と実感しました。本物の螢火を含む他の皆も、実際の千恵殿を知れば、仲間とすることに異議が出るとも思えませぬ」
「夜叉丸さん‥‥」
千恵はちょっと感動した。
夜叉丸とは今晩初めて会ったばかりだというのに‥‥
「カスミさん、よろしいですね」
と念を押すように朧は言った。
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だが、カスミは
「私はそれについては判断する権限を持ちません。この場での決定権は父であるタツマキにあります」
と、朧の言葉に対する同意をやんわりと拒否した。
本音で言えば悔しかった。
自分だって、ずっと千恵の忍び装束の事は気にしてきたし、時間の余裕さえあれば、それこそ明日にでも動くつもりだったのに‥‥
横からしゃしゃり出た朧に、例え善意であるにしても、このように出られたことを素直に喜べなかった。
「カスミ、気にするでないぞ」
娘の複雑な心中などお見通しなタツマキが早速、カスミに向かっていうと、直ぐに朧の方を向き直り
「朧殿、この度のこと、我ら伊賀の内々のことなど、どうでもいいこと。大事なのは千恵殿本人のお気持ちでありましょうぞ」
と、朧に向かって答え、そして千恵に対して
「千恵殿、遠慮は必要ござらん、我ら伊賀忍内々のことなど、どうでもよきこと。まずは朧殿のご厚意を受け取りなされ!」
と言った。
千恵は少し悩んだあと
「でも、今のカスミさんのお話だとハヤテさんも‥‥」
と言いかける。
だが、皆まで言わせず、ハヤテはそれを制した。
「千恵さん、私には私の事情がある。だが、私の忍び装束は一応予備もあるし、実は前から特定の伊賀の組に属さない私用の忍び装束を専用に用意するという話もあるんだ。とにかく今は朧さんの好意は素直に受け取った方がいい」
ツムジも
「千恵お姉ちゃん、今はその忍び装束受け取っておこうよ。なんなら借りるつもりでいればいいじゃん!」
と千恵に対して言った。
そしてカスミも
「ごめんなさい、千恵さん。私がつまらないこと言ったばかりに‥‥、気にしないで」
と千恵に向かって謝る。
これで千恵も踏ん切りがついた。
「皆さん、ありがとうございます」
千恵は朧から受け取った忍び装束を押しいただく。
朧は笑みを浮かべると
「さあ千恵さん、今夜は頑張って明日に向けての準備をしましょう。カスミさんも一緒に頑張りましょう!」
そして、今度は夜叉丸に向かって
「夜叉丸、早速てすけど百地家、服部家への使者をお願いします。律さん、千秋さんが何か言うようなら、それについては私が対処します。源太夫様、半蔵様については父上の方で」
「ああ、任せろ」
藤林長門は朧に対して、そのように答えた。
「勿論、御公儀、そして奥の方へもワシの方から話は通しておく」
「父上、ありがとうございます」
朧は自らの父に向かって丁重に返事をした。
そして早速
朧とカスミによる、千恵の大奥入りのための稽古が始まることとなった。
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本当に疲れた。
もうダメかもしれない‥‥
さすがの千恵もそう思うしかなかった、
それにしても‥‥
大奥の言葉遣い
子ども→おさなひ
子どもたち→お子たち
泣く→おむつかる
寝る→おしづまる
髪を洗う→おぐしすます
みやげ→おみや
足→おみあし
魚→とと
発熱→おぬる
昼飯→ひるぐご
奉公→宮つかへ
進上物→一折
花一本→一もと
一升→一ます
二つ→一かさね
とても覚えきれない‥‥
千恵は思わず目が回りそうだった。
立ち居振舞いの稽古もやってみると大変!!
歩き方からして注意される。
それにしてもだ‥‥
朧にしても、そしてカスミにしても‥‥
そうした大奥流の言葉遣いや立ち居振舞い、仕草を当たり前のようにしてこなすのには、本当に感心させられる‥‥
なので
「千恵さん、このくらいにしておきましよう」
朧がそう言ってくれた時には、正直ホッとしたものの
明日から本当に大丈夫なんだろうか?
との不安の気持ちも隠せなかった。
そんな千恵の様子を見て、朧はにこやかに微笑む。
「千恵さん、ご心配なさらずとも、私どもも、まさか千恵さんがこういったことを、たった一晩の、それも短い時間で覚えられるとは思ってなどおりませぬ、ご安堵ください」
えっ、じゃあ、なぜこんなことをわざわざ?
千恵の疑問に対して、今度はカスミが答える。
「千恵さん、それでも体で『そういうものなんだ』ということを知っておくだけでも違うのよ。私もそうだったから」
それを聞いた千恵はカスミに問い返す。
「カスミさんも最初は、今の私みたいな感じだったんですか?」
「最初は誰だってそうよ」
カスミが当時を振り返っているのか、懐かしそうに、そう答える。
「私は伊賀で何人かの仲間たちと一緒にこれをみっちりとやったわ‥‥、その時は一日がかりで、教える方の先生も厳しかったから、もう大変!」
そう言ってカスミは特徴的なクスクス笑いをする。
「その時は千秋ちゃんも一緒だったのよ」
千恵はつい、先に相模川岸の血車党との戦いで知り合ったばかりの、百地上忍の娘、千秋のことをあらためて思い出す。
そして
伊賀のくノ一って、本当に大変なんだな‥‥
と思ってしまった。
「とりあえず、明日からの千恵さんには、まだ入ったばかりで右も左もわからない奥女中見習いという役を演じていただくことになります。なるべくカスミさんについていてもらうようにしますから、後は、なるべくボロを出さないように、うまく振る舞ってください。お願いしますね」
「はい‥‥」
千恵は顔を赤らめる。
なんだか、少し気恥ずかしい。
「大丈夫よ千恵さん、私がついているから」
カスミが千恵を励ますつもりなのか、そう言った。
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一段落ついたところで
朧があらためてカスミと千恵の方に視線を向けたあと
「皆様、今晩は刻限も遅くなりましたので、よろしかったらですけど
この際、当家にお泊まりいただいた方がいいようにも思われます。いかがでしょうか?、部屋ならございます」
と、今度は千恵とカスミを待ったまま、その場に残っていたハヤテ、タツマキ、ツムジの三人に向かって言った。
朧の父である藤林長門は、今は御上や奥への根回しの準備のため出掛けており、今晩中には戻ってきそうもない。
百地家と服部家に使者として向かった夜叉丸なら、そろそろ戻ってくるであろうか?
だがタツマキは
「朧殿、忝ない、ご好意ありがたく思いまする。されど」
と慎重に言葉を選びながら
「我が家は、ここ藤林家からも大して離れてはおりませぬし、異変を知り、急ぎ出てきた故、家の中の片付けなどもしなければなりませぬゆえ、今宵はいったん帰宅させていただきたく思うところでございまする」
と、言葉は丁寧にしたものの、要するに『自分の家に帰らせてくれ』という意味の返事をした。
ハヤテも
「朧さん、せっかくのご好意はありがたいと思うのだが、私もハヤブサオーに乗ってきているので、やはり、『彼』をちゃんと休ませてあげたい」
と帰宅についての意思表示をする。
「そうですか‥‥、わかりました」
朧も無理には引き留めようとはしない。
いや、本当は
そういう返事が返ってくるのを承知した上で、朧も、あえて、このように言ってみただけなのかもしれない
少なくとも千恵は、皆の様子を見ながら、そのように感じていた。
朧さん、悪い人ではなさそうだけど‥‥
それでも藤林家の人たちと、タツマキ一家、そしてハヤテさんとのあいだには
目に見えない距離があるのを感じずにはいられない‥‥
千恵は、朧から貰ったばかりの黒の忍び装束を、まじまじと見ながら
そのように思ってしまった。
本当にこれを着てもいいんだろうか?
ほとんど実際には着た様子もなさそうな、新品同然にさえ見える黒の忍び装束
本当に自分と大きさが合うのかどうか、ちゃんと着てみてもよかったのだが‥‥
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暗い夜道ではあるが、夜目がきくタツマキ、カスミ、ツムジ、そして千恵にとっては、それほど苦にはならない。
ハヤテは既にハヤブサオーに乗って、一気に走り去ってしまった。
それを見送ったあと、カスミが千恵に向かって申し訳なさそうに言った。
「千恵さん、今日は本当にごめんなさい。せっかくの江戸入り初日がこんなことになってしまって‥‥」
千恵は、カスミのその言葉を聞いて、思わず微笑む。
「いえ、カスミさん、私、今日はとっても楽しかったですよ」
カスミは、そんな千恵に対して何か言いたそうに口を開きかけたが、黙ってしまった。
「千恵お姉ちゃん、でも相当疲れたんじゃないの?」
と、これはツムジ。
「それは、かなり、こたえましたけど‥‥」
千恵も隠すことなく、ツムジには正直に答える、
「でも、家についてから、少し休ませてもらったから、正直いうと助かりました」
「なら、よかった」
ツムジが安堵したようにいう。
この時、千恵は自分でも意識することなく「家についてから」と答えていた。
まだ、タツマキ、カスミ、ツムジの親子と知り合ってから二週間ちょっとしかたっていないのに‥‥
もう、千恵にとって、三人はかけがえのない人たちになってしまっているのだ。
「千恵殿、よろしいかな?」
と、これはタツマキ。
「はい」
と、千恵はタツマキに対して答える。
「まず今宵はとにかく、ゆっくりと休まれよ。疲れたままの身体では明日から早速差し支えるゆえ。そして」
タツマキは千恵が手に持っている黒の忍び装束に視線を向ける。
「朧殿からいただいた、その忍び装束、早速、明日から使われるとよい。まあ、先ほどカスミが言った通り、うちの組頭である源太夫殿や、服部殿などが何か言って来るかもしれぬが」
タツマキはそこで千恵をじっと見た。
「そのようなことがあったとしても、それはわしの方で対処するゆえ、千恵殿は堂々としておればよい」
が、そこで
「お父さん、でも律さんや千秋ちゃんの方から千恵さんに直接いってくることもあるもしれないわ」
とカスミが注意を促す。
「その時はなカスミ」
タツマキは静かに言う。
「お前が千恵殿を守ってやれ」
千恵は思わず
「タツマキさん、私‥‥」
私なら自分のことくらい何とかします、と、いいかけたのだが
カスミが
「お父さん、わかってます」
とキッパリと答えたので、千恵もその先を言えなかった。
「
タツマキの気遣いを見せる言葉にカスミは
「心配しないで、お父さん」
と笑顔を見せると、千恵の方を振り向き
「千恵さん、明日から一緒に頑張ろうね!」
と明るく言った。
「は、はい」
ドキドキしながらも千恵は
タツマキとカスミ、二人の心配りを嬉しく思った。
「じゃあ、今晩はゆっくり我が家で一眠りすっか!」
ツムジが声をあげる。
「ツムジ、あなた、寝ることばっか、考えてんじゃないの!」
とカスミが突っ込みを入れる。
もうタツマキたちの家はすぐ目と鼻の先である。
千恵はここに『帰ってこれた』ことが嬉しかった。
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千恵はただいま入浴中。
タツマキ一家では風呂への入浴は一人ずつであり、既にタツマキとツムジは入浴を済ませた、
カスミは
「私は一番最後でいいから、千恵さん、先にお風呂に入って!」
と言って、千恵を先に入浴させたのだ。
そして千恵が風呂に入るのを見て、カスミは直ぐに
「お父さん、いい?」
と、既に寝巻きに着替えたタツマキに声をかける。
同じく寝巻きに着替えたツムジも、何だろうと耳をそばたてるが、それもカスミの計算のうちである。
「なんだ、カスミ?」
娘がまた何か企んでいるな、と察したタツマキは、それを隠そうともせずにカスミに向かって返事をする。
カスミはそれを受けてニコッと微笑むと
「お父さん、私、千恵さんだったら
と、さりげなく爆弾発言をする。
タツマキはぶっ、と吹き出した。
「カスミ、お前、いきなり、何を言い出すのかと思ったら‥‥」
ツムジも
「カスミ姉ちゃん、冗談はやめなよ!」
と不満げな顔を見せる。
「あら、私本気よ」
カスミは父親と弟に対して、しれっと言う。
「千恵さんだったらお父さんのことは勿論、亡くなったお母さんのことも大切にしてくれそうだし、ツムジともこの先仲良くやっていけそうだし」
それはカスミがしばらく前から考えていたことでもあった。
「カスミ、千恵殿はハヤテ殿のことを‥‥」
タツマキが言いかける。
タツマキは以前から、千恵が内心ではハヤテに恋心を抱いていることに気づいていた。
「そうだよ、カスミ姉ちゃん、千恵お姉ちゃんの気持ちだって大切にしてあげないと」
ツムジも口を尖らせる。
「あら、あたしの気持ちだって大切にしてほしいわ」
とカスミはキッパリと言った。
無意識に『私』ではなく、『あたし』と言ってしまっているところにカスミの気持ちが表れているな
タツマキは敏感にそれを感じ取っていた
「正直いうと、千恵さんがハヤテさんのことを好きになるのは当たり前だと思ってる。なんと言っても自分を打ち負かした相手であるのみならず
血車党から処刑されそうになった千恵さんを、それこそ危険を省みず助けだし、しかも、それを恩に着せるどころか、共に闘う仲間として受け入れるっていうんだから、女の子として、そういう男性に憧れるのは当然よ。千恵さんだって、まだ数えて二十くらいの多感な女の子なんだし、気持ちはわかるわ」
そこまで言うとカスミは
「でも、私はハヤテさんがそうした千恵さんの気持ちを受け入れてくれるとは思ってないわ」
と言い切った。
「ハヤテさんが『こだわり』を捨てない限り、それは無理、私にはわかるの」
そうでなければハヤテは、とっくの昔に、まず自分の気持ちを受け入れてくれているはずだ
カスミは内心ではそう言いたかった。
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タツマキはここで娘に確認する。
「カスミ、お前はやっぱり、ゆくゆくはこの家を出て、ハヤテ殿に嫁ぐ気持ちでいるのか?」
「ええ!」
何のためらいもなくカスミは断言する。
「私はもう、ずっと前からそのつもり」
「姉ちゃん、だけど、それこそハヤテさんがその気になってくれないと、そうはならないんじゃないの?
ツムジが突っ込みを入れる。
ツムジはここで意識することなく『カスミ姉ちゃん』ではなく、千恵と出会う以前からの『姉ちゃん』という表現を使っていた。
ツムジは前から『カスミ姉ちゃん』という呼び方もしてはいたのだが、以前は単に「姉ちゃん」という呼び方をすることの方が多かった。
それだけになったのは最近のことである。
勿論、それは
ツムジが千恵のことを『千恵お姉ちゃん』と呼ぶようになってから後のことだというのをカスミは知っている。
カスミは前にツムジに対して
「ツムジ、なんで最近私のこと『カスミ姉ちゃん』とだけ呼ぶようになったの?」
と聞いてみたことがある。
その時、ツムジは
「千恵さんのことを『千恵お姉ちゃん』って呼んであげると、綺麗な笑顔で、とても嬉しそうにするんだ。でも、そうすると姉ちゃんと紛らわしいから」
そう答えている。
千恵はツムジに『亡くなった自分の弟である大助の面影』を見ているんだな
それに気づいたカスミは、それからはツムジのその呼び方を受け入れていた。
それが無意識に『姉ちゃん』という呼び方になったのは
ツムジの内心の揺れ動きなのだろうなとカスミは見ていた。
「そうね、ツムジ」
カスミは弟の疑問に対して、とりあえずの返事をする。
「でも、百歩譲って、例えば私が松丸様に嫁ぐ、あるいは細川様の側室として小倉に行くなんてことになったとしても、あるいは他に好きな人が出来て結ばれるとしても」
勿論、カスミ自身にはそんな気はないのだが
「生前のお母さんも言っていたことだけど、私がいつの日か、この家から出るのは間違いのないことなのよ。この家の
「そりゃ、わかってるさ。でも‥‥」
ツムジはぶつぶつ言う。
そんなツムジに、カスミは
「今だって、私は御公儀から直接、自分の分としての禄と御役料をいただいているわ。本当なら、もう家を出ていてもおかしくないのよ」
と言った。そして
「お父さんだって、本当は千恵さんのことを憎からず思っているんでしょう?」
と、今度はタツマキに向けて確認をする。
「う、ううむ‥‥」
タツマキは答えに窮した。
カスミは敏感に、タツマキの千恵に対するほのかな好意にも気づいていた。
それは、もしかしたら父親が娘の心配をするのにも似た感情かもしれない。
カスミは、父であるタツマキと
千恵の亡くなった母親である蛍との関係についてはよくは知らない。
が、タツマキが蛍に対して、敵ではあったとしても
何らかの好意的な感情を持っていたのは、恐らく確かだろうと思っている。
最初にハヤテが傷つき、意識を失った千恵を自分たちの前に連れてきた、あの時
タツマキが千恵に向けていた視線を見ていたカスミは、それを確信していた。
ここでツムジが
「カスミ姉ちゃん、でも、歳だったら親父より、おいらの方が千恵お姉ちゃんにはずっと近いんだよ」
と言い出した。
カスミは弟であるツムジのその言葉を聞いて、思わず
えっ?
と、思ってしまった。
確かにツムジは今年、数えで14-になる。
千恵が数えで二十として、ツムジとそう極端に歳が離れているわけでもない。
少なくとも親子ほども歳が離れているタツマキに比べたら、ずっと近いとは言えるだろう。
カスミがそこでツムジに何か言いかけたとき
「皆さん、千恵はお風呂から出ました」
と入浴あがりの千恵の声が聞こえる。
「カスミ、その話はまた今度にしよう」
タツマキのその言葉にカスミ、ツムジとも頷いた。
確かに今は、まだそこまで話を詰めることは出来ない。
いずれは
千恵の気持ちも、きちんと確かめなくてはいけないことであり
その事は親子三人とも承知していることである。
今のところはまだ
内緒話である。