校門をくぐったところで碧依と別れ、俺は家庭科室へと向かう。
暑い中で走ったせいで汗だくだ。背中に張り付いたシャツが気持ち悪い。
碧依も汗ばんでいたけど、あいつは水泳部だからプールもシャワーも浴びれるのか。羨ましい。
代わりにグラウンドの方から聞こえる野球部の声を浴びながら、俺は休日の校舎を歩いた。
「あ、イサくん。来たね」
「お疲れ様です、柚鈴先輩。……あれ、遅刻じゃないですよね?」
「大丈夫、ちゃんと間に合ってるよ」
廊下にいた柚鈴先輩が俺に気付いて出迎えてくれた。
すでに花柄のエプロンをつけて準備万端のようだ。
花咲くような笑顔で家庭科室へと俺を先導してくれる。
教室の中には先輩たちも全員揃っていた。
俺はぺこりとお辞儀をしつつ、シャツの袖で汗を拭きながら席についた。
「おっ。おつかれ〜イサくん。ずいぶん汗だくだねぇ」
「どうも。ちょっと寝坊しちゃいまして。走ってきたんです」
「あはは、確かにちょっと寝癖残ってる。さては夜更かししたな〜?」
どこかほんのりと甘い教室の中に、女性たちの賑やかな声が和気藹々と響く。
この雰囲気にもすっかり慣れてきた俺も自然と会話に混ざった。
すると突然、俺の腹の中から獣の唸り声のような音が鳴り出す。
隣にいた柚鈴先輩が驚いて俺を見た。
「あ、すみません。飯も食う時間がなくて」
「こら、イサくん。食事はきちんと摂らなきゃだめだよ」
「すみません……。きっと調理中もぐぅぐぅ五月蝿いんですけど、許してください」
「ふふっ。今日も作り甲斐があるみたいだね!」
お姉さん顔をする柚鈴先輩に思わず笑みを溢してしまう。
村にはこんな包容力満点の年上女性なんて居なかったから、話しているとなんだか不思議な気分になるんだよな。
ガラガラと教室の扉が開いて顧問の先生も入ってきた。
そろそろ始まる時間か。今日はたしか、中華を作るんだっけ。
ぐぅ、と再び腹が鳴る。柚鈴先輩がくすくす笑った。
そして先輩はそっと俺の耳に口元を近づけると、楽しげな声でそっと囁く。
「イサくんの分だけ、大盛りにしてあげる」
耳にかかる息がこそばゆくって、俺はぴくりと肩を跳ねさせながら先輩を見返した。
先輩は小さな悪戯でもするような表情で笑っている。
「ふふ、特別だよ?」
陽だまりみたいなその笑顔に、思わず心を奪われる。
直後、胸の奥へ静かに落ちてきた罪悪感に、俺はそっと目を伏せた。
そして言葉の代わりに、小さな頷きだけを返したのだった。
テーブルの上に並んだ大皿はどれもすっかり空になっていた。
腹を満たす幸福感。俺は少しの眠気を感じながら先輩たちと雑談に興じていた。
「いやぁ〜、いい食べっぷりだったねぇ。昼ごはんを抜いてきたにしたって相当な量だったのに」
「もう作りすぎを心配する必要もなくなったね。やっぱり男子がいると色々助かるや」
今日は中華料理をみんなであれこれ作ったが、張り切りすぎてすごい量になってしまったのだ。
軽く昼を食べてきている人ばかりだから、余った料理が次から次へと俺の腹へ押し込められたのである。
ああ……やばい苦しい。つーか眠い。血糖値が爆発してる。
腹をさすりながら座る俺へ、一人の先輩が話しかけてくる。
「イサくんって一人暮らしなんでしょ? 珍しいよね。普段もご飯は全部自分で作ってるの?」
「ああ、そうですね。今日みたいに寝坊しなければ、ですけど」
学校では未だに、俺は一人きりで暮らしているという設定だった。
俺の返事を聞いた他の先輩たちもこちらへ注目してくる。
「え! 一人暮らし? いいなぁ、全部自分の好き放題じゃん。羨ましい〜」
「でも家事も全部自分でやるって事だよね? 風呂掃除とか大変そう」
「ああ風呂は碧依が……あ、いや」
「あおい? ……えっ!? えっ!? もしかして彼女!?」
し、しまった。食後の眠気でつい素直に答えちまった。
目の色を変えて湧き立つ先輩たち。俺は慌てて訂正を入れる。
「ああいやっ違います。隣の部屋に住んでる幼馴染です。……そのー、たまに? 掃除しにきてくれるんですよ」
「ええっ何それ! 通い妻じゃんっ」
「イサくんも隅に置けない男だねぇ。女の子を掃除に呼びつけるなんてワルい子だぁ」
「いやちがっ……違くはないんすけど、う、うーむ……」
先輩方はなおも好き放題に俺と碧依の関係を探ろうとしてくる。
こ、困ったな。何て言い訳したらいいんだ。完全に油断してた。
口の中で言葉を転がすことしかできない俺へ、隣に座る柚鈴先輩からも言葉がかけられる。
「たしか、水白さんだよね。水泳部の。最近よく名前を聞く気がする」
「え、あいつのこと知ってるんですか?」
「名前と顔だけだよ? とっても美人な後輩がいるって、噂でね」
「あ、ウチもそれ聞いたかも。……え、イサくん、その子に風呂掃除させてるの?」
「うぐぐ、本当にたまに! たまにだけです! 別に頼んでるわけでもないし」
俺の回答は、先輩たちのお気に召すものではなかったらしい。疑いの眼差しや呆れた目線が俺に向けられる。
……そりゃまあ、いくら幼馴染で隣の部屋でも、風呂掃除なんかさせたりしないよな……。
一人の先輩が冗談混じりに言う。
「イサくん、悪い男だったんだ……一人の女の子を弄んで……」
「いや人聞きわるっ! ちょ、勘弁してくださいよ」
「あっはは! 大丈夫、部外の人には言わないから」
うぬぬぬ。部内では言いたい放題とでも主張するつもりじゃないだろうな。
せっかく家庭的で無害な男という印象を作ってここまでやってきたのに、それが全て崩れかかっている。
どうしたものかと悩んでいると、別の先輩がとんでもないことを言い出した。
「よし! 私たちがイサくんのためにひと肌脱ぐ時が来たね」
「え?」
「今度イサくんのお家にみんなでお邪魔させてよ! 幼馴染の子の代わりに掃除もご飯もやってあげるからさっ。名付けて、イサくん更生大作戦ッ!」
「それ、イサくんちに遊びに行きたいだけでしょ」
「はいそうですっ! 一人暮らしの部屋、みんなも見てみたいでしょ?」
や、やばい、そんなの絶対無理だ!
慌てて断りを入れようとするが、先輩たちは予想外の盛り上がりを見せている。
まだ俺は何にも言っていないのに、持っていきたいゲームやお菓子の話まで始まっていた。
わいわいと姦しい彼女たちを、部長がようやく嗜める。
「こらこらみんな、まだ勇雄君は良いなんて一言も言ってないよ」
「あ……ごめんねイサくん。勝手に話進めちゃって。……遊びに行くの、ダメかな」
「……その、部屋も広くないし、けっこう汚いので……」
「うちの部は人数少ないし、掃除も手伝うよ?」
「ああっと……人に見せられる状態じゃないというか」
「ええっ、そんなに? 大丈夫? ちょっと心配にもなってきた……」
不安顔になった先輩の表情に俺も大きな罪悪感を抱いてしまう。
別に招くのが嫌なわけでは決してないし、実際のところ全く汚れてもいない。
ただ、碧依との同棲がバレたくないだけだ。
「すみません……どうしてもちょっと……」
「そっかぁ、残念。……ごめんね! 私が急に無理を言ったせいで、言いにくい事を言わせちゃった」
「ああいや、全く気にしてないし俺が悪いので」
「お詫びに今度何かデザートでも奢るよ。みんなでお出かけするのは平気でしょ?」
「あ、それなら全然。ぜひ行きたいです」
非常に申し訳なさそうに先輩が謝って、すぐに話を変えてくれた。
本当のことを隠しているのが俺をこれほど苦しめたのは初めてだった。
先輩方は来週あたりに部活のみんなでランチにいく計画を立てている。
俺はその楽しげな会話を眺めながら、まだ喉につっかえたままの罪悪感に思いを馳せた。
そもそもどうして隠してたんだっけ。いや、理由なんて別に無いのか。
ただ何となく恥ずかしいのと、碧依が困るかもしれないから。それだけだ。
(むしろ、俺にとって都合がいいのは……)
全て明らかにして、碧依と俺との関係を誰もが認めるようにしてしまう。
そのほうがずっと簡単なんじゃないか。既成事実みたいにできるんじゃないか。
告白もせずにそんな打算を浮かべる俺は、自分に呆れてこっそり溜息を漏らす。
そして隣に座る柚鈴先輩だけが口を閉ざしていることに、俺は最後まで気付かなかった。
日も沈み始めた頃、全ての片付けを終えた俺たち料理部は教室を後にした。
顧問の先生はとっくに去り、多くの先輩も先に帰っていく中で、たった二人だけは教室の前に残っている。
俺と柚鈴先輩だ。
「それじゃあイサくん、行こっか」
「はい」
校舎の出口とは真反対へ、二人揃って足を進める。
横に並んだ距離は、碧依とのそれより拳五つ分だけ遠い。
誰もいない静かな廊下を二人の足音だけがこだまする。
「二人で話すのは初めてだね。二週間経ったけど、どうかな。料理部は楽しい?」
「はい、すごく楽しいです。思った以上に勉強にもなるし、入ってよかったです」
「えへへ、そっか。ちょっと安心」
ほんわかした雰囲気。だけどどこか落ち着かない。
柚鈴先輩の隣はいつもほんのり甘い花の香りがする。二人きりだとその香りが一層大きく俺を包み込んでいるような気がして、心臓の鼓動が早まった。
落ち着け、俺。別にこれはただの部活の一環だろ。なんで緊張してるんだよ。
会話しながら内心で自分に呼びかけるが、あまり効果はなかった。
休日の家庭科室は施錠が原則だ。部活のある時は職員室にある鍵を取りにいく必要がある。
顧問の先生もいるが、基本は生徒が鍵を管理することになっているのだ。
今はその鍵を返しにいくところである。
「鍵の置き場所は分かりやすいし先生もいるから、気負わなくていいからね」
「俺、見たことあります。入り口すぐの壁ですよね」
「うんうん、そうだよ。鍵をかける場所にも教室ごとに名前が書いてあるから、とっても簡単」
鍵は後輩が開けて、後輩が返す。当たり前だがそういうルールだ。
俺にとって休日の部活動は今日が初めてなので、柚鈴先輩が鍵の扱い方を教えてくれているのだった。
あっという間に職員室に着いて、柚鈴先輩に続く。
「失礼します。……先生、料理部です。鍵を返却します」
「う〜い、お疲れさん。気をつけて帰れよぉ」
「はい、ありがとうございます」
近くにいた先生に柚鈴先輩が声掛けて、鍵を壁のフックに戻す。それで終わりだった。
職員室にいたのは十秒かそこらだ。けっこう雑な管理だな。
「はい、これでおしまい。借りる時も今みたいに、近くの先生に言ってから取るだけだよ」
「分かりました。……なんか、思ってた三倍くらい簡単ですね」
「ふふ、先生もみんな慣れてるからね。それじゃ次回からは早速、イサくんにお願い」
「はい」
そうして来た道を引き返す。俺は未だに柚鈴先輩との距離を測りかねていた。
村の時みたいに年齢問わず全員が気心知れた間柄ってわけじゃないから、どんなテンションで話を振ればいいのか分からない。
口数少なに隣を歩いていると、柚鈴先輩の方から話しかけてくれた。
「イサくんはそのまま帰るの?」
「いや、スーパーに寄って食材を買い足そうかと」
「もしかして、サンリーフマート?」
「えっ、はい。そうです。……なんで分かったんですか?」
家の最寄りのスーパーマーケットだ。碧依と行く時もいつもそこだった。
都会の街だけあってスーパーは沢山あるらしいのに、どうしてそこだと分かったのか。
柚鈴先輩は少しだけ申し訳なさそうに答えをくれた。
「……実は、何度かイサくんをそこで見たことがあって」
「え!?」
「私、あの近くに住んでるんだ。よくあそこに買い物に行くの」
「ええ〜、そうだったんですね。俺の家もあの近くです」
「やっぱり。きっとそうなんじゃないかと思ってたんだ」
全然気が付かなかった。何せ田舎者の俺だ、でかいスーパーは未だに行くたびワクワクしてしまう。
あれこれ色んな商品に夢中で人の顔なんか見る余裕がなかったのだ。
「声をかけてくれてもよかったのに。俺は休みの日でも気にしないですよ」
「ふふ、ごめんね。あんまりにも楽しそうに買い物してるから邪魔しちゃ悪いかなって」
「そ、そんなに楽しそうでした?」
「うん、すごくね。それに……いつも一人じゃないみたいだったから」
「あ…………」
そうだ、今までは必ず碧依と一緒に行っていたんだった。
俺を見たなら当然、隣にいる碧依の事だって気づくはずだ。
「水白さんだよね。イサくんがいる時は必ず隣にいる子」
「あ、ああ、そうです。あいつも一人暮らしなんで、部屋も隣だし一緒に買い出しに行くんですよ」
「……そうなんだ。すごく、仲が良いんだね」
「……まあ、村にいる頃からの腐れ縁ですかね」
校舎の出口が見えてきた。玄関には誰もおらず近くの廊下にも人の影は無い。
俺は柚鈴先輩の隣で歩きながら、正体不明の焦燥感に追われていた。
玄関の下駄箱の前で先輩が立ち止まる。
そしてゆっくり俺の方を見た。その表情は、どこか不安そうな影のある笑みだった。
「……イサくんは、本当に水白さんとお付き合いしていないの?」
「え……その、はい。誓って本当です」
「お家にも招くし、買い物も必ず一緒なのに?」
「ああと、そうですね。あいつに対しては今更恥ずかしいとかも無いので」
あれほど先輩たちを家に招くのを拒否したのに、碧依だけを受け入れてるのは確かに不自然だ。
休日の買い出しだって、同じ部屋に住んでもない相手と必ず一緒というのは違和感があるだろう。
背中を流れる汗が次第に冷たくなっていく。
「実は今日も、たまたま廊下から見えたんだ。水白さんと一緒に走ってくるところ」
「え、あ、だから廊下ですぐ会ったんですね」
「うん。……ごめんね。覗くつもりはなかったんだけど、随分あわてて走っていたから目について」
「あちゃあ。せっかく呼吸を整えてから来たのに、柚鈴先輩にはバレてたんだ」
「うん。ふふ、いくら暑くてもあんなに汗だくじゃバレバレだよ」
くすくすと笑う先輩。いつもの花開くような笑みとは違うどこか不安げな笑い。
さっきから微妙に俺と目が合わない先輩は、確かめたくない何かへと触れるように言った。
「あの子に起こしてもらったの?」
「えと、はい、そうです。
そう答えた瞬間、先輩の笑みが寂しそうに消えていった。
一泊の間を置いて、小さな微笑みが戻ってくる。だけどそこには明らかに、悲しみの色が含まれていた。
「短い付き合いだけど、わたし、イサくんの癖を一つ覚えたんだ」
「……癖?」
「何かを誤魔化すときには必ず、右手で頬を掻く癖」
「——!」
碧依にも言われた事だ。あれ、もしかして俺いま、頬を掻いていた?
言われてから気付く。俺の右手は確かに顔のすぐ横に持ち上げられている。
「イサくん、スマホの通知は全部切ってるでしょ」
それも半分正解だった。
電子機器に慣れない田舎育ちの弊害だろうか、隙あらばピコンと鳴るのがどうにも五月蝿くて、音だけが出ないように設定しているのだ。
電話で起こすことなんか、出来るわけがない。
「休日の部活が初めてだから、一応わたしからも昼に連絡を送ったの。だけど全然返事がなくて、心配になって廊下で待ってたんだ」
「…………すみません、気付かなくて」
「ううん。全然いいの。急に連絡したわたしも悪いから」
料理部のSNSグループに入れてもらったから、そこから俺個人の連絡先をたどって電話か何かしてくれたんだろうな。
ポケットからスマホを取り出せば、確かに通知が表示されていた。
もう、誤魔化しようもない。俺の嘘が一つ見抜かれた。
柚鈴先輩は、慌てたように俺に話を続ける。
「あっ違うの! イサくんを責めたいわけでも問い正したいわけでもなくて、ただ心配でっ」
「……え?」
「どう考えても水白さんとはお付き合いしていそうなのに、頑なに認めないから……。何か問題とか、悩みとか、大きなモノを抱え込んでいるんじゃないかって、そう思って」
「あ、ああ、そういう」
「……ごめんなさい。こんな風に質問責めして追い詰めるつもりなんてなかったんだけど」
柚鈴先輩はいよいよ泣きそうな表情になって俯いてしまう。
ふわりと波打つ茶髪が揺れて、まるで太陽を失った花のようにしおらしい。
俺も焦って先輩へ答える。絶対に泣かせるわけにはいかないという一心で、必死になって言葉を捻り出す。
「いやっ、その、全く気にしてないです。むしろ下らない嘘を吐いた俺の方が悪くて、柚鈴先輩が謝る必要なんて」
「…………」
俯いたままの先輩。前髪に隠れそうになる大きな瞳は、うるうると水を抱えて今にも溢れそうだった。
小さく引き結ばれた唇は開くことを知らず、ただ何かを堪えるように黙り込んでいる。
俺の焦りはどんどん募って、混乱すら抱えながら口を動かし続けた。
「ほんとに、心配をかけるような事は何にもないんです。碧依とは本当に付き合ってないし、完全にただの幼馴染ってだけで」
「……昔付き合ってたとか……」
「無いです。俺もあいつも恋人なんか一度も出来た事ないし、今も無い」
「……誰にも見せられないほどお家が大変なのは……」
「ただ見せたくないだけです。別に悩みすぎて掃除も手につかないとかじゃなくて、ただ俺が他人に家を見せたくないだけ」
先輩の顔が上がって、潤んだ瞳が俺を射抜いた。
さっきまでのような悲壮感は消え失せており、今は何かに縋るような感情の読みにくい表情だ。
「さっきの電話の件は……」
「……すみませんでした。ただの見栄っ張りです。幼馴染に起こしに来させてるなんて他の人に言いにくくて」
あまりにダサい言い訳。本当とは言えないが、嘘でもない。
これが俺の言える限界だった。
それを受け止めた先輩は、パチリと目を瞬かせて。
「…………ふふ、何それ」
気が緩んだようにふっと笑った。
柚鈴先輩の表情や身体から緊張感が抜けたのを感じ取る。
まだ少し潤んだままの瞳の端を指で拭いながら、先輩は申し訳なさそうに口を開いた。
「……ああもう、わたし何してるんだろう。ごめんね、イサくん。一人で勝手に心配して、一人で勝手に落ち込んで。情けない先輩だ」
「情けなくなんか、ないですよ。そこまで本気で心配してもらえるなんて、素直に嬉しいです」
「……そうかな。急に泣き出したりして、引いてない?」
「まさか。俺の下手な誤魔化しのせいで心配かけてしまって、こちらこそすみません」
「ううん、いいの。……でも誤魔化すのがヘタなのは、確かにそうだね」
「うぐ」
ようやく柚鈴先輩が普段通りの顔を取り戻した。
ほんの少しだけ赤く染まった頬や目元だけが、普段と違う色気をまとって俺をたじろがせる。
柚鈴先輩と、ようやく目が合う。
そして彼女は、ふわりと笑った。
雨上がり。曇り空を抜けた陽射しが一輪の蕾を照らす。
そんな情景が、どうしてか脳裏によぎった。
「それじゃイサくん、一緒に帰ろっか」
「へ」
「彼女、いないんでしょ? だから二人きりで帰っても平気。……だよね?」
「……はい」
柚鈴先輩がすたすたと歩いて先に靴を履き替える。
俺はその後ろ姿を黙って見ているだけだった。
「……あれ、イサくん?」
どうして、動けないんだろう。
胸はこんなにも温かいのに。こんなにも高鳴っているのに。
心のどこかが、静かに立ち止まっている。
「……まだ、帰らない?」
どこかで俺を呼んでいる。先輩ではない誰かが俺を。
首が勝手に背後を振り返った。……誰もいない。
声は最初から聞こえていなかった。俺を呼んだのは音ではない何かだった。
視線を前に戻せば、酷く不安そうな顔で俺を見つめる柚鈴先輩。
胸に差しかけた春の日差しがまた静かに翳っていく。そんな表情で玄関の先に立っている。
(…………)
しん、と玄関に静寂が響き渡る。それは痛いほど鼓膜を打った。
とん、とようやく踏み出した俺の一歩がその凪を破る。先輩が安堵したように息を吐く。
二歩、三歩と歩いて、先輩に向かい合った。
綻びかけの蕾のように控えめな微笑みが俺を迎える。
「行こう、イサくん」
俺は、ゆっくりと口を開いた。