「……ん」
そこから眠たげな顔を覗かせた幼馴染は、ふわ、と小さく欠伸を零した。
寝癖の目立つ長い髪。
シワのついたパジャマ。
まだ半分閉じたままの瞼。
不意打ちみたいな無防備さに、朝から心臓が変な音を立てた。
「おはよ……」
「……おはよう。もう朝メシできてるよ」
んふふ、と碧依が眠たげに笑って、朝食への期待を覗かせながら洗面所へフラフラ歩く。
その警戒心ゼロの後ろ姿を横目で眺めながら、俺はテーブルに料理を並べた。
同棲生活は、今日で一週間になる。
しかし俺は未だに、彼女の一挙手一投足にいちいちドキドキさせられているのだった。
ご飯は三食必ず一緒。俺が作って彼女が片付ける。
出かける時でも二人で並んで歩き、家ではソファに並んで座る。
近くのカフェでお茶したり、小さなテレビでゲームをしたり。
こんなのもう、恋人以外の何ものでもないんじゃないか?
何度もそう思っては、まるで意識していなさそうな碧依の表情に胸を苦しめる日々だった。
そうしてついに迎えた今日が、高校の入学式であるのだった。
俺の両親や碧依の母親も来ると聞いている。
テーブルでは、半分しか目の開いていない碧依が美味しそうに朝食を食べている。
いつ見ても心底幸せそうに口を動かす彼女の顔に、俺は懲りもせず見惚れてしまうのだった。
「寝坊、しなかったな」
「子供じゃないし」
「でもいつも昼前まで寝てたろ」
「春休みは人生の、モラハラリウム? だもん」
「ぶふっ、モラトリアムな」
「……うるさい」
食事を終えて片付けを済ませ、俺たちはそれぞれの部屋へ戻る。
高校には碧依以外の知り合いはいない。これから全く知らない環境に身を投じるのだ。
俺はほんの少しの緊張を抱えながら、真新しい制服に袖を通した。
意外にも碧依の方が先に着替え終わっていたらしい。
洗面所で髪を整えた彼女が、制服姿で俺の前に現れた。
そして思わず、言葉を失って見惚れてしまう。
白いブラウスに紺のブレザー、襟元には小さな赤いリボン。
膝丈のスカートから伸びる細い脚に、膝下までを覆う黒いソックス。
真新しい制服はどこかまだ初々しく、それでも不思議なくらいに似合っていた。
丁寧に梳かした黒髪が、朝の光を受けてさらりと肩を揺れる。
着飾っているわけじゃないし、化粧だってしていない。
けれど、そんな飾り気の無ささえ、完成された美しさのように思えた。
昔からずっと一緒にいた幼馴染。
見慣れているはずだった。知り尽くしているはずだった。
そのはずなのに。
春という季節が生み落とした今の彼女は。
まるで、知らない誰かに思えるほど、綺麗だった。
「どお? ヘンじゃない?」
くるり、と碧依がその場で回る。
揺れたスカートの裾と黒髪が、春の光を掬うみたいにふわりと舞った。
気づけば、俺の口が勝手に動いていた。
「……めちゃくちゃ可愛い」
「へ」
碧依の動きが止まる。
ぱちり、と瞬きをひとつ。
数秒遅れて、白い頬がじわじわと朱に染まっていく。
その熱は耳まで伝い、まるで隠しきれない赤色を抱えていた。
消え入りそうな声で碧依が零す。
「あ、ありがと……」
「……お、おう」
沈黙が落ちる。
窓の外を走る車の音だけが、やけに遠く聞こえた。
……き、気まずい。
いや、なんで言った俺。
なんでそんな素直に言っちゃったんだ。
お互い目線を外して、黙り込むこと数秒。
俺はついに居た堪れなくなって、誤魔化ように口を開いた。
「……ほら、もう行こうぜ。入学式から遅刻はマズイだろ」
「……うん」
ぎこちない返事。
この一週間、同じ部屋で暮らしてきたけれど。
こんなふうに頬を染め、落ち着かなさそうに視線を揺らす碧依を、俺はまだ知らなかった。
互いにどこかソワソワとしたまま、手提げ鞄を抱えて玄関へ向かう。
陽気な春の朝日に照らされながら、二人で並んで道を歩く。
けれど火照った耳だけは、きっと、陽射しのせいじゃなかった。
高校の玄関口に貼り出された紙の前には、新入生達の輪がいくつも出来ていた。
ざわめきと笑い声に、真新しい制服の匂い。春特有の浮ついた空気が、校舎全体を包んでいる。
その人混みの中で、俺は自分の名前を探す。
——あった。一年C組。
そこに並んだ碧依の名前も見つけて、心の中でだけ小さくガッツポーズをする。
隣に立つ碧依は、特に嬉しそうな様子もなく紙を眺めていた。
いつもの眠たげな顔。淡白でどこか気怠そうな表情。
しかし長年隣にいた俺には、その内心が分かる。
至極単純だ。緊張と眠気で表情筋が死んでいるだけ。
たぶん今も碧依の頭の中では、自己紹介や友達作りへの不安が渦巻いているのだろう。
……俺と同じクラスになったこと、少しは喜んでくれているといいんだけど。
俺の両親はまだ到着していないらしい。碧依の母親もだ。
どうやらバスが少し遅れているらしい。
ど田舎すぎて本数が少なく、ギリギリの便しか無かったようである。
先にオリエンテーションがあるらしいので、二人で玄関を通って教室へ向かう。
一年C組。小さなプレートが掲げられたドアを潜った。
教室の中では、全く同じ制服を着た同級生たちが、浮き足だった雰囲気で思い思いに話し始めていた。
初対面同士のぎこちない会話が聞こえる。知らない名前に、上擦った笑い声。
教室全体が、まだ誰のものでもない空気に満ちていた。
教室の入り口に席順も貼られてあった。出席番号順に座るらしい。
「……うわ、まじかよ」
つい、小声で呟いてしまった。
教室の一番右の最前列。ドアの目の前が俺の座席。
なんでもかんでも最初にやらされる、最悪なポジションだった。
中学校でも同じだった。街なら人数が多いから三番くらいになると期待していたのに。
文句を言っても名前は変えられないので、渋々といったように机へ座る。
その間に、碧依も自分の席や番号を確認していた。
出席番号は男子と女子で前後に分かれて振り分けられるらしい。
俺とは正反対の方向へと、彼女は一人で向かっていった。
開きっぱなしの教室の扉からは、少しだけ冷えた春風が俺の両脚を撫でていく。
故郷からは俺と碧依しかここへ進学しなかったから、他に知り合いは誰も居ない。
教室の賑やかな雰囲気にも慣れることが出来ず、俺は一人でぼんやりと座っていた。
不思議な居心地の悪さを持て余していると、急にすぐ後ろから声が掛けられた。
「よう、よろしくな!」
身体ごと振り返って声の主を見れば、スポーツ刈りの精悍な顔付きが目に入った。
瞳は凛々しく快活そうで、口元には楽しげな笑みが浮かぶ。
親しみやすさを全面に出す、野球部っぽい男子だった。
「……ああ、よろしく。俺、石崎」
「オレは江島。お前のおかげで一番は回避できたわ。サンキュな!」
「ほんと、最悪だよ。たぶん自己紹介も俺が最初だよな」
「がっはは。まあまあ、何を話したかなんて二日も経てば誰も覚えちゃいないって」
豪快な笑い声が賑やかな教室に混ざる。
初対面とは思えない気安さに、いくらか緊張もほぐれてきた。
互いの話をあれこれ喋りつつ、担任がやってくるのを待つ。
窓の外では、春の風が桜を揺らしている。
俺の高校生活が、静かに幕を開けようとしていた。
俺たちのクラスの担任は、眼光の鋭い女性教師だった。
黒いスーツに包まれた長身に、長いストレートの黒髪。
四角い黒縁メガネの奥では、冷たく鋭利な瞳が俺たちを見渡していた。
その先生が教室に入ってきた途端、それまで騒がしかった教室が嘘みたいに静まる。
……な、なんか怖そうな先生だな。
イメージ通りの厳格そうな声で、その先生は
名乗りもそこそこに、全員が半ば流されるように教室から連れ出され、入学式の会場へと案内されたのだった。
「——以上をもちまして、新入生代表の挨拶とさせていただきます」
椅子に座った俺の目の前で、壇上に立つ同学年らしい男子が声を震わせながら頭を下げた。
つい俺も礼を返しそうになって、周りが頭を下げないので踏みとどまった。
……昔から苦手なんだよな。頭を下げたり下げなかったりする、式特有のこの空気感。
最初は身体を固くしていた緊張も、校長や来賓の長々した話を聞くうちに消えていた。
最後に校歌斉唱を聴いて、俺たちの入学式は閉会したのだった。
結局会えなかったけど、母さん達は無事に間に合ったのかな。
教室に戻った後は、
自己紹介は案の定、俺からスタートである。
軽く深呼吸してから立ち上がった。
「石崎勇雄です。
田舎者なので街の暮らしには疎いです。色々教えてもらえると嬉しいです」
簡潔で内容の薄い自己紹介。それでも鼓動は少し速くなっていた。
軽く頭を下げてから席に座った時になって、もう少し話せば良かったかと僅かに後悔する。
けれどそんな俺の不安も置き去りにするように、江島も勢いよく立ち上がって自己紹介を済ませた。
どんどんと進む発表に、せめて苗字だけでも覚えるようにと聞き入る。
……ダメだ、こんなに沢山の人と会うのが初めてすぎて覚えられない。
男女比はほぼ半々。あっという間に女子の番が来た。
内気そうな子やちょっとギャルっぽい子まで、田舎じゃ見た事のない雰囲気の人も多く居る。
そして多くの者が発表を終えてあと数人といった時。
——不意に、教室の空気がシンと静まった。
「……水白碧依です。杣里村出身です。
水泳部に入ろうと思ってます。よろしくお願いします」
簡潔な挨拶。だけど誰もがそれに聞き入って、彼女の事を目に焼き付ける。
静かな湖畔のように落ち着いた雰囲気に、皆が呑まれているのを感じた。
碧依は、この街でもやっぱりとびきりの美人なんだ。
誰かが小さく息を呑んだ音がする。
次の自己紹介をする子は、少しやりにくそうだった。
誰もその子の言葉が耳に入ってすらいないような。浮ついた空気感。
碧依が残した静かな波紋は、まだ教室の底で揺れていた。
そうして終わった自己紹介は、なんだか変な雰囲気を教室に残していったのだった。
自己紹介後は皐月先生が色々な連絡事項を説明して、途中からは保護者も教室に入ってきた。
チラリと見やれば両親たちの姿もある。どうやら無事に辿り着けたらしい。
学校のルールや明日からの予定を聞いて、入学初日は昼前で全て終了となった。
大量に配られた冊子の束を鞄に押し込みながら、碧依や両親たちと合流する。
「アンタ、式の途中で寝なかったかい?」
「寝るわけないだろ。あるとすれば碧依の方だ」
「ね、寝てないもん。聴き入ってただけ」
「語るに落ちてないか、それ」
俺は母さんの雑な弄りを受け流し、碧依が流れ弾を喰らう。
そんな様子を見た碧依のお母さんが、可笑しそうにふふ、と笑う。
穏やかで整った顔立ちに、落ち着いた声。
やっぱり親子だなと思う。母娘で驚くくらい雰囲気が似ていた。
俺は緊張でエネルギーを消費したのか、ぐうと腹の虫を鳴らしてしまった。
碧依が揶揄うような目で俺を見てくる。なんだよ、お前だって食いしん坊だろ。
結局、皆で近くのレストランに行き昼飯を済ませてから、俺たちの部屋に帰宅することになった。
「あらぁ、立派な部屋ねぇ」
「日当たりも良いし、立地も充分じゃないか。俺も若い頃はこんな部屋に住みたかったなぁ」
明るい陽射しが差し込む部屋を、俺の両親が感心しながら歩き回る。
勝手に俺の部屋の中まで覗いては、片付けはちゃんとしろだの掃除しろだの、余計なお節介まで焼いてきた。
碧依はキッチンでお茶を準備し、その母親はリビングのテーブルで静かに微笑んでいた。
「……あ。コップ足りない」
「お客さん用に買わなきゃな」
「いいのよ、すぐ帰るから。こういう時にバスが少ないのは困るわねぇ」
確かに不便だが、正直なところ俺にとっては有り難かった。
大好きな女の子との同棲部屋である。
別にやましい事など何も無いのに、あちこち見られるたびに特に理由の無い後ろめたさを感じていたのだ。
今も妙な居心地の悪さを感じながらリビングに突っ立っていると、不意に碧依のお母さんから俺に話しかけてきた。
「勇雄くん、碧依は邪魔していない? せっかくの一人暮らしだったのに、無理を言ってしまってごめんなさいね」
「い、いえ! 家事も手伝ってもらってるし、一人じゃ心細かったので助かってます!」
むしろお礼を言いたいくらいだった。
おかげさまで毎日、最高の青春を味わえてます!
そんな心の声を知ってか知らずか、母さんが余計な援護射撃を始めた。
「そうですよ水白さん。勇雄なんてどうせ内心喜んでるに決まってるんですから。
なんせ小さい頃から碧依ちゃんにはべったりで——」
「母さん! いつの話してんだよっ! いいからほら、バスの時間だろ!」
くすくす笑う碧依のお母さんも、帰るために立ち上がる。
つい、と横目で碧依を見れば、何だか感情の読めない表情で俺を見つめていた。
なぜだか視線を合わせにくくて、俺はすぐに目を逸らす。
尚もあれこれと喋り続ける母さんの背中を押しながら、俺は玄関まで見送った。
父さんがのんびりと靴を履く。その背中は幼い頃と変わらない広さ。
久しぶりに感じる家族とのひと時は、どこかくすぐったいものがあった。
ふと振り返れば、碧依もリビングで母親と何かを話しているようだ。
手土産だろうか。何やら小さな紙袋も碧依に渡されている。
ん? 袋の中を覗き込んだ碧依が、珍しくあたふたと慌て出した。
あいつがそんなに喜ぶほどの好物なんてあったっけ。
気になった俺が碧依へ歩み寄ろうとすると、真っ赤な顔になった碧依が俺の接近を強く拒絶した。
「ま、待って! これは違うからッ!」
「え? 違うって何がだよ。何貰ったの?」
「何にも貰ってないッ!」
「いや、でもそれ……」
「貰って、ないッッ!!」
あまりに必死な様子と珍しく大きな声に、思わずたじろいで足を止める。
碧依がここまで動揺している姿なんて、数えるほどしか見たことがなかった。
じりじりと後退りする碧依は、受け取った袋を後ろ手に隠したまま自室に逃げ込んだ。
な、なんだっていうんだ……? 貰った物が気になりすぎる。
困惑する俺の前で、碧依のお母さんが少し呆れたように笑った。
そして玄関へと歩き出すと、俺とすれ違いざまにふっと顔を寄せてきた。
「あんなふうに素直じゃ無い娘だけど、どうかよろしくね。
……いつかは、孫の顔も期待しているから」
「——ッ!?」
予想外の言葉にカチンと固まってしまう。
え、そ、それは、結婚の許可を頂いたってことでいいんですか……?
つい耳まで熱くなった俺を、悪戯っぽくふふ、と笑って玄関へ向かう碧依のお母さん。
見送りの挨拶をする頃には碧依も部屋から出てきたが、彼女も耳まで真っ赤だった。
なぜか二人揃って示し合わせたみたいに林檎になって。
帰っていく親たちの背中へと、ぎこちなく手を振って見送った。
玄関の扉が閉まり、しん、と静寂が部屋を包む。
俺たちは結局、互いに目も合わせられないまま、しばらく変な沈黙を共有したのだった。